【九州説】魏志倭人伝 ..
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337:日本@名無史さん
24/05/01 21:28:32.07 .net
ハプログループO1b2 (Y染色体) Wikipediaより、
「周姓」を名乗る者が多く、湖南省の中でも特に湘潭市(全男性人口の約2.05%)、
益陽市(約1.67%)、長沙市(約1.29%)等湖南省北東部に集中して分布している。
『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、
倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。
姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。
論衡(巻一九、恢国篇)成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す
成王(在位:紀元前1,022年〜紀元前1,002年)の時、
越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず。
日本には、紀氏、木氏、岸、喜志、貴志、キシ音、などなど引っ掛かるな!!!

338:日本@名無史さん
24/05/01 21:39:16.86 .net
中華の5王だった

339:日本@名無史さん
24/05/01 23:44:24.40 .net
それを中共政府が最近のDNA分析で解ってるが、
公表は絶対できない国家機密である。
東夷、淮夷、などが夏殷周時代によく出てくるが、彼らが倭集団だったような気がする。

340:日本@名無史さん
24/05/02 03:48:26.78 .net
それ殷の箕子の可能性もあるかもな

341:日本@名無史さん
24/05/02 05:49:43.54 .net
九州倭国王は阿波君という称号らしいな

342:日本@名無史さん
24/05/02 09:16:36.52 .net
《邪馬台は「ヤマト」と読む》
「邪馬台国はどこにあったのか論争」に歴史学者が画期的新説
URLリンク(bunshun.jp)
桃崎 有一郎

343:日本@名無史さん
24/05/02 10:07:23.04 .net
あちこちにイトコク→伊都国と書いてあるのにわざわざ台をトと読むわけ無い

344:日本@名無史さん
24/05/02 10:49:39.61 .net
邪馬台国が東遷したのが大和朝廷だから発音はヤマトに決まってる

345:日本@名無史さん
24/05/02 11:11:23.86 .net
隋書にすらヤマツァイって書いてあんだから
いい加減奈良の大和はヤマタイですって認めろってw

ところで後漢書や魏志にある邪馬臺はヤマダですね

346:日本@名無史さん
24/05/02 14:04:30.95 .net
現在では、タイに近い発音だね

347:日本@名無史さん
24/05/02 14:06:35.11 .net
トでもタイでも、インドでも良いと思うが

348:日本@名無史さん
24/05/02 14:42:10.19 .net
大和政権は九州倭国王の手下に過ぎなかったのに
天皇の称号も歴史も奪った
勿論最後の邪馬台国天子は筑紫の君磐井

349:日本@名無史さん
24/05/02 15:19:09.74 .net
携帯天皇も明らかに簒奪者
謎が多い 
日出る天子まで九州倭国はあるはずなので
本物の邪馬台国は600年はまだ有る
何かが嘘だ

350:日本@名無史さん
24/05/02 15:50:51.10 .net
>>341
阿波君の祖「息長田別命」は、日本武尊の皇子。
阿波君の祖・息長田別王子の陵墓? 「山ノ神古墳」   @阿波
URLリンク(kohun-jinjya.blog)

351:日本@名無史さん
24/05/02 17:46:49.74 .net
>ここにある、奴国王( ぬのみこと)が幼名・子供時代の名。
「神武天皇」
狭野尊(さののみこと、さぬのみこと) - 『日本書紀』第十一段の第一の一書での幼名。
若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』

352:日本@名無史さん
24/05/02 21:44:08.38 .net
隋書に言うアマテラスヒコこそ太陽神
天照大神であろう

353:日本@名無史さん
24/05/03 08:36:16.08 .net
>>343
むしろ逆
元々ヤマトだったのがヤマタイとよばれるようになった
それは何故か?
ヤマトが福岡訛りでヤマタイになったたいね

354:ネトウヨボクメツタイ!
24/05/03 09:40:38.83 .net
伊都国には日時計の超複雑系なものがあって、日の出が東の山のどの位置から始まったかによって、かなり正確な暦を割り出す事が出来ていた
中国の暦とは一〜二日ほどずれることもあったようだが、農業で用いるには誤差の範囲内だろう
どうやらこの伊都国の暦が北九州各国で使われていたようである
つまりこの伊都国に「ひじり=日知り=聖」つまり天の道を知っている人がいたわけだ
そしてこれと同じものが纏向に存在していた
つまり纏向にも「ひじり=日知り=聖」がいたわけだ
倭国の大王はひじりでなくてはいけなかった
ちなみに唐子鍵には、ここまで凄いものはなかった
つまり伊都国からひじりが纏向にやってきたのだ
伊都国は「ひむかし=日向かし=東向き」で正確な暦を作れる稀有な場所つまり聖地ヒムカで、それが纏向で再現されていたわけだ
ヤマトの大王家がヒムカからやってきてヤマト王権を建てたという伝承は伊都国王家が纏向王権を建てたという歴史的事実の神話化であろうと考えられよう

355:
24/05/03 09:50:44.52 .net
九州説は奴国(福岡市)と狗奴国(熊本県菊池市以南)の間に、
投馬国と邪馬台国と
「遠くて戸数・距離がわららない国々」を詰め込まないと成立しない

356:ネトウヨ撲滅隊!
24/05/03 10:19:18.56 .net
伊都国の王家が畿内の纏向に第二のヒムカを作った
これがヤマト王権すなわち邪馬臺國であり、倭の諸国の盟主として後の日本国に発展していったのだろう
糸島と纏向以外で正確な暦を作れるような装置は見つかっていないからな
東に幾つもの山を備えていて、そして西のある一点からそれらの山々を見ると尾根や峠の位置が正確に冬至や春分などを把握できる奇跡的にな地理条件の土地はそうはあるまい
このような地理的条件を備えた国は伊都国とヤマト王権の纏向しかないのだ
九州に倭王がいたのなら伊都国だったはずであり、伊都国以外が邪馬臺國ならば、それは纏向しかないのである

357:日本@名無史さん
24/05/04 11:40:37.86 .net
>>356
後漢書に記されている通り、邪馬台国連合は後漢時代ですでに代々王を継いできた30国からなる連合国だ
纒向に代々王が居た形跡は無いんだが?

358:
24/05/04 15:00:57.30 .net
九日本州

359:日本@名無史さん
24/05/05 11:51:52.55 .net
九州をいつ言い出したか不明だが
九州は全世界を意味する
かつて倭国といえば九州が全てであったろう

360:日本@名無史さん
24/05/05 12:05:59.55 .net
それが勘違いのもとw
九州の律令時代は九国w

361:日本@名無史さん
24/05/05 12:11:54.41 .net
wつけて恥ずかちい

362:日本@名無史さん
24/05/05 19:16:41.96 .net
神武の東征はあった
奈良盆地と筑後川流域の
地名が驚くほど類似
URLリンク(nikkan-spa.jp)

363:日本@名無史さん
24/05/05 20:40:52.55 .net
「邪馬台国は徳島」説に熱視線、歴史系ユーチューバーら紹介…
映画化した男性「こんなに面白い話はない」
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

「邪馬台国は徳島にあった」とする
「邪馬台国阿波説」に着目した地域活性化への取り組みが進んでいる。
徳島県内の郷土史家らが神話や出土品の分析を通じて主張している新説だが、
昨年頃から興味を持った多くの歴史系ユーチューバーが取り上げ始めた。

現地ツアーなどで観光客を呼び込もうとする動きも出てきており、
県も後押ししている。
有力2説に対し、阿波説では、
魏志倭人伝に記された朝鮮半島から邪馬台国までの距離や行程を分析すると、
徳島に行き着くと主張。
畿内説や九州説は距離の単位や方角の解釈が誤っているとする一方、
県内の神社や遺跡などには、記述と一致する特徴が多々あるとしている。

例えば、阿南市の国史跡・若杉山遺跡では、
赤色顔料「朱」の原料となる鉱物「 辰砂しんしゃ 」や過去に使った石臼などが採掘されており、
「その山に丹(辰砂)あり」との記述に一致しているという。

364:日本@名無史さん
24/05/05 22:57:06.94 .net
アワオコシ

365:日本@名無史さん
24/05/06 02:40:26.67 .net
丹てのは土器とか木器に塗る赤い染料のことやろ

366:日本@名無史さん
24/05/06 02:41:21.00 .net
水銀朱を用いるから中毒が起こる場合もあるんだわな

367:日本@名無史さん
24/05/06 02:42:36.65 .net
倭人は顔に丹を塗っていたとかって話はないのか?
日本でも昔は行っていたことだからよ

368:日本@名無史さん
24/05/06 03:17:12.58 .net
女王国に至る行程は魏時二回の遣使の
説明に拠り知り得た倭の30国の情報で

其の従郡至倭の報告書の引用であって

1、247年帰国の倭人船で伊都に到り
 常駐した一万五百里の積算と
2、240年、金印の女王の処都迄の
 南至、水行30日と陸行一月の合計、
 一万二千里、の 二件の行程。

其の山 丹有り、
の 其の は倭国の物産の話で
畿内、九州、四国、関東を問わない。

369:日本@名無史さん
24/05/06 07:27:20.71 .net
>>368
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度だろう。   @阿波

370:日本@名無史さん
24/05/06 10:31:15.80 .net
魏志倭人伝を間違って読むレスだから、当然の結果

371:日本@名無史さん
24/05/06 10:31:46.69 .net
スレの間違い

372:日本@名無史さん
24/05/06 22:08:58.28 .net
【古代日本】鹿児島で古代の権力機構を示す古墳遺跡が発見される
弥生後期から古墳時代前期の遺跡がある鹿児島県鹿屋市の名主原遺跡で
直径約20メートルの溝に囲まれた墓とみられる遺構が見つかった。
県内の古墳に詳しい鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也教授(考古学)は
規模や形状から前方後円墳や円墳など畿内から広がった古墳と判断しており
「県内最古級の可能性がある」と指摘している。
現地に急行した橋本教授は、弥生時代は同規模の墓が群集して見つかるのに対し
古墳が大規模で独立して存在する点に着目。
「溝で区切った一定の空間を確保し、大きさで権力や地位を示す古墳と考えられる」と解説。
大隅半島には古墳時代前期の塚崎古墳群(肝付町)があるが、見つかっている土器の種類から
「塚崎古墳群が造成された時代か、それより前の時代ではないか」とかと推測する。

373:日本@名無史さん
24/05/06 22:15:18.81 .net
【古代日本】鹿児島で古代の権力機構を示す古墳遺跡が発見される
鹿児島県考古学会の堂込秀人会長は
「日本列島に権力機構の頂点を象徴する古墳が成立する時期に
 南九州にも古墳時代に階層的な社会があったのだろう」と推測する。
鹿児島県鹿屋市で発見された古墳時代の名主原古墳の遺跡
URLリンク(i.imgur.com)

374:日本@名無史さん
24/05/07 00:07:31.14 .net
伊都国王家の版図は筑前や長門から四国全域に及んでいたと見て良い。何故なら弥生末期の銅剣祭祀圏の広がりがこれであったからだ。
この勢力が畿内を征服したと考えれば、崇神の四道将軍派遣に筑前や長門や安芸や四国の国々が入っていなかった理由もすんなりと理解できよう。

375:日本@名無史さん
24/05/07 06:44:57.29 .net
>>374
>弥生末期の銅剣祭祀圏の広がりがこれであったからだ。

その銅剣祭祀圏の震源地が「阿波」。  また、銅鐸祭祀圏の震源地も「阿波」なのである。   @阿波

376:日本@名無史さん
24/05/07 14:53:12.59 .net
伊都国には、「都」がつかわれている。
卑弥呼以前は、倭国の中心だった。

377:日本@名無史さん
24/05/07 16:08:31.08 .net
>>376
倭人伝以前に伊都があった?
一大率は中央政権から
九州に派遣されていて
外交の管理が仕事なんだが?
250年以前で九州諸国以外の
貿易状況は考古学の分野だけどなw
日本海ルート諸国の船が検閲で
九州に上陸するのか?

378:
24/05/07 21:27:31.67 .net
如何様にも解釈できて笑ったw
傍国はイザナギ・イザナミの神話だった?w 考察
てか、勝手にそういう結論になった
斯馬  オノゴロ島から国産み
已百支 すでに沢山、枝分かれた国々
伊邪  イザナギ、イザナミによって
都支  カグツチも神産み準備万端w   
彌奴  神産みもして広く行き渡る
好古都 女子がカグツチにやられる
不呼  呼んでも返事がない
姐奴  母イザナミは亡くなる
對蘇  イザナギは黄泉で向き合う
蘇奴  母「蘇りできるか待って」
呼邑  待てなかったイザナギ
華奴蘇奴 得たいの知れない姿の母
鬼   鬼=魂とかしたイザナミ
為吾  イザナミ、激怒で一言
鬼奴  イザナミはシモベを放つ
邪馬  比良坂から逃げるイザナギ
躬臣  櫛で追っ手をおいはらう
巴利  桃で追っ手をおいはらう           
支惟  衆夷を動員する程の石で塞ぐ
烏奴  1000殺す1500産むの応酬  
奴   
傍国=方=四方=よも=黄泉w

379:日本@名無史さん
24/05/08 09:08:04.40 .net
次有 列記21国 
女王国=仮称、邪馬台国 
所属の21国は、
『次有』の、21回もの繰り返しで
此 尽処 に掛かる枕詞なのであって
これらで、
女王国の全ての国名
を書き尽くした、
と 言うこと。
南至、投馬国 以降
其南有、狗奴国までは、
240年の金印を届けた魏使による
女王国の詳細の説明報告書の引用。
里程と日程の二人の筆致の違いは明白だし、
陳寿は無駄に次有を21回も重ねる
筆法は使わない。

380:日本@名無史さん
24/05/08 09:52:02.71 .net
漢委奴国は古の倭奴国(ワド)

381:日本@名無史さん
24/05/11 05:21:15.80 .net
ヤマイコクは大和と言い張る連中は
倭面土国もヤマトと言い張ってるんだろうか?

382:日本@名無史さん
24/05/11 06:00:30.95 .net
倭国 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」
107年倭国王師升が発音 後漢宮殿書記が記録 倭面土
247年倭国民多数の発音 張政が記録 邪馬臺(台)
その後の外交など交流 多数者が調整 邪靡堆
720年日本書紀 倭の読みは 夜摩苔

同じ「やまと」を発音した場合、
倭国王族の貴族発音もしくは師升の個人的発音が、倭面土
その他大勢の倭人が発音すると、邪馬臺
に聞こえたということ。

383:日本@名無史さん
24/05/11 11:57:56.16 .net
流石に倭面土と邪馬臺では発音が違いすぎる

384:日本@名無史さん
24/05/11 13:08:22.49 .net
魏志倭人伝の「倭」と日本書紀の「倭」は文字は同じだが、違うものだろ

385:日本@名無史さん
24/05/11 13:12:18.60 .net
魏志倭人伝と畿内は関係ないし

386:日本@名無史さん
24/05/11 14:13:18.66 .net
>>384
倭は日本列島を意味する中国語だけど
女王国の自称国名は記録されてない。
女王南の狗奴国は、競合する隣国で
和音名だと判断出来るので
卑弥呼以前には、女王国の自称国名が
委奴国、であった可能性は高い。 
伊都?
107年、面土国、
面都国の時も有ったかも?

387:日本@名無史さん
24/05/11 14:22:17.32 .net
委奴国、そのような国は無い
「中 日
 国 本」
この様な印があったとして何を表すのか?
例えれば、仲が良い2ショット写真ですか

388:日本@名無史さん
24/05/12 01:33:29.55 .net
>>387
ヒーローインタビューは!ドラゴンズの国本選手でぇ~す!!

389:日本@名無史さん
24/05/13 22:49:38.99 .net
 歪められた日本古代史
朝鮮人が稲作を伝えたとか、日本人の先祖になったとかの説は誤りです。
では、なぜ、このようなウソ説が定説かのように流布し、
歴史教科書にまで記述されてきたのでしょうか。これには特殊な背景があるのです。

390:日本@名無史さん
24/05/13 22:51:36.45 .net
  GHQ日本人洗脳政策
戦後、GHQ洗脳政策(WGIP)による教職追放令で、一流の教授・教職員が大量に去り、
共産主義者の羽仁五郎氏を筆頭に左翼の教授・教職員が空席に座りました。
以後長く、日本否定・自虐史観の左派勢力が戦後歴史学の主導権を握り、
歴史教科書を執筆してきました。
また戦後の日本共産党は在日朝鮮人団体を基盤に勢力を拡大・維持してきましたから、
左翼系執筆者による歴史教科書は朝鮮中心史観に傾くのです。

391:日本@名無史さん
24/05/14 07:16:48.20 .net
URLリンク(youtu.be)
動画の中で海外での日本の歴史についての認識が語られている

392:日本@名無史さん
24/05/14 07:17:28.28 .net
百済、新羅が日本の前線での
保護国として建国された歴史に
なってないのは、そのためか?
倭人伝論争の齟齬の意味がみえた。
朝鮮投馬国で解決してはいけないのなw
白村江以前の百済、高句麗移民、
朝廷下の帰化人は日本貴族になり
以降の渡来人は分離されたのも
記紀の成立と関係あるみたいな?
GHQは共産党排除ではなく、
むしろ国家主義の排除に動いた。
日教組の異常性の原因?
大韓帝国の建国は、
古代韓の建国にちなんで建国された。
歴史を忘れた民族に未来は無い!
とか、言っちゃいそうwww

393:日本@名無史さん
24/05/14 07:21:27.13 .net
飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。   @阿波

394:日本@名無史さん
24/05/15 00:18:11.38 .net
日向神話に伊勢が出てくる
九州説の多くは北部に偏ってる。南九州説にも頑張って欲しい
南九州まで連携していたなら当然四国とも交流があったはず

395:日本@名無史さん
24/05/15 00:44:21.96 .net
>>394
URLリンク(i.imgur.com)
南九州まで含めずとも九州北部と四国には交流があったかもしれない

396:日本@名無史さん
24/05/15 05:45:52.06 .net
倭面土国ってのがつまり日本となるわけか?🤔

397:日本@名無史さん
24/05/15 05:47:25.18 .net
歴代書き換える必要が出てきたわけか🤔
倭面土国王がつまり天皇でそのころ邪馬台国の卑弥呼と倭国がなんか関係あったってことか?

398:日本@名無史さん
24/05/15 15:46:58.36 .net
倭部族集団が半島南部に居り、統治領域を段々広げた中に、
 「奴国」と言った最南端の国が有ると。つまり博多湾の奴国は南端の国ですと。
<漢文>
建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也。
<読み下し>
建武中元二年、倭奴国朝賀奉貢す、使人自ら大夫と称す、
 倭国の南界(ナンカイ)の極(ハテ)也。
<現代語訳>
建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国が貢物(ミツギモノ)を奉(タテマツ)り
 朝賀(チョウガ)した。使者は大夫(タイフ)と自称した。倭国の最南端の国である。
*平凡社東洋文庫『東アジア民族史』井上秀雄 訳注

399:日本@名無史さん
24/05/15 16:00:41.53 .net
・『山海経』(せんがいきょう、山海經、)は、中国大陸で書かれた地理書。
 戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されたもの。
『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、
二つの飾りの虎をいつもそばに置いている。(狛犬の事か?)
不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く長寿でなかなか死なない。
君子国も、不死国も、共に東方にある」とあり、『外国図』には、
「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れたところにある」とある。
帯方郡から邪馬台國までが、万二千里あまり。

400:日本@名無史さん
24/05/16 06:58:28.81 .net
>>390
明治~戦前の皇国史観から
大日本帝国による五国協和の王道楽土
対列強反共で傀儡、前線候国としての
大韓帝国、満州国の建国。

これが卑弥呼以降の半島進出
313年以降の対高句麗戦、
370年百済新羅の建国の歴史を
彷彿とさせる事は明らか。

半島国の歴史認識で
任那日本府、日本古墳、日帝残滓・・・
の否定。

邪馬台国が存在出来ない
応神以前の記紀の歴史が、
学術的に成立しないことは確かだが
GHQ教職追放令が、
唯一の解決、朝鮮投馬国w 
を排除した という、
学界戦後思想の黒歴史が有ったこと。
学者ががあがあ馬鹿な理由が判った。

朝鮮人の反発もめんどくさいし・・・
古代史の真実は5ちゃんにしか無いなw

401:日本@名無史さん
24/05/16 07:01:42.63 .net
違う!
古代史の真実は「阿波」にしか無い。   @阿波

402:日本@名無史さん
24/05/16 09:16:57.47 .net
倭面土国なら日本のイメージにもピッタリくる🤔
邪馬台国では日本人のイメージに合わないのや😄

403:日本@名無史さん
24/05/16 09:25:28.09 .net
「邪馬臺国」は「阿波」の北方、吉野川流域一帯を指す。   @阿波

404:日本@名無史さん
24/05/16 23:42:58.26 .net
今晩は、私は卑弥呼です

405:日本@名無史さん
24/05/16 23:44:43.80 .net
今晩は、私は天照大神です

406:日本@名無史さん
24/05/17 01:14:49.96 .net
はい、習近平は小熊のプーさんです。

407:日本@名無史さん
24/05/17 01:56:27.51 .net
邪馬台国の中の人間て中国人だろボケ😳

なにが日本人だよほんと呆れるわ🤪

408:日本@名無史さん
24/05/17 01:57:07.46 .net
日本人のことだの思いコマされてる日本人がバカだって結論にもなるしや

409:ネトウヨボクメツタイ!
24/05/17 08:49:38.06 .net
纏向は渡来人の居住地でもあったからな
卑弥呼の元には韓半島出身の官僚たちがいて政権運営を支えていたのだろう
倭人は祭祀の場で拝むのは好きだが文字を学ぶ気はなさそうだから渡来人がいないと全国政権は作れなかったろう

410:日本@名無史さん
24/05/17 09:22:57.78 .net
>>409
>倭人は祭祀の場で拝むのは好きだが文字を学ぶ気はなさそうだから

派閥(少数民族)によって異なるが、神代文字(阿波文字)を使っている。   @阿波

411:日本@名無史さん
24/05/17 14:58:20.01 .net
阿比留草文字(あひるくさもじ)とは甲骨文字草書体なのです。
弥生時代から行われてた亀卜、卜骨、太占占いで使用されたのが阿比留草文字です。

412:日本@名無史さん
24/05/17 15:08:48.07 .net
骨卜・亀卜の起源
古くは新石器時代の竜山文化期から、
もしくは甲骨文字でも知られる古代中国の殷代にその起源が遡るとされています。

『古事記』の国生み神話に「布斗麻邇爾卜相(ふとまに卜相ひて)」とあり、
また『日本書紀』には「天神以太占而卜合(天神太占を以ちて卜合ひたまひ) 」とあります。
これら『記・紀』の記述を鵜呑みにするのであれば、
太占は神代から既に日本に存在していたことになります。
弥生時代の卜骨から卑弥呼時代の亀卜占いと続いて居たのだろう。

413:日本@名無史さん
24/05/17 15:21:56.98 .net
卜骨は初期に畿内で出土、その後広まってるそうです。
大和のご先祖様が卜骨占いしてんだろ

414:日本@名無史さん
24/05/18 19:35:28.71 .net
弥生人は全部外来人で中国人か韓国人だよ

415:日本@名無史さん
24/05/18 19:52:37.31 .net
当時、中国人や韓国人はいないよ。
中国人や韓国人は1945年第二次大戦後に出来た国。

416:日本@名無史さん
24/05/18 23:03:41.57 .net
ジャップランドはサンフランシスコ平和条約が結ばれた1951年に独立を果たした歴史の浅い国

417:日本@名無史さん
24/05/19 02:39:34.42 .net
古代から中国人はいるし、韓国人と言わなくても韓人は古代からいる

418:日本@名無史さん
24/05/19 03:33:20.20 .net
邇々芸命「此地は、韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」

419:日本@名無史さん
24/05/19 03:35:22.13 .net
《昔、日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば桓武の御世にやきすてられしなり。》神皇正統記

420:日本@名無史さん
24/05/19 03:48:38.10 .net
倭人の風習ってなら日本人に関係あるけど邪馬台国の風習なんてのは日本人関係ないからどうでもよいわ

邪馬台国ってのは秦の始皇帝の末裔らのことやろ

中国人ら伝聞程度でしか話を聞いたことがないってことの証明だな

421:日本@名無史さん
24/05/19 03:49:34.65 .net
つまり秦氏と呼ばれた集団として日本で知られてる

422:日本@名無史さん
24/05/19 03:50:54.97 .net
秦氏と呼ばれた集団が古代倭人を奴隷としてたのか🤔なるほどなあ❗って話なわけこれ

423:日本@名無史さん
24/05/19 06:25:37.80 .net
>>422
顔文字くんはいちいち浅学が目立つ。
そうであれば韓伝で秦人について触れておいて倭人伝で触れないはずがない。
三国志をもっと勉強しなさい。

424:日本@名無史さん
24/05/19 06:48:31.48 .net
支那人、朝鮮人でよし

425:日本@名無史さん
24/05/19 12:47:38.58 .net
伊都国王家の版図は、筑前、長門、四国全域に及んでいた可能性が高い。これは、弥生時代末期の銅剣祭祀圏の広がりと一致する。

もし、この勢力が畿内を征服したと考えるならば、崇神天皇が四道将軍を派遣した際に、筑前、長門、安芸、四国の国々が含まれていなかった理由も説明できる。

426:日本@名無史さん
24/05/19 12:48:47.10 .net
伊都国には、「都」が使用されている。しかし、卑弥呼以前の倭国の中心であったという説には、近年では疑問が呈されています。

427:日本@名無史さん
24/05/19 12:49:47.99 .net
倭人伝以前に伊都が存在していたという従来の説は、最新の研究結果に基づいて修正する必要がある。弥生時代中期後半から後期にかけての豊富な考古資料から、伊都国は2世紀後半以降に成立し、独自の政治体制や文化を形成・発展させていったことが明らかにされている。

一大率は、女王国から諸国を監督する役職であり、外交の管理だけでなく、諸国の服属状況を監視し、女王国の権威を維持する役割も担っていたと考えられる。

250年以前の九州諸国以外の貿易状況は、考古学資料の分析によって明らかにする必要があるが、近年では遺伝子解析や海洋考古学などの新しい手法を用いた研究も進められており、従来の考古学資料だけでは分からなかった情報も徐々に明らかにされ始めています。

日本海ルート諸国の船が、伊都国の港で検閲を受けてから九州各地へ上陸していた可能性は十分に考えられる。伊都国は、外交拠点としての役割に加えて、海上交通の要衝としての役割も担っていたと考えられている。

428:日本@名無史さん
24/05/19 12:56:52.47 .net
奴国は、1世紀から3世紀にかけて北九州地方に存在したと推定される倭人の国です。
邪馬台国と並んで、古代日本における重要な政治勢力の一つと考えられています。
近年の発掘調査によって、奴国の政治・経済・文化に関する新たな知見が得られています。
今後も奴国に関する研究は進展していくことが期待されます。

429:ネトウヨ撲滅隊!
24/05/19 12:57:48.43 .net
伊都国が大王家の本貫ヒムカの地で、桓霊の頃にこの勢力が卑弥呼という巫女を旗印に諸国を糾合して畿内を征服して邪馬台国が誕生したのだろう
邪馬台国を建てた男王が神武のモデルになったヤマト王権の初代王で、彼に担がれた神輿が卑弥呼と考えれば一番話がスッキリする
早期ヤマト王権の男王は宗教的権威性に欠けていて、神の妻たる巫女を表に出さなければ国の統合ができなかった
卑弥呼亡き後に男王が直接政治をしようとしたら国が混乱して結局台与を看板に建てたのだと考えるべきである

430:日本@名無史さん
24/05/19 12:58:14.46 .net
AI臭え長文は片っ端からNG

431:日本@名無史さん
24/05/19 13:00:51.56 .net
『山海経』(せんがいきょう、山海經、)は、中国大陸で戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて編纂された地理書です。
『山海経』には、「君子の国は衣服を着用し、剣を帯びて獣肉を食べ、二つの飾りの虎をいつもそばに置いている」と記されています。君子国は琅琊(現在の山東省青島市黄島区)の東にあるとされていますが、具体的な位置関係は不明です。
君子国と同様に、不死国も東方にあるとされていますが、2つの国の間に直接的な関連があるかどうかは示唆されていません。不死国の人々は色が黒く、長寿であるとされています。
帯方郡から邪馬台国までの距離は約12000里と推定されています。
現代の研究では、君子国は架空の理想郷と考えられています。君子国の記述は、当時の中国の人々が東方の未知なる世界に対して抱いていたイメージを反映していると考えられます。

432:日本@名無史さん
24/05/19 13:05:10.21 .net
卜骨って、弥生時代後期後半から使われ始めて、古墳時代前期には西日本各地に広まってたみたいですね。まさに、大和朝廷のルーツに繋がる占いと言えるでしょう! すごい歴史を感じますよね。

433:日本@名無史さん
24/05/19 13:06:32.22 .net
纏向は渡来人の重要な拠点だったんだよな。 最新の研究では、古墳時代前期から中期にかけて、纏向には多くの渡来人が居住していたことが分かっているんだ。特に、百済や高句麗から来た人たちが多く、政治や文化、技術面で大きな役割を果たしていたと考えられている。
卑弥呼の時代には、朝鮮半島出身の官僚たちが政権を支えていた可能性が高いんだ。 邪馬台国に関する文献には、卑弥呼の下に「難波の男」と呼ばれる官僚たちが仕えていたという記述がある。この「難波の男」は、朝鮮半島から来た渡来人を指すのではないかと考えられているんだ。彼らは、文字や政治制度など、大陸の先进文化を持ち込み、卑弥呼政権の運営を支えた重要な役割を担っていたのだろう。
倭人は祭祀を重んじる一方で、文字を学ぶことに消極的だったようだ。 当時の倭人は、神々への祭祀を非常に重要視していた。しかし、漢字などの文字を積極的に取り入れることはせず、独自の口頭伝承文化を維持していたと考えられている。そのため、広大な領土を支配するような全国政権を築くためには、文字に堪能な渡来人の力が不可欠だったんだ。

434:日本@名無史さん
24/05/19 13:45:55.49 .net
明治以降の皇国史観に基づく、「大日本帝国による五国協和の王道楽土」という考え方は、学術的に否定されています。

実際には、大韓帝国と満州国は、日本の傀儡国家として建国され、日本の植民地政策の一環として利用されました。

このことは、卑弥呼以降の朝鮮半島進出、313年以降の高句麗との戦争、370年の百済・新羅建国など、過去の半島との関係と酷似しています。

しかし、半島諸国の歴史認識では、任那日本府、日本古墳、日帝残滓といった日本の歴史的痕跡は否定されています。

邪馬台国や応神天皇以前の記紀の内容が史実であるかどうかは、学術的に議論が続いています。

しかし、GHQによる教職追放令によって、朝鮮半島を日本の植民地支配下に置いたという「朝鮮投馬国」説が排除されたことは、戦後の学界における思想統制の一例として、批判されています。

つまり、過去の学問における偏見や政治的影響によって、真実の歴史が歪められていた可能性があるということです。

現代の研究では、文献や考古学資料に基づいた客観的な分析が進められており、過去の固定観念にとらわれない、より真実の歴史像が明らかにされつつあります。

435:日本@名無史さん
24/05/20 03:52:15.47 .net
邪馬台国なんて中身は中国人(始皇帝の末裔集団)だろ
そんなもんがヤマト朝廷になったとか言われても

436:日本@名無史さん
24/05/20 03:53:20.14 .net
漢の時代には迫害されてるからなその連中ら
ま〜仕方ないだろ

437:日本@名無史さん
24/05/20 03:54:08.68 .net
どおやったらそれを縄文人だの受け取り勘違いすることができるんだ?

438: 警備員[Lv.7][初]
24/05/20 10:20:06.69 .net
>>434
「朝鮮投馬国」は、説では無く
倭人伝を正しく読む為には、他が有り得ない
文章の構成上の事実。

三国志の邪馬台国は国家形成以前の歴史であって、
漢四郡や馬韓王域でも無ければ
国境以前に植民地政策も必要ないので
南岸の貿易港の都合などで
勝手に入った移民は居たとしても
朝鮮半島を日本の植民地支配下に置いた
という歴史の話でもないです。

百済は日本の前線地域として
372年の朝貢で建国しましたが、
中國から見ても、日本から見ても
植民地ではなく候国です。

七支刀や人物画像鏡、広開土王碑を見ると
傀儡建国だったようには見受けられます。

439:日本@名無史さん
24/05/20 10:30:25.93 .net
七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世

表は七支刀が晋で作られた経緯。 宜供供侯王は、百済近肖古王、余句である。
朝貢によって百済候となったから晋帝は百済王を侯王と呼んだのである。
名前の字がおかしいのは漢字が無かった百済音の漢字変換だからである。

倭の五王の高句麗交戦と半島利権の主張の南朝外交は400年以降であり、
370年で、この侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は漢字を伝える属国教化ための博士も送っている。
百済余句王はこの博士も馬2頭を付けて日本に献上した。
日本はこれによって中国国家、漢字を知り倭の五王外交に繋がった。
完全な傀儡立国なのである。

裏は百済王の請願。聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。
百済王が世子=王子を倭王(聖帝)に委ねるのに際して、
晋王から下寵された刀の由来を示し忠誠の証として献上している。

和音、ひじりのみことに、聖帝の字を当てたのは、
百済王を日本の帝の下位に置くための謙譲である。
百済は九州諸国同様、日本の新参一領主国であった。

これ以降、百済王には倭人王族の姫が嫁ぎ、
王子は外戚であり、日本で宮を持ち
貴族待遇で養育されている。

440:日本@名無史さん
24/05/20 10:46:17.41 .net
【隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文】
癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟
意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、
辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。

この金石の503年は倭の五王武、雄略の最後の遣使の後であり、
継体は雄略の父、允恭天皇の後宮をも継承し百済王の朝貢を受けた。
允恭の皇后から直系でなければ押坂の宮には入らない。

この後、継体は倭の五王外交を終わらせ、
傀儡百済による中華文明吸収に転換する。

百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。
今州利は、伝承によって?武寧王の父だか祖父だかの
蓋鹵王の和名が加須利君である事から王子と考えられ
斯麻が王子を天皇に託す歳に献上した銅だったと思われる。

百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、
大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。

441:日本@名無史さん
24/05/20 10:50:19.92 .net
「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子の時代には存在していた名前である。 
「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、
もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 
また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
この日下姓をとってみても、記紀は東四国地方を記したものと言える。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

442:日本@名無史さん
24/05/20 14:07:58.24 .net
>>441
ズラズラ並べただけだな。

443:日本@名無史さん
24/05/20 14:58:02.77 .net
>>442
お前には並べられない。   @阿波

444:
24/05/21 17:15:26.69 .net
てすと

445:日本@名無史さん
24/05/22 20:51:39.61 .net
結論
三世紀の邪馬台国が数世紀かけて漢化したのが八世紀の大和国。

446:日本@名無史さん
24/05/23 08:55:57.62 .net
邪馬台国は何処にあったどんな国ですか?

447:日本@名無史さん
24/05/23 09:01:45.95 .net
>>446
「阿波」の北方にあった国だ。 大河吉野川流域に広がる集落群の相称。
一方、「狗奴国」は「阿波」の南方にあった国。 「海人族」である。   @阿波

448:日本@名無史さん
24/05/23 09:04:02.40 .net
>>447
ハッキリ書けるのは@阿波だけだろう

449:日本@名無史さん
24/05/23 13:54:17.00 .net
>>446
パプアニューギニアかジャワ島が有力

450:日本@名無史さん
24/05/23 14:41:29.46 .net
ジャワと邪馬台国は似てるな


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