浜田省吾 ON THE ROAD Part229 at MUSICJM
[2ch|▼Menu]
127:NO MUSIC NO NAME
21/07/19 18:09:10.54 uJ/dwoim.net
>>62
本当に、そう、かい? 
URLリンク(www.uta-net.com)
気分爽 甲斐(=^◇^=)
URLリンク(www.uta-net.com)
>>44
前のスレッドで、八月の歌は、
↓のファンクラブ会報引用部分を投稿したんで終了しておったと思ったんじゃが
意味もなくまた出没しましたね(笑)
【Road&Sky 227】号の引用 P.32
 オリジナルとの変更点はほかに
♪八月の歌♪のタイトルを
♪八月の歌 1974♪に。
  これは、1974(昭和四十九)年、
 当時の首相の田中角栄がアジアを訪問した際に、
 インドネシアで反日の暴動が起きた事件を
 背景とした歌であるということを
 明確にするための変更です。
 ┏━━━┓
 ┃ マラリ事件 ┃
 ┗━━━┛
 1974(昭和49)年01月14日(月)、田中角栄首相は東南アジア歴訪の最後の訪問国としてインドネシアを訪れるべく、ジャカルタのハリム空港に到着した。しかし、デモ隊によって空港から迎賓館への主要道路はすべて封鎖されており、迂回して迎賓館へ向かった。迎賓館での会議そのものは平穏無事に終わったが、迎賓館の外では暴動が過熱し[4]、3日間にわたる内乱の中で、11名が殺され、17名が重篤な傷をおい、120名が負傷、おおよそ770名が拘束された。また、1,000台以上の車両が破壊され、144棟の建屋が破壊されるか焼損するかした[4][5][6]。暴動の様子は日本国内でもテレビ中継され、インドネシア国民の激しい反日感情に日本国民は衝撃を受けた。スハルト大統領は田中との会談の最中、暴動に関して遺憾の意を表明した。デモの中心となった学生運動家たちは、日系企業がスハルト側近の将校たちや華人系財閥と癒着してビジネスを拡大しているとして暴動を起こしたとされている。結局、田中はインドネシア訪問の最中、迎賓館から出ることは一度もなく、インドネシアを発つ
 1974(昭和49)年01月17日(木)にはヘリコプターで空港まで向かう羽目になった[7]。インドネシア政府は事件から一週間後、「暴動は政権打倒と憲法改正を目指す謀略だった」との結論を発表した。当時の治安責任者だったスミトロ(インドネシア語版)は更迭されるが、後に権力の座に返り咲いた[2]。
 マラリ■URLリンク(ja.wikipedia.org)
 音源◆URLリンク(youtu.be)


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
暇つぶし2ch

1062日前に更新/103 KB
担当:undef