春秋戦国時代 at WHIS
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2:世界@名無史さん
17/11/03 17:11:26.37 0.net
中原情勢推移の一例
B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年   鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月  鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月  衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月  邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年    宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋   宋が長葛を占領
B.C.716年7月   宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春    斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月   宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。

3:世界@名無史さん
17/11/03 17:12:10.88 0.net
↑ こんな調子で、延々と何百年もつづく
フクザツすぎて、頭に入るわけがない
近代ヨーロッパのほうが、まだマシだ

4:世界@名無史さん
17/11/03 17:16:50.62 0.net
日記帳扱いでいいのでとりあえず誰かまとめてくれ

5:世界@名無史さん
17/11/03 22:06:36.27 0.net
都市国家同士で取ったり取られたりしてるだけなんだよなあ

6:世界@名無史さん
17/11/03 22:48:11.33 0.net
古代の河南省の状況は、近代のイタリアの状況と似ているな
都市国家同士で争ってる間に、周囲の国々がいつのまにか成長して、気がついたら大国に囲まれていた

7:世界@名無史さん
18/01/30 10:29:31.36 0.net
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
CM0CD

8:世界@名無史さん
18/01/30 21:29:24.29 0.net
周はけっきょく西戎なの?

9:世界@名無史さん
18/03/04 14:38:34.39 0.net
春秋戦国時代のゲームが出たぞ
Nation War:Chronicles
URLリンク(store.steampowered.com)

10:世界@名無史さん
18/04/01 19:32:03.61 0.net
宮城谷昌光の本を何冊も読んだが、全体の流れはまったくアタマに入ってこない

11:世界@名無史さん
18/04/01 20:06:41.67 0.net
春秋時代は、斉・晋・秦・楚の4大国の時代
東西南北を占めていたから、わりと分かりやすい

12:世界@名無史さん
18/04/01 20:17:13.07 0.net
この中でも、中原を制する晋が、超大国だった。
晋と楚の南北対立が、春秋時代の基軸。
河南省の都市国家群が、超大国の狭間で右往左往する。

13:世界@名無史さん
18/04/01 20:22:25.62 0.net
まるで、アメリカと中国の狭間で右往左往する、北朝鮮と韓国みたい。
もっとも、辺境の朝鮮半島とは違って、河南省は中華の地。
小国ばかりだが、文化レベルは最高。
その意味では、オスマン帝国、神聖ローマ帝国、フランス王国といった大国に囲まれた、ミラノやフィレンツェなどの近世イタリア都市国家の状況に似ている。

14:世界@名無史さん
18/04/02 20:21:55.96 0.net
紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂するまでが春秋時代
紀元前403年から、紀元前221年に秦が中国を統一するまでが戦国時代
この時代の周が東周と称されることから、東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある

15:世界@名無史さん
18/04/02 20:27:47.11 0.net
戦国時代には、各国の諸侯が王を名乗るようになり、周王の力は完全に失墜した。
それでも、周王室は続いた。
西暦256年、秦に滅ぼされる。

16:世界@名無史さん
18/04/02 20:29:24.02 0.net
もしも、周王室が続いてたら、どうなっていたか?
日本でいえば、天皇のような存在。
それでも最終的にはモンゴル帝国に滅ぼされただろうが、ひょっとしたら、それまでは続く可能性があったか?

17:世界@名無史さん
18/04/02 20:34:00.77 0.net
董卓は、洛陽を焼き払ったので有名。
董卓の頃の洛陽は、東周の遷都から数えれば、すでに千年の古都だった。
それを思えば、すさまじい暴挙。
おそらく、董卓は西域の出身で、漢への愛国心などまったく無かったのだろう。

18:世界@名無史さん
18/04/03 18:43:18.04 0.net
董卓は隴西郡臨洮県の出身だし六郡良家子の出だから
普通に名家のおぼっちゃん

19:世界@名無史さん
18/04/05 01:59:19.87 0.net
晋は南蛮の楚から中原を防衛した英雄国

20:世界@名無史さん
18/04/05 07:35:14.84 0.net
三國志に名前が出てくるような人物は、みんな豪族ばかり
平民は出てこない

21:世界@名無史さん
18/04/05 07:36:28.78 0.net
>>19
楚は明らかに異文化圏だな
中華という意識は自他ともになかった

22:世界@名無史さん
18/04/05 10:16:43.66 0.net
楚が示した独自に王を名乗るなどの態度は
「中華の一部ではあるけれど周には心から服属はしない」
というものではなかったのだろうか
夏・殷・周が黄河文明に根ざしているのに対し、
楚は長江文明を代表しているというような意識があったのかもしれない

23:世界@名無史さん
18/04/05 12:27:30.98 0.net
斉も、桓公の時代に「中華の覇者」になったけど、もっと昔なら「東夷」とされていた地域

24:世界@名無史さん
18/04/05 15:29:03.04 0.net
殷代は東夷 周の時代に中華に組み込まれたからな

25:世界@名無史さん
18/04/05 20:22:47.40 0.net
秦もきわめて異質
中華とは言いがたい

26:世界@名無史さん
18/04/05 21:47:12.79 0.net
東夷は山東省だけでなく江蘇省などあちこちにいた
また周代に斉に呂尚が封じられてからも半島の奥地には莱という異種族がいた
莱は国として続き姜斉の途中で滅ぼされる
呂尚は莱でも東夷でもなかった
東夷は春秋期にはもう文明化していたではないだろうか

27:世界@名無史さん
18/04/05 22:11:23.35 0.net
太公望は製鉄民だろうね

28:世界@名無史さん
18/04/06 06:32:05.99 0.net
宮城谷昌光の「晏子」も、前半は莱との戦いが延々と続く
斉は春秋時代から山東省を支配する大国だったが、それでも山東半島を統一するのに数世紀を要した
これだけでも、古代の中国がどれほど広くて多様だったかが分かるというもの

29:世界@名無史さん
18/04/06 12:23:06.38 0.net
東周時代が春秋時代になった要因と、春秋時代が戦国時代になった要因がよくわからない
特に春秋と戦国の違い
晋が韓魏趙になったとか、春秋はタテマエとして周王朝を助けて〜ってのがあったが、戦国は自ら統一王を目指す連中で溢れたとか
そうした変化は知ってるけど、それが同時代人が時代の呼び方をわけた決定要因なんだろうか

30:世界@名無史さん
18/04/06 15:20:18.93 0.net
時代の名前はあとから付いたものだろ
春秋から戦国への流れ、それこそが「下剋上」
いろんな現象がそのひと言で説明できてしまうだろう
日本史用語としてのそれはあくまで流用に見える

31:世界@名無史さん
18/04/06 19:23:36.41 0.net
>>29
日本だって、室町幕府はまだ続いてたのに戦国時代になった
室町時代だって、統一国家とは名ばかりで、足利義満はいつも地方の大名との戦争で忙しかった
戦国時代との違いは微妙

32:世界@名無史さん
18/04/06 19:24:33.25 0.net
唐も、後半はそれと似たようなもんだった

33:世界@名無史さん
18/04/06 19:28:41.69 0.net
>>29
>晋が韓魏趙になったとか
なんといっても、それが大きいと思われる
群雄割拠の世といっても、晋がアタマひとつ抜けた超大国だった

34:世界@名無史さん
18/04/06 19:31:38.13 0.net
晋が分裂して韓魏趙になって、戦国時代に突入した。
分裂したけど、それでも大国。
戦国時代の初期は、魏が突出した大国で、諸国の盟主のようなポジションにいた。

35:世界@名無史さん
18/04/07 04:25:08.93 0.net
秦は初代が中華の人間
というか先祖も中華の人間
そりゃ田舎のほうだが
ちなみにチャンパ王国の建国者も中華の人間

36:世界@名無史さん
18/04/07 09:40:49.52 0.net
北ベトナムにとっての中国は、北からの侵略者
中国にとってのモンゴルみたいなものだ
しかし、そんな北ベトナムも、南ベトナムにとっては北からの侵略者

37:世界@名無史さん
18/04/07 09:42:45.96 0.net
晋を超大国にした立役者の文公は、母親が北狄
北狄に亡命して、何年かすごした時期もある

38:世界@名無史さん
18/04/07 10:37:37.14 0.net
魏は中原に位置し、7大国のうち燕を除く残りの5ヶ国と国境を接していた。
前453年、晋から事実上の独立をはたす。
初期の文侯の治世では、内政の李克・西門豹、軍事の呉起・楽羊らの働きで、
周辺諸国を討って国力盛んとなり、最強国となった。

39:世界@名無史さん
18/04/07 10:41:12.97 0.net
この「戦国初期には魏が最強国だった」という話が、宮城谷昌光の小説にはよく出てくる
中原だけに文化の水準が違うので、人材の宝庫だった
しかし、狭量な君主が続出したせいか、せっかくの人材が他国に流出していくのが難点

40:世界@名無史さん
18/04/07 10:52:36.52 0.net
まず、呉起が亡命して、主力がぬけた
呉起は、楚で大改革を行う
野蛮な後進国だった楚が、超大国へと変身を遂げるキッカケを作った

41:世界@名無史さん
18/04/07 10:56:45.99 0.net
人材の流出は、その後も続いた
まず、前370年、魏は斉の孫臏に大敗する(馬陵の戦い)
紀元前340年には、商鞅の変法により国力を急激に増大させた秦には、
商鞅率いる軍に大敗して黄河以西を失い、大梁(開封)へ遷都し、覇者の座から滑り落ちた。
その後、自国の宰相であった魏斉にかつて辱められた食客の范雎を、
遠交近攻策の提唱などで重臣に採用した秦から圧迫され、秦への対策では苦しい状態が続く
孫臏・商鞅・范雎、みんな魏から出ていった人物

42:世界@名無史さん
18/04/07 11:08:51.08 0.net
衰退した魏は、秦による大統一のちょっと前、一時的に復活する。
公子の無忌こと信陵君が紀元前247年に五か国連合軍を率いて、秦の侵攻軍を破った。
信陵君は戦国四君に挙げられるほどの傑物となった

43:世界@名無史さん
18/04/07 11:14:37.68 0.net
魏の天下は、百年ほどで終わった

44:世界@名無史さん
18/04/07 11:44:37.63 0.net
三晋の各国って自分の名字を国名にしたのか

45:世界@名無史さん
18/04/07 12:10:42.78 0.net
>>44
どっちかっていったら、国名を名字にしたというほうが正しい

46:世界@名無史さん
18/04/07 12:11:38.11 0.net
たとえば「魏」であれば、春秋時代の都市国家の一つが起源です。
この都市国家の魏は晋に滅ぼされ、晋の領地になりました。
ある時、功臣の一人がこの魏の土地に封建され、魏氏を名乗るようになりました。
この魏氏の子孫が、晋を三分した魏を作りました。

47:世界@名無史さん
18/04/07 12:13:58.72 0.net
魏氏・趙氏・韓氏が同盟して、晋で最有力な智氏を打倒した

48:世界@名無史さん
18/04/07 12:15:34.64 0.net
長年の恨みで徹底的に嬲り抜いて髑髏杯にしたんだよな

49:世界@名無史さん
18/04/07 12:30:43.45 0.net
魏は梁または大梁ともいった
途中で都をその名の土地に移したためだ
この地は後に開封と呼ばれる
『孟子』の冒頭が「孟子、梁の恵王に見(まみ)ゆ」

50:世界@名無史さん
18/04/07 12:59:06.65 0.net
>>45
でも三晋に分割する前から名字名乗ってたよ

51:世界@名無史さん
18/04/07 13:18:50.60 0.net
呂后の一族も自分らが皇帝になったら国名を「呂」にする予定だったっぽいや

52:世界@名無史さん
18/04/07 13:25:31.17 0.net
>>50
晋の家臣の畢万が、魏に赴任して、魏万と名乗るようになった
それが、魏氏の始まり

53:世界@名無史さん
18/04/07 13:27:12.29 0.net
つまり、名字を国号にしたのは、その通りなんだけど、その名字がもともと地名に由来する

54:世界@名無史さん
18/04/07 13:30:36.17 0.net
>>51
武后が皇帝になったときは、「周」になったな

55:世界@名無史さん
18/04/07 13:48:20.97 0.net
南朝の陳も、陳覇先が自分の名字を国名にしたんだと思っていたが、
これも偶然たまたま、梁の皇帝から陳王に封じられたのが由来だそうな

56:世界@名無史さん
18/04/07 15:58:33.97 0.net
俺が魏文侯だったら
まず楚を滅ぼすね
当時の楚は蛮族のくせに剽悍さもなくしてガタガタだったから
土地は広いが当時の楚なら勝てる

57:世界@名無史さん
18/04/07 23:56:58.43 0.net
魏は文侯・武侯の時代ですら周囲を列強に囲まれ、次第に拡大にも限界が
見えてきてるうえに必ずしも連戦連勝とまではいかずに敗れてもいる
たとえ荘王の時代の様な威勢を失っていたとしても、数倍の国土を有する楚を
一朝一夕に滅ぼせる保証はないところに、韓や趙や秦らがおとなしく手を拱いて
傍観してくれるわけもないと思うが

58:世界@名無史さん
18/04/08 01:28:35.29 0.net
名字とか苗字とか言ってるけどそれって「氏」だろ
わざわざ日本史風に言うのってどうなの

59:世界@名無史さん
18/04/08 07:24:01.23 0.net
>>58
そうだな
ここは、氏と言ったほうが良い

60:世界@名無史さん
18/04/08 07:28:37.13 0.net
南の勢力を滅ぼすのは、見た目より難しい
山を越え、河を越え、酷暑と疫病との戦い
後世には、曹操も苻堅も敗れて撃退された

61:世界@名無史さん
18/04/08 07:30:05.84 0.net
日本史も、源平藤橘の氏と、家名の話がややこしい

62:世界@名無史さん
18/04/08 07:32:40.35 0.net
楚の荘王も、春秋の覇者のひとり

63:世界@名無史さん
18/04/08 13:27:39.08 0.net
文公って本当に有能なのか?
放浪しまくって、最後に君主になれたのは凄い、しかしたった8年で崩御だぞ

64:世界@名無史さん
18/04/08 13:41:37.32 0.net
最後に君主になれたのも、秦の穆公が軍隊つきで晋に送り込んでくれたおかげ
これを見れば傀儡政権みたいだが、なぜか春秋の覇者となる

65:世界@名無史さん
18/04/08 13:45:03.85 0.net
しかも、文公本人は、亡命先の斉に永住するつもりになっていたのだが、周囲の連中が強引に担ぎ出した

66:世界@名無史さん
18/04/08 13:49:21.69 0.net
放浪中は、楚でもお世話になり、有名な「三舎を避ける」の故事成語が生まれた

67:世界@名無史さん
18/04/08 13:51:07.70 0.net
このように、なぜか斉・楚・秦の3大国から強く支持された
おそらく、生来のカリスマ性があったのだろう

68:世界@名無史さん
18/04/08 16:03:14.91 0.net
重耳の時代は諸技術と外交能力に長けた中原の小国(鄭、衛、陳、徐、蔡あたりか)から
将来的な生産力に伸びしろのあった周縁諸国(斉、秦、楚そして晋)に主導権が移っていく時代だった
また諸侯からその家臣に実力と権限が移っていく時期でもあった
重耳は後に重臣となる従者たちと共に中原諸国を放浪し、先進地域の情報を収集し、
各地の公族とコネクションを築き、結果的に自分と家臣の成長をも促した
普通亡命公子は、各国で能力に応じて家臣としてスカウトされ、
また亡命先の国が故国に攻め入って傀儡政権を立てる時の駒にもされる
重耳は境遇によって得られるものの全てを最大限に利用したのだ
…と、『重耳』にも書いてないことも加えたつもりだが、もしかしたら書いてあるかも知れん

69:世界@名無史さん
18/04/08 16:49:25.60 0.net
>>68
でも周辺諸国のうち、三晋と楚はなぜか中原に首都をうつしていた

70:世界@名無史さん
18/04/08 17:31:20.58 0.net
>>66
小室直樹は「三舎を避ける」という言葉が大好きで、いつも使ってた。
「スターリンすら三舎を避けるほどの残虐さ」とか、そんな感じ。

71:世界@名無史さん
18/04/08 17:42:31.85 0.net
>>69
それは全く矛盾しない。
鄭や衛や陳は「中原という場所にいたこと」が不利だったのではなく、
「中原の限られた土地にしか領土がなかったこと」で国力が相対的に伸び悩んだのだから。
中原自体は全ての時代を通じて交通が便利で商業活動に有利な場所で、情報収集にも向いていた。
ただ生産力が頭打ちだった。
だから戦国になるとどの国も中原かその近くに首都を置き、後背地を農業生産のために確保しようとした。
ただ燕は地理的に魏に阻まれて中原には向かわず、後背地を広げていくことに専念した。
いったん斉に攻められるとすぐ倒されるという脆さがあったことの反省だろう。

72:世界@名無史さん
18/04/08 19:04:11.78 0.net
趙も北の辺境の国だけど、首都はほとんど中原に近い邯鄲

73:世界@名無史さん
18/04/08 19:06:34.08 0.net
いや、邯鄲は中原そのものだな
いまでいう河北省の南端で、ほぼ河南省

74:世界@名無史さん
18/04/08 19:06:54.93 0.net
三晋の出来たばかり国力
魏>韓>趙

75:世界@名無史さん
18/04/08 21:48:58.08 0.net
五代十国の初期(後梁期)なんかだと各国の首都も中原に片寄ってるとかないんだが

76:世界@名無史さん
18/04/09 03:23:51.06 0.net
だってその時代にはもう奥地まで開発が済んでいるんだもん
言質取ったつもりだろうけどマジどうでもいいわ

77:世界@名無史さん
18/04/09 12:37:21.18 0.net
近世ヨーロッパでも、先進地域のイタリアでフィレンツェやミラノ・ヴェネチア・ジェノヴァ
などが争っている間に、周辺ではフランス・スペインなどの大領域国家が台頭した。
現代でも、ドイツ・フランス・イギリスが争っている間に、超大国のアメリカ・ソ連が台頭した。

78:世界@名無史さん
18/04/09 12:39:51.14 0.net
スケールの違う国家が登場したおかげで、今までの主要国が小人に見えてしまうという現象。
この21世紀においては、中国とインドがそれに相当するだろう。

79:世界@名無史さん
18/04/09 14:06:55.51 0.net
【DVD】東周列国 春秋戦国篇 完全版 全11巻(22枚組)

80:世界@名無史さん
18/04/09 18:46:19.29 0.net
>>79
おもしろそうだな?

81:世界@名無史さん
18/04/09 20:46:08.69 0.net
楚で最初に王位についたのは、第18代君主・熊徹のとき。
周に昇爵を要求したが認められなかったため、王位を自称することにした。
即位は「紀元前740年」というから、昔も昔、大昔だ。

82:世界@名無史さん
18/04/09 20:48:04.08 0.net
しかし、その前の代の

83:世界@名無史さん
18/04/09 20:49:15.53 0.net
しかし、その前の代の奴も、で、『韓非子』や『楚辞』では脂、と表記される。
武王こと熊徹に殺されて長続きしなかった。

84:世界@名無史さん
18/04/09 20:58:17.76 0.net
武王が死んで、文王が跡を継いだ。
その後、いよいよ成王の時代となる。
「楚の成王」といえば、春秋時代でも屈指のビッグネームだ。
成王と、次の次の荘王が、楚の歴史では飛び抜けて知名度が高い。
まあ、どの王朝でも、有名なのは初期の数人だけで、あとは惰性というのが普通だが。

85:世界@名無史さん
18/04/09 21:59:19.36 0.net
>>29
「春秋」に書かれている時代が春秋時代(覇者の時代)
「戦国策」に書かれている時代が戦国時代(覇王の時代)
戦国時代は古代では六国時代と呼ばれていた

86:世界@名無史さん
18/04/09 22:16:01.76 0.net
魯って、よい意味じゃないけど国名だよね

87:世界@名無史さん
18/04/09 22:26:12.70 0.net
>>85
そうなの?知らなかった。驚き。例えばどの文献?

88:世界@名無史さん
18/04/09 22:27:27.53 0.net
>>87の質問は、これについてです
>戦国時代は古代では六国時代

89:世界@名無史さん
18/04/10 00:11:54.03 0.net
中国の歴史学ではアヘン戦争以前を「古代」と呼ぶからそこかな

90:世界@名無史さん
18/04/10 12:17:04.11 0.net
戦国の七雄とか今は言われてるけど、秦は国とは呼べないとかいうイデオロギーありそうな名称

91:世界@名無史さん
18/04/10 12:49:02.58 0.net
最近、楚はもともと中原から来たという説を見た

92:世界@名無史さん
18/04/10 20:26:30.46 0.net
どの国も、建国者はそうなんじゃないか?

93:世界@名無史さん
18/04/10 21:10:51.21 0.net
>>92
どの国もそう自称してるけど実態はどうかな

94:世界@名無史さん
18/04/10 23:51:47.00 0.net
中原にもともといたのはタイカダイやミャオヤオで
後から来たシナチベットに追いやられたという話だな

95:世界@名無史さん
18/04/11 01:15:02.01 0.net
>>91
説というか史記の記述やろ?
楚の初代は周出身って書いてあるし

96:世界@名無史さん
18/04/11 01:39:56.86 0.net
雲南のハニ族も自分たちの先祖は天津にいてそこから北京や上海に移って、なんていう
よくわからない伝承を持っている
なんか北から来たっていう感覚だけは共通している

97:世界@名無史さん
18/04/11 05:50:00.98 0.net
ベトナム・タイ・ラオス・ミャンマー
みんな、「雲南から南下してきた民族」ってことになってるけどな

98:世界@名無史さん
18/04/11 06:02:50.96 0.net
斉の始祖も、周の太公望

99:世界@名無史さん
18/04/11 06:09:29.92 0.net
宋の建国者は、紂王の兄の微子啓とされている。首都は商丘。
「宋は小国だが、殷を継承する国であった」というのは、宮城谷昌光の小説でオナジミのテーマ

100:世界@名無史さん
18/04/11 18:46:08.86 0.net
宋といえば、有名なエピソードが2つ。
ひとつは、宋襄の仁。
楚の成王の大軍が攻めてきた。川を渡ろうとしているのを見て、「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公は動かず。
川を渡りきったところで、楚軍は態勢を整えた。
「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公はまたしたも動かず。
態勢を整えた楚軍に、宋軍は叩きのめされた。
古来の戦争の流儀にこだわった、襄公のガンコさと頭の古さが、宋の敗因とされている。

101:世界@名無史さん
18/04/11 18:49:18.48 0.net
もうひとつは、待ちぼうけ。
ある日せっせと野良仕事、そこにウサギが飛び出して、木の根っこに頭をぶつけて死んでしまった。
労せずしてウサギ肉を手に入れた男は、それからも木の根っこでウサギを待ち続けたため、農地はすっかり荒れ果ててしまった。
これまた、宋人のガンコさと頭の古さが、敗因とされている。

102:世界@名無史さん
18/04/11 18:50:38.39 0.net
つまり、先住民である殷の文化を墨守する宋は、ガンコで頭が古い国と思われていた。
だから、そういうエピソードばかりになる。

103:世界@名無史さん
18/04/11 19:08:10.47 0.net
宋は、今でいう河南省の商丘市。
河南省の東端で、開封の南にある。
大昔には、殷の都・商があったところ。

104:世界@名無史さん
18/04/11 23:36:04.73 0.net
>>99-102
そのあたりはもっと前なら宮城谷昌光じゃなくて陳舜臣で読んだな
時期ごとにそういう人がいる 研究者とは別に

105:世界@名無史さん
18/04/13 06:31:53.28 0.net
陳舜臣はマジメすぎるというか、あんまり面白みはないな?

106:世界@名無史さん
18/04/13 06:43:37.05 0.net
宋は小国だったが、宰相の華元は、大国・晋と楚の和議を取り持って名を挙げた。

107:世界@名無史さん
18/04/13 06:44:49.87 0.net
韓国のパククネ大統領も、アメリカと中国の和議を取り持つ「バランサー外交」をやってたが、失敗して刑務所にいる。

108:世界@名無史さん
18/04/13 12:25:08.62 0.net
汚職したからだろ

109:世界@名無史さん
18/04/13 20:11:34.99 0.net
>>38
春秋時代も、初期は、鄭が覇権国だった。
斉の桓公や、晋の文公が登場するまでは、鄭の時代だった。

110:世界@名無史さん
18/04/13 21:04:17.90 0.net
>>94
チベット人と漢民族よりタイ人ミャオ族と漢民族のほうが遺伝的には近いのだが
つうかお前は語族と人種の区別が多分ついてないだろ

111:世界@名無史さん
18/04/13 23:46:15.98 0.net
今のチベット人は征服されてチベット語に言語交替した民族だから遺伝的に遠いのは当然の話だぞ

112:世界@名無史さん
18/04/14 06:39:59.43 0.net
養える人口と農業限界のバランスが崩れ始めた時代だよね
開発過剰国としての中国人の終わらない悲劇が始まる

113:世界@名無史さん
18/04/14 08:17:54.24 0.net
>>112
春秋時代は、さすがに人口が少ない
戦国時代から増えてきて、後漢でピークに達する

114:世界@名無史さん
18/04/14 11:26:58.71 0.net
前771  西周の幽王、犬戎に殺される
前770  東周の平王、鄭の武公の力を借りて洛邑に遷都
     鄭の武公、都を新鄭に移す
前707 周の桓王、鄭の荘公を攻めるが、鄭はこれを撃退、
    周王室の権威は完全に失墜する
前706 北戎が斉に侵攻したため、鄭は援軍を送り、北戎を撃退
この辺り(紀元前8世紀の末)までは、鄭の天下だった

115:世界@名無史さん
18/04/14 11:29:08.84 0.net
>>111
漢民族もチベット人も
周やら姜系民族に征服されたってことか

116:世界@名無史さん
18/04/14 11:30:45.69 0.net
鄭の天下とはいっても、鄭の太子忽は、斉の王女との縁談を、「我が国は小国であり、大国の斉とは釣り合いが取れません」といって断っている。
周の王室と近い親戚で、中原の中でもド真ん中に位置するだけに、権威は絶大だったが、国土が小さかった。

117:世界@名無史さん
18/04/14 11:42:18.31 0.net
紀元前7世紀に入ると同時に、天下は斉の時代に入る。
前651年、斉の桓公は、諸侯を会盟する。
桓公自身はたいした人物ではなかったが、宰相の管仲が有能だった。

118:世界@名無史さん
18/04/14 11:46:09.61 0.net
斉の桓公から、春秋の五覇の時代が始まる。
春秋時代に入って、すでに120年が経過していた。

119:世界@名無史さん
18/04/17 13:20:22.82 0.net
春秋の五覇って無意味なフレーズだと思う
戦国の七雄は戦国時代に力を持っていた七カ国ってことで意味があるけど
春秋の五覇はまず覇の定義が定まってないところに五って数字が定着してしまったから、まるで不完全なリストになってしまった
書物によって五覇のメンバーが異なるってどういうことだ?
それなのにそんな五覇を暗記させるとかまるで無意味すぎる
斉の桓公、晋の文公以外固定じゃないなら五覇とか数を固定する意味がわからん

120:世界@名無史さん
18/04/19 12:13:42.59 0.net
晋は中原と西部地域にまたがってるけど、
三晋に分割する際、
中原と西部地域をどちらともそれぞれ三分割して配分してるのがおかしい
そのせいで三晋いすれもは(ベルギーやスイスみたいな)二地域にまたがる国家になってる

121:世界@名無史さん
18/04/19 16:39:12.22 0.net
趙の国土は、とくにイビツだな

122:世界@名無史さん
18/04/19 16:39:44.22 0.net
国境線が長すぎるのが、魏の弱体化につながった

123:世界@名無史さん
18/04/19 17:36:18.52 0.net
ヨーロッパでたとえると、
カロリング朝フランク王国の
カールとカールマンの分割方法に近い
これもローマ人地域とゲルマン人地域を二人に分けた形
これもカールマンの国は魏みたいな形をしている

124:世界@名無史さん
18/04/19 19:05:40.55 0.net
>>119
楚の荘王もこて

125:世界@名無史さん
18/04/19 19:06:17.17 0.net
楚の荘王も固定メンバーじゃないか?

126:世界@名無史さん
18/04/19 19:13:06.62 0.net
あとの2人は、秦の穆公と、宋の襄公か

127:世界@名無史さん
18/04/20 07:30:24.26 0.net
秦の穆公も、重耳を晋に送りこんで文公にしたキングメーカーなんだから、覇者には違いないが、いまひとつ地味な存在

128:世界@名無史さん
18/04/20 13:27:53.79 0.net
春秋のトリを飾る呉王コウリョか夫差、越王勾践が入ってくるなら呉越コンビで入っちゃうんだよな
どっちも覇者としての実際の力より元蛮族が台頭してきたという象徴性が強いと思うが

129:世界@名無史さん
18/04/20 14:27:26.47 0.net
呉越はなんか唐突だね
え、なんで?そんな国あったの?というタイミング
呉は一応周の太伯・虞仲からの古い由来があるけど信憑性が薄い
そこから500年以上経ってから句呉が呉になっていきなり現れる
越に至っては千数百年前に夏王少康の庶子を会稽に封じたのが源流というが
歴史に現れたのは呉と同じ頃でまったく真実味がなく、まるで呉に対抗してもっと古い起源を唱えただけのようだ
ドラマ性はあるけどそこだけ異世界の話をつないだみたいだ感じさえする
どちらも中央の戦いに加わると無駄に強いし
どちらも会盟で牛耳を執り覇者となるが、そのくせ潰しあってあっさり滅びるという

130:世界@名無史さん
18/04/20 19:25:03.61 0.net
周を真ん中にして、斉楚秦晋の4大国が東南西北に並ぶというのは、いかにもシナ人好みの五行説っぽい世界。
周を殷にすれば、そのまんま封神演義の状況になってしまう。
この世界観のために、呉越を入れたくなかったんじゃないか。

131:世界@名無史さん
18/04/21 01:34:58.09 0.net
>>130
封神演義では、
東西南北にどういう勢力がいたの?

132:世界@名無史さん
18/04/21 10:16:35.70 0.net
殷を中心に東西南北に四大諸侯が周りを固めその外側に異民族という形だが
あくまで創作だからね

133:世界@名無史さん
18/04/21 12:06:44.72 0.net
>>129
呉越は異民族で確定、
楚は微妙なところだな

134:世界@名無史さん
18/04/21 12:15:19.29 0.net
斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、呉王闔閭、呉王夫差、越王句践
候補は八人
大まかには孟子の王道や荀子の覇道が基準で選出されたり、いくつか説あるよなあ
個人的には三番手は楚荘王で確定って気分だけど

135:世界@名無史さん
18/04/21 12:15:57.13 0.net
北の大諸侯(崇家)
もともとは、殷(いん)で、朝歌を中心とした東西南北とあった四大諸侯のうちの一つ。 西の大諸侯の西伯侯・姫昌の説得により、周と同盟を結んだ。
崇侯虎(すう・こうこ)
北の大諸侯・北伯侯(首領)の崇侯虎だ。弟の崇黒虎と間違えそうな名前なので気をつけよう。
民を権力者の食い物としか考えていない。
つまり、北伯侯の治めた国の民はあんまり住み心地が良くないのだ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めた東伯侯・南伯侯を殺されるのを目にし、妲己にこびるようになる。

136:世界@名無史さん
18/04/21 12:19:00.14 0.net
姫昌(き・しょう)
西の大諸侯。
食べ物が少なくなるにもかかわらす大量の難民を受け入れたり、偶然ぶつかってきて傷を負わせた武吉を許したり、
自分が死にそうなのに北の崇黒虎を味方になるよう説得したりと、まあいわゆる大人物である。
ちなみに100人の子を持つ。
妲己のたくらみにより幽閉され、七年後、長男伯邑孝でできたハンバーグを食べさせられてやっと解放される。

137:世界@名無史さん
18/04/21 12:20:45.12 0.net
姜桓楚(きょう・かんそ)
東の大諸侯・東伯侯(首領)だ。
娘の姜妃は紂王の正統な皇后。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、南伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、東の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。

138:世界@名無史さん
18/04/21 12:22:11.22 0.net
鄂崇禹(がく・すうう)
南の大諸侯・南伯侯だ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、東伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、南の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。

139:世界@名無史さん
18/04/21 12:27:06.92 0.net
宋の襄公は、諸侯の会盟に失敗したから、覇者という感じがしない。

140:世界@名無史さん
18/04/21 15:46:47.43 0.net
周王の権威が地に落ちて周が無くなる寸前の時代に
呉と越が周王の名代となって諸侯を束ねて会盟を仕切る話が
駆け込み乗車のように立て続けに現れる
戦国になってしまえばみんな王だから会盟なんてなくなるのに

141:世界@名無史さん
18/04/21 22:29:04.08 0.net
長江の下流が、大陸で最も肥沃であり、最良の土地であることは、昔も今も変わらない
ただ、古代においては、広大な湿地帯であり、人が住むのには適していなかった

142:世界@名無史さん
18/04/21 22:30:27.35 0.net
黄河の下流も、洪水が多すぎて、当時は住みにくかった。
古代の都市国家は、太行山脈の山麓に集中している

143:世界@名無史さん
18/04/22 12:43:54.19 0.net
斉の桓王、晋の文王って名乗れなかったのに
呉王と越王は気にせず名乗ってるのって既に周が没落したからか?
周王の封土じゃないから王と名乗ってもいいとかいう理屈?

144:世界@名無史さん
18/04/22 13:13:59.86 0.net
>>137 姜桓楚っていうのは斉の桓公をもとにしたキャラか



146:世界@名無史さん
18/04/22 13:45:25.36 0.net
太公望が姜氏なんだから単純に太公望が分裂しただけじゃない?

147:世界@名無史さん
18/04/22 17:57:09.78 0.net
>>145
太公望は、斉の建国者とされてるが
東伯候も姜氏なら、それが斉につながってるというほうが自然だな?

148:世界@名無史さん
18/04/22 18:11:30.16 0.net
斉を意識してるのは間違いないね
姜桓楚の桓は桓公の桓だろうね

149:世界@名無史さん
18/04/22 18:22:52.20 0.net
ということは、姜桓楚は架空の人物ってことか

150:世界@名無史さん
18/04/22 20:04:42.05 0.net
姜族ってのは周にくっついて初めて中国の東方に入ってきたんだろう?

151:世界@名無史さん
18/04/23 06:15:04.41 0.net
呂尚(姜子牙)が東海のほとりの出身であり、
姜氏の部族集団を率いて周と連合して殷を倒したというのなら、
羌の支族といわれる姜氏は東海のあたりにも多数いたことになる
斉に封じられて営丘に都してからも現地の習俗に従って儀礼を簡素にしたというのも
また斉の土地柄に合わせて製塩と漁業で豊かにしたというのも、
呂尚がもともとこのあたりの出身だったからではないのか(東海=斉とは限らないが情報は持っていた)

152:世界@名無史さん
18/04/23 06:34:14.52 0.net
>>143
呉や越は伝承とは別に状況からみて楚から派生した新興勢力とも言われている
王号を早くから用いていたのも楚の模倣、あるいは楚を強く意識した対抗意識からだろう
その時点では周を立てる中原の勢力を意識する必要もないほど辺境だったとも言える
だが急成長して呉も越も一度は会盟の盟主になっているが、
これも、二百年近く離れているが、楚の荘王の覇業の後追いのように見える

153:世界@名無史さん
18/04/23 17:40:23.76 0.net
あと、呉の場合は太伯が周王の位を譲って


154:ナきた国(の筈)だから 王号を名乗ること自体おかしい(筈な)んだよな



155:世界@名無史さん
18/04/23 20:50:24.21 0.net
>>150
秀吉を大坂出身と間違えるようなもんじゃないのかな

156:世界@名無史さん
18/04/23 20:58:27.66 0.net
呉は太伯の末裔だから当然、伯国
楚は蛮国とされ、その王は子爵待遇

157:世界@名無史さん
18/04/28 12:13:34.98 0.net
下記のサイトの「周代の方言」という項目を見ると、
中原が「周韓鄭(漢代趙魏含む)」と「衛宋」に分かれているけど、
これはなんでなんだろうな。
中原を東西に分けたのか、
周代初期から中原にいた国と春秋戦国になってから中原に移ってきた国を分けたのか
URLリンク(heartland.geocities.jp)

158:世界@名無史さん
18/04/28 12:15:52.34 0.net
>>130
じゃあ東西南北にさらに東北、東南、西南、西北も加えればよかったんじゃね
東北が燕、東南が呉、西南が蜀だとすると西北をどうするかって問題になるか

159:世界@名無史さん
18/04/28 15:22:05.63 0.net
>>155
そのせいかどうかは知らないが、衛と宋は、2つとも「殷の遺民の国」とされている

160:世界@名無史さん
18/04/28 20:59:33.99 0.net
>>155
そのサイトのそのページの「爾雅に登場する方言の材料」の項目で、
>爾雅単体では、どの地域かの情報が無いものが多い為、
>それらは主として「方言」「説文解字」「郭璞注釈版爾雅」から補っている。
とあるだろう。
それらの書物で「爾雅」と共通する語彙について、
どこそこの方言だ、と言っている項目や注釈の中の地域によって分類するとこうなったということ
なんで、っていうか事実としてそれらのように、傾向として同じ語彙を共有するいくつかのグループが存在する
分けた、っていうより分かれている

161:世界@名無史さん
18/04/29 06:39:10.91 0.net
URLリンク(natsu00117.cocolog-nifty.com)       
URLリンク(i.ytimg.com)               
URLリンク(iwiz-chie.c.yimg.jp)

URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
          
URLリンク(blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp)                      
URLリンク(trendy-da.net)   

162:世界@名無史さん
18/04/30 11:55:37.78 0.net
殷と周は異民族だろ、さすがに
城市を一歩でたら、そこは異国という時代だ

163:世界@名無史さん
18/04/30 14:08:48.48 0.net
21世紀の現代でさえ、中国では、「城市を出たら、そこは土人が住む世界」という感覚が強く残っており、戸籍でも市民と土人が明確に区別され、公然と差別されている。
ましてや、ムラとクニに分かれていた古代社会においては、城市に対する市民の思い入れが、ことのほか深かったであろうことが、容易に推測できる。
今でいう「中国」が1つの国であるという意識はまったく無かっただろうが、それぞれの祖国への帰属意識はむしろ強かっただろう。

164:世界@名無史さん
18/04/30 14:21:15.27 0.net
甲骨文字による亀甲占いには、城市から出るときの安全を占うものが多かった
市民にとって、安全なのは城の中だけであり、城の外のフィールドは異世界だった

165:世界@名無史さん
18/04/30 19:38:24.56 0.net
殷と周が別民族であることと、
当時の都市国家が一歩外を出れば「野人」(「土人」はともかく史書にはこれなら出る)
のうごめく世界だったことは、
別の話だろう

166:世界@名無史さん
18/05/03 08:46:48.15 0.net
都市国家は、それぞれ別の国だったが、市民には文明人としての一種の連帯感があったようだ
古代ギリシャに似ている

167:世界@名無史さん
18/05/03 08:48:32.75 0.net
上海人や香港人も、内陸部の土人より、日本人に連帯感を持っている

168:世界@名無史さん
18/05/03 21:22:48.77 0.net
まあ自分らからそう言うことはあるけど
こっちから日本人が指摘すると勘ぐって全否定してくることもあるよね

169:世界@名無史さん
18/05/05 17:14:18.47 0.net
「精神的日本人」は今弾圧の対象だからあっちの人も他者にそう言われることを警戒してる

170:世界@名無史さん
18/05/13 09:54:41.92 0.net
「漢の時代には未開だった長江下流地域は、三國志の呉や東晋の頃から発展して、隋唐の頃には経済力がかなり大きくなりました」とよく言われるのだが、
春秋時代の呉越だって、諸侯を会盟して覇者になるほどの国力があったんだよな?

171:世界@名無史さん
18/05/13 09:56:55.36 0.net
とくに不思議なのは、北部では秦や前漢まで青銅器が主流だったのに、春秋時代の呉越は、一足お先に鉄器文明へと移行していたこと
なんで、あのまま天下を取れんかったんだろか?

172:世界@名無史さん
18/05/13 14:14:10.92 0.net
呉が優れていたのは「鋳剣の技術」、越が長けていたのは「銅器の製造」
鉄器については確認できなかった
呉が会盟の覇者になったのは史実らしいが、その留守を突いて呉を滅ぼした越は
一度覇者になったかならないか(越絶書以外に覇者になったという記録がない)で
楚に滅ぼされた
呉越とも春秋末期にならないと歴史に登場しないのは、長江文化圏に属していて
まったく動静が見えなかったからで、
(黄河圏から見ると「南方で色んな国がドタバタしているらしい」程度か)
楚という東西に長い国に阻まれて、長江以南の事はあまり伝わってこなかったのではないか

173:世界@名無史さん
18/05/16 02:16:45.89 0.net
>>154
呉は子爵です
呉の分家の虞は公爵ですが

174:世界@名無史さん
18/05/18 23:55:59.68 0.net
この時代が終わり思想は終わった

175:世界@名無史さん
18/05/19 05:54:16.33 0.net
近代ヨーロッパと似た国際社会が形成された

176:世界@名無史さん
18/05/19 18:18:31.49 0.net
イギリスとかスウェーデンは他国を批判して刑罰を強化させたがるから嫌い

177:世界@名無史さん
18/05/19 23:38:00.01 0.net
いろんな思想家が出たが、後世はその改良と派生で終わってしまった。
西洋哲学がプラトンに付けられた注ならば、
中華思想は諸子百家思想に付けられた注なのだろう

178:世界@名無史さん
18/05/20 06:38:52.92 0.net
中東では7世紀にイスラム教が登場したが、中国ではそんな思想革命は起きなかった

179:世界@名無史さん
18/05/21 07:35:26.45 0.net
朱子学こそが思想革命

180:世界@名無史さん
18/05/21 07:36:15.34 0.net
北からは儒教、南からは老荘思想が出てきた

181:世界@名無史さん
18/05/21 13:03:05.39 0.net
孫子の兵法も「いきなり」登場した呉越のものだな

182:世界@名無史さん
18/05/23 13:23:24.81 0.net
>>179
様々な戦争


183:ノついて学んで書いたんでしょ 孫子が別の時代、別の地域に生まれたら書けなかったかもしれん



184:世界@名無史さん
18/05/26 21:49:39.47 0.net
呉や越は後世の倭や高句麗や新羅みたいなもんかな

185:世界@名無史さん
18/05/27 10:13:45.80 0.net
「中国四千年」というが、四千年の歴史があるのは、河南省や陝西省といった内陸部
北京・上海・広東省の歴史の長さは、日本や朝鮮・ベトナムのそれと大差ない

186:世界@名無史さん
18/05/27 10:27:16.67 0.net
>>177
革命じゃないよね。
アンチ儒教、若者が偉いとか、女尊男卑とか思想革命ないよね

187:世界@名無史さん
18/05/27 10:44:48.57 0.net
お前の挙げてるそれはただの反動思想で革命でも何でもないだろ

188:世界@名無史さん
18/05/27 11:56:31.25 0.net
今のアンチ儒教言うやつは儒教をカケラも知らない
もっと徹底的なアンチ儒教なら五四運動や文革のときにやってる

189:世界@名無史さん
18/05/27 15:06:59.96 0.net
孔子が俳優達の手足を切り落としたことや
門下生を取られたことから相手の教師を罪も不明なのに処刑したことは
もう何を言ってもこいつはクズだと思わせる

190:世界@名無史さん
18/05/27 16:36:42.31 0.net
今の日本でアンチ儒教やってるやつは黄文雄の読者のネトウヨ
黄文雄は台独派だから反中国思想のつもりで書いているが
そのネタはまんま五四運動の反儒教運動のパクリ
ネトウヨは知らずに中華民国初期の青年文化運動イデオロギーを注入されている

191:世界@名無史さん
18/05/27 16:41:17.43 0.net
あの時代はアジア主義革命の時代だからいいんじゃね?日中韓同時革命による新大東亜共栄圏の建設を日本の愛国右翼は目指すべき

192:世界@名無史さん
18/05/27 18:39:58.05 0.net
城攻めのために土積み上げてから崩して土手作って侵入したの誰だったっけ?
ど忘れしてもうた

193:世界@名無史さん
18/05/27 20:07:36.01 0.net
>>188
そういう奴は、今でもいるだろ
「米軍は日本から撤退しろ」という以外にこれといった主張を持たず、在日朝鮮人が批判されたら怒り狂うという、右翼なのか何なのかよく分からない連中
一水会とか、小林よしのり、古谷経衡とか

194:世界@名無史さん
18/05/27 20:10:26.24 0.net
>>187
いまの日本で反儒教の論客って、黄文雄とケントギルバートの他に、誰かいたっけ?

195:世界@名無史さん
18/05/27 21:03:39.83 0.net
>>186
孔子って、人柄の良さを感じさせるエピソードが無いんだよね

196:世界@名無史さん
18/05/27 21:05:50.05 0.net
儒教は人喰いカルト

197:世界@名無史さん
18/05/27 23:45:37.60 0.net
>>191
論客とかいうのも烏滸がましいレベルじゃないかと?

198:世界@名無史さん
18/05/27 23:54:08.34 0.net
>>187
福沢諭吉が儒教批判してたろ

199:世界@名無史さん
18/05/28 04:19:16.36 0.net
>>195
啓蒙主義思想家だからね
当時は読者も儒学をよく学んでいて、
儒学の悪口を言うのは無学な人間だけだったから、
そうじゃない新しい理屈で批判できる人は新鮮だった
今の反儒教ネトウヨは江戸時代に戻った感じ
当時ならまだ国学があったが今はあいつら誰も読んでいない
また蘭学は漢文必修の伝統があり、それで新しい訳語も作られたが、
福沢は漢文が大の得意で左・国・史・漢を熟読し
特に左伝は暗誦できることを自慢にしていた
あと、五四運動の頃の日本では儒学自体がとっくに廃れていたんだから関係ない
批判自体とっくに卒業している

200:世界@名無史さん
18/05/28 06:10:19.64 0.net
>>187
大隈重信は維新前から儒教を批判してたぞ

201:世界@名無史さん
18/05/28 06:16:15.66 0.net
>>197
批判の内容がネトウヨとは全然違うだろう
そもそも五四運動が儒教批判の元祖だなんて誰も言っていないしそんな意味じゃない
ネトウヨはくだらない揚げ足取りでドヤ顔だもんな

202:世界@名無史さん
18/05/28 06:24:04.64 0.net
>>198
日本での儒教批判は五四運動より前からあるってことを>>187の馬鹿は理解してないだろ

203:世界@名無史さん
18/05/28 06:26:05.48 0.net
いや、どっちみちネトウヨは福沢諭吉や大隈重信の儒教批判なんか読んでないから
読んでるのは黄文雄かそれを鵜呑みにしてさらに捻じ曲げる小林よしのりだけ
大事なのはそこだろ

204:世界@名無史さん
18/05/28 06:30:22.05 0.net
>>191
ケント・ギルバートに儒教の知識があるとはぜんぜん思えないけどな

205:世界@名無史さん
18/05/28 06:38:33.86 0.net
その「反儒教ネトウヨ」ってのは、どこにいるんだ?
ネットでもリアルでも見たことがない

206:世界@名無史さん
18/05/28 06:45:25.81 0.net
ニュー速+にいくらでも
嫌儲にもよくいる

207:世界@名無史さん
18/05/28 07:37:11.84 0.net
まあ、いまの日本人は、儒教のことなど、まったく知らんからなあ
キリスト教のほうが、まだよく知られている

208:世界@名無史さん
18/05/28 07:40:26.95 0.net
陽明学には、「知行合一」とか「心中の賊を破るは難し」とか、いくつか有名な言葉があるけど、朱子学にはそれすらない
朱子学は完全に忘れ去られた

209:世界@名無史さん
18/05/28 08:47:14.57 0.net
儒教批判の盛んなのが中国だと清末、民国、毛沢東期
日本だと幕末、敗戦前昭和期、今現在ってのが面白い

210:世界@名無史さん
18/05/28 13:21:10.17 0.net
朱子学の遺伝子は文化の中に残ったとかなんとか

211:世界@名無史さん
18/05/28 17:28:51.55 0.net
>>206
今現在のは、儒教批判というより、中韓批判の一部だろ

212:世界@名無史さん
18/05/28 19:00:53.62 0.net
>>202
「儒教には“相手を赦す”という概念が無い」というデマを流すネトウヨはよく見かける

213:世界@名無史さん
18/05/28 20:32:14.74 0.net
>>209
それは誤解だな

214:世界@名無史さん
18/05/28 20:34:45.17 0.net
こいつネトウヨ小僧だろ

215:世界@名無史さん
18/05/28 23:17:51.16 0.net
>>196
今の儒教批判や支那チョン批判は、福沢諭吉の脱亜論が影響してるから、
馬鹿サヨどもが福沢諭吉を批判してんだろが

216:さようなら
18/05/28 23:59:02.88 0.net
天下は統一されない方が良かった。

217:世界@名無史さん
18/05/29 13:46:13.79 0.net
ドイツやフランスみたいに、ずっと分かれていればなあ

218:世界@名無史さん
18/05/29 14:47:27.41 0.net
>>2
鄭=北朝鮮 衛=韓国 宋=日本
斉=アメリカ 秦=中国 楚=ロシアな感じ?

219:世界@名無史さん
18/05/29 23:59:36.10 0.net
授業は差別

220:世界@名無史さん
18/06/04 22:15:11.15 0.net
ところで、もともと天皇の選定は日本でも古来、蒙古のクリルタイと同じく、血族者の中から実力を考量して選んだ。

221:世界@名無史さん
18/06/08 23:02:40.05 0.net
そらそうよ古代日本は奴隷制全開のジャングルの掟社会なんだから

222:世界@名無史さん
18/06/24 23:51:33.12 0.net
宋の襄公のピエロぶり

223:世界@名無史さん
18/06/25 08:49:57.22 0.net
>>212
脱亜論は福沢が書いたんじゃないっていうのが定説
それを無視してホルホルするのが馬鹿ウヨ
脱亜論に日本人そのものを見出して攻撃し続けるのが韓国人
韓国人に同調するのが極左
リベラルは史実を重く見て福沢を攻撃せず、しかし帝国主義の流れに批判的

224:世界@名無史さん
18/06/25 18:55:21.83 0.net
>>220
定説ということは論文あるんですよね?
どの学者の何というタイトルの論文でその説が開陳されたのかご存知?

225:世界@名無史さん
18/06/25 23:46:46.01 0.net
>>221
平山洋だけでじゅうぶん

226:世界@名無史さん
18/06/26 00:24:48.20 0.net
その人が定説なんですか?本当


227:に? エビデンス何も無しに主張してる部分もありますよね



228:世界@名無史さん
18/06/26 12:55:06.96 0.net
バカウヨホルホルは言い張るだけだからね

229:世界@名無史さん
18/06/26 16:30:09.56 0.net
>>223
ケチばかりつけててなんら生産性ないね君

230:世界@名無史さん
18/06/27 00:05:19.88 0.net
検証に耐えない論説ってもっと生産性ないですよね
ただの嘘だし

231:世界@名無史さん
18/06/27 07:01:04.37 0.net
エビデンス出されても確かめもせず認めない奴がうだうだ喚いてもね

232:世界@名無史さん
18/06/29 02:02:43.64 0.net
え、平山洋の主張が定説に何時なったんで?

233:世界@名無史さん
18/07/21 16:45:12.44 0.net
>>85
戦国七雄じゃないんだ、どれが除外されてるのか

234:世界@名無史さん
18/07/22 02:44:38.12 0.net
除外されてるのは燕だったかと
楽毅の登場で脚光浴びたけど、その前に後継問題の内乱を突かれて一度滅んだような状態だからね
薊を斉に支配されて、何事も斉にお伺いをたてるような感じで一時期は斉の従属国状態になっていた
その状態から回復させた昭王は優れた君主だったよね、後継ぎはどうしようもないけど

235:世界@名無史さん
18/07/22 03:04:56.51 0.net
一度滅んだも同然といえば斉もそうなのに

236:世界@名無史さん
18/08/27 04:43:52.95 0.net
斉が燕を完全に滅ぼさなかった理由は何だろう

237:世界@名無史さん
18/08/27 12:32:44.43 0.net
旨味不足

238:世界@名無史さん
18/08/27 13:40:07.54 0.net
滅ぼしたあとの王家の扱いとかめんどくさいから?
生かしといたら復讐に怯えることになって、虐殺したら悪評うけるとか


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