邪馬台国畿内説 Part ..
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990:日本@名無史さん
21/06/28 07:58:09.81 .net
壱与は卑弥呼の宗女、一族の子だった
当時は集落を構成していた親族集団が生活の基盤
家族の概念が現在とは違う
母系社会で婚姻も通い婚
生まれた子供は母親の一族が責任をもって育てる
ただ魏志倭人伝には倭地の婚姻の状況について一人の夫に四、五人の妻がいる旨記録されている
これは戦乱のため適齢期の男性が不足していた当時の人口バランスを調整するためのものだったのだと思う


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