♪邪馬台国ドンと来い ..
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428:日本@名無史さん
18/09/11 19:34:45.52 .net
>>427
>いちいちスペースを入れて分かち書きしないと文章が読めない言語があるらしい
それが、倭人伝であって 文節と改行と段落、これがテーマ。
誤読したいなら、段落無くして、文章がへボイとか誤写にスリャ良いだけだろwww
陳寿君は、ちゃんと書いてるみたいだぞ。
246の自己レスって? どこのことだ?
アタシはレスで書いたの、妖怪にw 趣味 アラシ釣りw
(*^_^;)_o/━━━>゚アラシ≫彡 ~ ~ ~
ん? >>413 ? 新読者 キタぁ〜〜〜?
自分で質問して、自分で答えるの?
それ、ちら裏 必要なくネ? 
単純に倭人伝と言う、古代漢文の、アタシの読み方を示して
みんなに見てもらって、間違ってる部分を 批判してもらってるんだけど?
夏休みの宿題、\(^o^)/オワタ ありがとねw
現状で、まあ、アタシが間違ってないと、247年邪馬台国終了なんだけどね orz
邪馬台国って 247年で、\(^o^)/オワタ の?

429:日本@名無史さん
18/09/11 20:06:51.66 .net
ヤマト国ってのは地名なんだから、終わったも終わらないもないだろうに

430:日本@名無史さん
18/09/11 20:43:57.11 .net
地名は動く。

431:日本@名無史さん
18/09/11 21:25:23.55 .net
>>429
邪馬台国と言う地名は、魏によって金印紫綬の為
女王所属の九州北部21国の地名を女王宮を初めて見た中国人
建中校尉梯儁 が漢字化した、人口7万戸の小国の、国名である。
陳寿は、卑弥呼が大倭国の女王では無かった事をちゃんと書いている。
終わった、は、妄想だった邪馬台国の国家主権、戦国武将である魏に対する
軍事協力の可能性が無いことによる 国交の無意味化と言うことである。

432:日本@名無史さん
18/09/11 21:42:17.01 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

433:日本@名無史さん
18/09/11 23:25:02.09 .net
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
大倭国の王都である邪馬台国は九州北部にあり、7万戸の大国であった。

434:日本@名無史さん
18/09/12 10:29:57.43 .net
>>431
>人口7万戸の小国の、国名である。
七万戸は大国だよ
東夷伝韓条でも大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶と書かれている
倭国の中の一国(一地域)で七万戸あれば、十分な大国だろう

435:日本@名無史さん
18/09/12 20:48:30.96 .net
>>434
倭人伝って、三国志の話なんだよ。 たった7万w の国だよ。 
まあ、2〜3婦なら、戸数で×10人の家族だろけど。 
弥生、最盛期の九州だよ。
247年の張政の檄告諭が船団だったら九州は今でも日本じゃないと思うね。
まあ、奴国が帯方郡にくみして、韓クーデターの半島平定したら
壱与が中国貴族で、九州が中国属国として、大和朝廷と対峙できたかもしれない。
いうなれば、九州は高句麗と一緒なんだよ。
アタシは247年以降の朝廷の中国外交は凄すぎだと思う。
縄文人ってのは、最古の海神だし、土人じゃないね。
むしろ、渡来人は強制連行された奴隷だろ?

436:日本@名無史さん
18/09/12 22:30:21.98 .net
>>433
誤 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
正 楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。

437:日本@名無史さん
18/09/13 01:40:34.95 .net
>>435
この人、日本語不自由すぎだろ

438:日本@名無史さん
18/09/13 07:00:08.98 .net
>>436
同じことだよ。
それどころか、その訳だと意味がぼけてしまう。

439:日本@名無史さん
18/09/13 07:56:22.87 .net
イミフ

440:日本@名無史さん
18/09/13 07:57:52.17 .net
>>438
同じじゃないよ
「倭国」は倭王を王と認める範囲全体
「倭国」まで萬二千里は、実測値ではなく概数ということになる
東京から北海道まで900キロというのと同じ
「ヤマト国」大倭王のいる場所の地名で意味が異なる
原文は
「其」大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去「其」國萬二千里
去「其」西北界拘邪韓國七千餘里
「その(其)」が3つ連続するが、指すものはすべて同じじゃないと意味が通らないが
1つ目と3つ目の「その(其)」は明確に「倭(国)」
2つ目だけ「ヤマト国」と読むのは誤読

441:日本@名無史さん
18/09/13 10:30:56.96 .net
国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。
東京から北海道までなら、普通は新宿都庁から札幌道庁までを示す。
適当に真ん中までなんてことはない。

442:日本@名無史さん
18/09/13 14:11:14.47 .net
そうだね古文は省略が多い。そこを適切に補って読む能力識見はとてもだいじだ。
其(倭国)大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去 其(倭)國(の大倭王居を)萬二千里

443:日本@名無史さん
18/09/13 17:42:49.80 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

444:日本@名無史さん
18/09/13 20:03:07.66 .net
つまり大倭王のいた邪馬台国は帯方郡から一万二千里の九州北部だね。

445:日本@名無史さん
18/09/14 00:13:50.98 .net
>>441
>国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。
決まってないよw そういう思い込みが九州説の支えw
国境まで7千里と書いても、国の大きさがあるのだから倭国までの距離が7千里とはならない
この「其国」は、魏志倭人伝の「女王国」に対応するもの
女王の都までとか邪馬台国までを萬二千里とした史書はない
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも 何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを 続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを 意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、 『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが 明らかになった時点で無理なんだよ


446:日本@名無史さん
18/09/14 00:25:36.22 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前には木骨泥墻が登場してすでに土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
3500年前の商周代よりも前の王朝から宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、すでに瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
日本には縄文弥生を通して、これら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

447:日本@名無史さん
18/09/14 01:20:09.44 .net
長々と詭弁を書き連ねるキナイコシ
典型的な詐欺

448:日本@名無史さん
18/09/14 01:23:36.84 .net
わざわざ国境まで七千里、女王のところまで一万二千里と書くことで、大国であることを示しているんだよ。
一万二千里が概算だと?
千里単位できちんと示しているのに。
文献を無視しないと畿内説は成り立たないもんな。
それでも畿内には届かないのだけれどね。

449:日本@名無史さん
18/09/14 07:29:34.53 .net
>>448
>一万二千里が概算だと?
概算じゃないよ
東方之極が萬二千里で、それの合わせて数字を置いてるだけ
地の果てからの朝貢という符牒にすぎず、実際の地理とは無関係
>千里単位できちんと示しているのに。
千里単位って時点で、ちゃんと計った数値じゃないんだよ
白髪三千丈の国で、千の単位はでかい数字を意味するって以上の意味はほぼない
>文献を無視しないと畿内説は成り立たないもんな。
九州説は短里を創造するなど、「解釈のふりをした捏造」の上に成り立っているw

450:日本@名無史さん
18/09/14 09:18:47.93 .net
朝鮮半島南岸まで七千里だと、対馬海峡が三千里で、一万二千里で九州北部だから、邪馬台国は九州北部だな。
そんなアクロバット的な解釈は必要ない。

451:日本@名無史さん
18/09/14 10:08:18.07 .net
>>450
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


452:日本@名無史さん
18/09/14 10:46:25.96 .net
>>450
>朝鮮半島南岸まで七千里だと、対馬海峡が三千里で、
これが明らかに、一万里に合わせた数字だろ?
机上の数字との比例関係を言っても無意味だよ
実際、伊都国ー奴国間と末蘆国ー伊都国間で、1里の長さが4倍異なる
魏志倭人伝の里と、現実の距離の間に比例関係などはないよ
短里は単なる捏造

453:日本@名無史さん
18/09/14 10:52:33.28 .net
>>452
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


454:日本@名無史さん
18/09/14 10:57:01.98 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

455:日本@名無史さん
18/09/14 11:39:46.66 .net
ゴールが北九州と認識したうえで割り振った比例関係だね

456:日本@名無史さん
18/09/14 11:45:31.92 .net
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
URLリンク(upload.wikimedia.org)
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2

457:日本@名無史さん
18/09/14 11:47:53.92 .net
>>45
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


458:日本@名無史さん
18/09/14 12:40:49.39 .net
>>456
このパズル厨も論破されたゴミをしつこく貼ってるな
こいつは三雲や博多の遺跡をどう考えてるんかな
遺跡のことなど考えたこともないんだろうけど

459:日本@名無史さん
18/09/14 13:59:00.61 .net
>>455
>ゴールが北九州と認識したうえで割り振った比例関係だね
ゴールを北部九州だと決め付けてしまっているのは、陳寿ではなく九州説の脳内妄想
陳寿は北部九州よりはるか南方を、倭国だと認識してるよ
計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてあるとおり

460:日本@名無史さん
18/09/14 14:00:36.53 .net
>>459
計算が合わないけどな

461:日本@名無史さん
18/09/14 14:01:24.14 .net
>>459
それはお前が現代の地図を見てるからだよ

462:日本@名無史さん
18/09/14 15:17:45.17 .net
>>461
現代の地図見なくとも陳コトブキは
計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてるのだが?

463:日本@名無史さん
18/09/14 15:19:30.83 .net
陳寿はそう思ってたということだね、だから何
実際もそうじゃないだろ

464:日本@名無史さん
18/09/14 17:10:31.43 .net
>>459
>計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてあるとおり
報告した人間は短里、報告を受けた人間は長里だったんだよ。
だから陳寿は、九州が実際よりも大きくずっと南だと思い込んでいた。

465:日本@名無史さん
18/09/14 17:11:49.58 .net
そもそも畿内はあり得ないし、魏志倭人伝に何ら根拠もない。
九州の中でどこであったかを議論すればよい。

466:日本@名無史さん
18/09/14 17:17:16.90 .net
>>465
>魏志倭人伝に何ら根拠もない。
邪馬台国も無いのかな?  なら、このスレも必要なし。

>九州の中でどこであったかを議論すればよい。
「其山有丹」で九州は即アウト!  @阿波


467:日本@名無史さん
18/09/14 18:05:05.99 .net
>>464
>報告した人間は短里
これが、とことん現実を無視した暴論なんだよ
当時、短里を使っていた人、短里を使う理由のある人が「どこにもいない」
公孫氏はもともと、後漢の漢人で漢尺の度量衡以外を使う理由がない
建忠校尉の梯儁も、塞曹掾史の張政も魏の役人で、魏尺の度量衡以外を知らない
短里がどこから湧いて出るんだ?
単に、三国志を書く時に、晋の高祖・司馬懿の功績(公孫氏を滅ぼしたから東夷が朝貢に来た)を
大仰にするために、遠くから来たと見せかけるために、旅程を長く盛った
それだけのことなんだよ
その盛った数字を現実の距離と換算すると、盛ってある分短くなって、それを短里だと言い張っている人がいるだけ
盛った数字だから、区間ごとにばらばらな値になる
実測地ではなく、机上で作った数字なのは明白
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
九州に上陸してからの二区間で、4倍違うw


468:日本@名無史さん
18/09/14 18:17:47.24 .net
>>467
九州上陸後、
誤った道里で計算したら、当然誤った結果になる。
正しい道里はこうだ。
末廬国(唐津)ー伊都国(佐賀川上)    37km/500里=74m/1里
伊都国(佐賀川上)ー奴国(佐賀市)   7.5km/100里=75m/1里


469:日本@名無史さん
18/09/14 18:22:09.55 .net
>>468
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


470:日本@名無史さん
18/09/14 18:35:22.84 .net
>>467
頭の中で屁理屈こね回しても無駄

471:日本@名無史さん
18/09/14 19:12:06.95 .net
>>468
正解

472:日本@名無史さん
18/09/14 19:31:49.57 .net
佐賀川上に伊都国はないと何度言えばw

473:日本@名無史さん
18/09/14 19:49:56.56 .net
>>472
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろうと何度言えばw  @阿波
 


474:日本@名無史さん
18/09/14 20:00:03.51 .net
>>472
佐賀川上の正しさは、里数が証明してるだろww

475:日本@名無史さん
18/09/14 20:03:35.51 .net
>>474
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


476:日本@名無史さん
18/09/14 20:06:17.46 .net
佐賀川上は卑弥呼ではなく壹與の都だと思うな。

477:日本@名無史さん
18/09/14 20:18:27.83 .net
佐賀川上は伊都国。
ただし、そこに台与が都していたか、そうでなかったかは知らぬ、、、

478:日本@名無史さん
18/09/14 20:22:53.80 .net
>>477
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろうと何度言えばw  @阿波


479:日本@名無史さん
18/09/14 20:25:22.73 .net
>>477
>佐賀川上は伊都国。
佐賀川上には伊都国に見合う弥生後期集落遺跡がないと何度言えばw  @阿波


480:日本@名無史さん
18/09/14 20:36:14.00 .net
>>479
伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。
掘っ立て小屋の集落遺跡なんぞより、はるかに重要なのは官衙の跡だ。

481:日本@名無史さん
18/09/14 20:43:04.38 .net
>>480
>伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。
佐賀川上には伊都国に見合う「官衙の跡」がないと何度言えばw  @阿波


482:日本@名無史さん
18/09/14 20:47:22.74 .net
>>481
佐賀川上のことなんぞ心配するより、泡の官衙跡地を探し出して示せ、、、

483:日本@名無史さん
18/09/14 20:52:53.29 .net
>>482
>佐賀川上のことなんぞ心配するより、泡の官衙跡地を探し出して示せ、、、
「泡」は伊都国じゃないからwww  @阿波


484:日本@名無史さん
18/09/14 21:04:22.86 .net
>>480
>伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。
佐賀川上には伊都国に見合う「官衙の跡」がないと何度言えばw  @阿波


485:日本@名無史さん
18/09/14 23:29:14.68 .net
>>477
淀姫神社が壹與の宮でしょう。

486:日本@名無史さん
18/09/15 07:58:48.84 .net
>更に男王立つも 國中不服、更 相誅殺當時殺千餘人
>復、卑弥呼宗女壹與年十三もって王と為し、國中遂定
二度目の倭国大乱を治めた宗女壹與(台与)は、
記紀を参考にすれば、那の津志賀島を根城にした海神族豊玉彦の娘の豊玉姫であろうか、、、
倭人伝に台与の都は書かれていないが、
筑紫那国と肥国の政略結婚であったとすれば、
豊玉姫(台与)と佐賀川上(伊都国)に何らかの接点があったのかもしれないねえ

487:日本@名無史さん
18/09/15 08:20:37.07 .net
>>486
>佐賀川上(伊都国)に何らかの接点があったのかもしれないねえ
佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


488:日本@名無史さん
18/09/15 08:59:24.22 .net
>>487
佐賀大和町の久池井にある肥前国庁は、8-10世紀のものであった。
その前の古い官衙は小城にあり、オギ国府と呼ばれてきた。
その「官衙の跡」は、佐賀川上にある。
整然とした小路に囲まれた区画は、南北およそ250m、東西は約125m、
久池井の肥前国庁の2倍の広さである。
その南北中心線は西に7度ほど傾いているが、これは後世に建てられた久池井の肥前国庁の中心線の傾きと同じである。
これが、末蘆国東南500里の、
伊都国時代の官衙の後を継いだオギ国府だったことは疑いない。

489:日本@名無史さん
18/09/15 10:03:31.30 .net
>>486
>倭人伝に台与の都は書かれていないが、
普通は卑弥呼の都のヤマト国にそのままいたと考えればいいんじゃないの?
卑弥呼の宗女なんだし

490:日本@名無史さん
18/09/15 10:06:03.84 .net
>>488
>伊都国時代の官衙の後を継いだオギ国府だったことは疑いない。
だったら、どうして伊都国なの?
「東南陸行五百里、到オギ国」って書かれてなきゃおかしくね?

491:日本@名無史さん
18/09/15 11:00:53.75 .net
>>488
>佐賀大和町の久池井にある肥前国庁は、8-10世紀のものであった。
>その前の古い官衙は小城にあり、オギ国府と呼ばれてきた。
>その「官衙の跡」は、佐賀川上にある。
夢を語るだけ。 一切根拠を示せず、夢想するだけ。  @阿波


492:日本@名無史さん
18/09/15 11:13:03.91 .net
>>490
>「東南陸行五百里、到オギ国」
オギというのは、もともと土塁石塁あるいは砦という意味だそうだ。
後世の人は其の塁の跡を見て、オギの国府というようになったらしい。
卑弥呼のころは、倭人伝の通り伊都国だったということだろう。

493:日本@名無史さん
18/09/15 11:22:43.04 .net
>>492
佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


494:日本@名無史さん
18/09/15 11:26:49.46 .net
>>491
>夢を語るだけ。 一切根拠を示せず、夢想するだけ。@阿波
夢だけでなく、決定的な根拠があるぞ。
末蘆国は、今の長崎県の松浦市や伊万里市辺りを本拠とし、
唐津もエリヤの一部だったとみるべきだが、
その唐津から東南500里(500里×74m=37q)といえば、佐賀川上はピッタシの場所になる。これが最大の根拠である。
それに比べ、糸島を伊都国と仮定してきた九州王朝説・畿内大和説、
或は、筑豊を伊都国に見立ててきた阿波説・・・、、
これらこそ、論理的根拠に欠けていたと言わざるを得ない。。

495:日本@名無史さん
18/09/15 11:39:45.56 .net
>>494
>末蘆国は、今の長崎県の松浦市や伊万里市辺りを本拠とし、
だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は半島へ帰る出航地なのよ。 入港の末盧国じゃないの!
最初っから間違い! やり直し!  @阿波


496:日本@名無史さん
18/09/15 11:42:54.14 .net
>>494
>その唐津から東南500里(500里×74m=37q)といえば、佐賀川上はピッタシの場所になる。これが最大の根拠である。
一切考古学的根拠を示せず、夢を語るだけ。
佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


497:日本@名無史さん
18/09/15 12:01:28.71 .net
>>496
だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地なのよ。
壱岐の島のくだりに書かれているように、
(島民は)南北に市櫂し・・・、だったというから、そこから南方向の入港好適地は唐津・末盧国で間違いない

498:日本@名無史さん
18/09/15 12:11:49.57 .net
>>497
>だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地なのよ。
だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地であって、
逆に、その潮に邪魔されて半島から帰りつけない所なのよ。  @阿波


499:日本@名無史さん
18/09/15 12:19:21.84 .net
>>498
なんか怪しげな言いぶりになってきたな。
鳴門の渦潮を見て育ってきた割には、地理地勢と潮を知らずにカキコしてるな。
「松浦市や伊万里市辺り(及び呼子)」は、帰り着くには、たしかに潮が悪すぎる。
その点、唐津は行きかえりともに好適。とくに帰りは最高なのだ。

500:日本@名無史さん
18/09/15 12:23:17.43 .net
>>499
>その点、唐津は行きかえりともに好適。とくに帰りは最高なのだ。
唐津は行きも帰りも不適。
唐津には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


501:日本@名無史さん
18/09/15 12:26:43.60 .net
>>499
唐津は福津・宗像の爪の垢でも煎じて飲んどきなはれ!  @阿波


502:日本@名無史さん
18/09/15 16:46:00.69 .net
>>492
>オギというのは、もともと土塁石塁あるいは砦という意味だそうだ。
>後世の人は其の塁の跡を見て、オギの国府というようになったらしい。
>卑弥呼のころは、倭人伝の通り伊都国だったということだろう。
なら、現在、その辺に「イト」の地名がないのはどうして?
地名は言葉の化石という言い方もあるくらい、地名というのは長く保持される
人が同じ場所で暮らしている限り、世代を超えて地名は保持され続ける
親子で、地名が違ってたら話が通じないからね
ヤマトタケルの滅ぼされた川上梟師が川上にいた、という話なら、川上の地名が
現代まで残っているから分からんでもないが、イトの切れ端もないのに
伊都国だと言い張っても意味がない

503:日本@名無史さん
18/09/15 17:09:29.02 .net
>>502
倭人伝に載っている国名30+1(狗奴国)のうち、
現代まで痕跡が残っていると思われる国はいくつかな?
対馬、壱岐、松浦、投馬(都万)、那の津の奴、サービスして邪馬嘉国の山鹿、
せいぜいこんなところだ。
消え去ったのは佐賀伊都国だけではない。25〜26は跡形もないのだ。
そのような状況の中で、
方角里数をクリヤーして、苦心の上たどり着いた有力候補の一つが佐賀川上というわけだ。

504:日本@名無史さん
18/09/15 17:14:49.39 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

505:日本@名無史さん
18/09/15 17:52:31.61 .net
>>503
>対馬、壱岐、松浦、投馬(都万)、那の津の奴、サービスして邪馬嘉国の山鹿、
>せいぜいこんなところだ。
邪馬嘉国ってなんだよww
それはさておき
對馬國  対馬
一大國  壱岐
末廬國  松浦(川)
伊都國  糸島(怡土)
奴國   那珂川 那の津
不彌國  ?宇美
投馬國  出雲 idumo ⇒ 投馬の上古音はdug-mag
邪馬臺國 大和国
と、不彌国以外は全部残ってるんだけれど?
余傍国は細かいことが分からないから、難しいけれど
斯馬國  志摩
已百支國 伊吹(五百城)
伊邪國  伊賀
都支國  土岐(多気?)
彌奴國  美濃
くらいまでは追える
地名は相当残るものだよ


506:日本@名無史さん
18/09/15 18:21:22.90 .net
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
URLリンク(i.imgur.com)

507:日本@名無史さん
18/09/15 18:33:03.56 .net
>>505
>伊都國  糸島(怡土)
まず、糸島(怡土)は方角と里数の面で論外。
それに糸島は、元はイソといっていたのを、仲哀天皇の御代にイソシと改名され、
その後に訛ってイトというようになったと、その来歴ははっきりしている。
イソをイトコクというのは言い過ぎだな。


508:日本@名無史さん
18/09/15 18:39:56.51 .net
>>507
>まず、糸島(怡土)は方角と里数の面で論外。
魏志倭人伝の、方角と里数が絶対に正しいと思っている時点で論外

509:日本@名無史さん
18/09/15 18:48:15.63 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

510:日本@名無史さん
18/09/15 19:01:37.41 .net
>>507
>それに糸島は、元はイソといっていたのを、仲哀天皇の御代にイソシと改名され、
>その後に訛ってイトというようになったと、その来歴ははっきりしている。
絶対とは言わないが、地名説話は「まず地名ありき」で、そこにこじつけの来歴が後付されているだけのものだぞ
「「訛ってイトというようになった」ということは、「もともとの地名がイトだった」ってこと

511:日本@名無史さん
18/09/15 19:11:16.11 .net
記紀における神功皇后の在位は201-269年で、卑弥呼と台与の推定在位とほぼ重なっている。
しかしご承知の通り、神功皇后(および仲哀天皇ら)については120年繰り上げたのではないかと言われている。
ここに何かしらの作為を感じる。
仲哀天皇のイソトテ(イトテ)逸話に関しても同じ。
やはり、記紀編纂時における朝廷の自作自演だったのではないか。、

512:日本@名無史さん
18/09/15 19:12:29.80 .net
実在しないと書いてあるだろう、病気か何かなのか?

513:日本@名無史さん
18/09/15 19:32:11.00 .net
>>507
神功皇后の地名の由来はわざわざ魏志倭人伝を上書きするために挿入されたんだよ。

514:日本@名無史さん
18/09/15 19:42:26.63 .net
>>511
>神功皇后(および仲哀天皇ら)については120年繰り上げたのではないかと言われている。
>ここに何かしらの作為を感じる。
120年強引に繰り上げてるのは、実際の卑弥呼が非常に都合の悪い人物だったからです。
卑弥呼に問題があったのではない、彼女の100年前の人物・倭国王帥升に問題があったのです。
朝貢年
266年 台与        トヨ津
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ(踏鞴五十鈴)
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ
日本の歴史が後漢皇帝・安帝への7土下座から始まってしまいます。
だから時代を大きくずらした。
また神武東征紀が大げさに誇張創作されてることは誰の目にも明らか。
なぜか。
神武の時代が女王国の時代であったからです。
だから神武東征紀で猛々しい男王国を演出したのです。


515:日本@名無史さん
18/09/15 20:00:02.05 .net
朝貢年
266年 台与        トヨ津
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ(踏鞴五十鈴)
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ
この人たちが住んだ場所はわかります。
高天原です。
そして魏志倭人伝の記述通り、径百余歩の塚があり、
周囲に奴婢が埋葬されてます。
URLリンク(goo.gl)
埋葬された奴婢とは土蜘蛛です。


516:日本@名無史さん
18/09/15 21:00:59.11 .net
吉野ヶ里遺跡を
自らの手で葬り去ったのが
九州説

517:日本@名無史さん
18/09/15 22:30:37.36 .net
なぜか8世紀までしか歴史を遡れないのは、九州ではよくあること。
なぜだろうねえ。

518:日本@名無史さん
18/09/15 22:41:11.39 .net
また転写保存
>>543
>いや、無知キウスが桜井茶臼山古墳で正始元年鏡が見つかってることを知らずに赤恥かいて
誤魔化そうとインターネットの公式ホームページを調べるとか変なこと言い出して
さらに恥かいただけだ<
こりゃ×だよ。
「是」の文字の一致だけで、△であるのか?も判らず、
神獣鏡であるのか?も判らずでは、
偶然の一致程度だ、という位のレベルだから。

519:日本@名無史さん
18/09/15 22:44:27.30 .net
三次元計測データの精度をバカにする無知なザラコク

520:日本@名無史さん
18/09/15 22:48:50.56 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

521:日本@名無史さん
18/09/16 07:52:47.28 .net
>>517
>なぜか8世紀までしか歴史を遡れないのは、九州ではよくあること。
>なぜだろうねえ。
畿内の大和朝廷の指示で8世紀に風土記をまとめたからだろ?
それまで自らの歴史をまとめようとしなかった田舎ってことだ

522:日本@名無史さん
18/09/17 06:10:05.37 .net
>>517
>なぜか8世紀までしか歴史を遡れないのは、九州ではよくあること。
>なぜだろうねえ。
なぜだろうって後のヤマト王権大和朝廷が倭国の歴史を乗っ取り成りすまして消そうとしたからでしょ
文書だけじゃなく熊襲征伐だの景行行幸だの九州相手に大変だった訳でしょ
風土記や延喜式の成立だって誰が編纂したの
逆に言えば8世紀以前に歴史が遡れないってのは史書に出てくる倭国だった事にもなりかねないんじゃない

523:日本@名無史さん
18/09/17 07:00:05.17 .net
中央集権体制の走狗たる景行・仲哀・神功が九州で活躍する記紀を編纂し、
原資料であった風土記の改ざんを強制し、その他史料は焚書した大和朝廷のせいだ

524:日本@名無史さん
18/09/17 07:13:02.16 .net
それでも、皇祖の由縁だけは破棄できず、
僅かに高千穂における天上神話の形で、美化して書き残したってわけだ。
高千穂神話は(九州)倭国を再構築するための重要な手がかりなのさ。

525:日本@名無史さん
18/09/17 08:27:24.29 .net
景行天皇から神功皇后までは
筑紫の神話だろうね。

526:日本@名無史さん
18/09/17 08:42:29.04 .net
大和朝廷は、記紀の編纂に先立って各国に風土記の草稿提出を求め、
それをベースに万系一世の記紀を作り上げ、
さらに、
これに合致するよう、風土記を書き直させて完成させたのだそうだ。
注意深く読めば、景行〜神功記、及び各国風土記には筑紫倭国の原型が残されていると思う。

527:日本@名無史さん
18/09/17 09:07:14.40 .net
>>526
「のだそうだ」って、誰が言った?

528:日本@名無史さん
18/09/17 09:14:38.35 .net
>>525
>景行天皇から神功皇后までは
>筑紫の神話だろうね。
景行天皇はすでに人代なので、神話ではないけどね。
九州の倭王の一人なんだろう。

529:日本@名無史さん
18/09/17 09:16:19.64 .net
【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

530:日本@名無史さん
18/09/17 10:19:13.30 .net
>>527
ある国の風土記の編纂経過を細かく調べた専門家の解説による
(オレは古代の専門家でもなんでもない一般市民なので、それを聞いてなるほどと納得したわけ)

531:日本@名無史さん
18/09/17 10:42:26.03 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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