司馬遼太郎 Part13 ..
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489:高雄丸%sjsndh575lk
19/03/05 21:29:35.79 .net
☆ 川村純義
天保7年(1836年)川村与十郎の長男として生まれる。家格は御小姓組で最下級の藩士であった。
妻の春子は椎原国幹の娘であり、椎原国幹の妹は西郷隆盛の母糸子であった。川村は西郷から実弟のように可愛がられたという。
川村は海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切り、海軍創始期を担った。
西南戦争後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続したが、山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画した。
太政官制のもとでは枢要な地位を占めたが、内閣制度への移行と同時にその座を追われた。
URLリンク(pds.exblog.jp)

490:日本@名無史さん
19/03/05 21:30:48.03 .net
%じゃなくて、#ですよ。

491:高雄丸
19/03/05 21:31:36.00 .net
知っとるわ

492:日本@名無史さん
19/03/05 21:50:04.17 .net
☆ 中井弘
天保9年(1839年)鹿児島城下に藩士横山休左衛門の長子として生まれる。元服後、横山休之進。
鹿鳴館の名付け親である。
岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際に碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したり、宴席にて明治天皇の御前で西村茂樹をビール瓶で殴打するなど、奇行が多かった。
URLリンク(www.mfca.jp)

493:日本@名無史さん
19/03/05 23:56:11.59 .net
井上馨の妻の武子新田俊純の娘は、はじめ中井の妻であった。

494:日本@名無史さん
19/03/06 00:12:25.33 .net
>>462
鹿児島の異変を太政官が知ったのは2月3日だが、これを知らせたのが菅野覚兵衛というのは意外だった。

495:日本@名無史さん
19/03/06 00:17:48.10 .net
2月9日
川村純義を乗せた高雄丸、錦江湾に到着。
艦長は伊東祐之。

496:日本@名無史さん
19/03/06 00:57:20.80 .net
そろそろ辺見十郎太がウザくなってきた。

497:日本@名無史さん
19/03/06 01:04:41.86 .net
>>341
去年のNHK大河もトシヨシだったな。
良=ナガと読む例が他にないからな。

498:日本@名無史さん
19/03/06 01:08:47.80 .net
乱暴者でも、生きた時代が張飛や呂布ぐらい遥か昔なら好きになれるが、
百数十年の近さだと、辺見十郎太のようなキャラは好きになれないな。

499:日本@名無史さん
19/03/06 01:14:01.19 .net
客を殺して肉饅頭にしてしまうおばさんは好きになれるの?

500:人馬
19/03/09 21:12:54.66 .net
☆ 樺山資綱
樺山資之=樺山三円は間違いないようだが、資之と資綱が同一人物であるかどうかは不明。
樺山資之は、「木戸孝允日記」明治7年2月27日付、黒田清隆あて書簡に登場します。
樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註:資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。
というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。

501:日本@名無史さん
19/03/09 21:30:18.63 .net
☆ 春田吉二
☆ 日高藤一

502:再び異人館
19/03/09 22:54:14.73 .net
西南の役の本質を最も鋭く捉えていたのは、ハリー・パークスだな。
パークスの書簡を読んだ。脱帽した。

503:日本@名無史さん
19/03/09 23:06:49.77 .net
パークスが書簡を送った相手であるダービー外相は、第15代ダービー伯爵エドワード・スタンリーである。
オークスとダービーの創設者として高名なダービー伯爵は、第12代。

504:日本@名無史さん
19/03/09 23:16:06.29 .net
馬が走ってく 馬が走ってく 
でっかい鼻の孔おっぴろげて 馬が走ってく ?

505:日本@名無史さん
19/03/10 10:12:23.16 .net
パークスと比較すると勝海舟の頓珍漢ぶりには呆れかえる。
政府の発表した政府軍優勢報道を大本営発表のごとく「あれはウソ」と言い切っている。

506:日本@名無史さん
19/03/10 10:13:37.14 .net
そんなこと『氷川清話』には書いてないよ。

507:日本@名無史さん
19/03/10 10:14:22.30 .net
氷川清は演歌歌手だろうw

508:日本@名無史さん
19/03/10 10:19:09.67 .net
まあバカは放っておけばいいけど、西南戦争に関する勝の談話は『氷川清話』には載っていない。
アーネスト・サトウの日記に書かれている。
広瀬靖子訳「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号 / 一九七〇年)

509:日本@名無史さん
19/03/10 10:25:19.20 .net
サトウ日記の西南戦争関連は、萩原延寿の訳で単行本化されているな。
萩原延寿『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄一三−西南戦争』(朝日新聞社 / 二〇〇一年)

510:東風動く
19/03/10 11:02:43.44 .net
☆ 渋谷彦助
鹿児島県一等属。
坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。
どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。

511:日本@名無史さん
19/03/11 01:14:59.92 .net
海老原穆の逮捕は、川路書簡の中で1行触れられただけだな。

512:日本@名無史さん
19/03/11 01:53:02.08 .net
>>500
樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考え始めると、夜も眠れなくなるな。

513:日本@名無史さん
19/03/11 01:56:19.27 .net
木戸さんは樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考えすぎてノイローゼになったのかもしれん。

514:日本@名無史さん
19/03/11 02:30:10.53 .net
☆ 山縣有朋
この頃になると、風格すら感じさせる山縣。
桐野・篠原はただの地五郎。
山縣の敵ではないな。

515:日本@名無史さん
19/03/11 07:53:55.14 .net
司馬はどの作品も文体が同じで退屈 

516:宣戦
19/03/11 20:16:42.51 .net
☆ 蓑田長僖(49歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
明治21年に日本運輸会社(現在の日本通運)は暫定役員として蓑田長僖を選出している。
同一人物であろうか?

517:日本@名無史さん
19/03/11 20:25:07.08 .net
☆ 鎌田政直(51歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
なお、第六課の課長は渋谷彦助(>>510)。

518:日本@名無史さん
19/03/11 20:27:18.90 .net
☆ 谷元信清
私学校の会計係

519:日本@名無史さん
19/03/11 21:02:18.04 .net
私学校党蹶起の軍資金の提供は、島津久光の内命によるものだろうな。

520:日本@名無史さん
19/03/11 21:08:08.60 .net
軍資金を提供されたにもかかわらず、西郷が大山に対して冷淡な態度だったのは、
西郷は私学校のニセたちに乗せられただけでなく、久光にも乗せられたという思いがあったのだろう。

521:日本@名無史さん
19/03/11 21:34:38.61 .net
【部隊編成】
一番大隊 篠原国幹 西郷小兵衛
二番大隊 村田新八 松永清之丞
三番大隊 永山弥一郎 辺見十郎太
四番大隊 桐野利秋 堀新次郎
五番大隊 池上四郎 河野主一郎
独立大隊 別府晋介
独立第一大隊 越山休蔵 鮫島敬輔
独立第二大隊 児玉強之助 坂元敬介

522:日本@名無史さん
19/03/11 21:37:29.13 .net
☆ 松永清之丞
明治10年1月29日、鹿児島市草牟田の火薬庫から、政府が弾薬を運び出します。
当夜、汾陽光輝家(>>454)で松永清之丞と堀新次郎が、火薬庫からの武器搬出を計画し、実行。
これが西南戦争に繋がります。

523:日本@名無史さん
19/03/11 21:44:34.12 .net
☆ 堀新次郎
明治後、伊地知貞馨となる堀次郎と混同しないように。

524:雷発
19/03/12 19:20:57.46 .net
☆ 2月14日(旧暦正月2日)
伊敷村玉江練兵場……閲兵式
URLリンク(pds.exblog.jp)
※旧45聯隊の兵舎と練兵場

525:日本@名無史さん
19/03/12 20:27:19.52 .net
☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)、鹿児島高麗町で生まれる。諱名は高照、通称は直右衛門、後に群平という。
戊辰戦争では、山崎の戦いで重傷を負った。
次いで、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。
長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治10年、谷口登太が内偵した中原尚雄の西郷隆盛刺殺計画を聞いた高木七之丞邸の会合に出席していた淵辺はこれに憤激し、私学校本校で行われた大評議でも出兵に賛成した。出陣に際しては薩軍本営附護衛隊長となって、西郷を護衛しながら熊本に赴き、本営の軍議に参画した。

526:日本@名無史さん
19/03/12 20:33:29.12 .net
☆ 仁礼景通
西南の役の最後に城山で捕縛されて銃殺された薩軍副官の仁礼景通ほか鹿児島城下に仁礼姓は多い。
仁礼景範と名が似ているが、親族ではなさそうである。

527:日本@名無史さん
19/03/12 20:52:05.46 .net
☆ 2月14日
別府晋介の独立大隊(郷士軍)は、2月14日に加治木に集結し、横川→大口→水俣というコースを辿った。

528:日本@名無史さん
19/03/12 21:01:03.17 .net
☆ 2月15日
一番大隊(篠原国幹隊)は、市来→川内→阿久根→米ノ津(出水市)…海路…佐敷(現在の芦北町の中心部と佐敷川流域)という西回りルートを辿った。
二番大隊(村田新八隊)は、別府晋介隊と同じく東回りコース。

529:日本@名無史さん
19/03/12 21:56:53.85 .net
☆ 2月17日
西郷隆盛の出陣。

530:日本@名無史さん
19/03/13 17:55:42.77 .net
☆ 武の自宅
屋敷は明治2年薩摩藩の重臣二階堂氏から譲り受けたもので、敷地約3600u、高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年に西郷従道が再建した。いま屋敷跡は公園になっており、当時の井戸が残っている。
URLリンク(www.meijiishin150countdown.com)

531:日本@名無史さん
19/03/13 18:00:07.40 .net
☆ 西郷松子
安政4年(1857)前後の生まれ、昭和18年3月6日没。父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉・国。
明治6年11月、西郷家の四男・西郷小兵衛と結婚し、西郷家に入る。小兵衛25歳、松15歳か16歳。いとこ婚。
名はマスであったが、西郷の次弟・吉二郎の先妻の旧名と同姓同名(有馬マス)であったため、呼び名をマツ(松子)と変えた。

532:日本@名無史さん
19/03/13 18:04:18.58 .net
☆ 西郷糸子
西郷隆盛の妻。
元治2年(1865年)、西郷隆盛と結婚する。隆盛は3回目、糸子は再婚。
隆盛との間に寅太郎・午次郎・酉三の子どもを産む。
また、隆盛の奄美大島における島妻である愛加那との子である菊次郎・菊を引き取り養育した。
URLリンク(bakumatsu.org)
URLリンク(samurai-hi.com)
URLリンク(pbs.twimg.com)

533:日本@名無史さん
19/03/13 18:07:24.48 .net
☆ 西郷寅太郎
明治17年に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。
明治35年父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任する。
URLリンク(samurai-hi.com)

534:日本@名無史さん
19/03/13 18:08:01.46 .net
寅太郎は母親似だな。

535:日本@名無史さん
19/03/13 18:09:46.95 .net
☆ 市来四郎
幕末は島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。明治以後は島津久光の側近となる。

536:日本@名無史さん
19/03/13 18:16:12.70 .net
☆ 加治木
2010年、同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。
加治木という地名は、船の舵を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来する。
ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になった。
平安時代頃からこの地域を支配していたのは、大蔵氏の一族とされる加治木氏であった。
蒲生に本拠を置く蒲生氏、帖佐に本拠を置く平山氏などとともに、互いに同盟したり対立したりしながら、島津氏との勢力争いを繰り広げていた。
URLリンク(www.pref.kagoshima.jp)
URLリンク(cdn.jalan.jp)

537:日本@名無史さん
19/03/13 18:22:05.89 .net
☆ 横川宿
2005年、国分市および姶良郡内5町と合併して霧島市となる。
URLリンク(mall.373news.com)
URLリンク(www.photolibrary.jp)

538:日本@名無史さん
19/03/13 18:34:20.58 .net
平成の合併はむかつくわ。
わしは今でも昭和の地図帳を愛用している。

539:日本@名無史さん
19/03/13 20:21:36.67 .net
☆ 佐土原
宮崎県の中南部に存在していた宮崎郡の町。2006年、宮崎市に編入され消滅した。
江戸時代は島津氏の佐土原藩三万石の城下町であった。
URLリンク(yogokun.my.coocan.jp)
URLリンク(yogokun.my.coocan.jp)

540:日本@名無史さん
19/03/13 20:23:25.34 .net
☆ 東目街道
薩摩藩時代、現鹿児島県霧島市福山町を基点として、都城を経由し高城町の月山日和城を通り、高岡町に通ずる往還道として作られた「東目街道」は、薩摩藩西目街道に対して同藩東側を通るため「東目街道」と称されました。

541:日本@名無史さん
19/03/13 20:29:16.46 .net
☆ 栗野村
鹿児島県北東部、姶良郡に属していた。
平成17年吉松町と合併して湧水町が発足。同日栗野町廃止。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(kokuhoren-kagoshima.or.jp)

542:日本@名無史さん
19/03/13 20:36:27.23 .net
☆ 加久藤越え
熊本県と宮崎県の県境に加久藤峠という急峻な峠道がある。人吉からえびの高原に抜ける飫肥街道。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

543:日本@名無史さん
19/03/13 20:41:26.43 .net
☆ 吉田温泉
宮崎県えびの市大字昌明寺にある「吉田温泉 鹿の湯」を訪問しました。
鹿の湯という名前の通り、傷ついた鹿がこちらの温泉に浸かって傷を癒したという言い伝えが残っています。
URLリンク(kagoshima-meijiishin150.com)
URLリンク(stat.ameba.jp)

544:日本@名無史さん
19/03/13 20:47:39.97 .net
☆ 熊本県人吉市田町
URLリンク(www.isan-no-sekai.jp)
URLリンク(www.sakuratabi.tv)
URLリンク(www.tabirai.net)

545:日本@名無史さん
19/03/13 20:48:43.39 .net
何を書いているんだ?

546:日本@名無史さん
19/03/13 20:49:29.04 .net
西郷隆盛とアーネスト・サトウが辿った熊本への経路

547:日本@名無史さん
19/03/13 21:35:31.35 .net
☆ 2月20日
西郷は積雪の加久藤越えを山駕籠に乗って肥後へ越えた。
桐野利秋が「熊本城は、この青竹(いらさぼう)で一叩きでごわす」と言ったのは、この時。
URLリンク(www1.bbiq.jp)

548:日本@名無史さん
19/03/13 21:39:53.06 .net
☆ 人吉藩
藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。
その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。
明治4年に廃藩置県により人吉県となったのち、八代県、白川県を経て熊本県に編入された。
URLリンク(www.shirofan.com)
URLリンク(www.tougarashi-1ban.com)

549:日本@名無史さん
19/03/13 21:45:39.56 .net
☆ 永国寺
熊本県人吉市土手町にある曹洞宗の寺院。寺に伝わる幽霊の掛け軸から、幽霊寺の異名で知られる。
創建は応永15年(1408年)とも17年(1410年)ともいう。一径永就和尚を勧請開山とし、実底超真和尚が開山。
相良氏第9代相良前続(さきつぐ)の開基になり、相良氏代々の崇敬を受けた。
人吉における西郷の宿舎。
URLリンク(washimo-web.jp)
URLリンク(media-cdn.tripadvisor.com)

550:日本@名無史さん
19/03/13 21:56:06.34 .net
この先鋒の別府晋介隊は、小川、宇土を経て、熊本城から7q手前の川尻で宿営している。
☆ 小川……2005年、宇土郡三角町・不知火町および下益城郡松橋町・豊野町と合併し宇城市小川町となった。
☆ 宇土……小西行長の城下町である。中世から交通の要地であり、豪族たちがその支配をめぐって争いを続けてきた。
☆ 川尻……旧飽託郡川尻町。1940年熊本市に合併。
いずれも八代の北方。

551:日本@名無史さん
19/03/13 22:03:04.25 .net
☆ 池辺吉十郎
天保9(1838) 年生まれ。幕長戦争の小倉の役(1866)に戦功あり、京都詰公用人、熊本藩少参事を歴任、帰郷して郷党の青少年を教育し学校党の勢力を養成した。
明治9年の神風連の乱では学校党の軽挙を抑えたが、翌10年薩摩西郷軍が蜂起して熊本に至るや、学校党を主力に同志700名余の熊本隊を率いて西郷軍に応じた。
寺田、立山に奮戦したが戦況利あらず、銃創を被り、10月政府軍に捕縛され、同月26日長崎で斬刑に処された。
明治時代の政論家池辺三山はその子息である。
URLリンク(www.city.tamana.lg.jp)

552:日本@名無史さん
19/03/13 22:05:55.76 .net
※池辺三山
大阪朝日新聞、東京朝日新聞の主筆を歴任。朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり。
二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、長編小説を新聞連載に尽力した。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

553:日本@名無史さん
19/03/13 22:08:33.63 .net
池辺吉十郎が別府晋介と対面したのは、小川陣営中。

554:日本@名無史さん
19/03/13 22:13:31.10 .net
☆ 佐々友房
嘉永7年(1854年)、現在の熊本市内坪井町に肥後熊本藩士佐々陸助の二男として生まれた。
戦国武将佐々成政の子孫という。
明治12年1月に出獄すると、熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立した。
後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。
URLリンク(tashiseisei.com)

555:日本@名無史さん
19/03/13 22:16:11.78 .net
巨人軍元監督川上哲治氏は一般に熊本濟々黌出身とされているが、在学したのは僅か3ヵ月である。
URLリンク(www.jiji.com)

556:日本@名無史さん
19/03/13 22:29:31.86 .net
☆ 球磨川下り
人吉から八代。
URLリンク(pds.exblog.jp)
URLリンク(www.kumamura.com)

557:日本@名無史さん
19/03/13 22:33:46.01 .net
西郷のこの挙は、自分のかつての朋友たちを批判の広場に引きずり出し、勢いのおもむくところ、衆人の監視のなかで首を刎ねることになるかもしれない結末を、容易に想像させる。
西郷の人柄からいば勝った光景もまたうとましかった。
むろん、負けるとは夢にも思っていなかった。

558:日本@名無史さん
19/03/13 22:35:33.93 .net
どうしようもない地五郎だな。
ふつうに負けるだろうw

559:日本@名無史さん
19/03/13 23:28:44.55 .net
西郷の国民的人気と比較すると、谷干城の知名度の低さは気の毒になってくる。
西郷の人気は、力士の人気と同レベルのものだろう。
人気者の敵になってしまった谷干城の可哀そうなことよ。

560:熊本鎮台
19/03/13 23:44:54.12 .net
☆ 谷干城
天保8年(1837年)、儒学者谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川(現在の高知県高岡郡四万十町)に生まれた。
幕末期は谷守部の名で知られる。戊辰戦争が始まると板垣と共に藩兵を率いて出動した。
熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。
明治44年に没する。
URLリンク(www.ehagaki.org)

561:日本@名無史さん
19/03/13 23:46:11.22 .net
谷干城の階級は、桐野・篠原と同じく陸軍少将。

562:日本@名無史さん
19/03/13 23:49:56.79 .net
☆ 樺山資紀中佐
明治5年より南清に出張、台湾出兵に従軍。
西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。
その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、明治16年に海軍大輔、同19年には海軍次官となる。
URLリンク(pds.exblog.jp)

563:日本@名無史さん
19/03/17 21:06:19.57 .net
☆ 与倉知実中佐(>>381
歩兵第13連隊連隊長。神風連の乱後も留任。
薩摩藩出身。
明治9年10月24日の神風連の乱では、自宅を中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。
その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。
しかし、明治10年の西南戦争「段山(だにやま)の戦い」で被弾した。同じ日、鶴子は女子を熊本城で出産したが、与倉は翌日死去した。
URLリンク(murakumo1868.web.fc2.com)

564:日本@名無史さん
19/03/17 21:11:00.93 .net
☆ 川上操六少佐
薩摩藩士川上伝左衛門親徳の三男として生まれ、鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争に薩摩藩10番隊小頭として従軍する。
明治10年に始まった西南戦争では歩兵第13連隊長心得として従軍し功を立てる。
明治28年3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。
その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。
URLリンク(pbs.twimg.com)

565:日本@名無史さん
19/03/17 21:14:48.94 .net
☆ 大迫尚敏(なおはる)大尉
薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。
明治10年西南戦争に出征し、熊本城篭城戦に参加。2月27日、草場学校制圧の指揮を取り、顔面を負傷する。
明治37年2月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為、8月に第7師団の動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。その後も奉天会戦に参戦し明治39年3月に帰国する。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

566:日本@名無史さん
19/03/17 21:28:05.29 .net
☆ 富岡敬明(よしあき)
肥前小城(おぎ)藩士神代次兵衛利温の次男として生まれる。
明治9年11月に熊本県権令となる。権令在任中に西南戦争に遭遇し、熊本城で司令長官谷干城少将、参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐等と54日間の籠城戦を耐え抜いた。
URLリンク(saga.ismcdn.jp)

567:日本@名無史さん
19/03/17 21:52:17.12 .net
熊本鎮台司令長官谷干城少将は、1月28日に小倉第14連隊の連隊長乃木希典に、一個中隊を長崎に移すよう命じた。

568:日本@名無史さん
19/03/17 21:55:38.99 .net
谷干城少将は、2月14日(別府晋介の先鋒が加治木を出発した日)に、小倉と福岡(小倉連隊の分屯所)の兵力をすべて熊本籠城にまわすべく処置した。
山縣は、空になった小倉の留守を、広島鎮台に二個中隊に命じた。

569:日本@名無史さん
19/03/17 22:02:25.05 .net
熊本鎮台3,000 vs 薩軍12,000

570:籠城
19/03/17 22:38:26.79 .net
☆ 招魂祭
2月12日13日の両日、熊本城内で神風連ノ乱で戦死した鎮台兵の招魂祭が興行された。

571:日本@名無史さん
19/03/17 22:51:49.23 .net
>>567
乃木が長崎へ一個中隊を派遣したのは2月6日。
乃木の隷下の小倉14連隊は、小倉に二個大隊、福岡に一個大隊が分屯していた。
乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。

572:日本@名無史さん
19/03/17 22:53:13.21 .net
谷は、この時期は、薩軍が長崎の艦船を奪取して東上すると考えていたんだな。

573:日本@名無史さん
19/03/17 22:57:22.16 .net
☆ 2月13日
熊本から小倉の乃木へ非常警備態勢の電報。
乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。
同二個中隊は16日に久留米到着。

574:日本@名無史さん
19/03/17 22:58:57.14 .net
☆ 2月14日
熊本城で幕僚会議。籠城に決定。

575:日本@名無史さん
19/03/17 23:18:10.20 .net
☆ 2月15日
籠城のための工事と米の買入れを始める。
URLリンク(www.geocities.jp)

576:日本@名無史さん
19/03/17 23:36:08.22 .net
☆ 2月17日
薩軍が米ノ津湊に現れたとの情報を、熊本鎮台司令部が得る。
鹿児島県出水市米ノ津町。

577:日本@名無史さん
19/03/17 23:49:10.79 .net
☆ 2月18日
谷干城、熊本市中に防衛措置を布く。
☆ 2月19日
大山県令の専使、富岡権令および樺山参謀長と会談。
この日、政府の征討令が出る。

578:日本@名無史さん
19/03/18 17:52:41.76 .net
政府の征討令が出た2月19日、西郷は加久藤越え(>>542)手前の吉田温泉昌明寺宿に投宿していた(>>543)。

579:炎上
19/03/18 21:25:09.14 .net
熊本城の結構の堅牢さは、その独特の石垣の力学構造の例をあげてよく説かれるが、地震には脆かった。
URLリンク(www.sankei.com)
URLリンク(touron.aij.or.jp)

580:日本@名無史さん
19/03/18 22:04:20.49 .net
☆ 熊本城炎上
2月19日午前、突如、熊本城の天守閣から火の手が―。
それは、西郷隆盛率いる薩軍が熊本に迫る中、熊本鎮台が籠城の準備を進めていた時のことであった。
この火災で、天守閣と本丸御殿は焼失する。
URLリンク(www.nhk.or.jp)
URLリンク(www.nhk.or.jp)

581:日本@名無史さん
19/03/18 22:05:02.56 .net
犯人はくまモン

582:日本@名無史さん
19/03/18 22:07:59.20 .net
☆ 放火説
薩軍のスパイもしくは薩軍に内応した鎮台兵が放火したとする説。
理論的には可能だとする専門家もいるが、放火だと決定づける明確な証拠は見つかっていない。

583:日本@名無史さん
19/03/18 22:09:02.68 .net
犯人は絶対くまモン

584:日本@名無史さん
19/03/18 22:11:47.45 .net
☆ 失火説
計画的な自焼火災であれば、兵糧を運び出した上で火をつけるはずである。
火事で兵糧が焼けてしまった上に、兵器も慌てて移動させたとする日記の記述もあることから、自焼説はありえない。

585:日本@名無史さん
19/03/18 22:19:58.60 .net
☆ 自焼説
天守閣は敵の攻撃の一番の目印となるため、それを防ぐために事前に燃やしたとする説。
熊本旧城下の9割が焼失しているが、城周辺の建造物は敵である寄せ手に利用されるため、籠城側がこれらを焼くのが兵法の常道である。
そもそも熊本県権令富岡敬明(よしあき)から政府への最初の電報は「本日十一時十分鎮台自焼セリ」であった。
天守閣には籠城戦のために必要不可欠な兵糧が集められていたが、焼けた米が発掘調査で出てこなかった。
つまり、鎮台が兵糧を運び出した上での計画的な火災であったため、炭化米も出てこなかったのである。

586:日本@名無史さん
19/03/18 22:24:17.49 .net
記録に残っている火災発生後の弾薬搬出指揮をしたのが児玉源太郎少佐というのがどうもくさい。
天守閣周辺の弾薬も、おそらく事前に搬出していたものと思われる。
事前搬出の指揮をしたのが児玉源太郎少佐。

587:日本@名無史さん
19/03/18 22:25:47.65 .net
諸葛亮ならやりそうだが、児玉がするか?

588:日本@名無史さん
19/03/18 22:34:05.97 .net
失火説はないな。
政府の征討令が出た当日というタイミングを考慮すれば、自焼説が妥当であろう。
発掘調査で炭化米が出てこなかったという新事実が重い。

589:日本@名無史さん
19/03/18 22:37:41.65 .net
500石の米すべてが焼失した後に、一両日で600石を集めたというのもくさい。
もとからあった500石に加えて、一両日で100石を集めたのであろう。
この観点からも、自焼説が妥当。

590:日本@名無史さん
19/03/18 22:58:13.34 .net
☆ 戦力補強
2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。
2月20日、東京警視隊600人が、綿貫吉直少警視に率いられて入城。

591:日本@名無史さん
19/03/18 23:01:11.62 .net
☆ 本営 - 宇土櫓
籠城兵総数3,515名。砲26門。

592:肥後の野
19/03/18 23:28:19.63 .net
☆ 薩軍
2月19日:別府晋介の独立大隊、益城郡小川宿に宿営(>>550>>553)。
2月20日:別府晋介の独立大隊、熊本平野の旧飽託郡川尻町で後発軍の来着を待つ。
※川尻
熊本市中心部の南方約8kmに位置する川尻地区。早くから海外との交易港として開け、江戸時代には緑川流域の物資の集散地として栄えた。
URLリンク(kumamoto-guide.jp)

593:日本@名無史さん
19/03/18 23:35:35.68 .net
☆ 政府軍
2月19日:征討令
発令者は太政大臣三条実美。
征討総督は、有栖川宮熾仁親王。戊辰戦争の東征大総督である。皇女和宮の婚約者でもあった。
URLリンク(i.pinimg.com)

594:日本@名無史さん
19/03/18 23:57:21.29 .net
いよいよ戦が始まるな。
わくわくするわ。

595:日本@名無史さん
19/03/19 00:03:20.03 .net
☆ 威力偵察
川尻の薩軍が宿営している民家に放火するのが目的。
参謀長樺山が薩軍に寝返らないという証のための出動。

596:日本@名無史さん
19/03/19 00:10:05.13 .net
二個中隊500人の夜襲部隊。
指揮官は大迫尚敏(なおはる)大尉(>>565)。
中隊長隔岡大尉。
中隊長小島大尉 →岡本鋭威軍曹

597:日本@名無史さん
19/03/19 00:47:41.50 .net
>>594
十郎太、憲法9条を読め。

598:日本@名無史さん
19/03/19 20:40:10.15 .net
>>596
隔岡大尉は間違い。正しくは隈岡長道大尉。
明治17年から広島鎮台の歩兵第12連隊の連隊長に補されている。

599:日本@名無史さん
19/03/19 20:44:20.16 .net
>>596
小島大尉は、小島政利大尉のこと。
明治24年に熊本第6師団の歩兵第24連隊(福岡連隊)の連隊長に補されている。

600:日本@名無史さん
19/03/19 20:44:53.43 .net
>>598
歩兵第12連隊の編成地は丸亀。

601:日本@名無史さん
19/03/19 20:48:54.49 .net
☆ 川尻緒戦
薩摩軍の出鼻を一挙に挫くべき樺山参謀長の夜襲の作戦は失敗に終わった。初戦は官軍の敗軍に終わっている。
2月21日
川尻ノ賊営ヲ放火セシメント欲シ、午前第1時大尉隈岡長道、同小島政利ノ2中隊ヲ遣ル。
適適、賊ノ哨兵之ヲ知覚シ、先ツ銃ヲ発ス。我兵彼レノ備アルヲ知リ、且天已ニ明ルヲ以テ、戦ハスシテ退ク。

602:日本@名無史さん
19/03/19 21:10:44.10 .net
☆ 2月21日
正午ごろ桐野利秋が川尻に到着。
午後になって村田新八の率いる二番大隊も川尻に到着。
この日、桐野と村田の名前で開戦の命令を出した。

603:日本@名無史さん
19/03/19 21:15:57.51 .net
熊本鎮台は防戦どころか、通過にあたっては兵糧や弾薬を出してもてなしてくれるはずであるというつもりで
桐野はこのたびの東京ゆきの旅程を立案していた。
西南戦争の本質を突き詰めれば、地五郎の認識の甘さによって起こった戦いというべきであろうか。

604:日本@名無史さん
19/03/19 21:20:12.34 .net
☆ 大慈寺
熊本市南区にある曹洞宗の寺院。JR鹿児島本線川尻駅から徒歩25分。
川尻における別府晋介の宿舎である。
URLリンク(img01.otemo-yan.net)
URLリンク(file.reirou.3rin.net)

605:日本@名無史さん
19/03/19 21:26:15.42 .net
>>603
田舎で4年間百姓をしていた連中と草創期の近代国家の実務をこなしていた連中との認識の差だな。

606:日本@名無史さん
19/03/19 21:46:22.32 .net
西郷は八代で川尻の戦況を聞く。
前線からの要請によって川尻に到着したのは、2月21日の夜中である。
宿舎は川尻下町の質屋布屋。

607:日本@名無史さん
19/03/19 21:52:34.99 .net
☆ 2月22日
熊本城下に最初に到着したのは、川尻にもっとも遅く着いた池上四郎の五番大隊である。

608:日本@名無史さん
19/03/19 22:32:15.80 .net
☆ 熊本城の戦い
永山弥一郎の三番大隊は、この時点では熊本城攻撃に参加していない。
桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

609:日本@名無史さん
19/03/19 22:36:57.78 .net
☆ 十字火
十字砲火のこと。
機関銃のような自動火器を使用した戦術のひとつで、2つの火器から放たれる火線が交差(Cross)するところから、クロスファイアと呼ばれる。
この戦法は、第一次世界大戦で登場したといわれているが、西南戦争の戦闘報告に既に表れている。

610:日本@名無史さん
19/03/19 22:42:59.01 .net
☆ 片山屋敷の戦い
篠原国幹の率いる一番大隊の攻撃は熾烈を極めた。
片山屋敷を守備していた歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐は(>>563)、この戦いの最中に戦死した。

611:日本@名無史さん
19/03/19 22:50:22.51 .net
片山屋敷の戦いではなく、「段山(だにやま)の戦い」と呼んだ方がよいようだ。
現在の藤崎八幡宮の位置を基準に考えると地理を誤解してしまうので注意が必要である。
西南戦争当時の藤崎神社は、段山の東南にある藤崎台にあったが、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、
現在の井川渕町に移転。明治11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営をみた。
URLリンク(murakumo1868.web.fc2.com)

612:日本@名無史さん
19/03/19 22:52:26.46 .net
学者気分で気持ちいいのか、ネトウヨwww

613:日本@名無史さん
19/03/19 22:55:15.00 .net
>>610
神風連ノ乱では活劇のような脱出劇で活躍した与倉連隊長。
あっけなく死んだな。
段山の戦いにおける篠原の指揮は、面目躍如たるものがあるな。

614:日本@名無史さん
19/03/19 22:56:42.04 .net
もう寝ろよ、ネトウヨwww
それとも明日も仕事がないのかwww

615:二・二二の戦闘
19/03/19 23:24:41.56 .net
☆ 学校党−熊本隊
池辺吉十郎(>>551)率いる学校党700名余も、2月22日の熊本城の戦いに参戦している。
池辺は薩軍主力が川尻に達したとき、旧城下の江津学校に同志を集めている。

616:日本@名無史さん
19/03/19 23:27:37.88 .net
江津学校については、筆者にもよくわかりません。
熊本県立湧心館高等学校の前身は熊本県立江津高等学校なのですが、これと江津学校の関係は調べてもわかりませんでした。

617:日本@名無史さん
19/03/19 23:29:26.15 .net
まだやってんのか( ´,_ゝ`)プッ

618:日本@名無史さん
19/03/20 00:11:53.88 .net
☆ 有馬源内
宮崎八郎と共に台湾に赴いた?権党の同志。
熊本藩士。東肥新聞社。
宅は熊本城下千反畑(せんだんばた)にあった。

619:日本@名無史さん
19/03/20 00:18:48.56 .net
☆ 高田露(あきら)
嘉永7年(1854)肥後国託麻郡春日村(現在の熊本県熊本市西区)で熊本藩士の家に生まれる。
明治7年に台湾出兵に従軍した。帰国後は民権党を結成し、評論新聞記者・近事評論記者として自由民権を主張した。
明治10年に西南戦争が勃発すると、宮崎八郎らとともに協同隊を組織して西郷軍に加わった。
西郷軍の敗北とともに捕えられたが、やがて出獄を許された。
明治35年、第7回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
大河ドラマ「翔ぶが如く」の高田露 URLリンク(1rin.c.blog.so-net.ne.jp)

620:日本@名無史さん
19/03/20 00:23:42.78 .net
☆ 保田窪神社
西南戦争熊本協同隊進発の地。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(blog.rkk.jp)

621:日本@名無史さん
19/03/20 00:36:02.40 .net
>>619
ルビは高田ツユだな。

622:日本@名無史さん
19/03/20 00:51:51.78 .net
名前ぐらいは正しく呼んであげたいな。
ネットのおかげで、日に2〜3人の名前読み間違いを発見できる。
死ぬまでに全部は無理だろうけど、できる限り読み間違いを是正してゆきたい。

623:日本@名無史さん
19/03/20 01:09:24.09 .net
>>619
で、高田露はいつ禿げたんだ?

624:日本@名無史さん
19/03/20 01:21:16.37 .net
>>167
鰐淵晴子の老後
URLリンク(res.cloudinary.com)
URLリンク(i.daily.jp)

625:日本@名無史さん
19/03/20 01:22:41.12 .net
以前は几帳面にされていたのに、最近雑ですね。

626:日本@名無史さん
19/03/20 07:31:36.19 .net
病を得たり!惣の介
@kimitstokoshiro
·
3月18日
返信先:
@tebasakitoriri
さん
司馬遼太郎氏の著作に「学生運動を熱心にやっていた為に企業から相手にされず やむを得ず実業の世界に入って経営者になった者が結構な人数で居て 運動でやり手と言われた人ほど 会社が危うくなった時 怜悧に人を切る」と言う趣旨の事が書いてありました。
仮にこういう愚策を実行して失敗し(続

627:日本@名無史さん
19/03/20 20:12:07.97 .net
☆ 2月21日
宮崎八郎、川尻の薩軍先鋒の別府晋介と会談。
保田窪神社(>>620)に熊本協同隊が集結。約40名。

628:日本@名無史さん
19/03/21 20:09:29.23 .net
☆ 中根正胤
熊本城に着いた熊本共同隊は、宮崎八郎と中根正胤の二人を篠原の元に派遣するわけです。
まあ、中根さんは、これ以前に別府晋介と会って同盟を約束して帰ったという人物なので、まあ、そういう経緯もあって、代表に選ばれたんでしょうね。
さて、この二人と篠原の会談ということになるわけですが、この篠原さん、薩人の中でも、とびきり無口だったそうですね。
まあ、薩摩というところは、無口でひょうかんな薩摩武士というのを理想的な武士のありかたとして、教育をしてきた国ですから、
まあ、ぼっけもんの典型というのが、この篠原さんだった、というところでしょう。
彼は、ほとんど無口で、宮崎ら二人の言葉を聞いていたようですが、最後に、
「これくらいの城ひとつを落とすのに何の戦策も戦略もいりません。一蹴して過ぎるのみです」
と、かつて別府晋介が言ったのと同じ言葉を吐いたそうです。

629:日本@名無史さん
19/03/21 21:43:13.81 .net
☆ 平川惟一(のぶかず)
明治3年、藩命により有馬源内等とともに伏見の屯営(陸軍下士養成所)に入り、明治5年陸軍中尉となる。
明治6年、『征韓論』の破裂により野に下り、熊本県飽田郡百貫村に帰農した。
明治7年、佐賀の乱の後、有馬源内、宮崎八郎等と台湾出兵に志願し従軍するが、負傷して帰国。
明治8年4月、広田尚、宮崎八郎、有馬源内、松山守善、崎村常雄らと植木町に、変則熊本第五番中学校(通称:植木学校)を設立し校長兼舎監を務める。
『民約論』を中心とした様々な授業を行い、自由民権を唱え各地で集会を開き実践するが、急進すぎると県からの補助金を打ち切られ同年10月末で閉校する。
明治9年末、民権党同志の中で薩摩の桐野利秋や篠原国幹とかねて面識のあった有馬源内を通じて情勢を打診。
明治10年、鹿児島県で西郷隆盛の私学校が挙兵すると、植木学校出身者を中心とした民権党の同志と熊本協同隊を結成し、
2月21日に北上してきた薩軍に川尻で合流、四番大隊大隊長の桐野利秋のもとで協同隊を指揮し共に政府軍を相手に戦った。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

630:日本@名無史さん
19/03/21 21:47:13.24 .net
☆ 野間安親
兄弟(弟は野間富記)で西南戦争に出て真っ先にやられてしまった…
クールな批評家でありながら武術も重んじたい気持ちだけはある。
やたら選挙好き。(でも平川ひいき)
自由民権と征韓論をスマートに語ってみたい気持ちだけはある理想家。
理想家というのはいつも気持ちだけは満タンなんだ…

631:日本@名無史さん
19/03/21 22:02:00.25 .net
☆ 花岡山
永山弥一郎の三番大隊は、花岡山を占拠した。
URLリンク(cdn.jalan.jp)

632:日本@名無史さん
19/03/21 22:10:45.14 .net
前章の最後のところで述べられた熊本城攻撃の詳細が、くりかえし述べられている。
与倉連隊長戦死の場面では、岡本鋭威軍曹(>>596)の活躍が目覚ましい。

633:日本@名無史さん
19/03/21 22:28:28.39 .net
2月22日午後、西郷がはじめて熊本旧城下に入る。
☆ 白川に架かる現代の代継橋
URLリンク(upload.wikimedia.org)
☆ 西郷が休息した代継宮
本荘村にあった代継宮は、鎮西鎮台の本営や歩兵第23連隊の兵舎用地をへて現在は花畑公園となっている。
現在の代継宮は、熊本市北区龍田にある。
URLリンク(www.yotsugiguu.jp)

634:日本@名無史さん
19/03/21 22:35:48.53 .net
☆ 春竹村
本荘村に南接する春竹村は、現在の地名でいうと熊本市中央区琴平に属する。
URLリンク(bp.kumanichi.com)

635:日本@名無史さん
19/03/21 22:46:01.11 .net
☆ 松崎迪(すすむ)
☆ 高島義恭(よしたか)

636:日本@名無史さん
19/03/21 22:58:44.91 .net
信じがたいほどのことだが、薩軍は補給の手当てどころか、この日の夕食をどうするかさえ決めていなかった。
ついでながら攻城の主力であるはずの砲兵は、この日まだ戦場に着いていなかった。

637:日本@名無史さん
19/03/21 22:59:52.82 .net
「かあさん、晩御飯まだ?」
「なに食べようかしら。まだ決めていないのよ」

638:日本@名無史さん
19/03/21 23:03:25.78 .net
熊本城攻撃に参戦した四番大隊(桐野隊)は800人で、半数以上は22日の夕刻に川尻に到着している。
>>608
>桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
間違いです。

639:日本@名無史さん
19/03/21 23:06:17.99 .net
遅着した四番大隊の小隊長たち
一番小隊長 堀新次郎
三番小隊長 野村忍介
四番小隊長 川久保十次
五番小隊長 永山休二

640:日本@名無史さん
19/03/21 23:09:50.77 .net
マジでイラサボー(青竹)一本で熊本城を落とせると思っていたんだな。
清正を舐めとるな。

641:日本@名無史さん
19/03/21 23:19:41.61 .net
レイパー新井浩文に加藤清正役をやらせたNHKは、薩軍以上に清正をなめとる。
デスマスクみたいな顔をしたレイパー役者に、清正をやらせるんじゃねーよ。
あのドラマの頃から新井の目は死んでいた。
清正登場シーンだけ、糞つまらんかった。

642:日本@名無史さん
19/03/21 23:44:57.81 .net
で、熊本城が手ごわいので、薩軍は方針変更します(*^-^*)ゞテヘヘ

643:日本@名無史さん
19/03/21 23:50:16.36 .net
《強襲続行論》篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太
《小倉占拠論》野村忍介、西郷小兵衛、池上四郎
《折衷案》西郷隆盛
23日の熊本城強襲は中止し、熊本城の包囲は継続。
兵力の一部をもって植木に進出し、南下する政府軍に備える。

644:日本@名無史さん
19/03/21 23:55:06.91 .net
しかし、山縣有朋の放った6,400名の先発梯団は、2月20日に神戸港を発し、22日には博多港に到着し南下の態勢をとりつつあった。
この時点で、野村忍介の小倉占拠論は、演習用の戦術にすぎなくなっていた。
第一旅団 野津鎮雄
第二旅団 三好重臣

645:日本@名無史さん
19/03/21 23:56:32.52 .net
山縣有朋>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>桐野利秋

646:日本@名無史さん
19/03/22 00:01:10.19 .net
結果論としては強襲続行が正しかったのだが、砲兵なしで攻城を続行するというところが大馬鹿。

647:日本@名無史さん
19/03/22 00:02:52.78 .net
熊本鎮台は籠城策なのだから、熊本城をスルーして北上すればよかったのにね。

648:日本@名無史さん
19/03/22 00:05:44.70 .net
>>647>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>西郷隆盛

649:日本@名無史さん
19/03/22 00:07:57.60 .net
阿呆!野津・三好の梯団と熊本鎮台に挟撃されるだろう。

650:日本@名無史さん
19/03/22 00:10:24.19 .net
諸葛亮なら北上すると見せかけて、熊本鎮台が城外に出て薩軍を追尾する態勢をとったときに、魏延に熊本城を急襲させる。

651:日本@名無史さん
19/03/22 19:24:02.30 .net
☆ 大江村九品寺
熊本隊(学校党)の本営。
寺は現存しないのであろうか、地名だけが残っている。

652:日本@名無史さん
19/03/22 19:46:13.18 .net
☆ 熊本協同隊
篠原国幹隊とともに40名の熊本協同隊は行動した。
22日の戦闘で野間安親・富記兄弟は戦死。

653:日本@名無史さん
19/03/22 20:38:08.11 .net
22日、乃木希典少佐の率いる小倉歩兵第14連隊が、山鹿街道を南下した。
薩軍五番大隊二番小隊長の村田三介は、熊本協同隊の高田露(あきら)を道案内にして、山鹿街道を北上して野戦に転じた。

654:日本@名無史さん
19/03/23 03:06:20.82 .net
「第14連隊は、全員強行して入城すべし」
>>571 乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。
>>590 2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。
>>573 乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。同二個中隊は16日に久留米到着。
まだ熊本城に入城していない部隊が、小倉・福岡・長崎・久留米に分駐していた。
乃木自身も、久留米にいた。

655:日本@名無史さん
19/03/23 03:30:49.77 .net
☆ 南関
乃木は河原林雄太少尉とともに21日午後4時に久留米を発ち、21日夜に熊本県南関で吉松少佐の第三大隊に追いついた。
村田三介が第14連隊南下の情報を得たというのは(>>653)、この吉松少佐の第三大隊のことである。
乃木が南関に到着したときは、薩軍はいまだ川尻にいる。


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