【イスラム哲学】井筒俊彦を読む at PHILO
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700:考える名無しさん
19/10/04 19:57:31.85 0.net
三人称と一人称は違うのか
あなたはある料理を知ることができる
その材料、そのレシピ、調理法を知ることができる
客観的に
その料理を食べる
その味、クオリアを食べたことのない人間に説明できるか
三人称客観では説明できない一人称主観の領域は実在する

701:考える名無しさん
19/10/04 20:01:37.24 0.net
統合失調症の文章って長いだけで本当に内容ないんだな

702:考える名無しさん
19/10/04 20:30:00.20 0.net
いや、主著の意識と本質の「本質」とは何か
何が問題なのか噛み砕いて説明しているんだが
これでピンとこないならあんた見込みないよ

703:考える名無しさん
19/10/04 20:40:33.04 0.net
三人称客観で全てが理解できるなら何も問題はないだろ
物を集めて線形に理解が成立するか否か
そうじゃないから哲学は対立が生ずる
ルシュドとガザーリ
哲学における根本的な対立があるから井筒もそれを取り上げる
で解決のパターンは三人称で全て解決派閥
一人称絶対派閥
井筒は三人称と一人称の対立を止揚する派閥
禅仏教持ち出し主客未分に立つのもそういうこと
井筒解釈としてはごく普通の当たり前
ここまで噛み砕かないから何か勿体づけたわけのわからない解釈かはびこる
井筒解釈としては捻りも糞もない構造的にどうやってもこうなる必然

704:考える名無しさん
19/10/04 21:01:49.97 0.net
噛み砕いて説明w
能力もないくせに説明も糞もないだろ

705:考える名無しさん
19/10/04 21:14:52.94 0.net
>>704
ガザーリとルシュドの違いも
本質存在と事実存在
物理主義とクオリアの問題もわからないの?
馬鹿なの?死ぬの?

706:考える名無しさん
19/10/04 21:19:20.21 0.net
ちゃんと哲学者の自己矛盾やクオリアに関する論争くらいは理解してからこいよ
井筒はそういうものを踏まえて、あるいは予測して書いてんだから
それがわからないなら井筒は理解できないし、ここに書いた当たり前の事も意味不明だよな
要するに馬鹿は死ね

707:考える名無しさん
19/10/04 21:20:33.13 0.net
704みたいな馬鹿には説明も何も無意味だよな
馬鹿は死ね

708:考える名無しさん
19/10/04 21:21:11.42 0.net
自分は分かってるつもりだけのタイプだな
それが通じなければ罵倒

709:考える名無しさん
19/10/04 21:23:10.71 0.net
>馬鹿は死ね
自分の言うこと受け入れな死んで欲しい幼稚園児レベルだな

710:考える名無しさん
19/10/04 21:45:43.94 0.net
いやさ、食について三人称でレシピやなんか知っても味は説明できないよね
あんだすたん?

711:考える名無しさん
19/10/04 21:48:53.21 0.net
>>710
それが馬鹿は死ねとか言うのとどういう関係があるの?

712:考える名無しさん
19/10/04 21:54:23.13 0.net
>>710
君がイラついて馬鹿は死ねと願望を述べることと客観的三人称と同列だと思ってるんw

713:考える名無しさん
19/10/04 21:55:13.97 0.net
三人称で説明できること記述できることとクオリアにはギャップがある
世界は本質、内的規定で、であるとして説明できることと
一人称として「がある」で説明できることはギャップがある
同じことをカントは観念上の貨幣は内的規定は同じだ
しかし、観念上の貨幣は使えない
事実存在と本質存在は違うと説明した
しかし、この説明は問題があって貨幣は実体的である必要はない
紙幣でも通帳上でも電子通貨でも信用あればいいし、実体的価値はいらない

714:考える名無しさん
19/10/04 22:00:06.98 0.net
ルシュドは三人称の本質、内的規定が在るとした
ガザーリはない、全ての物と物は関係ないとした
神が関係づけるから物は意味がある
一人称でしか神とは関係ない
ルシュドは認めない
世界の事実の裏には必ず本質が内的規定がある
これがイスラム哲学の本質問題

715:考える名無しさん
19/10/04 22:04:52.52 0.net
で、三人称と一人称の対立の前
ソシュールの分節化の前がある
ここでソシュールや禅が要請される
イスラムの翻訳者が仏教やソシュールらデリダを持ち出す理由
三人称と一人称
クオリアとかの基本がわからないと何故禅や脱構築が井筒に出てくるかわかるわけがない

716:考える名無しさん
19/10/04 22:26:13.44 0.net
井筒がなんでガザーリ持ち出してんのか
イスラム哲学論じてんのか考えたことないの?
ただなんとなく格好良いから?

717:考える名無しさん
19/10/05 13:05:13.04 0.net
何が正しいか、どうすればよいのか、それがわからなかった。今はわかる。全て正しく、どうしても正しいということが。
アラーは偉大なり!

718:考える名無しさん
19/10/05 19:02:17.60 0.net
ガザーリの偶然性の哲学とアヴェロイエスの因果律の実在性
井筒によればイスラムの原子論は、普遍的「本質」の実在性を認めるかどうかでこれは井筒は言ってないが
「である」内在規定の三人称だけで行くか「がある」現実存在をそれに還元できない存在論的差異を認めるかどうかに帰着する
因果律の実在を認めると神の絶対性が疎外される
因果の中では因果が絶対で神の介入は許さず神は絶対ではない
イスラムの原子論者はこう考えた
井筒「全存在界は互いに鋭い断絶によって分離された無数の個体の一大集積として表象される」
個体、無数のばらばらな個体や経験に、その個々を越えて繋がる関係が本質があるのか
本質があるのか
哲学の根本問題

719:考える名無しさん
19/10/05 19:24:39.97 0.net
ルシュドは、ガザーリに対抗した
ガザーリの因果律否定は本質批判であり理性的動物の人間の非人間化に他ならないと井筒はルシュドの見解をまとめる
アリストテレスは世界には始まりはない
・ガザーリには神による創造を否定し許しがたい
・ルシュドは無からの創造は認めない
創造は潜性態にある有が現勢態にある有になること
可能性が現実になることでしかない
本質が存在する
本質論者にすれば現実は本質が現実化したものでしかない

720:考える名無しさん
19/10/05 20:25:25.00 0.net
人間の諸行為は、アラーに対して為されるものである。
アラー・アクバル!アラーは偉大なり。

721:考える名無しさん
19/10/05 20:35:54.41 0.net
馬鹿しかいないスレになっちゃったな

722:考える名無しさん
19/10/05 22:06:35.11 0.net
我らの上に平安あれ。神のご加護を!
アッラー・アクバル!神は偉大なり。

723:考える名無しさん
19/10/05 23:57:55.56 0.net
では、絶対的一神教でない仏教、就中、不立文字の禅ではどうなるのか
道元の正法眼蔵を解説して言う
物を認識するとは何か
今、意識に山水が映る
しかし、それは山水なのか
網膜に映る光の像は山なのか、山として同一性を持つのか
ガザーリの言うとおり物には因果はない
ばらばらで、本質がないなら山が山であり水が水である根拠はどこにもない
今、眼前にする山水は経験的世界で見る山水とは同じであって同じでない。眼前の山水は一定の存在的位置を占めて全体を露見する働きを示す
眼前の山水は山と川に分節されていながら山であること川であることから超出して「本質」に束縛されずに自由自在に働いている
仏教には、事物の背後の神はいない
では山が山であることはどこから来るか
それは意識が、仮構するものだ
意識が、仮構しなければ分節は存在しない
「一」性に返る

724:考える名無しさん
19/10/06 07:45:26.46 0.net
で、難しく考えることない
存在は事象内容で、説明できる述語ではない
人間が何であるか
動物である
言葉を話せる
理性的動物である
こういった事象内容で存在者は説明できるが、存在、可能性が現実になること、「存在」することは説明できない
存在者と存在することは違う
ハイデガー=カントの存在論的差異
そして、それは三人称の客観だけで存在者だけで現実を説明しつくせるという立場と、いや、そうじゃないという論争に行き着く
ガザーリとルシュドの論争もそうだし、仏教や普遍論争もクオリアに関する論争もそれに行き着く

725:考える名無しさん
19/10/06 14:13:15.79 0.net
>>724
あなたの論理だと井筒俊彦と心の哲学が何かつながりそうだが不勉強でそこらが良く分からない。
もう少しそこらを論じてくれませんか?

726:考える名無しさん
19/10/06 18:33:14.19 0.net
猫は猫であって、その物ずばりで理解できる
そういう素朴実在論は哲学的には論外で相手にする必要はない
ある瞬間の網膜に映る光の映像としての「猫」が、次の瞬間の「猫」と同一である根拠はないから
太陽かもしれない、水たまりかも、車かもしれない
猫でなければならない本質とは何かで答えに窮する
三人称客観実在論でアリストテレス式に万人にとって、共通の理解の得られる本質はあるんだと天下り式に絶対万人に妥当する本質は実在すると説くか
そういう物を拒否して一人称のその人その人にしか真理はないとするか
一人称真理は万人には妥当しないは良さそうだが、真理は本質は存在しないで(少なくとも私と他者に共通な真理は存在しない)ニヒリズム、相対主義は避けられない
三人称客観の全体主義か一人称本質否定のアナーキズムニヒリズムになるか
この二つに帰着する

727:考える名無しさん
19/10/06 18:37:32.66 0.net
井筒俊彦自体は三人称も一人称も拒否して言語分節以前の立場を守ろうとした
その立場では本質が個人的なものか三人称客観的なものかの争いは生じない

728:考える名無しさん
19/10/06 20:38:47.48 0.net
ある時点の猫、それも意識に上った映像
テセウスの舟じゃないが毛が抜けて別な物質組成になった物の何が同一で何が同一じゃないか
素朴実在論や経験論ではどれが本質として同じ物にくくれるか、他ではないのか、
猫→猫
猫→水たまり
どちらも原子の構成が違う点は変わらない
どれを優先するか根拠はどこにあるか
可能性→現実性
質料因→形相因
作用因→目的因
物を越えた本質を前提にすれば悩まないが逆に言うとそういう誰にとっても妥当する三人称客観が個人や経験を越えて存在しない限り成立しない
アリストテレスやルシュドは三人称万人に妥当する客観性があって目的論に従う
と本質を前提に客観的真理を押し付ける
それを拒否すれば、ばらばらな原子的個人の相対性、ニヒリズムに陥る
ガザーリの原子論とかクオリアにはその問題がつきまとう

729:考える名無しさん
19/10/06 21:00:24.07 0.net
ガザーリはニヒリストではなく、すべてを神に委ねよの神秘主義者だが、実存主義でも神を前提にするキェルケゴールや無神論の実存主義があるようなもの
クオリアが大騒ぎになるのも、三人称客観の本質を押し付けるのか、一人称主観のバラバラニヒリズムかと互いに譲れないから
事物の底に本質を認めるか主観=意識の相対性に留まるか
だから井筒俊彦の著作は意識と本質

730:考える名無しさん
19/10/08 04:53:07.18 0.net
イランの女子陸上の放送
URLリンク(video.twimg.com)

731:考える名無しさん
19/10/21 22:58:50.48 0.net
>>729
チャーマーズみたいな井筒俊彦論だな。

732:考える名無しさん
19/11/02 13:21:28.91 0.net
意識と本質は難解すぎて挫折したけど、神秘哲学は結構読みやすいな

733:考える名無しさん
19/11/08 22:05:14 0.net
BS1スペシャル「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」

2019年11月8日(金) 午後11時00分(50分)
2019年11月11日(月) 午後7時00分(50分)

734:考える名無しさん
19/11/16 15:06:35 0.net
BS1スペシャルを観て井筒俊彦先生に感銘を受けました。

初心者が井筒俊彦先生の思想を学ぶには、どの書籍からがいいでしょうか?

上に『神秘哲学』『意識と本質』『コーランを読む』などの書名があがっていますが、迷っています。

735:考える名無しさん
19/11/17 02:10:36.58 0.net
井筒の著書はどれも専門性が高いので、
>>4>>410のような解説本やオムニバスから入ると、読みやすくて自分に合ったものが見つけやすいと思う。
その他、イスラム初心者の人には『イスラーム文化―その根底にあるもの』。

736:考える名無しさん
19/11/17 07:55:47 0.net
>>733
NHKオンデマンド/BS1スペシャル
「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」
URLリンク(www.nhk-ondemand.jp)

言語学者、哲学者、思想家として世界に名を響かせた井筒俊彦(1914〜1993)。
子供のころ父から禅を学び、その後イスラム哲学に傾倒したが、西洋とイスラム世界の衝突を目の当たりにし、その解決の糸口として東洋哲学を確立した。
「多様性」や「他者との共生」を訴える井筒の思想は、不寛容と憎悪が増す今、再び注目を集めている。イラン出身の女優サヘル・ローズが、井筒ゆかりの土地や人を訪ね、独自の世界観を体感する。

737:考える名無しさん
19/11/17 07:57:09 0.net
(1)マンデルブロ集合
URLリンク(search.yahoo.co.jp)

(2)ペルシャ絨毯
URLリンク(cdnw.elicdn.com)
URLリンク(image.rakuten.co.jp)
URLリンク(www.mahounojutan.com)
URLリンク(www.mellibazar.com)
URLリンク(ih1.redbubble.net)
URLリンク(www.mahounojutan.com)
URLリンク(historymaniacmegan.files.wordpress.com)
URLリンク(static.minne.com)
URLリンク(www.clairen.jp)
URLリンク(www.speed-kaitori.jp)
URLリンク(image.rakuten.co.jp)
URLリンク(www.clairen.jp)

738:考える名無しさん
19/11/17 07:58:32 0.net
“アッラーは天と地の光り。
 この光りをものの譬えで説こうなら、まず御堂の壁龕(へきがん)に置いた燈明(とうみょう)か。
 燈明は玻璃(はり)に包まれ、玻璃はきらめく星とまごうばかり。

 その火を点すはいとも目出度い橄欖樹(かんらんじゅ)で、
 これは東国の産でもなく、西国の産でもなく(つまり、この世のものならぬ聖樹ということ)、
 その油は火に触れずとも自らにして燃え出さんばかり。

 (火をつければ)光りの上に光りを加えて照りまさる。
 アッラーは御心のままに人々をその光りのところまで導き給う。”

― コーラン 「24 光り」 35


壁龕=西洋建築で、彫像などを置くため壁面に設けられたくぼみ
燈明=神仏に供える灯火
玻璃=ガラス
橄欖樹=オリーブ

739:考える名無しさん
19/11/17 14:01:46 0.net
井筒訳コーランを読み始めました

740:考える名無しさん
19/11/17 16:50:58.88 0.net
>>739
井筒信者のオレだけど井筒のコーランはオレは読みにくいと思う。
いろんな訳があるけどコーランは中公の世界の名著版が初心者には理解しやすいと思う。
確認してないが中公クラシックスで出てるんじゃないかな?

741:考える名無しさん
19/11/18 16:20:23.04 0.net
ムスリムのあいだで翻訳されたものはコーランとは認められない!

742:考える名無しさん
19/11/18 17:01:11 0.net
>>741
じゃあ、誰が翻訳したらいいの?

743:考える名無しさん
19/11/23 06:30:18 0.net
習近平「ウイグル人に情け容赦は無用」、中国政府の内部リークで新事実明らかに 米報道

イスラム教徒のウイグル人にとっては、この世は地獄だろう。
毎日のように、家族が殺され、妻や娘はレイプされる。

将来、日本が中国に侵略されたら、同じような弾圧を受ける。
URLリンク(www.afpbb.com)

744:考える名無しさん
19/12/18 14:29:04.65 0.net
「スーフィズムと老荘思想」読んでる。
待望した井筒俊彦の英文主著だ。
第一部のイブン・アラビー読んでるが難解だ。

745:考える名無しさん
19/12/21 02:45:53.89 0.net
井筒の「英文著作翻訳コレクション>>3」も一通り読むと、
井筒哲学の理解がガラッと変わってくる。
日本語では開陳してこなかった決定的な考察が多い。
特に重要なのは『スーフィズムと老荘思想』。
『意識と本質』から入って『スーフィズムと老荘思想』へと抜け出るように読む。
>>645に関する話もこの本。

746:考える名無しさん
19/12/21 10:20:58.00 0.net
>>745若松英輔が井筒俊彦が山崎弁栄と出会ってたら井筒はイスラムに行かなかったろうと評価した山崎弁栄は「超在一神的汎在神教」を唱えたが井筒の内在する神と共通するものがあるのだろうか?

747:考える名無しさん
19/12/21 10:26:41.81 0.net
全てうまくいく。なぜなら、それが神(アッラー)の御心であるからだ。インシャッラー(神の御心のままに)。

748:考える名無しさん
19/12/21 15:24:41.66 0.net
これまで通りこれからも全てうまくいく。インシャッラー(神の御心のままに)

749:考える名無しさん
19/12/21 15:44:08.61 0.net
中国共産党によるウイグル族(イスラム教徒)への宗教弾圧や大量殺戮も、アッラーの御心なのかな?

750:考える名無しさん
19/12/22 21:43:11.61 0.net
「インシャッラー(神の御心のままに)」に近いのはメイヤスーの「偶然性」の哲学

751:考える名無しさん
19/12/22 21:44:30.71 0.net
その心は原子論的非理由律

752:考える名無しさん
19/12/29 12:21:43.81 0.net
過去に全き帰依者(ムスリム)であったとしても、今現在全き帰依者でないのならば、全き帰依者とは言えない。
未来に全き帰依者になるとしても、今現在全き帰依者でないのならば、全き帰依者とは言えない。

753:考える名無しさん
19/12/30 15:59:08 0.net
禅の不立文字
ヘーゲルは今ここは絶対的な事実と見えて貧しい物に過ぎないと言った
林の中で今、目の前にある木の知覚、これこそ、この感性的確信こそが真実、真理に見えるがちょっと右を向けば別な木が絶対的なこのものになってしまう
夜中に今は夜だと感覚的確信をどんなに強固に得たとしてもその確信をノートに書き付ける、「今は夜である」と
しかし、時間が立ち昼間みたらそれは間抜けだ

イブン・ルシュドは世界は永遠で始まりも終わりもないし、その個々の物や自然法則は永遠だとして、アリストテレスを支持した
ガザーリは世界は神の創造物であり時間的始まり(天地創造)も終わり(最後の審判)もある
神も立ち入れない絶対的な法則はない
全てはバラバラで原子論的にある
因果法則はヒュームのいう通りにない
神の創造によって神が意味付けたもの以外には

それ以外には真理も絶対的な法則もない
これがガザーリも棹さしたイスラムスーフィズム

754:考える名無しさん
19/12/30 17:23:21 0.net
仏教では禅定を重んじる、戒定慧が根本
戒は心や体や生活を乱す物を慎重に排除する、禅寺での厳しい修行とかイメージすればわかる
残りは心を定め知恵、般若で解脱する
大乗佛教では止観と言う、心を定め(止)周りを観察し(観)解脱する、上座部佛教では同じことをサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と言う
サマタを訳したものが止でありヴィパッサナーを訳したものが観であり、合わせて止観、同じこと
ミャンマーの上座部の偉いお坊さんがいて、上座部の中でも、世界的にも評価されているそのお坊さんが若い頃に修行した
師匠について本格的な座禅を勉強する、その人は頭の良い人でいろいろ仏教の教義を勉強し高いレベルで理解できる人だった、また、小説を書くことが好きだった、本も沢山持っていた
師匠は言った、今まで知ってたことは全て忘れなさい、本は修行場に持ち込むのは許しません、修行場の外に置いておき、期間中は持ち込んだり読んだりすることのないように、ただ座りなさい
悩みができたら相談に乗ります、何でも話なさい、修行法や心の不安などや人生の悩みでも何でも、本を読んだり研究するのは修行が終わった後にいくらでもできます、この修行場で修行している間は全て忘れなさい、ただ座りなさい
座り始めると様々な雑念が頭に入ってくる、頭からわいてくる、次々と想念が渦巻く、小説を構想する
人間は心を落ち着かせる定めるとかなかなかできない
いろいろな雑念から逃れられないが心はだんだん、そういうものに惑わされること自体が馬鹿らしくなる
修行を続ける、座り続けると徐々に落ち着いていく
呼吸を観ている、吸ってる息、吐いている息、それは誰が行っているのか
最初は私や何らかの体がやっているかに見える
また、この息自体が同じものだと、しかし、どの吸う息、吐く息も同じではない、違うが続いている
私もいない
全宇宙が繋がっていて、それが呼吸させていて、そこには意志や主観は必要ない
世界は繋がって分節されず分節する必要がなくただそこにある、これが気付き(念)である
サティと言われ、大乗では念と言われるが、世界の相互関連、相互作用に気づくことだね
固定した客観的な物は存在しない
それを認識する分節化する主体も主観も存在しない

755:考える名無しさん
19/12/30 17:43:32 0.net
気づきはマインドフルネスと訳され大騒ぎになっているものだ
釈迦はあまり気付きの気もちよさに神秘主義に取り込まれるな、三昧に囚われるな、縁起の法を分析せよと言ったがまずは、世界の未分化な相互作用相互移入連続性に気づかないと
ヴィパッサナーだけでいいか、サマタが必要か論争はあったりするが
「どうでもよい」
また、細かくマニュアル化されている上座部か、大乗かとか論争あるが
「どうでもよい」
中身はどうでもよく、捨てないといけない、マニュアルが邪魔になる

ヘーゲルの弁証法も気づいた後の関係主義的縁起の法だ
仏教、実在論否定、無我論
ヘーゲル、唯物論否定、カント式主観主義哲学否定
両者とも三人称否定、一人称否定、関係主義的な共同主観論
唯物論ではなく視点から見た認識が全てだが個人的な囚われた我を否定する
細かい主観や物はいらない、囚われるな、間違っている、分節できない現実が根底にあり、主観主義や客観主義、一人称や三人称は間違いだ

井筒の「スーフィズムと老荘思想」はじめ言っていること
ルシュド=アリストテレスの三人称客観実在論の否定
一人称主観主義、バラバラの原子論のアナーキズム、ニヒリズム否定

禅の不立文字
老荘の万物斉同
仏教の念、サティ
イスラム、スーフィズムは同じ地点だ
以上、井筒思想の概観にして全てな

756:考える名無しさん
19/12/31 00:39:54 0.net
筑紫 「中沢さんはチベットへ行っちゃったり、ものすごいオールド・デイズにはまり込んでいるでしょう。(略)」

中沢 「ぼく、ああいうの全然オールド・デイズだって感じないの。(略)
    どんなにジル・ドゥルーズが現代的哲学者の中でとびぬけているといったって、
    イスラム教のスーフィの書いたテキストであるとか、タントラ密教のテキストとかのグローバルさとくらべてみると、
    やっぱり劣るなという感じがするのね。(略)」

― 『若者たちの神々:筑紫哲也対論集3』 (1987)

757:考える名無しさん
19/12/31 00:40:34 0.net
「器官なき身体」のようなものは、チベット仏教にもある。

URLリンク(samten.seesaa.net)
チベット仏教の「幻身」あるいは「虹の身体」

『智慧金剛集』という書物には
「幻身は、風と心のみから出来ていて、どこにでもあまねく存在し、
肉と骨を離れ、刹那に動き、陽炎のような、蜃気楼のような、
一つなのに多くの現れをもち、空の状態から忽然と出現し、
虹のごとく物質的存在に汚されず混じり合わないで現れる」とある。

758:考える名無しさん
19/12/31 04:20:57.95 0.net
イスラム教も瞑想修行をして解脱をする教えなのですか?

759:考える名無しさん
19/12/31 07:06:59.89 0.net
法華経無内容論というのがある
法華経はこのお経は凄いとコマーシャルは凄いが、何がどう凄いか中身はないと言うのだ、教理が無いと言うのだ
宣伝文、効能書きでどんや効能があるか、それはずらずら書いてあるが肝心の薬が入っていない
ミャンマーの高僧の修行時代と同じ、只管打坐、ただ座れを全ての合言葉にした日本の僧侶に道元がいる
道元は若い頃に宋に渡った
その時の有名な話が二つある
・留学先の年取った坊さんが暑い日に必死に食材の準備の為に汗をだらだら流しながら働いている
そんな仕事はもうあなたほどの人はやらないでいいではないですか、教理問答や勉強してた方がいいではないですか
これが修行だ
せめて今日みたいな日は若い僧侶に任して休んでたらいいではないですか
彼は私ではない
・日本が還る前後に別の老僧が見送りに来てくれた、今日はこのまま、泊まっていったらいいのではないですか、かわりの人はいるでしよう
いや、それは私の仕事であり私の修行だ
それを私以外がやっても意味はない
その道元が最後にひたすら帰依し唱え辞世に残したのは法華経

760:考える名無しさん
19/12/31 07:32:52 0.net
道元が宋に渡った時に師匠に質問して、その問答を書き起こした 道元宝慶記
問答の一つに人は仏性があって救われるはずたが、なら修行したり戒を守る必要はないのではないということになるがそれはおかしいのではないか
プラトンの知者のパラドックスを彷彿させる
知らない人間は知るべきことや知る方法がわからないなら知ることが、できない
知っている人間は既に知っているからわざわざ苦労して知る必要はない
禅の有名な公案に犬には仏性があるか問われて無!と答えたというものがある
犬にしろ、人間にしろ、仏性があるからと安易に思って修行しなければ救われない

しかし、安易にそう答えたら
・儒教や道教は間違っていますが正しいこともあります、仏教はそれを取り込むべきでしょうか、取り込まないべきでしょうか
・普通の仏教と禅宗、どちらが正しいのか、どっちも正しいのなら何故禅宗の修行するのかいらないのではないな
普通の仏教が正しくないなら排斥しないといけないのではないか
・臨済禅はじめ師匠が弟子を殴り恫喝するがそれは正しいのか正しくないのか
宝慶記に書かれている問答の一部だが果てしない問題に巻き込まれる

761:考える名無しさん
19/12/31 07:45:24 0.net
法華経には確かに中身はない
般若経典や、華厳経みたいな空に関する教理や、諸法実相に関する説明がない
哲学がない、哲学を放棄している
仏の妙なる境地は説明ができないと説明している、説明を放棄している
これが法華経

だからいい
気づける
言葉や煩瑣な教理はいらない
邪魔になる
仏の境地は言葉では説明できないということを説明できている
体感できる
だからこそ道元は法華経に深く帰依した

気づいてしまえば何でもないが気づかなければどうしようもないし、それに気づかせることもできない
道元のパラドックスも知者のパラドックスもこういう説明できないという説明しかない

井筒俊彦の言語分節化以前の境地もそういうことだ
祖師達磨は、何故中国にインドから来たのか
答えられるかバカヤロー
それが禅の答えであり、説明できないものは説明する必要はないというのが正しい説明だ

762:考える名無しさん
20/01/01 21:26:09.69 0.net
言語分節化が三人称、一人称の分割を促し、客観主義と主観主義を生み、それぞれの要素還元主義を作り出す
物から直線的に単純に答えが出る物理主義
閉じた主観から一元的に答えが出る観念論
しかし、一つの実験からも様々の理論解釈が成立し、閉じた主観の独我論は他者の理解で困難が生ずる
ヘーゲルや仏教は唯物論及び私の実在論を否定する
井筒の出発点も仏教や老荘、イスラム神秘主義には、実在論を否定し言語分節化を越える
終着点もそこ

763:考える名無しさん
20/01/01 22:07:57.37 0.net
日常的には我々は物が固定的に実在したり、私が強固に実在すると考える
しかし、仏教にしろ神秘主義にしろ、修行すればはじめはそれらに拘束された日常の意識だが、
それを抜け出せる、それらがどうでも良くなる瞬間、物の分節が、私の存在が消える、
主客の分裂が消える神秘体験があるし、それなしにはそれらの思想は意味をなさない
井筒思想はそれに還元される

764:考える名無しさん
20/01/02 11:20:40 0.net
イスラム教も仏教みたいな瞑想や座禅を行うの?

765:考える名無しさん
20/01/02 16:08:32.47 0.net
>>758>>764
解脱ではないが、よく比較されるのが>>463>>338の「アナ・ル・ハック」。
身体的な瞑想として有名なのは、メヴレヴィー教団の旋回舞踊。
URLリンク(www.youtube.com)
宇宙の運行を表す回転によって、神との一体化(神の中への消滅)を図るという。
その他にはズィクルという唱念や観想もあって、
ダルヴィーシュとはスーフィーの修道僧のこと。

766:考える名無しさん
20/01/02 16:09:19.67 0.net
>>765
このメヴレヴィー教団を開基したのが、ジャラール・ウッディーン・ルーミー。
イブン・アラビーと並ぶイスラム神秘主義(スーフィズム)の重要人物。
『ルーミー語録』は井筒が手掛けているが、
ペルシア語のコーランとも呼ばれる『精神的マスナヴィー』は断片的にしか翻訳されていない。

767:考える名無しさん
20/01/02 16:09:49.26 0.net
> ルーミーとはローマの人のことで、後年に住んだアナトリアが以前東ローマ帝国(アラビア語ではルーム)の領土だったことによる

768:考える名無しさん
20/01/02 16:11:17.32 0.net
レファレンス協同データベース
ジャラール・ウッディーン・ルーミー(13世紀の詩人)の詩集が見たい。
URLリンク(crd.ndl.go.jp)

769:考える名無しさん
20/01/02 16:13:24.45 0.net
ルーミーは、こういう「1/fゆらぎ」CDまで買って聴いた。
朗読CD【ただひとつの息吹】より「沈黙の満月」
URLリンク(www.youtube.com)

770:考える名無しさん
20/01/02 16:14:12.00 0.net
>>769の説明にある映画『アースピルグリム』の監督・主演がエハン・デラヴィ>>327なのか。
狭い世界だ。

771:考える名無しさん
20/01/02 16:14:45.17 0.net
隣人みなスーフィー

772:考える名無しさん
20/01/02 16:17:14.89 0.net
『精神的マスナヴィー』の英訳はR・A・ニコルソン>>463
The Mathnawi of Jalalu'ddin Rumi, Vols 1, 3, 5, Persian Text (set)
The Mathnawi of Jalalu'ddin Rumi, Vols 2, 4, 6, English Translation (set)
The Mathnawi of Jalalu'ddin Rumi, Vols 7 and 8, Commentary 2 vol set
Jalalu'ddin Rumi (Author); Reynold A. Nicholson (Author)
Published by : Gibb Memorial Trust

773:考える名無しさん
20/01/02 16:18:07.13 0.net
The Mathnawi Of Jalaluddin Rumi
by Reynold A. Nicholson
URLリンク(archive.org)

774:考える名無しさん
20/01/02 16:20:04 0.net
英語で読むか

775:考える名無しさん
20/01/02 21:37:05.24 0.net
コーランはアラビア語しか認められてないぞ、ハゲ

776:考える名無しさん
20/01/02 22:33:38 0.net
>>765
>>766
ありがとうございます。
イスラム教にも似たようなものがあるということは、イスラム教のゴールも仏教のゴール(涅槃して転生しないこと)と同じなのでしょうか?

777:考える名無しさん
20/01/02 22:35:16 0.net
キリスト教は、仏教の梵天などの最高位の神を父なる神と同じような気がしてます。

778:考える名無しさん
20/01/04 02:52:01 0.net
>>776
> 神を信じる。預言者を信じる。来世を信じる。イスラムの教えは、基本的にこの三つです。
>
> 神とはアラー。預言者とはムハンマドという神のメッセージを伝えた人。
> そして来世は、イスラム信仰の根幹をなすものです。
> イスラム教には仏教的な信仰と違い、輪廻はありません。
> 一回限りの生を生き、死ぬと最後の審判の日に復活して生き返り、
> 来世である天国か地獄に行くのです。来世は永遠に続きます。

779:考える名無しさん
20/01/04 02:55:07 0.net
>>777
セム系一神教の神は外在的。
インドを中心とした東洋の神(スピノザの汎神論も)は内在的。

780:考える名無しさん
20/01/04 02:57:11 0.net
整理するとこうなる。

[西洋] 一神教世界(非対称性、外在的超越、西洋的二元論)
[東洋] アニミズム、仏教世界(対称性、内在的超越、東洋的一元論 )

対称性/非対称性というのは中沢の対称性人類学。
その他は、以下の井上の論文を読んでもらうといい。
このスレではよく西洋と東洋を行き来するから。

781:考える名無しさん
20/01/04 02:58:04 0.net
『明治期アカデミー哲学の系譜とハイデガーにおける形而上学の問題
 ―如来蔵思想とユダヤ・ヘブライ的思惟との収斂点―』

井上克人 (2009)

I 明治期アカデミー哲学の形成―「現象即実在論」

井上哲次郎や井上円了らに代表される明治期アカデミー哲学の特質が「現象即実在論」
にあることは夙に知られている。現象の奥に真の「実在」、すなわち形而上学的絶対者を認
め、しかも「実在」は現象の背後にあるのではなく、その只中に内在するという考えであ
る。これは大乗仏教思想の根幹をなす「本体的一元論」、すなわち外に超越者を想定しない
思考様式である。じつは、この発想の淵源は、『大乗起信論』のいわゆる「万法是真如真如
是万法」という定式にある。東京大学で初めて開設され、原坦山が担当した「仏書講義」
のテキストに選ばれたのが、この『起信論』であった。彼らはその本体的一元論に啓発さ
れ、西洋に対抗して日本独自の「哲学」を提唱しようと企図したのである。

ところで西洋における思考様式は、神と人間、近世以降では認識主観と客観的世界とい
った二項対立的な二元論をその特質としてもつ。それに対し、本体的一元論に立つ『起信
論』は、自体清浄なる「心真如」が自らの清浄心を失うことなく心生滅へと転成していく
「真如随縁」の発想をもつ。妄念にまみれた現象的世界は、一方では「真如」の本然性か
らの逸脱でありながら、同時にそれは「真如」そのものの自己展開に他ならず、真如と妄
念とは「非一非異」の関係にあって、「現象」がそのまま「真実在」なのである。

782:考える名無しさん
20/01/04 02:58:22 0.net
敷衍して言えば、「真如」は、それ自身我々の思惟や言説を絶する〈空・無〉、すなわち
絶対的覆蔵態に他ならないのだが、同時にそれは個々の存在者をあるがままに顕現せしめ
る〈開け〉であって、現象せる個々の存在者の形而上的本体として、それらの根底に伏在
し、あらゆるものを自らの内に摂収しつつ、同時にそれらを本然的にあるがままに開放す
るのである。換言すれば、現象せる個々の存在者は、どこまでも自らを顕現せしめた真如
のうちに在り、逆に、個々のものの存在原因たる真如は、どこまでもそれらの本体として
超越的に自己自身のうちに蔵身しつつ、同時に自ら顕現せしめたすべてのものの中に内在
するのである。これこそ東洋的思惟に共通して見られる〈本体的一元論〉である。つまり
言詮を絶する覆蔵的・超越的に一なる原理がその超越性をどこまでも維持しながら、自己
内発的に自己展開し、万物の中に自らを内在化させていく論理、一なる本体とそれが起動
展開する派生態、つまり「体と用」(本体とその作用)の論理であり、「内在と超越」の論
理であった。したがって、超越といっても、「外」に超越したものではなく、「内在的超越」
という構造をもち、これこそ西洋的二元論の思考様式とは異なる「東洋的一元論」なので
あって、いわゆる京都学派の哲学も、この系譜を引くものなのである。

783:考える名無しさん
20/01/04 02:58:41 0.net
II ハイデガーにおける「神学の由来」と西田哲学に伏在する如来蔵思想

さて、以上のような形而上学的一元論の発想は、新プラトン主義の流出論ときわめて類
似した考えであって、それはヘレニズム化したキリスト教、すなわち東方正教会の淵源と
なったものである。それにひきかえ、ラテン的西方教会は、むしろユダヤ・ヘブライ的二
元論の伝統に立脚し、神はどこまでも「隠れたる神」であって、契約で結ばれた神と人間
との間には深い断絶がある。他方、東方正教会の基本的特質は神の顕現(現前性)の強調
と「人間の神化(テオーシス)」にあり、神と人間とは一つに結びついていて、
これは「一切衆生、悉有仏性」を標榜する大乗仏教と通底している。

ところでハイデガーは、自らの「神学的由来」である「新約的」キリスト教の立場から、
同じ西方でありながら新プラトン主義化したアウグスティヌスのキリスト教を論難し、延
いては西洋の形而上学全体にわたってそれを「存在忘却」に基づく「存在−神−論」とみ
なし、その超克を企図したが、彼のいう「存在−神−論的体制」は、東方正教会にこそそ
の最たるものがあるのであって、ハイデガー自身、存在を問うという極めてギリシア・ヘ
レニズム的な思考を展開させながら、存在そのものがもつ覆蔵性に基づき形而上学を超克
しようとする彼の思索の淵源には、ザラデルが指摘しているように、彼自身それに気付く
ことのなかったユダヤ・ヘブライ的発想が根深くあったように思われる。それは現前性の
底に顕現せざる超越的他者を想定するという、非ギリシア的発想なのである。
一方、『起信論』が説く本覚思想を「現象即実在論」として哲学的に開陳したアカデミー
哲学の本体的一元論の「形而上学」の系譜を引きながら、それを乗り越えるかたちで、同
じくその如来蔵思想に見る「真如」のいわば覆蔵性がもつ〈超越的他者性〉を「逆対応」
という発想によって論理化しようとした点に西田哲学の優れた特質がある。
西田とハイデガーとは、ともに「顕現せざるもの」への着眼によって形而上学を超克する
ところに共通点があるといえよう。

URLリンク(heideggerforum.main.jp)

784:考える名無しさん
20/01/04 03:01:19 0.net
>>765のズィクルを中心にみると、
正教のヘシュカズム>>355とイスラムと真言密教>>360が比較できる。

785:考える名無しさん
20/01/04 03:56:42 0.net
>>778
イスラムでもドゥルーズ派やアラウィ派には輪廻がある。

786:学術
20/01/04 18:33:11 0.net
客観は世界の方で、主観は先祖の方だ。過去に汚染される危険思考。

787:学術
20/01/04 18:36:26 0.net
両方とも過去で人間を汚す。

788:学術
20/01/04 18:36:57 0.net
主観が未来 客観が過去に属さないといけない。

789:考える名無しさん
20/01/07 23:26:15 0.net
“ホメイニーが当時のソビエト連邦の書記長ゴルバチョフに、イスラーム世界を理解するためには、
 イブン・アラビーやイブン・スィーナーの思想を理解することが重要だという旨の書簡を送ったという一事に端的に現れている。
 ホメイニーの中では、その革命とイブン・アラビーの思想は通底するものがあったのである。
 彼らにおいては、イブン・アラビーの思想と、社会変革実践活動は深く結びついていたと考えなければならない。”

― 『イブン・アラビー学派文献目録』 「序論」 東長靖、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科附属イスラーム地域研究センター (2010)

790:考える名無しさん
20/01/08 01:27:26.09 0.net
映画『シャルギー(東洋人)』が観れなかった人には、この本がある程度代わりになる。
著者は、映画の中で井筒の紹介の中心的役割を担っていたイラン人研究者。

“以前、私はテヘラン国際ブックフェアに行き、テヘラン大学出版社の展示室にあった諸々の本を見ていた。
 いきなり、ハーメネイー師がブックフェアにいらっしゃり、視察していることに気付いた。
 ハーメネイー師がテヘラン大学出版社の展示室に至った時、
 井筒が書き、テヘラン大学出版社によって出版された『ザブザワーリーのヒクマ(叡智)の基礎』を彼は見た。
 そして、彼は私に、なぜ井筒氏はイランに戻らないのかと尋ねた。(メヘディー・モハッゲグとの対談より)” 8章
“井筒とナスルは日本と東アジア研究所の設立のために、2,000冊から3,000冊の本を日本から購入し、哲学アカデミーの図書館へと納入させた。” 11章
― 『井筒俊彦の比較哲学:神的なものと社会的なものの争い』 バフマン・ザキプール、知泉書館 (2019)

791:考える名無しさん
20/01/08 01:27:59.78 0.net
>>790
ハーメネイー師はホメイニー師の後を継いだ現イランの最高指導者。
このナスルという人物は、マギル大学で一緒だった井筒をイラン王立哲学アカデミーへ誘った。
更に、哲学アカデミーでは井筒に東洋思想をやることを勧め、その結果の一つが『老子道徳経』の英訳。

792:考える名無しさん
20/01/08 01:28:40.68 0.net
S.H.ナスル 『イスラームの哲学者たち』 黒田寿郎、柏木英彦 訳、岩波書店 (1975)
これも良書。

793:考える名無しさん
20/01/08 01:29:42.89 0.net
“井筒の東洋哲学は哲学の中心を欧州からアジアへ移すのに貢献するでしょう” ロバート・ウィスノスキー (カナダ イスラム学者)
“我々イラン人は日本人以上に井筒を高く評価しています” バフマン・ザキプール (イラン 哲学者)
“井筒の東洋哲学は、根底でいろんな宗教のおおもとのところで鳴り響いている和音みたいなものを取り出そうとした。
 その響きには、構造、論理、論理を超えた何かがある。
 世界中に分かれてお互いに対立し合う宗教も、おおもとまでたどっていくとあらゆる宗教が行き来できる。
 イスラム教も仏教もいろんな宗教が自由に行き来できる領域を探ろうとした。” 中沢新一
― BS1スペシャル 「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」 20191108

794:考える名無しさん
20/01/08 01:31:01.87 0.net
>>793
『シャルギー(東洋人)』の中では、井筒がムスリムでないことにも言及されていた。
その一歩引いた視点からの考察が、イスラム世界でも高い評価を得ているとのこと。
そのことを踏まえた上で、このザキプールの評はパンチがある。
井筒が何をやったのかという説明としては、この中沢の評が一番的確。

795:考える名無しさん
20/01/08 03:23:26.21 0.net
『シャルギー(東洋人)』はイラン制作の2時間10分の映画だから、半分ぐらい寝るだろうと思っていたが、とんでもない。
100名以上の知識人によって、井筒の生涯と思想のディテール、イラン人から見た大東亜共栄圏の検証、昨今の国際政治の状況までもが、
神学と言語意味論(セマンティクス)と分析哲学を織り交ぜて語られる。
井筒のテクストと同じぐらい高度で緻密な内容を、毎秒字幕で読まされるわけだから、
メモを取る暇もないどころか、まばたきもしないようにして観なければならなかった。

796:考える名無しさん
20/01/08 03:26:34.41 0.net
井筒自身は政治を語らない人だったが、出演していた日本人研究者の一人は、
「井筒が政治について言及していてくれていたら、後の人はもっと楽になった」ということを言っていた。
それはそうだろう。哲学の世界で、前人未到の領域へ到達した人だから。

797:考える名無しさん
20/01/08 05:49:48.26 0.net
>前人未到の領域へ到達した人
理解できる前人未到=超人
理解できない前人未到=キチガイ
だが超人は、キチガイを自分より遥か上の存在と見ている、おまえらが無能なだけ。

798:考える名無しさん
20/01/09 01:37:34 0.net
>>797
日本語でおk

799:考える名無しさん
20/01/09 02:05:53 0.net
イブン・アラビー(1165-1240)はムウタズィラ派やアシュアリー派といった思弁神学を批判し、神の名で呼ばれる以前の絶対無分節的無と、そこからの神の自己顕現(タッジャーリ)を策定した。

「思弁は諸存在物と結びついている」ため、その関係を断ち切り、思弁の垢から心を浄めるべく、タッジャーリを観照する場として「心」の機能を重視した。

参考:
相樂悠太 「理性と「理性の限界の向こう」:『マッカ開扉』にみるイブン・アラビーによる他説との知的対話」 『宗教研究 第93巻 396』 日本宗教学会(2019.12)

800:考える名無しさん
20/01/09 02:07:08 0.net
カントの理性批判とメイヤスーの切断論を合わせたようなことをやっている

801:考える名無しさん
20/01/24 15:34:52 0.net
幸運の恩恵を受けた者が、幸運の恩恵を受けられなかった者をどうバカにすることができよう。

アラー・アクバル!(神は偉大なり)

802:考える名無しさん
20/01/29 02:02:03 0.net
「老子」各種翻訳

・『老子』 小川環樹、高木智見、中公クラシックス (2005) 原文、書き下し、訳文
・『老子』 福永光司、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『老子』 蜂屋邦夫、岩波文庫 (2008) 原文、書き下し、訳文
・『老子道徳経(英文著作翻訳コレクション1)』 井筒俊彦、慶應義塾大学出版会 (2017) 原文、書き下し、訳文
・『老子 無知無欲のすすめ』 金谷治、講談社学術文庫 (1997) 原文、書き下し、訳文
・『エッセンシャルタオ 老子』 加島祥造、ちくま文庫 (2005) 原文、訳文
・『老子<全> 自在に生きる81章』 王明、地湧社 (2005) 原文、訳文

803:考える名無しさん
20/01/29 02:02:19 0.net
「荘子」各種翻訳

・『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 外篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 雑篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 内篇 [中国古典選]』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 外篇 [中国古典選] 上中下』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 雑篇 [中国古典選] 上下』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 第1冊 内篇』 金谷治、岩波文庫 (1979) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第2冊 外篇』 金谷治、岩波文庫 (1979) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第3冊 外篇・雑篇』 金谷治、岩波文庫 (1982) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第4冊 雑篇』 金谷治、岩波文庫 (1983) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 全訳注 上下』 池田知久、講談社学術文庫 (2014) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 中国の古典 上下』 藤堂明保、池田知久、学研 (1983) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 全釈漢文大系 上下』 赤塚忠、集英社 (1980) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 1・2』 森三樹三郎、中公クラシックス (2001) 書き下し、訳文

・『荘子(中国の古典)』 野村茂夫、講談社 (1987) 抄訳、原文、書き下し、訳文、全体の1/3

・『荘子[中国の思想]』 岸陽子、徳間文庫 (2008) 抄訳、原文、書き下し、訳文

・『荘子 新訳』 岬龍一郎、PHP研究所 (2013) 抄訳、書き下し、訳文

・『荘子 ヒア・ナウ』 加島祥造、パルコエンタテインメント事業局 (2006) 抄訳、訳文

804:考える名無しさん
20/01/29 02:03:34 0.net
老荘的な語法は、絶対無、分節化/無分節化論、存在の解体構築論など、
井筒哲学の骨格ともいうべき大きなウェイトを占めているので、早めにやっておくのがいい。

805:考える名無しさん
20/01/29 02:04:10 0.net
ハイデガーやデリダの存在解体/再構築にあたる作業を、
荘子は分節化/無分節化(限定/無限定)という形でやっている。


“物を物としてあらしめる道は、物に対して限定を設けないが、物相互の間には限定があり、それを物の区別という。無限定な世界から有限の世界があらわれ、有限の世界がまた無限定の世界へと移ってゆく。”
“物物者。與物無際。而者有際者。所謂物際者也。不際之際。際之不際者也。(知北遊篇第二十二 6)”

― 『荘子 外篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)

806:考える名無しさん
20/01/29 02:04:30 0.net
次の「畛」は、田のあぜ。そこから転じて、区切り・境界をいう。
ラカンはこれと同じ役割を「クッションの綴じ目 (ポワン・ド・キャピトン)」に例えた。(ラカン『無意識の形成物[上]』)


“そもそも道にはもともと境界などなく、ことばにはもともと固定した意味などない。そこから〔道がことばによって表象されるようになると〕区別が現れるようになった。”
“夫道未始有封。言未始有常。爲是而有畛也。(斉物論篇第二 5)”

― 『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)

807:考える名無しさん
20/01/29 02:05:17 0.net
「無無無」が定立される箇所。


“有ということがあるし、無ということがある。またもともと「無ということ」はないということがある。またもともと「無ということはないということ」はないということがある。”
“有有也者。有無也者。有未始有無也者。有未始有夫未始有無也者。(斉物論篇第二 4)”

― 『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)


荘子は有ることと無いことの根源的前提を考えようとした。

解説は以下を参照。
『荘子 内篇(中国古典選 12)』 福永光司、朝日新聞社 (1978)

808:考える名無しさん
20/01/29 02:59:02 0.net
>>173などは特に老荘的な表現。


・《老子》第1章に〈玄のまた玄,衆妙の門〉とあるように,存在の根源にある幽遠にして神秘的なものをあらわす。
・微妙で奥深いこと。深遠なおもむき。
・玄の字は黒い糸を束ねた形で、かすかで見にくいところから天の色とされ、また北方の色とされた。
・赤または黄を含む黒色。

809:考える名無しさん
20/02/07 01:51:09 0.net
>>173
井筒の「存在-神-論(Onto-Theo-Logie)」は、
老荘+ハイデガーの現象学的存在論+デリダのロゴス中心主義の解体。

810:考える名無しさん
20/02/07 06:02:22 0.net
かす(微/幽)かで分かりにくい違いを見事に捌いて見せるからこそ玄人なのでわ?


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