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100:日本@名無史さん
19/01/21 05:40:44.38 .net
地名だけでゴリ押すのもどうかと思うが
方角を間違ってないことにしたくて遺跡のカケラもない場所を比定するご都合呼子よりはマシか

101:日本@名無史さん
19/01/21 06:09:38.39 .net
さすがにこれを
URLリンク(i.imgur.com)
東南陸行で正しいと強弁するのは
如何なものかと

102:日本@名無史さん
19/01/21 06:41:10.90 .net
417の>>693
>卑弥呼の前から邪馬台国があったと言う事か<

邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言。
邪馬壹國は、おそらく倭國亂で、
福岡平野中央部〜筑紫平野部に統合された姫氏が中心となった国。
>ホケノ以前の墳墓がその前段階と言う認識かな<

ホケノは、大量の鉄鏃や画分帯や布留を副葬した有棺有槨の前方後円墳であるから、
九州倭国の東征毛人五十五国の中の、部将クラスの人物の、3世紀末頃の墓であり、
楽浪からの新規渡来系部族の要素も持った人物の墓。
>それにしてもやはり纏向型の突然の拡散の謎は残るな<
纏向型の拡散ではなく、那珂八幡などの筑紫型の拡散であり、
当然、東征毛人五十五国の将軍や部将クラスの、阿毎氏系が中心となった人物の墓。

103:日本@名無史さん
19/01/21 06:52:32.81 .net
417の>>694
>隋書流求国伝にも「水行五日」の記述がある。<
おそらく、尖閣や石垣島方面から、偏西風や黒潮に乗って、島伝いの琉球にやって来たもの。

104:日本@名無史さん
19/01/21 06:58:29.33 .net
前スレ
>>922
>まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど <

そうだね、使者が4回も行ったなら方位は間違わないね。距離も短里でしょう。

105:日本@名無史さん
19/01/21 07:06:55.33 .net
前スレ
>>922
>まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど <

そうだね、使者が4回も行ったなら方位は間違わないね。距離も短里でしょう。

106:日本@名無史さん
19/01/21 07:06:59.70 .net
前スレ
>>922
>まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど <

そうだね、使者が4回も行ったなら方位は間違わないね。距離も短里でしょう。

107:日本@名無史さん
19/01/21 07:07:54.63 .net
417の>>695
>そのままの意味
纏向型の再初期段階の物は畿内と九州、関東にいきなり現れる<
纏向型ではなく、
九州倭国の中の伊都国の阿毎氏系の東征将軍や部将らの那珂八幡型の前方後円墳で、
その新規東征地域に那珂八幡型前方後円墳を残していった。
>中間の東海にも瀬戸内海にもないのに突然出現する
その中間地点には別の墳墓や祭祀が存在していて「見つかってないだけ」と言う状態でもない
当時の人の移動を考えるとかなり不思議な広まり方をしてる<
瀬戸内の讃岐や阿波や、東海にも、前方後円墳的な小型墳墓があるが、
それらは、楽浪などからの新規渡来部族や姫氏系の部将らの墓であったんだろう、と思われる。

108:日本@名無史さん
19/01/21 07:12:44.12 .net
417の>>697
>あと古墳を全部詳しく調べたわけではないけれど
三世紀の前方後円墳は畿内にしかなかったはず<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和などの畿内型よりも、やはり、
那珂八幡などの筑紫型前方後円墳の方が先行した。

109:日本@名無史さん
19/01/21 07:25:25.54 .net
417の>>703
>なるほどね 神武東征を史実として捉えているわけか
そこを邪馬台国の起点として見てると<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つきだましの文言。
>ただ九州から広まる文化が弥生時代を通して希薄で
考古学的に東征がほぼ成立しえない点はどう考えているのか知りたい<
神武らの大和侵入で磐余に建国があっても、
大和内には、まだまだ出雲系銅鐸祭祀部族や毛人部族が沢山残っている状態で、
欠史八代の頃は、
婚姻を通して「共存」状態であって、
欠史八代の中の4人には「大倭」の号が付けられているから、
阿毎氏の分家らは、九州倭国の地方の市を監督する大倭職的な地位にあった。
大和内に次の「東征毛人五十五国」の将軍らが入ってきたのは、
崇神の頃以後。

110:日本@名無史さん
19/01/21 07:28:34.11 .net
>>79
それがね鉄の精錬遺跡もあるのだな

111:日本@名無史さん
19/01/21 07:31:24.65 .net
417の>>704
>ホケノ山は3世紀中葉 卑弥呼の時代 <
ホケノ山は、有棺有槨の前方後円墳であり、
3世紀中葉の卑弥呼の墓の「有棺無槨」や「冢」ではないし、
「庄内〜布留」であるから、3世紀末以後。

112:日本@名無史さん
19/01/21 07:38:43.45 .net
>>90
>それがね鉄の精錬遺跡もあるのだな
それ、弥生終末期じゃないだろ?
九州説にバカ約1名が奈良湖連呼で見苦しいが、それ以上に水浸しなのが筑紫大和だよ

113:日本@名無史さん
19/01/21 07:38:51.23 .net
嘘年代で反論とは哀れ

114:日本@名無史さん
19/01/21 07:41:41.70 .net
417の>>706
>ホケノで中国鏡の副葬があるから<
画分帯神獣鏡は、やはり神獣鏡であるから呉系であり、
筑紫に入った初期の呉系楽浪鏡師らとは別の鏡師群であり、
播磨や阿波やホケノには鏡片が出ているから、
卑弥呼らの直属的な部下であった可能性が高い。
それで3世紀中葉の卑弥呼の時代には
九州と畿内の文化的繋がりがすでにあったと見ているけれど

115:日本@名無史さん
19/01/21 07:48:19.36 .net
>>89
>婚姻を通して「共存」状態であって、
ザラコクにしては珍しくこの部分は正しい
首長層の間の婚姻関係も、卑弥呼共立でまとまったことの背景の一つだろう
>欠史八代の中の4人には「大倭」の号が付けられているから、
九州には、倭も大倭も、地名にも人物名にも一切ないんだけど?ww
九州倭国なんてないんだよw

116:日本@名無史さん
19/01/21 07:50:37.33 .net
>>92
URLリンク(www.geocities.jp)

117:日本@名無史さん
19/01/21 07:54:11.94 .net
伊都国の糸島に限定せずもっと広範囲に比定地を見直す必要がある

118:日本@名無史さん
19/01/21 07:55:20.87 .net
なんか九州説のデータ古くね
九州説だけ昭和に生きてるのか

119:日本@名無史さん
19/01/21 07:56:31.16 .net
>>93
>嘘年代で反論とは哀れ
ではその正しい年代をはっきり示せばいいんじゃないか?
反論は具体的に指摘してくれっていつも言ってるだろ?
九州説は鉄が大好きだけど、鉄があるところが都なんていう話はない
弥生時代最大の鉄器生産工房の淡路島の五斗長垣内遺跡が邪馬台国だって言うやつはいないだろう?
そして何度も言うが、筑紫山門には七万戸の国を想定すべき遺跡はないし、
弥生末期はまだ海に半分浸かっている状態で、陸化した部分も筑後川が
運んだ砂が積もった軟弱地盤
水行陸行も説明できないし、投馬国も置けない
筑後山門はむりぽ

120:日本@名無史さん
19/01/21 07:59:47.38 .net
>>96
そのページに「鉄の製造跡が藤の尾遺跡では『通行証』らしき品が出土」ってあるんだが?
弥生時代に通行証はないぞw

121:日本@名無史さん
19/01/21 08:02:17.88 .net
>>97
>伊都国の糸島に限定せずもっと広範囲に比定地を見直す必要がある
そうだな! 糸島市という言い方は不正確だ
怡土郡だった範囲とする方がより実体に近い
伊都国は千戸の国だからそんなに大きくない
まあ魏略だと1万戸だが

122:日本@名無史さん
19/01/21 08:09:08.22 .net
>>81
末盧国の比定地も難しいね
長崎県佐世保市・福岡県福岡市・宗像市・遠賀郡などと推定する研究者もいるね

123:日本@名無史さん
19/01/21 08:36:57.79 .net
方位を何が何でも正しいことにしたい九州説は
伊都国や末盧国を好き勝手に移動させて
果ては会稽まで移動させちゃう
滅ぶはずだよ九州説

124:日本@名無史さん
19/01/21 08:38:56.26 .net
>>102
>末盧国の比定地も難しいね
大陸からの玄関口(末盧国)は福津・宗像方面。
対馬海流に流されて、大陸からの玄関口(末盧国)は福津・宗像方面。
元寇・朝鮮通信使・世界文化遺産  どれをとっても、大陸からの玄関口(末盧国)は福津・宗像方面。  @阿波

125:日本@名無史さん
19/01/21 08:41:39.37 .net
>>100
なかったという証拠は?

126:日本@名無史さん
19/01/21 08:43:05.40 .net
>>103
方位も距離も何もかも間違っていたことにして無理矢理に邪馬台国を九州から畿内に移動しているのが畿内説だろw

127:日本@名無史さん
19/01/21 08:44:10.90 .net
九州北岸に上陸してから短里で二千里南下すると、おおむね筑後ヤマトなんだよな。

128:日本@名無史さん
19/01/21 08:48:09.72 .net
>>106
>方位も距離も何もかも間違っていたことにして無理矢理に邪馬台国を九州から畿内に移動しているのが畿内説だろw
だから、方位も距離も何もかも合致しているのは倭国(阿波)だけ だと、何度言えばw  @阿波

129:日本@名無史さん
19/01/21 08:50:51.02 .net
方位も距離も何もかも合致しているのは、熊本城の可能性が、高まってきたな。。。

130:日本@名無史さん
19/01/21 09:39:28.20 .net
>>107
インチキ単位を使えば結果もインチキ

131:日本@名無史さん
19/01/21 09:50:55.04 .net
>>106
間違ってる理由が無いから正しいことを前提にしないとな
何でも間違いじゃ議論にもならない
魏志倭人伝の記述を基に現実と照らし合わせて各国の位置をすべきですね。

132:日本@名無史さん
19/01/21 10:35:04.30 .net
>>96
引用のページには
「大陸から渡ったタタラ(鉄の生産)の跡や古墳(中略)山川や高田では鉄の製造」
とあり、弥生時代の遺跡という表にも「タタラ」として表記されている
まあ、タタラ跡と判断されれば製鉄跡であるのはまちがいないんだろうが、現時点では
「タタラ製鉄は六世紀から」とされていて、三菱金属のウェブサイトのタタラ製鉄のページには
「弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったと
 いうのが現在の定説です。
 今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、
 戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な
 鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、
 鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が
 始まっていたと考えるのが妥当と思われます。」
と書かれている URLリンク(www.hitachi-metals.co.jp)
タタラ製鉄という時点で、弥生終末期じゃないだろ?ww

133:日本@名無史さん
19/01/21 10:39:32.06 .net
>>111
>間違ってる理由が無いから正しいことを前提にしないとな
方角が間違っている理由
つ URLリンク(i.imgur.com)
末盧国が定説通りの唐津平野とすれば、伊都国は北東
インチキをして呼子にしても東
呼子からは可也山が見えるから、呼子からでも南東と認識することはない
距離が間違っている理由
つ URLリンク(www.geocities.co.jp)
遠回りすると、距離が半分になるという“不思議”ww

134:日本@名無史さん
19/01/21 10:45:41.98 .net
417の>>707
>神武天皇の故地は日向で北部九州の扱いはかなり悪い むしろ冷遇された外様的存在
だがここに最古級の古墳が現れてる
日向に古墳が現れるのは定型化後なので東征神話にも齟齬が出る
単純に九州と神武東征を結び付けられない点でもある<
日向は、元は、東テイ人の地域であり、
糸島に天孫降臨した阿毎氏が、海彦山彦の頃から植民地化し、
ウガヤフキアエズは糸島に戻った形跡がなく、日向で五瀬命や神武やナルタ姫らが出来、
五瀬命らは糸島に戻ったが、
天孫族と「合同」した形になっていた姫氏系のと勢力競争に勝てず、
五瀬らは、仲間を集めて武装流民集団として、宇佐から東征して行った。

135:日本@名無史さん
19/01/21 11:04:17.59 .net
妄想が どこまで行くか 九州説

136:日本@名無史さん
19/01/21 11:25:29.38 .net
地理の基礎知識もないやつが、九州北部は広い(筑紫平野が)とか、奈良は寒いとか
言い張るからな。ひどいのは奈良湖がある!とかw
古代の海岸線を示しても、無視するか学者の捏造だとか。

137:日本@名無史さん
19/01/21 11:29:10.31 .net
>>116
>言い張るからな。ひどいのは奈良湖がある!とかw
さすがに、弥生時代に奈良湖は無いが、湿地帯ではある。  @阿波

138:日本@名無史さん
19/01/21 11:34:06.09 .net
奈良が栄えたのじゃなくて、相対的に九州が衰えたというか西日本が伸びたのだろうな。
お馬鹿なやつは、雪をバカにして雪が降る地域をど田舎だとか遅れてるとか主張するけど。
記紀の記述は具体的な地域は、出雲、ヤマト、越、尾張、丹波、吉備が多くなる。
というか、神武東征以降、九州の具体的な地名は出てこない。
征服する場所としては出てくるが、ヤマト王権の主要な構成員の中には出てこない。
現在は「ど田舎」扱いの土地が、当時は重要だったわけだ。
理由は、「水」だ。

139:日本@名無史さん
19/01/21 11:39:28.08 .net
>>113
間違っている例を出したら、他も間違っていることになるのか?

140:日本@名無史さん
19/01/21 11:41:01.49 .net
>>118
>征服する場所としては出てくるが、ヤマト王権の主要な構成員の中には出てこない。
ヤマト王権が邪馬台国と関係がないとしたら、むしろ大和が倭国を乗っ取った証拠じゃないか?

141:日本@名無史さん
19/01/21 11:43:59.44 .net
>>118
>というか、神武東征以降、九州の具体的な地名は出てこない。
そりゃ記紀が筑紫から大和に都落ちした一族の歴史書だからだよね。
ヤマト王権と筑紫倭国が並行して存在していた可能性を否定するものではない。

142:日本@名無史さん
19/01/21 11:48:06.09 .net
>>118
> 記紀の記述は具体的な地域は、出雲、ヤマト、越、尾張、丹波、吉備が多くなる。
ウソはイカンぜよ。
記紀の記述は、倭国(阿波)国内 だと、何度言えばw   @阿波

143:日本@名無史さん
19/01/21 11:54:37.80 .net
ほんの少人数が暮らすなら、問題はないが、ある程度人口が増えてそれに見合った
水田を作るには、それに見合った水が必要になる。
大平野の真ん中や河川のそばは、水害が起きると全滅する。だから昔の人はそんな
ところに村を作ったりしていない。
雪の多い地域は今でも米どころだが、それは山が雪を蓄え少しずつ流してくれるから。
どんなに日照りが続いても、田んぼの水には困らないってのはそういう地域。
現在、山陰、北陸といわれる地域がそれにあたる。
出雲、丹波(丹後、丹波、但馬のこと)、越(越前、越中、越後)
瀬戸内は、溜池を作る技術ができるまでは規模を大きくすることは難しい。
1,天然地形を利用した初期のもの
2,多少の灌漑技術があるもの(環濠集落)
3,大きな前方後円墳が作れる程度
人口が徐々に増え、3まで行かないくらいの2の後半頃、当時の技術で最も人口を維持できたのが
「豪雪地帯」である上記の地域だったのではないかと思う。
濃尾平野は、今とは違い海が広がっていたが、山すそは上流の豪雪地帯から流れてくる
水を利用することが出来た。
関東平野の上流部もおそらくそうだったのだろう。上下の「毛野」も。

144:日本@名無史さん
19/01/21 11:57:36.98 .net
神武東征がいつかにもよるが、もし畿内説の鴨厨の意見の通りに神武が卑弥呼と同年代であるならば、神武東征より前は筑紫が王都だと記紀に書かれているので、倭国大乱前の男王70


145:〜80年と一致する。 そして考古学的には1〜2世紀の弥生王墓は筑紫にしかない。



146:日本@名無史さん
19/01/21 11:59:06.37 .net
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。

147:日本@名無史さん
19/01/21 12:01:06.78 .net
九州の遺跡は、吉野ケ里で代表される「台地」の上が多い。
安全だからな。
九州北部洪水クラスのやつが来ると、台地以外は流されるから。

148:日本@名無史さん
19/01/21 12:04:16.76 .net
417の>>709
つまり「魏志=長里説」はサギ

149:日本@名無史さん
19/01/21 12:05:38.47 .net
末盧国から伊都国の東南陸行五百里の方角が間違っているということの
最終決着を着けようか
可也山はかなり広い範囲から見られるランドマークで、これを基準に考えれば
伊都国周りで方角を間違うことはない
呼子から見た可也山
URLリンク(i.imgur.com)
三雲遺跡群から見た可也山
URLリンク(i.imgur.com)
可也山までの距離感がまるで違うのが分かる
呼子上空から見ると
URLリンク(i.imgur.com)
三雲上空から見ると
URLリンク(i.imgur.com)
こうしてみると、伊都国にとって可也山は信仰対象であってもおかしくない
実際、三雲南小路遺跡から冬至の日の入りの方角に可也山があり、
その直線状に平原遺跡がある
航空写真は三雲南小路遺跡から冬至の日の入り方向がまっすぐ上に
なるように調整してある
方角、間違いようがないだろ?

150:日本@名無史さん
19/01/21 12:06:25.64 .net
>>125
そんな統一国家めいたものは弥生時代には存在しないよ
形跡がない

151:日本@名無史さん
19/01/21 12:07:31.18 .net
>>128の補足
>方角、間違いようがないだろ?
現地では方角を間違いようがないだろ?
でも、魏志倭人伝に東南と書いてあるのは、陳寿のせん述までの間のどこかで
方角の錯誤が生じたということだ
史書の方位・方角の記述は間違うときは間違う訳だ
これで決着だな

152:日本@名無史さん
19/01/21 12:07:55.11 .net
>>119
>間違っている例を出したら、他も間違っていることになるのか?
あんたの信用がなくなる

153:日本@名無史さん
19/01/21 12:10:13.95 .net
>>124
>もし畿内説の鴨厨の意見の通りに神武が卑弥呼と同年代であるならば、
これはないよ
神武の方が卑弥呼より5世代くらい前

154:日本@名無史さん
19/01/21 12:12:00.66 .net
自分の間違いを倭人伝の間違いに転嫁する基地害ww

155:日本@名無史さん
19/01/21 12:12:21.97 .net
>>119
>間違っている例を出したら、他も間違っていることになるのか?
「方角は絶対に正しい」という前提で読むことが、合理性を失う

156:日本@名無史さん
19/01/21 12:12:40.84 .net
417の>>715
>ただそんなに九州北部の旧勢力も酷い扱いを受けたわけではなくて
倭奴国の旧王家は和邇氏となって有力豪族として
天皇家に遣えたと思っているけど <
その「天皇家」が、大和天皇家の事であったんなら、
大和が天皇を称したのは、天智からであるんで、
「南≠東」などに拠って、×。

157:日本@名無史さん
19/01/21 12:14:40.09 .net
>>120
>むしろ大和が倭国を乗っ取った証拠じゃないか?
九州には、倭国、大倭国という地名も、倭、大倭を含む人名も伝えられていない
九州が倭国と考える理由がない
>ヤマト王権が邪馬台国と関係がないとしたら、
関係あるから心配要らないよ
というか、そのものだから

158:日本@名無史さん
19/01/21 12:20:56.39 .net
自分の間違いを、倭人伝の間違いに転嫁する、ヒラヒラ基地害ww

159:日本@名無史さん
19/01/21 12:22:42.69 .net
>>124
>神武東征より前は筑紫が王都だと記紀に書かれているので
いくら5チャンといえども、ウソはイカンぜよ。  @阿波

160:日本@名無史さん
19/01/21 12:27:29.75 .net
>>138
さすが阿波博士、ご正論です。

161:日本@名無史さん
19/01/21 12:29:34.38 .net
4世紀の秋津遺跡
伊勢神宮と作りが似た建物群
これ何の遺跡やろな
高い塀で囲まれている割には、立地的に


162:h衛に向かない場所だし 姫に纏わる神社も近くにあった 大切なものを守ると同時に、大切なものが逃げないようにしていた風に感じるわ アキツって言葉はどういう意味なんやろ 関東では低地のことをアクツというらしい 【白栲】(しろたへ)の雲 秋津と何か関係あるのかな 阿波も何か関係あるのだろうか?



163:日本@名無史さん
19/01/21 13:03:22.00 .net
邪馬臺国がヤマト国と読めちゃう件について九州説は並並ならぬコンプレックスを感じてきてたんだな
こっちゃ大して気にもしてないのに

164:日本@名無史さん
19/01/21 13:10:07.26 .net
>>104
対馬海流に対してアマチュアの大陸、朝鮮は常に流されて宗像へ行く。
縄文以来のプロ九州は、唐津から2島を渡って朝鮮に着き、同じように2島を経て帰ってくる。
なので、対馬、壱岐、唐津航路を記している倭人伝の行程は、九州プロが漕いで渡って来たということ。

165:日本@名無史さん
19/01/21 13:18:07.69 .net
>>99
行程で記述されている戸数は、沖縄あたりまで延びる巨大島にみあった戸数に膨らましているので、あの戸数を実際の邪馬台国に当てる必要はないよ。
筑後山門は、政治的に筑紫平野の盟主に選ばれているので、必ずしも大勢力であったとしなくてもよい。
熊本に攻められて劣勢になるくらいだから、筑後山門は熊本を凌ぐほどの大勢力でなかったのは明らか。

166:日本@名無史さん
19/01/21 13:27:54.44 .net
戸数を改竄して減らすなら沖縄でも可

167:日本@名無史さん
19/01/21 13:32:41.96 .net
>>91
卑弥呼は九州。
ホケノは大和。
違っていて、当たり前。

168:日本@名無史さん
19/01/21 13:36:03.55 .net
>>87
相当、熱あるな。

169:日本@名無史さん
19/01/21 13:41:02.13 .net
>>105
頭、悪そう。

170:日本@名無史さん
19/01/21 13:45:02.35 .net
>>120
ようやく正解にたどりつく者が出てきたか。

171:日本@名無史さん
19/01/21 13:56:43.69 .net
背が高い「奈良の縄文人」 - 観音寺本馬遺跡の人骨13体
URLリンク(www.nara-np.co.jp)

172:日本@名無史さん
19/01/21 14:10:13.72 .net
>>130
間違えようがないにもかかわらず、倭人伝は東南への行程を書いているということは、何か特別な理由があったのだとは、考えんのかね。

173:日本@名無史さん
19/01/21 14:20:00.78 .net
>>143
>行程で記述されている戸数は、沖縄あたりまで延びる巨大島にみあった戸数に膨らましているので、あの戸数を実際の邪馬台国に当てる必要はないよ。
まあ、戸数はある程度の誇張はあるだろうし、正確な数ではなく文飾もあるだろう
しかし、奴国二万戸に対して、邪馬台国七万戸というのは、それだけ邪馬台国が
大国であることの表現であり、奴国よりも小さな勢力を邪馬台国に比定することはできない
>筑後山門は、政治的に筑紫平野の盟主に選ばれているので、必ずしも大勢力であったとしなくてもよい。
山門が筑紫平野の盟主に選ばれたってのは、どこに書いてあるんだ?
山門が記紀に出てくるのは田油津媛のところだけ
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時、田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來、然聞其妹被誅而逃之。
そして、田油津媛も山門縣の土蜘蛛というだけで、周りの豪族を率いている様子はない
少し時代が下った頃でも、筑紫君磐井は三井の辺りが本拠地だし、
さらにのちの筑後国分寺、筑後国府も現在の久留米市のあたりで山門群ではない

174:日本@名無史さん
19/01/21 14:20:20.81 .net
>>149
葛城鴨と、同類じゃね。

175:日本@名無史さん
19/01/21 14:23:47.73 .net
>>150
>何か特別な理由があったのだとは、考えんのかね。
特別な理由ではなく、陳寿の手に入る情報が不正確・不完全だったのだと判断している
末盧国の比定地は唐津平野で問題ない
そこからの東南陸行五百里は、伊都国ではないところ、
例えば面土国への経路の記録だと考えるのが現状では妥当性が高いと


176:考えてる 違う行き先の旅程が、伊都国への旅程として書かれてしまう程度の情報しか 陳寿の手もとになかったのだろう



177:日本@名無史さん
19/01/21 14:28:57.09 .net
417no>>727
>神門5号墳は3世紀中葉前後の築造とされている。
那珂八幡より半世紀ほど早いということであって、不自然でもないし問題でもない<
神門5号墳の「3世紀中葉頃」という絶対年代比定の根拠は何だっらの科ね?。

178:日本@名無史さん
19/01/21 15:00:38.87 .net
>>136
>九州が倭国と考える理由がない
王墓、金印

179:日本@名無史さん
19/01/21 15:01:01.69 .net
>>136
>関係あるから心配要らないよ
>というか、そのものだから
願望、妄想

180:日本@名無史さん
19/01/21 15:06:45.91 .net
>>143
>熊本に攻められて劣勢になるくらいだから、筑後山門は熊本を凌ぐほどの大勢力でなかったのは明らか。
筑後ヤマトも熊本も、肥国としては一つだろ。
卑弥呼も卑弥弓呼も同族なんだよ。
>>151
>山門が記紀に出てくるのは田油津媛のところだけ
>そして、田油津媛も山門縣の土蜘蛛というだけで、周りの豪族を率いている様子はない
田油津姫は神夏磯姫の末裔とされている。
神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を持っていて、筑紫の梟帥という称号を与えられている。
筑紫の倭王、または最高権力者である帥そのものだよね。
田油津姫を倒すことで、神功皇后は九州北部すなわち倭国の覇者となることがてきた。
倒された側の田油津姫の栄光を讃える文言が、倒した側である天皇家がまとめた日本書紀に書かれるわけがない。

181:日本@名無史さん
19/01/21 15:12:02.51 .net
417の>>739

182:日本@名無史さん
19/01/21 15:21:56.47 .net
417の>>739
>土器はそんなに被征服のあるなしの証拠になるかねぇ
いずれにしても結局は奴国の最盛期は1世紀
2・3世紀ごろは衰退に向かう<
この男は、おそらく「奴國=弥生銀座」という史料実態の否定の大和説者。
奴國は、「日向峠西麓〜早良平野部」位にしかならない。
>いずれかの段階で日向勢力もしくは畿内勢力 どちらかに支配されたのは明白 <
畿内なんて存在もせず、
日向勢力も大和も、糸島の阿毎氏系の国であったも。
>記紀や後漢書の文献を統合すれば俺は
2転3転あったかも知れないけれど107年に
宮崎の西都原辺りの天皇祖先が征服したと思っている <
記紀も後漢書も、後代の「自己解釈に拠る書き換えや盗用造作の多い半分×書」であり、
十分な史料批判に拠らなければ、論拠には使えない。

183:日本@名無史さん
19/01/21 15:27:15.53 .net
>>740
>三角縁神獣鏡は魏鏡で 卑弥呼が魏から貰ったものだよ
九州でよく見つかるのは漢鏡そして国産鏡 一部三角縁神獣鏡も出てるけど <
△は、「海東鏡」や「徐州銅鏡」の存在で、
呉系楽浪鏡師らの渡来での製作鏡だ、という事が確定しており、
景初二年以前の紀年鏡が存在しないから、魏鏡説が×になっている。

184:日本@名無史さん
19/01/21 15:33:44.29 .net
417の>>746
>しかし久しぶりにこのスレでまともな畿内説の話になった気がするな<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言を使うこの大和説男も、
万世一系皇国史観教という宗教的な「結論先にありき」の・・・・詐欺師。

185:日本@名無史さん
19/01/21 15:42:13.68 .net
417の>>747
>神門5号墳は3世紀中葉前後の築造とされていて、ホケノ山と同時期か少し遅れる頃が考えられる。<
ホケノは3世紀末以後であるから、それなら神門5号墳も4世紀以後頃になる。
>纏向遺跡の外来系土器のうち、関東系の土器が現れるのは纏向2式の時期から。
纏向2式は210年〜250年とされていて、この時期には石塚古墳などの纏向型古墳がすでに造られている。<
石塚は大和の庄内の始まり頃で3世紀末である。
>纏向型とされる神門5号墳が3世紀中葉前後に作られるのは、時期的には不自然ではない。<
不自然。3世紀末以後が自然。

186:日本@名無史さん
19/01/21 16:02:26.59 .net
>>157
>神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を持っていて
鏡、剣、玉は、ごく普通の首長層の副葬品セットであって、持ってたから王だということにはならない
山口の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳などでも出てる
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ
>八咫の鏡を含む
これも、皇統の鏡以外は三種の神器ではない
普通名詞としても「八咫鏡」の語は使われている
日本書紀 巻第十四  大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

187:日本@名無史さん
19/01/21 16:38:57.44 .net
前スレ996
スレリンク(history板:996番)
>それでも概ねの比例関係は維持されているので、
まだ言うかww
4倍異なるものは、「概ねの比例関係」とは言わないww
短里も、東夷伝里も、使う人がそもそもいないしどこにも伝わっていない
ただの、九州説を説明するために考案された捏造

188:日本@名無史さん
19/01/21 17:12:55.47 .net
九州説も行程は畿内説みたいあてにならないで通せばいいのに
行程抜きでも十分に畿内説より利はあると思うよ

189:日本@名無史さん
19/01/21 17:30:46.18 .net
>>157
>筑後ヤマトも熊本も、肥国としては一つだろ。
山門はコマビトではない
>田油津姫は神夏磯姫の末裔とされている。
されてない

190:日本@名無史さん
19/01/21 17:35:27.19 .net
>>162
盛んに、世間の常識に抵抗しているが、3世紀末以降の根拠はな〜に?

191:日本@名無史さん
19/01/21 17:45:15.02 .net
>>165
>行程抜きでも十分に畿内説より利はあると思うよ
九州説に利なんてないよw
弥生終末期から古墳時代へは、大きな動乱の兆候などまったく
考古学的に検知されていない
弥生終末期に大きな勢力だったところはそのまま古墳時代に入ると
大きな古墳を作るようになる
そして、九州には古墳時代初期の大古墳がない
この時点で北部九州に倭王を擁する大勢力がなかったことが確定する

192:日本@名無史さん
19/01/21 17:46:25.18 .net
>>155
>王墓、金印
それ、3世紀じゃないんだよw

193:日本@名無史さん
19/01/21 18:00:22.64 .net
>>151
邪馬台国七万戸は屋久島から沖縄あたりまでの領域と想定してあるようなので、中国の会稽(紹興市)〜東冶(福州市)の範囲の戸数を当てはめれば、まあ妥当ではないか。
倭國乱は玄界灘側の連合と、筑紫平野側の連合の騒乱で、乱以前は奴国が盟主を務めていたのだろう。
乱が筑紫平野側優勢で手打ちとなって、筑紫平野側が政治的に筑後山門を盟主として選んだのだろう。
その山門は、地勢的にみて吉野ヶ里方面や鳥栖方面と比べて耕地面積が小さい。
けっして大勢力とはいえない。
邪馬台国が倭國の盟主となったのは、あくまで政治的な理由


194:ノよるのだろう。 田油津媛を矮小化して描いたのは、日本書紀のプロパガンダだろう。 兄がいて世俗政治を取り仕切っていたようだから、弟が政治方面の要になっていた卑弥呼と瓜二つだ。 大和が、邪馬台国の卑弥呼を英雄視するわけがないね。



195:日本@名無史さん
19/01/21 18:03:48.66 .net
お前たちの妄想は本当におもしろいなw
続きは?

196:日本@名無史さん
19/01/21 18:11:14.04 .net
>>163
>つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
皇国史観?

197:日本@名無史さん
19/01/21 18:12:11.32 .net
>>164
>4倍異なるものは、「概ねの比例関係」とは言わないww
以前のスレで批判されて2倍だか3倍だったかに修正したはずでは?
またズルをしている?

198:日本@名無史さん
19/01/21 18:13:41.90 .net
>>169
じゃあ、いつ倭は東遷したんだ?

199:日本@名無史さん
19/01/21 18:16:51.65 .net
>>155
…女王国から東へ舟で千余里行ったところに倭種の国がある。
この海は、地理的に瀬戸内海が妥当。
瀬戸内海をはさんで、西に女王国、東に倭種の国。
九州を倭國と考えないとね。

200:日本@名無史さん
19/01/21 18:20:36.51 .net
>>174
してない

201:日本@名無史さん
19/01/21 18:23:29.96 .net
>>170
>兄がいて世俗政治を取り仕切っていたようだから、弟が政治方面の要になっていた卑弥呼と瓜二つだ。
そうなんだよね。
田油津姫の伝記は卑弥呼を思い起こすよね。
ちなみに神夏磯姫が田油津姫の祖というのは、田川市の若八幡宮の伝承。
田川市も田油津姫らの拠点の一つだったらしい。

202:日本@名無史さん
19/01/21 18:24:00.82 .net
>>176
ならば倭の王都は卑弥呼の時も博多湾沿岸のままだ。

203:日本@名無史さん
19/01/21 18:28:51.89 .net
>>171
これが、歴史のリアルな真実。
あれ、日本書紀は全編プロパガンダだろ?

204:日本@名無史さん
19/01/21 18:29:41.78 .net
>>178
畿内が勢力拡大してきて、九州は飲み込まれたんだよ
しいて言うなら西進

205:日本@名無史さん
19/01/21 18:32:32.52 .net
やけっぱち畿内説ww

206:日本@名無史さん
19/01/21 18:35:57.34 .net
>>173
>以前のスレで批判されて2倍だか3倍だったかに修正したはずでは?
>またズルをしている?
いや?
九州説のいう起点で測ったら、5倍から6倍になったんだよww
さらに差が開いたw
まあ、大体で言うなら4倍違うというのが分かりやすいw

207:日本@名無史さん
19/01/21 18:38:18.47 .net
>>174
>じゃあ、いつ倭は東遷したんだ?
してない
後漢書では「歴年無主」と書かれているので、九州の王は倭国乱の前後で没落して、
王が不在になり、その後新たな王として卑弥呼が共立されたと見ればよい

208:日本@名無史さん
19/01/21 18:42:25.56 .net
>>175
>この海は、地理的に瀬戸内海が妥当。
全然妥当じゃないよ
瀬戸内海のように島がわちゃわちゃあるところは渡海ではない
関門海峡は600メートルしかないし基本陸地のそばを行くことになるから、
渡海ではなく水行
帯方郡からの旅程には渡海が入っているのに水行10日は帯方郡からと言い出したり、
ここではあまり見かけないけれど、九州説は御笠川を遡上する水行を言い張ったり、
九州説は水行、渡海の解釈がめちゃくちゃww

209:日本@名無史さん
19/01/21 18:43:37.95 .net
>>177
>そうなんだよね。
>田油津姫の伝記は卑弥呼を思い起こすよね。
べつに?
ただの彦姫制だろ?

210:日本@名無史さん
19/01/21 18:49:22.90 .net
>>183
>王が不在になり、その後新たな王として卑弥呼が共立されたと見ればよい
つまらん妄想は時間の無駄。  @阿波

211:日本@名無史さん
19/01/21 18:52:30.73 .net
>>184
九州というくらいだから、九州説には最低でも九つ説がある。
標的が多くて大変だろうけど、混乱しないようしっかり論破してくれやwww www www。

212:日本@名無史さん
19/01/21 18:54:25.03 .net
>>173の補足
鎌倉幕府が滅んで、足利幕府が新たに開かれても、
鎌倉から京都室町に武家政権が西遷したとも遷都したとも言わないだろ?
まあ、朝廷がずっと京都にあるから、遷都という言い方がないというのもあって
直接は比べにくいが、同じ清和源氏の血筋の中での政権交代ではあるが、やはり
幕府(政権


213:)所在地が移動したとはみなされない



214:日本@名無史さん
19/01/21 18:56:41.57 .net
>>186
>つまらん妄想は時間の無駄。  @阿波
前に書いたのと同じコピペだなw
暇なら連続句読点のバカスレを埋めて来いって言ってるだろww
妄想だと思うなら、具体的な根拠を挙げて問題点を指摘しなよw
永島文書よりも後漢書の方が、しっかりした典拠だぞww

215:日本@名無史さん
19/01/21 19:08:06.15 .net
417の>>754
>ダメダメ。
3世紀後半の大和の前方後円墳から鉄器がどんどん出土する理由は、纏向政権が貴重財の独占頒布を行ったから。
博多に輸入される貴重財をなぜ大和で独占頒布できたのか。
理由は簡単だ。
纏向連合政権が博多を制圧して、輸入貴重財を独り占めしたから。
そして、その貴重財を加盟各国へ頒布した。<
ダメダメ。
大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国だ。

216:日本@名無史さん
19/01/21 19:09:56.30 .net
>>189
>妄想だと思うなら、具体的な根拠を挙げて問題点を指摘しなよw
問題点:それらに見合う、弥生時代後期集落遺跡がない。 つまらん妄想は時間の無駄。  @阿波
 

217:日本@名無史さん
19/01/21 19:15:50.29 .net
417の>>755
>首長が会盟して、死んだら前方後円墳を作るという合意をする
その合意の時に年かさだった首長から順に死んで前方後円墳を作る <
ダメダメ。墓の形態は、その部族に所属する証でありシンボルだ。
だから、「東征毛人五十五國」の将軍部族や武将らの死亡に拠って造られたモノだ。

218:日本@名無史さん
19/01/21 19:19:22.36 .net
417の>>757
>沼津の高尾山古墳は3世紀前半の纒向型(?)前方後方墳だよ
東海地方でも定型化前からかなり大きな古墳が作られている <
大和の纏向型なら、3世紀末だ。


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