邪馬台国畿内説 Part362 at HISTORY
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200:日本@名無史さん
18/07/16 18:14:49.25 .net
>>122
>>だから、お前の漢文の訳が「張元済本の苑を全部宛に変えてあった」からおかしいんであって、<
>失礼だなぁ。 >>210(前スレ) のは書き下しただけで訳していないよ。()内は理解しやすいように補足してあるだけ<
変な男。
「書き下し」文なんて「訳」文であって、元の漢文ではないよ。
そして結局お前は、
張元済本の「苑」となっている漢文の方は提示したが、
「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。
という事は、書陵部本の方も「苑」となっていて、
お前がウソを付いていた事になって、提示出来なかったんではないか?。

201:日本@名無史さん
18/07/16 18:17:11.03 .net
>>124
大和説は、結局、証拠も論理も全て否定されたから、×。

202:日本@名無史さん
18/07/16 18:17:28.46 .net
>>186
彼がそんなことしてるって証拠は?

203:日本@名無史さん
18/07/16 18:19:31.94 .net
>>188
>「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。
そんな本がある、という話そのものが
ザラコクの捏造じゃないの?

204:日本@名無史さん
18/07/16 18:21:41.20 .net
>>187
>九州説の場合、魏志倭人伝など文献で確認できることは断定的に書いているよ。
じゃ、断定だけして、確認した証拠を出さないのは何故?

205:日本@名無史さん
18/07/16 18:34:25.76 .net
>>190
>>176が証拠になってますよ

206:日本@名無史さん
18/07/16 18:38:14.45 .net
>>192
魏志倭人伝や記紀は自分で確認できるだろ?

207:日本@名無史さん
18/07/16 18:39:33.63 .net
>>187
>九州説の場合、魏志倭人伝など文献で確認できることは断定的に書いているよ。
wwwwwwww腹筋クラッシャー再び!
短里や島巡り仮説が、文献で確認できるんだよな!!!
もう、大笑いw

208:日本@名無史さん
18/07/16 18:44:36.12 .net
スレ主って何してる人なんだろ、相当暇だよね

209:日本@名無史さん
18/07/16 18:46:51.50 .net
>>129
>>そうだね。この男は、どうしても、書陵部本と張元済本の該当箇所の提示しないで、 勝手に「間違えたまま」とするインチキ詐欺師であった訳だね。<
>提示するとかしないとか関係ないでしょ。<
張元済本の原文に方は提示していたけれど、書陵部本のに原文の方は、まだ提示していないよ。
>書写や刊行本を作るときの原理原則で「間違えたまま」になるのだからさ。<
書写は、全書写で0.5%位の間違いがあるが、版刻では、原則として間違いは0.5%以下だよ。
>>結局この男も、唐代史家や現代大和説者らと同じく、「自己解釈に拠る書き換え」を肯定するインチキ詐欺師であった訳ね。<
>(再掲)書き換えはないんだよ。逆もないわけ。ただ誤記だけがある。肯定してないでしょ。的外れな誹謗中傷だね。<
写本では誤記があるが、後代史書では唐代史家らも現代大和説者らも、「意図的な書き換え」だよ。
>>「海」と「馬」の誤記なんて、可能性が全くないよ。<
>そんなの希望だって。書写する人の能力に左右される。<
字形も意味も違い過ぎるから、誤記ではなく、意図的な書き換え。
>>>>アホ男に言っても判らんのだろうが、 後代にあった文言よりも、後代にはなかった文言の方が古文。<
>>>誤記なら前代にも存在しないでしょ。<
>>前代にあった、というのが史料事実であり、史料実態。この男は、科学や学問には向いておらず、宗教や詐欺師に向いている男。<
>補強材料もないのに言い張っているだけでしょ。 学問には慎重さが必要なんだよ。 反論に誹謗中傷で返していて学問になるの?<
後代の知見に拠る書き換えがあった、という形になっている事が史料事実なの。

210:日本@名無史さん
18/07/16 18:50:08.95 .net
>>130
>つか、城もないよな山の中(笑)が荊予二州総司令官の治所だと言い張る人々って、どういう頭の構造しとんのかね<
「屯苑」だから、「屯」所だよ。

211:日本@名無史さん
18/07/16 18:53:46.17 .net
>>132
>鋭い。 その生駒葛城山系の東側に高天原が有るしね。 大和朝廷の発祥地だし。
そういうとアホがすぐに何遺跡なのかと聞いてくる。
日本では太古の王の痕跡は神社になってる。 式内社の中でさらに霊験あらたかな名神大社をみればいい。
遺跡云々は考古バカの言う事。<
大和朝廷なんて存在していなかったから、この男も、考古バカだ、という事。

212:日本@名無史さん
18/07/16 18:56:25.66 .net
>>139
>卑弥呼に関係する信仰や伝承 でも倭国(阿波)。  @阿波<
「南≠東」に拠って、×。

213:日本@名無史さん
18/07/16 19:06:47.05 .net
>>198
「苑」が「屯」所なら治所を移すという話と繋がらない

214:日本@名無史さん
18/07/16 19:09:09.84 .net
>>198
あのね
「乃表徙治新野」
って書いてあるでしょ
つまり今まで屯していたのは州治なの
郡太守より格上の刺史よりまた格上の
2州を統括してる征南将軍仮節都督諸軍事の治なんだよ

215:日本@名無史さん
18/07/16 19:10:06.28 .net
>>153
>記紀を読むといくつかの勢力が滅亡している。
最終的に現在の天皇家が生き残っているが、それだけ見て万世一系を唱えるのはナンセンス。
卑弥呼の王統だって消えてしまった勢力の一部であった可能性が否定できない。<
卑弥呼の東海姫氏は、倭王武の次の倭國王哲で倭王は終わって臣下になったが、
松野連家や紀氏として新撰姓氏録に存続し、
松野氏姫氏系図では、関ヶ原で負けた宇喜多に仕えた記載の後、消失したが、
尚も、熊本などに「松野」姓の人々が存続しているらしい。

216:日本@名無史さん
18/07/16 19:19:38.12 .net
昨日のNHKを見ても、日本人は黒潮の民と言えるかもな

217:日本@名無史さん
18/07/16 19:24:04.23 .net
>>156
>だーかーらー、「可能性が否定できない」って言い出したら、なんでもありにしか
ならないんだって そうなったら、科学ではないし、議論も検証もできない
例えば「>>150は卑弥呼の生まれ変わりである。その可能性は否定できない」って言われても
確かに否定できないけれど、だからどうした、って話にしかならないだろ?
もうちょっと、他人を説得できる根拠を積んでおくれよ<
だーかーらー、自然や歴史における学問や科学においては、
「確率の高さ」が問題であり、
議論価値がある。

218:日本@名無史さん
18/07/16 19:29:53.69 .net
>>205
算出根拠のない確率って・・・

そりゃ価値ねーよ

w

219:日本@名無史さん
18/07/16 19:43:31.77 .net
>>204
黒潮でどこから来たの?
やはり呉の太伯の末裔?

220:日本@名無史さん
18/07/16 19:44:56.95 .net
>そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ
そんな記事で邪馬台国の位置がわかるという奴は
頭ヘンだよね
つまり畿内説はアホということで結論なー

221:日本@名無史さん
18/07/16 19:47:37.53 .net
>>159
>>「屯苑≠屯宛」であり、「宣池付近の場所が宛と襄陽の間のどこか」という実態には、何ら変わりがない。<
>「苑」なんて地名ないし。田んぼしかないよ。<
張元済本における史料事実だよ。
>>書陵部本と張元済本の両方の該当箇所を見なくっちゃ、議論が進まない、
という事を拒否するお前がインチキ詐欺師。<
>なぜこちらで何もかも準備しなきゃならないんだよ? 君の怠慢までこちらの所為にされてはたまらんね。
「今屯苑,去襄陽三百餘里,諸軍散屯,船在宣池,有急不足相赴,乃表徙治新野,習水軍於二州,廣農墾殖,倉糓盈積。 」<
これはこれは、有難うございます。
という事は、やっぱり書陵部本でも「苑」であった、という事であり、
始めに書陵部本は「宛」になっている、と言っていたお前は、ウソを付いていた訳だ。
>>いや、「屯苑」は、当然宛と襄陽の両方に対しての「屯所」。<
>「宛」に対して必要ないよ。<
三国時代にあっては、どこからの急襲があるやも知れず、守備兵だけでは足りない事は幾らでも有り得るよ。

222:日本@名無史さん
18/07/16 19:47:47.43 .net
追い詰められるキナイコシ

223:日本@名無史さん
18/07/16 19:52:11.07 .net
>>160
>>淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である<
>夏候淵は「行」護軍将軍ですけど<
当然都に勤務待機していて、事あらば、どこにでも行く、
とう事が仕事だから「行」なんだけど。

224:日本@名無史さん
18/07/16 19:52:29.26 .net
ザラコクさんは本当に邪魔
出雲と吉備、美作あたりの四隅突出墓の時代の関係とかを論じたいのに、
ザラコクさんがバカ過ぎてそこまで手が回らない

225:日本@名無史さん
18/07/16 19:55:49.99 .net
>>208
>>そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ
>そんな記事で邪馬台国の位置がわかるという奴は
>頭ヘンだよね
やっとザラコクさんも分かったか!
そうなんだよ! 古田史学の会が主張するような
出発方向だけの記載で「案内人や道標任せ」だったら、邪馬壹国の位置が
分かるはずないよな
ザラコクさんは、出発方向が記載されていて、その後は案内人や道標任せで行くって
主張していてかつ位置が分かるっていってるけどさww

226:日本@名無史さん
18/07/16 19:58:01.02 .net
>>213
ごめん、>>208はザラコクさんじゃないかな?
ザラコクさんと同レベルのオウム返しだからザラコクさんかと思ったww

227:日本@名無史さん
18/07/16 20:06:34.26 .net
>>161
>>屯する場所を苑から新野に変更した、という事だから。<
>大軍を収容する宿舎とか必要なんだよ。<
だから「苑」では散在していた。
>>>水害の危険のあるところで多くの動物を飼育しないでしょ。だから不適切。<
>>「宣池」がある場所。<
>結局「苑」の意味も理解しないで言い張るだけですか。<
「神宮外苑」位しか、直ぐには思いつかないよ。
>>全くのアホだなあ。新野は、宛と襄陽の真ん中辺なんだよ。だから、宛と襄陽の両方の変事に備えているんだよ。<
>吳の支配域からより遠い宛に、突然侵攻されないでしょ。<
青龍三年では、まだ蜀もあったのではないか?と思うし、
呉も遠回りして宛を攻撃する事もないとは言えない筈。
>>書陵部本では、根拠になり難いし、 「四書文庫」なんて全く知らんが、また現代通説本ではないのか?。<
>「欽定四庫全書」と間違えたわ。<
四庫全書では、また、後代権威学者の「自己解釈に拠る書き換え」が十分に有り得る書だな。

228:日本@名無史さん
18/07/16 20:12:42.21 .net
>>215
>十分に有り得る書だな。
「十分に有り得る」ww
いつもの根拠なしご都合解釈w

229:日本@名無史さん
18/07/16 20:25:10.64 .net
>>163
>>漢代の記録や上表文などには、長里記録が当然残っている可能性もある事は、何度も言っているし、
最近の古田史学では、短里の使用は明帝の頃からだった、という話もある。
要は、魏使らの記録や陳寿の地の文では、原則として短里で記録記載されている、 という事だ。<
>定まっていないね。<
魏使らや陳寿らは、定まっていたという事であり、
魏の役人たちは、漢代記録や上表文は、そのまま記載し、
魏代初期の記録は、長里と短里の両方があった可能性がある、という事だ。
>可能性を何度も言っても何も変わらんよ。 具体例を示さないとね。
言い張れる材料がないなら断言するべきでないよ。<
いずれもYahooでの議論になった例であり、
textreamに変わってから、
古い議論が全部出せなくなり、抹殺されて消失してしまったし、
もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。

230:日本@名無史さん
18/07/16 20:26:27.72 .net
ザラコクさんの得意技 半分×書ww
原典の典拠を示しての反論をされると、半分×書ということにして、
その記述を間違いと言い出す
その一方で、同じ書でも都合のいいことは正しいという なぜなら×なのは
半分であって正しいことも書いてあるのが当然
何が正しくて、何が書き換えられた部分なのかは、ザラコクさんが決めるww
チェリーピッキングもここに極まれりだな

231:日本@名無史さん
18/07/16 20:49:52.27 .net
>>217
>もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。
覚えてない程度のものは、どうせたいしたことはないんだよww
結局、根拠も理由もなく言い張るだけってことだなw
九州説クオリティ、乙!

232:日本@名無史さん
18/07/16 20:51:42.67 .net
>>164
>>まだ、「屯苑≒宣池付近」の場所は確定しておらず、未定なままだよ。
判っている事は、宛と襄陽の間のどこか?であって、
宛と襄陽の真ん中辺の新野よりは、宛や襄陽の緊急時に出動に不便な場所。<
>襄陽から三百里なんだよ?<
長里であれば、ほぼ宛に届いてしまって散屯する必要もないし、宣池もあった筈だが見つからないから、
長里ではない。
>さてここで追加情報。
《晉書》卷一帝紀第一 宣帝
「太和元年六月,天子(明帝)詔帝(司馬懿)屯于宛,加督荊、豫二州諸軍事。」
司馬懿は明帝から宛に屯せよと命令されていた。
後任の「假節都督荊、豫諸軍事」である王昶が宛に屯するのは当然のことだよね。<

後代の唐代に書かれた晋書では、
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」などの例に拠って、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をしている史書である事になり、
信頼性が落ち、
そんな半分×書での「屯宛」では、根拠になり難いな。

233:日本@名無史さん
18/07/16 20:59:08.03 .net
>>169
>>淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である<
>その夏候淵は定軍山で死んでるんですけど?<
「行」していた時に亡くなったのであり、
長安に常駐していなかった、という事の証拠にもなる事だよ。

234:日本@名無史さん
18/07/16 21:01:08.52 .net
>>220
>そんな半分×書
半分×書なんていうチェリーピッキングがデフォルトのザラコク理論ww

235:日本@名無史さん
18/07/16 21:03:59.97 .net
>>221
そういう意味じゃなくて、
「都護軍将軍」は、「都」「護軍将軍」と切ったらダメなんだよ
「都護」の「軍」の「将軍」なんだからさww

236:日本@名無史さん
18/07/16 21:04:05.40 .net
>>171
>>「想起される」
「推認できる」
「成り立つ余地があろう」
「保証されているようにさえ映る」
「可能性を考慮する必要がある」
「解釈もあり得よう」
スレ主が誤魔化し方のバリエーションをたくさん示してくれているな。⇔
>おお、結構厳密に言葉を使ってるな<
殆ど皆、「確率は低いですが」と白状しているように、見える。

237:日本@名無史さん
18/07/16 21:16:23.20 .net
>>173
>九州説は、なんでも断定しちゃうからねw<
九州説者は、殆ど全て、確率が非常に高い(例えば「99.5%」位)事を根拠にするが、
大和説者は、「南→東」などのような、
確率が極めて低い(例えば0.5%以下)の事を根拠にしている。
>はっきりしていることと、解釈の余地があることは厳密に区別しないと
畿内説でも、「可能性がある」レベルのことはあるけれど、それはそこまでのことで
不確実なことを基礎にその次へ推論を進めたりはしない<
ここでもこの大和説男は、
「畿内」なんて存在もしていない(確率が殆ど0%)文言を、
あたかも確率が高くて存在していたかのような言い方をして、
国民を騙そうとしているから、
「南→東」などの騙しと同じく、
嘘つき騙しの詐欺師。

そこの差が大きい、というが大きすぎるんだよ

238:日本@名無史さん
18/07/16 21:28:05.31 .net
170日本@名無史さん2018/07/16(月) 16:44:47.75>>171
「想起される」
「推認できる」
「成り立つ余地があろう」
「保証されているようにさえ映る」
「可能性を考慮する必要がある」
「解釈もあり得よう」
スレ主が誤魔化し方のバリエーションをたくさん示してくれているな。

239:日本@名無史さん
18/07/16 21:30:41.54 .net
>>174
>>魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石、旋軍並止罷。」(「後漢書志」百官一、劉昭註)
これは「都に護軍中尉を置き、(都に)護軍将軍を置く。」の省略形であるから、護軍将軍の官は「都」に置・・・<
>こりゃ傑作だ 古田ってホント漢文読めないんだな
「都護軍校尉」を置いた話を「都に」置いたと誤読したのか 笑えるわー <
この男も、・・・・だな。
行護軍将軍が、「行=地方で行動する」」護軍将軍、を意味するように、
都護軍校尉が、まさか「都護」の軍校尉ではあるまいし、
「都を護軍する校尉」の意味であっても、
何らおかしくない。

240:日本@名無史さん
18/07/16 21:31:31.26 .net
>>227 

で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?

で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

今言えサギジジイ!

241:日本@名無史さん
18/07/16 21:34:21.88 .net
>>176
>>俺がスレ主なら恥ずかしくて生きてられないだろうな
そういう図太さだけは感心する<
>なにが、はずかしいの?<
「確率が少ししかない」という事を意味する言い回しばかりであったから。

242:日本@名無史さん
18/07/16 21:38:20.83 .net
>>177
見てると、大和説の人にとって、このスレのテンプレが、
本当に邪魔でしょうがないみたいだねww。
まあ、たいていの戯言は既に論破済みであり、その事の言い訳になってる。
つまり、大和説の存立余地が皆無なことを示すテンプレになってるからね。

243:日本@名無史さん
18/07/16 21:41:28.35 .net
>>179
大和説信者は基礎学力や脳がないから、
「南→東」などの明確な嘘つき騙しだけではなく、
往々にしてこういうアホもやる。

244:日本@名無史さん
18/07/16 21:49:31.75 .net
>>183
>長安で八面六臂の活躍した話のすぐあとに甘粛で発生した事件対応の話題だろ<
長安に常駐していなかった、という事の証拠だろ?。
>長安での話だと分からない奴は、チエオク<
夏侯淵が長安に常駐していなかった、という事が分からない奴あh、チエオク。

245:日本@名無史さん
18/07/16 21:53:05.65 .net
>>184
>「南≠東」は「会稽東治之東」で×。<
「会稽東治之東」が九州でほぼぴったりだから、
「南≠東」が〇。

246:日本@名無史さん
18/07/16 21:57:15.00 .net
奈良は京都から見て村はずれ


247: 村はずれに墓は作る 邪馬台国の王都は京都 奈良は墓地



248:日本@名無史さん
18/07/16 21:58:07.87 .net
>>185
>>そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ<
>そんな記事で邪馬台国の位置がわかるという奴は頭ヘンだよね
つまり九州説はアホということで結論なー <
魏使らが、案内人も道標も無しに「女王之所都」まで行った、なんていう奴は、
頭が変だよね。
つまり大和説や反古田狂はアホということで結論なー。

249:日本@名無史さん
18/07/16 21:59:33.96 .net
インダス文明しかり
黄河文明しかり
大河に文明は起こる
大和川なんて屁
淀川水系に大国は有ったのだよ

250:日本@名無史さん
18/07/16 22:06:02.12 .net
ただし邪馬台国とは関係ないけどね。

251:日本@名無史さん
18/07/16 22:15:15.44 .net
>>188
>変な男。
>「書き下し」文なんて「訳」文であって、元の漢文ではないよ。
はぁ?「書き下し文」と「訳」の区別もつかなければ、漢文を読めるわけがないですな。
>「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。
>という事は、書陵部本の方も「苑」となっていて、
>お前がウソを付いていた事になって、提示出来なかったんではないか?。
失礼だなぁ。そんな主張してないよ。
ずっと誤字だと言ってるだけなんだが。

252:日本@名無史さん
18/07/16 22:18:26.81 .net
>>197
>書写は、全書写で0.5%位の間違いがあるが、版刻では、原則として間違いは0.5%以下だよ。
数字の根拠なし。
>写本では誤記があるが、後代史書では唐代史家らも現代大和説者らも、「意図的な書き換え」だよ。
そんなこと言ったら《三國志》の刊行本でもあり得るでしょ。
気に入った文献だけ「書き換え」が無くて、気に入らない文献は「書き換え」が有ると勝手に認定しているだけだね。
>字形も意味も違い過ぎるから、誤記ではなく、意図的な書き換え。
そんなの希望だって。
>後代の知見に拠る書き換えがあった、という形になっている事が史料事実なの。
君の仲間内だけだろ。

253:日本@名無史さん
18/07/16 22:18:46.61 .net
卑弥呼の墓は、日本で最も聖なる土地にある、日本で最も古い神社の境内にある。
高天原(御所市高天)にある高天彦神社だ。
鳥居をくぐった境内に、径百余歩の塚(小山)があり、
魏志倭人伝の記述通り、その周囲に奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
URLリンク(www.progoo.com)
卑弥呼やその一族は、死後に高天原の神々になったのだ。

254:日本@名無史さん
18/07/16 22:20:27.15 .net
>>209
>張元済本における史料事実だよ。
他で確認も出来ないし、地名かどうかも分からんだろ。
>という事は、やっぱり書陵部本でも「苑」であった、という事であり、
>始めに書陵部本は「宛」になっている、と言っていたお前は、ウソを付いていた訳だ。
失礼だな。なっているなんて言ってないよ。
そちらの勝手な決めつけだ。
こちらはずっと誤記と言ってきたよ。
>三国時代にあっては、どこからの急襲があるやも知れず、守備兵だけでは足りない事は幾らでも有り得るよ。
適当な思いつきだろ。

255:日本@名無史さん
18/07/16 22:22:48.40 .net
>>220
「苑」は荊州治所の「宛」の誤植なので
襄陽〜南陽市宛城区の直線距離が約116kmで、300里だと1里約387mだから
道なり距離で公里の約434.16mに近い数値
王昶が半分の距離の新野(襄陽から直線で約60km)に治所を移しで
(三州口?で)水軍を習練し、開墾、穀物を盈積した

256:日本@名無史さん
18/07/16 22:28:44.09 .net
>>195
>短里や島巡り仮説が、文献で確認できるんだよな!!! もう、大笑いw<
短里や島巡りは、文献の記載実態そのものだったんだよね。

257:日本@名無史さん
18/07/16 22:32:22.47 .net
>>215
>だから「苑」では散在していた。
付近には他にも城があるのだから成り立ちませんな。
>青龍三年では、まだ蜀もあったのではないか?と思うし、
>呉も遠回りして宛を攻撃する事もないとは言えない筈。
三國志読んでいないから適当な事をいう。
この頃には既に蜀の荊州の領地は無くなっていた。
呉の拠点江陵から一番近いのが襄陽ってこと。
魏の領内を遠回り?退路絶たれて全滅だよ。
>四庫全書では、また、後代権威学者の「自己解釈に拠る書き換え」が十分に有り得る書だな。
また勝手な「書き換え」認定か。

258:日本@名無史さん
18/07/16 22:33:56.92 .net
>>243

で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?

で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?

早く言えバカジジイ!

259:日本@名無史さん
18/07/16 22:34:42.57 .net
>>201
>「苑」が「屯」所なら治所を移すという話と繋がらない<
「苑=宣池などがあったところ」では、
緊急援軍に不便で間に合わない事があってはいけないから、
新野に屯地を移したんだよ。

260:日本@名無史さん
18/07/16 22:42:10.56 .net
>>202
>あのね 「乃表徙治新野」 って書いてあるでしょ
つまり今まで屯していたのは州治なの<
今まで屯していたのは、「苑=宣池付近」だよ。
>郡太守より格上の刺史よりまた格上の 2州を統括してる征南将軍仮節都督諸軍事の治なんだよ <
「苑=宣池付近」に、そんな身分の人が治していた、なんて書かれていないでしょ?。

261:日本@名無史さん
18/07/16 22:45:59.51 .net
>>246
征南將軍、假節都督荊・豫諸軍事の王昶が
治所でもない、鳥獣を養うような不便なところに駐屯していることはない

262:日本@名無史さん
18/07/16 22:47:18.71 .net
>>206
>算出根拠のない確率って・・・ そりゃ価値ねーよ w<
史料の確率は、史料批判に拠って概数的に得られるの。

263:日本@名無史さん
18/07/16 22:53:13.75 .net
>>218
>何が正しくて、何が書き換えられた部分なのかは、ザラコクさんが決めるww<
いや、史料批判で決まる。

264:日本@名無史さん
18/07/16 22:58:50.91 .net
>>223
>そういう意味じゃなくて、
「都護軍将軍」は、「都」「護軍将軍」と切ったらダメなんだよ
「都護」の「軍」の「将軍」なんだからさww<
じゃ、「行護軍将軍」は、「行護」の「軍」の「将軍」になるんかい?。

265:日本@名無史さん
18/07/16 23:00:10.89 .net
>>217
>魏使らや陳寿らは、定まっていたという事であり、
>魏の役人たちは、漢代記録や上表文は、そのまま記載し、
>魏代初期の記録は、長里と短里の両方があった可能性がある、という事だ。
漢代記録は漢の役人の仕事だよ。両方とか運用出来ないね。
そもそも陳寿には蜀の地勢しかわからないだろ。
>いずれもYahooでの議論になった例であり、
>textreamに変わってから、 古い議論が全部出せなくなり、抹殺されて消失してしまったし、
>もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。
掲示板のデータなんていつか消えるものだよ。
その時も自分からは何も出してないんでしょ。

266:日本@名無史さん
18/07/16 23:02:08.98 .net
>>234
>邪馬台国の王都は京都<
「南≠東」だから、×。

267:日本@名無史さん
18/07/16 23:03:08.45 .net
議論じゃなくて、反日どろぼうがデマを撒き散らしているのを
日本人が訂正していたんだろ

268:日本@名無史さん
18/07/16 23:07:31.57 .net
>220
>長里であれば、ほぼ宛に届いてしまって散屯する必要もないし、
>宣池もあった筈だが見つからないから、 長里ではない。
宣池も宛からは遠いから新野に移したというだけ。
>後代の唐代に書かれた晋書では、
>「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」などの例に拠って、
>後代の「自己解釈に拠る書き換え」をしている史書である事になり、
>信頼性が落ち、 そんな半分×書での「屯宛」では、根拠になり難いな。
また勝手な「書き換え」認定ですね。
そんなこと言ってたら全ての文献が半分×書になるね。

269:日本@名無史さん
18/07/16 23:41:55.86 .net
>>251
どこで切るか、教養がないから間違う
そして恥をかく
それが古田説

270:日本@名無史さん
18/07/17 01:23:16.89 .net
テンプレ 畿内説の自信の無さがにじみ出てるなww
「想起される」
「推認できる」
「成り立つ余地があろう」
「保証されているようにさえ映る」
「可能性を考慮する必要がある」
「解釈もあり得よう」

271:日本@名無史さん
18/07/17 01:49:05.32 .net
畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」

272:日本@名無史さん
18/07/17 01:50:23.47 .net
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。

273:日本@名無史さん
18/07/17 01:51:03.59 .net
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北


274:E狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同 「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。 楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬 大倭王は邪馬台国にいる。 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。 倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 倭奴国は倭国の極南界である。 つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。 畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。



275:日本@名無史さん
18/07/17 02:20:32.95 .net
九州説が論破されると
いつもおバカな連続コピペが始まるね

276:日本@名無史さん
18/07/17 03:00:36.48 .net
うん
ま、倭奴国を九州北岸の那の津当り、倭国を九州全体、
「(案今名邪摩惟音之訛也)」の邪摩惟を遷都後の大和と考えれば、すべて合理的に理解できるな、、、

277:日本@名無史さん
18/07/17 07:17:36.23 .net
などと妄想する不合理人間

278:日本@名無史さん
18/07/17 07:18:43.42 .net
>>259
>倭国はいにしえの倭奴国のことである。
>四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
倭国(阿波)の四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。
倭国(阿波)の王の姓は海人・阿波・阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。  @阿波

279:日本@名無史さん
18/07/17 07:35:55.22 .net
>>259
>日本国は倭国の別種である。
日本国(奈良)は倭国(阿波)の別種(遷都地)である。

>その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
その国(奈良)は倭国(阿波)から見て、日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。

>またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
またあるいは「日本(奈良)は古くは小国だったが、倭国(阿波)の地を遷都により併合した」とも。  @阿波

280:日本@名無史さん
18/07/17 08:10:25.12 .net
>>238
>>変な男。 「書き下し」文なんて「訳」文であって、元の漢文ではないよ。<
>はぁ?「書き下し文」と「訳」の区別もつかなければ、漢文を読めるわけがないですな。<
古代中国人は、漢字を並べた漢文として、句読点も無しで書き、読んだんだよ。
「書き下し」や「訳」は、その時点でその人間の読み方や解釈が入ってしまって、
原文とは必ずしも一致しなくなるもの。
>>(この男は)「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。
という事は、書陵部本の方も「苑」となっていて、
お前がウソを付いていた事になって、提示出来なかったんではないか?。⇔
>失礼だなぁ。そんな主張してないよ。 ずっと誤字だと言ってるだけなんだが。<
議論をずっと読んで来た人は、お前が、
書陵部本には「宛」であった、と(ウソno)主張していた事を知っているよ。

281:日本@名無史さん
18/07/17 08:16:34.78 .net
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。




282:新唐書』日本伝 其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城 王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、 皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。 ※「筑紫」=北九州 (まとめ) 日本と倭国は別種。 日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書) 日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書)



283:日本@名無史さん
18/07/17 08:17:10.52 .net
高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。

284:日本@名無史さん
18/07/17 08:34:57.81 .net
>>329
>>書写は、全書写で0.5%位の間違いがあるが、版刻では、原則として間違い初めて0.5%以下だよ。<
>数字の根拠なし。<
Yahooでの議論で、大和説派のハイエナと自称する男が、三国志の全文字数を概算して約80万字と算出し、
その内で、写本→版本の移行があった宋明清代の考証校勘に供された「三国志内での差異発生の全文字数」が4000文字余りであった、という事で、
割り算して、全写本版本での差異発生確率は、0.5%。
>>写本では誤記があるが、
後代史書では唐代史家らも現代大和説者らも、「意図的な書き換え」だよ。<
>そんなこと言ったら《三國志》の刊行本でもあり得るでしょ。<
若干あるよ。紹興本の「對海國→對馬國」のように。
>気に入った文献だけ「書き換え」が無くて、気に入らない文献は「書き換え」が有ると 勝手に認定しているだけだね。<
どちらの方が「古本」や「古形」であったのか?の史料批判をすれば、簡単に判断が付くよ。
>>>(海と馬は)字形も意味も違い過ぎるから、誤記ではなく、意図的な書き換え。<
>そんなの希望だって。<
唐代頃の人は、「海→馬」の書き換えをやっても、「馬→海」の書き換えはしない、という事が人類の常識なんだって。
>>後代の知見に拠る書き換えがあった、という形になっている事が史料事実なの。<
>君の仲間内だけだろ。、
正常な思考の人の「人類の常識」の書き換え。

285:日本@名無史さん
18/07/17 08:36:36.42 .net
>>240
>卑弥呼の墓は、日本で最も聖なる土地にある、日本で最も古い神社の境内にある。
高天原(御所市高天)にある高天彦神社だ。<
「南≠東」に拠って、×。

286:日本@名無史さん
18/07/17 08:38:10.30 .net
要するに
この人の言うことは
いつも又聞きの曖昧な記憶の
怪情報なんだよね

287:日本@名無史さん
18/07/17 08:42:09.10 .net
>>267
>皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
>※「筑紫」=北九州
※「筑紫」「筑紫城」=倭国(阿波)筑紫城 所在地:阿波市市場町大影字境目 

>日本と倭国は別種。
日本(奈良)と倭国(阿波)は同族だが場所は別。

>日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本(奈良)は古くは小国だったが、倭国(阿波)の地を遷都により併合した。

>日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は倭国(阿波)にいた。(新唐書)  @阿波

288:日本@名無史さん
18/07/17 08:48:14.86 .net
>>241
>>(苑や、宣池?)張元済本における史料事実だよ。<
>他で確認も出来ないし、地名かどうかも分からんだろ。<
「屯苑」は「苑に屯する」だから地名だし、宣池も地名だし、
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、孤立的な単一情報など、幾らでも有り得る事だし・・・。
>>という事は、やっぱり書陵部本でも「苑」であった、という事であり、
始めに書陵部本は「宛」になっている、と言っていたお前は、ウソを付いていた訳だ。<
>失礼だな。なっているなんて言ってないよ。 そちらの勝手な決めつけだ。
こちらはずっと誤記と言ってきたよ。<
どっちが「誤記だ」、と言って来たの?。
張元済本の「苑」が誤記だ、と言って来たが、
今になって、「書陵部本」も「苑」であった事を認めたんだろ。
>>三国時代にあっては、どこからの急襲があるやも知れず、守備兵だけでは足りない事は幾らでも有り得るよ。<
>適当な思いつきだろ。<
新野が、宛と襄陽のほぼ中間になる、という事からの、推論。

289:日本@名無史さん
18/07/17 09:21:52.89 .net
>>242
>「苑」は荊州治所の「宛」の誤植なので<
宮内庁書陵部本でも張元済本でも、「苑」であるから、
三国志の全写本版本でも「苑」であった可能性が高く、誤植にならないし、
更に、「宣池」が「宛」付近には見つからず、「苑」は「宛ではない」という事の証拠にもなる。
〉襄陽〜南陽市宛城区の直線距離が約116kmで、300里だと1里約387mだから
道なり距離で公里の約434.16mに近い数値
王昶が半分の距離の新野(襄陽から直線で約60km)に治所を移しで
(三州口?で)水軍を習練し、開墾、穀物を盈積した <
「宛の宣池」を探してから、言い出しな。

290:日本@名無史さん
18/07/17 09:24:59.86 .net
だから刺史治を宛から新野に移したのに

291:日本@名無史さん
18/07/17 09:28:36.34 .net
>>274
>更に、「宣池」が「宛」付近には見つからず、「苑」は「宛ではない」という事の証拠にもなる。
「諸軍散屯,船在宣池,有急不足相赴」
とはっきり書いてあるんだから
「宣池」が「宛」付近ではなくて当然だ
何をトンチンカン言ってるんだ?

292:日本@名無史さん
18/07/17 09:34:04.54 .net
こんなふうに古田説は
あらゆる局面で日中両国での定説に逆らい続けるトンデモ歴史創作だから
学識者から相手にされないのも当然だな

293:日本@名無史さん
18/07/17 09:39:41.55 .net
>>244
>>だから「苑」では散在していた。<
>付近には他にも城があるのだから成り立ちませんな。<
変な男。どの辺の事を言っているのか?は知らんが、
「他にも城がある」んなら、ますます「苑」であった可能性が高くなる。
>>青龍三年では、まだ蜀もあったのではないか?と思うし、
呉も遠回りして宛を攻撃する事もないとは言えない筈。<
>三國志読んでいないから適当な事をいう。 この頃には既に蜀の荊州の領地は無くなっていた。
呉の拠点江陵から一番近いのが襄陽ってこと。 魏の領内を遠回り?退路絶たれて全滅だよ。<
魏が襄陽を守ろう、とするんなら、当然、
新野よりもはるかに襄陽に近い場所に屯するもの。
それを、真ん中辺の新野に屯した、という事は、
襄陽だけではなく、宛にも直ぐに援軍出来るようにしたかったため。
>>四庫全書では、また、後代権威学者の「自己解釈に拠る書き換え」が十分に有り得る書だな。<
>また勝手な「書き換え」認定か。<
どんな例であったのか?は、もう覚えていないが、
これまでにあっちこっちで、何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来たから。

294:日本@名無史さん
18/07/17 09:45:44.58 .net
>>278
>それを、真ん中辺の新野に屯した、という事は、
>襄陽だけではなく、宛にも直ぐに援軍出来るようにしたかったため。

何も知らないから妄想する
荊州と予州という広大な地域を所管する刺史治なんだ
つまり地方政治のカナメの府
端っこの、しかも敵地の近くギリギリに移転するわけないでしょ

295:日本@名無史さん
18/07/17 09:48:41.28 .net
>>278
>どんな例であったのか?は、もう覚えていないが、
>これまでにあっちこっちで、何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来たから。

じゃあ「見てきた」って
証拠もなく言い張ってるわけだね?

296:日本@名無史さん
18/07/17 09:51:03.03 .net
>>248
>征南將軍、假節都督荊・豫諸軍事の王昶が
治所でもない、鳥獣を養うような不便なところに駐屯していることはない <
だから、辺鄙な「苑」から便利な「新野」に屯地を移した。

297:日本@名無史さん
18/07/17 09:52:45.48 .net
そもそも「有急不足相赴」 だから近くに移転するのに
3倍近い距離ほども遠くに移転してどうする
古田説は支離滅裂だ

298:日本@名無史さん
18/07/17 09:54:00.91 .net
>>281
なんで辺鄙なところに2州の統合政府があるんだ?

299:日本@名無史さん
18/07/17 10:05:05.85 .net
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

300:日本@名無史さん
18/07/17 10:09:01.58 .net
>>284
いつ覗いても事実の正反対を呟いてるね

301:日本@名無史さん
18/07/17 10:09:12.54 .net
>>252
>>魏使らや陳寿らは、(短里使用ga)定まっていたという事であり、
魏の役人たちは、漢代記録や上表文は、そのまま記載し、
魏代初期の記録は、長里と短里の両方があった可能性がある、という事だ。<
>漢代記録は漢の役人の仕事だよ。両方とか運用出来ないね。<
陳寿は、自分の実体験確認情報と、蜀や魏の役人の記録などを元にして、三国志を書いた。
>そもそも陳寿には蜀の地勢しかわからないだろ。<
晋の仕えていたんだから、魏や晋の地勢も知っている。
>>いずれもYahooでの議論になった例であり、
textreamに変わってから、 古い議論が全部出せなくなり、抹殺されて消失してしまったし、
もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。<
>掲示板のデータなんていつか消えるものだよ。 その時も自分からは何も出してないんでしょ。<
内容には大して関心がないが、
Yahooや5chの「万世一系皇国史観」の、嘘つき騙しの大和説への偏向姿勢は、
国民のためにならず、黙過し難い。

302:日本@名無史さん
18/07/17 10:10:50.87 .net
>>284
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に


303:先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、



304:日本@名無史さん
18/07/17 10:11:41.10 .net
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

305:日本@名無史さん
18/07/17 10:16:41.82 .net
他のスレにも書いていることなんだけど
お前の言う、テンノーというのは、どういう意味なんだよ。
たまにテレビなどに出てきたりする人?

306:日本@名無史さん
18/07/17 10:20:11.74 .net
これも何度も書いていることなんだけど
そろそろ頭の病院に行くか、
刑務所(死刑)にでも行ったほうが良いぞ

307:日本@名無史さん
18/07/17 10:22:26.23 .net
長安から鄴まで往復4千里だよ
魏で短里なんて使われてない

308:日本@名無史さん
18/07/17 10:55:04.08 .net
>>254
議論じゃなくて、
「戦前の万世一系皇国史観」の殺人テロの侵略戦争狂の大和説者や、
右翼学会教育界や、Yahooや2chや読売産経などの右翼マスコミが、
デマを撒き散らしているのを、
日本人が訂正していたんだろう。

309:日本@名無史さん
18/07/17 11:04:06.80 .net
>>255
>>(襄陽から三百里が)、長里であれば、ほぼ宛に届いてしまって散屯する必要もないし、
宣池もあった筈だが見つからないから、 長里ではない。<
>宣池も宛からは遠いから新野に移したというだけ。<
記載では、宣池は、「苑」の付近にあった事になっている。
>>後代の唐代に書かれた晋書では、
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」などの例に拠って、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をしている史書である事になり、
信頼性が落ち、 そんな半分×書での「屯宛」では、根拠になり難いな。<
>また勝手な「書き換え」認定ですね。
そんなこと言ってたら全ての文献が半分×書になるね。<
ならんね。
ほぼ同時代の実見記録は、客観性も信頼性も確率も高いが、
後代史書の「前史の実見記載の、自己解釈に拠る書き換え」記載は、客観性も信頼性も確率も落ちる、
と言っているだけ。

310:日本@名無史さん
18/07/17 11:10:30.73 .net
>>256
「戦前の万世一系皇国史観」の殺人テロや侵略戦争思想という「結論先にありき」で、
史料批判もせずに、都合の悪い史料事実を抹殺したり曲解したりするから、
間違うし、そして恥をかく。
それが、大和説。

311:日本@名無史さん
18/07/17 11:17:07.17 .net
>>261
大和説が論破されると、
いつも、まともな反論論拠を言えずに、
おバカな、「根拠は?」や、口先ヘイトスピーチなどの連続が始まるね。

312:日本@名無史さん
18/07/17 11:17:58.30 .net
>>293
>記載では、宣池は、「苑」の付近にあった事になっている。
いや、そんな記載ないから

313:日本@名無史さん
18/07/17 11:19:24.81 .net
>>263
などと妄想する、「南→東」などの嘘つき騙しの不合理人間。

314:日本@名無史さん
18/07/17 11:21:05.97 .net
>>264
>倭国(阿波)<
「南≠東」に拠って、×。

315:日本@名無史さん
18/07/17 11:21:42.68 .net
>>295
根拠を聞くのは極めてまともな反論なんだが
だって、根拠を聞かれて答えられなかったら
根拠のない主張をしてたって証明されるだろ

316:日本@名無史さん
18/07/17 11:30:35.45 .net
>>271
要するに、
大和説者の言うことは、いつも、、
「南→東」などの史料事実の否定曲解や、
「戦前の万世一系皇国史観」という結論先にありきでの口先誹謗や、、
又聞きの曖昧な記憶な怪情報なんだよね .

317:日本@名無史さん
18/07/17 11:35:24.41 .net
>>275
>だから刺史治を宛から新野に移したのに<
だから、史料事実は、
屯地を「苑」から新野に移した、という事になっている、
って言っておいたのに。

318:日本@名無史さん
18/07/17 11:37:30.03 .net
「南≠東」とか、さしたる根拠もなく言い張りたいトンデモ説が

もう必死ですわw

319:日本@名無史さん
18/07/17 11:39:09.05 .net
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当はもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。

320:日本@名無史さん
18/07/17 11:40:05.75 .net
>>276
>>更に、「宣池」が「宛」付近には見つからず、
「苑」は「宛ではない」という事の証拠にもなる。<
>「諸軍散屯,船在宣池,有急不足相赴」 とはっきり書いてあるんだから
「宣池」が「宛」付近ではなくて当然だ
何をトンチンカン言ってるんだ?<
だから、「苑」地は「宛」ではない、と言ってんだよ。
何をトンチンカン言ってるんだ?。

321:日本@名無史さん
18/07/17 11:41:35.88 .net
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。

322:日本@名無史さん
18/07/17 11:42:09.96 .net
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。


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