岡潔 at PHILO
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474:驕B



475:考える名無しさん
14/12/26 05:16:39.72 0.net
ところで、それを眺めていると、大人の世界が、一つの売場に完全に集約されているような感じを受けるのである。
子供が手にして選ぶ色々なおもちゃを見ていると、自分までもが、おもちゃ売場の一隅に小さくならべられた人形の様に感ぜられてくる。

子供が、あれやこれやと手にしているおもちゃを見ていると、
テレビ、ラジオ、ガスレンジ、洗濯機といった高級品から食器セットまでの家庭用品、自動車、電車、汽車まで……。
人形はと手に取れば、ミルクを飲み、おしっこもするといった具合である。

実際の話、おしっこもまともに出来ず、又言えもしない子供が、そういった人形を手にしたいらしく買ってくれとせがむのである。
ご飯もまだひとりで食べられない子供が、食器セットを手にしたがる。
ガスレンジもスパークが出るような本物まがいのが欲しいらしく、おねだりを言い、あげくのはては、だだをこねるのである。

一、二歳頃までのおもちゃは、視覚的要素だけを考慮に入れて作られているらしいが、それらに満足している期間は、はたしてどれほどだろう。
見ているとものの一年もたたない間に、どんどんこわし始める。
破壊するのだから、子供には満足を与えていないことになる。

もう子供は一足とびに、ままごと遊びの道具を欲しがるようになる。
まだ子供だから、身体は十分機能的に動き得ないのに、観念的には、十分発達した機能的動きの中で遊ぼうとする。
要するに、視覚とか聴覚だけを部分的に満足させてくれるおもちゃでは満足できなくなってくるらしい。
それがどうも子供が盛んにままごと遊びの道具をせがむ理由らしい。

476:考える名無しさん
14/12/26 05:33:00.86 0.net
さて、たまたま、このままごと遊びの道具を首尾よく手に入れた時、
子供はこれで、どのように楽しく遊ぶか、しばらくこれを眺めることにしよう。

例えば、台所用具一式を幸いにも子供が手に入れたとしよう。どうするだろう。

ガスレンジには鍋をかけ、食器をならべ、お台所仕事がはじまる。

ところが、ここで異様な動作が行われている事に気がつく。

それは何か、と言うと彼女達は、きまってそのままごと遊びの主人公になろうとする、という事である。
例えば、隣から友だちを呼んで来て、お客様としてすわらせる。
すなわち、自分が料理をしてご馳走する立場に立とうとする。
お客様がいないとまことにご機嫌が悪く、うっかりすると見ている大人までがひっぱり込まれてしまう。
そしてとんでもない、むなしいご馳走にあずかるはめにさえなる。
ご馳走の中身が、そこらにある草である場合もあり、或いは、紙片かも知れない。
ある時には、何もない事もある。寒い時は暖かそうに、暑い時は冷たくして出される。
子供は、よちよちしながらも、かいがいしく立ち回るのである。
うっかりして大人が、そのままごと遊びの主人公にでもなろうものなら、大変なことになる。

477:考える名無しさん
14/12/26 05:55:52.05 0.net
次々と彼女達によって展開されていく生活環境は、驚くべき事に、全くもって大人のそれであるということである。
たまたま、そこに相手役をつとめる人間がいないとすると、さっそく選ばれ、御相伴役(ごしょうばんやく)を仰せつかるのが人形である。

この人形には、最上級の敬語と愛情が、注がれる。
彼女は、この無言のお客様のご機嫌を損じないように、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を続ける。
ミルクもコーヒーもパンも、時には、あまり口にもしないようなものまでがご馳走される。

人形は無言だが、彼女はしゃべり続ける。しかも驚くべき事に、その言葉遣いが異常なほどに大人びてくる。
最上級の敬語というのがそれであり、言葉のデリケートなニュアンスも案外間違えない。
動作のジェスチャーも機微にふれている。
平素は坐れもしないのに、


478:きちんと無理をして坐る。 歩き方はと見れば、きまって花嫁の真似をする。 人形に対する態度は、友達としてではなく、母親が子供に対するがごとく、 彼女自身がおしっこを言うのを忘れていても、人形のおしっこをさせる事だけは忘れない。 まことに、さまざまな世界をここに構成する。 その世界の主人公になることによって……。



479:考える名無しさん
14/12/26 06:22:24.69 0.net
ところが、ここへ母親でも帰って来たとしよう。
そして、たまたま美味しいお菓子でも買ってきたとすると、もう彼女の性格は一変してしまうのである。
ままごと遊びの主人公は、どこかへ行ってしまう。
性格が変わるといったものではなくして、彼女自身の場を変えてしまうのだ。
遊びの世界の主人公が、母親のふところにその場を転換せしめてしまう。
即ち、母親と自分という関係において自分を意識した時にはもはや、ままごと遊びの主催者ではなくなってしまい、
母親のふところに、即ち母親の世界の一隅に、だだっ子として位置づけられてしまう。

本能的にはっきり自覚しているかどうか、それはわからない。
しかし、言葉、態度、行動は一変してしまう。
大人びた言葉は、一言もはかないし、大人の真似ごとの挨拶でもって母親を迎えたりは絶対にしない。
ままごと遊びの時には、玄関に手をつき、お客を招じ入れる格好を何回も何回も繰り返しておきながら、
それはもう、けろりと忘れてしまっている。
人形にもったいぶってミルクを飲ませ、あやしたり寝かせたりした事も忘れてしまって、母親の胸に飛びつく。
こんな全人間的な変革が瞬時に行われる。

480:考える名無しさん
14/12/26 06:29:26.68 0.net
このような変革の為に、子供は何らの苦労もしないらしく、又そんなに変革した事も意識しないようだ。
もしも大人が、大人の世界で、こんな大きな性格変化をしたら、いったいどんなものだろう。

狂人呼ばわりされても仕方がないだろう。

子供たちは、別に狂人ではない。こんなに鮮やかな世界の転回をやすやすとやってのけ、後はまことに春風駘蕩たるものである。

実に天才の名にふさわしい。

481:考える名無しさん
15/01/03 18:23:09.02 0.net
「春雨の曲 第7稿 第2章 旅路の原型」より 第十五識の文例(其の二)

「ならの小川」
外国語学部二年 女子学生

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

風がそよそよと楢の葉をそよがす音がする。
そんな、ならの小川のあたりの夕暮れは、涼しくて、もうすっかり秋らしいのであるが、
その小川で行われている六月ばらいの行事だけが、今日がまだ夏のうちである証拠なのだなあ。
と歌の意味は大体このようなものである。

482:考える名無しさん
15/01/03 18:33:37.39 0.net
「みそぎ」は夏の行事であり、川原で身についたけがれや罪をはらい除く神事で、
ここは六月晦日に行われる「六月ばらい」であって、それをもって「夏のしるし」と確認している。
六月晦日は暦の上では夏の最後の日。すでに秋との交替は始まっている。
現にまわりの情景には、もう夏らしきものはなく、上の句がそれを語っている。
肌に感じる風にしろ、「風にそよぐ楢」の葉の音にしろ、小川の流れにしろ、ましてや、夕暮れ時はすべて涼気を感じさせるもの、
秋である。

483:考える名無しさん
15/01/03 18:41:44.97 0.net
作者、藤原家隆がこの歌を詠んだのは、今からおよそ八百年余りも昔のこと、
当時の人々は、この行事をどのように感じていたのであろうか。
凌ぎやすい初秋を待ちこがれている人々は、早くから秋の気配をさがし求めていたであろうが、
この行事を切り目に、いよいよ明日からは秋だと思う、そのよろこびと共に、
かえって去って行く夏にも何かなごり惜しいものを感じたのではないだろうか。
生理的に感ずる季節感を大切にする一方、暦による精神的な季節感によって強く支配されてもいたようである。
自然界にみる四季の変化に敏感ではあったが、ふんぎりをつけるのは、やはり暦によったのだった。

484:考える名無しさん
15/01/03 18:54:13.13 0.net
さて、長々と歌についての説明を書いたが、何故、私がこの歌を選んだかというと、それは歌の中にある「ならの小川」にある。
この「ならの小川」というのは、実は上賀茂神社の境内を流れている「御手洗川」のことである。
それを私は、今年のお正月まで全く知らずにいた。
元旦に久しぶりに小倉百人一首の本を見ていて、初めて気がついたのである。
山口県から京都へ来て、ここ、上賀茂に下宿して、毎日、神社のそばを通り、その川を渡って大学へ通っていたのである。
今までは何とも思っていなかった、この一つの歌が非常に身近に感じられた。
そして、また京都の街の歴史の古さを一層深く感じさせられたのである。
今は冬、寒々とした上賀茂神社の境内を流れているこの小川は、
今もまだ一点のくもりもない程に澄き通り、
私の身も心もすべて洗い流してくれそうである。

485:考える名無しさん
15/01/03 19:14:23.67 0.net
わたしが確認の旅路の第十二識にいた時、或る日不思議な情景を見た。
わたしの部屋のわたしの机の上に非常に大勢(千人位)の小さな人が真っ四角に整列している。
と見ると、其のn人が合一して少し大きな人になった。人数は1/nに減った。
この合一を繰り返して見る見る減って行き、到々大分大きな一人の人になって消えた。

わたしは第十五識の個人の主宰者はワンサイクルτ₁−α₁だが、
第十四識に下ると30サイクルズの合議制となり、
第十三識になれば30²サイクルズの合議制となり……
第七識上層になれば30⁸サイクルズの合議できまるようになっていると思う。

第十五識、第十四識、第十三識を見ると如何にもそれがよくわかる。

486:考える名無しさん
15/01/03 19:30:44.22 0.net
※第十三識で30の2乗、第七識上層で30の8乗です。失礼しました。

第十五識の第二例は一昨年の作文であって、此の人だけはもう自覚の旅路に入っている。

第十五識は二例ともそれでよいが、第十四識は口数が多すぎる。
第十三識は其の上理屈が入り、それにくど過ぎる。

第十五識を天(あめ)なるこころだけとすると、第十四識、第十三識と、段々土(つち)の要素が餘計入って行くのである。

第十二識−第十五識(其の一)を並べて見ると、こう云う感じである。

第十一識と第十二識との境界上の世界に「悟」の実がむすぶと、
造化はその種を第十二識と云う畑に蒔き、芽が出れば第十三識に移して育て、これを時機をみて第十四識に移して花を開かせる。
その香りと云うエキスだけを取り出したのが第十五識である。

第十五識の第二文例は、認識の旅路を終えて一度ふるさとの生命の源流で浴し、それから自覚の旅路についたのだろう。
この水浴の印象を御手洗川の上に再現したのだろう。
実に名文であって、少しも人工の跡がない。

(帰郷してみて、第十二識以上は皆よく書けている。既に個性が見られる。
第十五識の第二文例は絶品である。人の世に於ける文の最高峰であろう。)

487:考える名無しさん
15/01/03 19:46:53.22 0.net
「春雨の曲 第7稿 第5章 無明、生死、染色体」より 最終段落

フリーセックス時代は真に恐るべきものなのであって、
且つてアテネはこれによって繁栄の絶頂から滅亡まで僅か百五十年位で亡びたのである。
日本の現状はそれよりも更にひどいと思うから、此の儘推移すれば百二十年位で日本は名も知らぬ土人の島と化し終わるであろう。
学生の自由作文によって見れば、今でも日本人の半ばは、実質的には異邦人である。
日本民族の日本民族たる所以のものは女性が主になって守るべきである。
造化は女性をそう造


488:っているのだと云う証拠として、染色体のお話をしたのである。 女性が率先してフリーセックス時代を謳歌するようになっては日本はもうおしまいである。 今年の自由作文にお嫁があるだろうかと云って心配していた男の学生がいて作文は名文であった。同感である。     ―― 完 ――



489:考える名無しさん
15/03/05 23:28:46.10
建物の中にこもりきりではなくて、

自然を散歩しながら学問をすることが出来る大学はどこにあるのですか?

490:考える名無しさん
15/03/16 05:04:28.46
授業中に、ケータイ、スマホをいじくって、テストは過去問のコピーを暗記

そんな学生と一緒にいると学問をする心が死んでしまいます。

自然を歩きながら、ホタルを見ながら学問をさせてくれる大学はどこにあるのですか?

491:考える名無しさん
15/03/22 09:36:37.50 0.net
保守

492:考える名無しさん
15/04/24 21:21:14.53 0.net
岡潔聴雨録bot
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493:考える名無しさん
15/06/11 09:11:41.22 0.net
人から聞いた話

ある若い数学者が、学会で講演をして終了後の質疑応答のとき、最前列で聴いていた岡先生がスックと立ち上がって講演者を指差し

「君の研究は180度方向が違っている、正しい方向は••••」

という。みんながハラハラしながら聞いていると

「あっちだー」

と振り返って後ろの出口を指差したという。

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