【京都】在日コリアン ..
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2:ねこ名無し ★@\(^o^)/
16/06/30 00:16:28.07 CAP_USER.net
>>1の続き)
 ウトロの守り手として活動している南区同胞生活センターのキム・スファン代表は「ウトロの歴史性を排除して不良住宅改善事業だけが進行されている現状況」が根本的な原因だと指摘した。
1941年、当事の日本政府が京都軍用飛行場を建設するために在日朝鮮人1300人余りを動員した結果、ウトロ地区は自然形成された。
1989年に日産車体から土地を購入した西日本殖産が住民に対して強制退去を要求し、土地明け渡し訴訟を提起したため住民は追い出される危機に瀕した。
日本の最高裁は2000年に退去決定を下し、その便りが知らされると、韓日の市民がウトロ地区保存のための募金運動に乗り出し、韓国政府も支援に動き問題解決の出口を開いた。
紆余曲折の末、募金でウトロ地区の約3分の1にあたる土地2000坪を買い取ることにしたが、為替レートの変動と地価上昇で計画より面積を減らして土地はようやく買ったが、建築費の調達は見通しが立たなかった。
そこで住民と彼らを支援する市民社会団体は、日本の行政府を説得し、こちらに公的住宅を作るというアイディアを出した。
当面住民たちの住むところの用意も困難な状況で、在日朝鮮人たちの哀歓を保管しているウトロの原形を一部でも守ろうという要請は、まったく議論の対象にすらならなかった。
住民たちを支援した日本の市民社会団体関係者たちも、事業の取消を憂慮して、日本行政府との交渉で“歴史”には触れないよう助言した。
反省のない日本の歴史無視が「ウトロ町づくり」を通じて在日朝鮮人の痕跡抹消という形で現れた。
 今後4〜5年かけて、1次と2次に分けて進行される工事が完了すれば、ウトロの住民たちは新たに建てられる公的住宅に入居して暮らすことになる。
計画どおりに進めば、ウトロには強制徴用された独身者の宿舎として1980年代中盤まで人が暮らしていた「飯場」も、住民会館「エルファ」もなくなるだろう。
滑走路に使う土を掘り出したために周辺の日本人居住区域より地盤が低く、頻繁な浸水で苦労して、地面に板を一枚ずつ重ねて当てながら完成したウトロ住民たちの家は、それ自体が住民の屈曲した人生を見せる歴史の本だ。
だが、それもまた新しいウトロにはない。
 一日の仕事を終えた油圧ショベルが唸りを止めて日が沈む。漆黒の闇と沈黙の中に埋められていくウトロの町のように、私たちの辛い歴史の一頁が消えていく。
ウトロ/イ・ジョンア記者
(おわり)


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