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172:日本@名無史さん
20/10/18 15:13:28.51 .net
>>151
あえて書きませんでしたが奈良の桜井茶臼山古墳は大和鉱床の物を数十年かけて集めた形跡があるようです。
ミマキヒメとの被葬者の予想がありますが、どう考えても物部氏には無理。加茂氏の墓ではないかと言われています。

173:日本@名無史さん
20/10/18 15:16:44.25 .net
本スレで卑弥呼の墓じゃね?の噂のある黒塚古墳。
木棺の遺体を置く中央部のみ水銀朱で両端はベンガラ。三重県丹生鉱山出土朱。
すぐ近くの天神山古墳には木製容器の中に41sの水銀朱が納められていた。こちらは大和水銀鉱山出土朱。
中国の古銭が100枚見つかったら、中国は阿波から始まったとか言い出すのが@阿波

174:日本@名無史さん
20/10/18 15:20:10.84 .net
>>155
頑張れガンバレ、必死のパッチ君。  わははははは   @阿波

175:日本@名無史さん
20/10/18 15:22:17.70 .net
ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪

176:日本@名無史さん
20/10/18 15:28:51.14 .net
>>157
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪

もはや「勝者の貫録スレ」も形無しだね。  わははははは   @阿波

177:日本@名無史さん
20/10/18 15:31:25.45 .net
で?阿波のバックボーン、根拠は?www

178:日本@名無史さん
20/10/18 15:34:02.35 .net
本題に戻ると、
九州と出雲、奈良の凄さが錫や水銀からも分かると言うことですね。

179:日本@名無史さん
20/10/18 15:35:02.73 .net
>>159
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波

180:日本@名無史さん
20/10/18 15:45:15.80 .net
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪

もはや「勝者の貫録スレ」も張子の虎だね。  わははははは   @阿波

181:日本@名無史さん
20/10/18 15:53:17.84 .net
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
URLリンク(stat.ameba.jp)

182:日本@名無史さん
20/10/18 15:57:09.62 .net
急に唐子鍵あげはじまったな

183:日本@名無史さん
20/10/18 15:57:33.91 .net
ね?皆さん。
証拠を出せとか根拠を出せとか言いながら自分で調べもしないやつに限ってロクなのは居ない。
ホラは治らない

184:日本@名無史さん
20/10/18 16:01:24.08 .net
>>149
奈良の墓で朱が用いられているのは、黒塚古墳が最初なん?

185:日本@名無史さん
20/10/18 16:06:25.05 .net
>>166
もちろんウソ
ホケノ山でも使われている

186:日本@名無史さん
20/10/18 16:15:28.32 .net
>>166
黒塚古墳は初期のものではありませんが、時代的に卑弥呼の時代に近いから候補としてあげた人が居たのではなかろうかと

187:日本@名無史さん
20/10/18 16:17:10.62 .net
>>87
3世紀半ばまでは「列島の盟主」だった説はOK。
問題は、それ以降。
それ、旧小国=中国史書の誤解。

188:日本@名無史さん
20/10/18 16:19:29.09 .net
>>92
銅矛制作が盛行した北部九州であり
大和付近には元々銅矛の出土が、殆ど全くのようにない。
博多の弥生銀座付近に2〜3世紀頃から筑紫式第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に筑紫の胎


189:土での供献土器の制作が始まり、 「市」や「東征毛人五十五國」などによって、3世紀後半に大和などに広がる 海の中道に中西部瀬戸内系製塩土器による製塩が始まる 今津湾沿岸で山陰の玉作りが始まる 北部九州の中心は弥生銀座付近に移り、 3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などで、前方後円墳が始まり、 3世紀末に、「東征毛人五十五國」の征服部隊に拠って、大和などに広がる。 に九州最大の前方後円墳が築造される



190:日本@名無史さん
20/10/18 16:21:12.93 .net
>>168
弥生中・後期の大和の墓で朱が用いられていたら、その朱の産出地が丹生である可能性が出てきますが、
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ないとなれば、黒塚や天神山の朱はどこか別のところから集めてきた朱である可能性も出できますね。

191:日本@名無史さん
20/10/18 16:37:09.54 .net
>>170
九州説は
こうやって
歴史学に反したインチキ年代を捏造して
目先の困難だけ口先で凌ごうとするから
学者やちゃんと勉強した市民から軽蔑される存在に
落ちぶれたんだよね

192:日本@名無史さん
20/10/18 16:44:15.37 .net
>>129
>出雲の最高の葬儀は風葬であり、遺体に朱を流し込んで腐敗を防ぎ、数年後に洗骨してそれから磐座に埋葬するスタイルだった。
千家の葬儀は水葬であり、出雲には千家の古墳は一切存在していない。
液体水銀の需要が増えるまでは、青銅器と同じく、古墳時代に一度終焉を迎える事が大前提。
つまり、大規模需要は青銅器、古墳時代という期間に重なる。
青銅器の材料の錫と同じで、需要と分布の世界。土から出るものはごまかしがきかない。
7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。
中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
実は大量に産出する三重県は大和鉱床群の一部なのである。
ふーん。

193:日本@名無史さん
20/10/18 16:51:03.97 .net
>>129
>阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 
無知の井戸かわず(蛙)! 

>若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡
無知の井戸かわず(蛙)!  わははははは   @阿波

194:日本@名無史さん
20/10/18 16:52:44.06 .net
それにしても、久留米祇園山は卑弥呼の寿陵である山門権現山のコピーだったという説は、かなり衝撃的な説だ。
この図式は、狗奴国に攻め込まれた邪馬台国の卑弥呼が、その邪馬台国の北限付近の御井まで避難し、そこで急死したとする図式とぴったり重なり、
卑弥呼の邪馬台国のエリアが如実に分かる説だといえる。
まあ、今後の邪馬台国九州説の核心説となることは間違いないな。

195:日本@名無史さん
20/10/18 16:57:18.83 .net
>>171
大和の墓の朱はホケノ山でも確認できるとのことですが、ホケノ山が大和最古の朱なんでしょうか。
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ているのでしょうか。

196:日本@名無史さん
20/10/18 17:17:53.19 .net
俺の霊感では狗奴国が九州なんて1回も言ってきた試しがないわ
何度聞いたって、静岡の久能だ久能だとしか言ってこない

197:日本@名無史さん
20/10/18 17:18:26.50 .net
>>136
>邪馬台国の卑弥呼
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。
>卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。
「献上品」としては名を連ねていなかった筈。
>卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
「辰砂」とは特定していない。「以朱丹塗其身體,如中國用粉也」や、「其山有丹」や、
「丹木」の献上や、「鉛丹」の下賜の記録があるだけであり、
水銀朱だけではなくベンガラの使用例も見られ、鉛丹が下賜され、丹木を魏に献上している。
>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。
九州には辰砂もベンガラも採れる。
>倭国大乱の時の景初3年の朝貢では、丹はなんと、献上品ではなく、下賜されて10Kgほど貰う側であった。今まで献上品だったのに、何故今回貰ってるのかwww
倭国大乱なんて存在もせず、卑弥呼の遣使は景初二年である。

198:日本@名無史さん
20/10/18 17:38:14.74 .net
奈良県五條市の吉野川沿いの大阿太が、伝統的に九州隼人が住んだエリアだとすると、そのルーツは神武天皇の畝傍山東南麓の宮に求められる。
神武天皇は一人で南九州阿多からやってきたわけではなく、多くの伴と一緒に大和入りしたのであるから、その隼人集団が橿原の南に位置する大阿太に住んで、天皇の世話を行ったことは十分考えられるのである。
そして、学者も認めるのは、神武天皇は崇神天皇は同一であり、崇神天皇の大和入りと崇神天皇のその後の統治の二つの姿が描き分けられたとする説だ。
この説に従えば、神武天皇は崇神天皇であり、その崇神天皇は橿原の畝傍山東南麓の地に宮を置き、纏向の大型建物跡の祭祀所での祭りごとのために、橿原から磯城の仮宮に赴いて斎戒沐浴し、その後に纏向で祭祀を行ったとすることが可能だ。
このようにみれば、三輪王朝といわれた崇神天皇の系譜と葛城王朝といわれた神武天皇の系譜は、実は崇神天皇のもとに開かれた一つの王朝の系譜であり、そのエリアは橿原・葛城から磯城・纏向までをカバーしていたと考えることができる。
その神武天皇と崇神天皇の皇后の名からすると、


199:橿原が崇神天皇の正式の宮であり、磯城は纏向の祭祀に関連した仮宮であったことになってくる。 また、崇神天皇を南九州から招き、大シャーマンの位に載せたのは大連合の出先事務所であり、その出先事務所は纏向遺跡の南にある芝遺跡の地に置かれていたとみることができる。 この大連合事務所が崇神天皇の到着とともに衣替えしたのが大連合出先庁であり、大シャーマン崇神天皇と大連合出先庁が大和の大連合政権の中枢であったとすることができるのである。



200:日本@名無史さん
20/10/18 17:42:59.54 .net
>>177
その霊感は質がよくないのじゃ。

201:日本@名無史さん
20/10/18 17:47:07.61 .net
>>179
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 
碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 

202:日本@名無史さん
20/10/18 18:04:32.87 .net
まーだやってらっしゃるのか

卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

ハイ終了
解散!

203:日本@名無史さん
20/10/18 18:04:56.37 .net
一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。

卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
URLリンク(bbs10.aimix-z.com)

径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!

204:日本@名無史さん
20/10/18 18:05:32.71 .net
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪

もはや「勝者の貫録スレ」も張子の虎だね。  わははははは   @阿波

205:日本@名無史さん
20/10/18 18:10:38.94 .net
>>181
瀬田遺跡がみつかっている。
こんなのがあちこちにあっただろうな。
神武の宮が崇神の宮だ。

206:日本@名無史さん
20/10/18 18:20:20.69 .net
>>185は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

207:日本@名無史さん
20/10/18 18:23:07.82 .net
>>176
200年頃の大和の遺跡に清水風遺跡があり、この遺跡は唐古・鍵遺跡関連の祭祀場と墓域だと考えられている。
この祭祀場から出土した土器に朱が付着しているそうだ。
朱生成に関わる土器とみられている。
この他の土器も含めて、一般的な土器構成であるとされている。
墓域については、朱の記事はみられない。
つまり、朱を多量に必要とする墓からは、そうした量の朱はみつかっていないということになる。
ホケノ山や黒塚の棺に塗布された朱はどこかから集められた朱であって、
それ以前の大和の墓ではそうした多量の朱を用いた墓はみつかっていないような状態からして、
近くに朱を産する丹生があったのかどうか、判然としないな。

208:日本@名無史さん
20/10/18 18:26:11.75 .net
>>185
>神武の宮が崇神の宮だ。
崇神の宮は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
神武の宮はカシハラ(御所市柏原)の神武天皇社。
全然違う。

209:日本@名無史さん
20/10/18 18:28:10.21 .net
>>188は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

210:日本@名無史さん
20/10/18 18:33:54.05 .net
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪

もはや「勝者の貫録」も消え失せ、 ゴミスレの掃き溜めと化したね。  わははははは   @阿波

211:日本@名無史さん
20/10/18 18:34:54.54 .net
>>185
崇神は、和歌山の紀の川から大阿太へ登り、そこから橿原に入った可能性が高い。
和歌山に上陸する前に徳島の手前の小松島から和歌山へ渡ったかもな。
阿波には行ってないし。

212:日本@名無史さん
20/10/18 18:43:26.74 .net
>>188
磯城は崇神の仮宮。
書紀の崇神の皇后の名前は、皇后とはみえない軽さ。
橿原の崇神が纏向の祭祀に赴く途中の仮宮にいた妃が、書記の皇后として記述されているのよ。
書記の崇神の皇后は、実は妃だ。
崇神の皇后は、媛蹈鞴五十鈴媛。

213:日本@名無史さん
20/10/18 19:01:46.24 .net
>>191
>阿波には行ってないし。
徳島も小松島も「阿波」なんだけど?  どういうこと?   @阿波

214:日本@名無史さん
20/10/18 19:10:07.46 .net
>>145
>出雲地方では出雲西谷墳丘墓を含め10 の遺跡出土朱を比較したところ,陝西省産を示したのは出雲西谷墳丘墓出土朱のみ。
他の 9 遺跡のうち 8 遺跡は大和水銀鉱山産か丹生鉱山産を示した。
出雲西谷墳丘墓と同時代でしかも同じ四隅突出型墳丘墓の出雲沢下遺跡では,頭部と思われる部分から採取した朱と足元と思われる部分から採取した朱では
値が異なり,しかも両者とも出雲西谷墳丘墓出土朱とも異なっていた。加えて,出雲西谷と覇権を争ったと推定されている吉備の楯築遺跡出土朱
も日本および中国の辰砂鉱山はみられなかったことから,人造朱を用いたか,あるいはいくつかの産地の朱を混合した可能性が示唆された。
ふーん。

215:日本@名無史さん
20/10/18 19:22:39.98 .net
倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、
日本書紀も大和政権の歴史を古く遡らせるために歴史を変えたのよ。
神武は崇神の分身だった。南九州からやってきたのは崇神であって、橿原に宮を置いたのは崇神なのよ。
書記は崇神が磯城に宮を置いたとしているが、実はそれは仮宮であって、本宮はあくまで橿原にあった。
それを分離して時代を遡らせたのが崇神の分身である神武天皇だ。

216:日本@名無史さん
20/10/18 19:37:36.48 .net
>>195は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

217:日本@名無史さん
20/10/18 19:55:23.43 .net
>>193
ざんね〜ん !!!!
律令の阿波国の前は北の粟国と南の長国に別れていて、南の長国造の領域は徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡、那賀郡、海部郡だワイ。
小松島は古来和歌山と結ぶ港。
粟国造の範囲ではあ〜りません。

218:日本@名無史さん
20/10/18 20:03:57.06 .net
>>197
>南の長国造の領域は徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡、那賀郡、海部郡だワイ。
そこが「邪馬臺国」と不和である、超強大国の「狗奴国」だワイ。  よく覚えておけ。  わははははは   @阿波

219:日本@名無史さん
20/10/18 20:09:07.65 .net
>>196
泣いてるの?
論破され続け阿波かわいそう

220:日本@名無史さん
20/10/18 20:11:54.71 .net
>>199は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

221:日本@名無史さん
20/10/18 20:16:31.40 .net
>>195
書記の神武紀では、宇陀などの人民にはかなり厳しい対処をしているが、
これと一転して吉野の人民や下流の阿太の人民には優しく接している。
この態度を崇神(神武)と共にやってきた南九州の隼人たちと被せて眺めると、なんでまたそんなに優しく編集しているのか理解できるのよ。
この阿太の人民などは、そもそもが身内だから、やさしく接しているのは当然なのよ。
崇神(神武)が橿原に宮を置いたことを裏付けるものだな。

222:日本@名無史さん
20/10/18 21:02:09.38 .net
.

(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 URLリンク(www.nabunken.go.jp)

.

223:日本@名無史さん
20/10/18 21:02:21.74 .net
.

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑

URLリンク(inoues.net)

.

224:日本@名無史さん
20/10/18 21:10:44.06 .net
>>163
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などのよってバツ。

225:日本@名無史さん
20/10/18 21:12:39.93 .net
>>178
>>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。
>九州には辰砂もベンガラも採れる。
開発時期が遅れたという事ですね。そんなことしなくとも九州の人たちは大陸から仕入れることが出来ましたので。

226:日本@名無史さん
20/10/18 21:25:32.60 .net
>>169
>3世紀半ばまでは「列島の盟主」だった説はOK。
問題は、それ以降。
それ、旧小国=中国史書の誤解。
中国からの役人の「梯儁」や「張政」や「裴清」や「郭務ソウ」らの、
同時代の実地の見聞計測などの記録は、信頼性や確率が非常に高く、
誤解などは殆どなく、
それに引き換え、中国のはるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」や、
列島の旧家や大和政権などの自家伝承や記紀や風土記や系図などは、
どうしても自家の都合がよいようにした処理が多く、信頼性も確率も落ちるの。

227:日本@名無史さん
20/10/18 21:


228:31:29.89 .net



229:日本@名無史さん
20/10/18 21:34:57.56 .net
>>206
同時代の実地の見聞計測などの記録だという根拠のない決めつけこそ
現代日本というはるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」であって
自説の都合がよいようにした処理が多く、信頼性も皆無ですな

230:日本@名無史さん
20/10/18 21:36:43.63 .net
>>172
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実の曲解や嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者らは、
これらの事に反論が出来ずに、その根拠提示出来ずに
こうやって歴史学に反したインチキ年代を捏造して
目先の困難だけ口先で凌ごうとするから
学者やちゃんと勉強した市民から軽蔑される存在に
落ちぶれたんだよね

231:日本@名無史さん
20/10/18 21:40:35.30 .net
その東征毛人五十五国ってどやって制圧しただ?

232:日本@名無史さん
20/10/18 21:42:52.10 .net
>>210
そりゃ、空想で制圧したんだろ。  わははははは   @阿波

233:日本@名無史さん
20/10/18 21:51:16.37 .net
>>179
>そして、学者も認めるのは、神武天皇は崇神天皇は同一であり、
崇神天皇の大和入りと崇神天皇のその後の統治の二つの姿が描き分けられたとする説だ。
大和に天皇なんてまだおらず、
記紀ともに神武と崇神の間に欠史八代を挟んでいて別人であった、という証言であり、
「同一」論はバツだな。

234:日本@名無史さん
20/10/18 22:12:16.76 .net
>>195
>倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、
陳寿が参考にした魏朝の記録の内容は、
梯儁や張政やや、その部下の役人たちや、
魏の役人に任ぜられた難升米や伊聲耆や掖邪狗らも関わっており、
陳寿がウソを付いておれば、直ぐにバレるのであり、
陳寿は「原資料をあちこち書き換え」てなど、いない。

235:日本@名無史さん
20/10/18 22:27:47.37 .net
>>213
それ、ただの想像でしょ
それも素人のおじいさんが理由なく勝手に言ってるだけの

236:日本@名無史さん
20/10/18 22:33:27.27 .net
>>212
間に欠史をはさまないと、崇神と1世代しか違わなくなり、前660年に持って行けないのよ。
同一だとすぐばれちゃうからね。
編纂者は、いろいろ細工してるのよ、苦労してるの。

237:日本@名無史さん
20/10/18 22:36:32.07 .net
>>205
>開発時期が遅れたという事ですね。そんなことしなくとも九州の人たちは大陸から仕入れることが出来ましたので。
つまり九州は「其山有丹」に該当せず、そんなところに女王の都はないのだった

238:日本@名無史さん
20/10/18 22:50:52.93 .net
>>201
でもって、この崇神(神武)の前には、祭祀場のあった纏向周辺に5基の大墳丘墓があって、これらの墓は連合有力国から持ち回りで派遣された代表シャーマンの墓であるので、180年頃から247年頃まで生きた卑弥呼が入る寿陵の余地はどこにもない。
卑弥呼は北部九州の倭国の女王なのでこれは当然のことであるが、大和説者はこの5基の大墳墓のどれに卑弥呼を入れるつもりなのだろうか。
まあ、あまり混乱するようなことをいうつもりはないが、卑弥呼を大和に設定するのは、そもそも無理ということだね。

239:日本@名無史さん
20/10/18 23:00:56.65 .net
>>213
まあ、魏略が太伯と書いたのを、倭人伝は大夫と書き換えたり、
対馬・壱岐・末盧・伊都の各国に魏の使節などが常に逗留したと魏略が書いているのを、使節が逗留するのは伊都国一国と倭人伝は書き換えたりしてるのだから、
倭人伝は相当にバイアスかけた史書であることが分かるのよ。
何のためにそんなことをしたのかというと、ひとえに時の皇帝の始祖を持ち上げ、その血統の今上皇帝も持ち上げるためなのは明らか。
まあ、そのおかげで、かなり詳細な倭国の様子が分かるので貴重な史書であることは変わらないけどね。

240:日本@名無史さん
20/10/18 23:27:24.88 .net
イニエが神武の場合は、草薙の剣を尾張家が絶対に渡さないので無理がある。
奈良から追い出した元凶になぜ協力するのかw

241:日本@名無史さん
20/10/18 23:39:52.08 .net
>>217
>・・・大和説者はこの5基の大墳墓のどれに卑弥呼を入れるつもりなのだろうか。
箸墓でなんの問題もないが?

242:日本@名無史さん
20/10/19 00:02:51.49 .net
>>220
大和説の重鎮の先生が、箸墓は台与の寿陵ではないかというておられるのだから、卑弥呼の墓=箸墓はないだろうね。

243:日本@名無史さん
20/10/19 00:03:34.43 .net
なんて国があったの😃?

244:日本@名無史さん
20/10/19 00:05:05.95 .net
>>219
話のストーリーが、全然ワカメなんだが。

245:日本@名無史さん
20/10/19 00:24:00.68 .net
天武天皇のときに出雲始めいろんなとこが自分とこの御神宝みたいなもん献上したらしいんだよな
三種の神器だのそんときに決まったんじゃねえの?
壬申の乱で天武天皇が勝ったから日本て国号になったみたいだしな🤪

246:日本@名無史さん
20/10/19 00:24:56.79 .net
てより剣にしろそれ以前からいろんなとこで出てるからなあ
別に草薙だけじゃねえし

247:日本@名無史さん
20/10/19 00:29:49.44 .net
>>192
好きに歴史を造り変えるなボケ。
そんなこと許されるなら何でもありだろ。

248:日本@名無史さん
20/10/19 00:34:47.73 .net
>>220
年輪年代で258年と時代が決まってるのに、それでは卑弥呼の時代に合わないから、
歴博が強引に炭素測定をいじくり240~260年にした。
最初から箸墓しか頭にないから卑弥呼の時代に合わせただけ、最低だな。

249:日本@名無史さん
20/10/19 00:53:04.30 .net
>>227
>年輪年代で258年と時代が決まってるのに、それでは卑弥呼の時代に合わないから、
決まっている?
誰が決めた?
まったく証拠がない
出せないだろ?

>歴博が強引に炭素測定をいじくり240~260年にした。
これも証拠がない
というか、中傷

つまり、全部くだらない難癖だな

250:日本@名無史さん
20/10/19 01:31:09.25 .net
>>221
>大和説の重鎮の先生が、箸墓は台与の寿陵ではないかというておられるのだから、
説の価値は
言ってる人の地位や名声ではなく
言ってる理由の妥当性による

251:日本@名無史さん
20/10/19 02:02:39.19 .net
>>228
年輪年代で二口かみあれた遺跡出土木片を258年としたのは光谷さん。
それが庄内3併行なのか布留0式古相併行なのかはおのおの学者さんの説はあるだろう。
庄内3が259年なら箸墓が卑弥呼の死258年になるわけがない。
布留0式古相でも258年にならない。
だから歴博の主導で、放射性炭素測定の結果をいじくり240〜260年になった。

252:日本@名無史さん
20/10/19 02:04:51.48 .net
あぁすまんすまん訂正。
×  庄内3が259年なら箸墓が卑弥呼の死258年になるわけがない。
〇  庄内3が258年なら箸墓が卑弥呼の死248年になるわけがない。
最近目が悪くなってきた。

253:日本@名無史さん
20/10/19 02:32:21.74 .net
>>230
>年輪年代で二口かみあれた遺跡出土木片を258年としたのは光谷さん。
・・・
>布留0式古相でも258年にならない。
ならないって理由は?
また理由なしの決めつけ?

254:日本@名無史さん
20/10/19 02:43:23.99 .net
>>229
まあ、卑弥呼は高齢なのだから、すでに寿陵があって当然。
で、寿陵がすでにあったなら、卑弥呼が亡くなった翌年くらいには埋納できたのではないか。
そうすれば、築造が260年〜270年くらいとされる箸墓が卑弥呼の墓である線はなくなる。
卑弥呼のつぎに女王になった台与の寿陵として造られたのが箸墓というのであれば、時期的にOKではないか。
そういうことじゃないの?
一方、書紀では、箸墓はモモソ媛が亡くなった直後から造られたと書いてあるので、それなら相当な年数がかかり、
モモソ媛の死から10年くらいも埋納しない状態が続いたことが考えられ、実際にそんなことがあっただろうかと疑問を呼ぶ。
この書紀の記述は、倭人伝の卑弥呼の墓の築造記事を持って来て、モモソ媛=卑弥呼を臭わせたもののようにみえるので、
実際の箸墓築造とは異なる書紀の創作ではないかとするのが合理的だ。

255:日本@名無史さん
20/10/19 03:13:58.36 .net
>>233
>まあ、卑弥呼は高齢なのだから、すでに寿陵があって当然。
という想像が倭人伝の記事と合わないな
「卑彌呼以死、大作冢」

256:日本@名無史さん
20/10/19 03:22:18.15 .net
>>223
海部氏をきちんと考慮した場合の神武は、天村雲が神武に当たります。
天村雲が、後に尾張氏の管理することになる村雲の剣、草薙の剣を持っていました。
熱田神宮の草薙の剣は、尾張氏が作った熱田神宮に置かれています。
三代目の磯城津彦から尾張家と出雲家があまり仲が宜しくなくなって、剣を渡さなかったらしいですが

257:日本@名無史さん
20/10/19 03:24:41.05 .net
>>224
一応、三種の神器の草薙の剣は、村雲王が即位したときに磯城登美家から贈られたものです。
流石に三種の神器は時系列的に無視できないから記紀も東征を紀元前に持って行ったのではないでしょうか

258:日本@名無史さん
20/10/19 03:25:02.06 .net
>>233
一方、卑弥呼は八女・山門の邪馬台国にいたとすれば、狗奴国に攻め込まれて御井あたりへ避難してそこで急死し、
祇園山をその卑弥呼の墓とした場合、山を削るだけで墓とすることができたのだから、倭人伝の記述の築造時期はそのまま信用することができる。
ごくあたりまえの話になり、大和の箸墓のような無理な議論にならない。
大和については、そもそもそこに卑弥呼がいたとする設定自体が無理があるのだから、
箸墓卑弥呼の墓説はやめたほうがいい。

259:日本@名無史さん
20/10/19 03:26:16.39 .net
>>226
オメらは、書紀にだまされているんだよ。

260:日本@名無史さん
20/10/19 03:31:29.25 .net
>>234
大和説の場合は、合わないのよ。
倭人伝の記述が合うのは、久留米の祇園山の場合。
ここを卑弥呼の墓とすれば、築造時期や期間の問題は倭人伝の記述と合致する。
大和の場合は、全然整合性がみられない。

261:日本@名無史さん
20/10/19 03:40:58.32 .net
>>237
これに卑弥呼の寿陵を追加すると、
卑弥呼の寿陵は、山門の坂田にある権現塚がそれだろう。
普通であれば卑弥呼は高齢で亡くなって、この権現塚に埋納されたはず。
ところが、狗奴国が攻め込んできたので、卑弥呼は北の御井あたりまで避難して、そこで急死した。
まだ戦局は安定してないのだから、山門まで戻って寿陵に葬ることはできない。
そこで、この山門の寿陵と同じサイズの墓を造り、卑弥呼を葬ったのが祇園山というわけ。

262:日本@名無史さん
20/10/19 03:47:59.93 .net
>>239
>倭人伝の記述が合うのは、久留米の祇園山の場合。
>ここを卑弥呼の墓とすれば、築造時期や期間の問題は倭人伝の記述と合致する。
考古学者の言ってる築造年代と全く合わないんだが

263:日本@名無史さん
20/10/19 04:33:26.13 .net
>>213の訂正
>>195
>倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、
陳寿が参考にした魏朝の記録の内容は、
梯儁や張政や、その部下の役人たちや、
魏の役人に任ぜられた難升米や伊聲耆や掖邪狗らも関わっており、
陳寿がウソを付いておれば、直ぐにバレるのであり、
陳寿は「原資料をあちこち書き換え」など、していない。

264:日本@名無史さん
20/10/19 05:00:00.81 .net
>>215
>間に欠史をはさまないと、崇神と1世代しか違わなくなり、
8世紀の大和天皇家の記紀の筆者らの前には、
欠史八代が存在した、という情報があった、という事になるの。
>前660年に持って行けないのよ。
平安期の二中歴の筆者らは、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉(五一七年〜五二一年)・・・」という情報があり、
517−569×2−39=−660
という「数え年数計算」をしている事になるから、
569年が二倍歴の年数であった事を知っており、
だから、神武即位元年の西暦年は、実際には、
ー660+569=−91で、紀元前91年頃であった、とという事になるの。
>同一だとすぐばれちゃうからね。編纂者は、いろいろ細工してるのよ、苦労してるの。
記紀の編者は、欠史八代があった、という事を知っているからね。
編纂者は、いろいろ苦労してるの。

265:日本@名無史さん
20/10/19 05:07:07.13 .net
>>216
>つまり九州は「其山有丹」に該当せず、そんなところに女王の都はないのだった
同時代の中国の役人たちに拠る実地での見聞計測の記録は、ほぼ否定出来ず、
だから、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態も否定出来ず、
「其山有丹」は九州の記録である事も否定出来ないんだよ。

266:日本@名無史さん
20/10/19 05:20:27.61 .net
>>218
>まあ、魏略が太伯と書いたのを、倭人伝は大夫と書き換えたり、
対馬・壱岐・末盧・伊都の各国に魏の使節などが常に逗留したと魏略が書いているのを、使節が逗留するのは伊都国一国と倭人伝は書き換えたりしてるのだから、
倭人伝は相当にバイアスかけた史書であることが分かるのよ。
まあ、反対だね。
魏志倭人伝の記載は、
ほぼ、3世紀の魏の役人らに拠る実地での見聞計測の記録が元になっており、
魏略は、その3世紀の同時代の原本内容が存在せず、始めから、
後代学者や唐代学者らに拠る「自己解釈に拠る書き換えの内容説明文」になっており、
半分偽書的な内容しか残っておらず、信頼性や確率が低く、
直接的な論拠にはならないんだよ。

267:日本@名無史さん
20/10/19 05:52:52.17 .net
>>219
>イニエが神武の場合は、草薙の剣を尾張家が絶対に渡さないので無理がある。
奈良から追い出した元凶になぜ協力するのかw
「東征毛人五十五國」の征服軍は、当初は、
天孫族系の倭奴國や伊都國系の「国生み神話」時代から始まり、
五瀬命や神武らの東征も、瀬戸内経由が中心であり、
出雲本体や侏儒國なども征服出来ておらず、
大和すらも完全制圧出来ておらず、
結局、紀元後頃からの「高地性


268:集落」期以後に、 伊都国系を含めての九州倭国の全域からの東征が波状的に始まって倭種になり、 更に、三道将軍らのような東征軍本隊が、 瀬戸内〜播磨摂津河内山城近江を経て、北陸や東海や東北に達し、 それに、先に阿波から紀伊大和に入っていた先発別動隊の大和も、 本隊に応援合流したんだよ。 だから、尾張は大和よりも地位権力が強かった。



269:日本@名無史さん
20/10/19 05:56:09.29 .net
>>220
>>・・・大和説者はこの5基の大墳墓のどれに卑弥呼を入れるつもりなのだろうか。
>箸墓でなんの問題もないが?
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
「日本國者倭國之別種也」などによって、バツ。

270:日本@名無史さん
20/10/19 06:01:52.88 .net
>>245
「3世紀の魏の役人らに拠る実地での見聞計測の記録」
だなんて何も証拠のないテーゼをシュプレヒコールしちゃってる
九州説の街宣車さんは
史料から決して帰納することなく
ただ思想宗教のたぐいの教義を主張されてるんですよね

271:日本@名無史さん
20/10/19 06:19:29.83 .net
>>241
>>倭人伝の記述が合うのは、久留米の祇園山の場合。
ここを卑弥呼の墓とすれば、築造時期や期間の問題は倭人伝の記述と合致する。
>考古学者の言ってる築造年代と全く合わないんだが
学会所属の考古学者らは、始めから、「皇国史観という結論先にありき」であり、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをしており、
信頼性が全くない。

272:日本@名無史さん
20/10/19 07:16:00.29 .net
>>233
>まあ、卑弥呼は高齢なのだから、すでに寿陵があって当然。
で、寿陵がすでにあったなら、卑弥呼が亡くなった翌年くらいには埋納できたのではないか。
そうすれば、築造が260年〜270年くらいとされる箸墓が卑弥呼の墓である線はなくなる。
まったく賛成。
卑弥呼が死んで作り始めたのはいわゆる「ハカドコロ」。
埋葬のための部分的な場所。
>一方、書紀では、箸墓はモモソ媛が亡くなった直後から造られたと書いてあるので、それなら相当な年数がかかり、
モモソ媛の死から10年くらいも埋納しない状態が続いたことが考えられ、実際にそんなことがあっただろうかと疑問を呼ぶ。
この書紀の記述は、倭人伝の卑弥呼の墓の築造記事を持って来て、モモソ媛=卑弥呼を臭わせたもののようにみえるので、
実際の箸墓築造とは異なる書紀の創作ではないかとするのが合理的だ
7世紀朝廷が魏志倭人伝を意識して改変したのは確実だろうね。
モモソヒメの墓としての箸墓古墳の記述も、取ってつけたような不自然さ。
卑弥呼の墓。の記事を大いに意識して書かれたものと推定する。
ということは7世紀朝廷も箸墓が卑弥呼の墓ではないことを知っていた。

273:日本@名無史さん
20/10/19 07:18:23.05 .net
>>232
>>布留0式古相でも248年にならない。(258を修正)
>ならないって理由は?
>また理由なしの決めつけ?
布留0式古相が258年だからだよ。

274:日本@名無史さん
20/10/19 07:23:05.88 .net
一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。

卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
URLリンク(bbs10.aimix-z.com)


径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!


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