秦漢帝国 at WHIS
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271:世界@名無史さん
18/05/03 02:24:14.77 0.net
日本の一部がソ連に占領されてたら、
普通に皇族の一人が総書記になってただろうな
まあ皇族がつかまらなきゃ一般人を仕立てあげるだろうが。

272:世界@名無史さん
18/05/03 05:51:07.28 0.net
すぐ日本の話ばかりになるんだな(笑)

273:世界@名無史さん
18/05/03 14:57:55.32 0.net
>>269
性即理と唯物論も相容れないが?

274:世界@名無史さん
18/05/03 14:59:25.38 0.net
おっと、安価間違えた
>>270
性即理と唯物論も相容れないが?

275:世界@名無史さん
18/05/03 20:05:13.81 0.net
朱子学とか本来の意味での右翼そのものだろ

276:世界@名無史さん
18/05/03 22:45:50.99 0.net
>>221>>243>>274
日本人にとって
「王朝交代」「皇室廃絶」を肯定する革命は相いれないが?

277:世界@名無史さん
18/05/03 23:32:40.93 0.net
>>275
外国は知らんが日本における右翼の源流の一つは(朱子学と敵対関係である)陽明学
ちなみにもう一つの源流は日蓮宗

278:世界@名無史さん
18/05/04 00:37:42.73 0.net
朱子学には、金やモンゴルに押し潰されそうな南宋のルサンチマンが色濃く流れている。
それが、幕末の日本の尊皇攘夷につながった。

279:世界@名無史さん
18/05/04 00:39:16.82 0.net
江戸幕府が朱子学を奨励したおかげで、皮肉にも尊皇攘夷の天皇至上主義者が増えた。
誰よりも、将軍自身が天皇至上主義者であった。

280:世界@名無史さん
18/05/04 06:45:12.25 0.net
>>273
朱子学の理気二元論はそうだが、朱子が師の1人と位置づける張横渠は、気一元論を唱えた。
なぜか、20世紀の中国共産党から、「唯物論の祖」として高く評価された。

281:世界@名無史さん
18/05/08 18:52:11.41 0.net
はっきり言って光武帝の神格化は異常だ
でも劉邦とか朱元璋みたいな統一後のやらかしが無いから。ま、多少はね?

282:世界@名無史さん
18/05/13 09:41:12.06 0.net
光武帝・劉秀の面白さとは何か
1.年齢が若い
 光武帝は挙兵したとき28歳、皇帝に即位したときが31歳、天下統一が43歳である。
また、その家臣のケ禹や耿弇はなんと20代前半で国家の大臣となり、大活躍するのである。

283:世界@名無史さん
18/05/13 09:44:07.23 0.net
2.武勇がすごい
 光武帝は驚異的な武勇の持ち主であった。昆陽の戦いでは、王莽の新軍百万─実数42万の大軍に3000人で突撃して中央突破、
その大将である大司徒王尋を斬り、それに調子づけられた味方数万も参加し、ついに壊滅させた。
 この後、河北で転戦していたときも常に陣頭指揮をしている。
天性の将軍であり、馬に跨り敵を陥落させ向かうところすべて打ち破った名将とされる。
 特に驚かされるのは、皇帝に即位してからの小長安の戦いや桃城の戦いで、10万以上の大軍、最強の突騎部隊、
さらに呉漢、賈復、馬武、臧宮ら名高い猛将を率いているにもかかわらず、なお自ら得物を奮って敵を切りふせて戦っている。
単に最前線で指揮するというだけならそうした勇武の君主もいなくはないが、実際に敵中に分け入って戦う皇帝など前代未聞、空前絶後である。
このとき同行していた外国の使者は驚愕し、本国に帰ると「その武勇は人間に敵対できるものではない(其勇非人之敵)」と報告したほどである。
 また銅馬軍数十万を降伏させたとき、不穏な空気の中を鎧もつけずに巡回したり、外国の使者である馬援とは護衛も武装もなく二人きりで面会したりした。
お忍びの外出を好み、遠くまで狩猟に出かけて夜遅くに帰ったりとまったく命知らずである。
 

284:世界@名無史さん
18/05/13 09:44:52.52 0.net
3.でも強そうではない
 しかし、昆陽の戦いのとき同僚の将軍は、「劉将軍はいつもちっちゃな敵も怖がるのに、いま大敵を見て勇ましいのは不思議だ」といった。
戦いとか喧嘩のときは逃げ回るタイプだったのである。
 また、挙兵のときは「あの真面目な劉秀が!」と驚き、あいつが参加するぐらいなら絶対に勝つに決まっているのだろうと、参加者が増えたという。
 皇帝になってからは、親戚の叔母などに「おとなしいあんたが皇帝になっちゃうなんてねえ」と言われたぐらい弱そうだったのである。
 挙兵のときの同盟相手の李通と交渉したとき、光武帝は怖かったので刀を買って腰にさして面会したのだが、握手したときに刀を取りあげられてしまい、
「何とも勇ましいことですな」
 と笑われてしまった。情けなかったのである。
 光武帝は、身長7尺3寸─168cmと実に中途半端な数字が記録されている。普通この程度の普通の身長の記録は残らないので珍しい。
当時の男性としては、やや高いという程度で、体格も普通の人である。
 しかも挙兵時は、牛にのってあらわれたというおとぼけぶりである。

285:世界@名無史さん
18/05/13 09:46:13.96 0.net
4.だが格好いい
 光武帝はなかなか美男子だったのである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て兵士たちは「天の人のようだ(真天人也!)」と感嘆したのである。
 『東観記』では、才能もルックスも天性もので比べ物にならぬと称えられている。
 洛陽に入城したときは、他の将軍たちがまるで野盗同然だったのに、光武帝のみは漢の正式の服装を着こなし格好良かったためみな心を寄せたとされる。
 また弁舌も優れていて、親戚の納税問題について大臣に面会を求めて、協力させることに成功したこともある。

286:世界@名無史さん
18/05/13 09:47:30.80 0.net
5.超親しみやすいお気楽キャラ
 二枚目にして抜群の戦士、そして最高権力者たる皇帝である劉秀。
一つ間違えれば、近寄りがたいはずだが、劉秀は全く逆で実にざっくばらん。人を見下ろしたり、態度がでかいのが大嫌い。
 皇帝なのになんと人の上に立つのが嫌い。
もともと皇帝になりたいと思ったこともないし、若い頃も出世の話は断るし、学業もあまり真剣じゃなかった。
皇帝になってからも大臣と会話するときは、座から降りてすぐ横で話をする。
冗談を言って笑わせるのが大好き。
 その結果、周囲の人たちもみんな気軽に声をかけてしまう。
田舎の小役人に「陛下はお金にせこい」と言われ、通りすがりの老人に「そんなことをするのは殷の紂王みたいなバカ」と言われ、隠者には仕えたくないと断られ、一緒に話し込んで寝たら腹を蹴られる始末。
 城外に遊んで夜中に帰ったら、皇帝だといって顔を見せても門を開けてもらえない。
家臣も全く遠慮なし。劉秀も家臣に対してお前は死刑とか、悪事の噂があると遠慮無く突っ込んだりするが、恐れ入る相手は一人もおらず、みんな賑やかに言い返してくる。

287:世界@名無史さん
18/05/13 10:56:12.24 0.net
>>252
紫宸殿には畳が敷き詰められてるぞ

288:世界@名無史さん
18/05/13 11:29:36.47 0.net
 大極殿は奈良平安、今の紫宸殿は安政年間の建築、時代が違う
 畳は日本にしかない

289:世界@名無史さん
18/05/16 02:20:40.52 0.net
光武帝は多分美化されているだけ
それと兄弟が殺されて悲しむわけがない

290:世界@名無史さん
18/05/16 06:54:03.03 0.net
二千年前のことだし、一種の神話だな

291:世界@名無史さん
18/05/16 19:39:55.84 0.net
劉縯は同母兄なんだから死んだら悲しいのは当然だろ
お前自身が兄弟と確執があるからそう思うのかもしれんが
世間一般の人間は普通は悲しむぞ


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