司馬遼太郎 Part13 ..
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868:日本@名無史さん
19/03/29 15:54:40.38 .net
☆ 鳥尾小弥太中将
西南戦争では大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。
URLリンク(yugetuan.net)

869:日本@名無史さん
19/03/29 16:02:10.53 .net
明治10年における日本陸軍の常備兵力……32,000。
そこで士族を徴募して巡査にし、彼らを戦場へ送り込んだ。
その結果、西南戦争を通じての政府軍の総動員数……51,800。
ちなみに西南戦争を通じて政府軍が消費した小銃弾総数……34,893,500発。

870:日本@名無史さん
19/03/29 16:08:59.65 .net
〔西南戦争の参軍〕
陸軍卿 山縣有朋
URLリンク(pds.exblog.jp)
海軍大輔 川村純義
URLリンク(pds.exblog.jp)
ちなみに明治10年当時の海軍の戦力は、
軍艦11隻、運送船14隻、士卒2,200。

871:日本@名無史さん
19/03/29 16:13:24.79 .net
山縣が陸軍の総指揮をするために博多に上陸したのは、2月25日である。
同日、三浦梧楼少将率いる第三旅団も博多に上陸している。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

872:日本@名無史さん
19/03/29 16:20:26.09 .net
☆ 旅団
師団と連隊の中間にある部隊の単位。旧日本陸軍では、二個あるいは四個の連隊で組織され、歩兵旅団、騎兵旅団、野砲兵旅団、重砲兵旅団などがあった。
戦術単位としては最大の部隊。
西南戦争の時期に作られた新語であるが、所定の地域に駐屯していれば「鎮台」、それが移動中であれば「旅団」という感覚で、厳密に兵数が決まっていたわけではない。

873:日本@名無史さん
19/03/30 13:13:35.72 .net
【2月27日】
☆ 近衛師団
明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。
そのため明治4年、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。
この御親兵は、明治5年に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城の守護」という任務が課せられた。
URLリンク(pbs.twimg.com)

874:日本@名無史さん
19/03/30 13:32:11.71 .net
>>722
三好重臣は、玉名村から偵察隊を出して、木葉山に登らせた(>>722)。
国見山、金毘羅山(>>733)、木葉山の位置関係。上が北です。
         ▲
 ▲     金比羅山   味取
国見山            五両
 ▲
木葉山  境木  田原坂   
 木葉            植木

875:日本@名無史さん
19/03/30 14:10:16.41 .net
三好重臣少将は、菊池川に架かる高瀬大橋を破壊し、堤防に沿って、
東京第一連隊の二個中隊
大阪第八連隊の一個中隊
小倉第14連隊の一部
近衛第一連隊の四個中隊を配置した(>>855)。

876:日本@名無史さん
19/03/30 14:17:16.72 .net
☆ 向津留(むこうづる)
熊本県玉名市向津留
高瀬と向き合うようにして菊池川の東岸にある村。
篠原国幹隊の先鋒加世田弥八郎小隊がもっとも早く菊池川畔に到着した。
URLリンク(www.ekimae-r-e.co.jp)
URLリンク(www.ekimae-r-e.co.jp)

877:日本@名無史さん
19/03/30 14:27:51.62 .net
☆ 加世田弥八郎
薩軍一番大隊二番小隊半隊長
薩軍の小隊は帝国陸軍の中隊に相当する。つまり歩兵四個小隊200名の兵力。
そこで「半隊長」という職を設け100名の兵を統率させている。

878:日本@名無史さん
19/03/30 14:34:35.57 .net
☆ 迫間(>>820
三好重臣は、高瀬の2q上流にある迫間に砲床を築かせ、同時にそこを総指揮所にした。
三好は最前線で指揮をする豪胆な将であった。
迫間の対岸が川部田(>>837)。

879:日本@名無史さん
19/03/30 14:44:32.52 .net
☆ 坂元伸太郎(司馬は申太郎とする)
薩軍一番大隊四番小隊長。
川部田から迫間へ渡河しようと試みるが、逆に菊池川東岸に渡河した近衛第一連隊の知識兼治大尉(>>838>>839>>855)率いる中隊に敗れる。
坂元伸太郎は頭を撃ち抜かれて即死。

880:日本@名無史さん
19/03/30 14:49:26.63 .net
☆ 知識兼治大尉
昨日の高瀬第二戦から引き続き大活躍の知識兼治大尉であるが、歴史家・小説家の注目度は低い。
知識大尉は薩軍坂元小隊との戦闘で敵弾が太腿を貫通し、この負傷を契機に菊池川を再び渡河し迫間に退却した。

881:日本@名無史さん
19/03/30 16:37:37.03 .net
【桐野右翼隊】
薩軍の右翼隊は27日未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の征討軍左翼を攻撃した。
桐野は、山鹿に10小隊を残置して3小隊(兵600)のみ率いて戦った。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
平川惟一(>>629)の協同隊は桐野隊の嚮導である。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

882:日本@名無史さん
19/03/30 16:53:34.26 .net
☆ 内田の渡し
熊本県玉名郡菊水町内田。
山鹿市にも上内田・下内田があるが、本文に書かれた高瀬から12qの上流というと、菊水町の内田である。
桐野隊は、内田で菊池川を渡河し、政府軍と激突する。
URLリンク(5.travel-way.net)
URLリンク(bp.kumanichi.com)

883:日本@名無史さん
19/03/30 17:07:00.53 .net
☆ 月田
熊本県玉名市月田
桐野隊は川沿いの道をそのまま南下して高瀬の戦場に向かった。
月田からは東西に山道が拓けていて、そこを進めば石貫村に出て、石貫村から南下すれば政府軍の背後を衝けた。
桐野は、その作戦をとらなかった。
※バス停月田三差路
URLリンク(pic3.homemate-research.com)
URLリンク(pic1.homemate-research.com)

884:日本@名無史さん
19/03/30 17:13:40.70 .net
☆ 青木村
熊本県玉名市青木
戦場になっている迫田のすぐ北。
桐野隊は青木で政府軍の哨戒兵と遭遇する。哨兵は桐野隊の接近を石貫村の参謀長野津道貫大佐に報告した。
URLリンク(stat.ameba.jp)

885:日本@名無史さん
19/03/30 17:34:46.51 .net
☆ 稲荷山
午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある征討軍の背後連絡線を攻撃した。
この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(第1旅団長の野津鎮雄少将の実弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。
この山を占領した征討軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。
稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている。

886:日本@名無史さん
19/03/30 17:52:35.96 .net
堀新次郎……四番大隊一番小隊小隊長 →敵の背後へ迂回
別府九郎……二番大隊(村田大隊)十番小隊長
重久雄七……二番大隊(村田大隊)三番小隊長

887:日本@名無史さん
19/03/30 17:59:20.11 .net
☆ 遥拝宮(ようはいぐう)
玉名大神宮の別名。
菊池川右岸の玉名平野北側にあり、周辺は「元玉名」と呼ばれる。
天照大神、景行天皇、阿蘇の四神、玉依姫とその両親である菊池将監則隆夫妻を祭ってある。
日本書紀には、景行天皇が九州遠征の時に玉杵名の土蜘蛛を討伐した記事がある、社伝によると、その時地元勢力の中尾玉守が天皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられている。
URLリンク(www.city.tamana.lg.jp)

888:日本@名無史さん
19/03/30 18:02:05.55 .net
遥拝宮は乃木希典が守備していたが、桐野は別府九郎隊と重久雄七隊に遥拝宮を挟撃させ、乃木を敗走せしめた。

889:日本@名無史さん
19/03/30 18:05:31.41 .net
ほんと乃木は弱いなwww

890:日本@名無史さん
19/03/30 21:47:56.37 .net
堀新次郎隊は、稲荷山の政府軍に敗けた。

891:日本@名無史さん
19/03/30 22:00:38.19 .net
堀新次郎隊の敗北により、桐野右翼軍は戦術的機能を失い、戦場に漂うだけの存在に堕ちた。

892:日本@名無史さん
19/03/30 22:03:08.37 .net
【村田左翼隊】
☆ 吉次越
西郷小兵衛小隊ほか三隊は、吉次越を通って菊池川流域に進出した。
木葉・田原坂・植木との位置関係
URLリンク(pbs.twimg.com)
URLリンク(jpreki.com)

893:日本@名無史さん
19/03/30 22:23:02.16 .net
☆ 西郷小兵衛
西南戦争に参加して薩軍第一大隊第一小隊長を務める。明治10年2月27日、肥後国高瀬河南の戦いにて官軍の銃弾を受けて戦死した。享年31。
URLリンク(pbs.twimg.com)

894:日本@名無史さん
19/03/30 22:30:47.16 .net
☆ 浅江直之進
一番大隊三番小隊長
諱は真誠。木留で戦没する。享年30。

895:日本@名無史さん
19/03/30 22:35:21.59 .net
☆ 相良吉之助
一番大隊六番小隊長
戊辰戦争では九番隊。九番隊は慶応四年五月六日朝に淀方面で有力な幕府軍と遭遇した。
激しい銃撃でたちまち一名が即死、四名が深傷を負わされた。
軍医高木兼寛は、これらの負傷者の応急手当をしながらも、指揮者の監軍「相良吉之助」と野崎平左衛門が少しもめげることなく兵を励まして突撃するのを眼にした。
隊員は銃砲火の中を番兵が追って進撃し、強力な砲台を占領することに成功した。
以上は、吉村昭著「白い航跡」から

896:日本@名無史さん
19/03/30 22:39:28.50 .net
これら3小隊は、村田の命により、高瀬大橋から3q下流の大浜津から菊池川を渡った。
☆ 大浜津
玉名市大浜町
URLリンク(4.bp.blogspot.com)
URLリンク(bp.kumanichi.com)

897:日本@名無史さん
19/03/30 22:46:12.40 .net
☆ 岩崎原(ばる)
25日の高瀬第一戦で、政府軍が退却した地点名として登場した(>>828)。
玉名市岩崎
高瀬大橋を渡ると繁根木(はねぎ)の町がある(>>826)。
その西隣が岩崎原である。

898:日本@名無史さん
19/03/30 22:51:16.46 .net
☆ 観音丘
岩崎原にある小さな丘らしい。
西郷小兵衛ら三小隊は、観音丘を占拠して攻撃拠点にした。

899:日本@名無史さん
19/03/30 23:03:26.87 .net
三好重臣は大阪第8連隊のうちの一個大隊を岩崎原方面に向かわせたが、小兵衛らの3小隊は、これを追い散らした。
第8連隊は、繁根木村と永徳寺村を焼き払って、北方の南関街道や葛原山(こうずばる)をめざして逃げた。
葛原山は25日の高瀬第一戦で第8連隊が射撃拠点にした場所である(>>829)。位置は>>864の地図を参照せよ。

900:日本@名無史さん
19/03/30 23:10:32.04 .net
☆ 永徳寺
西郷小兵衛は、熊本城の攻撃に参加したあと、2月27日の高瀬攻略に加わり、相良吉之助、浅江直之進の小隊とともに下流の大浜津へ迂回、渡河して岩崎原の第八連隊を攻撃、西郷は右翼から衝いた。
官軍は繁根木に放火して、立願寺村の葛原山(こうずばる)へ退く。しかし第一連隊や近衛兵が応援に駆けつける。
近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂へ出た西郷隊の背後の三池往還に官軍が突出し、西郷隊は退路が断たれた。
2連発の愛用のピストルで応戦中、銃弾が飛来して西郷の左胸に当たる。
永徳寺の堤防に退避、焼け残った民家橋本鶴松方の雨戸を1枚借り受け、桃田・吉次峠を経て、北岡の西郷隆盛の本営に運ぶが、途中で絶命した。

901:日本@名無史さん
19/03/30 23:17:21.57 .net
近衛兵がいた繁根木八幡宮は、現在の熊本地方裁判所の南東にある。
URLリンク(img01.otemo-yan.net)
すぐ傍に、いだてん大河ドラマ館がある。
URLリンク(beautiful-world-kyushu.com)
URLリンク(www.city.tamana.lg.jp)
URLリンク(www.city.tamana.lg.jp)

902:日本@名無史さん
19/03/30 23:22:37.74 .net
永徳寺村は、高瀬大橋の南を走る鹿児島本線の鉄橋の南、菊池川の川沿いの町である。
被弾した小兵衛をまず永徳寺に退避させたのであって、永徳寺で絶命したのではない。

903:日本@名無史さん
19/03/30 23:26:39.23 .net
日テレ『田原坂』では西郷小兵衛の戦死場面を、乃木希典が双眼鏡で見ていた。
史実ではない。

904:日本@名無史さん
19/03/30 23:28:30.06 .net
やりたくもない戦に駆り出されて、弟を殺されて、西郷も散々な目に遭っているな。

905:日本@名無史さん
19/03/30 23:35:06.90 .net
+    . .. :....    ..  .. .
   +  .. .   ..   .  +..
   .. :..     __  ..
          .|: |
          .|: |
       .(二二X二二O
            |: |    ..:+ ..
      ∧∧ |: |
      /⌒ヽ),_|; |,_,,    さようなら 西郷小兵衛
_,_,_,_,,〜(,,  );;;;:;:;;;;:::ヽ,、   君のことは忘れない・・・
   "" """""""",, ""/;      安らかに眠れ
  "" ,,,  """  ""/:;;
  ""   ,,""""" /;;;::;;

906:日本@名無史さん
19/03/31 00:00:37.67 .net
【篠原中央隊】
六個小隊(1,200人)という最大兵力にもかかわらず、ついに菊池川を渡河できなかった。
高瀬大橋を政府軍が破壊することをまったく予想していなかったのが、こいつの阿呆なところ。

907:日本@名無史さん
19/03/31 00:05:10.27 .net
午後二時ごろになると、篠原の麾下1,200人が携帯していた銃弾がなくなった。
篠原はそれにより、自隊をまとめ、さっさと戦線を離脱してしまったのである。
この時期は、敵中に入りこんでいる桐野・村田両隊が、もっとも熾んに戦闘しているときだった。
彼らこそ、いい面の皮だった。敵中で置き去りにされてしまった。

908:日本@名無史さん
19/03/31 00:07:47.65 .net
         ________
       /             \
      /                \
    /   /・\     /・\   \
   /   /    \   /    \   \
  |      ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄     |
  |         (__人__)        |  弾がなくなったので 離脱しま〜す
  |            \    |         | ご冥福をお祈りしま〜す
   \          \   |       /
    \          \_|     /
          
          篠原国幹陸軍少将

909:日本@名無史さん
19/03/31 00:11:04.55 .net
極端に無口な篠原は、思慮深い人物と勘違いされていたんだろうな。
実態は単なるバカだった。
司馬遼太郎は、「一種の愚人」と酷評している。

910:日本@名無史さん
19/03/31 01:37:14.28 .net
村田新八隊……政府軍に勝っていた。
篠原の退却により兵力と砲に余裕ができた政府軍は、村田隊を重囲。
村田隊は篠原隊に遅れること2時間半後の午後4時に伊倉へ退却した。

911:日本@名無史さん
19/03/31 01:40:27.24 .net
桐野利秋隊……村田隊よりも退却が遅れた。
あやうく全滅の危機 →山鹿へ退却

912:日本@名無史さん
19/03/31 01:45:55.11 .net
☆ 江田
玉名郡和水町江田
桐野隊が菊池川を渡河した地点
戦いの前に渡河した玉名郡菊水町内田(>>882)のやや南。
URLリンク(nagomicamp.com)
URLリンク(ymg-aerialshoot.com)
URLリンク(www.iju-join.jp)

913:日本@名無史さん
19/03/31 01:52:22.81 .net
もう一度、熊本県の市町村のお勉強
URLリンク(api.e-map.ne.jp)
荒尾市 南関町 和水町(なごみまち) 山鹿市
長洲町 玉名市 玉東町 熊本市北区(植木)

914:日本@名無史さん
19/03/31 02:00:13.59 .net
和水町(なごみまち)の風景というのは、文字通り和む。桃源郷のようだ。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
URLリンク(www.satofull.jp)
URLリンク(ymg-aerialshoot.com)
URLリンク(www.iju-join.jp)
URLリンク(www.k-tourism.net)

915:日本@名無史さん
19/03/31 02:02:00.65 .net
あのな、桐野隊はやっとのことで全滅を免れて敗走しているんだ。
なごんでいる場合じゃない。

916:日本@名無史さん
19/03/31 02:17:55.67 .net
スミマセン

917:日本@名無史さん
19/03/31 02:20:32.09 .net
☆ 梯団
大兵団の移動などにあたり便宜上数個の部隊に分けた時の各部隊のこと

918:日本@名無史さん
19/03/31 02:30:00.85 .net
無口で顔つきだけが知性的なバカには注意しようね。
そんな奴と一緒に戦にゆけば、死んでしまうよ。

919:日本@名無史さん
19/03/31 21:49:33.03 .net
【田原坂・吉次越】
☆ 伊倉軍議
浅江直之進……再び高瀬を攻撃し小倉を占拠する説 →東京へ
篠原国幹……熊本城攻撃に絞り熊本城の武器弾薬と食糧を確保 →東京へ
村田新八……篠原の攻城・野戦二者択一論も現状では空論 →占領地を踏み固め補給を確実にする

920:日本@名無史さん
19/03/31 21:55:48.07 .net
☆ 浅江直之進(>>894
近衛陸軍大尉だったが明治6年の政変で辞職。
鹿児島帰郷後は、鹿児島県警察の警部になり、中原尚雄(>>482)・高崎親章らを捕縛した。

921:日本@名無史さん
19/03/31 21:59:51.88 .net
☆ 2月28日
桐野は山鹿で昨夜の伊倉軍議の顛末を知る。
各大隊長を熊本本営に集め、正午頃、桐野も熊本城下へ到着する。

922:日本@名無史さん
19/03/31 22:19:39.74 .net
☆ 坪井の戦い(2月27日)
鎮台側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐・奥保鞏少佐・小川又次大尉・大迫尚敏大尉など、後年の大物軍人が参加していた。
高瀬第三戦が行われた2月27日に、籠城軍は初めて城門を開き、坪井方面へ威力偵察部隊200を出した。
指揮は大迫尚敏(なおはる)大尉(>>565)。
日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略のため、大迫尚敏中将の第7師団が乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。

923:日本@名無史さん
19/03/31 22:27:38.44 .net
☆ 坪井
熊本城のすぐ北東にある。
佐々友房の生まれた町でもある(>>554)。
大迫大尉の部隊は草場学校(詳細は不明)の薩軍を挟撃したが、やがて撤退した。
URLリンク(bp.kumanichi.com)

924:日本@名無史さん
19/03/31 22:35:01.97 .net
高瀬の会戦に参加しなかった薩軍の二つの大隊は何をしていたのですか?

925:日本@名無史さん
19/03/31 22:42:06.45 .net
池上四郎の五番大隊2,000は、熊本城攻囲戦を担当していました。
永山弥一郎の三番大隊1,200は、海上から政府軍が上陸することに備えて、百貫湊(熊本市西区 / 熊本城の真西の海岸)を中心に配置されていました。

926:日本@名無史さん
19/03/31 22:52:59.84 .net
西郷が本営としていた神主屋敷で軍議が始まった。
桐野はこの席上で薩軍の兵力不足と弾薬の不足が高瀬の敗因であることを認める。
桐野が鹿児島出発後はじめて述べた現実認識である。
西郷は後に桐野と口をきかなくなるが、桐野に対する悪感情はこの時に芽生えた。
それは桐野に対する憎悪というより、桐野に乗せられてしまった自分に対する嫌悪だったのかもしれない。

927:日本@名無史さん
19/03/31 22:55:54.08 .net
篠原の主張する熊本攻城集中論は、高瀬まで政府軍が進出している現在、意味をなさない空論であった。
篠原が今日生きているとすれば、偏差値40程度の天然ボケであるとしか言いようがない。

928:日本@名無史さん
19/03/31 22:58:30.54 .net
北上集中論も同様である。
北上経路は既に政府軍に押さえられている。
薩軍全軍で北上すれば、熊本籠城の鎮台兵が薩軍を追尾して挟撃されるだけである。

929:日本@名無史さん
19/03/31 23:06:13.61 .net
結局、元の攻城守野という二段構えの方針に戻った。ただし守野といっても防御線は縮まった。
北は桐野が山鹿を守り、北西は篠原と村田が田原坂・吉次越の瞼に拠って、政府軍の内線への侵入を防ぐというものだった。
高瀬の会戦の結果、薩軍は大きく退嬰防禦の方針へ転換した。
このようにして3月1日から3月31日まで、田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられることになる。

930:日本@名無史さん
19/03/31 23:10:06.88 .net
高瀬の会戦により西南の役は実質終了していた。

931:日本@名無史さん
19/03/31 23:11:17.83 .net
これより先の西南戦争は、無意味な殺戮と消耗にすぎません。

932:日本@名無史さん
19/03/31 23:15:24.42 .net
西南の役は内乱であって国家間の戦争ではないですが、この段階で戦争終結にもってゆけない戦争指導者は、
兵にとっても庶民にとっても害悪としか言いようがないです。

933:日本@名無史さん
19/03/31 23:19:33.94 .net
近代・現代の政治家の戦争の止め方の下手くそさ加減を見ていると、
近現代の人間よりも、中世の人間の方が賢いのではないかと思ってしまうな。

934:日本@名無史さん
19/03/31 23:23:14.88 .net
戦の規模が中世と近代では大きく異なるだろう。
戦の規模が大きくなれば、組織で処理せざるを得なくなり、個人の意思が組織の意思に反映できなくなり、手詰まりになってしまうのよ。

935:日本@名無史さん
19/03/31 23:26:52.43 .net
世界史の教科書などで「アメリカはこのように考え、ドイツはこのように考えていた」という類の文章を読むと、
具体的にいうと、それはいったい誰が考えていたのですか?と質問したくなるよな。

936:日本@名無史さん
19/03/31 23:28:04.01 .net
「政府としてはこのように考えています」という類の発言も同様。
それはいったい誰が?と尋ねたくなる。

937:日本@名無史さん
19/03/31 23:37:54.94 .net
脱線しているぞ。次章は「野の光景」だ。

938:日本@名無史さん
19/03/31 23:46:12.50 .net
>>929
田原坂・吉次峠の戦いと並行して行われた山鹿の戦いは、2月26日から3月21日までの24日間(>>789)。

939:日本@名無史さん
19/03/31 23:56:44.80 .net
>>909
現代の戦術眼で篠原の行動を観察するから、そのような篠原評価になる。
高瀬の戦いに参加した薩軍の将兵の誰一人として篠原を非難していないところから考えると、
篠原の行動は少なくとも薩軍将兵にとっては常識的な行動だったのだろう。

940:日本@名無史さん
19/03/31 23:58:52.10 .net
「死を懼れる者は士に非ず」という倫理が厳然として存在していたのだ。
補給の観念は山縣が西欧から導入した新思想。

941:日本@名無史さん
19/04/01 00:01:40.54 .net
明治に導入された新思想は、昭和になると風化したがな。

942:日本@名無史さん
19/04/01 11:45:18.50 .net
>>688
「令和」の出典も万葉集。万葉集最強。

943:野の光景
19/04/01 12:59:58.36 .net
【高瀬】
戦いが始まると人々は家財を背負ったり荷車に積んで山へ逃げたり、寄辺を頼って遠い里へ避難したりした。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(orch.c.blog.so-net.ne.jp)

944:日本@名無史さん
19/04/01 13:05:44.46 .net
薩軍には護民思想があったが、官軍には皆無だった。
官軍は民家が敵の砦になることを防ぐために、平然と民家に放火した。
知識兼治大尉(>>880)の中隊も、川部田から退却するときに民家に放火している。

945:日本@名無史さん
19/04/01 13:06:30.19 .net
知識大尉のヒーロー指数が若干低下しました。

946:日本@名無史さん
19/04/01 13:11:58.19 .net
村田新八隊が菊池川を渡り政府軍に突入したときも、政府軍は繁根木村に放火して退却した。
この火が高瀬の南西部の民家をすべて焼き払い、高瀬の町は灰燼に帰してしまった。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

947:日本@名無史さん
19/04/01 13:18:24.17 .net
【熊本】
石光真清(まきよ)の自伝『城下の人』に、西南戦争当時の熊本城下の様子が書かれている。
真清は当時10歳で小学校に在学していた。
彼は大胆にも前線指揮所へ行き、村田新八や池上四郎に声をかけてもらっている。
URLリンク(jalsha.cside8.com)

948:日本@名無史さん
19/04/01 13:23:32.57 .net
真清の父のつぶやきが印象に残る。
「五十四万石のご城下もこれで終わりだ。あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」
URLリンク(pbs.twimg.com)

949:日本@名無史さん
19/04/01 13:28:14.36 .net
【高瀬】
高瀬の会戦は終わったが、避難民は集落が焼野原になったため戻る場所がなかった。
それでも人々は薩兵をさほど恨まず、むしろ薩軍の勝利を願う者が多かった。
薩軍が勝てば年貢は無しになるという期待が一般にはあった。

950:日本@名無史さん
19/04/01 17:33:22.25 .net
【山鹿千軒】
☆ 岩野川
菊池川の支流で北から流れてきて山鹿で菊池川と合流する。
URLリンク(www.kumamoto-sskk.jp)
岩野川に沿った南北の街道が豊前街道(山鹿街道)である(>>791)。現在の国道3号線。
なお菊池川沿いの東西の街道は、西へ行くと南関に通じている。今日の国道443号線である。
山鹿温泉については>>790に書いた。

951:日本@名無史さん
19/04/01 17:39:59.32 .net
☆ 桜井屋
熊本協同隊の本営が置かれた旅籠。
山鹿は大きな宿場であったので飯盛女(遊女)が多数いた。
そのため山鹿の薩軍兵士の間で淋病と梅毒が瀰漫した。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

952:日本@名無史さん
19/04/01 17:50:08.53 .net
【阿蘇一揆】
☆ 戸長
明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと。
明治4年に戸籍法が制定された際に、7・8ヶ村を「区」と呼ばれる単位に編成して戸籍を区単位で管理することとした。
各区にはその責任者として戸長・副戸長が置かれた。

953:日本@名無史さん
19/04/01 17:52:39.00 .net
明治5年4月の太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人の呼称を廃止して、戸長・副戸長と呼ぶこととなった。
だが、従来の「区」との関連付けが不十分であったために、同年11月に旧来の郡・町・村の行政区分を廃して「大区小区制」を導入し、
大区に区長、小区に戸長・副戸長を設置することとして、戸長・副戸長は戸籍の管理のみならず、明治政府による行政政策の実施にあたるようになった。

954:日本@名無史さん
19/04/01 17:54:28.57 .net
明治11年の郡区町村編制法では、旧来の郡・町・村を復活させ、各町村ごとに民選の戸長を選出することとし、戸長が行政事務を行うための戸長役場も設置されることになった。
戸長はかつての庄屋・名主層などの名望家から選出される場合が多かった。
また、その職掌は戸籍の管理と並んで、地券管理・国税徴税・義務教育・徴兵事務・布告布達の伝達・水利土木厚生等公共事業の施工などに及んだ。
戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させており、その矛盾は戸長が自由民権運動の指導者となる形で現れることになった。

955:日本@名無史さん
19/04/01 17:56:12.01 .net
明治17年5月、政府は戸長制度の改革を行い、戸長を知事の任命による「官選】に切り替えて、平均5町村500戸に戸長1名を置く制度に変更した。
これによって政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが可能になったが、一方で戸長の給与を改善して既存の戸長を政府側に取り込む措置も図られた。
明治22年の市制・町村制の導入によって廃止された。

956:日本@名無史さん
19/04/01 18:07:35.20 .net
司馬さんは明治10年以前にも官選戸長がいたように書かれているが、一部の地方に留まるか、あるいは誤りではあるまいか。
>>955で述べたように、官選戸長が法制化されたのは、小説の時期よりも7年後の明治17年である。

957:日本@名無史さん
19/04/02 08:56:56.59 .net
☆ 小学校
学制は学校を設立し学校制度を運営する機構として学区制を採用した。
それによると全国を8大学区に分け、さらに各大学を32の中学区、各中学区を210の小学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を各1校設けることとした。
小学区は人口約600人を基準とし、ここに小学校1校を設けるものとしている。
小学校の設立・維持には多額の経費を必要とし、学制の実施に当たってこれが重大な問題であった。
ところがそのための国庫補助金がきわめて少額であり、大部分を「民費」により、地方住民の負担であった。

958:日本@名無史さん
19/04/02 09:01:27.58 .net
☆ 黒流村
熊本県阿蘇市黒流町
和水町 山鹿市 菊池市 阿蘇市
URLリンク(www.fukushi-kumamoto.or.jp)

959:日本@名無史さん
19/04/02 09:18:54.70 .net
☆ 高木彦太郎
副戸長

960:日本@名無史さん
19/04/02 09:23:36.21 .net
☆ 小野田村
熊本県阿蘇市小野田

961:日本@名無史さん
19/04/02 10:46:28.19 .net
>>926
>西郷が本営としていた神主屋敷
北岡神社の神官光永大膳宅。
北岡神社は天元2年(979)に京都の祇園社(八坂神社)を勧請して創建された。もとは京都と同じく祇園社と呼ばれ花岡山の上にあった(>>631)。
正保4年(1647)現在地に移され(熊本市西区春日)、肥後国府のあった二本木の北に位置することから北岡神社と改名された。
URLリンク(sirdaizine.com)
西郷隆盛先生本営碑
URLリンク(sirdaizine.com)

962:日本@名無史さん
19/04/02 11:14:33.29 .net
西南戦争とほぼ時期を同じくして熊本・大分・長崎の農民は一揆を起こした。これらの農民一揆は巨大な西南戦争の影に隠れてあまり知られてない。
しかし一揆に参加し改定律例で処罰された農民5万人余りという数字は、西郷軍に加わり国事犯に問われた薩軍方兵士4万数千人を上回った。
熊本県内の農民一揆は明治9年末ごろからその兆しが見え、翌年1月下旬には現在の玉名・鹿本・菊池など県北部で高揚した。
これに対し、県は1月23日、集会禁止の布達を出したが、地租改正費や民費の取り扱いに関する疑惑などから戸長・用掛など小区の役人に対する集団交渉がくり返されていた。

963:日本@名無史さん
19/04/02 11:18:50.74 .net
この集会禁止の布達に対して、農民は傍聴と称して、なお多人数の集会が後を絶たなかった。
そのため県は1月27日、再び集会禁止令を出した。
これに対抗して農民たちは兎狩りと称してなおも集会を開いていたので、県は2月2日「多人数会合兎狩等致シ候儀当分差扣可申」と兎狩禁止令を発令した。
数度にわたる集会禁止令を乗り越えて農民たちは粘り強く運動を続けた。

964:日本@名無史さん
19/04/02 11:20:15.34 .net
民権党が指導した県北部の戸長征伐は、2月下旬、西南戦争開戦前に鎮まった。
民権党の党員が西郷軍に兵士として参加したためである。
ところが、2月下旬から3月にかけて阿蘇郡で大規模な打ちこわしが起こり、同時に上下益城、宇土、八代など県南部で一揆が沸騰、3月下旬から4月にかけて天草で軍夫徴用拒否の一揆が展開された。
明治10年の農民一揆は、最大の士族反乱である西南戦争の状況とかかわりながら展開し、沈静化していった。

965:日本@名無史さん
19/04/02 12:07:43.07 .net
☆ 熊本県の郡
玉名郡 鹿本郡 菊池郡 阿蘇郡
宇土郡 下益城郡 上益城郡 
天草郡 八代郡
葦北郡 球磨郡
URLリンク(technocco.jp)

966:日本@名無史さん
19/04/02 13:00:16.02 .net
☆ 市原勇次郎
明治10年1月9日小国下城に端を発した阿蘇一揆は、2月末日阿蘇谷にくだり、内牧浄信寺において気勢を上げ、3月1日には坂梨地区に潮の如くおし寄せた。
その数3,000はくだるまいと思われる。赤ン坊をとりのこして外輪山中に逃げた母親もあったくらいだから、その狼敗の程もうかがわれようというもの(古閑の高木ヒサエ談)。
この年、一揆がひとまず鎮まった時、お茶屋新宅の市原勇次郎は、時の県令富岡敬明(よしあき)宛に被害状況を報告した(>>566)。
目録の末尾に「右は本年三月一日党民暴挙の節、打ちこわされ侯 概略、前件の通りに御座候 この段お届け仕り候事 明治十年丁丑四月三十日第十一大区三小区坂梨村千四百拾弐番地 士族 市原勇次郎」とある。

967:日本@名無史さん
19/04/02 13:04:27.02 .net
徳川期の農村自治
庄屋などの村役人は、給料をもらっていたわけではなく、むしろ持ち出しである場合が多かった。
この点が、明治の戸長との違いである。

968:日本@名無史さん
19/04/02 13:13:28.90 .net
【野満長太郎】
☆ 古閑(こが)
熊本県山鹿市古閑
山鹿市の中心部から2q東。郷士野満長太郎の生まれた土地。

969:日本@名無史さん
19/04/02 13:16:05.10 .net
古閑は現在の地名であって、長太郎が生まれた頃は、山鹿白石村といったんだよ。

970:日本@名無史さん
19/04/02 13:21:44.73 .net
☆ 野満長太郎
野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。
協同隊の幹部として各地を転戦したが、8月17日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。
投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。
野満安親・富記兄弟のいとこ(>>630>>652)。

971:日本@名無史さん
19/04/02 13:28:17.95 .net
☆ 野満安親・富記兄弟(苗字に誤字があったのでやり直し)
野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。
明治10年2月、薩軍が起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた野満安親の一声で参戦が決まり協同隊が結成された。
2月22日、熊本城総攻撃が始まると、野満安親・富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。
「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた(>>652)。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
野満安親 野満富記 墓

972:日本@名無史さん
19/04/02 17:32:41.95 .net
西南の役が始まる前より、山鹿の地では「戸長征伐」の問題が取沙汰されていた。
戸長は明治政府により徴税官的な役割を担わされており、民集の不満が高まり、戸長を民選にすることを求めて、明治10年1月28日、山鹿の光専寺で一万以上の人民大集会が開かれた。
この翌日は鹿児島私学校が暴発した日であったが(>>522)、薩軍の進行とともに、熊本県全域に一種の無政府状態が生れ、山鹿で「民権」政治が行われることになった。

973:日本@名無史さん
19/04/02 18:11:00.47 .net
☆ 光専寺
天正6年(1578)創建。熊本城築城の際、余った材木で作られた桜門を構える。
歴史の舞台に度々登場するこのお寺、明治10年の西南の役では薩軍の野戦病院となった。
URLリンク(yamaga-tanbou.jp)

974:日本@名無史さん
19/04/02 18:17:05.62 .net
熊本民権党は他地方の自由民権運動と比べると本物に近い匂いがあった。
そんな彼らですら、薩摩士族が西郷を擁して起ったとなると、農民一揆を半ば置き捨てにして、薩軍に兵士として参加した。
農民の側に立ちつつも、なお士族としての血の騒ぎのほうが強かったのであろう。

975:日本@名無史さん
19/04/02 18:20:50.40 .net
高瀬の第三戦が行われた2月27日には、阿蘇一帯で大規模な一揆が起こっている。
もし協同隊が一揆を組織して薩軍と連携していれば、政府軍は窮地に陥ったであろうが、
護民思想の強い薩軍でさえ、百姓はあくまで支配するもので、士族たるものが百姓の力を借りるなどは、
考えただけで身震いするような違和感があった。

976:日本@名無史さん
19/04/02 18:21:40.00 .net
協同隊は、この日、なにをしていたのですか?

977:日本@名無史さん
19/04/02 18:23:15.61 .net
桐野右翼隊にいて菊池川を渡り政府軍と戦っていました(>>881)。

978:日本@名無史さん
19/04/02 18:24:54.04 .net
士族がアカになれるはずがない。

979:日本@名無史さん
19/04/02 18:38:04.37 .net
野満長太郎が山鹿の民政官になることを思いついたのは、高瀬の第三戦が終わって山鹿に引き揚げた後だった。
なお、宮崎八郎は薩軍本営(>>961)そばの寄合所で、薩軍との連絡に当たっていた。高瀬の会戦には参加していない。

980:日本@名無史さん
19/04/02 18:39:40.55 .net
チンポ八郎は、毎日お浪とセックス三昧です。

981:日本@名無史さん
19/04/02 18:48:24.33 .net
☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)鹿児島高麗町で生まれる。
徳田小藤次邑興が薩摩に伝えた兵学合伝流を伊地知正治から学び、軍略に長じていた。
明治10年3月、鹿児島へ帰り、弾薬をつくり、新兵を募集し、鹿児島の守備を固めるなど後備につとめた。
4月、別府晋介・辺見十郎太とともに新募の2大隊1500名を率いて北上した。
淵辺は神瀬に本営を置き、人吉を経て八代方面へ向かい、政府軍の背面を衝いた別府・辺見を応援したが、薩軍が川尻戦に敗れ熊本城の囲みを解くに及び、人吉に退却した。
4月21日、淵辺は鵬翼隊大隊長となり、戦線を立て直して大野方面で戦った。
5月30日、淵辺は人吉の危急を聞き、河野主一郎とともに救援に赴いたが、政府軍の勢いの止めがたきを見て球磨川に架かる橋を焼き落とそうしたとき、銃撃を受けて重傷を負い、後送された吉田で帰らぬ人となった。享年38。
URLリンク(pbs.twimg.com)

982:日本@名無史さん
19/04/02 18:51:18.77 .net
野満長太郎は、山鹿において、普通選挙により数名の人民総代を選出し自治を行わせた。

983:日本@名無史さん
19/04/02 18:56:20.87 .net
☆ 大森惣作
山鹿の造り酒屋の一門。
熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で挙兵した集団です。
山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に、平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した。
彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約論に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれる。

984:日本@名無史さん
19/04/02 18:58:51.41 .net
協同隊の兵数も増えているな。
保田窪神社(>>620)で挙兵したときは40余名だったが、山鹿民権政治時代には300〜400に増えている。

985:日本@名無史さん
19/04/02 19:01:24.24 .net
占領地域の戸長・副戸長で県費を保管している者があると、協同隊は押しかけていって彼らを斬殺しカネを奪った。

986:日本@名無史さん
19/04/02 19:02:31.22 .net
協同隊にはならず者もまじっていたからな。

987:日本@名無史さん
19/04/02 19:03:31.97 .net
アカ=ならず者

988:日本@名無史さん
19/04/02 19:09:27.80 .net
>>974
本物の民権派は人殺しをするから怖いよ。
官職にありつきたくて民権派を装っていた連中のほうが、まだ人間としてまともだよ。

989:日本@名無史さん
19/04/02 19:18:50.27 .net
☆ 安藤維
協同隊輜重長。士族。
戦後、九州臨時裁判所で、渡辺戸長ほか三名を斬殺せしむる科(とが)により懲役10年の刑に処せられている。

990:日本@名無史さん
19/04/02 19:43:34.64 .net
「人民」という文字には、人殺しのイメージしかない。
国民主権はしっくりするが、人民主権だと「みんなで人殺しになるのか?」というイメージだな。

991:日本@名無史さん
19/04/02 19:46:15.18 .net
次スレの冒頭から田原坂をやろうと思っていたのだが、少しペースが遅かった。
あと少し西南戦争が他地域に及ぼした影響について語らねばならない。

992:日本@名無史さん
19/04/02 19:50:37.08 .net
『箱根の坂』って読んでためになりますか?

993:日本@名無史さん
19/04/02 19:51:23.73 .net
そんなこと他人に訊くな。
まず読んでからだ。

994:日本@名無史さん
19/04/03 14:51:11.77 .net
次スレ
大河ドラマになった若しくはしてほしい司馬遼太郎作品 Part14
スレリンク(nhkdrama板)
日本史板に立てられなかったので、大河ドラマ板に立てた。


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