五胡十六国から南北朝 ..
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103:世界@名無史さん
21/02/20 23:01:14.16 0.net
北魏は文学では南朝におよばなかったけれど、美術の面では雲崗石窟など、
優れたものを残しているな

104:世界@名無史さん
21/02/20 23:02:49.15 0.net
>>102
そうか、そんな逸話があったのか
だいぶ前に見た中国の時代劇で、東晋の皇帝の妻が妙に色黒だったのはそのせいか

105:世界@名無史さん
21/02/20 23:04:15.49 0.net
>>103
北朝は北方民族だから、漢文や漢詩にそこまで習熟してないわな

106:世界@名無史さん
21/02/21 00:18:40.33 0.net
>>105
様々な北方民族についての考古学史料を見れば各々に固有の物語や「詩」があったのは明らかで、
華夏的文脈で読み解けないからと云ってそれを「文学的水準は低かった」と評するのは
あまりにも中華史観に毒された価値観偏向と思われるが、どうか?

107:世界@名無史さん
21/02/21 08:00:33.30 0.net
>>100
耶律氏一族は元の北帰後、今の遼寧省西部に居住した結果、女真族と同化した。
満州八旗の伊拉里氏は耶律氏の後裔で乾隆帝の皇子の
妃も出している。

108:世界@名無史さん
21/02/21 08:37:07.14 0.net
相変わらず元胡は酷い当て字ばかりや

109:世界@名無史さん
21/02/22 14:43:00.12 0.net
北魏の文化人で有名なのは温子昇。
北朝まで範囲を広げると庾信が有名。
もっとも庾信はもとは梁の人で、使節として赴いて西魏の広陵攻撃に際会し、
そのまま留められて西魏・北周に仕えた

110:世界@名無史さん
21/02/22 17:51:43.69 0.net
庾信って東晋の庾三兄弟の子孫?

111:世界@名無史さん
21/02/23 14:45:55.44 0.net
一口に五胡といっても、氐のように農耕化がかなり進んで漢族の文化にも
慣れたものから、鮮卑拓跋部のように牧畜と狩猟の要素を濃厚に保持し、
漢文化との接触も少なかったものまで、生活状態や文化状態はさまざまだったんだよな

112:世界@名無史さん
21/02/23 16:25:53.49 0.net
で?

113:世界@名無史さん
21/02/23 18:24:09.79 0.net
>>93
曹操は兵戸制の確立という功績がデカすぎる
千数百年以上のちの清代まで現役とかすごすぎる
あと武帝の塩の専売もな

114:世界@名無史さん
21/02/23 19:16:54.78 0.net
王莽の簒奪のロジックも凄い

115:世界@名無史さん
21/02/23 20:01:34.41 0.net
漢朝は四百年つづいたんだもんなあ
当時の人々にとっては、平安時代の日本人にとっての天皇くらい「万世一系」に感じられただろうな

116:世界@名無史さん
21/02/25 19:18:36.27 0.net
>>102
>>東晋には黒人皇帝がいた
そんな話は聞いたことも無いがw
具体的には誰よ?

117:世界@名無史さん
21/02/26 00:55:20.18 0.net
>>115
> 平安時代の日本人にとっての天皇くらい
平安時代の日本人の九割以上は天皇なんざ知らなかっただろうよ。

118:世界@名無史さん
21/02/26 08:56:09.34 0.net
>>117
京の帝としてなんとなく知ってただろ。
だから、平将門は新皇を称した。
一般領民に天皇に対する認識がなければ、
新皇と称しても何に対して新なのかってことになる。

119:世界@名無史さん
21/02/26 10:42:50.09 0.net
>>117
んなわけねえだろ
源氏も平氏も天皇の親戚で、地方であれだけ根を張ってたのに

120:世界@名無史さん
21/03/03 16:56:37.46 0.net
URLリンク(i.imgur.com)

121:世界@名無史さん
21/03/05 14:52:53.07 0.net
西魏になると漢化政策の揺り戻しが起きて、孝文帝の改革により漢族の姓に
改められていた諸族の姓をもとに戻した
のみならず、漢族にも功績によって鮮卑姓を与えている

122:世界@名無史さん
21/03/05 20:50:06.42 0.net
>>121
それを「胡化政策」と呼ばなければ不公平だな

123:世界@名無史さん
21/03/05 22:30:21.41 0.net
西魏では鮮卑語がかなり広範に用いられ、胡族の服装もおこなわれている

124:世界@名無史さん
21/03/05 22:50:22.93 0.net
庶民は京都にミカドという公方さまより偉い人がいるらしいくらいの知識しか無かっただろ
「江戸の豚、都の狆に追い出され」
豚公方の徳川慶喜が新政府に引き降ろされたことを歌った歌
天皇の自称朕にかけて天ころを犬扱いしている

125:世界@名無史さん
21/03/05 23:13:37.80 0.net
>>124
公方様より偉いって認識さえあったかどうか。
江戸っ児たちが天子様なんぞどうとも思ってなかったからこそ、
神田明神の一件で正面から喧嘩を売って明治帝が頭を下げるまで突っ張り切った。
秩父の在方も同じことで、
困民党は平然と「天朝様に敵対するから加勢しろ。」と仲間を募った。
仮に相手が公方様だったら彼等はどうしただろうか。
絶対不可侵の現人神なんて共同幻想は、
「大日本帝國」による洗脳が行き届いて初めて成り立った話だ。

126:世界@名無史さん
21/03/06 00:39:47.22 0.net
>>122
胡化というより復胡政策の方が適切だと思う。

127:世界@名無史さん
21/03/06 03:00:33.96 0.net
Z日やB落民が天皇家を憎むのは、やはり虐げられた底辺階級の上級への妬み恨みなんだろうな
Bさんは結構勤皇なんだけどね
Zさんは李氏朝鮮の王家には恨みを抱かないのが身内贔屓で笑えるよね

128:世界@名無史さん
21/03/06 05:24:31.65 0.net
源氏も平家も、「桓武天皇の子孫」、「清和天皇の子孫」などとして全国でに分布し、領主をやっていた
関東や西国を初め、東北・北陸・九州、みんなそうだ
「天皇の権威が全国に浸透していなかった」というのは詭弁。
そりゃインターネットやテレビはもちろん無いし、紙すら貴重な時代の情報量は少ないに決まってるが
少なくとも、京都を中心とする畿内での権威は極めて高い

129:世界@名無史さん
21/03/06 05:28:37.87 0.net
江戸時代もそうで、そりゃ江戸っ子は幕府の将軍しか目に入らず、天皇に関心がなかったかもしれない。
地方の庶民にとっては、まず何よりも藩主の殿様だっただろう
でも、京都や大阪でもそうだったというのは全くバカげた考え
幕府が朱子学を官学としたおかげで、全国の武家には尊皇攘夷思想が普及していた

130:世界@名無史さん
21/03/06 06:27:31.11 0.net
どこの時代地域だってそうだ
中世ヨーロッパだって、庶民は直接には地元の領主しか見てなかっただろうが、上には教皇や皇帝がいることくらい、みんな知っていた

131:世界@名無史さん
21/03/06 07:12:12.52 0.net
中世ヨーロッパでは皇帝、国王は「貴族の中の第一人者」 Primus inter pares という存在であったが日本の場合はそうではない
日本の天皇は古くから祭司的な要素も持っているので中世ヨーロッパで言えば神聖ローマ皇帝にローマ教皇をプラスしたような存在だったと言える

132:世界@名無史さん
21/03/06 07:44:15.69 0.net
「京都に天皇、江戸に将軍がいる」という体制は、欧州人には非常に分かりやすかった
「ローマの教皇、ドイツの皇帝」を誰もが連想した

133:世界@名無史さん
21/03/06 09:41:12.12 0.net
北魏の皇帝は可汗を称したし、唐の太宗は服属した遊牧民集団から
「天可汗」とたてまつられていた

134:世界@名無史さん
21/03/06 10:19:41.37 0.net
李世民は鮮卑族だったからな
中国の武人階級は元遊牧民であることが多い
欧州の騎士階級や王族階級は古代末期に移住してきたゲルマン人の末裔
だからフランス革命以後のフランスではゴロワつまりゲルマン人ではなくガリア人であるという表明が自由主義的フランス市民の自称になった
日本のサムライ階級も関東に移住した高句麗系や新羅系のサウラビだったはずだ

135:世界@名無史さん
21/03/06 11:39:10.71 0.net
>>134
サワラビは百済だろ。新羅はホワラン。
どちらにせよ、関東への移住者は
0と言ってもいい程度しか居なかった。

136:世界@名無史さん
21/03/06 11:53:00.61 0.net
サワラビとか笑わせるなよ(笑)
「我が国にも、日本のサムライに負けない武人の伝統があるニダ」というコジツケにすぎない
欧米で忍者やサムライがあまりに有名なので嫉妬したことによるファンタジー歴史

137:世界@名無史さん
21/03/06 12:36:21.17 0.net
>>134
日本の武士階級は桓武天皇の軍団の解体により設けられた
健児の制において兵士を供出した郡司階級と地方に土着した
受領階級の中の下クラスの貴族が母体だよ。
郡司階級は古墳時代以来の土着豪族だし、
中の下の貴族は中央で没落した非藤原氏系の
神別士族が多いのだが、神別は国つ神の子孫だから、
当然古墳時代以来からの土着氏族。
帰化人系氏族は諸潘だから。

138:世界@名無史さん
21/03/06 12:40:34.71 0.net
>>131
寧ろアッバース朝のカリフが近いだろ。
途中からブワイフ朝やセルジューク朝に
政治と軍事の実権握られて象徴的存在になったのも似ている。

139:世界@名無史さん
21/03/06 14:37:36.34 0.net
ソグド人は北朝末には中国内にも居留地を持つようになっていて、
自分たちの集落のリーダー薩保の存在を政権に認められていた
ソグド人は軍事力も有していて、北周では彼らは軍府に組織され、
ソグド人の軍府官がみられた

140:世界@名無史さん
21/03/06 18:54:06.87 0.net
百済系の三善氏や高句麗系の狛氏みたいに実際に渡来系の武士って結構いたけどな
中央では帰化人系の家系は蔑視され栄達することが難しかったので国司として下向した後そのまま土着して
帰ってこなくなることが多かった

141:世界@名無史さん
21/03/06 19:05:20.14 0.net
>>137
健児はのちの軍事貴族であって武士の源流ではない。
武士は軍事貴族の家来となった武装農民と考えるべき。北条時政が好例。

142:世界@名無史さん
21/03/06 20:46:42.78 0.net
モンゴルの王、カアンに汗の字を当てるのは、単に発音が似てるから?
それとも、風呂に入らなくて不潔で汗臭い野蛮人プゲラ みたいな蔑視をこめて?

143:世界@名無史さん
21/03/06 21:09:12.55 0.net
日本はポカリスエットという商品名の飲料水を販売しているが、欧米から名前を不気味がられたらしい。
汗にどのような意味合いを持たせるかは人や地域によって違う。
軍事支援欲しさに自らテュルク・モンゴル勢力に臣従さえしていたこともある漢人社会が、汗に否定的な意味を与えていたとは考えにくい。

144:世界@名無史さん
21/03/06 22:28:30.96 0.net
五胡十六国の時代以降、漢民族の身近な生活・風習にも遊牧民のそれが大きな
影響をおよぼしている
筒袖・詰襟、膝まである綿入れの上着、両股が分かれ、膝の下で縛ったズボン、
動物文や唐草文のあるバックルなどが着用された
食物にも胡風が入る
バター、チーズ、醍醐、羊肉の料理、現代人がバーベキューやジンギスカン鍋などと
呼んでいる調理法など
粉食も行われるようになった
胡牀が入ってきたのもこのころで、それまでは日本のように座っていたものが、
椅子に腰かけるようになった

145:世界@名無史さん
21/03/20 21:54:12.46 0.net
この時代の中国料理書にもチーズはすでに書かれていたが
現代中国人はフランス料理やワインは大好きだがチーズは敬遠するという
くさい遊牧民料理は中華思想では野蛮になるのか
平安貴族は中国からつたえられた甘いチーズケーキ状のものをべていたが
中国でチーズはある時点で豆腐にかわり、チーズは忌避されるようになった

146:世界@名無史さん
21/03/21 07:19:59.99 0.net
可汗は古代トルコ語で匈奴の単于とおなじ意味らしい、皇帝ともされる。柔然や北魏がカガンと称したが
北魏の太武帝が先祖は「可寒・可敦」というのでたんに先祖の個人名である可能性もある
「可寒・可敦」が後世に可汗となったのは蔑称
匈奴に野蛮と言われた丁零、チュルクが勢いを増して柔然やトルコとして西方に押し寄せたときに
カガン号をさかんに用いてるところからチュルクの共通祖先と関わるのだろう
皇帝は秦始皇帝が作ったことばだが、北魏皇帝号は中華風であるとしてあとで天王号にかわったりしてる
日本は唐の高宗をまねて天皇ということになる。契丹耶律阿保機もキタイ天皇を称した
東胡である鮮卑や女真の族長はもともと大人と称した
大人は、匈奴単于やカガンのように推戴されるものではなく
先祖の血統が重視される、村長のようにきわめて家族的なもの
日本も天皇のまえは大王(おおきみ、大君)豪族は大臣(おとど)という、大人に近い称号だった

147:世界@名無史さん
21/03/21 12:39:51.44 0.net
>>1
他板にスレがあるのに重複スレ立てる情弱
五胡十六国南北朝を語るスレ13
スレリンク(chinahero板)

148:世界@名無史さん
21/03/26 07:34:58.37 0.net
「日本は唐の長安をモデルに奈良の都を作りました」
と言われるが、「平城京」という名前の由来は、洛陽に遷都する前の北魏の旧都「平城」(今でいう大同)だという話もある

149:世界@名無史さん
21/03/26 15:52:26.03 0.net
奈良は國という意味

150:世界@名無史さん
21/03/26 16:25:46.11 0.net
ナラは平だよ?歴史のない朝鮮人の方ですか?

151:世界@名無史さん
21/03/30 09:48:50.65 0.net
北魏の太武帝は長生きがしたくて熱心な道教の信者になった
太武帝が欲したのは難しい理論ではなく、食物をとらないでも
つねに健康で、体が鶴のように軽く飛べるようになるという、
超人的な能力を獲得したかったのだとか
中国の皇帝にはこういういかがわしい道士にだまされるという
パターンが多いね

152:世界@名無史さん
21/03/30 10:25:20.80 0.net
まあ、現代でも新興宗教にハマる人がいるんだからな
5世紀の中世人じゃ迷信に染まるのも仕方ない

153:世界@名無史さん
21/03/30 11:08:39.18 0.net
A.後漢末期
B.三国時代
C.晋王朝
D.五胡十六国時代
E.南北朝時代
F.隋王朝
マシな順に並べるとどうなる?
平民にとって最も悲惨なのはDでええのか?

154:世界@名無史さん
21/03/30 19:06:16.38 0.net
奈良の平城京の頃の大同の平城とか廃墟だぞ
地面で連想したのだろうが適当なこと書くな

155:世界@名無史さん
21/04/01 00:01:02.82 0.net
ほぼ10年におよんだ永嘉の乱では大量の虐殺をともない、
中原の人口は「百に一、二無し」と記録されている
八王の乱を合わせると、二十数年にわたった二度の動乱によって、
ながく政治と文化の舞台だった中原の地は壊滅状態に陥った
この時代は庶民にとっては苛酷な時代だったんだろうな

156:世界@名無史さん
21/04/01 11:45:04.97 0.net
いまもだよ民衆に平穏が訪れることはない
統一王朝に従えば生命の保障だけがある国

157:世界@名無史さん
21/04/02 10:52:33.12 0.net
もしも始皇帝が中華を統一しなかったら、
今の中国はヨーロッパみたいな感じになってたんだろうか?

158:世界@名無史さん
21/04/02 18:36:36.38 0.net
始皇帝がいなくても、いずれ誰かが中国を統一しただろう
大河の治水には統一帝国の存在が不可欠

159:世界@名無史さん
21/04/02 21:32:37.75 0.net
>>158
あと、匈奴の脅威に対抗するためにも統一帝国が社会的に要請されていたな
それから、増大する塩鉄の商業ネットワークのためにも

160:世界@名無史さん
21/04/02 23:01:12.87 0.net
魏晋南北朝時代に大勢の漢人が南に移ったが、おそらく北の進歩した農業技術も
江南の地に伝わったらしい

161:世界@名無史さん
21/04/02 23:15:01.56 0.net
>>160
その江南から、農業技術がさらに日本に伝わった

162:世界@名無史さん
21/04/02 23:18:15.18 0.net
中原の地を野蛮人に奪われた文明人たちは、江南や倭国に移動した

163:世界@名無史さん
21/04/03 10:10:12.49 0.net
弥生人の紀元は偉大なる遼河文明の末裔たる太古の韓半島人によって土地を追われた穢人(無文文化人)であり華南のブタニグロとは関係がない

164:世界@名無史さん
21/04/04 07:23:23.70 0.net
>>155
それは中央政府の権力低下による課税人口の減少だからな
庶民は有力な豪族の庇護下に入って都まで労役や兵役を負担しなくてよくなったのだから
反って喜んでたのかもしれない
北魏の時代の話だが定州刺史の韓均が不課税者の摘発を行ったところ一気に十万戸も増えたという

165:世界@名無史さん
21/04/04 10:43:07.79 0.net
江南の貴族文化の話だけどさ、謝霊雲、王義之、顧ト之などはみな一流の貴族だった
フランク王国の貴族たちは無教養だったのとは対照的
西欧中世と違って、この時代の中国は暗黒時代とはいえないと思う

166:世界@名無史さん
21/04/04 11:24:00.07 0.net
>>158
ヨーロッパにもカール大帝やナポレオン的な統一者がいたが秒で分裂したみたいに、
秦が始皇帝の死後、速攻で滅んで楚漢で争ってたように、
一時期統一王朝が現れても、一瞬で瓦解して諸国が乱立するのがデフォルト状態だったら、
中華の歴史はどうなってたかと思った。

167:世界@名無史さん
21/04/04 12:02:52.30 0.net
話は脱線するが骨董屋で王羲之の真筆というゴミが骨董市で500円とかで良く投げ売りされてるんだが何とかならんもんかね
まぁそれだけ日本でも憧れの存在でたくさん偽物が作られたということなんだろうな
オレは日本主義者だが中華の大文明は尊敬している
対して近年のものは安いね
袁世凱の書を誰かが軸装したのが1000円で売られてたりもする
更に話がそれるが最近は趙大千の現地の土産物が10万とかで売られてたりする
趙大千の作品は偽物でも良いから飾りたくなるような強烈な魅力があるから買う人もいるかもしれない

168:世界@名無史さん
21/04/04 14:50:35.87 0.net
>>166
中国は大河の治水をしなければならないから、どうしても統一帝国が必要だと思う

169:世界@名無史さん
21/04/04 19:43:05.69 0.net
>>165
同じことは西洋史にも言える
西欧の文明は大幅に後退したが、東ローマ帝国は存続して文明を維持した

170:世界@名無史さん
21/04/04 19:44:19.63 0.net
>>168
それだったら、南北には分かれていてもいいな

171:世界@名無史さん
21/04/04 19:54:55.04 0.net
古代の夏王朝は洪水対策のために成立したと言われているが、秦漢以後の統一王朝が治水対策というのは聞いたことがないな

172:世界@名無史さん
21/04/05 12:56:08.27 0.net
最後は高句麗に負けて終わる時代

173:世界@名無史さん
21/04/05 16:53:10.21 0.net
長江以南は統一王朝のインセンティブなんてほとんどない気がするんだよな豊かで海にもでていける地域
華南だけって王朝は何度も成立してるわけで

174:世界@名無史さん
21/04/05 21:10:19.91 0.net
>>168
中欧・西欧にもドナウとかラインとかエルベとかkm4桁の川あるんですが・・・

175:世界@名無史さん
21/04/07 12:24:34.56 0.net
>>174
大河でも黄河よりだいぶ大人しいからな。

176:世界@名無史さん
21/04/16 10:59:47.19 0.net
サーサーン朝は455年に、初めて北魏に送使して以来、
476年まで、数回にわたって北魏に送使している
一方、エフタルもサーサーン朝が北魏に送使した翌456年に送使しているから、
サーサーン朝もエフタルも、北魏を味方にしようと懸命だったみたい

177:世界@名無史さん
21/04/16 21:05:22.15 0.net
ドナウの治水て聞いたことはないな

178:世界@名無史さん
21/04/17 08:58:21.22 0.net
北斉の文宣帝は、即位の後東魏の廃帝を殺したのをはじめとし、
ついで東魏の一族を片っ端から殺した
しかし帝位を窺う心配があるというので、今度は自分の一族を殺しだした
ことに人望があって役に立ちそうな二人の弟を土牢に閉じ込めて、
最後にこれを焼き殺した
五胡十六国・魏晋南北朝時代にはこういう異常な君主が多いな

179:世界@名無史さん
21/04/19 16:11:16.15 0.net
武こそ正義っちゅう遊牧気質が抜けきらんかったんか
血族すら信頼できんというのはアラブ部族とかぶるな

180:世界@名無史さん
21/04/20 19:05:49.54 0.net
>>178
文宣帝はこの時代の異常揃いの皇帝どもの中でも別格に最凶

181:世界@名無史さん
21/04/20 19:17:31.82 0.net
北斉で比較的まともと評されてるのが廃帝殷とか孝昭帝の在位1年しかない連中なことを考えると、単に残虐行為の事績や犠牲者の数が在位の長さに比例してるだけかもしれん

182:世界@名無史さん
21/04/20 22:41:00.91 0.net
石虎は息子の石韜を殺した石宣を倉庫に閉じ込め、鉄の環を襟にはめて
首環のようにし、数斗入りの飼葉桶をつくって、そのなかに汁と飯を
混ぜて入れ、豚や犬に餌をやるようにして食事をさせた
また石韜を刺した刀を持ってきてその血をなめさせ、記すに忍びないような
残酷な殺し方をした
石虎は宮女たちをひきつれてそのさまをながめていたという

183:世界@名無史さん
21/04/21 20:16:26.84 0.net
>>148
そのとおり。日本の平城京は北魏の仏教の都平城。奈良の大仏は雲岡石窟の大仏が元ネタ。

184:世界@名無史さん
21/04/22 00:43:31.38 0.net
マジレスすると平城京では高麗尺という物差しが使われていた事が判明している
一昔前まで小学校で使われていた竹の30センチ物差しとそっくりなデザインだった
日本の物差しが半島起源という証拠に他ならなかった
奈良の都は正方形とは言えない変則的な形で実は新羅の慶州がその雛形になっている
平安京は中国的だが藤原京や平城京はまだ半島ルーツの文化的痕跡が強く残っているといえる

185:世界@名無史さん
21/04/22 01:02:44.85 0.net
高麗経由で日本に入って来た東魏尺を高麗尺言うんやけどな

186:世界@名無史さん
21/04/22 07:32:37.56 0.net
法隆寺の釈迦三尊像も北魏様式だよな

187:世界@名無史さん
21/04/22 22:21:57.12 0.net
北魏の時代の洛陽は仏教寺院が甍をつらねる宗教都市でもあった
孝明帝の518年には500寺、北魏の末年には1367寺を数えるにいたった

188:世界@名無史さん
21/05/01 19:38:27.42 0.net
斉が宋から革命して翌年、北魏が侵攻してくる
このとき魏書には斉の汝南太守が魏に降伏したことが書いてあるけど
このあと梁が一時取り返すまで汝南はずっと北魏が支配してたの?

189:世界@名無史さん
21/05/08 08:14:20.21 0.net
>>182
晋の最後の皇帝が匈奴に捕らえられ、豚小屋に監禁されて残飯を食わせられた、と
田中芳樹の小説にあった。
史実では庶民の服装をさせられ宴会の給仕係をさせられたとあり、
残飯云々の話はない。
この話からパクったんだな。
田中芳樹は漢民族マンセー、
日本含め、その漢民族様にたてつく異民族は徹底的に罵倒する。
だから清王朝は絶対に認めない。名君を輩出したといえ女真族だから
ましてや五胡16国なんか、漢民族様が匈奴にメタクソにやられた時代だからね
石虎も匈奴だが、残飯のエピソードは匈奴の内輪でやったこと。
だが漢民族の皇帝陛下にしたことにして、匈奴を「残虐性」をうったえる、と

190:世界@名無史さん
21/05/08 09:03:08.48 0.net
符堅臣下の呂光も人傑やな
呂氏の猛将というと呂布に並ぶとか
後涼も建国するし
内政はからっきしだが

191:世界@名無史さん
21/05/08 11:36:17.87 0.net
漢民族をマンセーする必要はないが
五胡にも特別親近感なんてわかない
史実として五胡十六国時代を楽しむまで

192:世界@名無史さん
21/05/08 19:03:43.98 0.net
ゲームの三国志ではカウントしない内モンゴル并州や遼東半島の北側もあるし、涼州もクソ広いからな
異民族はデフォであちこちにいる

193:世界@名無史さん
21/05/08 22:34:20.78 0.net
五胡十六国時代で優秀な人物というと、慕容恪はどうかな?
恪は常に慕容皝に頼りにされ、ほとんどの戦いに参加している
性格は沈着にして度量があり、物腰は謹厳だったという
慕容儁と扶余戦に出かけたとき、身を矢で射抜かれながら
突撃して勝利を得たとあるように勇猛な人でもあった

194:世界@名無史さん
21/05/10 11:24:07.50 0.net
>>193
Wikiで斜め読みさせてもらった
麻秋という人物が前燕にも前涼にも攻めてて興味持ったわ
前涼の歴史読んでても麻秋出てきたから
ここらの小説あったら面白そうだ

195:世界@名無史さん
21/05/10 22:28:43.30 0.net
慕容恪は、彼自身の短慮によって人を殺した例は一つもなかった
彼は捕らえた捕虜は兄の慕容儁のもとに送って賞罰を任せていた
彼は軍略にも長けていたので、皝も儁もしばしば恪の意見を採用したし、
彼も部下の意見を尊重した
恪が遼東に鎮するようになると、高句麗は彼を憚って攻めてこなかった
史書においてこれだけ良く書かれている人物は珍しい

196:世界@名無史さん
21/05/11 10:05:12.68 0.net
前燕の人口は1000万ほどとWikiに書いてあった
一方三国時代の戸籍人口が三国全部合わせても1000万
総人口は推定でも2000万ほど
華中からの避難民と異民族混入度合いが多かったのかな

197:世界@名無史さん
21/05/11 18:04:52.94 0.net
いや乱世の三国時代はまともな戸籍調査ができてない逃散した農民流民を補足できてないだけでは

198:世界@名無史さん
21/05/12 10:46:09.01 0.net
中国語の方言の話だけどさ、長年にわたって北から移住してきた漢人の方言が
入り交じり、福建省だけでも百種もの方言があるのだとか
ちなみに客家は広東、広西、福建に多い

199:世界@名無史さん
21/05/12 11:15:50.00 0.net
>>197
それだけではない
もし流民を捕捉できてないだけだったら西晋の統一時にもっと増えてる

200:世界@名無史さん
21/05/12 14:52:35.04 0.net
時代違うけど四川に関しては明清代に虐殺で言語が変わったこともあった
成都の人口激減に伴い移住者により方言が変わった
下はWikiの抜粋
多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている[1]。1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2] だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。

201:世界@名無史さん
21/05/12 15:39:19.59 0.net
この時代の事について書いてある本を読むと「徙民」とか「流寓」といった普段聞き慣れない用語がよく出てくるな

202:世界@名無史さん
21/05/12 18:55:01.88 0.net
八王の乱は中原地方を荒廃させ、自然災害と疫病も加わって農地は荒土となった
「百姓また寇賊に殺され、流屍は河に満ち、白骨は野を蔽う」と史書は惨状を
記録している
生活の場を失った農民たちは安住の地を求めて流民となり、多くは開発途上の
南方に移動したが、その数は約30万戸と推定されている
こうして一時、華北に真空地帯が出現すると、これを埋めるように、北辺の
遊牧民が南下を始めた

203:世界@名無史さん
21/05/12 19:08:06.92 0.net
前涼も初代が良い統治をしたから長安辺りから沢山移民が来たようだな

204:世界@名無史さん
21/05/12 19:15:11.61 0.net
石勒の史伝を見ると何遍も同じ城を落としてる
そして地盤を固めるのが相当後になってから
これは占領地には略奪で一定時期だけ滞在出来たものの補給が維持出来ないから別の土地に移動してるように見える
おそらくは元の占領地は放棄してるのだろう
これが異民族の強さであり弱さのように見える

205:世界@名無史さん
21/05/12 19:34:46.21 0.net
ただ全体的に
三国時代や西晋時代より把握されている人口は上昇している

206:世界@名無史さん
21/05/12 21:14:16.09 0.net
>>204
> 占領地には略奪で一定時期だけ滞在
> 補給が維持出来ないから別の土地に移動
> 元の占領地は放棄
> 異民族の強さであり弱さ
上杉謙信の話かと思った。

207:世界@名無史さん
21/05/12 22:29:07.37 0.net
漢の時代の人口は、一桁まで把握されていた
当時の統計に、5959万4978人という数字があって、とても細かいが、
そういう体制が維持できなくなったのだろう

208:世界@名無史さん
21/05/13 00:31:06.43 0.net
>>200
張献忠はヤバイよな
「天生万物與人、人無一物与天、殺殺殺殺殺殺殺」
これ人類最悪の基地外だろ
満洲人によって中華は救われたんだろうな
満洲人は李王朝の儒教文明の感化を受けていた
明の末期になると既に中華の資格は東夷に移っていたんだろう
孔子は東夷こそ礼を知る民族と誉めたたえた
韓半島こそ孔子が理想とした君子の邦であった

209:世界@名無史さん
21/05/13 01:16:55.35 0.net
都合の悪いこと全部を張献忠のせいにしたようにみえる不自然さがある
中国人の気質からいって反乱を起こすだろ
文化大革命のように民衆が主導して飢餓と殺し合いを行ったと考えたほうが自然

210:世界@名無史さん
21/05/13 01:35:41.88 0.net
張献忠の肩は持たんが歴史は勝者の記録なのよな

211:世界@名無史さん
21/05/13 02:06:44.26 0.net
>>20
> 文化大革命のように民衆が主導して
待て。
文革は「上からの革命」って云われてるぐらいで、毛沢東が発動した動乱だ。
中共上層部の権力闘争に勝利する為に人民(主にヷカモノ)を煽動して反毛派に反動派のレッテルを貼って殲滅した−−というのが実態だ。
「民衆主導」の反対の極だぞ。

212:世界@名無史さん
21/05/13 02:11:59.24 0.net
李承晩による大量虐殺を米軍のせいにする意見が一部の韓国人にあるが、
米軍が韓半島を撤退したら間違いなく米軍のせいにされる
それが中国や朝鮮の精神性

213:世界@名無史さん
21/05/13 02:24:29.38 0.net
>>211
扇動に応じた時点で自発的なんだよ。毛沢東のせいにして済む話じゃない
これはヒトラー統治下のドイツ人も同じ
ヒトラーは嫌がるドイツ人に障害者やユダヤ人への迫害を強制したのか?違う
社会合意にもとづくヘイトクライムなんだよ

214:世界@名無史さん
21/05/13 06:15:13.15 0.net
永嘉の乱もほぼ10年におよび、大量の虐殺をともない、中原の人口は
「百に一、二無し」と記録されている
八王の乱を合わせると、二十数年にわたった二度の動乱によって、
長く政治と文化の舞台だった中原の地は壊滅状態に陥った

215:世界@名無史さん
21/05/13 07:25:44.51 0.net
中国人口は日本人には理解し難いカーブをするからな
唐の安史の乱でも凄い減ってる
虐殺は頻繁に発生してるだろうな
言語が通じにくい多民族の土地じゃないとこうはならないよ

216:世界@名無史さん
21/05/13 07:32:56.10 0.net
アメリカも多民族国家なので虐殺が多い
戦争ではなく宗教施設襲撃や銃乱射という形をとってるけど

217:世界@名無史さん
21/05/13 07:38:14.11 0.net
もし江南というフロンティアがなかったら、中国の文明は
シュメール文明みたいに滅亡していたのかな
現代にはもう中国国内にフロンティアはないから、
海外に向かって膨張しようとするかも

218:世界@名無史さん
21/05/13 08:35:01.78 0.net
満洲、内蒙古、新疆(東トルキスタン)、チベットは拡大した結果

219:世界@名無史さん
21/05/13 09:54:32.80 0.net
16国は直ぐに皇帝を宣言してる(天王に留まるものもいるが)
三国時代と趣を異にする感はある
そして二代目が無事に継承出来たことは殆ど無く簒奪して殺害されることはざら
また新たな有力者が王朝を立てることの繰り返し
ここまで血なまぐさいのも文化的なものが失われたみたいなものかな

220:世界@名無史さん
21/05/13 10:04:00.77 0.net
日本では天皇を名目的最上位とし独立国家は無かった(実質独立国はあったが名目的には天皇の許可を受けている)
西洋もキリスト教文化により各王国は神から許可を受けた体を取ってる
中東もカリフから統治委託を受けた体を取ってる
どこも戦いはあったが小さな領土争いに留まる
王位の継承戦争レベルでも祭祀的上位者から追認を受ける必要があった
五胡十六国は別
天に2つの皇帝なしなため宗教的に敵となるため互いを殲滅するしか無くなった

221:世界@名無史さん
21/05/13 10:04:54.78 0.net
>>219
漢の文化を継承したとされる南朝でもそれは同じだから、関係ない
四百年つづいた漢朝の終焉は、日本でいえば天皇がいなくなったも同然
力さえあれば、誰でも皇帝になれる時代が到来した

222:世界@名無史さん
21/05/13 10:06:33.31 0.net
南朝でも、宋の八代の皇帝のうち、暗殺されなかったのは武帝、孝武帝、明帝の
三人だけで、皇子たちも十中八九まで犠牲となる異常事態の連続だった
さらに体制を支える重臣も多くは不慮の死を遂げた

223:世界@名無史さん
21/05/13 11:19:14.83 0.net
漢人の君主は割と柔軟で、臣従同盟と独立を使い分けてる感はある
三国時代も合わせると
孫呉
前涼
西涼
あたりか
主力国ではないので機会が無いと皇帝を名乗れなかったってのはある
イデオロギー的には反普・反漢人勢力のトップとしての劉淵の漢(漢と名乗ってるのが皮肉だな)とその後継国家が挙げられるか

224:世界@名無史さん
21/05/13 11:32:34.00 0.net
東普は内実はともかく国としては比較的長命だった
皇帝はお飾りだが兎に角も生きていられたのは天命という宗教的文化的要素が生き残っていたからだろう

225:世界@名無史さん
21/05/13 11:35:58.55 0.net
中国の皇帝は世俗権力を持つ文化だからなあ
祭祀的存在に甘んじていれば天皇やカリフみたいに存在だけは出来ていたかもしれないが
だが北方異民族から見ればそんな文化は合わなかったんだろうな(祭祀的権威のメリットを理解出来なかった)

226:世界@名無史さん
21/05/13 14:25:44.70 0.net
周王朝がずっと生き残っていて、祭祀王みたいになっていればと思うときがある
でも秦によって滅ぼされてしまった

227:世界@名無史さん
21/05/13 14:45:23.48 0.net
周王室はいうまでもないが、漢朝だって、遥かな古代から400年も続いてたんだからなあ
当時の人々にとっては、天壌無窮の存在だっただろうよ
曹丕も思いきったことをしたものだ

228:世界@名無史さん
21/05/13 16:01:01.38 0.net
>>227
こう考えると曹丕の簒奪は後世にまで尾を引いたのかもなあ

229:世界@名無史さん
21/05/13 16:04:48.56 0.net
漢王家に本当に祭祀的な権威があったのであれば、再興されたはずだよ
現実にはそうならなかった
漢王家はその程度の権威でしかなかったってこと
三国志演義脳で美化するのはやめとけ

230:世界@名無史さん
21/05/13 16:27:21.81 0.net
>>9
ローマの傭兵ゲルマン人そのものかっ

231:世界@名無史さん
21/05/13 16:28:42.06 0.net
日本の皇室だって中世の一時期は凋落著しかった。
皇居の屋根は穴が空き即位式を行うカネもない。
毛利や織田からの巨額な寄付があってなんとか建て直せたが。
権威と権力は分けておいた方が便利という共同理解が
もう少しあれば、中国でも漢室再興の道はあったろう。

232:世界@名無史さん
21/05/13 16:31:02.14 0.net
天皇家存続の最大の功労者は豊臣秀吉だよ

233:世界@名無史さん
21/05/13 16:39:47.71 0.net
>>231
でも中国の場合、皇室の権威が日本よりは格段に低いよな 周代ですら夏商二代の後の三代目王朝
だし、漢の高祖劉さんの家柄は大した事ないのに秦滅亡後に皇室となった
日本の皇室には姓がないけど、
漢の皇室は劉さんの子孫でしかないから
元々権威は中国共産党の国家主席レベルだろ

234:世界@名無史さん
21/05/13 16:48:44.58 0.net
豊臣秀吉が己の才覚に増長することなく天皇を敬い、神仏と相いれないキリスト教を排撃してくれたおかげで天皇家は存続できた

235:世界@名無史さん
21/05/13 17:42:51.18 0.net
祭祀的トップは他の文化から見ると価値が分からないからな
むしろ滅ぼす対象でさえある
多文化の土地では難しいだろうな
皇帝専制になる方が自然な流れではある

236:世界@名無史さん
21/05/13 17:46:34.67 0.net
その点古代ローマ文化圏がキリスト教を残しローマ教皇が存続出来たのは対照的ではあるか
五胡は受け入れず(自分たちがトップになり)ゲルマン人は受け入れたということになる

237:世界@名無史さん
21/05/13 17:55:42.88 0.net
磔刑にされた石工の息子を神格化することで民族集団間の上下関係を取り払う民族浄化ツールとして機能したからだろ

238:世界@名無史さん
21/05/13 18:30:20.98 0.net
>>236
ビザンツ帝国にはローマ教皇に相当する存在はなかったんだが
コンスタンティノポリス総主教はいるけど、ローマ教皇のような
力は持っていなかったし
それに対し、ビザンツ皇帝は「神の恩寵によって」帝位に就いた
「地上における神の代理人」「諸王の王」とされていた

239:世界@名無史さん
21/05/14 07:12:22.99 0.net
>>238
ビザンツはその点ではオリエント寄りの文化圏と言えそうだ

240:世界@名無史さん
21/05/14 09:47:27.67 0.net
多民族の古代ローマが採用したツールなので文化圏をまとめるために利用したのは間違いないな
ゲルマン人を取り込んだことにより西洋全域はカバーできた
同宗教間では宗教道徳的にも虐殺は起きにくい

241:世界@名無史さん
21/05/14 13:09:37.38 0.net
ササン朝ペルシャ帝国の脅威に対抗するためには、こちらも強力な専制君主でトップダウン型の国家体制にする必要があった

242:世界@名無史さん
21/05/14 15:13:36.85 0.net
司馬騰が并州刺史のとき財政の為に現地の異民族を拐って奴隷として売ってる
その中に石勒もいた
異民族は人権が無かった

243:世界@名無史さん
21/05/14 15:43:05.24 0.net
つうか石勒が指定された居住地から移動したから奴隷として捉えられても仕方ないかたちになったんじゃないか?あれ
そんな風な会話してるだろ

244:世界@名無史さん
21/05/14 16:43:04.66 0.net
詳細はどうあれ并州には
・異民族が移住してきてる
・奴隷として売られる素地があった
とは言える

245:世界@名無史さん
21/05/15 06:43:36.13 0.net
>>241
これからの日本も、中国の脅威に対抗するために
トップダウン型の国家体制にする必要がある?

246:世界@名無史さん
21/05/15 06:51:54.16 0.net
>>245
日本も、すでにだいぶ変わってきている
昔に比べて内閣総理大臣の力がかなり強くなり、長期政権のアベ内閣も実現した

247:世界@名無史さん
21/05/15 18:34:12.02 0.net
南朝宋の前廃帝は、大叔父にあたる劉義恭はじめ、柳元景、沈慶之などの老将を
次々に殺した
彼はさらに弟らを殺し、さらに三人の叔父をも殺すつもりで宮中に幽閉しておいたが、
その一人、劉ケが後園で夜遊びにふけっている前廃帝を襲撃して殺害した
劉ケがその母太后の命で帝位についたが、これが明帝である
廃帝の弟、劉子が江州で反乱を起こしたが、明帝は江州をおとしいれ、
劉子を殺した際、その兄弟がまだ13人残っていたのを、ことごとく殺戮した
孝武帝の子は元来28人いたのだが、ここにいたってただの一人も残らなくなった
東晋の時代には、さすがにこんなことはなかった

248:世界@名無史さん
21/05/15 19:18:56.20 0.net
八王の反省かね

249:世界@名無史さん
21/05/16 00:20:38.62 0.net
>>224
「とうふ」になってますよ

250:世界@名無史さん
21/05/16 22:50:28.51 0.net
>>246
そのうち、シーレーンを守るため、海上自衛隊を
ブルーウォータネイビーに脱皮させる必要が出てきたりして

251:世界@名無史さん
21/05/16 23:57:16.12 0.net
毎日新聞の世論調査でさえ、「憲法改正に賛成」が過半数を超えた
日本人の意識もだいぶ変わってきている

252:世界@名無史さん
21/05/17 12:24:26.12 0.net
暗黒時代の五胡諸国とゲルマン人国家の差でも考えてみようかね
五胡諸国→かならず次世代で衰退する
初代建国者の弟らが軍権を握り簒奪も行う
側室婚のため継承戦争が発生しやすい
皇帝になった場合自らが宗教的最高権威者のため他国と妥協し難い
臣従出来ずに殲滅対象となる
ゲルマン→部族連合制の形態
統治領域が比較的固定
継承戦争は比較的少ない、あっても殲滅まではいかない
宗教的最高権威者がローマ教皇のため臣従・同盟などはしやすい
ビザンツ帝国という共通の大敵がいるためこれまた同盟しやすい
神聖ローマとフランスがあまり戦わず分離傾向になるのは興味深い

253:世界@名無史さん
21/05/17 15:13:44.00 0.net
>>252
一つはキリスト教のお陰という皮肉な側面もあるかな
文明退行の元凶でもあるキリスト教だけど
一夫一婦を基本とした家族構成にある程度の正当性を持たせた宗教であったため
ゲルマン人たちの相続権はかなりの部分、嫡子に有利に働いた
さらにサリカ族たちのサリカ法典で嫡男に相続を限定する事で
お家断絶の危機が非常に高まる半面、嫡庶間での相続争いが相当減った
五胡諸国はそういうのないから基本男系相続だけど正室ですら複数人居て
さらに庶子ですら相続争いの権利があるから本当に大荒れにあれる

254:世界@名無史さん
21/05/17 16:31:13.81 0.net
一夫一婦と側室制になる下地は米と麦のカロリー産出量の違いにも原因があるかね
麦食の場合は余りカロリー得られないので少子にして大切に育てる文化になったとか
イスラムがちょっとオリエントよりなのはよく分からないが寡婦扶養のために複数婚になったとか聞いたことある

255:世界@名無史さん
21/05/17 16:38:12.99 0.net
>>253
代わりに西洋の継承戦争はローマ教皇が必ず絡んでくる印象
あと公爵級は男子長子相続制だけど王/皇帝級は選挙制になってくるな
これはフランク人の文化かもしれないが

256:世界@名無史さん
21/05/17 19:51:59.25 0.net
>>254
キリスト教普及以前のノルド人の家庭は基本的に一夫多妻で子沢山
西欧よりもさらに食糧的に厳しい北欧でも宗教的縛りがないとこんなもんだし
キリスト教普及以降も嫡子1人、庶子数十人みたいな王侯結構いる
北欧に限った話でなく中近世の欧州なんて大体こんなもん
ドイツで慣習法として通用していたザクセンシュピーゲルなんかでは
「自然人(意味としてはほぼ嫡子)以外は法的権利がない」と堂々と条文化していて
庶子が山盛りいるのは前提になってしまって少子化してない

257:世界@名無史さん
21/05/18 09:22:16.83 0.net
なるほど
嫡庶の切り分けでのみ宗教的な緩和効果があったと
日本もそんな感じだったな

258:世界@名無史さん
21/05/18 09:24:07.68 0.net
ハプスブルク家も庶子が沢山いてその子らは遺伝症は少なかったようだな

259:世界@名無史さん
21/05/18 10:04:23.07 0.net
対して北魏の長命さ
150年継続してる
詳しくはないがWikiの斜め読みして感じた印象
・君主の在位期間が比較的長命
 三代目までは華北の統一に明け暮れた
 適切な時期に司令官になってるため臣下の信用があった
 領土拡大は恩賞による臣下の懐柔が容易
 長続きする国家体制を考える時間的余裕があった
・部族制から貴族制への転換
 創業者功臣を貴族に取り入れ権益を与え懐柔した
・儒教の導入
 身分の固定化
 君主(個人では無く)への忠誠心を道徳化

260:世界@名無史さん
21/05/18 10:30:10.46 0.net
>>259
部族解体は懐柔じゃない
盛大に部族長達の権利や軍事力を削ぎ落す政策だったから不満が多かった
この反動で東西分裂からの混乱期突入して行く

261:世界@名無史さん
21/05/18 11:20:23.89 0.net
>>260
末期はそのようだな
トルコ人を軽視したオスマン帝国みたいになってるな
代わりに皇帝家の内乱を減らしたとも言えるが…軍閥化を招いたか
この辺は部族重視か能力重視かの永遠の課題だな

262:世界@名無史さん
21/05/18 16:32:13.23 0.net
何故西魏(北周、隋)の系統が統一できたのか
華北の力を割ってしまったのに

263:世界@名無史さん
21/05/18 17:25:49.76 0.net
周は候景の乱に乗じて上手く益州を取った
斉は逆に介入の仕方をミスって陳と連戦するハメになった
その状況で斉には暗君が立ち、周には名君が立つという興亡のお決まりのパターンになった

264:世界@名無史さん
21/05/19 06:27:41.23 0.net
Wikiには益州を取ったことが江南への容易なアクセスを可能にしたとあるな
三国時代で荊州と益州を得た蜀漢みたいなもんか
呉が必死に荊州取りにいったくらいだからそれほど致命的になるのか
揚子江上流は

265:世界@名無史さん
21/05/19 22:22:20.24 0.net
>>259
比較的長命、て在位期間は20年超も三人いるけど、35歳以上生きたのが二人しかいないってすさまじい体質の家系やな

266:世界@名無史さん
21/05/20 06:39:41.22 0.net
大河の上流と下流では、そりゃ上流のほうが有利だわな
近代の蒸気船ならともかく、古代の船では上流から下流に向かって攻め込むほうが遥かに移動が容易

267:世界@名無史さん
21/05/20 09:41:31.37 0.net
つまり益州の地の利と
長安の国力が必要条件ということか
蜀漢も華北国家もどちらかが掛けていたと
曹魏と西魏は両方揃っていた
時代が違うから状況も異なるけど

268:世界@名無史さん
21/05/24 21:59:03.08 0.net
ここの人達二十四史読んでそう
川勝義雄の魏晋南北朝と別の人の中華の崩壊と拡大って本を読んだんですけど他に日本語でこの時代で面白い本って有りますか?

269:世界@名無史さん
21/05/25 07:18:38.60 0.net
最近はYoutube見てるな
一般的なもの、表層的なものがほとんどだけど深いものもある
特に八王の乱は本より分かりやすい
何しろ本では地名がどこかわからなかったから地図で表示されてるど分かりやすい
当時のギョウ(阝業)が大事な土地ということが分かった

270:世界@名無史さん
21/05/25 14:58:55.52 0.net
>>269
この時代の北朝の中心都市は業阝

271:世界@名無史さん
21/05/25 16:10:43.08 0.net
予想されていた事ではあるが鮮卑がモンゴル系と判明したことで
女真が後から南満洲にやってきた集団だと分かってきた
扶余や高句麗や渤海は韓民族の北方系集団であったが渤海滅亡時に
契丹により渤海人は遼東に移住させられて白頭山周辺地域は無人化した
もちろん噴火の影響もあったのだろうがこれにより南満洲の
韓民族の歴史は断絶することになった
満洲を含めて南北朝時代を作った民族の歴史は日本のネトウヨや
中国共産党の東北工程という学問の歪曲によって消し去られようと
している
女真人や満洲人の先祖は渤海滅亡後に北方から移住してきた連中だった


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