邪馬台国畿内説 Part ..
94:日本@名無史さん
20/12/27 09:54:04.28 .net
>>77
僕は、あなたの意見に反対します。
理由は、巻向には、魏志倭人伝時代の人民の住宅が、少ししか発見されないからです。
だから、卑弥呼の都ではありません。
95:日本@名無史さん
20/12/27 09:56:25.17 .net
>>94
俺様は、邪馬台国には、人民がいなければいけないことを、知らなかった。
だから、論破されたのだな。
96:日本@名無史さん
20/12/27 09:56:54.02 .net
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
97:日本@名無史さん
20/12/27 10:09:15.30 .net
研究するべき物事を発表します。
<
98:br> 后汉书 倭在韩东南大海中,依山岛为居,凡百余国。自武帝灭朝鲜,使驿通于汉者三十许国,国皆称王,世世传统。其大倭王居邪马台国。乐浪郡徼,去其国万二千里,去其西北界拘邪韩国七千余里。其地大较在会稽东冶之东,与朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。
99:日本@名無史さん
20/12/27 10:12:34.70 .net
>>97
貴方は、なぜ、魏志倭人伝の「東治」が、後漢書では、「東冶」と書き換えられてしまったのかを研究するのだな。
100:日本@名無史さん
20/12/27 10:16:24.93 .net
魏志倭人伝の作者は、魏志倭人伝時代の一里の長さが一寸千里の法で決定されていたのだということを、知っていたのだったね。
101:日本@名無史さん
20/12/27 10:17:46.78 .net
>>99
では、後漢書の作者は、どうだったのだろうか。
102:日本@名無史さん
20/12/27 10:18:25.85 .net
URLリンク(www.google.com)後漢書の作者&client=ms-android-fujitsu&sourceid=chrome-mobile&ie=UTF-8
103:日本@名無史さん
20/12/27 10:20:05.33 .net
URLリンク(baike.baidu.com)范晔/5078942
104:日本@名無史さん
20/12/27 10:20:48.23 .net
范晔(398年〜445年),字蔚宗,顺阳郡顺阳县(今河南省淅川县李官桥镇)人。南朝宋官员、史学家、文学家,东晋安北将军范汪曾孙、豫章太守范宁之孙、侍中范泰之子。
105:日本@名無史さん
20/12/27 10:21:54.18 .net
出身顺阳范氏,博览群书。元熙二年(420年),宋武帝刘裕即位后,出任冠军(刘义康)长史,迁秘书丞、新蔡太守;元嘉九年(432年),得罪司徒刘义康,贬为宣城太守,开始撰写《后汉书》,加号宁朔将军。元嘉十七年(440年),投靠始兴王刘浚,历任徐州长史、南下邳太守、左卫将军、太子・事。元嘉二十二年(445年),拥戴彭城王刘义康即位,事败被杀,时年四十八岁。
106:日本@名無史さん
20/12/27 10:22:59.25 .net
一生才华横溢,史学成就突出。著作《后汉书》,博采众书,结构严谨、属词丽密,与《史记》《汉书》《三国志》并称“前四史”。
本名
范晔
所处时代
南朝·宋
民族族群
汉人
出生地
顺阳郡(今河南淅川)
出生日期
398年
107:日本@名無史さん
20/12/27 10:24:38.31 .net
>>98-100
松傾ニ告グ
直チニ 傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ 葱ノ華ナ 基地外スペクトルマンニ
変身セヨ
108:日本@名無史さん
20/12/27 10:24:40.86 .net
人物生平
早年经历
范晔出生于士族家庭(顺阳范氏家族),曾祖范汪,东晋安北将军,撰有《尚书大事》《范东阳方》等,进爵武兴县侯,传至伯父范弘之;祖父范宁,东晋临淮太守、豫章太守、经学大家,著有《春秋谷梁传集解》;父亲范泰,东晋中书侍郎,后得刘裕信任,屡被升迁,亦有《古今善言》二十四卷。[1]
109:日本@名無史さん
20/12/27 10:25:41.43 .net
范晔虽出身名门,但由于是妾生的庶子,地位并不高。[2] 据传范晔为母亲入厕时所生,因额头被砖磕破,遂得小名“砖”。范晔出生后,因伯父无子,就被过继给范弘之,因而得袭爵位,封武兴县五等侯。[3] [4]
110:日本@名無史さん
20/12/27 10:26:47.64 .net
范晔自幼酷爱读书,幼年即博览家中藏书,善文,能作隶书,并通晓音律。义熙十年(414年),州郡征召为主簿,被范晔拒绝。元熙二年(420年),刘裕代晋称帝,范晔应招出仕,任彭城王冠军将军刘义康长史,后迁为秘书丞,因父丧离职。元嘉七年(430年),范晔服丧期满,担任征南大将军檀道济的司马、兼新蔡太守。时北魏鲜卑军队围攻青州,檀道济奉命出师解围,范晔随军北伐,升任尚书郎中。[5]
111:日本@名無史さん
20/12/27 10:28:10.40 .net
>>98-100
松傾ニ告グ
直チニ 傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ 葱ノ華ナ 基地外スペクトルマンニ
変身セヨ
112:日本@名無史さん
20/12/27 10:38:35.34 .net
つまり、やはり、後漢書の作者は、洛陽が完全に破壊された後の時代の者であるばかりではなく、あまり、中国北方や吾妻恵比寿の地理についての物事に詳しく無かったのだな。
113:日本@名無史さん
20/12/27 10:40:46.26 .net
>>111
吾妻恵比寿は東夷と変換させたかったのではないのかな。
114:日本@名無史さん
20/12/27 10:41:29.19 .net
つまり、やはり、後漢書の作者は、洛陽が完全に破壊された後の時代の者であるばかりではなく、あまり、中国北方や東夷の地理についての物事に詳しく無かったのだな。
115:日本@名無史さん
20/12/27 10:42:51.30 .net
>>113
後漢書の作者の作者が、一寸千里の法を知らなかった可能性が、急激に高まってきたね。
116:日本@名無史さん
20/12/27 10:45:55.75 .net
>>114
ワードプロセッサーの変換候補のプログラムが、頓珍漢な誤作動を繰り返しているな。
117:日本@名無史さん
20/12/27 10:46:31.40 .net
>>113
後漢書の作者が、一寸千里の法を知らなかった可能性が、急激に高まってきたね。
118:日本@名無史さん
20/12/27 10:55:08.51 .net
ウンコ塗れのスレッドで、奥山氏が、頓珍漢な意見を発表しているので紹介します。
741日本@名無史さん2020/12/27(日) 10:43:36.12
>>737
>又會稽東治之東も、夏后小康の子という一人の人物が、水魚に親しんだ幼馴染みの海浜を指しているのである。
真っ赤なウソというより、九州説はもう笑いをとる道化だな
夏后帝少康の庶子が会稽に封建されて禹廟の祭祀を引き受けて、その子孫が越王句践だと
司馬遷がちゃんと書いてるよ
いつも史料を無視した妄想ばかりするのが九州説だな
119:日本@名無史さん
20/12/27 11:03:31.06 .net
>>117
奥山氏は、頭の出来映えが悪いので、夏時代の無余が、越王句践に影響を与え「られ」ると考えてしまった可能性が高いね。
120:日本@名無史さん
20/12/27 11:04:07.72 .net
>>111
奥山氏は、越国の最後の首都が上海に隣接する蘇州にあったことも知らないのではないのかな。
121:日本@名無史さん
20/12/27 11:07:30.92 .net
>>117
邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、奥山氏に限らず、頭の出来映えが良くないので、反論にならない頓珍漢な意見を発表しながら、悪口を言い放つことしか出来ないよ。
122:日本@名無史さん
20/12/27 11:12:52.40 .net
>>114
つまり、魏志倭人伝を読んだ後漢書の作者は、邪馬壹の位置を計算した結果、邪馬壹が自分の故郷の目と鼻の先にある東治の対岸にあることを不信に感じ、出来るだけ南にある、よく似た地名に書き換えてしまったのだね。
123:日本@名無史さん
20/12/27 11:34:09.38 .net
>>117
でも、史料である魏志倭人伝の方向や距離を無視する
近畿説が言ってもな。説得力がないよ。
124:日本@名無史さん
20/12/27 23:38:15.59 .net
本スレあげ
125:日本@名無史さん
20/12/28 00:01:33.05 .net
>>122
その通りだ。
魏略も倭人伝も無視無視とは、とんでもない野郎たちだ、、。
126:日本@名無史さん
20/12/28 02:12:24.60 .net
テスト投稿
127:日本@名無史さん
20/12/28 08:18:09.44 .net
テスト投稿
128:日本@名無史さん
20/12/28 09:59:01.76 .net
研究する物事を、発表します。
地貌
长江三角洲卫星图
长江三角洲卫星图
前四千至五千年之前,长江三角洲是一个三角形港湾,长江河口好似一只向东张口的喇叭,水面辽阔,潮汐作用显著。在海水的顶托下,长江每年带来的4.7亿吨泥沙大部分沉积下来,在南、北两岸各堆积成一条沙堤。北岸沙堤大致从扬州附近向东延伸至如东附近,沙堤以北主要是由黄河、淮河冲积成的里下河平原。南岸沙堤从江阴附近开始向东南延伸,直至上海市金山区的漕泾附近,并与钱塘江北岸沙堤相连接,形成了太湖平原。
URLリンク(baike.baidu.com)
129:日本@名無史さん
20/12/28 10:02:24.42 .net
>>127
貴方は、ついに、上海の東海岸に、「東治」という「東からの水の台」が何時出現したかを、究明したな。。。
130:日本@名無史さん
20/12/28 10:05:15.22 .net
4、5千年前、長江デルタというデルタには、南北に一条の沙の堤が出現したのだな。
前四千至五千年之前,长江三角洲是一个三角形港湾,长江河口好似一只向东张口的喇叭,水面辽阔,潮汐作用显著。在海水的顶托下,长江每年带来的4.7亿吨泥沙大部分沉积下来,在南、北两岸各堆积成一条沙堤。
131:日本@名無史さん
20/12/28 10:13:45.15 .net
>>129
4、5千年前、長江デルタというデルタに出現した、南北、それぞれ、2条の沙の堤は、西側の良渚文明の者達に、まとめて「東の水の台」、すなわち、「東 水台」、「東治」と呼ばれるようになったのだね。。。
132:日本@名無史さん
20/12/28 10:17:06.44 .net
>>130
文化大革命のときに、その東の水にある台に、大運河が通されたので、その運河は、大治河と名付けられたのだったな。
133:日本@名無史さん
20/12/28 10:18:12.64 .net
ウンコ塗れのスレッドで、奥山氏が、頓珍漢な意見を発表しているので紹介します。
925 名前:日本@名無史さん 2020/12/28(月) 10:06:01.33
文革の混乱が終結した大治之年に作られた人工の運河「大治河」の東の端っこ「上海市浦東新区東治」
134:日本@名無史さん
20/12/28 10:27:36.52 .net
>>132
卑劣な奥山氏は、大治之年に作られた人工の運河「大治河」の東側にある土地を、「大治河の東」なのだという意味で命名したことを捏造しようとしているな。
135:日本@名無史さん
20/12/28 12:02:35.90 .net
>>1
良いスレッドだね。
136:日本@名無史さん
20/12/28 13:20:02.58 .net
奥山氏が、ウンコ塗れのスレッドで、頓珍漢な意見を発表しているので、紹介します。
811 ◆n7jxAxKCBhb6 2020/12/28(月) 12:41:00.39
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
137:日本@名無史さん
20/12/28 13:20:15.74 .net
そうだな、、、
奥山氏は、会稽という単語が、単独で使用された時は、、「単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。」という意見を発表しているが、
魏志倭人伝での会稽は、夏の時代に無余が、封じられた場所であり、何千年も後に設置された「会稽郡治「会稽山陰」」とは、全く無関係なのだったね。
138:日本@名無史さん
20/12/28 13:26:24.79 .net
>>135
「会稽郡治が現・蘇州市にった時期」とは、どのような時期なのだろうか。。。
139:日本@名無史さん
20/12/28 13:29:36.99 .net
>>137
「会稽郡治が現・蘇州市にった時期」とは、蘇州を最後の首都にしていた越人達が、まだ、蘇州に溢れかえっていた時代であり、
その地に、「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。封於會稽、以奉守禹之祀」という伝承が残っていた時代ではないのかな。
140:日本@名無史さん
20/12/28 13:59:29.91 .net
始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
URLリンク(baike.baidu.com)
URLリンク(sa.sogou.com)
141:日本@名無史さん
20/12/28 13:59:42.40 .net
もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
142:日本@名無史さん
20/12/28 22:06:51.84 .net
4、5千年前、長江デルタというデルタに出現した、南北、それぞれ、2条の沙の堤は、西側の良渚文明の者達に、まとめて「東の水の台」、すなわち、「東 水台」、「東治」と呼ばれるようになったのだったな。
143:日本@名無史さん
20/12/28 22:07:27.28 .net
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
144:日本@名無史さん
20/12/30 03:30:28.59 .net
キチスレ
145:日本@名無史さん
21/01/01 11:41:21.78 .net
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
URLリンク(m-repo.lib.meiji.ac.jp)
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したが
146:って,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。 纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。 前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。 それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。 特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。 これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。 中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。 古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
147:日本@名無史さん
21/01/01 11:42:25.60 .net
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。
148:日本@名無史さん
21/01/01 11:43:52.57 .net
3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw
149:日本@名無史さん
21/01/03 22:26:29.35 .net
魏志倭人伝見てると九州と思っちゃうけど、九州北部の前方後円墳と三角縁神獣鏡の出現時期を見てやっぱ畿内説だわってなるのよね
150:日本@名無史さん
21/01/03 23:00:56.61 .net
古墳の年代が分かりやすくまとまってる日本地図とかない?
151:日本@名無史さん
21/01/03 23:05:22.53 .net
記紀の内容でも「邪馬台国=大和朝廷はありえないわ」と思うけど
考古学的アプローチは畿内の方が分がある感じっぽいな
152:日本@名無史さん
21/01/03 23:07:59.32 .net
権力の象徴としての古墳が日本中にあるってことがどういうことなのか
「中央政権が派遣した国司的な人物がその地方での権力者として古墳を作った」なのか
「文化的な交流はあったもののそれぞれの地方にそれぞれ権力者がいた」なのか
どちらかというと前者の方がスッキリするんだけど
3世紀の時点で日本の文明レベルがそこまでいってたっていうと
イメージしてたよりもだいぶ文明が進んでいたんだなと感じる
153:日本@名無史さん
21/01/03 23:16:55.12 .net
畿内を中心に倭国大乱が勃発
それをおさめるために女王を共立、ヤマト同盟が完成
ヤマト同盟が武力を背景に支配域を広めて北九州まで制圧
伊都国に一大率を置き北九州を監督、中国の使者もそこで対応
それぞれの地域に派遣した役人がその地で死亡すると同じような形の古墳に埋葬
考古学的アプローチでこんなストーリーになるっていうなら畿内説に鞍替えできる
154:日本@名無史さん
21/01/06 08:31:25.17 .net
邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、ズレる。
155:日本@名無史さん
21/01/06 08:48:06.38 .net
>>152
修正される前の複製を、貼り付けてしまっているよ。。。
156:日本@名無史さん
21/01/06 08:48:35.61 .net
邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、ズレる。
157:日本@名無史さん
21/01/06 13:37:49.63 .net
魏志倭人伝見てると九州と思っちゃうし、九州北部の前方後円墳と三角縁神獣鏡の出現時期を見ても魏志倭人伝時代が終わった後なので、やっぱ九州だわってなるのよね
158:日本@名無史さん
21/01/06 20:28:58.64 .net
記紀では神功皇后のときにチラッと載ってる程度
てか、記紀編纂時のあの当時ですら邪馬台国がよくわかってないレベルw
三国志に載ってたのは認識していたが
つまり、ヤマト王権の話ではない証拠w
159:日本@名無史さん
21/01/07 05:44:23.18 .net
>>155
鏡も前方後円墳も根拠が軽薄。
文献枚数以上の枚数が出るのか?
中国から出ないのか?
国産品があり、魏から下賜された鏡と
何処が違うのか?
又、下賜された鏡は何処にあり
何枚現存するのか?。
文献の記述との一致できる物的、証拠が乏しい。
桃とか、カエルとか魏志には記がない。
祭祀に使う事と卑弥呼がそれを使うもの
とは別ではないか?
年代測定、発掘も
批判的な立場や利害関係がない第三者が多数の参加があるか?
160:日本@名無史さん
21/01/07 05:55:03.71 .net
九州説
やはり、水行20日から始まる記だな。
鏡の種は全体意見として未だ上げない、古墳の形状や大きさも。
位置に関しては、現在並みの精度を求めていない。具体的に数字がない箇所は、東は右、西は左でいい。
161:日本@名無史さん
21/01/08 11:26:23.58 .net
>>1
貴方は、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説の公式ホームページを、ここ、5ちゃんねるに作成しましたね。
だから、感謝します。
162:日本@名無史さん
21/01/08 11:27:53.81 .net
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
163:日本@名無史さん
21/01/08 11:29:22.45 .net
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
164:日本@名無史さん
21/01/08 11:30:12.55 .net
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
165:日本@名無史さん
21/01/08 11:31:10.86 .net
始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
URLリンク(baike.baidu.com)
URLリンク(sa.sogou.com)
166:日本@名無史さん
21/01/08 11:31:35.09 .net
もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
167:日本@名無史さん
21/01/08 11:32:13.63 .net
4、5千年前、長江デルタというデルタに出現した、南北、それぞれ、2条の沙の堤は、西側の良渚文明の者達に、まとめて「東の水の台」、すなわち、「東 水台」、「東治」と呼ばれるようになったのだったな。
168:日本@名無史さん
21/01/08 11:32:48.13 .net
邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、ズレる。
169:日本@名無史さん
21/01/08 13:43:20.64 .net
>>37
九州にも近畿にも到着するね。
170:日本@名無史さん
21/01/08 14:25:00.40 .net
海流
URLリンク(i.imgur.com)
呉越の末裔はどの海流にのって日本にやって来たのでしょうね?
171:日本@名無史さん
21/01/08 14:34:11.16 .net
>>168
奈良盆地はどの海流に面しているのですか?
172:日本@名無史さん
21/01/08 15:38:09.59 .net
奈良より寒い福岡で冬にビニールトンネルが無い時代に生野菜食べるって
どんな魔法を使ったんだwwwwwwwwwwww
173:日本@名無史さん
21/01/08 15:48:44.92 .net
>>170
雪降ってるからそう思ったのか池沼
魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。
■卑弥呼の時代に確実に存在していたクスノキをピックアップすると
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・確認できず
174:日本@名無史さん
21/01/08 15:51:34.44 .net
九州倭国はトヨの時代に狗奴国ことヤマト王権に屈してその傘下に入ったんだろう
そして前方後円墳と三角縁神獣鏡を受け入れたのだろう
175:日本@名無史さん
21/01/08 15:58:49.80 .net
>>172
それはもっと後の時代だ
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
URLリンク(i.imgur.com)
<倭国伝>〜AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論
・畿内ヤマトと倭国は別の国だった
176:日本@名無史さん
21/01/08 15:59:45.24 .net
先生(ホンモノ、ほんとーの?)だと言っているだろう、
みたいな事を言っている人もいたような。
・・・自身は学校にも行っていない?
むかーしから〜〜、教えたりしていた家。
177:日本@名無史さん
21/01/08 16:09:17.01 .net
邪馬台国はヤマト王権に併呑されたから中国の文献からしばらく消えた
ヤマト王権に併呑された旧邪馬台国はヤマト王権の支援を受けて
半島への侵略を積極的に行うようになり百済と新羅を支配するまでになった
178:日本@名無史さん
21/01/08 16:26:09.62 .net
ろす〜、ろと?
『天財若子』
このような名前の家、すごい土地を持っていて・・・、
その話の家。
179:日本@名無史さん
21/01/08 16:44:20.02 .net
すごい家の・・・と、
何か(?)が入れ代わっているとか、
そういう話なんだろうwみたいな説もある。
180:日本@名無史さん
21/01/11 19:57:55.84 .net
松傾こと奥山氏が、スレッドを荒らしているな。
176日本@名無史さん2021/01/08(金) 16:26:09.62
ろす〜、ろと?
『天財若子』
このような名前の家、すごい土地を持っていて・・・、
その話の家。
177日本@名無史さん2021/01/08(金) 16:44:20.02
すごい家の・・・と、
何か(?)が入れ代わっているとか、
そういう話なんだろうwみたいな説もある。
181:日本@名無史さん
21/01/11 21:07:13.51 .net
邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまった。
182:日本@名無史さん
21/01/12 21:21:55.38 .net
倭人伝から邪馬台国の位置を探そうなんて、時間の無駄だよね。今までたくさんの学者がいろんな読み方をして、結局わからないんだから。
183:日本@名無史さん
21/01/13 19:50:25.31 .net
>>1
良いスレッドを作成しましたね。
184:日本@名無史さん
21/01/13 19:51:56.31 .net
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
185:日本@名無史さん
21/01/16 09:29:04.97 .net
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
186:日本@名無史さん
21/01/16 09:29:41.30 .net
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
187:日本@名無史さん
21/01/16 09:31:11.94 .net
もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
URLリンク(i2.kknews.cc)
188:日本@名無史さん
21/01/16 09:33:20.69 .net
>>185
たしかに、、、
魏志倭人伝の作者の生きている時代の者達は、魏志倭人伝時代の地図を見て、揚子江の河口付近の会稽東治の東に、倭があることを知っていて、
もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、魏志倭人伝の作者は、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
URLリンク(i2.kknews.cc)
189:日本@名無史さん
21/01/16 09:33:46.08 .net
4、5千年前、長江デルタというデルタに出現した、南北、それぞれ、2条の沙の堤は、西側の良渚文明の者達に、まとめて「東の水の台」、すなわち、「東 水台」、「東治」と呼ばれるようになったのだったな。
URLリンク(i2.kknews.cc)
190:日本@名無史さん
21/01/16 09:36:04.72 .net
邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
191:日本@名無史さん
21/01/16 09:37:24.03 .net
様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表したのだったな。
192:日本@名無史さん
21/01/16 09:38:51.28 .net
>>189
様々な学問の分野の中には、ゴッドハンドを出現させてしまった分野もあったが、他の様々な分野の優れた学者達には、あまり、真面目には取り合って貰えなかったのだったな。
193:日本@名無史さん
21/01/16 09:47:48.22 .net
>>1
貴方は、良いスレッドを作成したな。
194:日本@名無史さん
21/01/16 11:25:43.59 .net
邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・1700年程の間、2次宇宙線に含まれる中性子線を浴び続けた微高地の桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
195:日本@名無史さん
21/01/16 11:30:02.78 .net
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
196:日本@名無史さん
21/01/16 12:21:08.87 .net
レベルの高いスレッドに、頭の出来映えが悪い奥山氏が、出来映えの良くない嘘の文章を貼り付けてしまったな。
193 名前:日本@名無史さん 2021/01/16(土) 11:30:02.78
まーだやってらっしゃるのか
197:日本@名無史さん
21/01/16 19:45:13.52 .net
庄内式と名付けられてしまった「吉備の土器」が出現した時期は、博多と巻向では、本当は、どちらが先なのだろうか。
464 名前:日本@名無史さん 2021/01/16(土) 08:24:36.30
福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
198:日本@名無史さん
21/01/17 12:28:17.92 .net
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
199:日本@名無史さん
21/01/17 12:28:52.15 .net
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
200:日本@名無史さん
21/01/17 12:29:21.73 .net
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
201:日本@名無史さん
21/01/17 12:30:32.41 .net
始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
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