♪邪馬台国ドンと来い!♪140 at HISTORY
[2ch|▼Menu]
[前50を表示]
350:日本@名無史さん
18/08/30 16:18:24.54 .net
>>348
日の出の方に高祖宮があります。

351:日本@名無史さん
18/08/30 16:20:02.61 .net
>>348
>糸島は夕日に向いてる土地だろ
よく、九州説の人が「日向峠がー」と言っているけれど、
日向川は早良平野側の室見川の支流だし、日向という地名は東側の
福岡平野側で使われていた地名のようだね
その意味で、伊都国と日向の縁はそれほどないとも言える

352:日本@名無史さん
18/08/30 16:25:51.83 .net
>>351
>その意味で、伊都国と日向の縁はそれほどないとも言える

「それほどない」どころか、まったく話題に挙げる価値もない。  @阿波


353:日本@名無史さん
18/08/30 16:37:53.64 .net
>>352
阿波さんは、天孫族ですか?
阿は、くまと呼ぶし、くまは、
かみのいみもかくれてるしね。

354:日本@名無史さん
18/08/30 16:49:16.65 .net
>>353
>阿波さんは、天孫族ですか?

「天孫族」 なにそれ? 忌部一族のこと?  何が言いたいのか意味不明。  @阿波


355:日本@名無史さん
18/08/30 16:51:55.03 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

356:日本@名無史さん
18/08/30 17:04:12.51 .net
朝鮮半島の稲作が箕氏朝鮮(BC11〜)によって伝わった
と言うのは、一応、史記、書には、伝説記録はある。
菜畑にBC900伝来 なら、もう少し前でも良いけど、箕氏年はだいたいだから桶。
箕氏国家は遼東だが、半島自体は国家的に未開なので
自衛の環濠集落形成で開拓者の農業集落は営まれる。
保存食量の収穫は私有財産の形成を意味するので
家族型、竪穴住居などの集落を形成したと思われる。
これが、温暖適地に南下してきて日本開拓に渡来伝搬するか? と言うと
未開地域に陸路で伝搬したものが、軍国以前に漁業船以上のものを作る理由は無いので
結局は、行き来のあった、米を見た縄文海人によって写し取られたと考える。
菜畑はこれでしょ。 でも、なんで、これ以前に弥生渡来人が必要なの?
その後、米の筑紫平野部拡散で、開墾地や水利、収穫食物の周辺からの防衛が必要となれば
半島同様、環濠集落の形成が必要になるし、領主国家も拡大するはず。
菜畑からこの間 縄文人巻き込んで? 4〜5百年あるとして、なんで渡来人必要なの?
日々の、いただきますに、古代縄文の共産制祭祀が不要になれば
土器は、農業社会向きの弥生式に変わるのは判るんだけど、
遠賀川式広まったとして、でも、なんで日本に渡来人必要なの?
DNA解析で、必要なくても来ちゃうから渡来人、
でも、百済新羅傀儡にした高句麗戦争で強制連行でも、良いんだけど、
南北からの、渡来人植民地として生まれた、古代韓半島国家に配慮したのかな? 
日本の学者って 優しいんだねw 
大日本帝国が古代韓目指して独立させた、
大韓帝国の 現韓国と違うし、要らんけど。
妖怪 釣れた気がしたけど・・・
もう一回?? ;`O´)o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄〜で、(:D)┼


357:日本@名無史さん
18/08/30 17:39:20.67 .net
朝鮮半島に稲作が伝わったのはBC20C頃。
漢江下流域あたりからBC20C頃の稲籾が何カ所も
出土している。

358:日本@名無史さん
18/08/30 18:35:12.57 .net
そうだね。 日本の稲も5〜6千年前だし・・・ まけるなよ!

359:日本@名無史さん
18/08/30 18:46:47.12 .net
>>358

で、その5〜6千年前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?

.

360:日本@名無史さん
18/08/30 19:04:48.00 .net
纏向遺跡の復元は「桜井市埋蔵文化財センター」主導でやるべきだが
「桜井市纏向学研究センター」がシャシャリ出る
「桜井市纏向学研究センター」は近い将来閉鎖だろう・・きれいに整理する理屈付けはいくらでもできる

361:日本@名無史さん
18/08/30 19:44:15.45 .net
>>359
こっちかよ? 合わせただけ のマヌケのたわごとだよwww
何これ?イラネ!(((; ̄Θ ̄)__% ̄ ̄~~~~~~〜('A`)#))彡


362:日本@名無史さん
18/08/30 19:49:59.83 .net
キウス

363:日本@名無史さん
18/08/30 20:42:17.58 .net
弥生人という新しい渡来人がやってきたのは、人類学的にほぼ確かなんだと思うけどね。
弥生人抜きでも稲作伝来は説明できるかもしれないが、稲作とほぼ同時に弥生人がやって来ていたら、彼らが持ち込んだと思うのが普通だろ?

364:日本@名無史さん
18/08/30 21:52:32.31 .net
>>363
金関丈夫が引っかかたくらいだからね。
縄文人骨と渡来系弥生人骨的は鼻骨の高さが違いすぎるのよ。

365:日本@名無史さん
18/08/30 22:01:53.85 .net
それに縄文人骨と弥生人骨では眼窩の形も歯の形質も違いすぎるのよ。
四角形と円形、スンダドントとシノドントだぜ。
とても食生活の変化だけで縄文人骨が弥生人骨に進化したとは思えない。
おまけに中国土器はもちろん、朝鮮土器もほとんど作らない。
彼らはどこから来たのか?

366:日本@名無史さん
18/08/30 22:52:19.02 .net
インド

367:日本@名無史さん
18/08/30 23:28:55.80 .net
現代人の骨はどっちに近いの?

368:日本@名無史さん
18/08/30 23:46:01.90 .net
和泉を出立した神功皇后は三韓征伐の後、忍熊皇子とかヤマト政権の中枢を倒すからな
初期のヤマト政権は半島を味方にして、畿内を征伐したのかな?
刀が流れてきたと謂れの残る布留
フルって大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では流れるという意味になる
鎮魂歌のアチメも朝鮮語で朝日を意味する
山陰と朝鮮半島、東海はどういう関係にあったんだろうか?

369:日本@名無史さん
18/08/31 00:29:06.51 .net
>>367
両方。弥生の方が多い

370:日本@名無史さん
18/08/31 11:04:39.97 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

371:日本@名無史さん
18/08/31 15:29:41.84 .net
どんこいはまったりしてていいな

372:日本@名無史さん
18/08/31 16:57:34.21 .net
どこもネタ切れ

373:日本@名無史さん
18/08/31 18:30:14.34 .net
>>372
>どこもネタ切れ
まあ、本来的に既に決着しているからなぁ
九州説(特に伊都国説)の主張も、全部きっちり根拠つきで否定されちゃったし

374:日本@名無史さん
18/08/31 19:48:50.36 .net
>>373
魏による 私譯2回 での
從郡至倭 の 説明内容
帯方郡から 韓西岸 歴韓国 が 4千里 
半島南岸 を 東へ 3千里で 狗邪韓國
対馬へ渡海千里 壱岐へ千里 九州北岸へ千里 
で、合計一万里で、九州上陸
東南 陸行 五百里 到伊都國
郡使 往來 常所駐 だが、伊都には、検閲の港がある。
自郡至女王國 萬二千餘里
であるが、この行程は 万500里である。
不彌國 と 奴国 は プラス 各百里
>>2 247年 張政の旅はこれで終わる。 用件が済んだからである。
卑弥呼の王宮には行っていないし、今 使譯 所通三十國 も 意味不明。
>>3 238年 梯儁 の行程
南至 投馬國 水行二十日 
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
梯儁 は 皇帝の命で 女王の王宮に金印紫綬を届けている。
女王所属国は列記する21国で、7万戸 
この九州の小国には、には漢名が無いので、梯儁は邪馬壹國 と命名した。
自郡至女王國 萬二千餘里 である。
算数 4000+3000+1000×3+(九州上陸から女王宮)=12000
これが倭人伝 行程部分。 
♪ドン来いスレ、テンプレで、まったり、解決済みである。

375:日本@名無史さん
18/09/01 20:15:42.02 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

376:日本@名無史さん
18/09/01 20:23:38.78 .net
>>372
>どこもネタ切れ
まあ、本来的に既に決着しているからなぁ
九州説(特に伊都国説)の主張が、全部きっちり根拠つきで証明されちゃったし

377:日本@名無史さん
18/09/01 22:41:37.60 .net
間違ってるのが証明された、の間違いだな

378:日本@名無史さん
18/09/02 07:24:19.90 .net
>>376
ザラコクもよくやってるけど、オリジナリティのないウソ塗れのオウム返しって
九州説の性癖なの?
やってて楽しい?
惨めにならないのかね?

379:日本@名無史さん
18/09/02 07:36:56.95 .net
畿内説が訳の分からんブーメランを打ち続けているからだよ。

380:日本@名無史さん
18/09/02 11:41:45.53 .net
伊都クズが方々でのトンデモ発言の間違いを認めることができなくて荒らすしかなくなってるんだよ

381:日本@名無史さん
18/09/02 15:03:46.44 .net
>>379
>畿内説が訳の分からんブーメラン
九州説のいうことはいつも具体性がない、雰囲気だけの印象操作
「訳の分からんブーメラン」だと思うなら、おかしいところを具体的に指摘して
論破すればいいだろうが!
畿内説はいつも九州説の詭弁や矛盾を、いちいち具体的に否定してるぞ!ww

382:日本@名無史さん
18/09/05 09:49:37.33 .net
↑畿内説 対 九州説 の構図ってのは
絶望的に、むなしいな。
それ嫌って、九州説と畿内説の板、分けようとしてんじゃないのか?
♪ドン来いスレだから 良いけど、全然、ドン と 来ないwww 
やってて楽しい?
惨めにならないのかね?

383:日本@名無史さん
18/09/05 11:18:12.76 .net
>>382
>↑畿内説 対 九州説 の構図ってのは
>絶望的に、むなしいな。
いんや? べつに畿内説 対 九州説 の構図って訳じゃないよ
古い話だがコリアンジェノサイダーNAYUKIって知ってるかい?
あれと同じだよ
URLリンク(www.getemono.com)

384:日本@名無史さん
18/09/05 13:52:28.85 .net
>>383
良くわからないが、単刀直入に歴史としては
畿内説も九州説も 結局のところ 247年以降も
邪馬台国が日本の王朝であったことを前提に
これを証明したいわけだけど
250年〜300年以降の日本の朝鮮半島進出が、
邪馬台国であるとするのは 韓伝によって、
魏は 246年韓王朝を滅ぼし、以降王朝は無くし
臣智等の任命による 統治下に置いているわけだから、
倭王遣使大夫 伊聲耆掖邪拘 率善中郎將印綬
倭女王遣大夫 都市牛利 率善校尉 銀印綬
倭女王遣大夫 難升米 率善中郎將 銀印綬
の居る、邪馬台国による征伐や平定であるとするのは
難しくなるのではないかな?
313年、晋は漢四郡撤退。これは高句麗の台頭によるものとされるが
350年に建国する百済、新羅に対する 日本の後援 が有ったことは
朝貢、皇太子を人質にとったり、広開土王碑等で明らかなのではないか。
『大日本帝国』 はこの 『古代韓』 諸国の建国 にちなんで
『大韓帝国』 という 友邦、王朝国家の独立 を支援したのである。
邪馬台国 畿内説対九州説 論争は、ただの妖怪↓ のような存在では?

385:日本@名無史さん
18/09/05 14:32:25.31 .net
>>384
>畿内説も九州説も 結局のところ 247年以降も
>邪馬台国が日本の王朝であったことを前提に
>これを証明したいわけだけど
ちと不明なので、補ってみたいのだが
(畿内説においては、畿内邪馬台国が万世一系の日本の王朝であり、)
(九州説においては、九州邪馬台国が万世一系の日本の王朝であった)ことを前提に、(それぞれこれを(邪馬台国の所在地を)証明したいわけだけど)
・・・これででいいのかな
とすれば、それ以外の第三の邪馬台国の所在もありうるのではないか、
つまり、魏の時代には、邪馬台国は九州に在って金印・銀印を拝したが、
およそ300年頃〜には、畿内へ移って素知らぬ顔。
残された倭国旧勢力(倭奴国)が、畿内との対抗上、半島との交流を深めた。
(いうなれば、万世二系、或は万世二枚舌系であった、という考え方もあるのではと思う)

386:日本@名無史さん
18/09/05 16:27:03.65 .net
それは違うな。
九州説の一部は、大陸半島と紀元前から長らく交流しいた倭国は九州のことで、大和にいたのはその分家という立場を取っている。
これは万世一系とは相入れない。

387:日本@名無史さん
18/09/05 16:47:56.41 .net
>>385
九州東遷説と言うのが、邪馬台国論争を飯の種にしてしまった学者の
大倭王卑弥呼様細胞は有りますw 的で、せめてもの良心のようにも思えるけれど、
これは、畿内説でも九州説でも 考古学の側で、地理、時系列的不可能性があって
一番マヌケな、芋を引くことに、既になっている、のではないかな?
この手の間違いが許容される理由としては、記紀信仰によって
200年代の九州が既に統一された朝廷系王朝の中にある、と言う前提だけど
東夷伝 倭人伝を読めば、九州平定以前(または当時)の話だし、陳寿によって
帯方郡が倭王とした卑弥呼は、帯方郡から一万二千里の九州島の北部2千里の領土で
7万戸 21国が共立した 周旋五千里ほどの小国 の王でした。
大倭王ではありません。 三国志では、これと魏の同盟は糞の役にも立ってません。
247年で、相手にするのも辞めました。 って、書かれてます。
ま、魏や晋にとって、韓や高句麗は絶域で
背後の倭には、2回の使譯をやっとのことで送って 九州島探検報告があるだけ。
であって、日本はこれによって、
400年、外交デビューまでの富国強兵の時間稼ぎができたんだけどね^^v

388:日本@名無史さん
18/09/05 16:55:29.57 .net
>>387
>周旋五千里ほどの小国 の王でした。
九州説の短里脳だなw
魏晋里以外の里程はないよ
周旋五千里は、決して小国ではない
これも何度も書いていることだけれど、
周旋は一周したりもとの所に戻ったりしない
全長2000キロの国土を持つ大国だよ
幅は知らないけどw

389:日本@名無史さん
18/09/05 16:56:05.65 .net
畿内日本国の視点ではそうだろう。
倭による漢への朝貢ははるか紀元前から続いていたことを忘れてはいけない。
九州北部が詐称したというより、そもそも倭とは九州北部のことなのだ。
記紀との整合性は、鴨厨氏の主張通りに、神武と卑弥呼がほぼ同年代と考えると解決してしまう。
神武は大和に移ってしばらくは在郷勢力の1つに過ぎず、列島どころか畿内さえ代表できなかったわけだし。

390:日本@名無史さん
18/09/05 16:57:06.90 .net
>>388
>魏晋里以外の里程はないよ
>周旋五千里は、決して小国ではない
そんな大きな国があったという証拠はない。

391:日本@名無史さん
18/09/05 17:18:38.05 .net
>>388
倭人伝における里程参照
韓 方可4千里
対馬海峡 千里×3
対馬−壱岐 間は港の特定は不要だろ。
平均でも良いしw
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
中國では、これらを含む大国が 倭 と認識しているが
九州島北部 2千里にある21国を全部巡っても
せいぜい5千里程度の小国
これが、邪馬台国

392:日本@名無史さん
18/09/05 17:21:23.15 .net
>>389
夢物語はそれぐらいにしとき。  もうそんな夢物語が通用する時代じゃないよ。  @阿波


393:日本@名無史さん
18/09/05 17:32:40.20 .net
倭国は九州、
その九州の邪馬台国の卑弥呼の義理の孫あたりの神武ら一党が、
集団就職みたいなノリで大和へ出稼ぎに行って大成功した。
残された九州倭国も、すったもんだの挙句、やがては大倭(大和)の太宰の率の下に入ることになった。

394:日本@名無史さん
18/09/05 17:34:11.92 .net
>>393
やけを起こしちゃイカンぜよ。  @阿波


395:日本@名無史さん
18/09/05 17:40:26.67 .net
>>391
>中國では、これらを含む大国が 倭 と認識しているが
あー、それはちがうのではないか。
九州の女王30国までは「倭人」で人間扱い、しかしそのあとに書かれているのは「みな倭種」で人間以下。
・女王國東渡海千餘里 復有國「皆倭種」
・又有侏儒國在
・又有裸國 黒齒國

396:日本@名無史さん
18/09/05 17:40:27.24 .net
卑弥呼の大叔父あたりが神武だろう。
三雲の家系と平原の家系が少し違うとキナイコシが騒いでいるからね。
魏志倭人伝からも、前の男王と卑弥呼が直系っぽくないし。

397:日本@名無史さん
18/09/05 17:41:09.19 .net
>>395
つまち本州四国が倭種だよね。

398:日本@名無史さん
18/09/05 18:27:28.26 .net
>>397
はい、そうですね、そうですね。
陳寿さんのストーリーは、たいへんわかりやすいですね。

399:日本@名無史さん
18/09/05 18:39:28.83 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

400:日本@名無史さん
18/09/05 20:38:47.85 .net
>>389
>神武と卑弥呼がほぼ同年代と考えると解決してしまう。
系図研究の第一人者は、神武は崇神の五世代前くらい、としているよ
つまり、欠史八代の間には何回か兄弟相続(場合によっては従兄弟相続)が
あったことになる
崇神が卑弥呼と同時代というのは、認めてもいいだろう
つまり、神武は卑弥呼の五世代前くらい

401:日本@名無史さん
18/09/05 20:41:26.61 .net
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
​平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。


402:日本@名無史さん
18/09/05 20:51:00.96 .net
>>390
>そんな大きな国があったという証拠はない。
証拠がないも何も、魏晋里しか知らない陳寿さんが周旋五千里と書いているんだから、
陳寿さんの認識では、約二千キロの連なりを持つ洲島の国が倭国なんだよ
人口も、奴国と投馬国と邪馬台国だけで、十四万余戸もあるんだから大国だろう
三国志で倭国とともに金印、親魏大月氏王とされた、大月氏国の戸数は
三国志にはないが、後漢書で「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。」と書かれている
それと比べても、戸数十四万余戸以上の倭国は、大国と認識していいだろ

403:日本@名無史さん
18/09/05 20:51:54.53 .net
>>401
そのコピペは却下
取っている区間が独立ではないから、統計としてほぼ意味を持たない

404:日本@名無史さん
18/09/06 01:09:14.48 .net
今夜も違法駐車
多摩 503
は 42-12

405:日本@名無史さん
18/09/06 09:12:10.35 .net
>>395
中国人の倭人の認識が、人非人である 
と言うのはある意味その通り。
東夷伝序文
其後 高句麗背叛 又遣偏師 致討窮追 極遠踰 烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭
東臨大海 長老說有異面之人 近日之所出
東臨大海 つまり、大陸の東にある倭=倭人伝のいう九州島の東の倭種の国
は、長老說有異面之人 の住むところ、未知の国、謎の国 なのである。 
倭人伝冒頭の 倭人在 帶方東南 大海之中 
は、この倭国全体
今使譯 所通三十國 從郡至倭 
で、説明した行程は、朝鮮半島の南の九州島にある倭人国である。
循海岸水行歴韓国 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 又南渡一海千餘里 至一大國 又渡一海千餘里 至末盧國
で、九州上陸まで 一万里
女王の付属国は21国で 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
で、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
これで、里程に疑義が生じるとか、ちゃんと読む気が無いだけ、では?

406:日本@名無史さん
18/09/06 09:34:33.57 .net
「帶方東南大海之中依山島為國邑」
「?在海中洲島之上」
これらが指しているのは別のもの

407:日本@名無史さん
18/09/06 09:53:11.62 .net
<佐賀郡椅寺>(いでら、椅は漢音・呉音ともにイ)
先に述べたように、
佐賀川上の五社大明神を中心とする一区画(約250m×125m)に、大願寺廃寺跡という遺跡がある。
この寺跡からは、665年築城の佐賀/福岡・基肄城と同はんの百済系瓦が出土していることから、
建設には亡命百済人集団が関与していたようである。
またその規模及び地理的関係等から見て、
倭人伝に云う、「末蘆国、東南陸行五百里、到伊都国」の官衙跡地に相当すると考えられる。
しかし付近一帯の現地名は大願寺、小隈、山田、川上などであり、伊都を伺わせるものは見つかっていなかった。
ところがその後、「大願寺」に関して調べるうち、
千葉県で出土した梵鐘(現・歴博所管)に「佐賀郡椅寺」(イ寺)とあり、
佐賀県や佐賀市では、これがこの大願寺の古名ではないかと推定しているらしい。
で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させるものではある・・・、

408:日本@名無史さん
18/09/06 11:50:01.67 .net
>>407
>で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させるものではある・・・、
式内社 阿波國美馬郡 「天椅立神社」
ちなみに全国で、そのものずばり「天椅立」神社という名の式内社は、ここだけである。
「日本一社 式内社 阿波國美馬郡 天椅立神社」の御祭神は、伊邪那岐命 伊邪那美命 である。  @阿波


409:日本@名無史さん
18/09/06 12:48:28.56 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

410:日本@名無史さん
18/09/06 12:51:13.86 .net
【邪馬台国 行程に齟齬が生じる原因】
>>2 >>3 の間の段落を読み取っていないからである。
|∩`Д´) / '⌒☆ ぼぉ〜っと、生きてんじゃネェ〜よ
>>2 は 247年 塞曹掾史 張政 の行程
張政は 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 によって
245年の 黄幢 檄 の告喩の為に倭人船に便乗で査察に来た。
狗邪韓國、對海國、一大國、末盧國、伊都國、奴国、不彌國
これらは倭人船寄港地等の地名であり、その間を里程で示している。
副官卑奴母離は倭人船にも同乗しており、雇った案内人である。
奴国は 奴国大夫 難升米の領地 
不彌國は帰国船の出港地の可能性が高い。
張政の旅、役目はこれで終る。女王の墓は見たが、王宮には行っていない。
郡から一万五百里、最大プラス100里である。
巳百支國大夫 伊聲耆掖邪拘 の船で帰国。 送政等還因詣臺
>>3 は 240年 建中校尉 梯儁 の行程
梯儁は 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 の為、皇帝の命で魏の軍船で来た。
寄港地等決まっていない幕営行軍であり、地名里程は無く行軍日程を記した。
水行二十日投馬國 水行十日陸行一月で邪馬壹國 女王之所都 である。
投馬國、邪馬壹國 は 国名である。
印綬の女王国の範囲は、列記21国で全てであり、其南有 狗奴國 不屬女王 
女王の王宮まで訪れており、自郡至女王國 萬二千餘里 である。
この21国の国名を、女王宮を見た梯儁が、漢字名の邪馬壹國と名付けた。
この国が、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 である。

411:日本@名無史さん
18/09/06 14:23:31.37 .net
空想で作文乙

412:日本@名無史さん
18/09/06 18:58:58.41 .net
>>411
感想文、乙。 読者一名 orz 
過疎スレ、チラ裏に、ご意見、ご批判、ありがとうございます。
倭人伝が陳寿の空想って事? じゃ、ないよね?

413:日本@名無史さん
18/09/06 22:34:50.36 .net
>>412
それじゃ張政は、
邪馬台国にいってないのかい?

414:日本@名無史さん
18/09/06 22:36:20.91 .net
張政は卑弥呼の墓域=平原遺跡1号+2号を囲む共通周濠で囲まれた墓域
を巡ってるぞい

415:日本@名無史さん
18/09/07 08:44:40.27 .net
【福岡】浮かぶ、筑後平野の先進性 邪馬台国「卑弥呼の鏡」説 三角縁神獣鏡発見で注目 朝倉・平塚川添遺跡
スレリンク(newsplus板)

416:日本@名無史さん
18/09/07 09:02:17.91 .net
張政の行程
『末羅港』に上陸、倭人船なので詣中國の際には持衰を置く。
出港にも潮待ちがあるから、これを見ることのできる場所。
芥屋浜、芥屋大門が潮見所とし、帰国時には祭祀がある。
『伊都』南東5百里。 今宿から福岡平野西麓に山城を築く。
糸島は王墓の聖地。張政は、これを通過し、卑弥呼の墓を見ている。
張政は伊都の一大率に駐留させられている。
今宿付近に検閲の港が有るのに、500里を歩かされている。
一大率は張政を歓迎していない。壹與は13歳、後見の居る傀儡王である。
南国境にあった奴婢千人の卑弥呼の砦は、紛争で落城しているのではないか。
21国も分裂の可能性は高いが、卑弥呼の墓はでかいので勝ち組についているのだろう。
伊都にて 政等以檄告喩壹與 奴国で 難升米 為檄告喩
これで、張政の用件は終わり、査察報告として >>6
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
である。
倭人伝結語 壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
に、皇帝のお土産は無い。 むしろ、国交自体が終わっている。
掖邪拘等二十人は、亡命して、263年、陳寿の仕えた蜀を滅ぼす三国志の将軍にw
あるいは、四郡に帰り後の新羅王になったのかもしれない。←空想で作文ならコレ!
魏も戦国武将だが、邪馬台国の不安定ぶりも同様である。 安定王権とは言えない。

417:日本@名無史さん
18/09/07 09:10:52.28 .net
誇大妄想狂

418:日本@名無史さん
18/09/07 12:38:25.36 .net
>>6 【一大率について】 |∩`Д´) / '⌒☆ 
使 大倭監之 自女王國以北 特置一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
・(使) は 女王時代に伊都の一大率を見た 使譯 張政 以外にはない。
・(大倭) 中華思想に小日本は有っても 大倭 の表現は変。 
 女王国が九州の小国だったこと、に対して東の倭種の国を含む 大倭 を想定したもの。
・(自女王国以北) 以北は女王国全体そのものなので、
 これは、以南には、一大卒が無いということ 南部は平定以前、を言っている。
・(諸國畏憚之) 諸国は女王属国21国を意味する。
・(於國中有如刺史) 刺史は地方領主の上位にある中央官僚、軍事権を持つ将軍である。
 一大卒は、唯一最高権力 の 進駐軍司令官 を意味する。 後の国造だろう。
 この時、邪馬台国は、既に後の大和朝廷の支配下に入っている。
・(刺史) 陳寿の出身蜀漢の劉備も 荊州刺史の系譜 豫州刺史から皇帝位に着いた。
 313年楽浪帯方を追った高句麗は350年代に征東大将軍 営州刺史 楽浪公に就く。
 倭人伝解釈では 地域王の上位である 刺史 を 恣意的に過少評価 するものが多い。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書 賜遺之物詣女王 不得差錯
・(王) これは遣使の実績として 卑弥呼 である。
・(郡使倭國) 2回しかないが、皇帝の使者梯儁の賜遺之物を検閲したら戦争になる。
・(皆臨津捜露傳送文書 賜遺之物詣女王) 検閲される女王には既に国王としての実権が無い。
247年 張政のこの査察報告に拠って、魏と邪馬台国の国交は終わっている。
朝廷は最初から百済のような傀儡立国によって、中国外交をさせることもあるが
九州と畿内に関しては、考古学でこれ以降関係が濃厚になるのでこの間に平定したかと。 
卑弥呼の墓は大きいなら抵抗交戦したというより軍門に下ったと見る。

419:日本@名無史さん
18/09/07 12:50:07.26 .net
百済の『松傾』と同じような名字の家があるでしょ、
実際は系統が違うのですか?と言ってる人いたんだけど
違うのかな?

420:日本@名無史さん
18/09/07 16:26:02.85 .net
>>419
読者一名。orz ↑ 妖怪? わかんないけど・・・ ありがとねwww

421:日本@名無史さん
18/09/07 21:25:05.79 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

422:氷の女王
18/09/09 19:26:15.08 .net
反論募集中なんだけど・・・
言いたいだけ、の アラシ は呼ぶ。
何を言ってるか判らないと思うけど
これだけ吠えても
質問に回答? 
無いかな?
チラ裏の先生のみんな? 
阿波師匠や土器厨師匠じゃないよ?
別スレで ネw
で、っていう 
よ。

423:日本@名無史さん
18/09/09 19:29:13.90 .net
どこの基地外なんだ、頭の病院に行け
邪馬台国だか何だか知らないけど(邪馬台国ではない?)、
家の話だと言っているんだよ、妹がいれば女王、姫になるでしょ

424:日本@名無史さん
18/09/09 19:34:46.28 .net
うわぁ〜〜
土器厨、妖怪だったんかい?
読者、重複で一人減ったw
orz

425:日本@名無史さん
18/09/09 19:55:03.86 .net
妖怪 にはむかつくから どんどん!
本当の歴史の話をしちゃうよ。
中共と誇大韓 どっち にする?
中狂なら、三国志で チベット、ウイグル、満州、台湾、朝鮮、
が、モンゴル帝国以前に、領土であるわけが無いという歴史?
韓は古代韓の話は東夷伝があるんであって、ホントの事知ってるよね?
これって、倭人伝の 読み方 だけなのかな? 
既存の倭人伝和訳の どこが嘘か質問ある?

426:日本@名無史さん
18/09/09 20:25:11.86 .net
自己レスwww
中国が歴史を誇るとか 歴史を受け入れるというのは嘘。
韓国は歴史に このスレというか 邪馬台国時代 とかでは?
だと、参加自体、していないのではないかな?
漁労程度の舟でもなきゃ、難民が生き残れなそうな、未開だろ?

427:日本@名無史さん
18/09/10 18:46:42.66 .net
日本語でおk
漢字を捨ててしまったために、いちいちスペースを入れて分かち書きしないと
文章が読めない言語があるらしいけれど

428:日本@名無史さん
18/09/11 19:34:45.52 .net
>>427
>いちいちスペースを入れて分かち書きしないと文章が読めない言語があるらしい
それが、倭人伝であって 文節と改行と段落、これがテーマ。
誤読したいなら、段落無くして、文章がへボイとか誤写にスリャ良いだけだろwww
陳寿君は、ちゃんと書いてるみたいだぞ。
246の自己レスって? どこのことだ?
アタシはレスで書いたの、妖怪にw 趣味 アラシ釣りw
(*^_^;)_o/━━━>゚アラシ≫彡 ~ ~ ~
ん? >>413 ? 新読者 キタぁ〜〜〜?
自分で質問して、自分で答えるの?
それ、ちら裏 必要なくネ? 
単純に倭人伝と言う、古代漢文の、アタシの読み方を示して
みんなに見てもらって、間違ってる部分を 批判してもらってるんだけど?
夏休みの宿題、\(^o^)/オワタ ありがとねw
現状で、まあ、アタシが間違ってないと、247年邪馬台国終了なんだけどね orz
邪馬台国って 247年で、\(^o^)/オワタ の?

429:日本@名無史さん
18/09/11 20:06:51.66 .net
ヤマト国ってのは地名なんだから、終わったも終わらないもないだろうに

430:日本@名無史さん
18/09/11 20:43:57.11 .net
地名は動く。

431:日本@名無史さん
18/09/11 21:25:23.55 .net
>>429
邪馬台国と言う地名は、魏によって金印紫綬の為
女王所属の九州北部21国の地名を女王宮を初めて見た中国人
建中校尉梯儁 が漢字化した、人口7万戸の小国の、国名である。
陳寿は、卑弥呼が大倭国の女王では無かった事をちゃんと書いている。
終わった、は、妄想だった邪馬台国の国家主権、戦国武将である魏に対する
軍事協力の可能性が無いことによる 国交の無意味化と言うことである。

432:日本@名無史さん
18/09/11 21:42:17.01 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

433:日本@名無史さん
18/09/11 23:25:02.09 .net
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
大倭国の王都である邪馬台国は九州北部にあり、7万戸の大国であった。

434:日本@名無史さん
18/09/12 10:29:57.43 .net
>>431
>人口7万戸の小国の、国名である。
七万戸は大国だよ
東夷伝韓条でも大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶と書かれている
倭国の中の一国(一地域)で七万戸あれば、十分な大国だろう

435:日本@名無史さん
18/09/12 20:48:30.96 .net
>>434
倭人伝って、三国志の話なんだよ。 たった7万w の国だよ。 
まあ、2〜3婦なら、戸数で×10人の家族だろけど。 
弥生、最盛期の九州だよ。
247年の張政の檄告諭が船団だったら九州は今でも日本じゃないと思うね。
まあ、奴国が帯方郡にくみして、韓クーデターの半島平定したら
壱与が中国貴族で、九州が中国属国として、大和朝廷と対峙できたかもしれない。
いうなれば、九州は高句麗と一緒なんだよ。
アタシは247年以降の朝廷の中国外交は凄すぎだと思う。
縄文人ってのは、最古の海神だし、土人じゃないね。
むしろ、渡来人は強制連行された奴隷だろ?

436:日本@名無史さん
18/09/12 22:30:21.98 .net
>>433
誤 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
正 楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。

437:日本@名無史さん
18/09/13 01:40:34.95 .net
>>435
この人、日本語不自由すぎだろ

438:日本@名無史さん
18/09/13 07:00:08.98 .net
>>436
同じことだよ。
それどころか、その訳だと意味がぼけてしまう。

439:日本@名無史さん
18/09/13 07:56:22.87 .net
イミフ

440:日本@名無史さん
18/09/13 07:57:52.17 .net
>>438
同じじゃないよ
「倭国」は倭王を王と認める範囲全体
「倭国」まで萬二千里は、実測値ではなく概数ということになる
東京から北海道まで900キロというのと同じ
「ヤマト国」大倭王のいる場所の地名で意味が異なる
原文は
「其」大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去「其」國萬二千里
去「其」西北界拘邪韓國七千餘里
「その(其)」が3つ連続するが、指すものはすべて同じじゃないと意味が通らないが
1つ目と3つ目の「その(其)」は明確に「倭(国)」
2つ目だけ「ヤマト国」と読むのは誤読

441:日本@名無史さん
18/09/13 10:30:56.96 .net
国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。
東京から北海道までなら、普通は新宿都庁から札幌道庁までを示す。
適当に真ん中までなんてことはない。

442:日本@名無史さん
18/09/13 14:11:14.47 .net
そうだね古文は省略が多い。そこを適切に補って読む能力識見はとてもだいじだ。
其(倭国)大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去 其(倭)國(の大倭王居を)萬二千里

443:日本@名無史さん
18/09/13 17:42:49.80 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

444:日本@名無史さん
18/09/13 20:03:07.66 .net
つまり大倭王のいた邪馬台国は帯方郡から一万二千里の九州北部だね。

445:日本@名無史さん
18/09/14 00:13:50.98 .net
>>441
>国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。
決まってないよw そういう思い込みが九州説の支えw
国境まで7千里と書いても、国の大きさがあるのだから倭国までの距離が7千里とはならない
この「其国」は、魏志倭人伝の「女王国」に対応するもの
女王の都までとか邪馬台国までを萬二千里とした史書はない
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも 何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを 続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを 意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、 『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが 明らかになった時点で無理なんだよ


446:日本@名無史さん
18/09/14 00:25:36.22 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前には木骨泥墻が登場してすでに土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
3500年前の商周代よりも前の王朝から宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、すでに瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
日本には縄文弥生を通して、これら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


次ページ
最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
暇つぶし2ch

2068日前に更新/302 KB
担当:undef