♪邪馬台国ドンと来い!♪140 at HISTORY
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400:日本@名無史さん
18/09/05 20:38:47.85 .net
>>389
>神武と卑弥呼がほぼ同年代と考えると解決してしまう。
系図研究の第一人者は、神武は崇神の五世代前くらい、としているよ
つまり、欠史八代の間には何回か兄弟相続(場合によっては従兄弟相続)が
あったことになる
崇神が卑弥呼と同時代というのは、認めてもいいだろう
つまり、神武は卑弥呼の五世代前くらい

401:日本@名無史さん
18/09/05 20:41:26.61 .net
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
​平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。


402:日本@名無史さん
18/09/05 20:51:00.96 .net
>>390
>そんな大きな国があったという証拠はない。
証拠がないも何も、魏晋里しか知らない陳寿さんが周旋五千里と書いているんだから、
陳寿さんの認識では、約二千キロの連なりを持つ洲島の国が倭国なんだよ
人口も、奴国と投馬国と邪馬台国だけで、十四万余戸もあるんだから大国だろう
三国志で倭国とともに金印、親魏大月氏王とされた、大月氏国の戸数は
三国志にはないが、後漢書で「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。」と書かれている
それと比べても、戸数十四万余戸以上の倭国は、大国と認識していいだろ

403:日本@名無史さん
18/09/05 20:51:54.53 .net
>>401
そのコピペは却下
取っている区間が独立ではないから、統計としてほぼ意味を持たない

404:日本@名無史さん
18/09/06 01:09:14.48 .net
今夜も違法駐車
多摩 503
は 42-12

405:日本@名無史さん
18/09/06 09:12:10.35 .net
>>395
中国人の倭人の認識が、人非人である 
と言うのはある意味その通り。
東夷伝序文
其後 高句麗背叛 又遣偏師 致討窮追 極遠踰 烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭
東臨大海 長老說有異面之人 近日之所出
東臨大海 つまり、大陸の東にある倭=倭人伝のいう九州島の東の倭種の国
は、長老說有異面之人 の住むところ、未知の国、謎の国 なのである。 
倭人伝冒頭の 倭人在 帶方東南 大海之中 
は、この倭国全体
今使譯 所通三十國 從郡至倭 
で、説明した行程は、朝鮮半島の南の九州島にある倭人国である。
循海岸水行歴韓国 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 又南渡一海千餘里 至一大國 又渡一海千餘里 至末盧國
で、九州上陸まで 一万里
女王の付属国は21国で 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
で、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
これで、里程に疑義が生じるとか、ちゃんと読む気が無いだけ、では?

406:日本@名無史さん
18/09/06 09:34:33.57 .net
「帶方東南大海之中依山島為國邑」
「?在海中洲島之上」
これらが指しているのは別のもの

407:日本@名無史さん
18/09/06 09:53:11.62 .net
<佐賀郡椅寺>(いでら、椅は漢音・呉音ともにイ)
先に述べたように、
佐賀川上の五社大明神を中心とする一区画(約250m×125m)に、大願寺廃寺跡という遺跡がある。
この寺跡からは、665年築城の佐賀/福岡・基肄城と同はんの百済系瓦が出土していることから、
建設には亡命百済人集団が関与していたようである。
またその規模及び地理的関係等から見て、
倭人伝に云う、「末蘆国、東南陸行五百里、到伊都国」の官衙跡地に相当すると考えられる。
しかし付近一帯の現地名は大願寺、小隈、山田、川上などであり、伊都を伺わせるものは見つかっていなかった。
ところがその後、「大願寺」に関して調べるうち、
千葉県で出土した梵鐘(現・歴博所管)に「佐賀郡椅寺」(イ寺)とあり、
佐賀県や佐賀市では、これがこの大願寺の古名ではないかと推定しているらしい。
で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させるものではある・・・、

408:日本@名無史さん
18/09/06 11:50:01.67 .net
>>407
>で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させるものではある・・・、
式内社 阿波國美馬郡 「天椅立神社」
ちなみに全国で、そのものずばり「天椅立」神社という名の式内社は、ここだけである。
「日本一社 式内社 阿波國美馬郡 天椅立神社」の御祭神は、伊邪那岐命 伊邪那美命 である。  @阿波


409:日本@名無史さん
18/09/06 12:48:28.56 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

410:日本@名無史さん
18/09/06 12:51:13.86 .net
【邪馬台国 行程に齟齬が生じる原因】
>>2 >>3 の間の段落を読み取っていないからである。
|∩`Д´) / '⌒☆ ぼぉ〜っと、生きてんじゃネェ〜よ
>>2 は 247年 塞曹掾史 張政 の行程
張政は 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 によって
245年の 黄幢 檄 の告喩の為に倭人船に便乗で査察に来た。
狗邪韓國、對海國、一大國、末盧國、伊都國、奴国、不彌國
これらは倭人船寄港地等の地名であり、その間を里程で示している。
副官卑奴母離は倭人船にも同乗しており、雇った案内人である。
奴国は 奴国大夫 難升米の領地 
不彌國は帰国船の出港地の可能性が高い。
張政の旅、役目はこれで終る。女王の墓は見たが、王宮には行っていない。
郡から一万五百里、最大プラス100里である。
巳百支國大夫 伊聲耆掖邪拘 の船で帰国。 送政等還因詣臺
>>3 は 240年 建中校尉 梯儁 の行程
梯儁は 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 の為、皇帝の命で魏の軍船で来た。
寄港地等決まっていない幕営行軍であり、地名里程は無く行軍日程を記した。
水行二十日投馬國 水行十日陸行一月で邪馬壹國 女王之所都 である。
投馬國、邪馬壹國 は 国名である。
印綬の女王国の範囲は、列記21国で全てであり、其南有 狗奴國 不屬女王 
女王の王宮まで訪れており、自郡至女王國 萬二千餘里 である。
この21国の国名を、女王宮を見た梯儁が、漢字名の邪馬壹國と名付けた。
この国が、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 である。

411:日本@名無史さん
18/09/06 14:23:31.37 .net
空想で作文乙

412:日本@名無史さん
18/09/06 18:58:58.41 .net
>>411
感想文、乙。 読者一名 orz 
過疎スレ、チラ裏に、ご意見、ご批判、ありがとうございます。
倭人伝が陳寿の空想って事? じゃ、ないよね?

413:日本@名無史さん
18/09/06 22:34:50.36 .net
>>412
それじゃ張政は、
邪馬台国にいってないのかい?

414:日本@名無史さん
18/09/06 22:36:20.91 .net
張政は卑弥呼の墓域=平原遺跡1号+2号を囲む共通周濠で囲まれた墓域
を巡ってるぞい

415:日本@名無史さん
18/09/07 08:44:40.27 .net
【福岡】浮かぶ、筑後平野の先進性 邪馬台国「卑弥呼の鏡」説 三角縁神獣鏡発見で注目 朝倉・平塚川添遺跡
スレリンク(newsplus板)

416:日本@名無史さん
18/09/07 09:02:17.91 .net
張政の行程
『末羅港』に上陸、倭人船なので詣中國の際には持衰を置く。
出港にも潮待ちがあるから、これを見ることのできる場所。
芥屋浜、芥屋大門が潮見所とし、帰国時には祭祀がある。
『伊都』南東5百里。 今宿から福岡平野西麓に山城を築く。
糸島は王墓の聖地。張政は、これを通過し、卑弥呼の墓を見ている。
張政は伊都の一大率に駐留させられている。
今宿付近に検閲の港が有るのに、500里を歩かされている。
一大率は張政を歓迎していない。壹與は13歳、後見の居る傀儡王である。
南国境にあった奴婢千人の卑弥呼の砦は、紛争で落城しているのではないか。
21国も分裂の可能性は高いが、卑弥呼の墓はでかいので勝ち組についているのだろう。
伊都にて 政等以檄告喩壹與 奴国で 難升米 為檄告喩
これで、張政の用件は終わり、査察報告として >>6
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
である。
倭人伝結語 壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
に、皇帝のお土産は無い。 むしろ、国交自体が終わっている。
掖邪拘等二十人は、亡命して、263年、陳寿の仕えた蜀を滅ぼす三国志の将軍にw
あるいは、四郡に帰り後の新羅王になったのかもしれない。←空想で作文ならコレ!
魏も戦国武将だが、邪馬台国の不安定ぶりも同様である。 安定王権とは言えない。

417:日本@名無史さん
18/09/07 09:10:52.28 .net
誇大妄想狂

418:日本@名無史さん
18/09/07 12:38:25.36 .net
>>6 【一大率について】 |∩`Д´) / '⌒☆ 
使 大倭監之 自女王國以北 特置一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
・(使) は 女王時代に伊都の一大率を見た 使譯 張政 以外にはない。
・(大倭) 中華思想に小日本は有っても 大倭 の表現は変。 
 女王国が九州の小国だったこと、に対して東の倭種の国を含む 大倭 を想定したもの。
・(自女王国以北) 以北は女王国全体そのものなので、
 これは、以南には、一大卒が無いということ 南部は平定以前、を言っている。
・(諸國畏憚之) 諸国は女王属国21国を意味する。
・(於國中有如刺史) 刺史は地方領主の上位にある中央官僚、軍事権を持つ将軍である。
 一大卒は、唯一最高権力 の 進駐軍司令官 を意味する。 後の国造だろう。
 この時、邪馬台国は、既に後の大和朝廷の支配下に入っている。
・(刺史) 陳寿の出身蜀漢の劉備も 荊州刺史の系譜 豫州刺史から皇帝位に着いた。
 313年楽浪帯方を追った高句麗は350年代に征東大将軍 営州刺史 楽浪公に就く。
 倭人伝解釈では 地域王の上位である 刺史 を 恣意的に過少評価 するものが多い。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書 賜遺之物詣女王 不得差錯
・(王) これは遣使の実績として 卑弥呼 である。
・(郡使倭國) 2回しかないが、皇帝の使者梯儁の賜遺之物を検閲したら戦争になる。
・(皆臨津捜露傳送文書 賜遺之物詣女王) 検閲される女王には既に国王としての実権が無い。
247年 張政のこの査察報告に拠って、魏と邪馬台国の国交は終わっている。
朝廷は最初から百済のような傀儡立国によって、中国外交をさせることもあるが
九州と畿内に関しては、考古学でこれ以降関係が濃厚になるのでこの間に平定したかと。 
卑弥呼の墓は大きいなら抵抗交戦したというより軍門に下ったと見る。

419:日本@名無史さん
18/09/07 12:50:07.26 .net
百済の『松傾』と同じような名字の家があるでしょ、
実際は系統が違うのですか?と言ってる人いたんだけど
違うのかな?

420:日本@名無史さん
18/09/07 16:26:02.85 .net
>>419
読者一名。orz ↑ 妖怪? わかんないけど・・・ ありがとねwww

421:日本@名無史さん
18/09/07 21:25:05.79 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

422:氷の女王
18/09/09 19:26:15.08 .net
反論募集中なんだけど・・・
言いたいだけ、の アラシ は呼ぶ。
何を言ってるか判らないと思うけど
これだけ吠えても
質問に回答? 
無いかな?
チラ裏の先生のみんな? 
阿波師匠や土器厨師匠じゃないよ?
別スレで ネw
で、っていう 
よ。

423:日本@名無史さん
18/09/09 19:29:13.90 .net
どこの基地外なんだ、頭の病院に行け
邪馬台国だか何だか知らないけど(邪馬台国ではない?)、
家の話だと言っているんだよ、妹がいれば女王、姫になるでしょ

424:日本@名無史さん
18/09/09 19:34:46.28 .net
うわぁ〜〜
土器厨、妖怪だったんかい?
読者、重複で一人減ったw
orz

425:日本@名無史さん
18/09/09 19:55:03.86 .net
妖怪 にはむかつくから どんどん!
本当の歴史の話をしちゃうよ。
中共と誇大韓 どっち にする?
中狂なら、三国志で チベット、ウイグル、満州、台湾、朝鮮、
が、モンゴル帝国以前に、領土であるわけが無いという歴史?
韓は古代韓の話は東夷伝があるんであって、ホントの事知ってるよね?
これって、倭人伝の 読み方 だけなのかな? 
既存の倭人伝和訳の どこが嘘か質問ある?

426:日本@名無史さん
18/09/09 20:25:11.86 .net
自己レスwww
中国が歴史を誇るとか 歴史を受け入れるというのは嘘。
韓国は歴史に このスレというか 邪馬台国時代 とかでは?
だと、参加自体、していないのではないかな?
漁労程度の舟でもなきゃ、難民が生き残れなそうな、未開だろ?

427:日本@名無史さん
18/09/10 18:46:42.66 .net
日本語でおk
漢字を捨ててしまったために、いちいちスペースを入れて分かち書きしないと
文章が読めない言語があるらしいけれど

428:日本@名無史さん
18/09/11 19:34:45.52 .net
>>427
>いちいちスペースを入れて分かち書きしないと文章が読めない言語があるらしい
それが、倭人伝であって 文節と改行と段落、これがテーマ。
誤読したいなら、段落無くして、文章がへボイとか誤写にスリャ良いだけだろwww
陳寿君は、ちゃんと書いてるみたいだぞ。
246の自己レスって? どこのことだ?
アタシはレスで書いたの、妖怪にw 趣味 アラシ釣りw
(*^_^;)_o/━━━>゚アラシ≫彡 ~ ~ ~
ん? >>413 ? 新読者 キタぁ〜〜〜?
自分で質問して、自分で答えるの?
それ、ちら裏 必要なくネ? 
単純に倭人伝と言う、古代漢文の、アタシの読み方を示して
みんなに見てもらって、間違ってる部分を 批判してもらってるんだけど?
夏休みの宿題、\(^o^)/オワタ ありがとねw
現状で、まあ、アタシが間違ってないと、247年邪馬台国終了なんだけどね orz
邪馬台国って 247年で、\(^o^)/オワタ の?

429:日本@名無史さん
18/09/11 20:06:51.66 .net
ヤマト国ってのは地名なんだから、終わったも終わらないもないだろうに

430:日本@名無史さん
18/09/11 20:43:57.11 .net
地名は動く。

431:日本@名無史さん
18/09/11 21:25:23.55 .net
>>429
邪馬台国と言う地名は、魏によって金印紫綬の為
女王所属の九州北部21国の地名を女王宮を初めて見た中国人
建中校尉梯儁 が漢字化した、人口7万戸の小国の、国名である。
陳寿は、卑弥呼が大倭国の女王では無かった事をちゃんと書いている。
終わった、は、妄想だった邪馬台国の国家主権、戦国武将である魏に対する
軍事協力の可能性が無いことによる 国交の無意味化と言うことである。

432:日本@名無史さん
18/09/11 21:42:17.01 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

433:日本@名無史さん
18/09/11 23:25:02.09 .net
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
大倭国の王都である邪馬台国は九州北部にあり、7万戸の大国であった。

434:日本@名無史さん
18/09/12 10:29:57.43 .net
>>431
>人口7万戸の小国の、国名である。
七万戸は大国だよ
東夷伝韓条でも大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶と書かれている
倭国の中の一国(一地域)で七万戸あれば、十分な大国だろう

435:日本@名無史さん
18/09/12 20:48:30.96 .net
>>434
倭人伝って、三国志の話なんだよ。 たった7万w の国だよ。 
まあ、2〜3婦なら、戸数で×10人の家族だろけど。 
弥生、最盛期の九州だよ。
247年の張政の檄告諭が船団だったら九州は今でも日本じゃないと思うね。
まあ、奴国が帯方郡にくみして、韓クーデターの半島平定したら
壱与が中国貴族で、九州が中国属国として、大和朝廷と対峙できたかもしれない。
いうなれば、九州は高句麗と一緒なんだよ。
アタシは247年以降の朝廷の中国外交は凄すぎだと思う。
縄文人ってのは、最古の海神だし、土人じゃないね。
むしろ、渡来人は強制連行された奴隷だろ?

436:日本@名無史さん
18/09/12 22:30:21.98 .net
>>433
誤 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
正 楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。

437:日本@名無史さん
18/09/13 01:40:34.95 .net
>>435
この人、日本語不自由すぎだろ

438:日本@名無史さん
18/09/13 07:00:08.98 .net
>>436
同じことだよ。
それどころか、その訳だと意味がぼけてしまう。

439:日本@名無史さん
18/09/13 07:56:22.87 .net
イミフ

440:日本@名無史さん
18/09/13 07:57:52.17 .net
>>438
同じじゃないよ
「倭国」は倭王を王と認める範囲全体
「倭国」まで萬二千里は、実測値ではなく概数ということになる
東京から北海道まで900キロというのと同じ
「ヤマト国」大倭王のいる場所の地名で意味が異なる
原文は
「其」大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去「其」國萬二千里
去「其」西北界拘邪韓國七千餘里
「その(其)」が3つ連続するが、指すものはすべて同じじゃないと意味が通らないが
1つ目と3つ目の「その(其)」は明確に「倭(国)」
2つ目だけ「ヤマト国」と読むのは誤読

441:日本@名無史さん
18/09/13 10:30:56.96 .net
国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。
東京から北海道までなら、普通は新宿都庁から札幌道庁までを示す。
適当に真ん中までなんてことはない。

442:日本@名無史さん
18/09/13 14:11:14.47 .net
そうだね古文は省略が多い。そこを適切に補って読む能力識見はとてもだいじだ。
其(倭国)大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去 其(倭)國(の大倭王居を)萬二千里

443:日本@名無史さん
18/09/13 17:42:49.80 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

444:日本@名無史さん
18/09/13 20:03:07.66 .net
つまり大倭王のいた邪馬台国は帯方郡から一万二千里の九州北部だね。

445:日本@名無史さん
18/09/14 00:13:50.98 .net
>>441
>国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。
決まってないよw そういう思い込みが九州説の支えw
国境まで7千里と書いても、国の大きさがあるのだから倭国までの距離が7千里とはならない
この「其国」は、魏志倭人伝の「女王国」に対応するもの
女王の都までとか邪馬台国までを萬二千里とした史書はない
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも 何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを 続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを 意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、 『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが 明らかになった時点で無理なんだよ


446:日本@名無史さん
18/09/14 00:25:36.22 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前には木骨泥墻が登場してすでに土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
3500年前の商周代よりも前の王朝から宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、すでに瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
日本には縄文弥生を通して、これら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

447:日本@名無史さん
18/09/14 01:20:09.44 .net
長々と詭弁を書き連ねるキナイコシ
典型的な詐欺

448:日本@名無史さん
18/09/14 01:23:36.84 .net
わざわざ国境まで七千里、女王のところまで一万二千里と書くことで、大国であることを示しているんだよ。
一万二千里が概算だと?
千里単位できちんと示しているのに。
文献を無視しないと畿内説は成り立たないもんな。
それでも畿内には届かないのだけれどね。

449:日本@名無史さん
18/09/14 07:29:34.53 .net
>>448
>一万二千里が概算だと?
概算じゃないよ
東方之極が萬二千里で、それの合わせて数字を置いてるだけ
地の果てからの朝貢という符牒にすぎず、実際の地理とは無関係
>千里単位できちんと示しているのに。
千里単位って時点で、ちゃんと計った数値じゃないんだよ
白髪三千丈の国で、千の単位はでかい数字を意味するって以上の意味はほぼない
>文献を無視しないと畿内説は成り立たないもんな。
九州説は短里を創造するなど、「解釈のふりをした捏造」の上に成り立っているw

450:日本@名無史さん
18/09/14 09:18:47.93 .net
朝鮮半島南岸まで七千里だと、対馬海峡が三千里で、一万二千里で九州北部だから、邪馬台国は九州北部だな。
そんなアクロバット的な解釈は必要ない。

451:日本@名無史さん
18/09/14 10:08:18.07 .net
>>450
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


452:日本@名無史さん
18/09/14 10:46:25.96 .net
>>450
>朝鮮半島南岸まで七千里だと、対馬海峡が三千里で、
これが明らかに、一万里に合わせた数字だろ?
机上の数字との比例関係を言っても無意味だよ
実際、伊都国ー奴国間と末蘆国ー伊都国間で、1里の長さが4倍異なる
魏志倭人伝の里と、現実の距離の間に比例関係などはないよ
短里は単なる捏造

453:日本@名無史さん
18/09/14 10:52:33.28 .net
>>452
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


454:日本@名無史さん
18/09/14 10:57:01.98 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

455:日本@名無史さん
18/09/14 11:39:46.66 .net
ゴールが北九州と認識したうえで割り振った比例関係だね

456:日本@名無史さん
18/09/14 11:45:31.92 .net
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
URLリンク(upload.wikimedia.org)
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2

457:日本@名無史さん
18/09/14 11:47:53.92 .net
>>45
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


458:日本@名無史さん
18/09/14 12:40:49.39 .net
>>456
このパズル厨も論破されたゴミをしつこく貼ってるな
こいつは三雲や博多の遺跡をどう考えてるんかな
遺跡のことなど考えたこともないんだろうけど

459:日本@名無史さん
18/09/14 13:59:00.61 .net
>>455
>ゴールが北九州と認識したうえで割り振った比例関係だね
ゴールを北部九州だと決め付けてしまっているのは、陳寿ではなく九州説の脳内妄想
陳寿は北部九州よりはるか南方を、倭国だと認識してるよ
計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてあるとおり

460:日本@名無史さん
18/09/14 14:00:36.53 .net
>>459
計算が合わないけどな

461:日本@名無史さん
18/09/14 14:01:24.14 .net
>>459
それはお前が現代の地図を見てるからだよ

462:日本@名無史さん
18/09/14 15:17:45.17 .net
>>461
現代の地図見なくとも陳コトブキは
計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてるのだが?

463:日本@名無史さん
18/09/14 15:19:30.83 .net
陳寿はそう思ってたということだね、だから何
実際もそうじゃないだろ

464:日本@名無史さん
18/09/14 17:10:31.43 .net
>>459
>計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてあるとおり
報告した人間は短里、報告を受けた人間は長里だったんだよ。
だから陳寿は、九州が実際よりも大きくずっと南だと思い込んでいた。

465:日本@名無史さん
18/09/14 17:11:49.58 .net
そもそも畿内はあり得ないし、魏志倭人伝に何ら根拠もない。
九州の中でどこであったかを議論すればよい。

466:日本@名無史さん
18/09/14 17:17:16.90 .net
>>465
>魏志倭人伝に何ら根拠もない。
邪馬台国も無いのかな?  なら、このスレも必要なし。

>九州の中でどこであったかを議論すればよい。
「其山有丹」で九州は即アウト!  @阿波


467:日本@名無史さん
18/09/14 18:05:05.99 .net
>>464
>報告した人間は短里
これが、とことん現実を無視した暴論なんだよ
当時、短里を使っていた人、短里を使う理由のある人が「どこにもいない」
公孫氏はもともと、後漢の漢人で漢尺の度量衡以外を使う理由がない
建忠校尉の梯儁も、塞曹掾史の張政も魏の役人で、魏尺の度量衡以外を知らない
短里がどこから湧いて出るんだ?
単に、三国志を書く時に、晋の高祖・司馬懿の功績(公孫氏を滅ぼしたから東夷が朝貢に来た)を
大仰にするために、遠くから来たと見せかけるために、旅程を長く盛った
それだけのことなんだよ
その盛った数字を現実の距離と換算すると、盛ってある分短くなって、それを短里だと言い張っている人がいるだけ
盛った数字だから、区間ごとにばらばらな値になる
実測地ではなく、机上で作った数字なのは明白
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
九州に上陸してからの二区間で、4倍違うw


468:日本@名無史さん
18/09/14 18:17:47.24 .net
>>467
九州上陸後、
誤った道里で計算したら、当然誤った結果になる。
正しい道里はこうだ。
末廬国(唐津)ー伊都国(佐賀川上)    37km/500里=74m/1里
伊都国(佐賀川上)ー奴国(佐賀市)   7.5km/100里=75m/1里


469:日本@名無史さん
18/09/14 18:22:09.55 .net
>>468
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


470:日本@名無史さん
18/09/14 18:35:22.84 .net
>>467
頭の中で屁理屈こね回しても無駄

471:日本@名無史さん
18/09/14 19:12:06.95 .net
>>468
正解

472:日本@名無史さん
18/09/14 19:31:49.57 .net
佐賀川上に伊都国はないと何度言えばw

473:日本@名無史さん
18/09/14 19:49:56.56 .net
>>472
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろうと何度言えばw  @阿波
 


474:日本@名無史さん
18/09/14 20:00:03.51 .net
>>472
佐賀川上の正しさは、里数が証明してるだろww

475:日本@名無史さん
18/09/14 20:03:35.51 .net
>>474
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波


476:日本@名無史さん
18/09/14 20:06:17.46 .net
佐賀川上は卑弥呼ではなく壹與の都だと思うな。

477:日本@名無史さん
18/09/14 20:18:27.83 .net
佐賀川上は伊都国。
ただし、そこに台与が都していたか、そうでなかったかは知らぬ、、、

478:日本@名無史さん
18/09/14 20:22:53.80 .net
>>477
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろうと何度言えばw  @阿波


479:日本@名無史さん
18/09/14 20:25:22.73 .net
>>477
>佐賀川上は伊都国。
佐賀川上には伊都国に見合う弥生後期集落遺跡がないと何度言えばw  @阿波


480:日本@名無史さん
18/09/14 20:36:14.00 .net
>>479
伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。
掘っ立て小屋の集落遺跡なんぞより、はるかに重要なのは官衙の跡だ。

481:日本@名無史さん
18/09/14 20:43:04.38 .net
>>480
>伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。
佐賀川上には伊都国に見合う「官衙の跡」がないと何度言えばw  @阿波


482:日本@名無史さん
18/09/14 20:47:22.74 .net
>>481
佐賀川上のことなんぞ心配するより、泡の官衙跡地を探し出して示せ、、、

483:日本@名無史さん
18/09/14 20:52:53.29 .net
>>482
>佐賀川上のことなんぞ心配するより、泡の官衙跡地を探し出して示せ、、、
「泡」は伊都国じゃないからwww  @阿波


484:日本@名無史さん
18/09/14 21:04:22.86 .net
>>480
>伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。
佐賀川上には伊都国に見合う「官衙の跡」がないと何度言えばw  @阿波


485:日本@名無史さん
18/09/14 23:29:14.68 .net
>>477
淀姫神社が壹與の宮でしょう。

486:日本@名無史さん
18/09/15 07:58:48.84 .net
>更に男王立つも 國中不服、更 相誅殺當時殺千餘人
>復、卑弥呼宗女壹與年十三もって王と為し、國中遂定
二度目の倭国大乱を治めた宗女壹與(台与)は、
記紀を参考にすれば、那の津志賀島を根城にした海神族豊玉彦の娘の豊玉姫であろうか、、、
倭人伝に台与の都は書かれていないが、
筑紫那国と肥国の政略結婚であったとすれば、
豊玉姫(台与)と佐賀川上(伊都国)に何らかの接点があったのかもしれないねえ

487:日本@名無史さん
18/09/15 08:20:37.07 .net
>>486
>佐賀川上(伊都国)に何らかの接点があったのかもしれないねえ
佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


488:日本@名無史さん
18/09/15 08:59:24.22 .net
>>487
佐賀大和町の久池井にある肥前国庁は、8-10世紀のものであった。
その前の古い官衙は小城にあり、オギ国府と呼ばれてきた。
その「官衙の跡」は、佐賀川上にある。
整然とした小路に囲まれた区画は、南北およそ250m、東西は約125m、
久池井の肥前国庁の2倍の広さである。
その南北中心線は西に7度ほど傾いているが、これは後世に建てられた久池井の肥前国庁の中心線の傾きと同じである。
これが、末蘆国東南500里の、
伊都国時代の官衙の後を継いだオギ国府だったことは疑いない。

489:日本@名無史さん
18/09/15 10:03:31.30 .net
>>486
>倭人伝に台与の都は書かれていないが、
普通は卑弥呼の都のヤマト国にそのままいたと考えればいいんじゃないの?
卑弥呼の宗女なんだし

490:日本@名無史さん
18/09/15 10:06:03.84 .net
>>488
>伊都国時代の官衙の後を継いだオギ国府だったことは疑いない。
だったら、どうして伊都国なの?
「東南陸行五百里、到オギ国」って書かれてなきゃおかしくね?

491:日本@名無史さん
18/09/15 11:00:53.75 .net
>>488
>佐賀大和町の久池井にある肥前国庁は、8-10世紀のものであった。
>その前の古い官衙は小城にあり、オギ国府と呼ばれてきた。
>その「官衙の跡」は、佐賀川上にある。
夢を語るだけ。 一切根拠を示せず、夢想するだけ。  @阿波


492:日本@名無史さん
18/09/15 11:13:03.91 .net
>>490
>「東南陸行五百里、到オギ国」
オギというのは、もともと土塁石塁あるいは砦という意味だそうだ。
後世の人は其の塁の跡を見て、オギの国府というようになったらしい。
卑弥呼のころは、倭人伝の通り伊都国だったということだろう。

493:日本@名無史さん
18/09/15 11:22:43.04 .net
>>492
佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


494:日本@名無史さん
18/09/15 11:26:49.46 .net
>>491
>夢を語るだけ。 一切根拠を示せず、夢想するだけ。@阿波
夢だけでなく、決定的な根拠があるぞ。
末蘆国は、今の長崎県の松浦市や伊万里市辺りを本拠とし、
唐津もエリヤの一部だったとみるべきだが、
その唐津から東南500里(500里×74m=37q)といえば、佐賀川上はピッタシの場所になる。これが最大の根拠である。
それに比べ、糸島を伊都国と仮定してきた九州王朝説・畿内大和説、
或は、筑豊を伊都国に見立ててきた阿波説・・・、、
これらこそ、論理的根拠に欠けていたと言わざるを得ない。。

495:日本@名無史さん
18/09/15 11:39:45.56 .net
>>494
>末蘆国は、今の長崎県の松浦市や伊万里市辺りを本拠とし、
だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は半島へ帰る出航地なのよ。 入港の末盧国じゃないの!
最初っから間違い! やり直し!  @阿波


496:日本@名無史さん
18/09/15 11:42:54.14 .net
>>494
>その唐津から東南500里(500里×74m=37q)といえば、佐賀川上はピッタシの場所になる。これが最大の根拠である。
一切考古学的根拠を示せず、夢を語るだけ。
佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


497:日本@名無史さん
18/09/15 12:01:28.71 .net
>>496
だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地なのよ。
壱岐の島のくだりに書かれているように、
(島民は)南北に市櫂し・・・、だったというから、そこから南方向の入港好適地は唐津・末盧国で間違いない

498:日本@名無史さん
18/09/15 12:11:49.57 .net
>>497
>だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地なのよ。
だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地であって、
逆に、その潮に邪魔されて半島から帰りつけない所なのよ。  @阿波


499:日本@名無史さん
18/09/15 12:19:21.84 .net
>>498
なんか怪しげな言いぶりになってきたな。
鳴門の渦潮を見て育ってきた割には、地理地勢と潮を知らずにカキコしてるな。
「松浦市や伊万里市辺り(及び呼子)」は、帰り着くには、たしかに潮が悪すぎる。
その点、唐津は行きかえりともに好適。とくに帰りは最高なのだ。

500:日本@名無史さん
18/09/15 12:23:17.43 .net
>>499
>その点、唐津は行きかえりともに好適。とくに帰りは最高なのだ。
唐津は行きも帰りも不適。
唐津には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波


501:日本@名無史さん
18/09/15 12:26:43.60 .net
>>499
唐津は福津・宗像の爪の垢でも煎じて飲んどきなはれ!  @阿波


502:日本@名無史さん
18/09/15 16:46:00.69 .net
>>492
>オギというのは、もともと土塁石塁あるいは砦という意味だそうだ。
>後世の人は其の塁の跡を見て、オギの国府というようになったらしい。
>卑弥呼のころは、倭人伝の通り伊都国だったということだろう。
なら、現在、その辺に「イト」の地名がないのはどうして?
地名は言葉の化石という言い方もあるくらい、地名というのは長く保持される
人が同じ場所で暮らしている限り、世代を超えて地名は保持され続ける
親子で、地名が違ってたら話が通じないからね
ヤマトタケルの滅ぼされた川上梟師が川上にいた、という話なら、川上の地名が
現代まで残っているから分からんでもないが、イトの切れ端もないのに
伊都国だと言い張っても意味がない


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