邪馬台国畿内説 Part ..
2:日本@名無史さん
20/12/24 22:32:06.79 .net
良いスレッドが、出現したな。
3:日本@名無史さん
20/12/24 22:47:08.65 .net
932番目というのが正式な次スレなのですね
わかりました
4:日本@名無史さん
20/12/25 01:16:24.58 .net
キチスレ
5:日本@名無史さん
20/12/25 07:07:39.96 .net
>>1
良いスレッドを作成しましたね。
6:日本@名無史さん
20/12/25 07:57:00.94 .net
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
7:日本@名無史さん
20/12/25 07:57:10.58 .net
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
8:日本@名無史さん
20/12/25 07:57:49.70 .net
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
9:日本@名無史さん
20/12/25 07:58:15.34 .net
始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、魏志倭人伝の会稽東治の候補であり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、その東の治所から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
URLリンク(baike.baidu.com)
URLリンク(sa.sogou.com)
10:日本@名無史さん
20/12/25 07:58:37.06 .net
もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東の治所の東と書いたのは、やはり、「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「会稽東の治所」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね
11:日本@名無史さん
20/12/25 08:37:30.38 .net
>>1
僕は、小学三年生です。
貴方は「冬休み中の小学生も、意見を発表しても、良いよ。」という許可をしてくれたので、お礼を言います。
ありがとう、、、
意見を発表します。
巻向は、墓場だと思います。
理由は、前方後円墳が墓だと思うからです。
12:日本@名無史さん
20/12/25 08:38:30.51 .net
>>11
賛成です。
私は、小学4年生です。クラブ活動は漢字クラブです。
だから、漢字が読めるので、魏志倭人伝を翻訳しました。
巻向は、邪馬台国とは関係がないことが、わかりました。
13:日本@名無史さん
20/12/25 08:42:53.91 .net
>>12
正解
14:日本@名無史さん
20/12/25 09:03:10.47 .net
研究するべき物事を、発表します。
史记
封禅书
自威、宣、燕昭使人入海求蓬莱、方丈、瀛洲三神山者,其传在渤海中,去人不远。患且至则船风引而去。盖尝有至者,诸仙人及不死之药皆在焉。
URLリンク(baike.baidu.com)
15:日本@名無史さん
20/12/25 09:18:38.09 .net
URLリンク(baike.baidu.com)
16:日本@名無史さん
20/12/25 09:22:41.76 .net
自威、宣、燕昭使人入海求蓬莱、方丈、瀛洲。此三神山者,其傅在勃海中,去人不远;患且至,则船风引而去。盖尝有至者,诸仙人及不死之药皆在焉。其物禽兽尽白,而黄金银为宫阙。未至,望之如云;及到,三神山反居水下。临之,风辄引去,终莫能至云。
世主莫不甘心焉。及至秦始皇并天下,至海上,则方士言之不可胜数。始皇自以为至海上而恐不及矣,使人乃赍童男女入海求之。船交海中,皆以风为解,曰未能至,望见之焉。
其明年,始皇复游海上,至琅邪,过恒山,从上党归。後三年,游碣石,考入海方士,从上郡归。後五年,始皇南至湘山,遂登会稽,并海上,冀遇海中三神山之奇药。不得,还至沙丘崩。
17:日本@名無史さん
20/12/25 09:23:37.78 .net
後五年,始皇南至湘山,遂登会稽,并海上,冀遇海中三神山之奇药。
18:日本@名無史さん
20/12/25 09:42:43.48 .net
旧石器のゴッドハンドはひとり
STAP騒動の時のゴッドハンドは2-3人
畿内説に関係したゴッドハンドは数千人かな
19:日本@名無史さん
20/12/25 09:45:24.53 .net
蘇州とは別の、強力な会稽東治の候補を発見してしまった。。
URLリンク(www.google.co.jp)
20:日本@名無史さん
20/12/25 09:47:47.04 .net
>>19
リンクという物事が出来ないので、httpsは、外せば良いよ。
www.google.co.jp/maps/place/中華人民共和国+上海市+浦東新区+東治/@30.9959104,121.8881109,13.75z/data=!4m5!3m4!1s0x35ad9c142fd9e405:0x27c262bc8acdc454!8m2!3d30.999776!4d121.884029?hl=ja
21:日本@名無史さん
20/12/25 09:49:32.46 .net
>>20
埋め立て地の可能性もあるのではないのかな。
22:日本@名無史さん
20/12/25 09:51:34.44 .net
だが、杭州湾の北東端に、東治という地名があった名残の可能性が高いな。
23:日本@名無史さん
20/12/25 09:52:45.11 .net
>>19
貴方は、物凄い発見をしてしまったな。。。
24:日本@名無史さん
20/12/25 09:54:48.54 .net
>>23
会稽山の麓から、船団を繰り出し、大海に出ようとすれば、杭州湾の北東端に自動的に流れる可能性も高いな。
25:日本@名無史さん
20/12/25 09:56:11.79 .net
>>24
邪馬台国畿内説が、完全に、木端微塵に消滅したのではないのかな。
26:日本@名無史さん
20/12/25 09:57:44.73 .net
中華人民共和国上海市浦東新区東治
27:日本@名無史さん
20/12/25 10:13:01.93 .net
昔は海
28:日本@名無史さん
20/12/25 10:15:17.62 .net
>>21
かつては、原野だったという情報があるね。
29:日本@名無史さん
20/12/25 10:17:35.15 .net
荒らし行為の常習犯の奥山氏が出現したな。
27日本@名無史さん2020/12/25(金) 10:13:01.93
昔は海
30:日本@名無史さん
20/12/25 10:19:47.74 .net
>>19
蘇州も捨てがたいが、海に面している上海市浦東新区東治の方が、無余が海に潜った場所としては相応しいね。
31:日本@名無史さん
20/12/25 10:23:42.17 .net
>>28
三角州の南端の原野であるこの一帯を、大昔は東治と呼んでいた可能性が、高いね。
32:日本@名無史さん
20/12/25 10:29:40.27 .net
>>28
長江が運ぶ砂が堆積した原野だったのだな。
33:日本@名無史さん
20/12/25 10:46:50.45 .net
>>29
邪馬台国畿内説を木端微塵にしてしまう真実が発見されたので、すぐバレる嘘を言い放ったね。
27日本@名無史さん2020/12/25(金) 10:13:01.93
昔は海
34:日本@名無史さん
20/12/25 10:53:42.90 .net
昔といっても、1千万年くらいの昔の事だろう
倭人伝や夏王朝には何の関係もないたわ言
35:日本@名無史さん
20/12/25 11:20:53.09 .net
研究用に貼り付けます。
王郎字景兴,东海郡人也。以通经,拜郎中,除菑丘长。师太尉杨赐。赐薨,弃官行服。举孝廉,辟公府,不应。徐州刺史陶谦察朗茂才。时汉帝在长安,关东兵起,郎为廉治中,与别驾赵c等说谦曰:“《春秋》之义,求诸侯莫如勤王。今天子越在西京,宜遣使奉承王命。”谦乃遣c奉章至长安。天子嘉其意,拜谦安东将军。以c为广陵太守,郎会稽太守。孙策渡江略地。郎功曹虞翻以为力不能拒,不如避之。朗自以身为汉吏,宜保城邑,遂举兵与策战,败绩,浮海至东治。策又追击,大破之。朗乃诣策。策以儒雅,诘让而不害。虽流移穷困,朝不谋夕,而收恤亲旧,分多割少,行义甚着。
URLリンク(baike.baidu.com)
36:日本@名無史さん
20/12/25 11:22:27.26 .net
>>35
貴方は、東治という地名を钟繇华歆王朗传という謎の文章の中に発見したのだな。。。
37:日本@名無史さん
20/12/25 11:25:23.87 .net
会稽山の麓から、船団を繰り出し、大海に出ようとすれば、杭州湾の北東端に自動的に流れるのだったな。
38:日本@名無史さん
20/12/25 11:26:50.98 .net
>>37
会稽山から始皇帝が、妙薬を探しに出発した船団を見送った可能性があるね。
39:日本@名無史さん
20/12/25 11:29:26.09 .net
>>38
王郎という人物も、合戦に負けたので、会稽を捨て、船で、杭州湾の北東端の東治に逃れたのだな。。。
40:日本@名無史さん
20/12/25 11:33:24.14 .net
図)会稽東冶の東
URLリンク(imgur.com)
41:日本@名無史さん
20/12/25 11:33:32.45 .net
朗自以身为汉吏,宜保城邑,遂举兵与策战,败绩,浮海至东治。策又追击,大破之。朗乃诣策。
42:日本@名無史さん
20/12/25 11:34:37.57 .net
荒らし行為の常習犯の奥山氏が出現したな。
40日本@名無史さん2020/12/25(金) 11:33:24.14
図)会稽東冶の東
URLリンク(imgur.com)
43:日本@名無史さん
20/12/25 11:41:46.66 .net
>>42
奥山じゃないよ
44:日本@名無史さん
20/12/25 11:55:05.97 .net
研究用に貼り付けます。
孙静字幼台,坚季弟也。坚始举事,静纠合乡曲及宗室五六百人以为保障,众咸附焉。策破刘繇,定诸县。进攻会稽,遣人请静,静将家属与策会于钱唐。
是时太守王朗拒策于固陵,策数渡水战,不能克。静说策曰:“朗负阻城守,难可卒拔。查渎南去此数十里,而道之要径也,宜从彼据其内,所谓攻其无备、出其不意者也。
吾当自帅众为军前队,破之必矣。”策曰:“善。”乃诈令军中曰:“顷连雨水浊,兵饮之多腹痛,令促具罂缶数百口澄水。”至昏暮,罗以然火诳朗,便分军夜投查渎道,袭高迁屯。
朗大惊。遣故丹杨太守周マ等帅兵前战。策破マ等,斩之,遂定会稽。表拜静为奋武校尉,欲授之重任,静恋坟墓宗族,不乐出仕,求留镇守。策从之。
权统事,就迁昭义中郎将,终于家。有五子,皓、瑜、皎、奂、谦。皓三子:绰、超、恭。超为偏将军。恭生峻。绰生綝。
URLリンク(baike.baidu.com)
45:日本@名無史さん
20/12/25 11:58:12.86 .net
>>44
貴方は、会稽を捨て、船で、杭州湾の北東端の東治に逃れた王郎という人物という人物が、どのようにして、合戦に負けたのかを、研究するのだな。
46:日本@名無史さん
20/12/25 12:05:31.73 .net
だが、この地図は、魏志倭人伝時代の地図ではないよ。
40日本@名無史さん2020/12/25(金) 11:33:24.14
図)会稽東冶の東
URLリンク(imgur.com)
43日本@名無史さん2020/12/25(金) 11:41:46.66
>>42
奥山じゃないよ
47:日本@名無史さん
20/12/25 12:09:19.54 .net
>>41
王郎という人物は、卑劣な作戦で合戦に負け、一旦、杭州湾の北東端の東治に逃れ、船団を整えようとしていたところを、再び、合戦に負け、捕らえられたのだな。
48:日本@名無史さん
20/12/25 12:13:43.62 .net
>>47
王郎という人物は、卑劣な作戦で合戦に負け、一旦、杭州湾の北東端の長江が運ぶ砂が堆積した原野である東治に逃れ、南方の交州という場所に逃れるため、外海を航海できる船団や兵糧を整えようとしていたところを、再び、合戦に負け、捕らえられたのではないのかな。
49:日本@名無史さん
20/12/25 12:21:01.10 .net
>>48
兆が一、杭州湾を出て、500km以上の航海になる福州市という場所に逃れていたならば、追撃はされなかっただろうね。
50:日本@名無史さん
20/12/25 12:24:56.45 .net
会稽東治の候補として、蘇州も捨てがたいが、中華人民共和国上海市浦東新区東治でも良いのではないのかな。
51:日本@名無史さん
20/12/25 12:26:34.97 .net
>>50
地名が残ってしまっているのが、大きすぎるな。
52:日本@名無史さん
20/12/25 12:30:31.06 .net
>>49
500km以上の航海になる追撃の合戦は、源平合戦のような大規模な合戦でも出現しなかったな。
53:日本@名無史さん
20/12/25 13:22:10.51 .net
又名查浦、柤渎、柤塘。在今浙江萧山市西南。
URLリンク(m.cidianwang.com)
54:日本@名無史さん
20/12/25 13:59:00.35 .net
>>50
では、中華人民共和国上海市浦東新区東治は、夏の時代の無余が潜った海岸なのだな。
55:日本@名無史さん
20/12/25 14:05:39.90 .net
>>19
貴方は、物凄い発見をしてしまったな。。。
56:日本@名無史さん
20/12/25 14:24:30.21 .net
始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
URLリンク(baike.baidu.com)
URLリンク(sa.sogou.com)
57:日本@名無史さん
20/12/25 14:27:02.60 .net
もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
58:日本@名無史さん
20/12/25 15:10:37.89 .net
俺様は、邪馬台国は、桜井にあったと思うな。
なぜなら、ひみこちゃんという着ぐるみが、出没するからだ。
59:日本@名無史さん
20/12/25 15:11:09.23 .net
>>1
私は、漢字クラブなので、魏志倭人伝を翻訳しました。
だから、邪馬台国には、軍隊に守られた城があることを発見しました。
それは、卑弥呼が、敵軍から命を狙われていたからだと思います。
60:日本@名無史さん
20/12/25 15:12:22.88 .net
>>59
では、邪馬台国は、城下町だったのだね。
そして、軍隊の兵士や、城の女中が、生活するためには、工業や商業が、盛んなので、
邪馬台国は、大都会なのだな。
61:日本@名無史さん
20/12/25 15:12:52.24 .net
俺様は、人民が多く住む大都会が巻向にあったと思うな。だから、巻向が邪馬台国だったのだ。良いな。
62:日本@名無史さん
20/12/25 15:13:29.92 .net
>>61
巻向は、延べ何万人もの係員が、大規模発掘調査を実行しましたが、3世紀や4世紀頃の人民の住宅が、数件しか発見されません。
だから、大都会ではないのですよ。
63:日本@名無史さん
20/12/25 15:14:16.89 .net
>>62
俺様は、巻向が、延べ何万人もの係員で、大規模発掘調査を実行したが、3世紀や4世紀頃の人民の住宅が、数件しか発見されなかったことを、知らなかったな。
だから、俺様の巻向が邪馬台国だったという意見は、破綻したのだな。
64:日本@名無史さん
20/12/25 15:17:09.08 .net
私は、研究を進行させて、2学期に、邪馬台国畿内説が破綻した理由を、教室で発表するためには、
カエルや桃の種ではなく、鉄の武器がある場所がどこかが、重大だと考えます。
65:日本@名無史さん
20/12/25 15:18:25.14 .net
>>64
貴女は、3学期に発表するのだね。
66:日本@名無史さん
20/12/25 15:19:28.47 .net
>>64
僕は、貴女の意見に賛成します。
魏志倭人伝では、倭人の軍隊が、鉄の鏃を使っていると記録されました。
だから、鉄の鏃が多く発見される場所に、卑弥呼の城があるのだと気づいたからです。
67:日本@名無史さん
20/12/25 15:20:52.20 .net
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
68:日本@名無史さん
20/12/25 15:21:50.67 .net
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
69:日本@名無史さん
20/12/25 15:22:04.72 .net
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
70:日本@名無史さん
20/12/25 15:22:24.04 .net
始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
URLリンク(baike.baidu.com)
URLリンク(sa.sogou.com)
71:日本@名無史さん
20/12/25 15:22:41.94 .net
もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
72:日本@名無史さん
20/12/25 15:23:31.18 .net
URLリンク(www.google.com)
73:日本@名無史さん
20/12/25 19:37:16.76 .net
>>19
貴方は、物凄い発見をしてしまったな。。
74:日本@名無史さん
20/12/25 22:25:54.09 .net
良いスレッドだな。
75:日本@名無史さん
20/12/26 09:40:54.73 .net
>>12
では、魏志倭人伝には、邪馬台国は、何処だと書いてあったか、発表して下さい。
76:日本@名無史さん
20/12/26 09:42:03.12 .net
>>75
魏志倭人伝では、邪馬台国は、対馬や壱岐の南にあります。
77:日本@名無史さん
20/12/26 09:44:19.37 .net
俺様は、頭が良くないが、6年生だ。
だから、小学生全員、俺様が発表する意見には、反対しては、駄目だな。
邪馬台国は、巻向だ。
理由は、巻向に卑弥呼がいたら、観光関連が儲かるからだ。良いな。
78:日本@名無史さん
20/12/26 12:41:24.27 .net
やはり、会稽東治は上海市浦東新区東治なのだろうか。。
79:日本@名無史さん
20/12/26 12:58:53.34 .net
たしかに、物凄い発見をしてしまったな
>>78 日本@名無史さん2020/12/26(土) 12:41:24.27
やはり、会稽東治は上海市浦東新区東治なのだろうか。。。
80:日本@名無史さん
20/12/26 14:50:42.89 .net
上海市浦東新区「東治」。。。
81:日本@名無史さん
20/12/26 15:01:57.40 .net
インターネットでグーグルマップというマップにアプローチし、パソコンの画面に中華人民共和国が全て映し出されるようにしてから、
検索のための空欄に「東治」とタイピングし、実行ボタンを押しこめば、「会稽東治」の有力な候補地点が、赤の印で指し示されるのだったね。
82:日本@名無史さん
20/12/26 15:35:02.65 .net
川沙东治。
83:日本@名無史さん
20/12/26 17:30:51.55 .net
東治は、長江が運ぶ砂が堆積した原野だったのだな。
84:日本@名無史さん
20/12/26 18:33:49.32 .net
中華人民共和国上海市東治、グーグルで出てきたぞ。
東治一帯は緑がいっぱいで、上海濱海森林公園なども近くにある。風光明媚な史跡・観光名所のようだ。ビューテイフル!!
85:日本@名無史さん
20/12/26 18:57:39.85 .net
会稽東治は、ビューテイフル。。。
86:日本@名無史さん
20/12/26 18:58:12.87 .net
インターネットでグーグルマップというマップにアプローチし、パソコンの画面に中華人民共和国が全て映し出されるようにしてから、
検索のための空欄に「東治」とタイピングし、実行ボタンを押しこめば、「会稽東治」の有力な候補地点が、赤の印で指し示されるのだったね。
87:日本@名無史さん
20/12/26 19:02:47.46 .net
>>86
日本の歴史研究家や自称考古学者の「邪馬台国は何処にあったのだ。」という物事についての討論とは、全く無関係に、中国5000年の歴史が、東治という地名を言い伝え残したのだね。
88:日本@名無史さん
20/12/26 21:54:17.54 .net
会稽東治は、元々は、何万年か前から揚子江の沙が堆積した、図らずも、会稽への東からの高潮等の水の侵入を防ぐことになった自然の台地という意味の数千年前からの地名なのだったね。
89:日本@名無史さん
20/12/26 21:55:22.56 .net
>>88
確かに。。。
「治」という漢字は、水の侵入を防ぐ台地という意味が、あるな。
90:日本@名無史さん
20/12/26 21:57:19.48 .net
>>89
字の形が、正に、そのその通りだな。
水台。。
91:日本@名無史さん
20/12/26 22:00:52.28 .net
会稽の東に水さえぎる台あり。みな、会稽東治とよぶ。
92:日本@名無史さん
20/12/26 22:07:45.67 .net
インターネットでグーグルマップというマップにアプローチし、パソコンの画面に中華人民共和国が全て映し出されるようにしてから、
検索のための空欄に「東治」とタイピングし、実行ボタンを押しこめば、「会稽東治」の有力な候補地点が、赤の印で指し示されるのだったね。
93:日本@名無史さん
20/12/26 22:32:24.37 .net
>>87
日本の歴史研究家や自称考古学者や観光関連や5ちゃんねるのプロ固定が闘う、「邪馬台国は何処にあったのだ。」という物事についての討論とは、全く利害関係がない、グーグルマップを作製する優れた者達が、中華人民共和国にも出現し、中華人民共和国人に対して、「この土地は、何と呼ばれているのですか。」という質問をし記録し、グーグルマップというマップを作製したので、僕達が、会稽東治を発見出来たのだったな。
94:日本@名無史さん
20/12/27 09:54:04.28 .net
>>77
僕は、あなたの意見に反対します。
理由は、巻向には、魏志倭人伝時代の人民の住宅が、少ししか発見されないからです。
だから、卑弥呼の都ではありません。
95:日本@名無史さん
20/12/27 09:56:25.17 .net
>>94
俺様は、邪馬台国には、人民がいなければいけないことを、知らなかった。
だから、論破されたのだな。
96:日本@名無史さん
20/12/27 09:56:54.02 .net
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
97:日本@名無史さん
20/12/27 10:09:15.30 .net
研究するべき物事を発表します。
<
98:br> 后汉书 倭在韩东南大海中,依山岛为居,凡百余国。自武帝灭朝鲜,使驿通于汉者三十许国,国皆称王,世世传统。其大倭王居邪马台国。乐浪郡徼,去其国万二千里,去其西北界拘邪韩国七千余里。其地大较在会稽东冶之东,与朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。
99:日本@名無史さん
20/12/27 10:12:34.70 .net
>>97
貴方は、なぜ、魏志倭人伝の「東治」が、後漢書では、「東冶」と書き換えられてしまったのかを研究するのだな。
100:日本@名無史さん
20/12/27 10:16:24.93 .net
魏志倭人伝の作者は、魏志倭人伝時代の一里の長さが一寸千里の法で決定されていたのだということを、知っていたのだったね。
101:日本@名無史さん
20/12/27 10:17:46.78 .net
>>99
では、後漢書の作者は、どうだったのだろうか。
102:日本@名無史さん
20/12/27 10:18:25.85 .net
URLリンク(www.google.com)後漢書の作者&client=ms-android-fujitsu&sourceid=chrome-mobile&ie=UTF-8
103:日本@名無史さん
20/12/27 10:20:05.33 .net
URLリンク(baike.baidu.com)范晔/5078942
104:日本@名無史さん
20/12/27 10:20:48.23 .net
范晔(398年〜445年),字蔚宗,顺阳郡顺阳县(今河南省淅川县李官桥镇)人。南朝宋官员、史学家、文学家,东晋安北将军范汪曾孙、豫章太守范宁之孙、侍中范泰之子。
105:日本@名無史さん
20/12/27 10:21:54.18 .net
出身顺阳范氏,博览群书。元熙二年(420年),宋武帝刘裕即位后,出任冠军(刘义康)长史,迁秘书丞、新蔡太守;元嘉九年(432年),得罪司徒刘义康,贬为宣城太守,开始撰写《后汉书》,加号宁朔将军。元嘉十七年(440年),投靠始兴王刘浚,历任徐州长史、南下邳太守、左卫将军、太子・事。元嘉二十二年(445年),拥戴彭城王刘义康即位,事败被杀,时年四十八岁。
106:日本@名無史さん
20/12/27 10:22:59.25 .net
一生才华横溢,史学成就突出。著作《后汉书》,博采众书,结构严谨、属词丽密,与《史记》《汉书》《三国志》并称“前四史”。
本名
范晔
所处时代
南朝·宋
民族族群
汉人
出生地
顺阳郡(今河南淅川)
出生日期
398年
107:日本@名無史さん
20/12/27 10:24:38.31 .net
>>98-100
松傾ニ告グ
直チニ 傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ 葱ノ華ナ 基地外スペクトルマンニ
変身セヨ
108:日本@名無史さん
20/12/27 10:24:40.86 .net
人物生平
早年经历
范晔出生于士族家庭(顺阳范氏家族),曾祖范汪,东晋安北将军,撰有《尚书大事》《范东阳方》等,进爵武兴县侯,传至伯父范弘之;祖父范宁,东晋临淮太守、豫章太守、经学大家,著有《春秋谷梁传集解》;父亲范泰,东晋中书侍郎,后得刘裕信任,屡被升迁,亦有《古今善言》二十四卷。[1]
109:日本@名無史さん
20/12/27 10:25:41.43 .net
范晔虽出身名门,但由于是妾生的庶子,地位并不高。[2] 据传范晔为母亲入厕时所生,因额头被砖磕破,遂得小名“砖”。范晔出生后,因伯父无子,就被过继给范弘之,因而得袭爵位,封武兴县五等侯。[3] [4]
110:日本@名無史さん
20/12/27 10:26:47.64 .net
范晔自幼酷爱读书,幼年即博览家中藏书,善文,能作隶书,并通晓音律。义熙十年(414年),州郡征召为主簿,被范晔拒绝。元熙二年(420年),刘裕代晋称帝,范晔应招出仕,任彭城王冠军将军刘义康长史,后迁为秘书丞,因父丧离职。元嘉七年(430年),范晔服丧期满,担任征南大将军檀道济的司马、兼新蔡太守。时北魏鲜卑军队围攻青州,檀道济奉命出师解围,范晔随军北伐,升任尚书郎中。[5]
111:日本@名無史さん
20/12/27 10:28:10.40 .net
>>98-100
松傾ニ告グ
直チニ 傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ 葱ノ華ナ 基地外スペクトルマンニ
変身セヨ
112:日本@名無史さん
20/12/27 10:38:35.34 .net
つまり、やはり、後漢書の作者は、洛陽が完全に破壊された後の時代の者であるばかりではなく、あまり、中国北方や吾妻恵比寿の地理についての物事に詳しく無かったのだな。
113:日本@名無史さん
20/12/27 10:40:46.26 .net
>>111
吾妻恵比寿は東夷と変換させたかったのではないのかな。
114:日本@名無史さん
20/12/27 10:41:29.19 .net
つまり、やはり、後漢書の作者は、洛陽が完全に破壊された後の時代の者であるばかりではなく、あまり、中国北方や東夷の地理についての物事に詳しく無かったのだな。
115:日本@名無史さん
20/12/27 10:42:51.30 .net
>>113
後漢書の作者の作者が、一寸千里の法を知らなかった可能性が、急激に高まってきたね。
116:日本@名無史さん
20/12/27 10:45:55.75 .net
>>114
ワードプロセッサーの変換候補のプログラムが、頓珍漢な誤作動を繰り返しているな。
117:日本@名無史さん
20/12/27 10:46:31.40 .net
>>113
後漢書の作者が、一寸千里の法を知らなかった可能性が、急激に高まってきたね。
118:日本@名無史さん
20/12/27 10:55:08.51 .net
ウンコ塗れのスレッドで、奥山氏が、頓珍漢な意見を発表しているので紹介します。
741日本@名無史さん2020/12/27(日) 10:43:36.12
>>737
>又會稽東治之東も、夏后小康の子という一人の人物が、水魚に親しんだ幼馴染みの海浜を指しているのである。
真っ赤なウソというより、九州説はもう笑いをとる道化だな
夏后帝少康の庶子が会稽に封建されて禹廟の祭祀を引き受けて、その子孫が越王句践だと
司馬遷がちゃんと書いてるよ
いつも史料を無視した妄想ばかりするのが九州説だな
119:日本@名無史さん
20/12/27 11:03:31.06 .net
>>117
奥山氏は、頭の出来映えが悪いので、夏時代の無余が、越王句践に影響を与え「られ」ると考えてしまった可能性が高いね。
120:日本@名無史さん
20/12/27 11:04:07.72 .net
>>111
奥山氏は、越国の最後の首都が上海に隣接する蘇州にあったことも知らないのではないのかな。
121:日本@名無史さん
20/12/27 11:07:30.92 .net
>>117
邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、皆、奥山氏に限らず、頭の出来映えが良くないので、反論にならない頓珍漢な意見を発表しながら、悪口を言い放つことしか出来ないよ。
122:日本@名無史さん
20/12/27 11:12:52.40 .net
>>114
つまり、魏志倭人伝を読んだ後漢書の作者は、邪馬壹の位置を計算した結果、邪馬壹が自分の故郷の目と鼻の先にある東治の対岸にあることを不信に感じ、出来るだけ南にある、よく似た地名に書き換えてしまったのだね。
123:日本@名無史さん
20/12/27 11:34:09.38 .net
>>117
でも、史料である魏志倭人伝の方向や距離を無視する
近畿説が言ってもな。説得力がないよ。
124:日本@名無史さん
20/12/27 23:38:15.59 .net
本スレあげ
125:日本@名無史さん
20/12/28 00:01:33.05 .net
>>122
その通りだ。
魏略も倭人伝も無視無視とは、とんでもない野郎たちだ、、。
126:日本@名無史さん
20/12/28 02:12:24.60 .net
テスト投稿
127:日本@名無史さん
20/12/28 08:18:09.44 .net
テスト投稿
128:日本@名無史さん
20/12/28 09:59:01.76 .net
研究する物事を、発表します。
地貌
长江三角洲卫星图
长江三角洲卫星图
前四千至五千年之前,长江三角洲是一个三角形港湾,长江河口好似一只向东张口的喇叭,水面辽阔,潮汐作用显著。在海水的顶托下,长江每年带来的4.7亿吨泥沙大部分沉积下来,在南、北两岸各堆积成一条沙堤。北岸沙堤大致从扬州附近向东延伸至如东附近,沙堤以北主要是由黄河、淮河冲积成的里下河平原。南岸沙堤从江阴附近开始向东南延伸,直至上海市金山区的漕泾附近,并与钱塘江北岸沙堤相连接,形成了太湖平原。
URLリンク(baike.baidu.com)
129:日本@名無史さん
20/12/28 10:02:24.42 .net
>>127
貴方は、ついに、上海の東海岸に、「東治」という「東からの水の台」が何時出現したかを、究明したな。。。
130:日本@名無史さん
20/12/28 10:05:15.22 .net
4、5千年前、長江デルタというデルタには、南北に一条の沙の堤が出現したのだな。
前四千至五千年之前,长江三角洲是一个三角形港湾,长江河口好似一只向东张口的喇叭,水面辽阔,潮汐作用显著。在海水的顶托下,长江每年带来的4.7亿吨泥沙大部分沉积下来,在南、北两岸各堆积成一条沙堤。
131:日本@名無史さん
20/12/28 10:13:45.15 .net
>>129
4、5千年前、長江デルタというデルタに出現した、南北、それぞれ、2条の沙の堤は、西側の良渚文明の者達に、まとめて「東の水の台」、すなわち、「東 水台」、「東治」と呼ばれるようになったのだね。。。
132:日本@名無史さん
20/12/28 10:17:06.44 .net
>>130
文化大革命のときに、その東の水にある台に、大運河が通されたので、その運河は、大治河と名付けられたのだったな。
133:日本@名無史さん
20/12/28 10:18:12.64 .net
ウンコ塗れのスレッドで、奥山氏が、頓珍漢な意見を発表しているので紹介します。
925 名前:日本@名無史さん 2020/12/28(月) 10:06:01.33
文革の混乱が終結した大治之年に作られた人工の運河「大治河」の東の端っこ「上海市浦東新区東治」
134:日本@名無史さん
20/12/28 10:27:36.52 .net
>>132
卑劣な奥山氏は、大治之年に作られた人工の運河「大治河」の東側にある土地を、「大治河の東」なのだという意味で命名したことを捏造しようとしているな。
135:日本@名無史さん
20/12/28 12:02:35.90 .net
>>1
良いスレッドだね。
136:日本@名無史さん
20/12/28 13:20:02.58 .net
奥山氏が、ウンコ塗れのスレッドで、頓珍漢な意見を発表しているので、紹介します。
811 ◆n7jxAxKCBhb6 2020/12/28(月) 12:41:00.39
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
137:日本@名無史さん
20/12/28 13:20:15.74 .net
そうだな、、、
奥山氏は、会稽という単語が、単独で使用された時は、、「単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。」という意見を発表しているが、
魏志倭人伝での会稽は、夏の時代に無余が、封じられた場所であり、何千年も後に設置された「会稽郡治「会稽山陰」」とは、全く無関係なのだったね。
138:日本@名無史さん
20/12/28 13:26:24.79 .net
>>135
「会稽郡治が現・蘇州市にった時期」とは、どのような時期なのだろうか。。。
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