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200:日本@名無史さん
18/08/28 17:28:04.59 .net
糸島市に290ヘクタールの伊都城を想定する糸島説にとっては、推定50ヘクタール程度の川上の環濠集落くらいは認めてやっても良い。

201:日本@名無史さん
18/08/28 17:28:19.01 .net
>>199
> 佐賀が邪馬台国のエリアに入る栄えた地域であるとは思うけど、さすがに伊都は無理ではないか?

佐賀は大陸へ船出する出航地。 ただそれだけで栄えた地域。  @阿波


202:日本@名無史さん
18/08/28 17:29:28.75 .net
佐賀は大陸との交易にはひどく不向きだよ。
むしろ肥国の中心国邑の一つ。

203:日本@名無史さん
18/08/28 17:30:37.07 .net
>>200
>糸島市に290ヘクタールの伊都城を想定する糸島説

こましな弥生後期集落群のない糸島市・・・・・  @阿波


204:日本@名無史さん
18/08/28 17:38:20.37 .net
>>197
その発想無かった。
長崎、五島、済州島ルートは縄文系は有ったと思うけど
九州西岸かぁ。 狗奴国しか無いしw
むしろ、済州島交易が有りでしょ。
熊本遺跡?

205:日本@名無史さん
18/08/28 17:59:53.86 .net
桜井市ほにゃららセンターによると、纒向遺跡の広さも300ヘクタールらしいw
それなら川上の50ヘクタールも余裕だな。
ちなみに吉野ヶ里遺跡は40ヘクタール。

206:日本@名無史さん
18/08/28 18:02:26.48 .net
>>195
>計算ありがとう。
どういたしまして、短里は否定されましたね!
>どうみても短里です。
誇張された数字を戻せば短くなるだけ
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=「50m」/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=「200m」/1里
4倍差の出る単位なんてない


207:日本@名無史さん
18/08/28 18:03:42.04 .net
>>205
>それなら川上の50ヘクタールも余裕だな。
面積の問題じゃなくて、東西1キロが無理って話
環壕集落を、いくつも川の流露が横切るなんていうのを想定しても無駄

208:日本@名無史さん
18/08/28 18:05:17.51 .net
末慮国から、東南陸行五百里は、惣座遺跡辺りの佐賀平野だと思うよ
でもそこは伊都国ではない
それだけのこと
魏志倭人伝はその程度の正確さしかない

209:日本@名無史さん
18/08/28 18:37:50.91 .net
>>206
末廬国(呼子)ー伊都国(糸島)    40km/500里=「80m」/1里
伊都国(糸島)ー奴国(日向峠)   8km/100里=「80m」/1里
1里80mくらいですね。


210:日本@名無史さん
18/08/28 18:53:39.55 .net
>>209はザラコクなのかい?
言ってることが同じだぞww
中心国邑に着かずに、ある国に「着いた」と表現していたら、
行きと帰りで旅程が変わっちゃうだろ
むちゃくちゃな想定だって分かるかい?
まさに、ザラコク級の想定ww

211:日本@名無史さん
18/08/28 18:54:25.63 .net
>>188
よ〜く見ました。
現在、嘉瀬川は佐賀市の西を流れてますが、これは江戸時代に川替えしたためで、
その前は現佐賀市の東側を流れていたそうです。
図6・弥生期の佐賀駅東500メートルは、その旧嘉瀬川が流れ込んでいた入江なのです。
そもそも川筋ですから、陸化が遅れたのは当然であり、
この部分の陸化は、江戸期の川替えを待つほかなかったのです。
それよりここで重要なのは、B−B”線に沿って、早くから一帯の陸地化が進行しており、
弥生期には佐賀駅より7-8qも沖合へ達していたことではないでしょうか。
3世紀の奴国は、このあたりの水田化で大にぎわいだったのでしょう。

212:日本@名無史さん
18/08/28 19:00:14.68 .net
>>190
>扇状地の流路に対して横長1キロの環壕集落なんてないってばさ
東西1qの推定環壕集落に、環壕を損なうような流路はない。
どうやら推定区域外の嘉瀬川と見間違えているようだな。

213:日本@名無史さん
18/08/28 19:00:49.53 .net
>>211

こましな弥生後期集落群のない佐賀市・・・・・  @阿波


214:日本@名無史さん
18/08/28 19:09:48.49 .net
>>212
>東西1qの推定環壕集落
その範囲の北側の山、ゴルフ場の南側に4つの谷筋があるのは見えるかい?
今は暗渠になってたりするのもあるだろうが、西側の一本は今でも
開放水面のある水路がその推定領域を南北に横切ってるよ
この水路(+3本)を横切る環壕を想定するのがおかしいって話

215:日本@名無史さん
18/08/28 19:10:01.94 .net
>>213
佐賀市の集落跡は佐賀県庁・佐賀城の地下
そりゃそうと、阿波のお城はどこか???

216:日本@名無史さん
18/08/28 19:18:47.70 .net
>>214
この程度の小水路は鶏でもウサギでも飛び越す。
伊都国の人間なら、またいで通れる。
ま、畿内の倭種の人長三四尺とか、糸島の短足種族なら知らんけどな。

217:日本@名無史さん
18/08/28 19:26:56.35 .net
等高線を読めない地形オンチ

218:日本@名無史さん
18/08/28 19:32:37.56 .net
>>216
>この程度の小水路は鶏でもウサギでも飛び越す。
いや、人が水路を渡れるかどうかが問題じゃなくて、
環壕が水路を横切ってちゃおかしいだろって話
環壕が防御施設だって分かってるか?
環壕が水路のところで切れていたら、そこが防御の穴になるだけだって
これまでに発掘された環壕集落は川に挟まれた微高地を囲むように環濠を掘っている
環壕が何のためにあるのかを考えたら、環濠を水路が横切るってのが
とんでもないバカ話だってすぐに分かるだろ?
グーグルマップでそれっぽい道が見えたってだけの話に飛びつくから、
バカを見るんだよ
赤村の前方後円墳もどきも同じだけどさ

219:日本@名無史さん
18/08/28 19:41:32.59 .net
伊都国は佐賀川上だった説を主張しているのは数名。
九州以外もいるが、地元の地理・歴史・遺跡に詳しいメンバーもいる。
どこぞのアレのように、
神の手考古学とか、妄想歴史学とか、町おこしイベントみたいになっては虚しい。
で、最近のネット時代に鑑み、
全国どこからでも討論に参加できるようグーグルテックで話題を提供しているわけだ。
そこんとこ、よろしく。


220:日本@名無史さん
18/08/28 19:50:13.23 .net
>>218
短足種族だけに、やけに環壕にこだわってるな
環濠だけでも良いが、とうぜん完璧な防御にはならない、そこで必ず木柵・逆茂木とセットで用いられる。
これで、短足軍は簡単に防御できる。

221:日本@名無史さん
18/08/28 19:54:23.31 .net
>>220
>そこで必ず木柵・逆茂木とセットで用いられる
それ、水路が環濠内に流れ込んでたら、そこには置けないでしょ?

222:日本@名無史さん
18/08/28 19:56:01.22 .net
>>219
>話題を提供しているわけだ
村おこしの種だと理解しているならいいのだけれど、
それを信じて根拠にするバカが出ると、
それは違うんだよとやんわり言ってやらないといけないから面倒くさい

223:日本@名無史さん
18/08/28 20:00:33.37 .net
>>221
短足種族は、なーも知らんのだな。
水路の中にも杭は打てる、逆茂木も植えられる。必要なら櫓を組んで、その上から侵入しようとする短足を槍で刺す。。。

224:日本@名無史さん
18/08/28 20:01:39.22 .net
>>223
なんか受け答えがバカっぽいと思ったら、「キナイコシ」だったのかww
相手にして損したw

225:日本@名無史さん
18/08/28 20:10:00.78 .net
>>224
それはお前の名前だぞ。
忘れたか?

226:日本@名無史さん
18/08/28 20:18:06.48 .net
>>224
最初からカンチガイしてないか。
グーグルで見えたから、「環濠集落に間違いございません」、などとは言っておらんぞ。
だれがそんなこと言うか、そしてだれがそんなこと即信じるか。
カワカミタケルの伝説の地に、なんだかそれらしい画像が見れますよ・・・、昭和23年の画像でも同じような地割りに見えますよ・・・、といってるのだ。
とうぜん、学術的な発掘・証明はこれからなのだ。
加えて言えば、「そんなものはありえん」、と明確に否定するほうもおかしい。
小川のほかに、否定できる学術的根拠があって言ってるのかい。

227:日本@名無史さん
18/08/28 20:22:17.07 .net
キナイコシは最初からあらゆる可能性を否定して回るかわいそうな奴なんだよ。

228:日本@名無史さん
18/08/28 20:25:51.72 .net
>>226
>否定できる学術的根拠
そこまで明確ではないが、既に発掘されている惣座遺跡が、この周辺の中心的な
拠点集落であることは明らか
そこから程遠からぬところに、新たな国の中心があると考えるのは不自然
グーグルで見えると一生懸命に主張しているが、Yahoo!Mapでは見えないんだよ
グーグルは道を強調した画像になっているから、意味ありげに見えやすいってのもある
そして、環濠を横切る川がある環濠集落というのは、これまで発掘例から考えても
環濠の役割から考えても、あると思うほうが不思議というのもまぎれもない事実だ
あとは、村おこしベースでがんばってくれww

229:日本@名無史さん
18/08/28 20:57:23.71 .net
>>228
嘉瀬川西の川上地区(創建は古い):
・国分寺(創建不明・出土の瓦から佐賀県内では最古級)、
・国分尼寺、
・伝おぎ国庁
・大願寺
・五社大明神(春日大明神)
嘉瀬川東の総座・久池井・尼寺地区(この地の国分寺・肥前国庁の創建は明らかに新しい)
・国分寺(聖武天皇の8世紀中ごろ創建)、
・国分尼寺、
・肥前国庁
・野口の大願寺
・野口の妙見神社春日大明神
ある時期、手狭な川上から、広くて水も豊富な惣座一帯へ、一斉に(あるいは順次に)引っ越したのではないか。

230:日本@名無史さん
18/08/28 20:59:09.08 .net
>>229
>国分寺(創建不明・出土の瓦から佐賀県内では最古級)
国分寺という時点で、律令国家になってからだろ?
それこそ、惣座遺跡の官衙の付属物だ

231:日本@名無史さん
18/08/28 21:04:08.62 .net
>>228
ヤフーもみたけど、解像度が低くてどうにもならんな。
とはいえ、昭和23年の米軍の空中写真でも、現在と同じような「大環濠らしき」がうかがえる。
偶然にしては出木杉。これは重要なことと思う。

232:日本@名無史さん
18/08/28 21:17:59.32 .net
>>230
出土の瓦は、年代の古い百済の瓦だそうだ。これからして、惣座・久池井の国分寺より明らかに古いとのこと。
(川上の国分寺と書いてあった気がするが、正確な記憶ではない。今、メモを見なおすと、もしかして、川上の大願寺と惣座の国分寺の比較だったかも。続報)

233:日本@名無史さん
18/08/28 21:29:46.79 .net
>>230
>大願寺廃寺の造瓦を中心として創建年代については幾つかの説があって一定していない。
しかし、奈良時代の天平年間に創建された肥前国分寺よりもその創建がさかのぼることは、ほとんど疑う余地がなく、
県内に残存する最古の寺院跡の一つとして、その価値は高く評価されるものである。<
オリジナルは上の如し。
当方の記憶違いで、川上の大願寺と惣座地区の肥前国分寺の比較であった。失礼しました。

234:日本@名無史さん
18/08/28 21:33:23.40 .net
嘉瀬川西側なら、ヨドヒメ神社を忘れちゃいけませんよ。
嘉瀬川東側の惣座遺跡に肥前国庁
国分寺、尼寺など
嘉瀬川西側の大願寺、廃寺、船山古墳
多くの中小古墳
大和町史によると肥前国風土記で
肥前国庁以前には川上に近い小城に
国府があったということです。

235:日本@名無史さん
18/08/28 21:35:14.69 .net
尼寺のほうは春日小学校付近にあったらしいですね。

236:日本@名無史さん
18/08/28 21:39:26.95 .net
関連データ:
肥前国庁
築成時期は、出土した須恵器、土師器、多量の瓦などから、8世紀前半と推定されている。
肥前国府
『肥前国風土記』には国府について記録がない。
『和名抄』には「乎岐国府」(おぎこくふ)とある。しかし、奈良時代には久池井に置かれていたことが明らかなので、乎岐から移転したと考えられる

237:日本@名無史さん
18/08/28 21:39:53.16 .net
肥前国分寺は、久池井か尼寺地域と思われます。
惣座地域は高速道路ICあたりですね。

238:日本@名無史さん
18/08/28 21:57:58.23 .net
あの辺りの地域割りは、惣座・久池井・尼寺と連なってるのか。複雑だね。
まとめて言うときは、どういえばいいのかなあ?
●土蜘蛛
○登場地:小城郡(をき)
○比定地:佐賀県小城(おぎ)市
 昔、この村に土蜘蛛がおり、堡(をき=砦)を作って隠れ、天皇の命に従わなかった。
日本武尊の巡幸時、全てこれを罰し滅ぼした。
よって小城郡と名付けた、とある郡名由来記。

239:日本@名無史さん
18/08/28 22:02:19.61 .net
>>213
阿波の忌部も、讃岐の忌部も
祖神をたどると、高千穂天照に
行きますなあ。
忌部を重視したら、神武東征にも
繋がるよね?
宮崎の日南市に、
建設神社があり、忌部の祖神を
祀っているよ。

240:日本@名無史さん
18/08/28 22:12:28.66 .net
>>206
比定地がデタラメだろ。
糸島半島北岸ー伊都=500里
早良〜那珂川 100里だよ。
関東でも、どこでも良いけどwww
計算は比定が違えば、否定の意味が無い。
記述された里程に合わせて、比定しろよ。
妄想化してる、阿波以上のアホ。

241:日本@名無史さん
18/08/28 22:19:10.85 .net
>>211
>その旧嘉瀬川が流れ込んでいた入江なのです。
入り江と言えば入り江だけど、嘉瀬川が削って海になっているんじゃなくて、
筑後川が暴れ川で、運び込まれる土砂量が多いから、筑後川河口だけが先行して鳥肢状三角州として半島状に陸地化してたんだよ
ただそんな暴れ川の氾濫原は、稲作にも向かないし集落もできない
筑後平野は弥生末期に七万戸を容れられるような平野にはなっていない

242:日本@名無史さん
18/08/28 22:27:42.78 .net
堡(をき=砦)
小城(をき)の郡
乎岐(おぎ)国府
小城(おぎ)郡
小城(おぎ)市
その昔、をきの郡(こおり)には砦があったってわけか。

243:日本@名無史さん
18/08/28 22:29:13.10 .net
>>240
こいつもすげぇな
>比定地がデタラメだろ。
と他人に言いながら、これ
          ↓
>糸島半島北岸ー伊都=500里
糸島半島北岸が末盧国ってことか?
それとも糸島半島北岸が伊都国って言いたいのかどっちだ?
糸島半島北岸が末盧国なら、伊都国(三雲遺跡群)まで11キロ
これが500里なら1里=22メートルにしかならない
短里どころじゃないぞ
糸島半島北岸が伊都国というならその北東五百里の末盧国は海の上だな
どんな比定地だよw


244:日本@名無史さん
18/08/28 22:30:03.37 .net
九州上陸後、2千里が女王の都であって
末羅国なんてどこでも良いけど、呼子や唐津は違うだろ。
そんな辺境に上陸する馬鹿は目的が違う。
焼き物買うのか?
そもそも、伊都まで船で行けるんだぞw

245:日本@名無史さん
18/08/28 22:31:13.02 .net
>>240
>記述された里程に合わせて、比定しろよ。
古文書に合わせて現実をねじ曲げようとするのが、九州説あるあるだよな
魏志倭人伝には史料の限界があるんだよ
魏志倭人伝原理主義はいい加減にあきらめなよ

246:日本@名無史さん
18/08/28 22:34:33.56 .net
>>243
読めてないもんは
比定すんじゃなくて、質問すりゃいいだろw
何がしたいんだ?
何を比定したいための比定だよ。
絡むな、くず。

247:日本@名無史さん
18/08/28 22:40:06.04 .net
>>244
>そんな辺境に上陸する馬鹿は目的が違う。
その判断は正しい
伊都国に直接船で渡ってくるのでなければ、一大率が伊都国にいて臨津搜露するのが
意味が通らない
末盧国・唐津に上陸するのは、東南陸行五百里で佐賀平野(〜吉野ヶ里、米多郷(面土国?))へ
向かうのが目的のとき
その記録が伊都国への経路として間違って記載されている

248:日本@名無史さん
18/08/28 22:41:50.48 .net
邪馬台国周辺国11番 呼邑国は佐賀県小城市

249:日本@名無史さん
18/08/28 22:42:24.89 .net
>>246
>絡むな、くず
そこで論理的で具体的な反論ができずに、暴言でごまかすのも九州説あるある
絡んできたのはどっちだ?
まあ、今どき九州説寄りの立ち位置な時点でお察しってやつだなw

250:日本@名無史さん
18/08/28 22:49:54.68 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

251:日本@名無史さん
18/08/28 22:50:08.53 .net
>>247
唐津や呼子、上陸の理由は要らない。
伊都国には博多湾沿岸の港がある。
佐賀は無理筋。
奴国は東南百里で福岡平野、那珂川春日大野城周辺。
伊都は今宿〜早良
末羅は北西500里、糸島半島北岸しかない。

252:日本@名無史さん
18/08/28 22:50:11.59 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

253:日本@名無史さん
18/08/28 22:50:31.46 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

254:日本@名無史さん
18/08/28 22:50:56.05 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

255:日本@名無史さん
18/08/28 22:51:20.00 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

256:日本@名無史さん
18/08/28 22:51:41.40 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

257:日本@名無史さん
18/08/28 22:52:05.29 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

258:日本@名無史さん
18/08/28 22:52:25.84 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

259:日本@名無史さん
18/08/28 22:52:41.12 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

260:日本@名無史さん
18/08/28 22:53:01.13 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

261:日本@名無史さん
18/08/28 22:53:18.28 .net
>>32

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?

で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く考古立証しろよテメエは!

262:日本@名無史さん
18/08/28 23:07:12.25 .net
昭和23年の航空写真に現在と同じ地割りがあったからどうした?
そんなところは全国至るところにあるぞ

263:日本@名無史さん
18/08/28 23:14:05.66 .net
キナイコシが
「近年の開発により造成した台地の辺縁の道路がGoogleマップで強調されて見えている。
そんなところだろう」
みたいな言い方をするのを先回りしただけだろうね。

264:日本@名無史さん
18/08/28 23:20:39.82 .net
トンデモって歴史学で一番重要な、時間の経過による変化を考慮できてないんだよな
八咫鏡ガー!三種の神器ガー!弥生の矛ガー!現代の地割りガー!

265:日本@名無史さん
18/08/29 00:15:19.05 .net
>>263
「キナイコシ」さん、こんばんは(定型句)
今日もバカ丸出しですね!
>近年の開発により造成した台地の辺縁の道路
誰も言ってないのに、心の中の捏造の畿内説と日々戦っているんですね!
お薬増やしてもらった方がいいと思いますよw

266:日本@名無史さん
18/08/29 02:49:56.57 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という日本には存在しない石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石鋤や石犂に至っては、木製でさえ、永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

267:日本@名無史さん
18/08/29 07:38:16.63 .net
纏向学研究センターが
非常勤共同研究員制度を作るみたい
けしからんな
橿考OBの受け皿にならなきゃいいが
税金をなんと思ってるんだ (怒)

268:日本@名無史さん
18/08/29 07:38:51.50 .net
桜井市はくだらん事してるな
公益法人桜井市文化財協会
桜井市埋蔵文化センター
桜井市纏向学研究センター
税金が投入されていることを忘れないで欲しい

269:日本@名無史さん
18/08/29 07:39:22.64 .net
桜井市はくだらん事してるな
公益法人桜井市文化財協会
桜井市埋蔵文化センター
桜井市纏向学研究センター
税金が投入されていることを忘れないで欲しい

270:日本@名無史さん
18/08/29 07:39:51.85 .net
纏向遺跡の復元は「桜井市埋蔵文化財センター」主導でやるべきだが
「桜井市纏向学研究センター」がシャシャリ出る
「桜井市纏向学研究センター」は近い将来閉鎖だろう・・きれいに整理する理屈付けはいくらでもできる

271:日本@名無史さん
18/08/29 07:40:37.51 .net
畿内説は
学問を
銭にする生業
だから平気で嘘をつく

272:日本@名無史さん
18/08/29 07:43:52.18 .net
「桜井市埋蔵文化財センター」 VS  「桜井市纏向学研究センター」
仁義なき戦いってか

273:日本@名無史さん
18/08/29 07:49:07.79 .net
桜井市の予算を食いつぶすのは勝手だが、教科書に嘘をねじ込まないでほしい。

274:日本@名無史さん
18/08/29 07:50:58.75 .net
纏向遺跡は
「邪馬台国と絡めないと銭にならない」という事だよ
「邪馬台国・卑弥呼」の名前を出さなければ、単なる遺跡だから

275:日本@名無史さん
18/08/29 10:09:17.60 .net
>>274
国や市から金を引き出す為の方便だな
纏向遺跡が「邪馬台国・卑弥呼」と無関係なのは分かり切ってるんだけどな。

276:日本@名無史さん
18/08/29 10:16:12.77 .net
>>247
一大率は壱岐対馬、松浦に居てその辺の諸国を検察していたんですよ?
臨津搜露したのは呼子付近
末盧国・呼子に上陸し、東南陸行五百里で糸島へです。

277:日本@名無史さん
18/08/29 10:29:34.06 .net
先代旧事本紀の鴨や物部の系図、その他の各豪族の系図からも、
10代崇神から神武まで遡ること5〜6世代です。
10代崇神が4世紀初頭から前半に決まりつつあるので、
一世代間20年として、神武と卑弥呼の時代は同じです。
葛城の高天原最有力地(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に、
径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り、奴婢が埋葬されてます。
URLリンク(goo.gl)

ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代に葛城で土蜘蛛を征したのは神武です。

278:日本@名無史さん
18/08/29 10:39:23.20 .net
>>277
>10代崇神が4世紀初頭から前半に決まりつつあるので
嘘八百w

279:日本@名無史さん
18/08/29 10:53:11.30 .net
>>278
15代応神天皇が文献史的にも考古学的にも390年元年がほぼ決まり。
ならば神功皇后を入れて6代遡る崇神の時代が4世紀前半であることも確定。

280:日本@名無史さん
18/08/29 11:15:00.26 .net
>>279
考古学的にどんな証拠があるんだよw
文献なんて解釈が山ほどあるから都合がいいものだけ取れば年代なんてどうにでもなるよ。

281:日本@名無史さん
18/08/29 11:24:31.54 .net
>>276
漢委奴国王の金印を得た奴國から、
伊都國が、ちからをつけたものの
山門あたりの勢力がちからをつけた。
で、一大率を呼子あたりに置いて、
伊都國に睨みをきかせたんだろう。
ほかの紹介された國は、卑などの
字が、幹部につくのは、女王國にわりと
内政までうけいれてる形やわな。

282:日本@名無史さん
18/08/29 11:34:39.64 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

283:日本@名無史さん
18/08/29 11:53:26.54 .net
>>281
>一大率を呼子あたりに置いて
呼子を伊都国とする理由はどこにもない
以上
九州説は、今日も妄想が全開お盛んですね!

284:日本@名無史さん
18/08/29 11:55:25.03 .net
>>282
沿海が、出雲あたりで、先に発展し、
国造りにて、全国に展開。
鉄を使えたね。
で、水稲栽培を持った渡来人も
渡りやすい山東省から半島へわたり、
半島から、南下もしているだろう。
一方で、鳥船にて、直接きている
集団も熊本や筑紫あたりには、
いるだろう。
鳥船へ、帆先や舳先に、鳥が止まり、
先導する意味合いをみているからね。
それを表した古墳らは、熊本や
筑紫にあり、明らかに
違う思想が入ってきている。
これから、古事記の天の鳥船にも
繋がる。

285:日本@名無史さん
18/08/29 12:01:47.34 .net
鳥船塚古墳などもその典型だよね。

286:日本@名無史さん
18/08/29 12:04:28.62 .net
熊大の「船に乗る馬」リポジトリは、
中国古代船の鳥船とのつながりが、
違う思想が入ってきたのを
説明していますよ。

287:日本@名無史さん
18/08/29 12:06:44.81 .net
>>283
妄想から連想に、そして、想像して、
史実と照らし合わせる作業だがな。
それが古代ロマンやない。

288:日本@名無史さん
18/08/29 12:15:10.15 .net
>>280
>考古学的にどんな証拠があるんだよw
応神陵外堤の須恵器が最新編年で5世紀如頭あたり。

>文献なんて解釈が山ほどあるから都合がいいものだけ取れば年代なんてどうにでもなるよ。
倉西裕子『東アジアの古代文化112号』 の「『日本書紀』における紀年の編成をめぐる一考察」
【応神元年が390年である理由】
● 応神3年条において百済国の阿花王 (392-405)の即位を伝えているが、
『東国通鑑』『三国史記・百済本紀』は、阿花王の即位を392年と記しており、
逆算して求められる 応神元年は390年である。
● 応神8年条文註に百済国の王子直支の来日 を伝えている。
『東国通鑑』『百済本紀』は、直支王(405-420)を人質として遣わした年代を397年と記しており、
逆算して求められ得 る応神元年は390年となる。
● 応神16年条に「是歳百済阿花王薨」と所 見されるが、
『百済本紀』の伝える阿花王の崩年は405年であることから、
逆算して求められ得る応神元年は390年である。
● 巻九神功紀後半の紀年が四世紀後半に位置 づけられることは、
実証主義の立場からは否めない。従って、次巻の応神紀の応神元年は、
四世紀末にくる。応神元年条の正文にある「庚寅」の年 は
『日本書紀』の編年においては西暦270年に当たるが、
史実としては390年に設定されていると認識される。」

289:日本@名無史さん
18/08/29 12:16:41.86 .net
× 5世紀如頭
○ 5世紀初頭

290:日本@名無史さん
18/08/29 12:24:26.47 .net
>>284
>水稲栽培を持った渡来人も 渡りやすい山東省から半島へわたり、半島から、
>南下もしているだろう。一方で、鳥船にて、直接きている集団も熊本や
>筑紫あたりには、いるだろう。

で、これら脳内妄想の考古立証は?

.

291:日本@名無史さん
18/08/29 12:34:41.80 .net
>>290
帯方郡を作る際は、渡海していってるよね?
公孫氏を滅ぼすため。すでに、
その頃から、それ以前には、そのルートがあり、比較的に穏やかな海だからできるんやろ?
裏を返せば、
倭面土(倭回土で伊都という説もあるが)の
王なども、
洛陽やらに行った道でもあるをやないかな。
最短距離。

292:日本@名無史さん
18/08/29 12:45:55.95 .net
>>291
おまえ考古立証の意味も分からねえゴミカスか?
考古立証とは、証拠遺跡とそこから出土した生活土器や金属器や石器や農具や住居痕などの証拠生活文物でそれを立証する事だぞ。

で、290で抜粋した部分の考古立証は?

.

293:日本@名無史さん
18/08/29 13:07:32.00 .net
九州説ですが、神武と卑弥呼は近い年代だと思います。
神武らが倭国の王都である伊都を去った後に伊都で即位した女王が卑弥呼でしょう。

294:日本@名無史さん
18/08/29 13:16:56.06 .net
>神武らが倭国の王都である伊都を去った後に伊都で即位した女王が卑弥呼でしょう。
その「伊都で即位した女王」の名前をスカッと答えてみようか。
もちろんそんな人はいないのだが…

295:日本@名無史さん
18/08/29 13:41:45.69 .net
>>292
魏志倭人伝より前に
倭人について、
曹操一族の墓にかいているやん。
同盟結ぶかどうか。
ならなんで、曹家と倭人が
親しくなり、曹家が、禅譲したあと
パタリと止んでしまう可能性も
みえるやないか。

元宝坑1号墓32号字砖上有
“仓天已死”四字。
74号字砖“……有倭人以时盟不(否)”7字。
“倭”为古代日本国名。
东汉灵帝时,正值倭国大乱,
字砖反映结盟结束的事实。
墓主为会稽郡曹君,
会稽郡是倭人通往中国的港口,
因此倭人与曹氏家族有密切关系。
曹操父曹嵩,灵帝时官大鸿胪,
掌四夷诸王,
谯城倭人可能通过他们内迁,
字砖亦可能是倭人手迹

296:日本@名無史さん
18/08/29 13:44:16.36 .net
翻訳ソフトやらでは、
中国語の漢字に隠された
文法を読み落とす可能性
あるから、注意すべきやな。
漢文読みとかでは、
「自」のもつ意味が、
どれほど重要かは、わからない。

297:日本@名無史さん
18/08/29 13:56:51.97 .net
陳寿さんが、会稽をかいているでしょ。
魏志倭人伝に。なぜ会稽かも、
これでわかるでしょ。つながるから。
で、重要なのは、この会稽と
帯方郡(東側)の距離にも言及してる。

298:日本@名無史さん
18/08/29 14:13:20.00 .net
自郡至女王國 萬二千餘里
と魏志倭人伝がかいていて、
そのあとのすぐ文に、
色々倭人の紋身とか説明して、
計其道里 當在會稽東治之東
をかいているよな。
この其れが意味しているのは?
計算して、其れと言ってる。
つまりは、前段の女王國の万二千里なんよ。
帯方郡から女王國まで、万二千里。
で、ここも會稽から帯方郡の東まで、
万二千里と言ってるんよ。やないと、
其は、先にきている文書のなかにあるから、
其れは、當在會稽東治之東を意味してない。
つまり万二千里は、
會稽から帯方郡も同じ距離やね!
と言ってるんよ。

299:日本@名無史さん
18/08/29 14:16:07.51 .net
実際、グーグルでみたら、わかるよ。
同じ距離。万二千里。
距離など、間違えた感じでは、
書かんよ。
はっきり陳寿さんは、わかってるよ。
場所を。
しかも曹家に対しても、律儀に會稽を
わざわざかいている。

300:日本@名無史さん
18/08/29 14:21:16.68 .net
會稽から万二千里が、帯方郡から女王國の
万二千里などは、中国でも
最近、散見される意見だわな。
海外の視点からも、考察は、
ふえてきているよな。

301:日本@名無史さん
18/08/29 14:55:46.00 .net
こと当在の当は、まさにとかやなく、
古代の当の意味でみないと。
当は、相当する。イコール。のいみやから。
あとの並列した都市間が、意味をなしてくる。

302:日本@名無史さん
18/08/29 15:32:56.70 .net
>>298
刺青の下り >>4
計其道里當在會稽東治之東
まで、
は、はっきり言って、陳寿の文章壊れてます。
出展には、倭人の奏上 太伯の後 が有ったものを
魏はその呉との決戦を控えてるのに、この倭人と同盟するのか?
という思惑で、削除しています。 
この、修正は陳寿がしたか?も判りませんが、文章はおかしい。
倭の刺青の理由が、太伯の会稽に起因するとして、
会稽と倭は洛陽と会稽ほども離れている、と言う原文が予想できますが、
前段の 自郡至女王國 萬二千餘里 を受けて、刺青の理由は太伯の会稽だとしても
会稽から倭は、洛陽から会稽の一万2千里を東にするほどはなれてる、もあると思います。
この文、普通に修正ができませんので、
以前は、倭人の刺青の道理は、会稽に由来する、として ぶん投げました。
これ、古代漢語の 東 が 起源始まり を意味するというゴリ押しが有ります。
いま思いついたw 洛陽=東京=東治 って出例文無いかな?

303:日本@名無史さん
18/08/29 16:20:33.37 .net
>>296
アタシには中国語はさっぱり読めませんので
レスが気になったら、日本語に訳すと漢字が出るので
そっから、出展の漢文を想定してます が、なんか違います。
ググると、中国語ページで余計パニくるw
中文から漢文訳のソフトは有料であるようですが そこまでは・・・
良い方法を知ってる方、教えてください m(,_,)m

304:日本@名無史さん
18/08/29 17:21:03.66 .net
会稽は、
中国では、会計と同じと言ってる。
しかし、会には、
hui.gui.kuaiの3つの発音があり、
どの発音かまで、調べている。
huiでおちついているから、会合などの
意味の会計だろうと判断している。
kuaiにて、読むと日本の会計から来た意味に
なる。

305:日本@名無史さん
18/08/29 17:22:55.62 .net
>>303
>良い方法を知ってる方、教えてください m(,_,)m
よい方法 つ「教科書を読んで勉強する」
それだけで大丈夫だよ
その気で勉強しさえすればいい
「精読百遍意自ずから通ず」

306:日本@名無史さん
18/08/29 17:31:38.14 .net
会稽(会合の中心場所的な意味)は、
今も昔も、
中国の一大シルク集積地だ。
魏志倭人伝の中に、養蚕があるが、
日本をもシルクロードのはじまりと
すれば、ここに来ていただろう。
その時に、曹家と倭人が
出会っていたんだろう。
だからこそ、同盟すべきかとか、
倭国が、
呉側についていくのかなどを、
魏としては、さらに考えたんだろう。
中国では、洛陽に都を置く、王朝を
正統な黄河文明として、格上げしているから、
漢なきあとは、魏になるわな。

307:日本@名無史さん
18/08/29 17:33:56.00 .net
ふーん、会稽は絹の生産地なのか。
そう言えば卑弥呼も自国の錦を献上していたっけ。
その辺りからの文化の流入は間違い無いんだな。

308:日本@名無史さん
18/08/29 18:16:02.64 .net
>>306
よく考えたら、日本語で書いてるのに
漢文だけ中国語になってるっておかしいかもね?
中国人ってのは、経典とかも中文になるとそのまま意味わかるのかな?
鳩摩羅什や空海で学んでしまった門前の小僧のアタシには多分無理です。
ここじゃ、陳寿だけどw

309:日本@名無史さん
18/08/29 18:40:39.64 .net
>>4 倭人の刺青のくだり無しで
自郡至女王國 萬二千餘里
の後
計其道里 當在 會稽東治 之東
だと
満二千里の概念の説明だよね。
まあ、刺青のくだりに 道里も方角も必要ない のは明らかだし
ここにこの 會稽から? 東治まで? の道里の説明文があることが変なんだけど、
説明が必要ってことは、この時に、里程概念 が
一様ではない ってことで、良いんじゃね?
写本 1100年位だっけ? に、キナイコシ? 
が、九州説に 判りにくいように 改竄した、に、一票。
やるじゃんwww キナイコシかっけぇ〜!

310:日本@名無史さん
18/08/29 18:43:03.97 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

311:日本@名無史さん
18/08/29 18:55:34.68 .net
石包丁は無視ですか。

312:日本@名無史さん
18/08/29 19:05:10.74 .net
石包丁は耕作用農具ではありません。
収穫用農具です。
よろしいか。
馬鹿の人。

313:日本@名無史さん
18/08/29 19:07:31.23 .net
>>309
万二千里の概念を
倭人の紋身のなかの文書に、
いれたのは、
陳寿さんは、
女王國が帯方郡にいくまでの万二千里も、
直接、鳥船で、今まで、會稽に来ていた倭人も
同じ万二千里だよと。説明しとるのかもね。
そこの鳥船は、想像だが、敢えて、
その文章の中に、ねじこんだ意味は、
以前からそこに、来ていたことを
意味し、今、新しく帯方郡というルートが、
出来上がった意味もこめてるんやないかな。


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