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750:日本@名無史さん
19/01/23 10:08:33.46 .net
>>700
>根拠なし。
>というか、奴国(福岡平野)ではなく糸島平野の方についてなので、奴国の王ではない。
>勝手にすり替えるな。
>嘘つき。
では、これから「奴国と伊都国が一体で邪馬台国であり、伊都国がその都」とかいう
ふざけた九州説の書き込み画あるごとに、>>700はそれを嘘つきと言って全否定してくれw
三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡D地点の二つの墳丘墓は年代的に近い
どちらも銅鏡を大量に副葬しているが、一般に西暦57年と107年の朝貢時に
もたらされた漢鏡だろうと考えられている
ここから、後漢代に朝貢したのは北部九州の首長であり、その首長墓が
三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡D地点だろうという推測になっている訳だ
しかし、>>700は「後漢代」という言葉でだまそうとしているが、卑弥呼の前の最後の朝貢は
西暦107年で、卑弥呼の遣使より130年も前のことだ
その間に、倭国乱(後漢書では倭国大乱)があり、北部九州は倭人共同体の中で
その相対的な地位が決定的に没落してるんだよww
九州説の出してくる論拠は、全部古い
北部九州の没落前のものばかりで、邪馬台国の時代以降はしょぼいものばかり
そして、出してくる論拠が「伊都国」と「奴国」のものであって、
『邪馬台国の比定地』のものが一つもない
伊都国、奴国と邪馬台国が別の場所にある別の国だと認められない時点で
九州説は論説になっていない

751:日本@名無史さん
19/01/23 10:21:10.27 .net
418の>>106
>>「參問」したのは、女王之所都までであり、
だから魏使らは、南九州の投馬國には「參問」していない。<
>既に参問は訪問の意味ではないと教えたのに、<
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」であり、
「倭地を参して問した」というのだから、
魏使らが「参し問した」地であった、という事だ。



752:日本@名無史さん
19/01/23 10:24:42.23 .net
>>715
ちと横から言いたいんだが、
九州説といっても州ごとに九つはある。>>715で言ってるのは北部九州説というべき説なんだけどな。

753:日本@名無史さん
19/01/23 10:29:44.00 .net
418の>>113
>邪馬台国、初期のヤマト政権は、朝鮮半島と行き来していた日本海側の勢力と、東海の縄文色の強い狩猟民を中心とした征服王朝だな
白山系、諏訪系とか<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和は、元は毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の国であったが、
九州倭国の「東征毛人五十五國」などに拠って、
九州倭国の別種の旧小国になったのだ。

754:日本@名無史さん
19/01/23 10:43:50.23 .net
>>711
>写本などを版木などに貼り付けて、
>その文字線を残して浮かび上がるようにして掘り刻むから、
>版本は底本写本とに殆ど同じ文字形になる。
zarakoku脳内のおとぎの国ではそうかもしれないけど
我々の読んでる史書はそういう本ではないので
ごちそうさま

755:日本@名無史さん
19/01/23 11:05:45.15 .net
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。

756:日本@名無史さん
19/01/23 11:06:09.86 .net
>>716
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。
ここで目を引くのは「参問倭地」の表現ですね。
女王の覇権のもとの倭国ではなく、「倭地」としてあるのは、女王の覇権の境界の南に狗奴国があったからでしょう。
つまり倭地とは・・、
女王の覇権内の倭国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のことであり、
筑紫島(九州島)全体を指していたのではないでしょうか。
よって周旋可五千余里とは、筑紫島(九州島)が周旋可五千余里ということになります。
現地でいえば、九州島の北端から南端(開聞岳辺り)までのことだったのでしょう。
事実、対馬海峡を三千余里とすれば、九州島の南北は五千余里に相当します(図上で計ってみてください)。

757:日本@名無史さん
19/01/23 11:06:23.70 .net
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

758:日本@名無史さん
19/01/23 11:16:48.80 .net
>>721
>女王の覇権内の倭国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のことであり、
女王の覇権内の邪馬台国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のこと

>筑紫島(九州島)全体を指していたのではないでしょうか。
九州にそんな強大勢力は存在しない。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力)

>よって周旋可五千余里とは、筑紫島(九州島)が周旋可五千余里ということになります。
決して、ならない。  周旋可五千余里とは、四国のこと。  @阿波

759:日本@名無史さん
19/01/23 11:26:45.56 .net
418の>>121
>鉄がありすぎるってより、無管理状態でしょ九州は国家が誕生してない <
大和は、3世紀末以後のホケノまでは、全く鉄鏃も出ないから、
それまでは、鉄を使った戦争国家は出来ていなかった。

760:日本@名無史さん
19/01/23 11:39:16.17 .net
ホノケの年代を必死に後ろにしようとして滑稽だぜ

761:日本@名無史さん
19/01/23 11:41:04.56 .net
五畿は、ホノケの年代を必死に繰り上げようとして滑稽だぜ

762:日本@名無史さん
19/01/23 11:42:16.29 .net
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し続けるために、韓国政府に雇用された韓国人が、ホノケの年代のことで、論破されているな。。。

763:日本@名無史さん
19/01/23 11:51:45.41 .net
418の>>122
>>「方角」を変えたら、いつまで経っても嘘つき騙しである事には変わりがない。<
>そうやって 気に入らない意見を論理じゃなく
力で抑え込もうとする九州説は堕落しまくってるな <
そうやって気に入らない意見を、
史料事実からの論理じゃなく、力で抑え込もうとする大和説は、
堕落しまくってるな。

764:日本@名無史さん
19/01/23 11:57:34.89 .net
倭女王卑弥呼考 東京帝国大学 白鳥庫吉
>本居氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致し・・・、
>(しかるに)近藤芳樹氏は倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべしと説かれたれば・・・
>(この説は)尤も余輩の意を得たるものなり。
(近藤芳樹)
幕末明治期の国学者。
周防国岩淵村(防府市)田中源吉の長男。早くから上方に遊学して村田春門,本居大平,山田以文に国学,律令を学んだ。
天保11(1940)年長州(萩)藩士近藤家を継いで藩の和学方となり,萩に居を構える。
藩主毛利敬親に重用され,元治1(1864)年には藩校明倫館の教官となった。
維新後しばらく山口県庁に勤めたが,明治8(1875)年宮内省に出仕して文学御用掛に任じられた。
明治天皇の東国行幸,北陸行幸に供奉して『陸路の記』『十符の菅薦』の供奉日記を著す。

765:日本@名無史さん
19/01/23 12:00:32.37 .net
418の>>123
>北部九州は朝鮮半島から来てる人が多いからね
半島で産する鉄、手に入る中古品は当然多い
北部九州は住居跡規模と鉄器出土数との間に相関関係は認められない(野島)<
「野島」って男も、こりゃちょっと・・・・大和説者だなあ。
北部九州には、弥生銀座を始め、その周辺の糸島や筑紫平野部の周辺に、
鉄器出土数と居住遺跡との相関関係が認められるが、
大和では、鉄


766:鏃そのものが3世紀末以後のホケノまで待たなくてはならず、 半島からの渡来品も全くのように存在しない。



767:日本@名無史さん
19/01/23 12:02:26.26 .net
>>729 続き
東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛で明治天皇のお側役も務めた近藤芳樹とは、
気脈を通じ、邪馬台国の女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷・・、と説いた。
しかるべき由縁あってのことであろう。、

768:日本@名無史さん
19/01/23 12:12:47.83 .net
東大が九州説を諦めたのだから学術的に見込みが無いのだろうな
九州説は出版物多いけどアマチュアばかり

769:日本@名無史さん
19/01/23 12:26:38.61 .net
北部九州説は出版物多いけど確かに安物ばかりだ。
がしかし、九州肥後説の出版物は白鳥以降ない、トンデモと一緒にするな。

770:日本@名無史さん
19/01/23 12:28:08.06 .net
418の>>135
>>部分行程の里数合計が、不彌國までの「萬二千余里」で全く終わっている、<
>それじゃあ会稽よりも遥かに北になるから <

この類スレ主男は、また「会稽東治」を「会稽」とする嘘つき騙しをしている。
>九州説後臨時でよろしいね 南無阿弥陀<
「会稽東治之東」は、「女王國」の位置推定であり、
女王國には投馬國も含むから九州島全体になり、
「会稽東治之東」にピッタリになり、
類スレ主らの大和説ご臨終でよろしいね。
南無阿弥陀仏。

771:日本@名無史さん
19/01/23 12:42:06.26 .net
>>715
>三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡D地点の二つの墳丘墓は年代的に近い
しかし三雲にだけ三種の神器が揃っていたので、伊都の墳墓と奴国の墳墓には格差があるんだよ。
だから、伊都にあり三種の神器が揃っていることが倭王の証と考えられている。
>西暦107年で、卑弥呼の遣使より130年も前のことだ
また何か騙そうとしている?
卑弥呼の共立は190年頃と考えられているから、最後の朝貢からは約80年しかない。
畿内説だとその間に大和に遷都しなくてはいけなくなる。

772:日本@名無史さん
19/01/23 12:42:56.46 .net
418の>>147
>>東南は、出発時点での出発方向の記載であり、目的地の方向ではない。<
>出発方向だけ書いて、実際の方向が書いてない地理情報なんて無意味だろうに<
陳寿の行程記載は、旅程説明であり、
地理説明ではないんだよ。
>>可也山は、伊都国のかなり北方であり、伊都国自体は全く見えないよ。
「伊都国が見える」なんて、その場しのぎの嘘を付いては、だめだよ。<
>加也山のお膝元に伊都国があるんだから、加也山の方角が分かれば伊都国の方角が分かる
ザラコクの言い分がその場しのぎのデタラメであり、まったく論理的ではないww<
始めて倭地に来た魏使らにとっては、伊都国の町が見えていなければ、
伊都国がどの方向であるのか?は全く判らない。

773:日本@名無史さん
19/01/23 12:45:29.65 .net
卑弥呼が肥国女王だったと思う。
しかし倭国女王になってからは王都であった伊都に移動したのだろう。
だから肥後や筑後(もともとは有明海沿岸の肥国の一部だ)と混同されるのだろうね。
それが肥後説や筑後説の原因だ。
あとは一万二千里のうちの残り二千里の扱いかな。

774:日本@名無史さん
19/01/23 12:49:20.24 .net
>>716
>「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」であり、
>「倭地を参して問した」というのだから、
>魏使らが「参し問した」地であった、という事だ。
参問の主語は、「誰でもない人」だよ
参問は「参照して問う」ことだよ
参問倭地は、「倭地のことを文書・記録を参照したり人に問うたりして調べたところ」くらいの意味

775:日本@名無史さん
19/01/23 12:49:26.51 .net
>>737
糸島に移転したなどと、出まかせいうな。
だから、残りの2千里を考えればどうしたって肥後になるんだよ。

776:日本@名無史さん
19/01/23 12:53:09.92 .net
>>733
>がしかし、九州肥後説の出版物は白鳥以降ない、トンデモと一緒にするな。
出版物がないのは、書こうとする人も需要もないオワコンだからだろ?
要するに北部九州説以上に肥後説はトンデモ扱いだってこと

777:日本@名無史さん
19/01/23 12:54:10.57 .net
>>736
>始めて倭地に来た魏使らにとっては、伊都国の町が見えていなければ、
>伊都国がどの方向であるのか?は全く判らない。

始めてきたのなら、街並みが見えてもイトコクかどうか判別できないだろう。
昔は、看板もネオンサインもなかったのだからな。苦し紛れの言い訳だらけ、、、笑っちゃうね。

778:日本@名無史さん
19/01/23 12:56:51.60 .net
>>735
>だから、伊都にあり三種の神器が揃っていることが倭王の証と考えられている。
そんなことを言うのは、脳内お花畑のドリーマーだけだよ
弥生王墓という言われ方をするのは
(一般の墓とは)隔絶した規模の個人墓
副葬品が非常に多い
の2点を満たすものだ
いわゆる三種の神器だけで判定するものではない

779:日本@名無史さん
19/01/23 12:57:41.74 .net
>>740
安物、トンデモと一緒にするな。
近年の発掘成果を踏まえれば、肥後説こそ本命なのだよ。

780:日本@名無史さん
19/01/23 13:01:49.01 .net
>>735
福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、糸島平野の西端の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
このことから、福岡平野から糸島平野の西端までが、倭奴国王家の長きにわたる支配下にあったことがわかる。
もちろん、この両平野の中にイトクズ国が入る余地など、全くなかったのである。
<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>

781:日本@名無史さん
19/01/23 13:03:01.32 .net
>>735
>また何か騙そうとしている?
>卑弥呼の共立は190年頃と考えられているから、最後の朝貢からは約80年しかない。
>畿内説だとその間に大和に遷都しなくてはいけなくなる。
遷都はしてないんだって!
北部九州がつぶれて、歴年無主になって、その後の収拾策として卑弥呼の共立がなったんだよ
大規模な人の移動もないし、征服などもない
室町幕府は鎌倉幕府が西遷したものという人もいなければ、
徳川幕府は室町幕府が東遷したものという人もいないだろ?
卑弥呼の共立王権は北部九州とは別の政権であり、新生倭国の誕生といえる
卑弥呼の共立自体は、3世紀に入ってからだと個人的に考えている
そうでなければ、卑弥呼の寿命が生物学的に不自然
いずれにしても、須玖岡本遺跡D地点も、三雲南小路遺跡も卑弥呼の時代に
つながらない古いものなんだよ
どちらも甕棺墓だし

782:日本@名無史さん
19/01/23 13:05:49.02 .net
>>743
>近年の発掘成果を踏まえれば、肥後説こそ本命なのだよ。
で、肥後説では
1.都はどこ?
2.卑弥呼の径百歩の墓はどこ?
3.投馬国はどこ?
4.水行、陸行はどんな経路?
これくらいはきちんと答えてね!

783:日本@名無史さん
19/01/23 13:18:57.23 .net
>>743
肥後どこだよ。
伊都よりすごいのか?

784:日本@名無史さん
19/01/23 13:22:02.73 .net
>>746
で、肥後説では
1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)
2.卑弥呼の径百歩の墓はどこ?・・・阿蘇高千穂町三田井、高千穂神社のご神体山(径百余歩)
3.投馬国はどこ? ・・・宮崎県西都市都万一帯
4.水行、陸行はどんな経路? ・・・松浦唐津港→東南陸行・佐賀川上大願寺→東行100里吉野ヶ里の不彌国→
→ここから南方角に、投馬国・都万国西都と、邪馬台国・肥後山門郷と、阿蘇高千穂の卑弥呼之所都あり。
投馬国への水行20日は帯方郡から1日千里の計算で、松浦末盧国唐津まで10日、九州島西回りで西都まで10日。
邪馬台国女王之所都への、水行10日は上と同じ、陸行1月は唐津から高千穂までテクテク。

785:日本@名無史さん
19/01/23 13:26:55.74 .net
418の150
>3世紀に300km以上の直線距離を測定できたとか、あるいは300km四方の面積を測定できたとか
いくら何でも頭が足りないだろw <
部分的簡易三角測量や歩測の組み合わせや、
一寸千里と大体の方向が判ればが、
有効数字1桁程度の距離概数は、知ることが出来る。

786:日本@名無史さん
19/01/23 13:27:41.47 .net
>>746
卑弥呼の塚は、阿蘇・高千穂神社のご神体山
>国道218号から少しだけそれて高千穂神社の駐車場に駐車。駐車場から境内へ進みます。
>拝殿と本殿(重要文化財)にお参りした後、本殿裏の小山を周回する小径を一回り。
>どこか裏の小山頂上に行く経路は無いか周回してみましたが道無し。
>磐座的なにかがあるのかと思いながら確認出来ず残念なのでした。
>おそらく本殿裏の小山頂きがご神体山に近い扱いなのでしょうね。
URLリンク(akiba9echo.exblog.jp)

787:日本@名無史さん
19/01/23 13:34:26.74 .net
418の>>153
>アホ 四千里=300kmがこじつけなんだよ
仮に距離を測定したとしても、当時測定できた距離とは道のりの距離か航行距離(移動距離)<
アホ。「韓の方四千里」の計測は、海上の「航行」ではないよ。
当然、郡の役人らに拠っての、
韓地での一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測の組み合わせだよ。

788:日本@名無史さん
19/01/23 13:40:15.26 .net
418の>>157
>>谷本計算は、太陽仰角を使っているので、尺寸系の寸法関係は、
千里の距離には全く関係がなく、変わらない。<、
>一尺が何寸かで太陽仰角は変わるぞ <
変わらない。
類スレ主は・・・・アホ。

789:日本@名無史さん
19/01/23 13:40:40.58 .net
>>747
肥後・菊池市から山鹿市にかけての一角にあった方保田東原遺跡だろうな。
弥生鉄工房のすごさときたら、イトクズがまさにイトクズに見える。
また、七城町の臺邑から出土した臺弥生遺跡は多重環濠に守られていた。
此処こそ、邪馬臺国の「臺」。
卑弥呼之所都は、倭30国を治める鬼道の都だから、九州島のほぼ中心に当たる阿蘇・高千穂にあった。
なにしろ此処は、総延長20q・深さ100mの渓谷に守られた天然の要害砦。その広さは奈良の桜井市とほぼ同じだ。驚くばかりの女王之所都!

790:日本@名無史さん
19/01/23 13:51:50.90 .net
>>751
韓の方四千里は、帯方郡から狗邪韓国まで七千余里とは別に測量したものなのか?w
七千余里は循海岸水行と書かれているんだが

791:日本@名無史さん
19/01/23 13:55:33.80 .net
418の>>172
>それを東南陸行と言い張るのは、厚顔だよなw<
「東南」は出発説明であり、「陸行五百里」が途中説明になるから、
「東南陸行」と組み替えるのは、
類スレ主のインチキ騙しの詐欺。

792:日本@名無史さん
19/01/23 13:59:08.85 .net
418の>>173
>庄内の始まり、庄内1式は200年前後。 これは定説。<
大和の庄内の始まりは、石塚であり、3世紀末。
筑紫の庄内の始まりは、祇園山の庄内や、柳田のついうっかり発言に拠って、3世紀前半。
これ、史料実態。

793:日本@名無史さん
19/01/23 14:12:58.34 .net
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

794:日本@名無史さん
19/01/23 14:48:17.88 .net
ザラコクも連続句点もウソつきすぎ
九州説は地に堕ちた

795:日本@名無史さん
19/01/23 14:50:33.62 .net
だから実際に簡易測量してみなって
舞台は日本だから簡単だろ

796:日本@名無史さん
19/01/23 15:09:12.19 .net
>>748
>1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)
邪馬台国(福岡)の南にある狗奴国です。
官は菊池彦です。

797:日本@名無史さん
19/01/23 15:19:35.36 .net
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

798:日本@名無史さん
19/01/23 15:20:50.95 .net
卑弥呼→@かA
@九州の豪族の姫→八女津姫
A畿内の皇統の姫→モモソ姫

799:日本@名無史さん
19/01/23 15:21:30.22 .net
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、 嘘の悪口を言い放ったな。。。
758日本@名無史さん2019/01/23(水) 14:48:17.88
ザラコクも連続句点もウソつきすぎ
九州説は地に堕ちた

800:日本@名無史さん
19/01/23 15:23:18.29 .net
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破され、 嘘の悪口を言い放ったのは、韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している犯罪行為が地に堕ちているからではないのかな。。。

801:日本@名無史さん
19/01/23 15:24:13.43 .net
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

802:日本@名無史さん
19/01/23 15:25:51.36 .net
>>760 名前:日本@名無史さん 2019/01/23(水) 15:09:12.19
>>748
>1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)
5. 狗奴国はどこ?・・・球磨地方(人吉)、此処は奈良盆地と同じ広さの水田地帯である。
   住人は、コマヒト(肥人)と呼ばれ、記紀に久米族とも記された弓の種族

803:日本@名無史さん
19/01/23 15:34:31.57 .net
>>760 名前:日本@名無史さん 2019/01/23(水) 15:09:12.19
>>748
>1.都はどこ? ・・・主邑は、菊池郡山門郷(官衙)〜同七城町臺砦(見張り砦)
>邪馬台国(福岡)の南にある狗奴国です。
>官は菊池彦です。
肥後・菊池の名は、11世紀に大宰府から藤原の一子が下向土着して、菊池を名乗ったことから始まる。
三世紀とは、何の関係もない士族である。

804:日本@名無史さん
19/01/23 16:04:37.62 .net
・倭は会稽の東に無い
・九州の中でさえ方向も距離も間違いだらけ
・伝説の時代から、実際に交流をしている時代までも同じ距離と方向で考えている
行程を調べれば調べるほど何の意味もない事が分かるだけ
この工程の珍解釈しかない九州説がどんだけ存在価値のない物だかわかる

805:日本@名無史さん
19/01/23 16:22:10.09 .net
418の>>190
このように、魏使らの記録の中で、
都合の悪いところは「南は東の間違いだ」とし、
都合の良いところはそのまま南→南だと言って、
その理由を説明しないのが、大和説。

806:日本@名無史さん
19/01/23 16:33:26.22 .net
418の>>197
>藤堂先生は、どんなストーリーも書いてないよ
藤堂先生が言いたいことはこれ↓
「しかし、これまで私が縷々列挙してきたのは、「三国志」を「三国志」として「書写したもの」同士の「異同」なのである。
 その間に、これほどの「異同」が含まれていることは、「写本には誤写はつきもの」という、当たり前のことを如実に
 示していることは明々白々である。逆を言えば、今日の「版本魏志」が「陳寿オリジナル」のままであることなど、
 到底望むべくもない「夢想」でしかないと言いうるのである。」
魏志倭人伝の記述は99.5%正しいから「南≠東」だ、というザラコクの言い分を
全否定ww <
ふーん?。
藤堂も、
宋明清代の校勘で倭人伝の2000字余りの文字の中で、校勘に挙げられたのは、
「都支國と郡支國」と「黄幢と黄憧」の2文字だけであった、
という事を知らず、
倭人伝の中には、間違いが沢山あった、
というインチキをしゃべっていた・・・・学者だったんだな。

807:日本@名無史さん
19/01/23 16:39:10.56 .net
>>762
九州に女性首長は多くいた。
八女津姫はそのうちの一人に過ぎない。
八咫の鏡を持っていた神夏磯姫の方がまだ卑弥呼に近いと思う。

808:日本@名無史さん
19/01/23 16:43:40.42 .net
418の>>199
まだ人口の少なかった古代においては、
国間距離は、原則として「明確な居住外縁部間の距離」であり、
その間は、小部族集落や不毛の地であり、
境界が接している場合には、「其toku廬國與倭接界」というように、
「接界」とはっきり示すのが原則、なんだよ。

809:日本@名無史さん
19/01/23 16:51:26.00 .net
>>741
>昔は、看板もネオンサインもなかったのだからな。苦し紛れの言い訳だらけ、、、笑っちゃうね。
どうだろうね。
中国だと城郭都市の門には国名が掲げられていたからね。
鳥居の上に額が掲げられていたかもねw

810:日本@名無史さん
19/01/23 16:53:01.07 .net
菊池に住んだから菊池〇〇なんだと思うけど。
苗字が一緒の場合、個人の特定は、場所+名前だからね。

811:日本@名無史さん
19/01/23 16:53:21.91 .net
>>742
>いわゆる三種の神器だけで判定するものではない
三種の神器が倭国王権の象徴だよ。
それで説明がつくのだから、それ以外の解釈を加える必然性はない。
嫌なら半島へ帰れ。

812:日本@名無史さん
19/01/23 16:56:10.09 .net
>>773
バカタレ、加也山のふもとの鳥居の上の額の文字が、
遥か彼方の呼子から読めるわきゃなかろうが。

813:日本@名無史さん
19/01/23 16:57:39.45 .net
>>745
>卑弥呼の共立王権は北部九州とは別の政権であり、新生倭国の誕生といえる
場所が


814:全く違い、王統も違う? それはもう倭国ではないよ。 後漢書も魏志も邪馬台国まで一万二千里で一致しているから、その間に移動なんてしていないことは明らか。 >卑弥呼の共立自体は、3世紀に入ってからだと個人的に考えている それでは桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)にあった倭国大乱から離れ過ぎている。 >そうでなければ、卑弥呼の寿命が生物学的に不自然 25歳くらいで共立され、80歳くらいで亡くなったのなら、生物学的におかしくはない。



815:日本@名無史さん
19/01/23 17:00:52.52 .net
>>745
>どちらも甕棺墓だし
だから九州説の中でも、王都は伊都(邪馬台国)のままで、王統だけ天孫族から他の氏族に代わったという意見がある。
それが王統を揺るがす倭国大乱の結果だったんだよ。
敗者となった天孫族が筑紫を出て大和に行き、玉突きで畿内にも新しい時代がやってくることになったと考えられる。
畿内の「画期」は、筑紫における倭国大乱の余波なんだよ。

816:日本@名無史さん
19/01/23 17:01:37.03 .net
あんたがたどこさ
肥後さ
肥後どこさ
熊本さ

817:日本@名無史さん
19/01/23 17:02:59.37 .net
>>776
鳥居があるのくらいは読めるし、そこに到着した時に読めるだろ。
そこに滞在したと記録されているのだから。
郡使は朝晩とそれを眺めたんだよ。

818:日本@名無史さん
19/01/23 17:04:14.96 .net
>>774
記紀でも、地名+彦という名前はよくある。
菊池彦がそのはじめの例なのかもしれない。

819:日本@名無史さん
19/01/23 17:13:08.01 .net
磐井さんが負けるまで日本って実質的には2元体制だったんじゃないかと思うけどな。
九州一帯地域と畿内連合って感じで。
ずっと九州には大きい自治権を与えるような宰相元帥・管領的な地域王だけはおいていた。
理由は遠いから。
でも、大きい自治権を与えるが故に時にはまつろわぬメンドクサイやつが出てくる原因にもなったと。
卑弥呼の時代は大体、欠史8代後半〜だろうなーと。

820:日本@名無史さん
19/01/23 17:17:12.88 .net
>>782
>磐井さんが負けるまで日本って実質的には2元体制だったんじゃないかと思うけどな。
>九州一帯地域と畿内連合って感じで。
それ、多元王朝説ですよ。
それでは、その中で中国が倭国と呼んでいたのはどこなのか。
後漢書では倭の北限は朝鮮半島南岸、倭の南限は九州北岸としています。
魏志倭人伝になるともう少し情報が増えて、卑弥呼がいた女王国から海を東に渡ったところにも倭人がいたことが記録されています。
さあ、卑弥呼がいたのはどこでしょう。

821:日本@名無史さん
19/01/23 17:22:59.76 .net
>>783
卑弥呼ちゃんいたのはどこさ
肥後さ
肥後どこさ
熊本さ

822:日本@名無史さん
19/01/23 17:29:35.12 .net
>>783
朝鮮部落史

823:日本@名無史さん
19/01/23 17:42:02.94 .net
>>766
菊地もコマビトだろ

824:日本@名無史さん
19/01/23 17:42:22.00 .net
崇神→四道将軍
垂仁→豊城入彦
景行・日本武・成務・仲哀・神功→九州征伐
神功→三韓征伐
応神天皇→400年前後
九州平定したのは6世代前後かけて。

825:日本@名無史さん
19/01/23 17:45:26.13 .net
>>767
普通、土着して名乗る場合、住んだ所の地名を氏名とするんじゃないの?
その藤原氏が菊池を名乗ったのは、その土地が菊池だったから、と。

826:日本@名無史さん
19/01/23 17:46:45.18 .net
>>785
倭国は渡来人たちの国さ。
いわば三世紀の、「新大陸アメリカ合衆国(新大陸アマツヒト合衆国)」

827:日本@名無史さん
19/01/23 17:49:51.46 .net
418の>>203
>>10月20日の話は、北条先生も書いてますね。 そちらもみてみたら?<
>それは柳田説を批判しなかっただけだろ? きちんとした礼儀のある人は、安易な論難はしない
そして、単純な数学的な計算で、平原遺跡から見た日向峠からの日の出は10月22日だと分かる<
夏至から冬至での日の出方向の角度範囲は大体55〜60度位であり、
半年を180日とすれば、2日


828:差で3分の2度位。 太陽視角は0.5度だから、殆ど太陽視角位の差異であり、 20日と22日の太陽位置は、太陽視角程度の差であり、問題にならない。 >卑弥呼の死んだ年がそもそも不明、寿墓でなければ造墓年数もかなりかかるのも無視している < 勿論、正始8年の年次に書かれているんだから、 正始8年に非常に近い頃だったんだろうという事は言える訳で、 正始4年と正始6年に引きつづいてで2年間隔で正始8年の記載があるんだから、 やはり、2年位以内の出来事であったんだろう、とも言える。



829:日本@名無史さん
19/01/23 17:54:39.68 .net
>>783
倭の時代も日本もだけど
時代が下ってもず〜〜っと対馬とか北九州が外交の窓口。
地域にどんだけの裁量権があったかに尽きる。
裁量権のあるなしの根拠は独立的な王権なのか、
皇統による自治権の付与なのかはわからない。
ただし、北九州は皇統の姻戚関係(海神ね)なのは記紀にも書いてある。
海神の男系がいてもおかしくないっちゃおかしくないし、海神系の姫かもしれないしわからんw

830:日本@名無史さん
19/01/23 17:57:17.53 .net
418の>>204
>>同じモノ(庄内)の大和での編年年代は、
筑紫よりも50年以上遅くなる<
>ザラコクや、それ何十年前の編年だ? 倭国内の流通の活発さを舐めすぎ<
類スレ主は、九州倭国の「東征毛人五十五國」という上表があった事を、舐め過ぎ。

831:日本@名無史さん
19/01/23 18:02:12.68 .net
>>788
菊池には、もとククチ城があった。
この城は7世紀ころ、大宰府の大野城や基山の基ゐ城のころに、共に改修されている(それ以前のことは不明)。
だが、肥後のククチ城も高い山の上で、水もなく、白村江敗戦の頃に急増された土塁木造の朝鮮式山城と考えられている。
ちなみにククチとは、新羅系の木造建築物の築造集団として知られる(記紀ではククノチの神)。
三世紀との関係は全く不明。

832:日本@名無史さん
19/01/23 18:02:34.69 .net
>>748
>邪馬台国・肥後山門郷と、阿蘇高千穂の卑弥呼之所都あり。
ないわぁ〜
邪馬台国が女王之所都と書いてあるのに、それを別々のところにするなんてww
やっぱり肥後説もトンデモだな

833:日本@名無史さん
19/01/23 18:08:51.26 .net
418の>>208
>どこからどの方角に見えたとかはいろんな想像してもきりがないので
結果的に末盧國ー伊都國の方位が違ってるなら、
他の方位についても違ってる可能性があると考えなければならない <
いや、普通の人類は、
東西南北の方向は、全く「間違えない」もの。

834:日本@名無史さん
19/01/23 18:09:13.55 .net
>>775
>三種の神器が倭国王権の象徴だよ。
>それで説明がつくのだから、それ以外の解釈を加える必然性はない。
これも何度も書いているんだが、八咫鏡も八尺瓊勾玉も、
皇統のレガリアとは関係ないところでも記紀に出てくる
雄略紀「別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
        使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請」
垂仁紀「是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」」
山口の赤妻古墳とか山梨県の笛吹市平林2号墳とかの、こういっては何だけど
地方のそこらの古墳でも、「三種の神器セット」は揃ってる
その3種があるから倭王だというのは成り立たない
>嫌なら半島へ帰れ。
>>775ご本人は半島人ではないのかもしれないが、九州説を一生懸命唱えてるのは
半島儒教道徳の信者の工作だぞ
自覚的カム自覚かは知らんが、それに加担しているのが>>775
日本人なら、正しい情報を広く求めてきちんと判断してごらん
それでも、九州説が正しいというなら、日本人として通常の判断能力がないってことだ
ザラコクや連続句読点のお仲間として仲良く九州説とかでやっていけばいい

835:日本@名無史さん
19/01/23 18:10:04.67 .net
ちょっと待てよ?
中国人が聞いたところには、卑弥呼は女王だと言っていると。
これは今でいう「にょおう」なんじゃないか?

836:日本@名無史さん
19/01/23 18:14:51.37 .net
中国人の認識
大和人→倭人
熊襲人→倭人
土蜘蛛人→倭人
倭王=大和王、熊襲王、土蜘蛛王
味噌糞一緒とはまさにこのこと。

837:日本@名無史さん
19/01/23 18:15:55.77 .net
418の>>211
>これで東南陸行だと主張できるのが厚顔すぎるw <
「東南」は出発時の出発方向説明であり、
「陸行五百里」は途中移動の説明であるのに、
「東南陸行」だと曲解捏造して、魏使らや陳寿が方向を90度間違えた、
と誹謗宣伝をする類スレ主らの大和説者は、厚顔過ぎる。

838:日本@名無史さん
19/01/23 18:17:03.48 .net
>>777
>それはもう倭国ではないよ。
まず第一に、漢委奴國王は倭王でも倭国王でもない
倭人の中の奴国王というだけ
邪馬台国との連続性はないというのが、文献や金印がらむしろ読み取れる
>後漢書も魏志も邪馬台国まで一万二千里で一致しているから、その間に移動なんてしていないことは明らか。
これは嘘だな
後漢書では「樂浪郡徼去其國萬二千里」
この「其國」は倭国であって、邪馬台国ではない
魏志倭人伝は「自郡至女王國萬二千餘里」
この「女王國」も卑弥呼の共立に参加した連合で事実上倭国
邪馬台国ではない
このスレでもこれまでに何度も確認されているように、萬二千里は
淮南子等に由来する、中華世界の概念における世界の果てまでの観念的な距離の
数字を、晋の高祖司馬懿の功績を称えるために流用した者であって、
実測値でもないし、具体的な場所を指す数値でもない
そんなのしか、根拠がない時点で、九州説はオワコン

839:日本@名無史さん
19/01/23 18:17:31.60 .net
>>794
邪馬台国はは肥後地方に在り、、その中の阿蘇に女王の都はあったのだ。
(古代の高千穂は阿蘇の一部だった)。
ちなみに「邪馬台国が女王之所都」とよむと、国=都となる。
日本=京都、日本=江戸、日本=東京、と読むのと同じだが、それでよいのかな、かな、かな?、

840:日本@名無史さん
19/01/23 18:18:44.04 .net
418の>>212
だいたい大和説者や類スレ主らが出すのは、「南→東」などのような、
史料事実の否定曲解のウソデータばかり。
あるいは全く出さない 。

841:日本@名無史さん
19/01/23 18:20:34.47 .net
>>801
>邪馬台国はは肥後地方に在り、、その中の阿蘇に女王の都はあったのだ。
ハハハ、冗談は良子さん。  @阿波

842:日本@名無史さん
19/01/23 18:23:12.24 .net
418の>>214
>纒向は宮殿跡だからいくら探しても集落跡は見つからないよ
鉄鏃や絹は古墳から出ている<
卑弥呼の宮殿があったんなら、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」であったんだから、
その「宮殿」跡とやらからも、鉄鏃や絹も出土している筈。

843:日本@名無史さん
19/01/23 18:33:36.14 .net
418の>>226
いやいや、大和説の人は、
「まともな普通の人類は東西南北を間違えない」といくら言われても。
「まったく納得しないにだ」っていうだけの簡単なお仕事に徹してるだけでしょ?
末盧国からの東南陸行五百里で伊都国に到るという「東南」が、
出発時点での出発方向だというのは、おそらく誰が見ても明らかなのに、
それを「認めないんだー」って言い張ってるだけじゃない?

844:日本@名無史さん
19/01/23 18:34:20.57 .net
ハハハ、@阿波のあれは良子さんというのか。。

845:日本@名無史さん
19/01/23 18:36:21.65 .net
>>702
上古音は、実際、推測の域を出んらしいなあ。

846:日本@名無史さん
19/01/23 18:37:39.42 .net
>>777
>それでは桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)にあった倭国大乱から離れ過ぎている。
そんなことはない
後漢書の桓・霊間の元ネタは、三国志東夷伝韓条のこれ
桓靈之末、韓濊彊盛。郡縣不能制、民多流入韓國。
桓・霊の間というのは、後漢末の混乱の時代という意味のある意味決まり文句のようなもの
後漢書韓伝にはこのくだりがないから、桓・霊間という表現が倭人伝の方に流用されたのだろう
後代史書でそこまで信頼できるものでもないけれど、梁書では靈帝光和中としている
光和は178年 - 184年
>>777の言うように184年に即位したとすると、死亡したのが通常248年と考えるから
在位が64年間になる
25歳で即位して現代医療で延命治療した昭和天皇の在位が62年ちょい
卑弥呼は年已長大と書かれていて、長大は30歳とするのが普通(異論もあり)
弥生時代で、94歳まで生きるとか生物学的に無理だろ?
魏志倭人伝には倭国乱の時期は書いていない
死亡年が248年であることが信用できるとするなら、卑弥呼の共立は
3世紀に入ってからとするほうが妥当

847:日本@名無史さん
19/01/23 18:39:31.66 .net
兄が夜を治め、弟が昼を治める。
兄が九州(西)を治め、弟が畿内その他(東)を治める。
九州が倭国、畿内が日本国。

848:日本@名無史さん
19/01/23 18:40:28.62 .net
>>791
>皇統による自治権の付与なのかはわからない。
3世紀の時点で皇統とやらが畿内に確立されていたという根拠がない。
畿内説の鴨氏は、神武が卑弥呼と同じ時代と言っているからね。

849:日本@名無史さん
19/01/23 18:42:49.37 .net
>>783
>後漢書では倭の北限は朝鮮半島南岸、倭の南限は九州北岸としています。
していません
後漢書の倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也は
三国志の次有奴國 此女王境界所盡の誤解釈
使人自稱大夫は三国志の自古以來其使詣中國皆自稱大夫で、
後漢書に書いてあることは、基本的に魏志倭人伝に準拠している

850:日本@名無史さん
19/01/23 18:43:03.68 .net
>>808
>後代史書でそこまで信頼できるものでもないけれど、梁書では靈帝光和中としている
>光和は178年 - 184年
>卑弥呼は年已長大と書かれていて、長大は30歳とするのが普通(異論もあり)
>弥生時代で、94歳まで生きるとか生物学的に無理だろ?
長大が成人のこととする意見があって、20歳で即位なら84歳。
16歳で即位なら80歳。
弥生時代としては驚異的ではあるが、生物学的には可能。


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