【中国網】民主の崩壊:日本政治の右翼化が浮き彫りにするもの 自民党などの右翼と互角に戦うことのできる左翼勢力が日本で見つからない at NEWS4PLUS
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1:ねこ名無し ★@\(^o^)/
17/08/22 12:39:07.11 CAP_USER.net
日本の右翼化が政治的な現実となった今日、根本的な問題と言えるのは、日本の「左翼」勢力はどこにいるのかということである。(文:文豊・南京大学歴史学院博士課程大学院生)
第2次大戦前の日本には「左翼思想」の社会的な基盤はなかった。19世紀末には、西側の各種の社会的な思想が浸透し、左翼政治団体や左翼政党が生まれていた。
こうした組織は、マルクス主義の代表的な理論を導入しただけでなく、中国革命を後押しすることともなった。だが西側の思想を導入しただけでは、東アジアの島国にそれが根付くことにはならなかった。
自由民権を代表とする自由主義の政治思想が芽生え始めた時、日本右翼の代表の一人である、甲午戦争(日清戦争)の総計画者である伊藤博文は、アメとムチの両方を使ってその弾圧をはかった。
伊藤の長州の同郷である大軍閥の山県有朋はさらに、日本近代地方体制の設計のために画策し、政党間の争いが国家の根幹を動揺させるのを防ぐという建て前で、民主の防波提を築いた。
「過激」な共産主義は言うに及ばず、西欧各国の自由主義思想でさえ、彼らは厳しく取り締まった。
1889年にまず「欽定憲法」を作り、1890年に第一回議会を召集し、欽定された憲法を国民の代表らに「恩賜」するというのが、近代日本が西側の憲政を模倣した道だった。
そうは言っても、日本にも28年後、本当の意味での初の政党内閣(政友会内閣)が誕生した。これによって「大正デモクラシー」(大正民主)の時代が始まった。
だが日本の右翼勢力は、近代日本民主政治の代表となったこのような政党を許容することはなかった。
原敬(1921年暗殺)や濱口雄幸(1930年負傷)、犬養毅(1932年暗殺)は自らの血によって、戦前の帝国日本の政党民主政治が14年の惨憺たる歩みの後に激しくもその短い生涯を終えたことを示した。
第2次大戦は日本にとって明治維新以来の歴史的な転換点と見られてきた。マッカーサーの指導の下、日本の戦後の民主化改革は、日本の政界の姿をある程度変えた。左翼革新派の代表としての日本社会党が結成され、共産党も再建された。
保守派の側では自由党や協同党が次々と登場した。14年を隔てて、日本の政党政治が一夜にしてよみがえったかのようだった。だが戦後の米ソ対立によって始まった冷戦によって、日本の民主化改革は大きくその勢いをそがれることとなった。
日本の右翼の罪が徹底的に問われることがなかったのは、冷戦期において米国が自身の勢力の拡張により、ソ連に対抗し、中国を抑制し、世界の霸権を打ち立てることを必要としたためである。
在日米軍最高司令部は日本の右翼勢力を公に支持しただけでなく、日本の左翼を激しく弾圧した。米国にとって、左翼の「革新派」分子は、モスクワの潜在的または公の支持者と見られたのである。
このように戦前は発育不良、戦後は発育失調で、今では発育畸形に陥った日本の左翼は、日本政治にとっての脇役にすぎなくなった。1990年代には、バブル経済の崩壊によって、日本国内の左翼政党には復活の兆しが見られ、自民党一強の「55年体制」もすでに終わったと多くの人が考えた。
だがこれらすべては経済的な動揺が政治レベルに表れた微弱な波動にすぎなかった。実際には、政権は依然として、自民党を筆頭とする右翼勢力の手に握られている。日本の右翼の基盤は堅固で、日本経済の動揺の影響を受けることはなかった。
今日に至っても、安倍首相による改憲という政治的茶番、防衛白書のでたらめな結論、一部政治家の歴史問題に対する恥知らずなたわごとが続出している。これは一体何を意味しているのか。
右翼の一強は、日本においては歴史的事実であり、今日においては政治的な現実である。
自民党などの右翼勢力と互角に戦うことのできる左翼勢力が日本で見つからない今、議会民主制の力の均衡という原理の学術的な視点から見れば、日本政府の基本的な政策の方向性は、絶対的な優位を占める政治集団による自身の利益の最大化の追求の産物になるしかない。
URLリンク(japanese.china.org.cn)
>>2以降に続く)


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