司馬遼太郎 Part13 ..
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926:日本@名無史さん
19/03/31 22:52:59.84 .net
西郷が本営としていた神主屋敷で軍議が始まった。
桐野はこの席上で薩軍の兵力不足と弾薬の不足が高瀬の敗因であることを認める。
桐野が鹿児島出発後はじめて述べた現実認識である。
西郷は後に桐野と口をきかなくなるが、桐野に対する悪感情はこの時に芽生えた。
それは桐野に対する憎悪というより、桐野に乗せられてしまった自分に対する嫌悪だったのかもしれない。

927:日本@名無史さん
19/03/31 22:55:54.08 .net
篠原の主張する熊本攻城集中論は、高瀬まで政府軍が進出している現在、意味をなさない空論であった。
篠原が今日生きているとすれば、偏差値40程度の天然ボケであるとしか言いようがない。

928:日本@名無史さん
19/03/31 22:58:30.54 .net
北上集中論も同様である。
北上経路は既に政府軍に押さえられている。
薩軍全軍で北上すれば、熊本籠城の鎮台兵が薩軍を追尾して挟撃されるだけである。

929:日本@名無史さん
19/03/31 23:06:13.61 .net
結局、元の攻城守野という二段構えの方針に戻った。ただし守野といっても防御線は縮まった。
北は桐野が山鹿を守り、北西は篠原と村田が田原坂・吉次越の瞼に拠って、政府軍の内線への侵入を防ぐというものだった。
高瀬の会戦の結果、薩軍は大きく退嬰防禦の方針へ転換した。
このようにして3月1日から3月31日まで、田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられることになる。

930:日本@名無史さん
19/03/31 23:10:06.88 .net
高瀬の会戦により西南の役は実質終了していた。

931:日本@名無史さん
19/03/31 23:11:17.83 .net
これより先の西南戦争は、無意味な殺戮と消耗にすぎません。

932:日本@名無史さん
19/03/31 23:15:24.42 .net
西南の役は内乱であって国家間の戦争ではないですが、この段階で戦争終結にもってゆけない戦争指導者は、
兵にとっても庶民にとっても害悪としか言いようがないです。

933:日本@名無史さん
19/03/31 23:19:33.94 .net
近代・現代の政治家の戦争の止め方の下手くそさ加減を見ていると、
近現代の人間よりも、中世の人間の方が賢いのではないかと思ってしまうな。

934:日本@名無史さん
19/03/31 23:23:14.88 .net
戦の規模が中世と近代では大きく異なるだろう。
戦の規模が大きくなれば、組織で処理せざるを得なくなり、個人の意思が組織の意思に反映できなくなり、手詰まりになってしまうのよ。

935:日本@名無史さん
19/03/31 23:26:52.43 .net
世界史の教科書などで「アメリカはこのように考え、ドイツはこのように考えていた」という類の文章を読むと、
具体的にいうと、それはいったい誰が考えていたのですか?と質問したくなるよな。

936:日本@名無史さん
19/03/31 23:28:04.01 .net
「政府としてはこのように考えています」という類の発言も同様。
それはいったい誰が?と尋ねたくなる。

937:日本@名無史さん
19/03/31 23:37:54.94 .net
脱線しているぞ。次章は「野の光景」だ。

938:日本@名無史さん
19/03/31 23:46:12.50 .net
>>929
田原坂・吉次峠の戦いと並行して行われた山鹿の戦いは、2月26日から3月21日までの24日間(>>789)。

939:日本@名無史さん
19/03/31 23:56:44.80 .net
>>909
現代の戦術眼で篠原の行動を観察するから、そのような篠原評価になる。
高瀬の戦いに参加した薩軍の将兵の誰一人として篠原を非難していないところから考えると、
篠原の行動は少なくとも薩軍将兵にとっては常識的な行動だったのだろう。

940:日本@名無史さん
19/03/31 23:58:52.10 .net
「死を懼れる者は士に非ず」という倫理が厳然として存在していたのだ。
補給の観念は山縣が西欧から導入した新思想。

941:日本@名無史さん
19/04/01 00:01:40.54 .net
明治に導入された新思想は、昭和になると風化したがな。

942:日本@名無史さん
19/04/01 11:45:18.50 .net
>>688
「令和」の出典も万葉集。万葉集最強。

943:野の光景
19/04/01 12:59:58.36 .net
【高瀬】
戦いが始まると人々は家財を背負ったり荷車に積んで山へ逃げたり、寄辺を頼って遠い里へ避難したりした。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(orch.c.blog.so-net.ne.jp)

944:日本@名無史さん
19/04/01 13:05:44.46 .net
薩軍には護民思想があったが、官軍には皆無だった。
官軍は民家が敵の砦になることを防ぐために、平然と民家に放火した。
知識兼治大尉(>>880)の中隊も、川部田から退却するときに民家に放火している。

945:日本@名無史さん
19/04/01 13:06:30.19 .net
知識大尉のヒーロー指数が若干低下しました。

946:日本@名無史さん
19/04/01 13:11:58.19 .net
村田新八隊が菊池川を渡り政府軍に突入したときも、政府軍は繁根木村に放火して退却した。
この火が高瀬の南西部の民家をすべて焼き払い、高瀬の町は灰燼に帰してしまった。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

947:日本@名無史さん
19/04/01 13:18:24.17 .net
【熊本】
石光真清(まきよ)の自伝『城下の人』に、西南戦争当時の熊本城下の様子が書かれている。
真清は当時10歳で小学校に在学していた。
彼は大胆にも前線指揮所へ行き、村田新八や池上四郎に声をかけてもらっている。
URLリンク(jalsha.cside8.com)

948:日本@名無史さん
19/04/01 13:23:32.57 .net
真清の父のつぶやきが印象に残る。
「五十四万石のご城下もこれで終わりだ。あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」
URLリンク(pbs.twimg.com)

949:日本@名無史さん
19/04/01 13:28:14.36 .net
【高瀬】
高瀬の会戦は終わったが、避難民は集落が焼野原になったため戻る場所がなかった。
それでも人々は薩兵をさほど恨まず、むしろ薩軍の勝利を願う者が多かった。
薩軍が勝てば年貢は無しになるという期待が一般にはあった。

950:日本@名無史さん
19/04/01 17:33:22.25 .net
【山鹿千軒】
☆ 岩野川
菊池川の支流で北から流れてきて山鹿で菊池川と合流する。
URLリンク(www.kumamoto-sskk.jp)
岩野川に沿った南北の街道が豊前街道(山鹿街道)である(>>791)。現在の国道3号線。
なお菊池川沿いの東西の街道は、西へ行くと南関に通じている。今日の国道443号線である。
山鹿温泉については>>790に書いた。

951:日本@名無史さん
19/04/01 17:39:59.32 .net
☆ 桜井屋
熊本協同隊の本営が置かれた旅籠。
山鹿は大きな宿場であったので飯盛女(遊女)が多数いた。
そのため山鹿の薩軍兵士の間で淋病と梅毒が瀰漫した。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

952:日本@名無史さん
19/04/01 17:50:08.53 .net
【阿蘇一揆】
☆ 戸長
明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと。
明治4年に戸籍法が制定された際に、7・8ヶ村を「区」と呼ばれる単位に編成して戸籍を区単位で管理することとした。
各区にはその責任者として戸長・副戸長が置かれた。

953:日本@名無史さん
19/04/01 17:52:39.00 .net
明治5年4月の太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人の呼称を廃止して、戸長・副戸長と呼ぶこととなった。
だが、従来の「区」との関連付けが不十分であったために、同年11月に旧来の郡・町・村の行政区分を廃して「大区小区制」を導入し、
大区に区長、小区に戸長・副戸長を設置することとして、戸長・副戸長は戸籍の管理のみならず、明治政府による行政政策の実施にあたるようになった。

954:日本@名無史さん
19/04/01 17:54:28.57 .net
明治11年の郡区町村編制法では、旧来の郡・町・村を復活させ、各町村ごとに民選の戸長を選出することとし、戸長が行政事務を行うための戸長役場も設置されることになった。
戸長はかつての庄屋・名主層などの名望家から選出される場合が多かった。
また、その職掌は戸籍の管理と並んで、地券管理・国税徴税・義務教育・徴兵事務・布告布達の伝達・水利土木厚生等公共事業の施工などに及んだ。
戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させており、その矛盾は戸長が自由民権運動の指導者となる形で現れることになった。

955:日本@名無史さん
19/04/01 17:56:12.01 .net
明治17年5月、政府は戸長制度の改革を行い、戸長を知事の任命による「官選】に切り替えて、平均5町村500戸に戸長1名を置く制度に変更した。
これによって政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが可能になったが、一方で戸長の給与を改善して既存の戸長を政府側に取り込む措置も図られた。
明治22年の市制・町村制の導入によって廃止された。

956:日本@名無史さん
19/04/01 18:07:35.20 .net
司馬さんは明治10年以前にも官選戸長がいたように書かれているが、一部の地方に留まるか、あるいは誤りではあるまいか。
>>955で述べたように、官選戸長が法制化されたのは、小説の時期よりも7年後の明治17年である。

957:日本@名無史さん
19/04/02 08:56:56.59 .net
☆ 小学校
学制は学校を設立し学校制度を運営する機構として学区制を採用した。
それによると全国を8大学区に分け、さらに各大学を32の中学区、各中学区を210の小学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を各1校設けることとした。
小学区は人口約600人を基準とし、ここに小学校1校を設けるものとしている。
小学校の設立・維持には多額の経費を必要とし、学制の実施に当たってこれが重大な問題であった。
ところがそのための国庫補助金がきわめて少額であり、大部分を「民費」により、地方住民の負担であった。

958:日本@名無史さん
19/04/02 09:01:27.58 .net
☆ 黒流村
熊本県阿蘇市黒流町
和水町 山鹿市 菊池市 阿蘇市
URLリンク(www.fukushi-kumamoto.or.jp)

959:日本@名無史さん
19/04/02 09:18:54.70 .net
☆ 高木彦太郎
副戸長

960:日本@名無史さん
19/04/02 09:23:36.21 .net
☆ 小野田村
熊本県阿蘇市小野田

961:日本@名無史さん
19/04/02 10:46:28.19 .net
>>926
>西郷が本営としていた神主屋敷
北岡神社の神官光永大膳宅。
北岡神社は天元2年(979)に京都の祇園社(八坂神社)を勧請して創建された。もとは京都と同じく祇園社と呼ばれ花岡山の上にあった(>>631)。
正保4年(1647)現在地に移され(熊本市西区春日)、肥後国府のあった二本木の北に位置することから北岡神社と改名された。
URLリンク(sirdaizine.com)
西郷隆盛先生本営碑
URLリンク(sirdaizine.com)

962:日本@名無史さん
19/04/02 11:14:33.29 .net
西南戦争とほぼ時期を同じくして熊本・大分・長崎の農民は一揆を起こした。これらの農民一揆は巨大な西南戦争の影に隠れてあまり知られてない。
しかし一揆に参加し改定律例で処罰された農民5万人余りという数字は、西郷軍に加わり国事犯に問われた薩軍方兵士4万数千人を上回った。
熊本県内の農民一揆は明治9年末ごろからその兆しが見え、翌年1月下旬には現在の玉名・鹿本・菊池など県北部で高揚した。
これに対し、県は1月23日、集会禁止の布達を出したが、地租改正費や民費の取り扱いに関する疑惑などから戸長・用掛など小区の役人に対する集団交渉がくり返されていた。

963:日本@名無史さん
19/04/02 11:18:50.74 .net
この集会禁止の布達に対して、農民は傍聴と称して、なお多人数の集会が後を絶たなかった。
そのため県は1月27日、再び集会禁止令を出した。
これに対抗して農民たちは兎狩りと称してなおも集会を開いていたので、県は2月2日「多人数会合兎狩等致シ候儀当分差扣可申」と兎狩禁止令を発令した。
数度にわたる集会禁止令を乗り越えて農民たちは粘り強く運動を続けた。

964:日本@名無史さん
19/04/02 11:20:15.34 .net
民権党が指導した県北部の戸長征伐は、2月下旬、西南戦争開戦前に鎮まった。
民権党の党員が西郷軍に兵士として参加したためである。
ところが、2月下旬から3月にかけて阿蘇郡で大規模な打ちこわしが起こり、同時に上下益城、宇土、八代など県南部で一揆が沸騰、3月下旬から4月にかけて天草で軍夫徴用拒否の一揆が展開された。
明治10年の農民一揆は、最大の士族反乱である西南戦争の状況とかかわりながら展開し、沈静化していった。

965:日本@名無史さん
19/04/02 12:07:43.07 .net
☆ 熊本県の郡
玉名郡 鹿本郡 菊池郡 阿蘇郡
宇土郡 下益城郡 上益城郡 
天草郡 八代郡
葦北郡 球磨郡
URLリンク(technocco.jp)

966:日本@名無史さん
19/04/02 13:00:16.02 .net
☆ 市原勇次郎
明治10年1月9日小国下城に端を発した阿蘇一揆は、2月末日阿蘇谷にくだり、内牧浄信寺において気勢を上げ、3月1日には坂梨地区に潮の如くおし寄せた。
その数3,000はくだるまいと思われる。赤ン坊をとりのこして外輪山中に逃げた母親もあったくらいだから、その狼敗の程もうかがわれようというもの(古閑の高木ヒサエ談)。
この年、一揆がひとまず鎮まった時、お茶屋新宅の市原勇次郎は、時の県令富岡敬明(よしあき)宛に被害状況を報告した(>>566)。
目録の末尾に「右は本年三月一日党民暴挙の節、打ちこわされ侯 概略、前件の通りに御座候 この段お届け仕り候事 明治十年丁丑四月三十日第十一大区三小区坂梨村千四百拾弐番地 士族 市原勇次郎」とある。

967:日本@名無史さん
19/04/02 13:04:27.02 .net
徳川期の農村自治
庄屋などの村役人は、給料をもらっていたわけではなく、むしろ持ち出しである場合が多かった。
この点が、明治の戸長との違いである。

968:日本@名無史さん
19/04/02 13:13:28.90 .net
【野満長太郎】
☆ 古閑(こが)
熊本県山鹿市古閑
山鹿市の中心部から2q東。郷士野満長太郎の生まれた土地。

969:日本@名無史さん
19/04/02 13:16:05.10 .net
古閑は現在の地名であって、長太郎が生まれた頃は、山鹿白石村といったんだよ。

970:日本@名無史さん
19/04/02 13:21:44.73 .net
☆ 野満長太郎
野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。
協同隊の幹部として各地を転戦したが、8月17日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。
投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。
野満安親・富記兄弟のいとこ(>>630>>652)。

971:日本@名無史さん
19/04/02 13:28:17.95 .net
☆ 野満安親・富記兄弟(苗字に誤字があったのでやり直し)
野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。
明治10年2月、薩軍が起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた野満安親の一声で参戦が決まり協同隊が結成された。
2月22日、熊本城総攻撃が始まると、野満安親・富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。
「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた(>>652)。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
野満安親 野満富記 墓

972:日本@名無史さん
19/04/02 17:32:41.95 .net
西南の役が始まる前より、山鹿の地では「戸長征伐」の問題が取沙汰されていた。
戸長は明治政府により徴税官的な役割を担わされており、民集の不満が高まり、戸長を民選にすることを求めて、明治10年1月28日、山鹿の光専寺で一万以上の人民大集会が開かれた。
この翌日は鹿児島私学校が暴発した日であったが(>>522)、薩軍の進行とともに、熊本県全域に一種の無政府状態が生れ、山鹿で「民権」政治が行われることになった。

973:日本@名無史さん
19/04/02 18:11:00.47 .net
☆ 光専寺
天正6年(1578)創建。熊本城築城の際、余った材木で作られた桜門を構える。
歴史の舞台に度々登場するこのお寺、明治10年の西南の役では薩軍の野戦病院となった。
URLリンク(yamaga-tanbou.jp)

974:日本@名無史さん
19/04/02 18:17:05.62 .net
熊本民権党は他地方の自由民権運動と比べると本物に近い匂いがあった。
そんな彼らですら、薩摩士族が西郷を擁して起ったとなると、農民一揆を半ば置き捨てにして、薩軍に兵士として参加した。
農民の側に立ちつつも、なお士族としての血の騒ぎのほうが強かったのであろう。

975:日本@名無史さん
19/04/02 18:20:50.40 .net
高瀬の第三戦が行われた2月27日には、阿蘇一帯で大規模な一揆が起こっている。
もし協同隊が一揆を組織して薩軍と連携していれば、政府軍は窮地に陥ったであろうが、
護民思想の強い薩軍でさえ、百姓はあくまで支配するもので、士族たるものが百姓の力を借りるなどは、
考えただけで身震いするような違和感があった。

976:日本@名無史さん
19/04/02 18:21:40.00 .net
協同隊は、この日、なにをしていたのですか?

977:日本@名無史さん
19/04/02 18:23:15.61 .net
桐野右翼隊にいて菊池川を渡り政府軍と戦っていました(>>881)。

978:日本@名無史さん
19/04/02 18:24:54.04 .net
士族がアカになれるはずがない。

979:日本@名無史さん
19/04/02 18:38:04.37 .net
野満長太郎が山鹿の民政官になることを思いついたのは、高瀬の第三戦が終わって山鹿に引き揚げた後だった。
なお、宮崎八郎は薩軍本営(>>961)そばの寄合所で、薩軍との連絡に当たっていた。高瀬の会戦には参加していない。

980:日本@名無史さん
19/04/02 18:39:40.55 .net
チンポ八郎は、毎日お浪とセックス三昧です。

981:日本@名無史さん
19/04/02 18:48:24.33 .net
☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)鹿児島高麗町で生まれる。
徳田小藤次邑興が薩摩に伝えた兵学合伝流を伊地知正治から学び、軍略に長じていた。
明治10年3月、鹿児島へ帰り、弾薬をつくり、新兵を募集し、鹿児島の守備を固めるなど後備につとめた。
4月、別府晋介・辺見十郎太とともに新募の2大隊1500名を率いて北上した。
淵辺は神瀬に本営を置き、人吉を経て八代方面へ向かい、政府軍の背面を衝いた別府・辺見を応援したが、薩軍が川尻戦に敗れ熊本城の囲みを解くに及び、人吉に退却した。
4月21日、淵辺は鵬翼隊大隊長となり、戦線を立て直して大野方面で戦った。
5月30日、淵辺は人吉の危急を聞き、河野主一郎とともに救援に赴いたが、政府軍の勢いの止めがたきを見て球磨川に架かる橋を焼き落とそうしたとき、銃撃を受けて重傷を負い、後送された吉田で帰らぬ人となった。享年38。
URLリンク(pbs.twimg.com)

982:日本@名無史さん
19/04/02 18:51:18.77 .net
野満長太郎は、山鹿において、普通選挙により数名の人民総代を選出し自治を行わせた。

983:日本@名無史さん
19/04/02 18:56:20.87 .net
☆ 大森惣作
山鹿の造り酒屋の一門。
熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で挙兵した集団です。
山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に、平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した。
彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約論に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれる。

984:日本@名無史さん
19/04/02 18:58:51.41 .net
協同隊の兵数も増えているな。
保田窪神社(>>620)で挙兵したときは40余名だったが、山鹿民権政治時代には300〜400に増えている。

985:日本@名無史さん
19/04/02 19:01:24.24 .net
占領地域の戸長・副戸長で県費を保管している者があると、協同隊は押しかけていって彼らを斬殺しカネを奪った。

986:日本@名無史さん
19/04/02 19:02:31.22 .net
協同隊にはならず者もまじっていたからな。

987:日本@名無史さん
19/04/02 19:03:31.97 .net
アカ=ならず者

988:日本@名無史さん
19/04/02 19:09:27.80 .net
>>974
本物の民権派は人殺しをするから怖いよ。
官職にありつきたくて民権派を装っていた連中のほうが、まだ人間としてまともだよ。

989:日本@名無史さん
19/04/02 19:18:50.27 .net
☆ 安藤維
協同隊輜重長。士族。
戦後、九州臨時裁判所で、渡辺戸長ほか三名を斬殺せしむる科(とが)により懲役10年の刑に処せられている。

990:日本@名無史さん
19/04/02 19:43:34.64 .net
「人民」という文字には、人殺しのイメージしかない。
国民主権はしっくりするが、人民主権だと「みんなで人殺しになるのか?」というイメージだな。

991:日本@名無史さん
19/04/02 19:46:15.18 .net
次スレの冒頭から田原坂をやろうと思っていたのだが、少しペースが遅かった。
あと少し西南戦争が他地域に及ぼした影響について語らねばならない。

992:日本@名無史さん
19/04/02 19:50:37.08 .net
『箱根の坂』って読んでためになりますか?

993:日本@名無史さん
19/04/02 19:51:23.73 .net
そんなこと他人に訊くな。
まず読んでからだ。

994:日本@名無史さん
19/04/03 14:51:11.77 .net
次スレ
大河ドラマになった若しくはしてほしい司馬遼太郎作品 Part14
スレリンク(nhkdrama板)
日本史板に立てられなかったので、大河ドラマ板に立てた。


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