なぜ神聖ローマ帝国をフランスは併合しなかったのか at WHIS
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664:世界@名無史さん
21/07/02 14:37:48.47 0.net
フランス人が遺伝的に一番近いのはスイス、オーストリアや南ドイツと
ちょうど古代ケルト文化(ラテーヌ文化)の地域とかぶる
次に近いのがスペイン人でイタリア人とは結構遠い
イタリアはアルプスのせいか遺伝的に他の欧州地域と遺伝的に離れてる
ローマがあれほど拡大したのだがローマ人はほとんど現地人と交わらないか任務が終わったらさっさとイタリアに帰ったんだろう

665:世界@名無史さん
21/07/02 14:40:14.84 0.net
>>664
ガリア・キサルピナって、ルビコン川からアルプスまでローマ本国に編入されたケルト地域あったじゃん。

666:世界@名無史さん
21/07/02 15:53:10.64 0.net
>>665
ケルトと言っても遺伝的一体のグループじゃないからね
アイルランドのケルトも遺伝的には遠いし
ただケルトの中核地だったハルシュタットやラテーヌなどアルプス以北の地域は遺伝的に近縁グループが形成されている
URLリンク(upload.wikimedia.org)

667:世界@名無史さん
21/08/11 10:42:14.94 0.net
667

668:世界@名無史さん
21/08/11 15:55:44.57 0.net
日本なんて近代までは眼中に無いだろう

669:世界@名無史さん
21/08/12 18:02:38.25 0.net
>>89
クメール人が統一しかけたが、
その後侵入してきたベトナム人とタイ人と
ミャンマー人はそれなりに全部大勢力だもんな
プロイセンが台頭する前のドイツと同じで
一強になりにくい

670:世界@名無史さん
21/08/14 23:56:07.56 0.net
余程の物理的障壁が存在しないのならば、時間がありゃそのうち統一するようなもんだと思うんだがな〜
日本の戦国時代だって信長→秀吉→家康という流れで統一したし、
中国だって群雄割拠の時代があっても始皇帝や楊堅や趙匡胤が統一した訳だし。

671:世界@名無史さん
21/08/15 00:40:35.25 0.net
>>670
インドは英国が進出するまで統一しなかったし、北アフリカも統一してる時期の方が短い

672:世界@名無史さん
21/08/30 17:55:09.49 0.net
>>670
よほどの物理障壁だらけのペルシャは割かし政治的に一まとまりになっている期間が長いし今のイラン国もそうだよな。
向かいのジッジーラはこれといった物理的障壁が無いのに、むしろ障壁たるネジドの砂漠が唯一の統一箇所って感じだよな。

673:世界@名無史さん
21/09/15 09:14:38.52 0.net
フランソワ1世がカール5世に皇帝選挙で勝っていたらフランスに併合されて新フランク帝国が誕生していたかも知れん

674:世界@名無史さん
21/09/15 12:02:04.82 0.net
>>673
まあ、勝ち目なかった訳だが

675:世界@名無史さん
21/12/16 07:29:03.38 0.net
ブルグンド王国とブルグンド公国とブルゴーニュ自由伯(フランシュ・コンテ)の違いについて教えて下さい
ワイン等で有名なフランスのブルゴーニュ地方とは現在のフランシュ・コンテに相当すると思うのですが、ブルグンド王国やブルグンド公国のあった地域はブルゴーニュ地方には含まれないのでしょうか?

676:世界@名無史さん
22/01/19 09:46:03.05 0.net
URLリンク(www.atpress.ne.jp)

677:世界@名無史さん
22/01/19 22:58:10.16 0.net
ブルグンド王国はプロバンスやドーファンも含まれる
ブルゴーニュ公国とフランシュコンテはブルゴーニュだよ

678:世界@名無史さん
22/01/19 23:01:55.62 0.net
ブルゴーニュ公国はフランス王国に含まれてて
ブルゴーニュ伯国はブルグンド王国に含まれてて
どちらも地域としてはブルゴーニュ

679:世界@名無史さん
22/01/20 22:52:33.30 0.net
ブルゴーニュ公
・ボゾン家(アルデンヌ伯家)
リシャール (898年 - 921年)(正義公)
ラウール (921年 - 923年)
ユーグ黒公 (923年 - 952年)
・ヴェルジー家
ジルベール (952年 - 956年)
ユーグ大公 (956年 - 956年)
・ロベール家(カペー家)
オトン (956年 - 965年)
アンリ1世 (965年 - 1002年)(偉大公)
・ブルゴーニュ=イヴレ家(イヴレーア家)
オット=ギヨーム (1002年 - 1004年)
1004年 - 1032年フランス王国に統合
初代のリシャール正義公の兄はプロバンス王ボソ(キスユラブルグンド王)
ブルグンド自由伯
・ブルゴーニュ=イヴレ家(アンスカリ家)
オット=ギヨーム(986年 - 1026年)
ルノー1世(1026年 - 1057年)
ギヨーム1世(1057年 - 1087年)
ルノー2世(1087年 - 1097年)
エティエンヌ1世(1065年 - 1102年)
ルノー3世(1102年 - 1148年)
ギヨーム2世(1097年 - 1125年)
ギヨーム3世(1125年 - 1127年) 
ベアトリス1世(1148年 - 1184年)※皇帝フリードリヒ・バルバロッサ妃
1184年以降はホーエンシュタウフェン家が相続

680:世界@名無史さん
22/01/20 22:52:40.29 0.net
初代ブルグンド伯のオットー=ギョームの母ジェルベルガ・ディ・マコンよりのちのブルグンド自由伯領となるドル付近の地を相続(986年)
ジュルベルガはイタリア王アダルベルト2世(オットー=ギョームの父)との死別後はフランス王ユーグ・カペーの弟ブルゴーニュ公アンリ1世と再婚
アンリ1世には男子がいなかったためジェルベルガの継子のオットー=ギョームが後継者となるとなるが、ソーヌ川左岸のブルゴーニュ公領を巡りフランス王ロベール2世と抗争、結果ブルゴーニュ公国は1004年にフランス王ロベール2世によりフランス王領とされた
その一方でオットー=ギョームは1016年、ブザンソン大司教の叙任を巡り、ブルグンド王国(ユラブルグンド王国)最後の王ルドルフ3世と争うが、王と皇帝ハインリヒ2世はストラスブールで会い、交渉の末皇帝はルドルフの後継者になることに成功し、次いで皇帝はオットー=ギョームに対し軍を派遣し、オットーをはじめとするブルゴーニュの貴族はそれに服従する
ハインリヒのブルグンド王国継承は1018年のマインツでの議会で確認され、ブルグンド自由伯領は以後神聖ローマ帝国の支配下に入ることとなった

681:世界@名無史さん
22/01/21 08:41:49.35 0.net
>>672
ただし現代のイランは40%が少数民族の多民族国家

682:世界@名無史さん
22/11/09 21:46:55.22 0.net
URLリンク(i.imgur.com)

683:世界@名無史さん
22/11/09 22:17:08.01 0.net
>>681
民族は政治的なまとまりにあんまし関係無いよ?

684:世界@名無史さん
22/12/28 00:56:15.51 0.net
URLリンク(i.imgur.com)
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