邪馬台国畿内説 Part675 at HISTORY
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750:日本@名無史さん
21/01/26 20:58:04.84 .net
邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏が、訳が分からないことを発表しているな。
717日本@名無史さん2021/01/26(火) 20:34:25.84
>>705
松茸が無かったという証明が済んでますね
九州説が死んでます

751:日本@名無史さん
21/01/26 20:59:03.84 .net
奥山氏の松茸は、お粗末なのではないのかな。

752:日本@名無史さん
21/01/26 21:00:40.86 .net
魏志倭人伝では、松茸よりも、貝が重要だったね。

753:日本@名無史さん
21/01/26 21:01:40.31 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
URLリンク(10mtv.jp)

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず


.

754:日本@名無史さん
21/01/26 21:04:23.50 .net
>>707
アホ

755:日本@名無史さん
21/01/26 21:05:08.47 .net
3寸のお粗末な松茸が、何かを、宣伝しているな。
721日本@名無史さん2021/01/26(火) 21:01:40.31
.
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘ

756:日本@名無史さん
21/01/26 21:05:30.51 .net
空気シャワーの勉強も済ませておきましょう
URLリンク(youtu.be)

757:日本@名無史さん
21/01/26 21:05:49.67 .net
松茸は、椎茸との掛け合わせに、成功したのだろうか。

758:日本@名無史さん
21/01/26 21:11:22.81 .net
松太郎とは、何だろうか。

759:日本@名無史さん
21/01/26 21:12:47.47 .net
卑弥呼の塚では、殉葬者が埋まっている参道の中央を歩くことは、タブーなのだったね。

760:日本@名無史さん
21/01/26 21:19:23.08 .net
空気シャワーは、ごく日常的な物事だが、1700年程もあれば、数キロ四方上空には、数十発ものEECRが、来訪したのではないのかな。

761:日本@名無史さん
21/01/26 21:20:11.43 .net
松太郎は、少し高価すぎるな。

762:日本@名無史さん
21/01/26 21:22:14.95 .net
>>728
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。

763:日本@名無史さん
21/01/26 21:28:20.49 .net
スペクトル硬化が検出されたのだったね。

764:日本@名無史さん
21/01/26 21:38:30.13 .net
>>635




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

765:日本@名無史さん
21/01/26 21:39:18.85 .net
奥山無職は働いてないの?
収入はあるの?

766:日本@名無史さん
21/01/26 21:42:03.15 .net
>>573
中国の史書を見れば、「倭」の地名が時代によって移動していることが分かる。
山海経=


767:蓋国在鉅燕南倭北(蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り)→倭(伽耶地方)…秦前漢時代。 漢書地理志=楽浪海中有倭人(楽浪海中に倭人有り)→倭人の居住地(北部九州)…後漢初頭。 魏略=倭在帯方東南大海中(倭は帯方東南大海の中に在り)→倭(北部九州)…魏末晋初。 魏志韓伝=韓在帯方之南、東西以海為限、南與倭接(韓は帯方の南に在り、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す)→倭(伽耶地方)…晋代。 魏志倭人伝=倭人在帯方東南大海中…従郡至倭…到其北岸狗邪韓国(倭人は帯方東南大海の中に在り…郡より倭に至るは…倭の北岸狗邪韓国に到る)→倭人の居住地(北部九州)とし、その地を倭と呼んでいて、倭の北岸が狗邪韓国だとしている…晋代。 これを見ると、前漢の頃には伽耶地方は倭と呼ばれていたことが分かる(山海経)。 そして、奴国が後漢に朝貢した頃から中国では北部九州を倭と呼び(金印の倭)、そこに倭人が住んでいるとの認識ができたことが分かる(漢書)。 そのあと、魏末晋初に成立した魏略は北部九州を倭と呼んでおり、そこにある国を倭国としている。 魏略のあと晋代に成立した魏志の倭人伝では北部九州などを倭人の居住地とし、その地を倭と呼んでいて、その倭の北岸を狗邪韓国としている。 ここで、魏志韓伝では韓の南部域が倭と接していると書いていることが注目されるわけであるが、 上の流れをみると、その南部域の「倭」はまだ倭人が前漢に朝貢していない秦・前漢期に成立した山海経の「蓋国在鉅燕南倭北」の記述を踏襲したものであることが分かる。 半島のことを書いているのが魏志韓伝なので、半島のことを書いた山海経のその記述をそのまま踏襲したということになる。 したがって、この魏志韓伝の韓地の地理観は秦・前漢期のものであることが理解され、後漢期からは倭人の朝貢によって地理観が改まり、「倭」は北部九州へと移ることになる。 そして、魏志倭人伝においては、その韓伝の「倭」に当たる地方は狗奴韓国と記述されることとなり、韓の南部にあるとされた「倭」は姿を消すことになるもの。 こうしたことからみると、半島南岸域に倭人が主に住んでおり、そのことから「倭」と呼ばれた地名があったとするのは、誤りではないか。 これらをみると、



768:日本@名無史さん
21/01/26 21:52:11.80 .net
昔の教科書には半島南部は倭の領地だったと書いてあったんだろ?
今の教科書はどうなんだろう?
ちなみに中国の教科書にも「かつて朝鮮半島には(倭)人が住んでいた」と書いてあるそうだ
そして「倭」という字が抜けて「かつて朝鮮半島には人が住んでいた」となっているのに韓国が気づいて激怒したらしい
「いま住んでるのは人じゃないんかい!?」ってね
まあその後訂正されてるとは思うけどw

769:日本@名無史さん
21/01/26 22:12:05.23 .net
中国人らしいw

770:日本@名無史さん
21/01/26 22:20:31.62 .net
>>734
>これらをみると、
九州説のバカさがわかる

771:日本@名無史さん
21/01/26 22:23:47.02 .net
奥山は邪馬台国論争の泥沼に足を踏み入れ5chを一生離れられない体になってるな
邪馬台国論争は永遠に決着がつかないのだから

772:日本@名無史さん
21/01/26 22:29:03.73 .net
>>692
>畿内の邪馬台国の考古学的証拠
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この大和説男が×。
>三角縁神獣鏡 
景初三年や正始元年と年号が魏の彫ってある
明帝の鏡ではなく、渡来の楽浪鏡師の陳氏らの関与鏡であるから、大和説とは関係なく、×。
>魏志倭人伝や梁書や太平御覧には卑弥呼が魏に使いを贈った年を
景初三年や正始元年と記している
後代史書の「前史の自己解釈に拠る書き換え」は半分偽書だから×であり、
卑弥呼の遣使が景初二年6月に帯方に着いたんだから、これも×。
>前方後円墳 
卑弥呼の時代である3世紀より畿内に存在
前方後円墳は冢ではなく、大和の前方後円墳は、3世紀末の庄内1の石塚以後であるから×。
>魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩(約140m)と書かれてあり
魏志は短里で書かれているから、百余歩は25.5〜30m位であるから、×。
>畿内にはそのサイズに適合する前方後円墳が複数存在する事が知られている
だから、大和説は、×。

773:日本@名無史さん
21/01/26 22:34:01.87 .net
>>703
ところが文献考古の学術研究の結果その南には大和がなかったので
大和説学者らもら「東だ」とは考えなくなった

774:日本@名無史さん
21/01/26 22:37:51.87 .net
>>739




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

775:日本@名無史さん
21/01/26 22:38:55.72 .net
>>734
接というと、すぐくっつきたがるが、そういう場合ばかりではない。
次のBの応用で「島と島が相連なる」あたりが適切であろう。
【接】
動詞 接近する,接する,続く.
用例
@上车的人一个接着一个。〔+目〕= 車に乗る人が次から次へと途切れない.
A汽车一辆接一辆地开过去了。= 自動車が次々と通り過ぎて行った.
B两山相接 = 2つの山が相連なる.

776:日本@名無史さん
21/01/26 22:41:06.49 .net
>>707
>魏志倭人伝には邪馬台国は沖縄や台湾の辺りに相当する
会稽東治の東と書いている
魏志倭人伝には、邪馬台国なんて書かれていないから×であり、
会稽東治之東は、ほぼ「九州島付近」であり、
沖縄や台湾に相当しない事になるので、この大和説学者男が×。
>そして畿内からは魏の銅鏡など邪馬台国のあった考古学的な証拠が見つかる
そして九州からは、魏の銅鏡や、卑弥呼や壹與の墓などの、
考古学的な証拠が見つかる

777:日本@名無史さん
21/01/26 22:53:23.48 .net
>>743
水行を無視
文献考古の史料事実や史料実態の曲解であるから
バツ。

778:日本@名無史さん
21/01/26 22:58:10.87 .net
>>710
>けれど畿内では
径百歩つまり直径140mの大きさの古墳は
いくつも見つかっている
けれど畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
径百余歩つまり直径約25.5〜30m位の大きさの冢で「徇葬者奴婢百餘人」があったのは、

祇園山だけ。
いくつも見つかっている

779:日本@名無史さん
21/01/26 23:03:27.32 .net
>>717
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅は北部九州」である、
という証明が済んでますね
大和説が死んでます

780:日本@名無史さん
21/01/26 23:08:20.91 .net
>>739
畿内がなければ九州もなかった
邪馬台国は旧字体で邪馬臺國と
後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧に記載

781:日本@名無史さん
21/01/26 23:11:35.27 .net
>>737
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
これらをみると、
大和説学者らのバカさがら、
よくわかる

782:日本@名無史さん
21/01/26 23:17:27.63 .net
>>739
畿内でよく出る三角縁神獣鏡は紋様が魏鏡と多く共通
使用されている銅は魏鏡と同じもの
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には卑弥呼の遣使は景初三年と記載
また正始元年にも遣使した事が書いてあってその年号が入ったものが見つかっている
全唐文という文書に魏は昔倭に新しい形式の銅鏡を贈ったとあり
旧帯方郡や洛陽でも出土

783:日本@名無史さん
21/01/26 23:19:52.53 .net
>>747
3世紀の列島には畿内はなかったが、大夫がいる九州はあった
邪馬台国は、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツ
後漢書の邪馬臺國は、あり得るが、
梁書、隋書、北史、通史、太平御覧などの邪馬臺國は、半分偽記載

784:日本@名無史さん
21/01/26 23:22:00.33 .net
>>739
畿内の前方後円墳ホケノ山古墳は
棺内の副葬品と棺の炭素14C年代測定法鑑定結果が
共に3世紀中葉以前のものである事を示している

785:日本@名無史さん
21/01/26 23:22:36.45 .net
最近の九州説は
聞いた人が真に受ける可能性がなくて無害だから
いい九州説だな

786:日本@名無史さん
21/01/26 23:24:51.64 .net
>>739
1里75mの短里というのは存在した痕跡がなし
魏の1里は発見されてる当時の尺定規などから換算して
1里430mくらい

787:日本@名無史さん
21/01/26 23:27:57.58 .net
>>743
会稽東治とは現在の福建省福州市に相当
その東は沖縄や台湾で九州よりだいぶ南
魏志倭人伝の行程も九州に上陸してから船出して南に水行30日
さらに南に陸行1月と
邪馬台国をかなり南にある国として記述している

788:日本@名無史さん
21/01/26 23:29:14.91 .net
>>749
> 畿内でよく出る三角縁神獣鏡は紋様が魏鏡と多く共通
こんな模様は中国にはありません!
URLリンク(imgur.com)
> 使用されている銅は魏鏡と同じもの
当時の原材料は日中共通
> 梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には卑弥呼の遣使は景初三年と記載
景初3年の鏡が発見されたのは島根県です
> また正始元年にも遣使した事が書いてあってその年号が入ったものが見つかっている
臺与の時代の都が邪馬台国だったとは書いてありません
> 全唐文という文書に魏は昔倭に新しい形式の銅鏡を贈ったとあり
> 旧帯方郡や洛陽でも出土
事実歪曲ですね
実際は屋台で骨董品として売られていたものです

789:日本@名無史さん
21/01/26 23:32:44.98 .net
△の紐穴の形状は中国鏡には無い形だね

790:日本@名無史さん
21/01/26 23:34:09.83 .net
>>749
>畿内でよく出る三角縁神獣鏡は紋様が魏鏡と多く共通
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるからバツであり、
大和の△は4世紀であり、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>使用されている銅は魏鏡と同じもの
渡来の呉系楽浪鏡師らの材料銅が近縁。
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には卑弥呼の遣使は景初三年と記載
同時代の魏志は景初二年であり、
梁書、日本書紀、太平御覧などの後代史書の「前史の自己解釈に拠る書き換え」は半分偽記載。、
>また正始元年にも遣使した事が書いてあってその年号が入ったものが見つかっている
正始元年鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏の鏡。
>全唐文という文書に魏は昔倭に新しい形式の銅鏡を贈ったとあり
後代の「自己解釈」文は、半分偽文。
>旧帯方郡や洛陽でも出土
洛陽の0〜1枚では、列島の500枚以上の△の証拠にならない。

791:日本@名無史さん
21/01/26 23:37:47.50 .net
>>751
>畿内の前方後円墳ホケノ山古墳は
棺内の副葬品と棺の炭素14C年代測定法鑑定結果が
共に3世紀中葉以前のものである事を示している
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるからバツであり、
大和の前方後円墳ホケノ山古墳は
棺内の副葬品と棺の炭素14C年代測定法鑑定結果が
共に「3世紀最末〜4世紀」のものである事を示している

792:日本@名無史さん
21/01/26 23:39:22.18 .net
>>752
最近の大和説は
聞いた人が真に受ける可能性が全くなくて無害だから
どうでもいい説だな

793:日本@名無史さん
21/01/26 23:40:39.21 .net
>>755
「神獣鏡」は中国鏡ではポピュラーな紋様だよ
中国にありませんというのは九州説の浅はかな大ウソ

794:日本@名無史さん
21/01/26 23:43:17.90 .net
>>755
>当時の原材料は日中共通
これも九州説の大ウソ
国産鏡と中国鏡の銅素材は別のもの
三角縁神獣鏡は中国鏡と同じもの

795:日本@名無史さん
21/01/26 23:44:46.51 .net
>>755
正始元年はまだ卑弥呼は在命中
景初三年銘の画文帯神獣鏡が大阪から見つかっている

796:日本@名無史さん
21/01/26 23:45:19.18 .net
>>757




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

797:日本@名無史さん
21/01/26 23:46:10.30 .net
>>753
魏朝では、1里430m位の長里というのは存在した痕跡が殆どなく、
また、里歩系と尺寸系は、元々関係がなく、
魏朝の1里も、当時の尺定規とは関係がなく、
1里76.5mくらい

798:日本@名無史さん
21/01/26 23:47:11.08 .net
>>757
畿内がなかったら九州もなかった
三角縁神獣鏡の銘の景初三年や正始元年は240年ころ
楽浪はもと漢の領地でのちに魏の領地
呉の領地になった事はないので呉系楽浪鏡師というのは存在しない

799:日本@名無史さん
21/01/26 23:48:47.62 .net
>>761
だからあ、その中国鏡と言われてるものは出所不明なんだよ
何より時代が新しいし
年代測定してみろ

800:日本@名無史さん
21/01/26 23:49:09.90 .net
>>757
現在見る魏志倭人伝は12世紀に復刻されたもので
それ以前のものを引き写した史書には
卑弥呼の魏への遣使は景初三年とあるので
古い魏志倭人伝には卑弥呼の遣使は景初三年とあったいうのが定説

801:日本@名無史さん
21/01/26 23:50:19.48 .net
>>762
三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡で同じ景初三年と彫られるのはあり得ません

802:日本@名無史さん
21/01/26 23:51:04.96 .net
>>766
洛陽発見鏡は年代的には第U期と鑑定されている
250年のあたり

803:日本@名無史さん
21/01/26 23:51:41.21 .net
>>766
出所はわかっているよ
洛陽近郊の白馬寺近くの畑から掘り出されたもの

804:日本@名無史さん
21/01/26 23:52:01.54 .net
>>768
あり得ないという事はない
そもそも現物が出てるし

805:日本@名無史さん
21/01/26 23:52:31.32 .net
>>767
中国の史書は後世ほど信憑性が薄れる
これ向こうでは常識なのになぜあえて後世の文献を信じるの?

806:日本@名無史さん
21/01/26 23:53:03.76 .net
>>754
会稽東治とは現在の上海付近に相当
その東は、ほぼ九州島付近。
魏志倭人伝の行程でも九州に上陸して、不彌國の南直ぐに邪馬壹國女王之所都がある。
さらに南の「東回りでも西回りでも水行二十日」に投馬國がある、と記述している

807:日本@名無史さん
21/01/26 23:53:33.39 .net
>>769
日本の古墳は95%ほどが盗掘されてる
その中身が中国で発見されてもおかしくはない

808:日本@名無史さん
21/01/26 23:54:11.04 .net
>>757
楽浪はもと漢の領地でのちに魏の領地
呉の領地になった事はないので呉系楽浪鏡師というのは存在しない
呉では三角縁神獣鏡の発見が0枚なので
九州説がいう呉系楽浪鏡師は関与した証拠がない事になる

809:日本@名無史さん
21/01/26 23:55:38.22 .net
>>758




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

810:日本@名無史さん
21/01/26 23:55:42.86 .net
>>756
>△の紐穴の形状は中国鏡には無い形だね
ふーん、成程。

811:日本@名無史さん
21/01/26 23:56:41.58 .net
>>761
>国産鏡と中国鏡の銅素材は別のもの
型が同じ
だから中国産の古い青銅品をリサイクルしたんじゃないかと考えられている
古い銅鏡や銅鐸を溶かして作られた国産鏡だよ
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
URLリンク(www.nikkei.com)
清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。
鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、
そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。

812:日本@名無史さん
21/01/26 23:56:47.36 .net
>>772
12世紀に復刻されたものなので後世の文献というのは現在見られる魏志倭人伝
それ以前の魏志倭人伝の文章を
そのまま引き写しして書いてる梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧などの史書には
卑弥呼の魏への遣使は景初3年と書かれている

813:日本@名無史さん
21/01/26 23:57:49.49 .net
>>770
>洛陽近郊の白馬寺近くの畑から掘り出されたもの
と言われている
とここまで書くべきだねw

814:日本@名無史さん
21/01/26 23:58:59.35 .net
>>760
「神獣鏡」は呉付近でポピュラーな紋様だよ
中国にありませんというのは、
大和説の浅はかな大ウソ

815:日本@名無史さん
21/01/26 23:59:06.43 .net
>>773
会稽郡東治県は現在でいう福建省福州市にあった地名
その東は沖縄や台湾に相当
そして魏志倭人伝の記述は邪馬台国を九州からかなり南にある行程で示していて
邪馬台国を相当な南にある国に想定していた事がわかる

816:日本@名無史さん
21/01/27 00:00:40.43 .net
>>779
>それ以前の魏志倭人伝の文章を
>そのまま引き写しして書いてる梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧など
が正しいという理由は?w
それが間違っていて延々と継がれている可能性って全く否定出来ないんだけど?w
だから知能が低いって言われるんだよw

817:日本@名無史さん
21/01/27 00:00:41.59 .net
>>774
三角縁神獣鏡は文様が魏鏡と共通で
素材の銅も中国の鏡と同じものが使われている
景初や正始と魏の年号も入っていて
魏で作られた鏡である事は明らかなので洛陽から見つかってもおかしくはない

818:日本@名無史さん
21/01/27 00:03:15.44 .net
>>778
粘土で鋳型をとって国内で複製品が造られたと考えれば
傷が一致するというのも説明がつく
三角縁神獣鏡は文様の中国鏡との共通や
魏の年号が入っていること
素材の銅が中国鏡と同じものが使われている事などから
魏で作られた魏鏡という事は明らかになっている

819:日本@名無史さん
21/01/27 00:04:14.83 .net
>>761
これも大和説者(東大理系博士号自称男?)の大ウソ
3世紀頃の国産鏡は、殆どが渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
中国鏡の銅素材とは近縁的。
三角縁神獣鏡は、魏では0〜1枚しか出土しない

820:日本@名無史さん
21/01/27 00:04:19.52 .net
>>780
発見場所と発見した人もわかっているという事も書いとくべきかな

821:日本@名無史さん
21/01/27 00:05:19.70 .net
>>784
>魏で作られた鏡である事は明らかなので
だからあ、明らかじゃないだろw
例えば、「中国の魏の時代の遺跡から三角縁神獣鏡の鋳型が出土→三角縁のサンプルなども発見された」
というところまで確認されて初めて「中国製である」と言えるんだよ
本当に頭に障害があるのなら意味がわからなくても仕方ないがw

822:日本@名無史さん
21/01/27 00:05:47.34 .net
>>785
空想ベースはご法度

823:日本@名無史さん
21/01/27 00:06:19.10 .net
>>758




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

824:日本@名無史さん
21/01/27 00:06:23.58 .net
>>781
魏でポピュラーな鏡
>>783
逆に間違ってるという理由は?
1冊だけならまだしも12世紀以前の魏志を引き写して倭人伝を書いている
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は共通して
卑弥呼の遣使を景初3年と記載している

825:日本@名無史さん
21/01/27 00:08:30.13 .net
>>762
>正始元年はまだ卑弥呼は在命中
当たり前。
>景初三年銘の画文帯神獣鏡が大阪から見つかっている
渡来の呉系楽浪鏡師らの陳氏の関与鏡であり、
おそらく、東征将軍らが買った。

826:日本@名無史さん
21/01/27 00:08:56.17 .net
>>786
楽浪は元は漢の領地でのちに魏の領地
呉の領地だった事はないので呉系楽浪鏡師というのは存在し得ない
>>788
三角縁神獣鏡は文様が魏鏡と共通で
素材の銅も中国の鏡と同じものが使われている
景初や正始と魏の年号も入っていて洛陽でも発見されているから
三角縁神獣鏡は魏鏡と確定してるよ
>>789
空想ベースじゃなくて科学的にも確かめられてるんだけどねえ

827:日本@名無史さん
21/01/27 00:09:25.35 .net
>>792
楽浪は元は漢の領地でのちに魏の領地
呉の領地だった事はないので呉系楽浪鏡師というのは存在し得ない

828:日本@名無史さん
21/01/27 00:09:35.58 .net
>>791
12世紀以前のどこかでの写本の際に写し間違えた可能性がゼロだという証拠は?

829:日本@名無史さん
21/01/27 00:10:52.92 .net
>>793
魏は呉から銅が供給されなかったので半島で調達していたんだよね

830:日本@名無史さん
21/01/27 00:10:53.32 .net
>>786
近縁的ではなくて三角縁神獣鏡と中国鏡の銅は全く同じもの
三角縁神獣鏡は呉では1枚も出土しない

831:日本@名無史さん
21/01/27 00:11:50.66 .net
>>793
>粘土で鋳型をとって国内で複製品が造られたと考えれば
いきなり空想で始まってますが?w

832:日本@名無史さん
21/01/27 00:13:45.23 .net
>>793
洛陽で発見されていない。
あればリンクを。

833:日本@名無史さん
21/01/27 00:15:01.54 .net
>>795
12世紀以前の魏志の倭人伝と
それ以前にあった魏志の倭人伝を引き写しして書いた複数の史書の倭人伝は
12世紀の魏志が景初2年と書いてる所を景初3年と書いているので
少なくとも12世紀の魏志はそれ以前のものとは書き間違えで違った内容になった事は確実に明らか
けれど史書が書き間違いした証拠は見つかっていない

834:日本@名無史さん
21/01/27 00:15:25.41 .net
>>758




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

835:日本@名無史さん
21/01/27 00:15:49.92 .net
>>214
邪馬台国と琉球王朝の時代は全く違いますよ。自称研究家さん。

836:日本@名無史さん
21/01/27 00:16:13.34 .net
>>796
魏には徐州という銅の産出地を領有していて
そして三角縁神獣鏡には銅出徐州と彫ってある

837:日本@名無史さん
21/01/27 00:17:34.63 .net
>>765
>畿内がなかったら九州もなかった
畿内はなかったが九州はあった。
>三角縁神獣鏡の銘の景初三年や正始元年は240年ころ
魏の楽浪帯方攻撃戦争から(吏人や母人を伴って)列島に避難して来た、
渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏の関与鏡。
>楽浪はもと漢の領地でのちに魏の領地
呉の領地になった事はないので呉系楽浪鏡師というのは存在しない
公孫氏と呉が仲良くなった時期があり、
その頃に、呉から「渡海や浮由」して、楽浪で△や画文帯などを造った。

838:日本@名無史さん
21/01/27 00:17:49.85 .net
>>799
洛陽発見 卑弥呼の鏡 三角縁神獣鏡
URLリンク(washiyamataikoku.my.coocan.jp)

839:日本@名無史さん
21/01/27 00:18:35.72 .net
>>804
九州と言う名称が確認されるのは鎌倉時代あたり
畿内は5世紀くらい

840:日本@名無史さん
21/01/27 00:20:02.34 .net
>>804
公孫氏と呉が仲良くなった時期なんてないよ
魏に睨まれて公孫氏は呉を裏切る

841:日本@名無史さん
21/01/27 00:23:12.24 .net
そもそも三角縁神獣鏡に彫られているのは魏の年号なので
呉の鏡という事はないね

842:日本@名無史さん
21/01/27 00:26:46.75 .net
>>805
まず。大きさが同じもんが日本国内の何処にある?

843:日本@名無史さん
21/01/27 00:27:04.47 .net
>>767
>現在見る魏志倭人伝は12世紀に復刻されたもので
写本版本での校勘対象になった文字の確率は、0.5%であり、
殆ど全く間違えていない。
>それ以前のものを引き写した史書には 卑弥呼の魏への遣使は景初三年とあるので
同時代の実地の見聞計測の記録が最も信頼性が高く、
後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」になる文字は、信頼性が全くない。
>古い魏志倭人伝には卑弥呼の遣使は景初三年とあったいうのが定説
同時代の実地の見聞計測の記録が最も信頼性や確率が高い、というのが人類の定説。

844:日本@名無史さん
21/01/27 00:32:47.14 .net
>>769
>洛陽発見鏡は年代的には第U期と鑑定されている
250年のあたり
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、。
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らの鑑定は、
宗教的な「結論先にありき」であり、
全く信頼性がなく、確率もない。

845:日本@名無史さん
21/01/27 00:34:22.32 .net
>>811




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

846:日本@名無史さん
21/01/27 00:39:29.23 .net
>>775
>楽浪はもと漢の領地でのちに魏の領地
呉の領地になった事はないので呉系楽浪鏡師というのは存在しない
公孫氏の管理下時代に、公孫氏と呉が仲良くなった時期があり、
だから、魏が、公孫氏の逃げ場を無くすためにも、
楽浪帯方攻撃戦争をした。
呉では三角縁神獣鏡の発見が0枚なので
九州説がいう呉系楽浪鏡師は関与した証拠がない事になる

847:日本@名無史さん
21/01/27 00:45:03.14 .net
>>778
>型が同じ
だか


848:迺国産の古い青銅品をリサイクルしたんじゃないかと考えられている 古い銅鏡や銅鐸を溶かして作られた国産鏡だよ 「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致 https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/ 清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。 鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、 そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。 成程。



849:日本@名無史さん
21/01/27 00:45:44.82 .net
>>809
大きさが何の関係があるの

850:日本@名無史さん
21/01/27 00:47:39.67 .net
>>810
12世紀とそれ以前の倭人伝で
明らかに何か所かの齟齬が見つかっている
古い倭人伝には卑弥呼の遣使は景初3年

851:日本@名無史さん
21/01/27 00:48:26.89 .net
>>779
>12世紀に復刻されたものなので後世の文献というのは現在見られる魏志倭人伝
それ以前の魏志倭人伝の文章を
そのまま引き写しして書いてる梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧などの史書には
卑弥呼の魏への遣使は景初3年と書かれている
梁書などは、「そのまま引き写しして書いてる」事になっていない。
99.5%位「そのまま引き写しして書いてる」事になっているのが、写本版本。

852:日本@名無史さん
21/01/27 00:48:31.07 .net
>>813
公孫氏と呉は仲が悪かった

853:日本@名無史さん
21/01/27 00:49:25.56 .net
>>817
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧などの倭人伝は
当時に現存した魏志倭人伝をそのまま引き写しにしてるよ

854:日本@名無史さん
21/01/27 00:51:53.77 .net
>>803
>魏には徐州という銅の産出地を領有していて
それが使用されるのは西晋時代なんだけど?

855:日本@名無史さん
21/01/27 00:52:42.43 .net
まず、大きさが違う。形も違う。
記事の文章も写真と違う
印象操作 by

856:日本@名無史さん
21/01/27 00:53:39.36 .net
>>782
>会稽郡東治県は現在でいう福建省福州市にあった地名
「会稽東治」はほぼ上海付近にあった地名。
>その東は沖縄や台湾に相当
その東は「ほぼ九州島付近」に相当。
>そして魏志倭人伝の記述は邪馬台国を九州からかなり南にある行程で示していて
邪馬台国を相当な南にある国に想定していた事がわかる
いや、不彌國と邪馬壹國女王之所都が「ほぼ終わる」書き方をしている・

857:日本@名無史さん
21/01/27 00:59:36.16 .net
>>811




で、呉王夫差の後裔が渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?




おえい、早く出せよ中卒のおまえ!

858:日本@名無史さん
21/01/27 01:00:26.24 .net
>>754
>会稽東治とは現在の上海付近に相当
それはなにも根拠のない日本独特の素人説だろう
日本でも中国でも福建州都付近というのが定説だ
泡沫説を理由も言わないで結論連呼しても
信用する人はいない
九州説はそれを繰り返したから衰退した

859:日本@名無史さん
21/01/27 01:01:57.90 .net
>>822
していない。
水行 無視はいけない by

860:日本@名無史さん
21/01/27 01:03:28.70 .net
〜 あゝ幻の畿内説 〜
基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である
■魏志倭人伝は過去の記録に新たに得た情報を追加する形式で書かれている。
■中国側での伝承を書き写した部分
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
・これらを足し合わせ陳寿は帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
ただし、伝承では1里=75mだったが、陳寿は1里=435mという認識
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
@帯方郡
A南に船で20日→投馬国(狗邪韓国)
B南に船で10日→邪馬台国(女王国:北部九州)上陸
C女王の入国許可を伊都国で待つ
D倭人か客人の到着を女王に知らせに行く
E女王の使者が迎えに来る
F迎えに来た護衛とともに女王の都へ
■考えられること
・海洋民族である倭人は船で移動することを全て水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり)
・陸行一月はC〜F女王のもとに到着するまでに一か月を要するという意味である
■結論
魏の時代の倭人は半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいただけのこと
URLリンク(i.imgur.com)

861:日本@名無史さん
21/01/27 01:12:51.83 .net
九州北部をぷらぷらしてからまた朝鮮南岸に戻るバカらしさwwww

862:日本@名無史さん
21/01/27 01:16:24.37 .net
>>826
ユニークだけど
1300里足らないよ。
万2千餘里。1300餘里。100里でも記しているのに13倍以上とは?by

863:日本@名無史さん
21/01/27 01:21:07.24 .net
>>822
会稽郡東治県は現在でいう福建省福州市にあった地名
その東は沖縄や台湾に相当
そして魏志倭人伝の記述は邪馬台国を九州からかなり南にある行程で示していて
邪馬台国を相当な南にある国に想定していた事がわかる

864:日本@名無史さん
21/01/27 01:22:35.90 .net
>>820
魏の時代の景初3年つまり240年には使用されていた

865:日本@名無史さん
21/01/27 01:32:11.02 .net
>>829
陳寿は1里=435mの認識だったが手元にあった資料は1里=75mで記述されていた
それだけのこと

866:日本@名無史さん
21/01/27 01:36:33.23 .net
>>826
ガジンが来た道

867:日本@名無史さん
21/01/27 01:38:14.62 .net
帯方郡についての説明より
帯方郡(たいほう-ぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する[1])。
楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の?、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。
「東のワイ、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。」

868:日本@名無史さん
21/01/27 01:38:35.09 .net
>>832
誰それ?

869:日本@名無史さん
21/01/27 01:40:03.50 .net
>>834
お前

870:日本@名無史さん
21/01/27 01:40:22.90 .net
>>828
5万戸ありそうな遺跡類 九州地域。
熊本(江田山・田原)、宮崎(西都原)
律令時代には、どういう地名だった by ?

871:日本@名無史さん
21/01/27 01:52:52.48 .net
>>836
続き
水行20、10、陸1月(倭人が日、月というのをどう認識?又は大陸の知識を持った倭人? 
2つの線で考察 by


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