【イスラム哲学】井筒俊彦を読む at PHILO
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750:考える名無しさん
19/12/22 21:43:11.61 0.net
「インシャッラー(神の御心のままに)」に近いのはメイヤスーの「偶然性」の哲学

751:考える名無しさん
19/12/22 21:44:30.71 0.net
その心は原子論的非理由律

752:考える名無しさん
19/12/29 12:21:43.81 0.net
過去に全き帰依者(ムスリム)であったとしても、今現在全き帰依者でないのならば、全き帰依者とは言えない。
未来に全き帰依者になるとしても、今現在全き帰依者でないのならば、全き帰依者とは言えない。

753:考える名無しさん
19/12/30 15:59:08 0.net
禅の不立文字
ヘーゲルは今ここは絶対的な事実と見えて貧しい物に過ぎないと言った
林の中で今、目の前にある木の知覚、これこそ、この感性的確信こそが真実、真理に見えるがちょっと右を向けば別な木が絶対的なこのものになってしまう
夜中に今は夜だと感覚的確信をどんなに強固に得たとしてもその確信をノートに書き付ける、「今は夜である」と
しかし、時間が立ち昼間みたらそれは間抜けだ

イブン・ルシュドは世界は永遠で始まりも終わりもないし、その個々の物や自然法則は永遠だとして、アリストテレスを支持した
ガザーリは世界は神の創造物であり時間的始まり(天地創造)も終わり(最後の審判)もある
神も立ち入れない絶対的な法則はない
全てはバラバラで原子論的にある
因果法則はヒュームのいう通りにない
神の創造によって神が意味付けたもの以外には

それ以外には真理も絶対的な法則もない
これがガザーリも棹さしたイスラムスーフィズム

754:考える名無しさん
19/12/30 17:23:21 0.net
仏教では禅定を重んじる、戒定慧が根本
戒は心や体や生活を乱す物を慎重に排除する、禅寺での厳しい修行とかイメージすればわかる
残りは心を定め知恵、般若で解脱する
大乗佛教では止観と言う、心を定め(止)周りを観察し(観)解脱する、上座部佛教では同じことをサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と言う
サマタを訳したものが止でありヴィパッサナーを訳したものが観であり、合わせて止観、同じこと
ミャンマーの上座部の偉いお坊さんがいて、上座部の中でも、世界的にも評価されているそのお坊さんが若い頃に修行した
師匠について本格的な座禅を勉強する、その人は頭の良い人でいろいろ仏教の教義を勉強し高いレベルで理解できる人だった、また、小説を書くことが好きだった、本も沢山持っていた
師匠は言った、今まで知ってたことは全て忘れなさい、本は修行場に持ち込むのは許しません、修行場の外に置いておき、期間中は持ち込んだり読んだりすることのないように、ただ座りなさい
悩みができたら相談に乗ります、何でも話なさい、修行法や心の不安などや人生の悩みでも何でも、本を読んだり研究するのは修行が終わった後にいくらでもできます、この修行場で修行している間は全て忘れなさい、ただ座りなさい
座り始めると様々な雑念が頭に入ってくる、頭からわいてくる、次々と想念が渦巻く、小説を構想する
人間は心を落ち着かせる定めるとかなかなかできない
いろいろな雑念から逃れられないが心はだんだん、そういうものに惑わされること自体が馬鹿らしくなる
修行を続ける、座り続けると徐々に落ち着いていく
呼吸を観ている、吸ってる息、吐いている息、それは誰が行っているのか
最初は私や何らかの体がやっているかに見える
また、この息自体が同じものだと、しかし、どの吸う息、吐く息も同じではない、違うが続いている
私もいない
全宇宙が繋がっていて、それが呼吸させていて、そこには意志や主観は必要ない
世界は繋がって分節されず分節する必要がなくただそこにある、これが気付き(念)である
サティと言われ、大乗では念と言われるが、世界の相互関連、相互作用に気づくことだね
固定した客観的な物は存在しない
それを認識する分節化する主体も主観も存在しない

755:考える名無しさん
19/12/30 17:43:32 0.net
気づきはマインドフルネスと訳され大騒ぎになっているものだ
釈迦はあまり気付きの気もちよさに神秘主義に取り込まれるな、三昧に囚われるな、縁起の法を分析せよと言ったがまずは、世界の未分化な相互作用相互移入連続性に気づかないと
ヴィパッサナーだけでいいか、サマタが必要か論争はあったりするが
「どうでもよい」
また、細かくマニュアル化されている上座部か、大乗かとか論争あるが
「どうでもよい」
中身はどうでもよく、捨てないといけない、マニュアルが邪魔になる

ヘーゲルの弁証法も気づいた後の関係主義的縁起の法だ
仏教、実在論否定、無我論
ヘーゲル、唯物論否定、カント式主観主義哲学否定
両者とも三人称否定、一人称否定、関係主義的な共同主観論
唯物論ではなく視点から見た認識が全てだが個人的な囚われた我を否定する
細かい主観や物はいらない、囚われるな、間違っている、分節できない現実が根底にあり、主観主義や客観主義、一人称や三人称は間違いだ

井筒の「スーフィズムと老荘思想」はじめ言っていること
ルシュド=アリストテレスの三人称客観実在論の否定
一人称主観主義、バラバラの原子論のアナーキズム、ニヒリズム否定

禅の不立文字
老荘の万物斉同
仏教の念、サティ
イスラム、スーフィズムは同じ地点だ
以上、井筒思想の概観にして全てな

756:考える名無しさん
19/12/31 00:39:54 0.net
筑紫 「中沢さんはチベットへ行っちゃったり、ものすごいオールド・デイズにはまり込んでいるでしょう。(略)」

中沢 「ぼく、ああいうの全然オールド・デイズだって感じないの。(略)
    どんなにジル・ドゥルーズが現代的哲学者の中でとびぬけているといったって、
    イスラム教のスーフィの書いたテキストであるとか、タントラ密教のテキストとかのグローバルさとくらべてみると、
    やっぱり劣るなという感じがするのね。(略)」

― 『若者たちの神々:筑紫哲也対論集3』 (1987)

757:考える名無しさん
19/12/31 00:40:34 0.net
「器官なき身体」のようなものは、チベット仏教にもある。

URLリンク(samten.seesaa.net)
チベット仏教の「幻身」あるいは「虹の身体」

『智慧金剛集』という書物には
「幻身は、風と心のみから出来ていて、どこにでもあまねく存在し、
肉と骨を離れ、刹那に動き、陽炎のような、蜃気楼のような、
一つなのに多くの現れをもち、空の状態から忽然と出現し、
虹のごとく物質的存在に汚されず混じり合わないで現れる」とある。

758:考える名無しさん
19/12/31 04:20:57.95 0.net
イスラム教も瞑想修行をして解脱をする教えなのですか?

759:考える名無しさん
19/12/31 07:06:59.89 0.net
法華経無内容論というのがある
法華経はこのお経は凄いとコマーシャルは凄いが、何がどう凄いか中身はないと言うのだ、教理が無いと言うのだ
宣伝文、効能書きでどんや効能があるか、それはずらずら書いてあるが肝心の薬が入っていない
ミャンマーの高僧の修行時代と同じ、只管打坐、ただ座れを全ての合言葉にした日本の僧侶に道元がいる
道元は若い頃に宋に渡った
その時の有名な話が二つある
・留学先の年取った坊さんが暑い日に必死に食材の準備の為に汗をだらだら流しながら働いている
そんな仕事はもうあなたほどの人はやらないでいいではないですか、教理問答や勉強してた方がいいではないですか
これが修行だ
せめて今日みたいな日は若い僧侶に任して休んでたらいいではないですか
彼は私ではない
・日本が還る前後に別の老僧が見送りに来てくれた、今日はこのまま、泊まっていったらいいのではないですか、かわりの人はいるでしよう
いや、それは私の仕事であり私の修行だ
それを私以外がやっても意味はない
その道元が最後にひたすら帰依し唱え辞世に残したのは法華経

760:考える名無しさん
19/12/31 07:32:52 0.net
道元が宋に渡った時に師匠に質問して、その問答を書き起こした 道元宝慶記
問答の一つに人は仏性があって救われるはずたが、なら修行したり戒を守る必要はないのではないということになるがそれはおかしいのではないか
プラトンの知者のパラドックスを彷彿させる
知らない人間は知るべきことや知る方法がわからないなら知ることが、できない
知っている人間は既に知っているからわざわざ苦労して知る必要はない
禅の有名な公案に犬には仏性があるか問われて無!と答えたというものがある
犬にしろ、人間にしろ、仏性があるからと安易に思って修行しなければ救われない

しかし、安易にそう答えたら
・儒教や道教は間違っていますが正しいこともあります、仏教はそれを取り込むべきでしょうか、取り込まないべきでしょうか
・普通の仏教と禅宗、どちらが正しいのか、どっちも正しいのなら何故禅宗の修行するのかいらないのではないな
普通の仏教が正しくないなら排斥しないといけないのではないか
・臨済禅はじめ師匠が弟子を殴り恫喝するがそれは正しいのか正しくないのか
宝慶記に書かれている問答の一部だが果てしない問題に巻き込まれる

761:考える名無しさん
19/12/31 07:45:24 0.net
法華経には確かに中身はない
般若経典や、華厳経みたいな空に関する教理や、諸法実相に関する説明がない
哲学がない、哲学を放棄している
仏の妙なる境地は説明ができないと説明している、説明を放棄している
これが法華経

だからいい
気づける
言葉や煩瑣な教理はいらない
邪魔になる
仏の境地は言葉では説明できないということを説明できている
体感できる
だからこそ道元は法華経に深く帰依した

気づいてしまえば何でもないが気づかなければどうしようもないし、それに気づかせることもできない
道元のパラドックスも知者のパラドックスもこういう説明できないという説明しかない

井筒俊彦の言語分節化以前の境地もそういうことだ
祖師達磨は、何故中国にインドから来たのか
答えられるかバカヤロー
それが禅の答えであり、説明できないものは説明する必要はないというのが正しい説明だ

762:考える名無しさん
20/01/01 21:26:09.69 0.net
言語分節化が三人称、一人称の分割を促し、客観主義と主観主義を生み、それぞれの要素還元主義を作り出す
物から直線的に単純に答えが出る物理主義
閉じた主観から一元的に答えが出る観念論
しかし、一つの実験からも様々の理論解釈が成立し、閉じた主観の独我論は他者の理解で困難が生ずる
ヘーゲルや仏教は唯物論及び私の実在論を否定する
井筒の出発点も仏教や老荘、イスラム神秘主義には、実在論を否定し言語分節化を越える
終着点もそこ

763:考える名無しさん
20/01/01 22:07:57.37 0.net
日常的には我々は物が固定的に実在したり、私が強固に実在すると考える
しかし、仏教にしろ神秘主義にしろ、修行すればはじめはそれらに拘束された日常の意識だが、
それを抜け出せる、それらがどうでも良くなる瞬間、物の分節が、私の存在が消える、
主客の分裂が消える神秘体験があるし、それなしにはそれらの思想は意味をなさない
井筒思想はそれに還元される

764:考える名無しさん
20/01/02 11:20:40 0.net
イスラム教も仏教みたいな瞑想や座禅を行うの?

765:考える名無しさん
20/01/02 16:08:32.47 0.net
>>758>>764
解脱ではないが、よく比較されるのが>>463>>338の「アナ・ル・ハック」。
身体的な瞑想として有名なのは、メヴレヴィー教団の旋回舞踊。
URLリンク(www.youtube.com)
宇宙の運行を表す回転によって、神との一体化(神の中への消滅)を図るという。
その他にはズィクルという唱念や観想もあって、
ダルヴィーシュとはスーフィーの修道僧のこと。

766:考える名無しさん
20/01/02 16:09:19.67 0.net
>>765
このメヴレヴィー教団を開基したのが、ジャラール・ウッディーン・ルーミー。
イブン・アラビーと並ぶイスラム神秘主義(スーフィズム)の重要人物。
『ルーミー語録』は井筒が手掛けているが、
ペルシア語のコーランとも呼ばれる『精神的マスナヴィー』は断片的にしか翻訳されていない。

767:考える名無しさん
20/01/02 16:09:49.26 0.net
> ルーミーとはローマの人のことで、後年に住んだアナトリアが以前東ローマ帝国(アラビア語ではルーム)の領土だったことによる

768:考える名無しさん
20/01/02 16:11:17.32 0.net
レファレンス協同データベース
ジャラール・ウッディーン・ルーミー(13世紀の詩人)の詩集が見たい。
URLリンク(crd.ndl.go.jp)

769:考える名無しさん
20/01/02 16:13:24.45 0.net
ルーミーは、こういう「1/fゆらぎ」CDまで買って聴いた。
朗読CD【ただひとつの息吹】より「沈黙の満月」
URLリンク(www.youtube.com)

770:考える名無しさん
20/01/02 16:14:12.00 0.net
>>769の説明にある映画『アースピルグリム』の監督・主演がエハン・デラヴィ>>327なのか。
狭い世界だ。

771:考える名無しさん
20/01/02 16:14:45.17 0.net
隣人みなスーフィー

772:考える名無しさん
20/01/02 16:17:14.89 0.net
『精神的マスナヴィー』の英訳はR・A・ニコルソン>>463
The Mathnawi of Jalalu'ddin Rumi, Vols 1, 3, 5, Persian Text (set)
The Mathnawi of Jalalu'ddin Rumi, Vols 2, 4, 6, English Translation (set)
The Mathnawi of Jalalu'ddin Rumi, Vols 7 and 8, Commentary 2 vol set
Jalalu'ddin Rumi (Author); Reynold A. Nicholson (Author)
Published by : Gibb Memorial Trust

773:考える名無しさん
20/01/02 16:18:07.13 0.net
The Mathnawi Of Jalaluddin Rumi
by Reynold A. Nicholson
URLリンク(archive.org)

774:考える名無しさん
20/01/02 16:20:04 0.net
英語で読むか

775:考える名無しさん
20/01/02 21:37:05.24 0.net
コーランはアラビア語しか認められてないぞ、ハゲ

776:考える名無しさん
20/01/02 22:33:38 0.net
>>765
>>766
ありがとうございます。
イスラム教にも似たようなものがあるということは、イスラム教のゴールも仏教のゴール(涅槃して転生しないこと)と同じなのでしょうか?

777:考える名無しさん
20/01/02 22:35:16 0.net
キリスト教は、仏教の梵天などの最高位の神を父なる神と同じような気がしてます。

778:考える名無しさん
20/01/04 02:52:01 0.net
>>776
> 神を信じる。預言者を信じる。来世を信じる。イスラムの教えは、基本的にこの三つです。
>
> 神とはアラー。預言者とはムハンマドという神のメッセージを伝えた人。
> そして来世は、イスラム信仰の根幹をなすものです。
> イスラム教には仏教的な信仰と違い、輪廻はありません。
> 一回限りの生を生き、死ぬと最後の審判の日に復活して生き返り、
> 来世である天国か地獄に行くのです。来世は永遠に続きます。

779:考える名無しさん
20/01/04 02:55:07 0.net
>>777
セム系一神教の神は外在的。
インドを中心とした東洋の神(スピノザの汎神論も)は内在的。

780:考える名無しさん
20/01/04 02:57:11 0.net
整理するとこうなる。

[西洋] 一神教世界(非対称性、外在的超越、西洋的二元論)
[東洋] アニミズム、仏教世界(対称性、内在的超越、東洋的一元論 )

対称性/非対称性というのは中沢の対称性人類学。
その他は、以下の井上の論文を読んでもらうといい。
このスレではよく西洋と東洋を行き来するから。

781:考える名無しさん
20/01/04 02:58:04 0.net
『明治期アカデミー哲学の系譜とハイデガーにおける形而上学の問題
 ―如来蔵思想とユダヤ・ヘブライ的思惟との収斂点―』

井上克人 (2009)

I 明治期アカデミー哲学の形成―「現象即実在論」

井上哲次郎や井上円了らに代表される明治期アカデミー哲学の特質が「現象即実在論」
にあることは夙に知られている。現象の奥に真の「実在」、すなわち形而上学的絶対者を認
め、しかも「実在」は現象の背後にあるのではなく、その只中に内在するという考えであ
る。これは大乗仏教思想の根幹をなす「本体的一元論」、すなわち外に超越者を想定しない
思考様式である。じつは、この発想の淵源は、『大乗起信論』のいわゆる「万法是真如真如
是万法」という定式にある。東京大学で初めて開設され、原坦山が担当した「仏書講義」
のテキストに選ばれたのが、この『起信論』であった。彼らはその本体的一元論に啓発さ
れ、西洋に対抗して日本独自の「哲学」を提唱しようと企図したのである。

ところで西洋における思考様式は、神と人間、近世以降では認識主観と客観的世界とい
った二項対立的な二元論をその特質としてもつ。それに対し、本体的一元論に立つ『起信
論』は、自体清浄なる「心真如」が自らの清浄心を失うことなく心生滅へと転成していく
「真如随縁」の発想をもつ。妄念にまみれた現象的世界は、一方では「真如」の本然性か
らの逸脱でありながら、同時にそれは「真如」そのものの自己展開に他ならず、真如と妄
念とは「非一非異」の関係にあって、「現象」がそのまま「真実在」なのである。

782:考える名無しさん
20/01/04 02:58:22 0.net
敷衍して言えば、「真如」は、それ自身我々の思惟や言説を絶する〈空・無〉、すなわち
絶対的覆蔵態に他ならないのだが、同時にそれは個々の存在者をあるがままに顕現せしめ
る〈開け〉であって、現象せる個々の存在者の形而上的本体として、それらの根底に伏在
し、あらゆるものを自らの内に摂収しつつ、同時にそれらを本然的にあるがままに開放す
るのである。換言すれば、現象せる個々の存在者は、どこまでも自らを顕現せしめた真如
のうちに在り、逆に、個々のものの存在原因たる真如は、どこまでもそれらの本体として
超越的に自己自身のうちに蔵身しつつ、同時に自ら顕現せしめたすべてのものの中に内在
するのである。これこそ東洋的思惟に共通して見られる〈本体的一元論〉である。つまり
言詮を絶する覆蔵的・超越的に一なる原理がその超越性をどこまでも維持しながら、自己
内発的に自己展開し、万物の中に自らを内在化させていく論理、一なる本体とそれが起動
展開する派生態、つまり「体と用」(本体とその作用)の論理であり、「内在と超越」の論
理であった。したがって、超越といっても、「外」に超越したものではなく、「内在的超越」
という構造をもち、これこそ西洋的二元論の思考様式とは異なる「東洋的一元論」なので
あって、いわゆる京都学派の哲学も、この系譜を引くものなのである。

783:考える名無しさん
20/01/04 02:58:41 0.net
II ハイデガーにおける「神学の由来」と西田哲学に伏在する如来蔵思想

さて、以上のような形而上学的一元論の発想は、新プラトン主義の流出論ときわめて類
似した考えであって、それはヘレニズム化したキリスト教、すなわち東方正教会の淵源と
なったものである。それにひきかえ、ラテン的西方教会は、むしろユダヤ・ヘブライ的二
元論の伝統に立脚し、神はどこまでも「隠れたる神」であって、契約で結ばれた神と人間
との間には深い断絶がある。他方、東方正教会の基本的特質は神の顕現(現前性)の強調
と「人間の神化(テオーシス)」にあり、神と人間とは一つに結びついていて、
これは「一切衆生、悉有仏性」を標榜する大乗仏教と通底している。

ところでハイデガーは、自らの「神学的由来」である「新約的」キリスト教の立場から、
同じ西方でありながら新プラトン主義化したアウグスティヌスのキリスト教を論難し、延
いては西洋の形而上学全体にわたってそれを「存在忘却」に基づく「存在−神−論」とみ
なし、その超克を企図したが、彼のいう「存在−神−論的体制」は、東方正教会にこそそ
の最たるものがあるのであって、ハイデガー自身、存在を問うという極めてギリシア・ヘ
レニズム的な思考を展開させながら、存在そのものがもつ覆蔵性に基づき形而上学を超克
しようとする彼の思索の淵源には、ザラデルが指摘しているように、彼自身それに気付く
ことのなかったユダヤ・ヘブライ的発想が根深くあったように思われる。それは現前性の
底に顕現せざる超越的他者を想定するという、非ギリシア的発想なのである。
一方、『起信論』が説く本覚思想を「現象即実在論」として哲学的に開陳したアカデミー
哲学の本体的一元論の「形而上学」の系譜を引きながら、それを乗り越えるかたちで、同
じくその如来蔵思想に見る「真如」のいわば覆蔵性がもつ〈超越的他者性〉を「逆対応」
という発想によって論理化しようとした点に西田哲学の優れた特質がある。
西田とハイデガーとは、ともに「顕現せざるもの」への着眼によって形而上学を超克する
ところに共通点があるといえよう。

URLリンク(heideggerforum.main.jp)

784:考える名無しさん
20/01/04 03:01:19 0.net
>>765のズィクルを中心にみると、
正教のヘシュカズム>>355とイスラムと真言密教>>360が比較できる。

785:考える名無しさん
20/01/04 03:56:42 0.net
>>778
イスラムでもドゥルーズ派やアラウィ派には輪廻がある。

786:学術
20/01/04 18:33:11 0.net
客観は世界の方で、主観は先祖の方だ。過去に汚染される危険思考。

787:学術
20/01/04 18:36:26 0.net
両方とも過去で人間を汚す。

788:学術
20/01/04 18:36:57 0.net
主観が未来 客観が過去に属さないといけない。

789:考える名無しさん
20/01/07 23:26:15 0.net
“ホメイニーが当時のソビエト連邦の書記長ゴルバチョフに、イスラーム世界を理解するためには、
 イブン・アラビーやイブン・スィーナーの思想を理解することが重要だという旨の書簡を送ったという一事に端的に現れている。
 ホメイニーの中では、その革命とイブン・アラビーの思想は通底するものがあったのである。
 彼らにおいては、イブン・アラビーの思想と、社会変革実践活動は深く結びついていたと考えなければならない。”

― 『イブン・アラビー学派文献目録』 「序論」 東長靖、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科附属イスラーム地域研究センター (2010)

790:考える名無しさん
20/01/08 01:27:26.09 0.net
映画『シャルギー(東洋人)』が観れなかった人には、この本がある程度代わりになる。
著者は、映画の中で井筒の紹介の中心的役割を担っていたイラン人研究者。

“以前、私はテヘラン国際ブックフェアに行き、テヘラン大学出版社の展示室にあった諸々の本を見ていた。
 いきなり、ハーメネイー師がブックフェアにいらっしゃり、視察していることに気付いた。
 ハーメネイー師がテヘラン大学出版社の展示室に至った時、
 井筒が書き、テヘラン大学出版社によって出版された『ザブザワーリーのヒクマ(叡智)の基礎』を彼は見た。
 そして、彼は私に、なぜ井筒氏はイランに戻らないのかと尋ねた。(メヘディー・モハッゲグとの対談より)” 8章
“井筒とナスルは日本と東アジア研究所の設立のために、2,000冊から3,000冊の本を日本から購入し、哲学アカデミーの図書館へと納入させた。” 11章
― 『井筒俊彦の比較哲学:神的なものと社会的なものの争い』 バフマン・ザキプール、知泉書館 (2019)

791:考える名無しさん
20/01/08 01:27:59.78 0.net
>>790
ハーメネイー師はホメイニー師の後を継いだ現イランの最高指導者。
このナスルという人物は、マギル大学で一緒だった井筒をイラン王立哲学アカデミーへ誘った。
更に、哲学アカデミーでは井筒に東洋思想をやることを勧め、その結果の一つが『老子道徳経』の英訳。

792:考える名無しさん
20/01/08 01:28:40.68 0.net
S.H.ナスル 『イスラームの哲学者たち』 黒田寿郎、柏木英彦 訳、岩波書店 (1975)
これも良書。

793:考える名無しさん
20/01/08 01:29:42.89 0.net
“井筒の東洋哲学は哲学の中心を欧州からアジアへ移すのに貢献するでしょう” ロバート・ウィスノスキー (カナダ イスラム学者)
“我々イラン人は日本人以上に井筒を高く評価しています” バフマン・ザキプール (イラン 哲学者)
“井筒の東洋哲学は、根底でいろんな宗教のおおもとのところで鳴り響いている和音みたいなものを取り出そうとした。
 その響きには、構造、論理、論理を超えた何かがある。
 世界中に分かれてお互いに対立し合う宗教も、おおもとまでたどっていくとあらゆる宗教が行き来できる。
 イスラム教も仏教もいろんな宗教が自由に行き来できる領域を探ろうとした。” 中沢新一
― BS1スペシャル 「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」 20191108

794:考える名無しさん
20/01/08 01:31:01.87 0.net
>>793
『シャルギー(東洋人)』の中では、井筒がムスリムでないことにも言及されていた。
その一歩引いた視点からの考察が、イスラム世界でも高い評価を得ているとのこと。
そのことを踏まえた上で、このザキプールの評はパンチがある。
井筒が何をやったのかという説明としては、この中沢の評が一番的確。

795:考える名無しさん
20/01/08 03:23:26.21 0.net
『シャルギー(東洋人)』はイラン制作の2時間10分の映画だから、半分ぐらい寝るだろうと思っていたが、とんでもない。
100名以上の知識人によって、井筒の生涯と思想のディテール、イラン人から見た大東亜共栄圏の検証、昨今の国際政治の状況までもが、
神学と言語意味論(セマンティクス)と分析哲学を織り交ぜて語られる。
井筒のテクストと同じぐらい高度で緻密な内容を、毎秒字幕で読まされるわけだから、
メモを取る暇もないどころか、まばたきもしないようにして観なければならなかった。

796:考える名無しさん
20/01/08 03:26:34.41 0.net
井筒自身は政治を語らない人だったが、出演していた日本人研究者の一人は、
「井筒が政治について言及していてくれていたら、後の人はもっと楽になった」ということを言っていた。
それはそうだろう。哲学の世界で、前人未到の領域へ到達した人だから。

797:考える名無しさん
20/01/08 05:49:48.26 0.net
>前人未到の領域へ到達した人
理解できる前人未到=超人
理解できない前人未到=キチガイ
だが超人は、キチガイを自分より遥か上の存在と見ている、おまえらが無能なだけ。

798:考える名無しさん
20/01/09 01:37:34 0.net
>>797
日本語でおk

799:考える名無しさん
20/01/09 02:05:53 0.net
イブン・アラビー(1165-1240)はムウタズィラ派やアシュアリー派といった思弁神学を批判し、神の名で呼ばれる以前の絶対無分節的無と、そこからの神の自己顕現(タッジャーリ)を策定した。

「思弁は諸存在物と結びついている」ため、その関係を断ち切り、思弁の垢から心を浄めるべく、タッジャーリを観照する場として「心」の機能を重視した。

参考:
相樂悠太 「理性と「理性の限界の向こう」:『マッカ開扉』にみるイブン・アラビーによる他説との知的対話」 『宗教研究 第93巻 396』 日本宗教学会(2019.12)

800:考える名無しさん
20/01/09 02:07:08 0.net
カントの理性批判とメイヤスーの切断論を合わせたようなことをやっている

801:考える名無しさん
20/01/24 15:34:52 0.net
幸運の恩恵を受けた者が、幸運の恩恵を受けられなかった者をどうバカにすることができよう。

アラー・アクバル!(神は偉大なり)

802:考える名無しさん
20/01/29 02:02:03 0.net
「老子」各種翻訳

・『老子』 小川環樹、高木智見、中公クラシックス (2005) 原文、書き下し、訳文
・『老子』 福永光司、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『老子』 蜂屋邦夫、岩波文庫 (2008) 原文、書き下し、訳文
・『老子道徳経(英文著作翻訳コレクション1)』 井筒俊彦、慶應義塾大学出版会 (2017) 原文、書き下し、訳文
・『老子 無知無欲のすすめ』 金谷治、講談社学術文庫 (1997) 原文、書き下し、訳文
・『エッセンシャルタオ 老子』 加島祥造、ちくま文庫 (2005) 原文、訳文
・『老子<全> 自在に生きる81章』 王明、地湧社 (2005) 原文、訳文

803:考える名無しさん
20/01/29 02:02:19 0.net
「荘子」各種翻訳

・『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 外篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 雑篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 内篇 [中国古典選]』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 外篇 [中国古典選] 上中下』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 雑篇 [中国古典選] 上下』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 第1冊 内篇』 金谷治、岩波文庫 (1979) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第2冊 外篇』 金谷治、岩波文庫 (1979) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第3冊 外篇・雑篇』 金谷治、岩波文庫 (1982) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第4冊 雑篇』 金谷治、岩波文庫 (1983) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 全訳注 上下』 池田知久、講談社学術文庫 (2014) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 中国の古典 上下』 藤堂明保、池田知久、学研 (1983) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 全釈漢文大系 上下』 赤塚忠、集英社 (1980) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 1・2』 森三樹三郎、中公クラシックス (2001) 書き下し、訳文

・『荘子(中国の古典)』 野村茂夫、講談社 (1987) 抄訳、原文、書き下し、訳文、全体の1/3

・『荘子[中国の思想]』 岸陽子、徳間文庫 (2008) 抄訳、原文、書き下し、訳文

・『荘子 新訳』 岬龍一郎、PHP研究所 (2013) 抄訳、書き下し、訳文

・『荘子 ヒア・ナウ』 加島祥造、パルコエンタテインメント事業局 (2006) 抄訳、訳文

804:考える名無しさん
20/01/29 02:03:34 0.net
老荘的な語法は、絶対無、分節化/無分節化論、存在の解体構築論など、
井筒哲学の骨格ともいうべき大きなウェイトを占めているので、早めにやっておくのがいい。

805:考える名無しさん
20/01/29 02:04:10 0.net
ハイデガーやデリダの存在解体/再構築にあたる作業を、
荘子は分節化/無分節化(限定/無限定)という形でやっている。


“物を物としてあらしめる道は、物に対して限定を設けないが、物相互の間には限定があり、それを物の区別という。無限定な世界から有限の世界があらわれ、有限の世界がまた無限定の世界へと移ってゆく。”
“物物者。與物無際。而者有際者。所謂物際者也。不際之際。際之不際者也。(知北遊篇第二十二 6)”

― 『荘子 外篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)

806:考える名無しさん
20/01/29 02:04:30 0.net
次の「畛」は、田のあぜ。そこから転じて、区切り・境界をいう。
ラカンはこれと同じ役割を「クッションの綴じ目 (ポワン・ド・キャピトン)」に例えた。(ラカン『無意識の形成物[上]』)


“そもそも道にはもともと境界などなく、ことばにはもともと固定した意味などない。そこから〔道がことばによって表象されるようになると〕区別が現れるようになった。”
“夫道未始有封。言未始有常。爲是而有畛也。(斉物論篇第二 5)”

― 『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)

807:考える名無しさん
20/01/29 02:05:17 0.net
「無無無」が定立される箇所。


“有ということがあるし、無ということがある。またもともと「無ということ」はないということがある。またもともと「無ということはないということ」はないということがある。”
“有有也者。有無也者。有未始有無也者。有未始有夫未始有無也者。(斉物論篇第二 4)”

― 『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)


荘子は有ることと無いことの根源的前提を考えようとした。

解説は以下を参照。
『荘子 内篇(中国古典選 12)』 福永光司、朝日新聞社 (1978)

808:考える名無しさん
20/01/29 02:59:02 0.net
>>173などは特に老荘的な表現。


・《老子》第1章に〈玄のまた玄,衆妙の門〉とあるように,存在の根源にある幽遠にして神秘的なものをあらわす。
・微妙で奥深いこと。深遠なおもむき。
・玄の字は黒い糸を束ねた形で、かすかで見にくいところから天の色とされ、また北方の色とされた。
・赤または黄を含む黒色。

809:考える名無しさん
20/02/07 01:51:09 0.net
>>173
井筒の「存在-神-論(Onto-Theo-Logie)」は、
老荘+ハイデガーの現象学的存在論+デリダのロゴス中心主義の解体。

810:考える名無しさん
20/02/07 06:02:22 0.net
かす(微/幽)かで分かりにくい違いを見事に捌いて見せるからこそ玄人なのでわ?

811:考える名無しさん
20/02/07 06:39:29 0.net
603 :考える名無しさん:2016/01/24(日) 09:45:22.05 0
>>594
構造主義に関連して日本では、一時、ソスュールの「言語には差異しかない」
という発言を引用することが流行ったが、これはとても誤解を招きやすい表現
であり、記号論を理解する妨げにもなっていると思う。記号論としてより妥当
な表現をするなら、「弁別作用の働かない言葉は、物事を区別するのに役立た
ない」というべきだろう。そして、物事を区別するのに役立たない言葉は、
使われなくなるか、「役に立たないことが有用である」限りで使われるのである。
したがって、言葉は、弁別作用を獲得すること/失うことによって絶えず変化しているのである。その変化しつづける弁別作用を、やはり変化しつづけている自らの言葉を用いながら捉えることが、解釈の営みであり、記号論のプロセスなのである。

812:考える名無しさん
20/02/07 08:36:45.74 0.net
>>808は幽玄の玄

813:考える名無しさん
20/02/07 08:44:05 0.net
能の翁=神

金春禅竹『明宿集』における翁論(翁wikiより)

> 抑翁ノ妙体 根源ヲ尋ネタテマツレバ 天地開闢ノ初メヨリ出現シマシマシテ [中略] 垂跡ヲ知レバ 歴々分明ニマシマス
>
> (そもそも「翁」という神秘的な存在の根源を探究してみると、宇宙創造のはじまりからすでに出現していたものだということがわかる。 [中略] こういう神としての示現(垂迹)を知れば、ますますいろいろなことがわかってくる。)

814:考える名無しさん
20/02/07 08:45:02 0.net
>>806
>次の「畛」は、田のあぜ。そこから転じて、区切り・境界をいう。

畛 ピンインzhěn ((文語文[昔の書き言葉])) (田の)畔道.

これを同じ発音の表現と比べて見るとすぐに分かるが、
「畛 ピンインzhěn」が表しているのは、「目が詰まっていること」
だから、境界として高く盛られた土が固められている様子を表して
いるのだろう。

缜(稹)ピンインzhěn
((文語文[昔の書き言葉])) 細かい,緻密である.
鬒(黰)ピンインzhěn
((文語文[昔の書き言葉])) (頭髪が)濃くて黒い.

815:考える名無しさん
20/02/07 08:53:24 0.net
さらに、この発音は、「真実」の「真」にも近い
真 ピンインzhēn

すると、「真実」の「真」は、「中実である」こと、すなわち、
「中身が詰まっている」ことを表していたのだろうと推測できる。

816:考える名無しさん
20/02/13 17:13:06 0.net
>>808
老荘に限らず中国思想だろうな
玄は「黒」「闇」などの意味を持つ
五行思想では「水」行が五方では「北」、五色では「黒」または「玄」となる
北方を守護する神を玄武という

817:考える名無しさん
20/02/13 18:05:10 0.net
「北(きた)」は、日本語では、「きたな(穢/汚)し」の「きた」でもある。
この場合、「〜なし」が表現しているのは、程度の甚だしさであり、
「きた」は、英語で表現するなら"darkness"を表している。

818:考える名無しさん
20/02/14 00:53:30 0.net
>>814-817
お子様ランチのハンバーグではなく、つけあわせのコーンとパセリの批評かな?

819:考える名無しさん
20/02/14 01:00:50 0.net
「ぼくが知ってる漢字の話」?

820:考える名無しさん
20/02/14 09:08:23 0.net
>>816は、別の人ですね
私には、「きた(北)」は、表現としてよく分からないけど、
「ぼくが知ってる漢字」から推測してみると、「きた」の
「き」は、中国語の"qi(ピンイン表記)"に対応しているの
ではないかと思う。"qi(ピンイン表記)"は、「チィー」
と発音されて、「き」とは似ていないように思えるけど、
"qi(チィー)"と発音される漢字の多くは、日本語の発音
では、「き」と読まれている。
URLリンク(cjjc.weblio.jp)

821:考える名無しさん
20/02/14 09:15:39 0.net
「きた」の「た」が、「ひな・た(日向)」や「かな・た(彼方)」の
ように方向としての「た(手)」を表していると想定してみると、
「きた(なし)」のように、「きた」は"darkness"を表現するように
用いられているのだから、"qi(チィー)"と発音される中国語の
表現のなかでも、「漆黒」の「漆 ピンインqī」辺りが有力候補
に挙がりそうな気がするけど、どうだろう。

822:考える名無しさん
20/02/14 09:17:49 0.net
ところで、「けた」と読まれる気多(けた)大社の「気多」は、
「きた(北)」とは無関係なのだろうか。

823:考える名無しさん
20/02/14 16:55:33 0.net
URLリンク(cjjc.weblio.jp)漆漆的
?漆漆
状態詞

日本語訳真っ暗
対訳の関係部分同義関係
?漆漆の概念の説明
日本語での説明 真っ暗[マックラ]
まったく暗く,何も見えないこと

824:考える名無しさん
20/02/14 21:49:53 0.net
>>820-822
邪魔だから語源板でやってこい

825:考える名無しさん
20/02/18 16:10:56 0.net
>>820で言っているキの音は「団音」、
>>821で言っている漆の字はシツの音で語頭は「尖音」、tsiツィのような音
中国語で両者の区別がなくなりどちらもqiチになったのは新しく、
ここ数百年の変化だ(尖団の合流と言う)
古代においては別の音として区別されていたので、qiの音で一律に語源を解くのは誤りだ

826:考える名無しさん
20/02/18 16:29:03 0.net
>古代においては別の音として区別されていたので、
>qiの音で一律に語源を解くのは誤りだ

『古代の日本語』が音韻変化に基づいて中国語から派生したと想定
するのなら、そのように「明確な誤りを指摘する」ことができるの
でしょう。ところが、現代の日本語を見れば、日本語は、英語の
表現を大々的に流用している。ところで、英語において、"l"と
"r"の発音、「b」と「v」の発音の区別は、はっきりしているが、
日本語において流用される場合、その区別は消失してしまう。

ここで私は、私が単にふと思いついた連想による推測が正しいと
主張しているわけではない。そうではなく、古代において中国語
で区別されていたという事実は、連想によって可能性を探る妨げ
にはまったくならないことを指摘しているまでです。

特に、「時系列」に囚われる考え方は、それ自体が罠に陥る
可能性が高い。というのも、それは、「系統論」的な考え方
を暗黙の規範として前提としているからだ。

827:考える名無しさん
20/02/18 16:41:21 0.net
「歴史的な中国語の変化」の研究が規範として存在し、それに照らして
見ると、「中国語から日本語が派生したとは考えられない」というのは
確かでしょう。中国語と日本語の間にもしそのような派生関係を裏付ける
音韻的な関係が存在するのなら、そのような関係はとっくに実証されて
いたはずだ。しかし、私が主張しているのは、そのようなことではない。
私は、日本語が中国語から派生したと言っているのではなく、日本語が
中国語の表現を「流用」することによって、つまり、中国語の規範を
離れて勝手な体系を作り上げることによって成立したと言っている。
その場合、流用された中国語の表現は、規範に則って中国語に合わせる
ように修正力が働くものではなく、もともとの発音がその時代の
権威ある中国語の規範を外れていたとしても、それを使う人々の間で
通用するように使われることによって規範化したことになる。

828:考える名無しさん
20/02/18 16:47:24 0.net
現代の日本語の表現において英語に由来する「外来語」の表現は極めて多いが、
その発音において英語としての弁別性が無視されているだけでなく、英語の発音
の規範どおりにそれが発音されても、英語を母語とする人々にはまったく意味を
成さない「和製英語」も数多く含まれている。

829:考える名無しさん
20/02/18 16:57:32 0.net
>tsiツィのような音中国語で両者の区別がなくなり
>どちらもqiチになったのは新しく

例えば、時代的変化、地域差を無視したとても大雑把な見方から、
スペイン語とポルトガル語を比べてみても、いずれの言語に
おいても"l"と"r"の区別は消失していないが、対応する言葉で
"l"と"r"が入れ替わっているものがある。時代的な変化を
研究することは、それ自体で重要でしょう。しかし、そのような
入れ替わりが生じたり、その発音が、それを母語としない人々
によって使われたときに区別が消失してしまうことがある
ことは、それ自体が「流用」について「可能性を探る」場合の
重要な手がかりとなる。

830:考える名無しさん
20/02/18 17:07:22 0.net
最初から留保をつけているとおり、
>私には、「きた(北)」は、表現としてよく分からない

しかし、それが「き(=dark)た(=side)」を表している可能性は
十分にあるだろうと思っている。ただし、「きた」が「暗さ」を
表すように用いられている表現は、「きた・なし」の他には
簡単に例が見当たらない。そこで、この「き」という発音の
用法にはどのような由来が考えられるのか、その可能性をオープンに
探っている。

831:考える名無しさん
20/02/18 18:21:22 0.net
「気(qi/チ)」の発音と「漆(tsi/ツィ)」の発音が一緒に
日本語に取り込まれて「き」の発音において混同されて
用いられるようになったという証拠はどこにもない。
したがって、「きた(北)」の「き」が「漆(tsi/ツィ)」
に由来する可能性があるのではないかというのは、連想
によって根拠のない憶測を述べているに過ぎない。

ところで、日本語では、外来語であっても「チ」と「ツィ」
の発音を区別しない。だから、「ツィゴイネルワイゼン」
と書いても、「チゴイネルワイゼン」と発音されるし、
ギリシャ首相を務めた「アレクシス・ツィプラス」の場合
などは、どうせ日本語では発音が区別されないので、新聞
でも「チプラス」と表記していた。

「気(qi/チ)」と「漆(tsi/ツィ)」が同時に日本語に取り込ま
れたのであれば、「気(qi/チ)」は、「き」と発音される
ようになったのだから、「漆(tsi/ツィ)」も同じく「き」と
発音された可能性は排除できないだろうと思う。ただし、
繰り返すが、私は、実際にそうであったと主張しているわけで
はない。

832:考える名無しさん
20/02/19 01:37:43 0.net
>>826-831
井筒の本は読んだことがあるのか?
井筒がどこでそんな語源や音韻の話をしている?

833:考える名無しさん
20/02/19 13:16:44 0.net
井筒の本は、「意識と本質」とか、全集の一部とかを読んだことがある。
井筒訳のコーランと解説本の「コーランを読む」も読んだことがある。
でも、内容はあまり覚えていないな。

834:考える名無しさん
20/02/19 13:26:41.01 0.net
>>826-831
中国語から現代日本語への「音の流用」などと言う現象は実際には起こっていない
それは言葉の歴史に反する
あなたの脳内でただ連想が起こったと言うだけ
系統の異なる言語の間の話だから、系統論が関係ないのは当たり前だ

835:考える名無しさん
20/02/19 13:42:22 0.net
>>831
違う違う、全然違う
「気」は唐代の中古漢語音でキ、日本漢字音でもキ、
「漆」は中古音でツィッtsit、日本漢字音でシツ、
古代日本語のサ行は破擦音だったので、これは唐代の音をかなり忠実に写している
「漆」の音は中国北方では宋〜元頃に後部の詰まる音(入声韻尾)を失いツィtsiとなる
中国北方で「気」キと「漆」ツィが共にチという音になり、区別がなくなったのは、
17世紀頃だろうと言われている。これが尖団の合流。
「気」をキと読む日本語の方が古い中国語の音を保存しているのだ
「気」をチと呼ぶようになった北方中国語の方が、新しく起こった音変化を反映しているのであり、
逆ではない

836:考える名無しさん
20/02/19 14:16:56 0.net
>中国語から現代日本語への「音の流用」

わざとだろうけど、私は「音の流用」なんてことは
どこにも書いてませんよ。

837:考える名無しさん
20/02/19 14:52:43 0.net
>>835
中国語は、権威のある言葉として日本に入ってきたのだから、
中国語から直接に取り入れられたことが明らかである表現について、
その中国語と日本における漢語の対応関係があるのは当然のことでしょう。
それについて、中国語の系統学的な研究は重要であるし、
その知見に基づいた見解を明示的に書き込んでくれることは歓迎します。

私は、別に自分の連想によるちょっとした思い付きが間違っていない
などとは思っていないのです。ただし、中国大陸から入ってきた言葉
の日本語形成における利用の可能性を探る際に、中国語の系統学的な
研究は、探求の道を塞ぐ妨げとして用いられるべきではない。
というのは、古代において大陸から入ってきた「中国語」は、
現代に系統学的な研究において対象とされる「中国語」よりも
はるかに多様であったと考えられるからです。大陸からの言葉の
表現の流用として広く通用するようになっても、それが中国
大陸において中国語として通用しないなら、それが、大陸から
の言葉の流用であったことは忘れられ、権威のある「中国語」
として用いられる漢語との対比において、日本の現地の言葉
となる。そのような流用が生じることは、人々の接触において
自然なことであり、それについて、系統学的な研究は、あまりにも
盲目なのです。

838:考える名無しさん
20/02/19 15:12:25 0.net
発音の変化の系統学的な研究は、発音の変化をあたかも物理学的な
変化であるかのように扱いがちだが、発音は、表現のために用いら
れるので、どのように発音が変更されるかは、表現の意図と結び
ついている。

例えば、英語でもポルトガル語でも"l"によって表記される発音
が、日本語に移せば「ウ」または「オ」で表記される場合が
多くある。一時流行った、「アンビリバボー」というのが
一例である。もともとは、日本語において「アンビリーバブル」
と発音されるものとされていたが、語末の「ル」の発音が
英語を母語とする米国人の発音とかけ離れており、より
近い発音に聞こえるようにそのように変更されたのだろう。
では、日本語において、「ウ」または「オ」の発音は、"l"が
「ル」で表記される場合のような「ル」の発音に変化しうる
だろうか。そのように問うなら、普通は否定的な答えが
返ってくるだろう。

839:考える名無しさん
20/02/19 15:26:21 0.net
最近テレビで流れている不動産仲介会社のCMで、ブタのぬいぐるみが、
「エイブル」という社名を「エイブー」と発音し、それを女性が
「エイブル」と「きちんと発音する」ように訂正する内容のものがある。
これは、「アンビリバボー」をはじめ、英語から取り入れられた
外来語において「〜ブル」という発音は誤りで、「〜ブー」または
「〜ボー」と発音するのが「正しい」とする風潮に抵抗するものだろう。

人は通用する規範が与えられると、それに過剰適応することがしばしば
あり、「エイブル」という固有の社名でも「エイボー」または「エイブー」
の方が正しいはずだと感じてしまう。だが、企業にとっては、自社の
社名は固有の名称なのだから、日本国内で営業している以上、英語として
の発音の一般的な正しさに適応しようとする必要などないのである。
だから、「エイブー」は誤った発音であり、「エイブル」が正しい
ことになる。ところで、逆に日本語は日本語としてきちんと発音しま
しょうという風潮になれば、「〜ブー」または「〜ボー」は、
「〜ブル」だったのではないかという類推が働いて、もともと、
「〜ブー」または「〜ボー」であったものが、「〜ブル」に訂正
されるという過剰適応が行われるようなことも、言葉の使用の変化
においては、常に生じる可能性があるのである。

840:考える名無しさん
20/02/19 17:08:04 0.net
>>837
意味不明。あなたはせいぜいここ数百年の間に起こった音変化を連想の素材にしているだけ
それを古代の多様な中国語と考えるのは事実に反する
事実を思考の妨げと考えるのなら、古代だのより古いだの言わなければいい
時系列に沿った事実の探求には、それなりの先人の科学的思考の蓄積があるのです
連想に基づいたポエムを書きちらしたいだけなら、科学と衝突するような言葉を使わなければいい

841:考える名無しさん
20/02/19 18:52:16.44 0.net
>時系列に沿った事実の探求には
それは、残された資料に見られる事実を推測により時系列で
互いに関係づけたものであって、それとは別の関係を排除する
ために利用できるようなものではないでしょう

842:考える名無しさん
20/02/19 23:15:16.73 0.net
>>833
読んでいる内に入らない

843:考える名無しさん
20/02/20 01:14:50.40 0.net
>>775のデブは、ルーミーを開いたこともないし、
学術に至っては、何を批判したらいいのか検討もつかない

844:考える名無しさん
20/02/24 09:55:18.96 0.net
人はよく「ま(目)ちが(違)ふ」から、手で触って「た(手)しかめ」ようとする。

845:考える名無しさん
20/02/24 10:06:59 0.net
「うたが(疑)ふ」という表現は、「うた+か(交)ふ」と分解して解釈する
ことができ、岩波古語辞典においてもそのように説明されている。
この「うた」が、「うた(歌)」や「うたた(転)」と共通していることも
岩波古語辞典で指摘されるとおりだろう。だが、そのことから、
「うたがひ」が「自分の気持ちをまっするに表現する意」を表して
いるとする同辞典の解釈は完全に誤っている。というのも、
既に別の機会に指摘したとおり、「うた(歌)」や「うたた(転)」の
「うた」自体が「う(≒表面)+た(≒(手などで)触れる)」として
さらに分解されるからである。

846:考える名無しさん
20/02/24 10:12:17 0.net
「う(≒表面)+た(≒(手などで)触れる)+か(交)ひ」は全体として、
フランス語で表現するなら、試行錯誤としての《tâtonnement》
を表している。実際、「うたがふ」という動詞の意味は、
フランス語の再帰表現、"se tâter"にほぼそのまま対応する
だけでなく、発音のイメージにも共通性を見ることができる。
URLリンク(www.larousse.fr)
se tâter
Être indécis, s'interroger sur la conduite à tenir.

847:考える名無しさん
20/03/06 23:35:47 0.net
井筒は「ポスト構造主義の乗り越え」の必要性を説き、
自身もいくつかの例を断片的に示してはいたが、生前にその次のパラダイムを目にすることはなかった。


“構造主義(Structuralism)勃興以来、いわゆるポスト構造主義を経て、
 今やそのポスト構造主義の彼方への乗り越えすら云々されております”

― 井筒俊彦 「言語哲学としての真言」 (1984年、高野山での講演)


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