【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾 at HISTORY
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200:日本@名無史さん
24/04/16 03:35:13.60 .net
方角は修整するのに
他の科学的なアプローチは
無視していくのはなんなんだろうな
現代人が木船で2回失敗してるのも認めない
渦潮のとこ行ったら死んでたろ

201:日本@名無史さん
24/04/16 12:37:51.53 .net
>>193
>>162 にも書いたが
一次情報である距離と方角から
一万二千里のうち不弥国までで一万七百里だから残り千三百里。
水行は一日で千里だから、その後の水行二十日や水行十日陸行一月は無理なので
この二つの出発点は自動的に帯方郡ということになり、千三百里は誤差とするしかない。
また、邪馬台国は東の海の千里先に倭人がいるのだから九州の東海岸を含むことになる。
一次情報を改竄して好きな場所に邪馬台国を比定するのはご自由にw

202:日本@名無史さん
24/04/16 12:46:06.04 .net
『翰苑』(廣志)
邪届伊都 傍連斯馬
廣志曰 倭國 東南 陸行 五百里 到 伊都國 又 南 至 邪馬嘉国
百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載
次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國
(魏略)
従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千里
始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴
南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里
又度海千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都国 戸万余 置曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚
其国王皆属女王也
女王之南 又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至 女国万二千余里
どちらも、行程で九州から出ていません。
陳寿は240年梯儁の邪馬台国女王国21国に関する報告書と
247年張政の倭人船同乗での伊都までの里程行程と一大率の報告書
を併記しました。
陳寿の文は、九州上陸で歩行後に船に乗りますが
末盧國に戻らなければ水行は無理です。 ココからは、
明らかに別人の筆致の報告文で起点は帯方郡で行程が重複します。
廣志、魏略の編者は、この重複を避けて
女王国までの、直列行程にしました。
魏略は邪馬台国まで国飛ばしてその南の狗奴国へw
これらは、梯儁による、投馬国、邪馬臺国の仮称が
意味不明で自分の理解できる範囲で、行程を纏めてあります。
邪馬臺国は仮称だけど女王国の国名が無いので
臺でなければ、邪馬嘉国でも邪馬壹国でも良かった。

203:日本@名無史さん
24/04/16 17:49:22.38 .net
『翰苑』(廣志)
邪届伊都 傍連斯馬
廣志曰 倭國 東南 陸行 五百里 到 伊都國
又 南 至 邪馬嘉国
百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載
次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國
廣志本文は、邪届伊都 傍連斯馬 だけですが、
唐代の注で到 伊都國から、
次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國が
又 南 至 邪馬嘉国 
の九州内の行程に有ったことが判ります。
百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載
は、陳寿の倭人伝を読んだ唐代注者の文言
魏志のような女王の処都以北の島名、行程、所属国の
地名や道里、戸数の詳細は、略載されていません。

204:日本@名無史さん
24/04/16 18:20:16.29 .net
(魏略)
従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千里
始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴
南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里
又度海千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都国 戸万余 置曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚
其国王皆属女王也
女王之南 又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至 女国万二千余里
魏志により近いけれど、梯儁による仮称、後に別名の
投馬国=弁韓、邪馬臺国=女王国は排除しました。
邪馬台国の名称は陳寿による梯儁報告書からの引用だけで、
陳寿、帳政、魏略、廣志でも採用はしていません。
梯儁が漢字にした和音の次有邪馬国に卑弥呼の臺が有りました。
もうひとつ、
南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里
壱岐なので陳寿の一大国は一支国だと思いますが、じゃなくて、
置官、魏志の官有ではなく、官を置いた、の主語は魏使でしょ?
現地雇用の通訳案内人です。戸数航路など知る責任者でしょう。
卑狗 は 狗 邪国の役人で誰か? 
卑奴は倭人の奴国船に同乗した卑 奴の もり君、です。
倭人名は、概ね所属国の後に個人名を名乗ってます。

205:日本@名無史さん
24/04/16 18:33:36.81 .net
わすれたw
梯儁と張政の筆致の違いで
帳政の報告書には、到と至るの使い分けが有るのですが
これが反映しているので、
廣志、魏略、共に、筆致の違う二人、
梯儁と張政の報告書を見て、まとめています。

206:日本@名無史さん
24/04/16 19:46:14.05 .net
>>193
>>2-3

207:日本@名無史さん
24/04/16 19:55:12.26 .net
>>201
水行十日陸行一月は帯方郡が起点の日数

>>206
水行十日陸行一月は水行なら十日、陸行なら一月という意味
は両立しないんだが
意見統一しろ

208:日本@名無史さん
24/04/16 20:16:45.43 .net
倭奴国(2万戸)=福岡平野
↓南方:水行20日(約40km)
投馬国(5万戸)=筑紫平野
↓南方:水行10日(約20km)、陸行1月(約50km)
邪馬台国(7万戸)=熊本平野
水行と言っても丸木舟、陸行と言っても裸足
畿内説は現代の感覚でもの言ってるんだろうな

209:日本@名無史さん
24/04/17 00:05:07.12 .net
>>207
水行10日は陸行1月は、あるあるだけど
一月行は2000里なので意味が違う。
仁川~済州島は3月行。
半島西岸は水行20日で4000里。
九州上陸まで残り6000里は水行10日。
速度=日数は、風や海流の違いがある。
渡海は目視での1日千里で3日でも、
海岸水行には兵站調達や
潮待ち休息が有る。

210:日本@名無史さん
24/04/17 00:36:04.39 .net
訳の分からない事を

211:日本@名無史さん
24/04/17 06:11:01.62 .net
日数は費やした結果
一月行は2000里
一里は75m
倭の陸行は徒歩
水行には船が必用
魏時の使譯は2回だけ。
240年軍船による韓西岸初渡航
女王の処都まで万二千里
247年倭人船による倭人航路
伊都に常駐まで積算万五百里
倭人伝を読む為の基礎知識

212:日本@名無史さん
24/04/17 11:59:47.55 .net
最強頭脳

213:日本@名無史さん
24/04/17 13:39:42.19 .net
【倭人伝を正しく読む・行程1】(行が長いのでスマホなら横向きがお勧め)
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
(魏時、2回の使の報告で30国を知った。使の報告に拠ると郡から倭に至るには…)
247年、帳政、伊都駐留の際の倭人船行程の報告書から引用
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
・寄港地、宿所の地名の倭音を漢字にして、その間の里程を記録した。
・奴國、不彌國の百里は、行程ではなく伊都からの距離。奴国は大きい。
・各地の戸数は有○○戸、家で示した。
・行程中の 至 と到達点を意味する 到 に使い分けが有る。
・12 丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
 丗、卅、30有る王はすべからく皆女王に属し伊都を往来している。
 郡使帳政は伊都に駐留した。(二重主語)郡使は伊都に1度しか来ていない。
 魏使にとって時世は魏帝の世。卑弥呼の国の王は『世』の王では無い。
・行程の里程積算は10500里である。 

214:日本@名無史さん
24/04/17 13:41:47.66 .net
【倭人伝を正しく読む・行程2】
240年梯儁 奉詔書 印綬 拝仮倭王の際、女王国詳細の報告書の引用
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
・起点は帯方郡、伊都、不彌國から水行は船が無い。
・投馬國、邪馬壹(臺)國は梯儁による仮称国名。馬韓の次の国。と
 梯儁が参問して漢字にした次有邪馬国の卑弥呼の臺で命名。表意文字。
・18は陳寿の補足説明。
 前段張政の行程含み女王宮迄南下で通過した国の得た道里、戸数を略載。
・戸数には、可○○戸を使用。到は使わない。
・次有21国は女王所属国の参問名称の漢字化。東夷伝序文に有る
 遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀 がコレ。
・次有が21連発なのは、此 女王 境界 所盡に掛かる枕。此れで書き尽くした。
・22 自郡 至 女王國 萬二千餘里は、水行20日、水行10日、陸行1月の積算。
 ただし、女王国までは10000里で上陸、女王の処都迄が陸行で1月行=2000里。
 陳寿の補足であり、陸行1月=2千里は、梯儁と共有の概念。

215:日本@名無史さん
24/04/17 15:16:20.22 .net
間違って読むだね。

216:日本@名無史さん
24/04/17 16:15:39.18 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。
残り700里(50q)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

217:日本@名無史さん
24/04/17 16:23:53.47 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
おそらく曹魏洛陽から見た倭国島は呉の背後にあって孫権を牽制してくれる存在という認識だったのでしょう。
※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

218:日本@名無史さん
24/04/17 18:11:59.12 .net
会稽と倭の関係を言うなら
会稽の東は倭の極南界。
北は沿海州の東迄が倭である。
南北は中華より大きい。
計るその道里、當在〜会稽、之を東する。
は、太伯の後の奏上に対する疑問で、
倭と太伯の会稽は洛陽から会稽の道里を
東に向けたほど遠い。
有り得ない。 と言う話。
倭人伝は正史採用の都合で、太伯の後が
削除されて文章が壊れている。
計るの主語、道里の経路が何か判らない。
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)

219:日本@名無史さん
24/04/17 23:15:11.93 .net
>>212
人類史無敵?

220:日本@名無史さん
24/04/17 23:44:14.56 .net
>>4
なんかもうこれだけで確定に近いだろ

221:日本@名無史さん
24/04/18 04:06:57.36 .net
広志には「百女国以北其戸数道里可得略......
又、南して邪馬嘉国に至る。百女国より以北、其の戸数道里

文中の「邪馬嘉国ヤマガ山鹿市」の嘉は臺と酷似しており、
「嘉は臺」の誤字だろうで、「邪馬台国」が定説になった、が、
邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市) 、百女国(八女市)も含む、北部全てが邪馬台国なのである。

熊本県菊池川の北側には鉄剣が出土した江田船山古墳そばに、山鹿市などがある。

広志などの、百女国(八女市)と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)以北、が邪馬台国と書かれており、
手前の女国とは八女津姫、田油津媛(たぶらつひめ)伝説などがある八女市だろう、
なお、南限 百女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)の、その南が敵対関係の狗奴国である。

222:日本@名無史さん
24/04/18 04:15:57.28 .net
そして記紀に記された、ヤマトタケルの熊襲征伐や山鹿市となり
玉名市の江田船山古墳のワカタケル鉄剣名などが、狗奴国、熊襲征伐の証しで、
後には、八女の筑紫の君、岩井の反乱も起きた政治的に複雑な地域なんだろう。

卑弥呼時代には既に倭国同盟のようなものが西日本中心に瀬戸内海界わいや
近畿・尾張地方まで統合されつつあった中で
オオクニヌシの出雲国や九州南部、狗奴国、熊襲が敵対的で同盟しなかったのだろう。
その過程の物語がヤマトタケルの八俣の大蛇退治…かな。

223:日本@名無史さん
24/04/18 04:24:32.60 .net
八女津媛が邪馬台日女の事で百女姫(百襲姫)なんだろう。

224:日本@名無史さん
24/04/18 08:34:31.77 .net
邪馬台国の中心は阿蘇だったけど、6世紀頃の阿蘇山噴火で消滅した
しかし重要なお墓などは掘り起こして、山鹿市付近に移転した
それが装飾古墳であり、卑弥呼の墓である

225:日本@名無史さん
24/04/18 11:08:45.74 .net
邪馬嘉 Xié mǎ jiā

226:日本@名無史さん
24/04/18 16:00:29.12 .net
>>221 の話が正しく、>>4>>220 の話題なんだろう。
>>4
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、
弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
URLリンク(i.imgur.com)
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

227:日本@名無史さん
24/04/18 16:08:43.35 .net
ラインの南から出ないなら
ただの蛮人、防衛線だな。
日本版万里の長城か?

228:日本@名無史さん
24/04/18 17:10:07.03 .net
第7代孝霊天皇の 皇女:倭迹迹日百襲媛命。のちの卑弥呼。

そして第5代孝昭天皇・第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇・第8代孝元天皇の時期に
大和王権は中国道の大国 投馬国(倉敷市あたり)と戦争をしていたのです。

これが魏志倭人伝でいう倭国大乱ということです。

大和王権は播磨国西部との国堺備前に吉備の国(今の岡山県東部あたり)
に西道将軍吉備津彦命を派遣し投馬国を制圧、中国道の大国 吉備国を造ったのです。
倭人伝には投馬国は出て来るが吉備国が登場しない混乱期、倭国大乱中なのです。

その頃、姉、百襲媛は讃岐から九州に渡り狗奴国、熊襲と対峙していたと言う塩梅。
そして姉百襲媛と弟、西道将軍吉備津彦との誓約神話が天照大神とスサノオの物語。
ただスサノオとは出雲勢力(物部軍団)の象徴だと思う。を吉備津彦が率いていた。

229:日本@名無史さん
24/04/18 17:15:04.86 .net
第7代孝霊天皇の子供は

? 長男 第8代孝元天皇
? 長女 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
? 次男 吉備津彦命(きびつひこのみこと)
? 三男 稚武彦命(わかたけひこのみこと)

 である。

230:日本@名無史さん
24/04/18 17:19:24.89 .net
つまりこういうこと?
URLリンク(i.imgur.com)

231:日本@名無史さん
24/04/18 17:26:42.36 .net
URLリンク(i.imgur.com)
貼り直し

232:日本@名無史さん
24/04/18 17:42:51.98 .net
魏志倭人伝の正解
>>216
URLリンク(pbs.twimg.com)

魏志倭人伝の世界観
>>217
URLリンク(pbs.twimg.com)

233:日本@名無史さん
24/04/18 17:46:53.35 .net
イザナギが博多湾で禊をした時に生まれた三貴神。

左目を濯いで生まれたのが天照大神。
博多湾から見て左目、つまり松浦、糸島、などの「左佐」地域勢力を指す。(皇室)

右目を濯いで生まれたのが月読命。
博多湾から見て右目、つまり「右佐」=宇佐の地域勢力を指す。(秦氏)かな。

鼻先を濯いで生まれたのがスサノオ。
博多湾から見て鼻先のように突き出してるのが響灘に面する山口県下関周辺、
萩市の須佐湾から出雲稲佐浜に掛けての一帯勢力が。(石見一宮 物部神社の物部氏)

234:日本@名無史さん
24/04/18 18:05:29.29 .net
そして都を奈良大和に移してからも

三輪山を中心に故郷西(いにし=瀬戸内方言で帰ること)に向いて、
前方に城壁のように生駒山系があり、左目の開いてるのが大和川、橿原の地が(皇室)

右目にあたる京都淀川八幡の地に宇佐から神霊を移したのが石清水八幡宮(秦氏)

鼻先にあたる生駒山から西方を監視してるのが、ニギハヤヒの石切神社(物部氏)

235:日本@名無史さん
24/04/18 18:25:44.66 .net
つまりこの大和の国日本は、

(皇室)を中心に(秦氏)系集団と(物部氏)系集団とで日本国を監視してるのさ
影の政府。ディープステートの様に。

政治家なんて国会劇団の劇団員にすぎない、早い話が誰が成っても大して変わらない。

236:日本@名無史さん
24/04/18 21:09:15.69 .net
藤原摂関家は天皇直属の家臣団てところか

237:日本@名無史さん
24/04/18 21:15:21.09 .net
最近の国会劇団員の中には外人劇団員も増えたからね 監視は必要だろね

238:日本@名無史さん
24/04/19 19:13:35.38 .net
高速建設でルート上の遺跡が調査さたから
鉄発見遺跡が並んでいるように見える
鉄を持ってたとしても調査されていない遺跡からは
鉄が見つかることもない

239:ネトウヨボクメツタイ!
24/04/20 09:45:28.68 .net
ジャップの起源は遼河流域にいた偏堡文化人
これは山東半島から北上して遼河文明に参画したY遺伝子O1b2系の人達で、彼らが遼河文明が崩壊した時に韓半島に民族移動して無文土器文化人となり、更に海を渡って日本列島に到達したのが弥生人だった
ネトウヨのカルト的歴史観は既に崩壊したのだよ

240:ネトウヨボクメツタイ!
24/04/20 09:45:55.68 .net
ジャップの起源は遼河流域にいた偏堡文化人
これは山東半島から北上して遼河文明に参画したY遺伝子O1b2系の人達で、彼らが遼河文明が崩壊した時に韓半島に民族移動して無文土器文化人となり、更に海を渡って日本列島に到達したのが弥生人だった
ネトウヨのカルト的歴史観は既に崩壊したのだよ

241:日本@名無史さん
24/04/20 12:54:07.60 .net
人類の救世主待望論

242:日本@名無史さん
24/04/20 13:58:41.27 .net
昔の朝鮮は、暗黒土民王国で奴隷制度があって人口の約4割もが奴隷(奴婢)だったのだ!
彼らは牛馬以下の存在で、法律上、主人は奴隷に殺害以外の何をしても全て合法だったのである。(主人が奴隷を殺しても実際には捕まらなかった)
そんなことだから、特権階級は当然!奴隷をレイプし放題だったのだ!!
 そして、女奴隷がレイプされた結果、生まれた子供は男子も女子も奴隷にされてしまう。
レイプされて生まれた女の子は主人(自分の父親とその息子=異母兄弟)にレイプされる(以下繰り返し)という悲惨極まる状況だった・・・
 つまり、日本によって奴隷達が解放される前は、国全体が近親レイプによって種付けをする、奴隷牧場状態だったのである。
※結論
日本が、暗黒土民王国であった朝鮮=大韓帝国を両政府の話し合いで併合近代化して、奴隷を解放をしてしまった・・・
その為に500年の長きにわたる、『特権階級による近親レイプ』の伝統文化が途絶えてしまったのだ!
これには、日本は謝罪と賠償をしなければならない!!

243:日本@名無史さん
24/04/21 00:30:49.54 .net
「画期的新説」邪馬台はヤマトである
URLリンク(98k.dreamlog.jp)
古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者(桃崎 有一郎)が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー新説であります

文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました
以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました

244:日本@名無史さん
24/04/21 00:40:23.70 .net
山門ヤマト、ヤマド
大和ヤマトゥ
邪馬臺ヤマダ

245:日本@名無史さん
24/04/21 04:00:46.12 .net
倭の女王は、邪馬台国に居た。
台?
壹か臺か? 表意文字か倭音国名か?
南か東か? 原文は、あほか?
帯方郡から一万里で九州上陸
帯方郡から一万二千里はどこか?
九州上陸から南東徒歩500里の
伊都で常駐して、
船無いけど? 次に水行? 泳ぐの?
南至水行20日 投馬国 から
南至水行10日 陸行1月 が
邪馬壹国 女王の処都 であって
帯方郡から一万二千里である。

246:日本@名無史さん
24/04/21 09:23:46.91 .net
北九州30ヶ国の総称がヤマト国で卑弥呼の女王国が奴国だ

247:日本@名無史さん
24/04/21 18:15:59.96 .net
昔々のころの地名や方向が定まってない原始社会、
山幸彦、海幸彦、と言ってた時代に、
「山手に住んでる人=やまひと=やまと」農林作業者などをさす。
「水辺に住んでる人=みなひと=みなと」漁労者などをさす。
昔から漁村などで、陸おかに上がるとかで、海の漁師とは対立関係にある。
山から来たのか、海から来たのか、尋ねた場合、やまと、みなと、と答えたのが、
いつしか、奈良盆地に住む「やまと」だけが 都 地名として残って行った。
全国に似たような地名が有っただろうけど消えていったんだろう。

248:日本@名無史さん
24/04/21 19:27:47.17 .net
>>232
その頃の方角は東西南北とその間で8方向。
だから「東」とは東南東と東北東の間に±αを付けた角度を意味する。
だから九州で無問題。

249:日本@名無史さん
24/04/21 21:43:15.85 .net
甲骨文字(こうこつもじ)は、古代中国の遺跡から出土する甲骨
(亀の甲羅や牛の肩甲骨など)に刻みつけられた文字。
特に、殷(商)時代後期、第22代殷王武丁(紀元前13世紀半ば頃)の占卜(亀卜)
に使われた甲骨上の文字を指す。
>実はこの甲骨文字日本の神社などでは、今でも現役で使われてる事は余り知られてない。
占卜(亀卜)などを行う卜部家、お祓いをする忌部家など神官どうしの間で
密かに伝えてたんだろう。 当人たちも殷時代の甲骨文字だとは気づいて無かった。
遺跡から発掘されるまで知らなかったはず、神代文字として密かに知られてたか??
じゃあ、神話時代の記録、固有名詞など案外正確なのかもと思ってしまう。

250:日本@名無史さん
24/04/22 00:05:44.61 .net
古代中国の殷王朝の甲骨文字が漢字のルーツであるとされている。
この甲骨文字は表意文字であるが、その中に例えば下の表にあるような
日本の神代文字の「阿比留草文字」に対応する文字群がある。
阿比留草文字と甲骨文字の対応(漢字の起源、参考)
URLリンク(ameblo.jp)

「玉鉞・刻文付有孔石斧」山形県羽黒町中川代遺跡(縄文中期)
URLリンク(utukusinom.exblog.jp)
文字は「之と生の合体字?」の甲骨文字である。

251:日本@名無史さん
24/04/22 05:18:28.24 .net
>>245
原文は
>南至投馬國水行二十日
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
不彌國到着の時点で残り1300里で水行なら2日で越えてしまう。
ゆえに原文を改竄しない限り「水行二十日」と「水行十日陸行一月」は帯方郡からの距離とするしかない。
1300里は誤差で邪馬台国は九州。

252:日本@名無史さん
24/04/22 08:00:16.42 .net
>>251
女王国までの総距離、12000里
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。

残り1300里

1300里、2か月問題がある (水行20日+10日+陸行1月(30日)=2か月)

短里説では、1里=72mだから、72m×1300里=約93km

約93kmを2か月かけて、九州説はどこをどう行ったのか

さらに、93km÷60日=1.55km 一日平均、約1.55kmしか進まなかったことになる

ということは、短里説がそもそも間違いということもある。

253:日本@名無史さん
24/04/22 08:46:21.77 .net
九州までの水行一万里は確定
残りの二千里は1月行という単位。
月行単位は中国古代地理の謎だが
陳寿の暴露による1月行二千里は
概ねで適用可能である。
日本南北 ほぼ九州島3月行
東西 奈良の東山まで5月行
楽浪郡済州島 船行3月
漢書地理志にも使用の有る単位

254:日本@名無史さん
24/04/22 09:00:28.07 .net
短里は周里だが
九服の制の500里が基準
しかし、基準が西域と違う
倭人伝は50歩一里だが
西域は100歩一里。
首都が洛陽か長安で違う?
月行単位は、この外域で使われる。

255:日本@名無史さん
24/04/22 10:43:50.19 .net
現在は原器という基準があるが、大昔は無いから曖昧である

256:日本@名無史さん
24/04/22 10:46:04.29 .net
>>253
渡海1000里も謎

257:日本@名無史さん
24/04/22 13:18:36.20 .net
奴国(2万戸)=福岡平野(250平方)
投馬国(5万戸)=筑後平野(600平方)
邪馬台国(7万戸)=熊本平野(775平方)

258:日本@名無史さん
24/04/22 15:04:20.99 .net
こっちだった
邪馬台国(7万戸)=熊本平野(775平方)+八代平野(75平方)
※八代平野(230平方)の約3分の2は江戸時代からの干拓によって造成された土地である

259:日本@名無史さん
24/04/22 15:44:08.67 .net
>>255
6尺一歩は建築等で基準が尺なので
23~25cmで度量衡の定めが必要

一歩はふた足で140~150cmだった。
この一歩と一尋は
そもそも人体基準で概算

一里がくせ者で、
300歩、360歩とか定めがかわり
短里という周里でも
50歩や100歩のときが有るようだ。

周礼に九服の制があり王畿が方千里
外周に各500里の方を9服重ね
方万里を徴税などで国内とした。

この500里が外域里程の基準で
渡海1000里3回という概算の理由。
100里は伊都から見えた隣国国境までだろう。
公開されていない
外域の概念図があったはず。
地形自体の解明は無いけど、
行った記録は増える。

260:日本@名無史さん
24/04/22 18:44:29.01 .net
文字動画と思われて離脱されやすい
視聴維持率で不利
なのに後半は音声だったりする
「画面を見なくてもいい動画」としても半端
購入してみたものの明らかに滑った
vtuber素材の損切りができない
見た目に合っていない声をあてていて
違和感しかないのに
家族や身内が誰も指摘ができない状況も伺える

261:日本@名無史さん
24/04/22 21:42:03.87 .net
>>252
残りの1300里では水行20日や水行10日+陸行1月は期間が長すぎて不可能だよね。
だから1300里は誤差とするしかない。
よって帯方郡から水行20日、または水行10日+陸行1月ということになる。
(邪馬台国の東は海だから水行のみでも行ける)
原文をそのまま読めばこう解釈するしかないと思うけど...。
上陸地点も、松浦は近すぎて1000里もないから不適。せいぜい500里。
方角指定がないけど、上陸後東に進んでるから水行は西じゃなくって東方向と思われ、1000里だと宗像当たりになるね。
原文の距離と方角を改竄しない限りこれ以外にないと思う。

262:日本@名無史さん
24/04/22 22:55:12.41 .net
『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。
夷とは根本(土着)の意味である」とあり、
その意味は「恵み育て生命を尊重することで、
万物は土地に根ざしてできるものである」となる。
そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、
道理をもってすれば容易に治められるといい、
君子の国や不死の国があるとさえいわれる。

263:日本@名無史さん
24/04/22 23:01:28.20 .net
『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、
2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。
不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く長寿でなかなか死なない。
君子国も不死国も共に東方にある」とあり、『外国図』には
「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れたところにある」とある。
帯方郡から邪馬台國までが、万二千里あまり。

264:日本@名無史さん
24/04/22 23:27:51.57 .net
>>261
その距離が問題で、1里は何メートルかという問題
当時中国で使われていた1里は435m(魏里)
ところが、魏志倭人伝と魏志韓伝だけは、
周の時代の短理が使われていると古田武彦が言い出した
短理の1里は論者によって違いはあるが、70mから80mぐらい
古田武彦は、九州説論者だったから、目的地ありきで
逆算した結果、短里だといってるのだろう
魏里を使えば、当然、九州説はありえないことになるし
比定地も変えなくてはならなくなる。

265:日本@名無史さん
24/04/23 05:36:46.33 .net
帯方郡から
南至馬韓の通過に20日で投馬国
南至投馬国通過と海峡10日で女王国
九州上陸後陸行1月で女王の処都、邪馬台国
参問次有21国、此女王の境界尽きる所
其の南有り狗奴国、不属女王
郡から女王までは万二千里だった。

240年、初の韓西岸~九州行で
弁辰韓は投馬国と仮称
女王国は邪馬台国と仮称
その南に有る狗奴国を知り

240年魏使は、直列する4国の地理と
訪問した女王国所属の詳細21国名を
詳しく記録した。

247年倭人船で伊都まで行った
渡航路の道里を記録した報告書と
これの、随時残した報告書によって
倭人伝で、陳寿は
後世に残すべき倭の詳記を得た。
評曰

266:日本@名無史さん
24/04/23 05:50:56.71 .net
女王国=邪馬台国
参問倭地次有列記21国は
周旋可五千里

対馬海峡往復は六千里だが、
女王国はその程度の小国であった。

実は
がっかりなんだよorz
が、陳寿のまとめ

267:日本@名無史さん
24/04/23 09:11:32.52 .net
投馬国=妻郡(筑後市中心)
邪馬台国=山本郡(熊本市中心)
狗奴国=球磨郡(人吉市中心)
3世紀以降は朝廷が本州に進出したので、狗奴国が北上し邪馬台国を支配した
後に山本という地名を熊本に変更し、狗古智卑狗などが菊鹿盆地を開拓した

268:日本@名無史さん
24/04/23 10:30:50.25 .net
文字の並べ方は自由だから

269:日本@名無史さん
24/04/23 11:20:06.29 .net
>>264
>その距離が問題
って何のこと?
何度も同じ事を書くことになるが
1里は何メートルかという問題以前に
不弥国到着時点で残り1300里。この距離で水行が可能なのはせいぜい数日ということ。
だから水行20日や水行10日陸行1月は帯方郡からのことで邪馬台国は不弥国のすぐそばにある
ということになる。したがって距離と方角を改竄しなければ1300里は誤差とするしかない。
もちろん不弥国が九州以外というなら別。
どこかおかしいのか教えて。

270:日本@名無史さん
24/04/23 11:37:35.36 .net
書き換えれば、新作の魏志倭人伝

271:日本@名無史さん
24/04/23 12:04:00.61 .net
>>269
残り1300里も何も、まず1里は何メートルかをはっきりさせないと
計算できないでしょう
短里説では、1里=72mだから、72m×1300里=約93km
当時中国で使われていた里なら、1里が435mだから
九州説はそもそも成り立たない

272:日本@名無史さん
24/04/23 12:05:07.77 .net
魏志東夷伝が成り立たなくなっちゃうな

273:日本@名無史さん
24/04/23 14:50:35.52 .net
『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、
2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。
不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く長寿でなかなか死なない。
君子国も不死国も共に東方にある」とあり、『外国図』には
「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れたところにある」とある。
帯方郡から邪馬台國までが、万二千里あまり。

274:日本@名無史さん
24/04/23 15:20:27.29 .net
>>269
帯方郡起点の240年と247年の
ニ行程読み、だが、
水行20+10日が、九州上陸の場合
伊都不彌国奴国の里程は無視で良い。
特に港が近い感じの早良辺り伊都まで
徒歩500里は意味不明。
240年の目的地は、伊都ではない。
これが上陸水行一万里の誤差でしょ?
上陸は普通、糸島半島の西か東
唐津湾か博多湾か?の選択だけ。
目的地を言って壱岐で上陸適地を聞く。
残りの陸1月行=二千里が女王の処都。

275:日本@名無史さん
24/04/25 12:01:14.22 .net
畿内説は都合が悪くなるとすぐ規制しやがる

276:日本@名無史さん
24/04/25 12:29:19.72 .net
>>274
水行20日… を無視した方が良いのでは?

277:日本@名無史さん
24/04/25 12:37:49.49 .net
>>269
>>5

278:日本@名無史さん
24/04/25 14:41:44.62 .net
>>276
247年は
帯方郡から倭人船で伊都までで
寄港地間と宿所の里程を記録、
合計10500里と
100里2つが、伊都の隣国国境
帰りは、臺与の朝貢船
240年は女王の処都まで金印配達
帯方郡から
水行20日水行10日で九州(10000里)
陸行1月2000里で女王の処都
陳寿の補足では、合計、万二千里
これは、
馬韓通過で投馬国、渡海で九州女王国
上陸以降、徒歩二千里で女王の処都
南に狗奴国、
これは、直列する4国の地理説明で
普通、首都間の移動でもなければ
点から点の里程では示せない。

279:日本@名無史さん
24/04/25 17:52:59.34 .net
>>271
水行は1日で1000里。
残りは1300里しかないから水行だけで2日弱。
だからこの距離で水行20日や水行10日陸行1月は無理。
ここまではOK?
>>274
大陸から対馬、対馬から壱岐の距離である1000里に比べて
同じ1000里なのに松浦は近すぎる。(せいぜい500里かな)
上陸後は東へ歩いているから、重い鏡の運搬を考慮して、東の宗像当たりの上陸になると思われる。
(宗像にも「マツロ」に近い地名があったらしい)
地名は変わっても地形は変わらないから地形最優先。
もちろん「また一海を渡ること1000余里」を改竄するなら別。

280:日本@名無史さん
24/04/25 18:47:49.77 .net
>>279
壱岐からの上陸地は
糸島新町港。
南東500里伊都は早良付近。
なぜ今宿上陸じゃないのかは謎。
糸島に卑弥呼の墓?
唐津側に伊都は無い。
船乗りは目的地が対岸で下船しない。
半島から来て横浜いくのに
三浦半島で降りるような間抜けな話?

281:日本@名無史さん
24/04/25 21:42:25.88 .net
九天頭脳無敵

282:日本@名無史さん
24/04/25 23:12:25.66 .net
スレ立てはしたこと無いけど
スレ立て嵐って、どーゆーこと?
スクリプトって、止まったの?

283:日本@名無史さん
24/04/25 23:52:34.20 .net
なんで呼子で上陸したなら
500里以上、歩いたのに
畿内に船で行けて、
帯方郡に帰れるの?

284:日本@名無史さん
24/04/26 00:27:56.83 .net
>>279
OKじゃないよ
あんたは1里を何mにしてるのかを聞いてるんだよ
それによって違ってくるんだから

285:日本@名無史さん
24/04/26 08:37:45.74 .net
いずれにせよ九州説はもう終わりだな

286:日本@名無史さん
24/04/26 09:35:42.67 .net
里では不可能だから陸行1月なんだよ
舗装もされていない獣道を裸足で何キロ歩けるか?
その道が峠道なのか湿地なのか直線なのか?
敵や獣が潜んでるかもしれないとか条件は無限大

287:日本@名無史さん
24/04/26 09:44:45.41 .net
40里が陸行1日で1月は1200里、120里が水行1日で10日で1200里
1200里は約520?どちらも帯方郡から奴国までの距離だ

288:日本@名無史さん
24/04/26 11:47:44.24 .net
1里が何キロになるかは、現代人の考え方。
当時は曖昧な里だから、大きさを言うのに両手を広げて"このくらい"と言うのと変わらないだろう。
なので1里は、1里ほどだろう。

289:日本@名無史さん
24/04/26 15:13:41.71 .net
東夷伝にはその序文から
周礼九服の制の世界感が根底にある。
方千里の王畿から五百里毎の九服で
これによって、税、徴兵、朝貢等
の決まりを作った。
図面あっての制である。
この域外についての概念図があったはず。
半島、倭は域外だが
この時の基準が、倭人伝の50歩一里
西域里をみると、200歩一里
始皇帝は300歩一里に定めた。
一歩は人体基準で、ニ足130~40cm位
度量衡は尺度で決まり6尺が一歩
国自体の統一が緩い
周代では安定していなかった。
倭人伝里は洛陽~長安が5千里で
国土が小さくなり過ぎ?だが、
始皇帝里は洛陽~大阪が5千里で欲張り過ぎ。
九服の話は無理。

290:日本@名無史さん
24/04/27 00:00:53.20 .net
>>289
>度量衡は尺度で決まり6尺が一歩

歩や里は距離(道のり)の単位であり
寸・尺・丈は長さの単位だから2つは別の単位系だよ
張飛の蛇矛を1丈8尺と言うことはあっても3歩と言うことは無い

6尺=1歩は6という数字に異常に拘ったという始皇帝が決めたんじゃないかね

291:日本@名無史さん
24/04/27 00:35:16.81 .net
建築や裁縫で規格が必要な
度量衡で24cmだった尺度が
30cmになったとき
一歩を5尺にした例も有る。

何歩にするか? で決まる
一里が常に一定と言うことはない。

倭人伝には50歩一里の九服の
荒域図面が、背景に有ったはず。
陳寿は張政とこの短里を共有したし
後世の版本も成立している。

韓方化四千里を許容した背景は
なぞだが、必ず有る。

292:日本@名無史さん
24/04/27 04:34:06.70 .net
>>280
そこだと近すぎて水行1000里にならない

293:日本@名無史さん
24/04/27 05:43:00.74 .net
>>284
水行は1000里/1日単位だから2日以内で1300里は消費される。
また、九州上陸後は東南に歩いてるから
大分か宮崎の東海岸から乗船することになる。
四国ならアリかもしれないが、近畿に行くなら波が静かで安全な瀬戸内海を通るよね。
だから近畿はありえない。
どっちにしろ1里を何mなのかは考える必要はない。

294:ネトウヨボクメツ隊!
24/04/27 12:00:57.19 .net
邪馬臺國=ヤマト王権
日本書紀は神功皇后の事績に魏志倭人伝の卑弥呼の文を引いている
神功を卑弥呼に比定するのは時代が合わないから明らかに間違いなのだが、七世紀の日本の王権が自分たちの祖先が卑弥呼と認めている事実は明らかなのだ
ネトウヨ残念だったな
日本の天皇が中国の皇帝の臣下になった歴史は消せないのだ

295:日本@名無史さん
24/04/27 15:26:08.86 .net
神功皇后は魏に朝貢した神元皇帝。
天智、天武天皇は律令国家を始めた道武皇帝。
桓武天皇は大陸人の自覚と漢風化政策を推し進めた孝文帝であり、孝文帝と朝鮮系移民妻の間に生まれた宣武皇帝でもある。
日本は北魏なの。

296:日本@名無史さん
24/04/27 16:51:20.25 .net
魏は朝鮮半島に続いて九州島も支配しようとして男弟を傀儡にして内乱を起こし卑弥呼を殺した、これが記紀が事実を書かない理由だろう

297:日本@名無史さん
24/04/28 16:58:16.72 .net
魏志が書かないのは司馬懿の計画が失敗して男弟側が敗北したからだ

298:日本@名無史さん
24/04/28 18:51:01.22 .net
九州筑紫国
『 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原 』
九州神道の本流祝詞でも詠われるように邪知は祓う力がある

299:日本@名無史さん
24/04/29 02:44:17.48 .net
age

300:日本@名無史さん
24/04/29 03:45:43.72 .net
またage

301:日本@名無史さん
24/04/29 04:29:37.01 .net
しい

302:日本@名無史さん
24/04/29 04:42:32.75 .net
でぃー

303:日本@名無史さん
24/04/29 04:55:24.71 .net
いぬ

304:日本@名無史さん
24/04/29 05:43:48.17 .net
えー

305:日本@名無史さん
24/04/29 06:58:29.72 .net
卑弥呼=天照大神
邪馬台国東遷
邪馬台国=大和朝廷

306:日本@名無史さん
24/04/29 06:59:27.22 .net


307:日本@名無史さん
24/04/29 07:08:03.00 .net
みー

308:日本@名無史さん
24/04/29 07:25:01.52 .net
そう、邪馬台国とはヤマト国なり

309:日本@名無史さん
24/04/29 08:15:53.94 .net
正しく読むのなら
ヤマイコクで撤退してくれ

310:日本@名無史さん
24/04/29 10:28:07.87 .net
徹底

311:日本@名無史さん
24/04/29 15:59:26.57 .net
女王国の東、海を渡ること千余里にして、復国有り。
=女王国は九州の東海岸
しかも上陸後は東南に陸行してるから福岡県ではない
なので大分県か宮崎県

312:日本@名無史さん
24/04/29 16:12:18.04 .net
はー

313:日本@名無史さん
24/04/29 17:05:41.33 .net
>>311
>=女王国は九州の東海岸×

倭人伝は歴史書であり、年代順に記述されている。→年代順に竹簡を並べて編んだもの)
くだんの「女王国東」は、卑弥呼が共立された記事の後に出てくるので、
この場合の「女王国」は倭30国全体、つまり九州のこと。

よって九州の東海岸でなく、九州島の東と読むべし。
実際に後世の太平御覧倭国伝では、「倭国東」と書き改められている。

314:日本@名無史さん
24/04/29 20:30:17.83 .net
多分、元々は「肥後風土記」に卑弥呼の物語がのっていた。
古事記の編者は、その卑弥呼をモデルに、天照大御神・高千穂神話を書き上げたのさ。
逸文でいいから、肥後風土記が残っていればねえ・・、

315:ネトウヨ撲滅隊!
24/04/29 23:23:05.37 .net
何故かジャップの好きなXを見てみると九州説を主張してる連中のスピリチュアル系のカルト率の高さが気になるな
奴らはやはり日本会議系の明治の新宗教である自称古神道(古代からの文献ねーだろ。江戸時代に作られたもんだと分からんのか)の連中か統一教会系のネトウヨの馬鹿どもに違いない
Xの九州説論者は例外なく反アイヌ思想で秦氏がユダヤ人がどーとか言っている

316:日本@名無史さん
24/04/30 14:00:40.93 .net
正しく読めば九州だけど
読む、ということは、
説ではないよね?

317:日本@名無史さん
24/04/30 16:10:04.53 .net
age を あぼーん してみた。

318:日本@名無史さん
24/04/30 16:27:55.71 .net
>>311
北部九州地域全域が邪馬台国ですから
福岡県、大分県は 邪馬台国の一部です。

319:日本@名無史さん
24/04/30 16:28:28.50 .net
邪悪で軽薄な邪智を動員して
混純彩る中央に入り込む邪の者たちを
九天の九紫の九字を切り邪智を封じ込む

320:日本@名無史さん
24/04/30 17:02:00.20 .net
九州は卑弥呼の支配地であり邪馬台国に一部

321:日本@名無史さん
24/04/30 17:03:10.90 .net
「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」
伊都国、奴国、不弥国を公孫氏が女王国と呼んだ
伊都国(糸島市南東部、)
奴国(早良区南部、南区、那珂川市、春日市、大野城市、筑紫野市方面)
不弥国(早良区北部、城南区方面)
早良区北部の博多湾から千餘里(約80km)で関門海峡を渡り中国地方

322:日本@名無史さん
24/04/30 17:05:36.28 .net
邪馬台国とは魏使の梯儁が北部九州地域を指して呼んだ名前。

323:日本@名無史さん
24/04/30 17:10:46.43 .net
邪馬台国の名称は江戸時代につくったんだろ

324:日本@名無史さん
24/04/30 17:17:54.44 .net
魏使の梯儁は朝鮮半島南部を投馬国と呼び
九州南部地域を狗奴国と呼んだ

325:日本@名無史さん
24/04/30 19:20:25.01 .net
>>322
自称国名の無かった女王国の仮称だが、
帳政も陳寿も、歴史的には採用しなかった。
エベレストはサガルマータでも良い。
臺は曹操の高楼の表意文字なので、
国史版本化の変更命令で
形が似れば、音は壱でも嘉でも良かった。

326:日本@名無史さん
24/05/01 00:02:28.14 .net
うスクリプト対策

327:日本@名無史さん
24/05/01 03:42:04.26 .net
bスクリプト対策

328:日本@名無史さん
24/05/01 10:56:59.39 .net
>>293
1日千里は、水行ではなく渡海では?

渡海は目視で対馬島が見えたら翌日、
無理しても、明るいうちに渡り切る。

帯方郡から水行20日は、
公孫氏以降敵味方不明な韓西岸の
海岸水行で地形判断で幕営行軍。
対馬が見えるまでの四~七千里。
南岸、投馬国のどこか?

渡海3日を含む水行10日は三~六千里
これで九州上陸で女王国入り。
残りの二千里が
女王の処都までの一月陸行

329:日本@名無史さん
24/05/01 12:23:59.97 .net
Takeo Kusumi @T_Kusumi057 (久住猛雄)


公務員クズタケが、九州説をぶった切る

330:日本@名無史さん
24/05/01 14:37:32.24 .net
とまれ、九州上陸後、東南〜南方向へ陸行1月で女王の都する所
この原点を外しては、500年経っても千年経っても解決せぬ・・
とはいえ大方の学者は、それが出来ない渡世の義理があるようだねえ(笑う・・、

331:日本@名無史さん
24/05/01 14:51:40.12 .net
>>328
むちゃくちゃ

332:日本@名無史さん
24/05/01 15:02:48.40 .net
>>330
247年まで九州が独立外交してて
313年以降の富国強兵で
高句麗交戦始めて牛馬の移入。
370年に百済建国で、
王妃が日本皇族で王子は日本で養育
古代史の話は無理な国が有るよね。
候王として外戚の王族だけで
民族的には無関係らしいけど?

333:日本@名無史さん
24/05/01 18:09:57.52 .net
解決しないのではなく正解を黙殺して議論を続けてるだけ

334:日本@名無史さん
24/05/01 20:39:51.18 .net
倭王武の上表文
倭の五王 最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。
東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
北の海を渡りて平らぐること九十五国。
王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」
(『宋書』倭国伝)
この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から
引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」
などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。
この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。

335:日本@名無史さん
24/05/01 20:44:04.41 .net
(魏、明帝の景初二年(238)頃)
魏志韓伝(馬韓)「すべてで五十餘國なり」
辰韓は十二国と為る。
弁辰はまた十二国なり。
+任那倭国=と凡そ一致する。
「北の海を渡りて平らぐること九十五国。」

336:日本@名無史さん
24/05/01 21:04:11.78 .net
それよりも、宋の昇明2(478年)頃の上表文には、
『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から文言を引用してる、
倭王朝官人の、漢文の教養の深さが窺われる。
「隋書、倭国伝」(ac600年)に、「無文字唯刻木結縄」
「文字がないから、木に刻んだり、縄で結んだりする」とは何だったのか??

337:日本@名無史さん
24/05/01 21:28:32.07 .net
ハプログループO1b2 (Y染色体) Wikipediaより、
「周姓」を名乗る者が多く、湖南省の中でも特に湘潭市(全男性人口の約2.05%)、
益陽市(約1.67%)、長沙市(約1.29%)等湖南省北東部に集中して分布している。
『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、
倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。
姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。
論衡(巻一九、恢国篇)成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す
成王(在位:紀元前1,022年〜紀元前1,002年)の時、
越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず。
日本には、紀氏、木氏、岸、喜志、貴志、キシ音、などなど引っ掛かるな!!!


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