江藤新平・副島種臣と幕末佐賀藩 Part3 at HISTORY2
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1:名無しさん@お腹いっぱい。
15/03/22 10:42:36.06 t8aoYO4P0.net
江藤新平・副島種臣と佐賀藩について
URLリンク(bakumatu.blog.jp)
江藤新平・副島種臣と佐賀藩
スレリンク(history2板)

134:名無しさん@お腹いっぱい。
20/07/03 10:23:21.40 wZtxnk0R0.net
日本を破滅に追い込んだ佐賀県人
宇都宮太郎・・・反長州の最先鋒。武藤に派閥を継承する
武藤信義・・・関東軍司令官。松岡洋右が国際連盟脱退を踏みとどまる交渉中に独断で熱河作戦を断行。国連脱退を決定付けた無能
真崎甚三郎・・・皇道派の頭目。参謀本部次長。二・二六事件など青年将校の暴発を焚き付けた
牟田口廉也・・・説明不要の無能ハゲ
小笠原長生・・・東郷平八郎の腰巾着。東郷の威光を笠に着て伏見宮博恭王や加藤寛治と共に海軍条約派を粛清

135:名無しさん@お腹いっぱい。
20/07/19 05:51:36.74 4V0wihnb0.net
宇都宮太郎の息子でミノファーゲン製薬創設者の宇都宮徳馬は父親を庇っている
父の朝鮮軍司令官時代に、三・一独立運動、いわゆる万歳事件が起こった。
これは大正八年(1919)3月1日から約1年間にわたってつづけられた、日本の統治における
朝鮮民族の独立運動で、それは日韓合併後、日本の統治に反対する最初の、
そして唯一の公然たる大衆運動であった。
デモの群衆が「朝鮮の独立万歳」を絶叫したところから、万歳事件と呼ばれる。
この背後にはアメリカ人宣教師があったが、父は独立運動の幹部とも接触し、
事態の収拾に全精力を傾けた。長期にわたったこの事件で、父はまったく心身を労し、
これが父の死の直接の原因ともなるのである。
父を非難するなど、自国の歴史を知らなすぎると私は声を大にして言いたい。
現に私の手もとには、朝鮮の歴史家、朴殷植による『朝鮮独立運動の血書』(東洋文庫)があるが、
この中に次のような記述がある。
『いまや全国民の連動は、日1日と燭烈さを加え、総督・長谷川好道は、大兵力を動員して徹底的鎮圧の
計画をたてていた。しかし、軍司令官宇都宮大将はこの計画に抗議して、『朝鮮民族は、五千年におよぶ
歴史的精神をもっている。威圧によってこれを服従させることは、けっしてできない。わたしは兵力を動員できない』と言った。
しかし長谷川は、本国政府に電報をうってあらたに増援軍の派遣を要請し、ほしいままに虐殺をおこなった」
この一節をもってしても、父への非難がいかにいわれのないものであるかが明白だろう。
万歳事件のあと、原敬内閣は父を朝鮮総督に推したが、おそらく山県有朋の反対によってであろうが実現しなかった。
万歳事件の心労から翌大正九年、父は病を得て帰国し、軍事参議官に任ぜられた。そして大正11年2月14日、62歳で逝去した。
宇都宮徳馬『暴民損民」徳間書店(1984年、18-24P)

136:名無しさん@お腹いっぱい。
20/07/19 06:10:01.14 4V0wihnb0.net
実働部隊を持たぬ総督が実働部隊の長である司令官の反対を押し切って虐殺できるのかという疑問も湧くが
牟田口廉也も葬式で自信を正当化するビラを遺族に配布させているし佐賀県の人間は嘘でも正当化を試みる気質なのだろう
ともかく暴動鎮圧の責任者であった宇都宮司令官は虐殺の存在を公的に否定し続け大将に出世したが
長谷川総督は不逞鮮人の暴動者の殺害があったと公的に認めたので全責任を転嫁されて更迭されたので
政府として長谷川総督は都合悪い存在だったのは確かなようだ


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