司馬遼太郎 Part13 ..
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250:日本@名無史さん
18/03/27 23:28:22.83 .net
軍人はポリチックに関与してはならない〔>>237〕。
これは参議の兼任を求めている山県にとっては都合の悪い論であった。
留守内閣では、江藤新平が司法卿と参議を兼任し、大隈重信が大蔵総裁と参議を兼任していた。
明治6年政変後、伊藤博文が工部卿と参議を兼任している〔>>213〕。
文民統制の原則を木戸が持ち出さねば、山県陸軍卿が参議を兼任してもおかしいことではなかった。

251:日本@名無史さん
18/03/27 23:32:22.76 .net
▽明治六年政変
論争に敗れた征韓派の参議たちは一斉に下野した。西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平の5人である。
受験日本史の頻出事項。後藤象二郎に変えて大木喬任がひっかけで出題されることが多い。
大木喬任が含まれている肢は×です。

252:日本@名無史さん
18/03/27 23:34:05.32 .net
「私も、辞めます」
と、山県が言った。
(また例のくせがはじまったな)
木戸はうんざりした。

253:解説
18/03/27 23:45:11.66 .net
谷沢永一『人間性を象徴する政治の力学』(全集第35巻)
【一】立場と人格と意識のにおい
「ちなみに明治維新は無数の異分子の参加によって成立した革命であったが、生き残って権力の座についた大久保一個の意識ではこれは厳密な意味での革命ではなく、徳川政権が太政官政権に移行しただけのものであるというにおいがあった。
つまりは将軍が天皇に変わっただけのことであり、だから旧幕時代の官僚用語どおりに〈御評定〉などとこの人物はいう」

254:日本@名無史さん
18/03/27 23:51:37.62 .net
▽服部之総〈しそう〉
明治34年 - 昭和31年。マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史。
島根県那賀郡旭村(現・浜田市)出身。
浄土宗正蓮寺に生れる。旧制浜田中学、第三高等学校卒業。1925年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍。
昭和3年、三・一五事件の共産党弾圧の際、検挙されるが釈放され、唯物史観の立場で維新を論じた「明治維新史」を刊行。昭和7年刊行開始の「日本資本主義発達史講座」において講座派の代表的論客となる。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

255:日本@名無史さん
18/03/27 23:53:54.77 .net
司馬遼太郎は一貫して概念のもてあそびに、いささかの興味をも示さない。歴史の真実に近づく道は、その時期に生きたさまざまな人物の個別な視座にたちかえる想像力である。

256:日本@名無史さん
18/03/27 23:56:43.96 .net
つい安易な大上段の構えをとって、明治維新は革命ではなく政権の移行であったと高みから見おろして定義すると、その途端に大久保利通も西郷隆盛も、単純なあやつり人形に化してしまう。

257:日本@名無史さん
18/03/28 00:00:02.36 .net
歴史の波動にただよう一人ひとりの人物の限られた意識には、過去と現在しか与えられていない。かれらは未来から当時の自分を振り返り見る特権をもたない。
したがって意識と認定と模索と発想は、すべて試行錯誤のための断片にすぎない。

258:日本@名無史さん
18/03/28 00:02:09.57 .net
▽陣僧
主に室町時代、軍陣に同道して、戦死者の供養をはじめ文書作成や敵方への使者を務めた僧。

259:日本@名無史さん
18/03/28 00:06:05.53 .net
いつの世でも観察者であるなら、結論をひねり出しては自己満足を楽しめよう。しかし渦中の当事者にあっては、傍観者的な結論は不要であるのみならず、次に打つべき手を考えるには、有害な手かせ足かせとなる。
行動する者は、概念を必要としない。

260:日本@名無史さん
18/03/28 00:09:38.69 .net
本稿の木戸孝允が、観察者の立場で、進歩的な思想を披歴するあたりは、陣僧に似たものがあるな。
西郷隆盛の征韓論も、しかり。自国の置かれた地位・立場をわきまえないと、すぐれた政策も愚策にしかならない。

261:日本@名無史さん
18/03/28 18:14:18.16 .net
>>232
アンパンの上のツブツブはカラシの実ではなくてケシの実だから、辛くないのではありませんか?

262:日本@名無史さん
18/03/28 18:15:03.75 .net
>>233さんも、>>232に釣られていませんか?

263:日本@名無史さん
18/03/28 18:17:27.43 .net
>>247
西郷辞任の後は近衛都督はしばらく空席になっていたが、結局、陸軍卿の山県が近衛都督を兼任することになる。
本章にも書かれている通り、西郷の前の近衛都督も山県だった。

264:coffee break
18/03/28 20:47:56.91 .net
『謎の円盤UFO』を観て思ったのだが、UFOと戦うためには、エロい躰のねえさんにエロいコスチュームを着せなければならないのか?

265:日本@名無史さん
18/03/28 21:54:24.15 .net
【二】革命ではない政権交代
ついでながら明治の大官の多くはじつに醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるようなものではなく、たとえば役所へ通うとき、書生と称する草履取りを連れている者が多かった。
政権を握った成功者は威張りかえった。だがもしそれだけであったなら、日本の近代化はいつまでも実現できなかったであろう。歴史の奇妙さはこの点をめぐって顕現するのだが、このじつに醜悪な明治の大官たちは、醜悪のままで同時に併行して、日本の国家形成を最も効果的に推進した。

266:日本@名無史さん
18/03/29 06:11:15.68 .net
▽「革命」の二義
1.易姓革命……孟子らの儒教に基づく五行思想から王朝の交代を説明した理論。天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命が起きる。革命とは、天命を革めるの意味。
2.レボリューションの訳語

267:日本@名無史さん
18/03/29 06:16:22.45 .net
明治の初期は、革命とは「易姓革命」の意義に用いられるのが一般であった。これによると、明治維新は政権の交代という認識になる。
しかし、外圧によって変革へのエネルギーが生じた明治維新には、歴史の段階を縦に上に昇るという意味合いが内在していた。これを表現する語彙は、当時の日本にはなかった。

268:日本@名無史さん
18/03/29 06:22:54.46 .net
▽「哲学辞彙」〈じい〉
哲学者のオナニーではない。明治14年に帝国大学が編纂刊行した哲学辞書。
この辞書は、レボリューションにふたつの訳語を付けた。革命と顛覆がそれである。
「按ズルニ、国ヲ興ス、之ヲ革命ト謂ヒ、国ヲ亡ボス、之ヲ顛覆ト謂フ」

269:日本@名無史さん
18/03/29 06:26:17.30 .net
明治維新は徳川政権を転覆したにとどまり(政権交代)、新たに国を興すという今後の課題にすぎなかった。
明治4年あたりまでの混沌とした状況を見ていると、まさにそのとおりだった。

270:日本@名無史さん
18/03/29 06:31:40.74 .net
前半生が極度の艱難にみちていた革命家は、かろうじて革命が一応の成就をみると、人間が変わったよいうに権勢欲のかたまりとなる。
明治維新においても、貪官?吏の集団が簇生した。
しかし彼らは醜悪さを保持しつつも、同時に新たな国家形成に邁進した。

271:日本@名無史さん
18/03/29 06:34:47.24 .net
革命家のもうひとつ類型は、清廉潔癖を保持しつつ、永久革命を目指して内外に惨禍をひきおこすタイプである。
西郷隆盛はこちらのタイプに近かった。

272:日本@名無史さん
18/03/29 06:38:40.63 .net
▽リゴリズム〈rigorism〉
道徳的厳格主義のこと。何事も道徳的善悪の判断で考えようとする杓子定規な考えの持ち主をリゴリストとも言います。
近代哲学でいえばカントがそうでした。
日本でも明治の20年代に儒教教育が国民に徹底して教え込まれた結果、道徳的にうるさい厳格な父親がたくさん現れ、その子供たちの世代は恐ろしい父親の目を逃れようと必死でした。

273:日本@名無史さん
18/03/29 16:17:25.73 .net
政治を道徳で律するリゴリズムは、結果としては木を見て森を見ざるの幣におちいる。

274:日本@名無史さん
18/03/29 16:23:57.37 .net
▽高橋亀吉
全集50巻の『ひとびとの跫音』の谷沢永一による解説「清冽で温柔な感情移入の極致」にも登場した。Part8〔959〕参照。
明治24年 - 昭和52年。経済評論家・経済史研究者。
石橋湛山と並ぶ日本の民間エコノミストの草分け的存在である。山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。
家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。
日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。
URLリンク(corp.toyokeizai.net)

275:日本@名無史さん
18/03/29 16:28:16.75 .net
高橋亀吉は、日本が近代経済の本格的発達の基礎を築きえたのは、明治18年頃である『日本近代経済の育成』で述べている。

276:日本@名無史さん
18/03/29 16:36:13.41 .net
【三】革命の結果がもたらすもの
革命というのは元来、支配・被支配階級のいかんをとわず、遠い将来は知らず、さしあたっての勘定からいえば失う利益のほうが大きい。
革命はかならず国力および生活水準の全国的に大幅な低下をもたらす。明治維新もまたいささかも例外でなく、武士階級にのみ焦点を絞ってみても、維新で政府のやったことといえば士族を山野に棄てただけのことであった。

277:日本@名無史さん
18/03/29 16:44:48.97 .net
・士族:既得権を奪われる
・農民:租税負担が重くなる。徴兵令により若い働き手を奪われる。

278:日本@名無史さん
18/03/29 16:59:01.44 .net
▽阿片戦争
1800年頃になると日本周辺に西洋列強の船が現れ始める。幕府は異国船打ち払い令を出すが(1825年)、1840年のアヘン戦争で清朝が負けたことが大きな原因で打ち払い令に代わって薪水給与令を出した(1842年)。
モリソン号事件(1837年)において外国船を攻撃したことで清朝のようになることを当時の幕府は予測したわけであるから、アヘン戦争の結果は大きな衝撃だったのである。アヘン戦争により東洋よりも西洋の軍事力が圧倒的に優位だと幕府は悟った。

279:日本@名無史さん
18/03/29 17:00:54.32 .net
なお、天保の薪水給与令(1842年)の前に、文化の薪水給与令(1806年)というのがある。
しかし、この法令は、翌年の文化露寇を受けてロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された。

280:日本@名無史さん
18/03/29 17:04:42.75 .net
なお、大村益次郎が西郷の乱にそなえて「四斤山砲をたくさん作って大阪に貯えておけ」と命じた部下は、『翔ぶが如く』では船越衛になっているが〔>>219〕、『花神』では山田顕義だった。

281:日本@名無史さん
18/03/29 17:06:12.49 .net
司馬さんは、もう少し『花神』を読んだほうがいい(・∀・)

282:日本@名無史さん
18/03/29 17:14:30.88 .net
【四】外交と内政の融合と混交
外交が常にただの外交におわることなく、かならず悪霊のような魔術性をもち、国内問題にむかって強烈な呪術力を発揮するという点で、日本はきわめて特異であり、世界の政治地理的分野のなかで特別な国であるとして見なければ、征韓論というものはわからない。

283:日本@名無史さん
18/03/29 17:34:19.27 .net
▽遣韓大使
西郷は自分が遣韓大使として韓都にゆくことにより、あたかも幕末の日本でそれが起こったように、韓国でも在野世論が沸騰し、国論の形成によって李朝が亡びると考えていた。
しかし谷沢永一は、李朝の場合、在野世論が沸騰する基盤もなければ、政権が変質する可能性も絶無であったに違いないと述べている。

284:日本@名無史さん
18/03/29 17:38:52.02 .net
革命を成功させた指導者は、フランス革命においてもロシア革命においても例外なく、革命を他国に輸出したがる。それは覇権の拡張を意味し、制圧による属国化をもたらすことも例外がない。
ただし、西郷の場合、理想主義的な「革命の輸出」ではない〔>>271〕。西郷の発想は、国内問題の現実判断を基礎にした外交論であった。

285:日本@名無史さん
18/03/29 17:46:22.63 .net
【五】政治を基底で動かすもの
征韓論は外交でもなく軍事でもなく、一挙にもっとも根の深い政治問題と化した。
政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人類の歴史ははるかに輝けるものであったろうと思われる。しかし政治においては論理という機械の作動する部分は不幸なことに僅かでしかない。
それよりも利害で動くということは大いにあるであろうが、維新早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していない。
かれらはむしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利害よりも遥かに大きいといえるかもしれない。

286:日本@名無史さん
18/03/29 17:47:55.44 .net
政治が感情で動くことの例証として、江藤新平と大久保利通が相互に憎悪しあっていたことが述べられている。

287:日本@名無史さん
18/03/29 17:53:13.89 .net
西郷はその才略や機鋒を、鈍重な肉質の外被で包みこんで露さないことを心掛けていた。政治は才略よりも人格であるという考え方をとったのである。
それゆえに西郷は結局は敗れる。通常の次元で評価するなら、もとより西郷は敗者であった。しかし敗者であるゆえに、かえって西郷は偉大であった。それは果たしてなにゆえであろうか。

288:月報35
18/03/29 17:58:56.86 .net
司馬遼太郎『声明と木遣と演歌』
『この国のかたち』〈第6巻〉の随想集に収載されている。そこでやる。

289:月報35
18/03/29 18:13:33.03 .net
粕谷一希『編集者としての春と秋に』
昭和33年から35年にかけて、私は中央公論社の出版部に籍があった。そこには、現在、紀行作家として活躍中の宮脇俊三氏や直木賞作家綱淵謙定氏など、多士済々の連中がトグロを巻いていて、皆、若かった。

290:日本@名無史さん
18/03/29 18:20:22.88 .net
▽粕谷一希〈昭和5年 - 平成26年〉
日本の評論家、編集者、出版事業家。保守派の編集者として多くの書き手を送り出し、戦後日本の論壇に保守主義、現実主義の潮流を築いた。
東京雑司が谷に生まれる。東京府立第五中学校、一高を経て、東京大学法学部を卒業。昭和30年、中央公論社に入社。
URLリンク(books.bunshun.jp)

291:日本@名無史さん
18/03/29 18:28:43.95 .net
▽宮脇俊三〈しゅんぞう〉
大正15年 - 平成15年。日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子がいる。
埼玉県川越市で7人兄弟の末子(三男)として生まれる。東京府青山師範学校附属小学校、旧制成蹊高等学校卒業後の昭和20年、東京帝国大学理学部地質学科に入学。昭和26年、中央公論社に入社。
URLリンク(mktabi.cocolog-nifty.com)

292:日本@名無史さん
18/03/29 18:41:24.22 .net
▽綱淵謙錠
全集50巻に『綱淵謙錠氏のこと』という随筆が収載されていて、本スレPart10〔456-〕で詳しくやっている。参照せよ。
大正13年 - 平成8年。樺太出身の小説家。

293:日本@名無史さん
18/03/29 18:49:56.35 .net
▽谷崎潤一郎〈明治19年 - 昭和40年〉
初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。
漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」と称された。
URLリンク(jpreki.com)

294:日本@名無史さん
18/03/29 18:55:28.73 .net
▽谷崎潤一郎全集
「谷崎潤一郎全集」は、これまで中央公論社から谷崎の生前に一度、没後に二度、合計三回編纂され刊行されている。以下はそのリスト。
「谷崎潤一郎全集」全三十巻(昭和32年12月〜昭和34年7月、中央公論社)
「谷崎潤一郎全集」全二十八巻(昭和41年11月〜昭和45年7月、中央公論社)
「谷崎潤一郎全集」全三十巻(昭和56年5月〜昭和58年11月、中央公論社)
綱淵謙錠が担当したのは、昭和30年代に刊行されたいわゆる「自選全集」。

295:日本@名無史さん
18/03/29 19:01:25.61 .net
▽尾崎士郎〈明治31年 - 昭和39年〉
愛知県幡豆郡横須賀村(現西尾市)生まれ。早稲田大学政治科在学中に社会主義運動にかかわり、大学を中退し、大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。
大正10年に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てる様になる。昭和8年から都新聞に『人生劇場』を連載し、文芸懇話会賞を受賞。これが大ベストセラーとなって以後20年以上も執筆し続ける大長編となる。

296:日本@名無史さん
18/03/29 19:05:04.31 .net
早くに右傾し、軍国主義鼓吹の小説や著作を多く書いたため、戦後公職追放となるが、以後は文壇から距離を置き、実業家などとのつきあいが多かった。川端康成とは関東大震災の翌年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友であった。
川端康成を通じて伊豆湯ヶ島温泉で知り合った梶井基次郎とは、馬込文士村において、妻の宇野千代を巡って関係が険悪となり、その後尾崎と千代は離婚した。
夫婦の仲はすでにぎくしゃくしていたが、宇野に好意を寄せる梶井とそれを憎からず思う宇野との親しい関係に対してわだかまりを感じていた尾崎は、友人宅で開かれたパーティで偶然居合わせた梶井の態度が気に入らず、梶井の顔に火のついた煙草を叩きつけるという事件を起こしてしまったのである。
URLリンク(www.city.nishio.aichi.jp)

297:日本@名無史さん
18/03/29 19:09:26.16 .net
▼宇野千代〈明治30年 - 平成8年〉
小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。
山口県玖珂郡(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が「おはん」のモデルとされる。
URLリンク(www.designroomrune.com)
URLリンク(e.kaigo110.co.jp)

298:日本@名無史さん
18/03/29 19:10:51.36 .net
文士の下半身ときたら( *´艸`)クスッ♪

299:日本@名無史さん
18/03/29 19:19:01.15 .net
▽中山義秀〈ぎしゅう〉
明治33年 - 昭和44年。日本の小説家。昭和13年、『厚物咲』で第7回芥川賞受賞。
福島県西白河郡大屋村(現白河市)生まれ。旧制安積中学(現福島県立安積高等学校)、早稲田大学文学部英文科卒業。
戦後は『新剣豪伝』『信夫の鷹』などの時代小説を書き、昭和39年、明智光秀を描いた『咲庵』で野間文芸賞を受賞した。
URLリンク(www.kamakurabungaku.com)

300:日本@名無史さん
18/03/29 19:50:18.68 .net
みかんを入れている網袋に石鹸を入れて水道の蛇口に吊るしておくんだ。
手を洗うとき、すごく泡立ちがよくて、汚れがおちるよ。
URLリンク(rr.img.naver.jp)

301:日本@名無史さん
18/03/29 19:52:38.62 .net
>>300は吊るし方がおかしい。
正統派は、これだ。
URLリンク(www.yaslab.com)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

302:日本@名無史さん
18/03/29 19:58:17.73 .net
以上、余談である。

303:日本@名無史さん
18/03/29 20:03:23.30 .net
▽子母澤寛〈明治25年 - 昭和43年〉
小説家。北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)出身。
祖父の梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎)は、幕府から切り米20俵の家禄を受けていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れて捕虜となったが釈放され、札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩の漁村・厚田で漁場を持った。
新聞記者をするかたわらで、旧幕臣の聞き書きをまとめ、昭和3年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版し、その後の作家ら(司馬遼太郎・池波正太郎など)に引用される。
URLリンク(cdn.amanaimages.com)

304:日本@名無史さん
18/03/29 20:05:14.16 .net
ずいぶん長くなったが、尾崎士郎、中山義秀、子母澤寛は、当時、綱淵謙錠が通っていた作家である。

305:日本@名無史さん
18/03/29 20:09:34.65 .net
▽子母沢寛全集
中央公論社版は全10巻で、昭和37年10月から翌年8月に刊行された。
綱淵謙錠は、「子母沢寛全集の次は、司馬遼太郎全集を出すべきだ」と、ある会議の席上、発言したそうだ。

306:日本@名無史さん
18/03/29 20:15:35.55 .net
▽昭和36年1月
綱淵謙錠と粕谷一希は、新編集長笹原金次郎の許、両次長として「中央公論」編集部に移った。
「風流夢譚」事件に対応する補強策であった。

307:日本@名無史さん
18/03/29 20:24:29.47 .net
▽風流夢譚事件〔嶋中事件〕
昭和36年2月1日に日本で起こった右翼による言論抑圧を目的としたテロ事件。
昭和35年11月上旬に雑誌『中央公論』に発表された深沢七郎の小説「風流夢譚」の中には、皇太子・皇太子妃が斬首される記述や、天皇・皇后の首のない胴体が登場したり、昭憲皇太后が野卑な言葉を語ったり面罵されたりする記述などがあった。
これを「不敬」であるとして右翼の抗議活動がすぐに起こったが、加熱する批判と擁護論争の中で、右翼団体大日本愛国党に所属していた少年Kが、中央公論社の社長嶋中鵬二宅に侵入して起こした殺傷事件。

308:日本@名無史さん
18/03/29 20:31:13.94 .net
この事件に関して第38回国会参議院で当局の警備の手落ちを指摘して緊急質問したのが西郷吉之助議員です。マジ。
西郷吉之助議員は、西郷隆盛と糸子の間に生まれた嫡男・寅太郎の三男。つまり、隆盛の孫。
URLリンク(cdn.snsimg.carview.co.jp)

309:日本@名無史さん
18/03/29 20:34:50.25 .net
右翼は「風流夢譚」のなかの皇族が処刑され冒涜される描写に憤慨したけど、「左慾」(サヨク)という皮肉を込めた漢字表記からも伺えるように、深沢は60年安保に見られた左翼運動で安易に語られた「革命」もパロディとしているんだよね。
小説の内容は、革命を煽動したり賛美したりするのではなく、むしろその愚かさと恐怖を書いたのであり、右翼が怒ったような内容ではなかった〔「よみがえる45年前の記憶 『風流夢譚』事件が私に教えた『言論の自由』より大切なもの インタビュー粕谷一希」〕。

310:日本@名無史さん
18/03/29 20:36:20.80 .net
深沢七郎は『楢山節考』も良かったな。
当時42歳の深沢の処女作である。

311:日本@名無史さん
18/03/29 20:39:30.70 .net
映画『楢山節考』の話だけど、左とん平は、「清川虹子のおっぱいは意外と張りがあった」とインタビューで答えていた。
URLリンク(image.space.rakuten.co.jp)

312:日本@名無史さん
18/03/29 20:46:04.67 .net
▽笹原金次郎〈大正9年 - 平成16年〉
山形県出身。早稲田大学政経学部卒。昭和23年中央公論社入社。昭和36-41年『中央公論』編集長、取締役編集局長をへて退任。

313:日本@名無史さん
18/03/29 20:50:22.32 .net
▽当時連載中の司馬作品
週刊コウロン……「上方武士道」
小説中央公論……「新選組血風録」
週刊文春……「燃えよ剣」

314:日本@名無史さん
18/03/29 20:56:35.20 .net
▽空海の風景
中央公論の昭和48年1月号から、途中「長安から北京へ」のための休載を挟んで、昭和50年9月号まで掲載された。
連載開始時は笹原編集長であったが、その後は粕谷一希が編集長を務めた。
粕谷によると「空海の風景」は、司馬遼太郎の青春への追想だそうである。

315:月報35
18/03/29 21:11:03.38 .net
芳賀徹『司馬さんと駒場』
司馬さんは、式典の日には忙中を上京、みごとな記念講演をして下さった。「アジア諸国との対比において見た日本社会の性格」という、まさに教養学科三十周年にふさわしい、中国・朝鮮・日本、そして貨幣と儒教と製鉄技術と役人道の問題をおおう、遠大で大胆で、しかも個人的見聞と見識とに裏打ちされた名講義であった。

316:日本@名無史さん
18/03/29 21:16:06.76 .net
▽芳賀徹〈昭和6年 - 〉
東京府生まれだが、本籍は山形県。父は中世日本史を専攻した歴史学者芳賀幸四郎で、父が左翼活動で東京高等師範学校を退学になった直後に生まれている。
昭和28年、東京大学教養学部教養学科フランス分科第一期生として卒業、続いて大学院比較文学比較文化専修課程第一期生。島田謹二に比較文学を学ぶ。
URLリンク(images.keizai.biz)

317:日本@名無史さん
18/03/29 21:22:37.27 .net
▽昭和56年
東大教養学部教養学科創設三十周年記念式典で司馬遼太郎が記念講演をした経緯が述べられている。

318:日本@名無史さん
18/03/29 21:28:02.03 .net
▽T・S・エリオット〈Thomas Stearns Eliot:1888年 - 1965年〉
イギリスの詩人、劇作家で文芸批評家である。
昭和56年には故人なんだが、ふざけすぎているぞ、東大教授。
URLリンク(www.poets.org)
URLリンク(shisly.cocolog-nifty.com)

319:日本@名無史さん
18/03/29 21:30:54.22 .net
▽トインビー〈Arnold Joseph Toynbee:1889年 - 1975年〉
イギリスの歴史学者。
トインビーも昭和56年には故人なんだが、どういうつもりなんじゃ、東大教授?
URLリンク(i.ytimg.com)

320:日本@名無史さん
18/03/29 21:35:43.33 .net
▽ケネス・クラーク〈Kenneth McKenzie Clark:1903年 - 1983年〉
英国の美術史家。
筆者は、この時代の外国の学者には昏い。申し訳ない。
URLリンク(sugimatamihoko.cocolog-nifty.com)

321:日本@名無史さん
18/03/29 21:39:14.19 .net
▽国際関係論
国際社会において生起するさまざまな事象についての分析を行う研究領域である。 政治学の一分野と考えられることが多い。
国際関係論でもっとも大きな部分を占めるのが戦争の原因・過程と影響に関する研究である。
戦争・紛争以外の領域でも、様々な側面から国家の行動を説明しようとする試みが続けられている。その中でも、代表的なものはウォルツによる勢力均衡論である。突出した勢力を持つ国が現れるとそれに対抗する連合体が形成される傾向があるという仮説。

322:日本@名無史さん
18/03/29 21:42:29.12 .net
▽文化人類学
人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野。
人間について「文化」という概念を中心に、経験的な調査法(=インタビューと参与観察)を動員して、〈他者〉と〈他者がおりなす社会〉を観察し、そのことを具体的に考察する。
文化人類学の名称はアメリカにおいて用いられ、イギリスおよび多くのヨーロッパ諸国では「社会人類学」の名称が用いられてきた。他のヨーロッパ諸国や日本においては民族学(英語圏での Ethnology、ドイツ語圏での Ethnologie)の名称も用いられている。

323:日本@名無史さん
18/03/29 21:50:03.26 .net
▽江藤淳〈昭和7年 - 平成11年〉
戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄の死後は文芸批評の第一人者とも評された。
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」という遺書を残して自殺した。
URLリンク(i.pinimg.com)

324:日本@名無史さん
18/03/29 22:08:29.36 .net
▽島田謹二〈明治34年 - 平成5年〉
日本の比較文学者・英米文学者。芳賀徹の恩師。
廣瀬武夫とアリアズナの恋の顛末は、東京大学の著名な教授である島田謹二氏が初めて詳細に研究し、1960年代に著している。日本で彼は 「比較文学の父」 と呼ばれている。
島田謹二は 『ロシアにおける廣瀬武夫』 という研究論文 (モノグラフ) を書き上げた。この労作をもとに、司馬遼太郎が、長編小説 『坂の上の雲』 の一節でこれら二人の若者たちの愛の物語を鮮やかに描写している。
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

325:日本@名無史さん
18/03/29 22:12:42.35 .net
国際関係論だの文化人類学だの総合文化研究科などというような鵺のような“すきま学問”の話は興味ない。
伝統文化を重んじる我々としては、法学部とか経済学部のようなスキっとした学問が好みである。

326:日本@名無史さん
18/03/29 22:14:15.42 .net
大蔵省を財務省というようなくだらん名称に変えるから、文書改竄などをしよる。

327:月報35
18/03/29 22:20:50.15 .net
【図表】主要登場人物のおもな経歴(明治元年〜六年)
以下の人物が載せられている。
三条実美、島津久光、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信
副島種臣、大木喬任、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、井上馨、黒田清隆、西郷従道、大山巌、桐野利秋、川路利良、勝安芳

328:日本@名無史さん
18/03/29 22:23:08.28 .net
五箇条の御誓文に加筆したという理由で、受験日本史ではかなりの重要人物である福岡孝弟は、この小説では活躍していません。
どうなさってますか?

329:日本@名無史さん
18/03/29 22:27:08.16 .net
▼福岡孝弟
明治維新では、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。
明治4年、王政復古の功を賞されて賞典禄400石を授けられる。議事体裁取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事。政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。
URLリンク(www.dokidoki.ne.jp)

330:日本@名無史さん
18/03/29 22:27:34.49 .net
司法大輔時代の明治5年、司法卿の江藤新平と共同で、法律で妾を持つことを禁止すべきとの建白書を提出する。しかし、蓄妾は旧来の慣習であったため、建白はいつしか立ち消えとなって採用されることはなかった。
その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任した。明治17年、子爵を授けられる。
大正8年(1919年)3月7日、薨去。享年85。
URLリンク(pds.exblog.jp)

331:日本@名無史さん
18/03/29 22:29:58.60 .net
しぶとく生き延びられていたようですが、二度と歴史の表舞台には顕われなかったようですね。
五箇条の御誓文のところで頻出なんですが、こんな人物を受験日本史で覚えなければならないのですか?
日本史教科書から福岡孝弟の名前は、削除してはどうでしょうか?

332:日本@名無史さん
18/03/29 22:45:34.82 .net
昨年の12月19日に『翔ぶが如く』を始めて、2,331レスも費やして、やっと35巻が終わっただけだぞ。
まだ3巻もあるぞ。
全集を全部終える前に、画像君の寿命が尽きてしまわないか、心配になってきた。

333:日本@名無史さん
18/03/29 22:52:00.84 .net
>>263
引き続き、西郷従道→山県有朋→鳥尾小弥太となり、その後は皇族が都督を務めるようになる。

334:日本@名無史さん
18/03/30 01:03:17.53 .net
>>328
五箇条の御誓文や政体書は、受験日本史や憲法史の上では重視されるけど、実際の影響力から考えれば、まあ糞のようなものだね。

335:日本@名無史さん
18/04/06 12:58:23.27 .net
田布施システムの創作者・発信者一覧表
・大室近祐
通称田布施の和田喜八郎と呼ばれる詐話師
・鹿島昇
極左弁護士
同和問題にも取り組む極左弁護士
新国民社を設立し、陰謀論を出版
・太田竜
鹿島昇の新国民社を引き継いだ極左
元日本革命的共産主義者同盟委員長
・鬼塚英昭
大分の部落民で竹細工職人
鹿島昇の本に影響を受け陰謀論を
在日コリアンの会社から出版
・リチャード輿水
在日コリアンの会社から陰謀論を出版
・朴甲東
鬼塚や輿水が陰謀論を出版してる成甲書房を設立
朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者
・犬丸勝子
日本共和党の極左
・松重正
陰謀論で親韓
・松重楊江
陰謀論
・松重
名前は不明だが鹿島の本に影響を受けている
日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員

336:日本@名無史さん
18/04/06 12:59:07.03 .net
続き
・原田伊織
左翼
小説形式のブログで長州を貶める内容を発信
出版のソースに史料・文献が少なく司馬遼太郎などの
小説をソースにしている
・ツイートTVの老夫婦
共産党支持者
わざわざ山口県にまで出向き
地域を撮影しYouTubeで発信してる陰謀論者
動画の出だしに必ず「はぁい」と不気味な声で言う
会津プロパガンダ同様、極左だらけで歴史家がいない
に加えて部落、朝鮮人、親韓が絡んでるが特徴的

337:日本@名無史さん
18/04/07 13:46:12.51 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた

朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(youtu.be)

338:翔ぶが如く
18/04/08 11:10:12.35 .net
第21章 大警視
大久保が新設の内務卿に就任したのは、11月29日である。征韓論分裂から一月あまりになる。ただし、「全国人民の安寧を図る」というこの省は、すぐには発足しない。
実務が開始されるのは翌年1月10日ということが決められた。実務開始に先立ち、大久保は参議職に兼ねて内務卿になったわけである。大久保が日本国の実権を事実上握るのはこのときからであった。
内務省に、警察組織も移管される。川路も大久保の部下になる。

339:日本@名無史さん
18/04/08 11:20:41.03 .net
★ポリス
▽自由と権利
FreedomやLibertyの翻訳語としての「自由」は、福沢諭吉によって作られた。福沢の『西洋事情』には、FreedomあるいはLibertyは決して我儘放蕩を意味しないとわざわざ断っている。
福沢は欧米において世界を臣従させるような大文明が興った基礎には、自由と権利があるという。

340:日本@名無史さん
18/04/08 11:24:39.06 .net
▽「ポリスが国家をつくる」
川路利良は、警察こそ文明の基礎だという。
ただし、川路は、警保の職の目的は「全国人民の安寧を護り、政府高官の独善を許さないところにある」としているから、彼の思想には国権の管理下において人民の自由と権利を護りたいという気分があった。

341:日本@名無史さん
18/04/08 11:30:21.85 .net
司馬さんは川路〈利良〉を「としなが」と読むことに固執されている。
川路がパリのホテルの宿帳にローマ字で「としなが」と署名したことが根拠になっている。
しかし、当時は別の漢字で「としなが」と名乗っていたのであろう。
その後〈利良〉と改名したのであるから、「としよし」でよい。

342:日本@名無史さん
18/04/08 11:34:15.19 .net
「良」を人名として用いる場合、「なが」と読む例が皆無というわけではない。
「利良=としなが」説も、完璧に葬り去られるべき見解じゃないよ。

343:日本@名無史さん
18/04/08 11:40:57.64 .net
▼川路の官歴
明治4年秋、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。翌明治5年5月、邏卒総長に就任した。
同年8月、警保助・大警視となる。同年9月、司法省の西欧視察団8人の一員として欧州各国の警察を視察する。
帰国は明治6年夏。現在は同年11月。

344:日本@名無史さん
18/07/12 16:05:31.77 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
2Q3

345:日本@名無史さん
18/08/23 17:49:08.03 .net
さしこゲット(σ゚∀゚)σ

346:日本@名無史さん
18/12/24 10:34:30.23 .net
>>1
海音寺潮五郎スレッドが
ないのは何故?

347:日本@名無史さん
19/01/24 12:57:22.64 .net
書いた司馬遼太郎が悪いのか
司馬遼太郎を信じるヤツがバカなのか
まあ、どっちもバカで悪いんだろうが
司馬は世良と乃木将軍の子孫に詫び
あれは創作だと一筆書くべきだったよな

348:日本@名無史さん
19/02/19 19:28:52.11 .net
久光の浜町屋敷
日本橋浜町。人形町の東、墨田川畔にある。

349:日本@名無史さん
19/02/20 19:15:53.77 .net
【諫早作次郎】
慶応元年11月29日、四境戦争(第二次長州征伐)に対応する諸兵の部署を定められた。
膺懲隊は山代(玖珂郡本郷村)へ配置替えになった。
かわって干城隊の分隊(隊長諫早作次郎 のち衝撃隊)と徳地宰判の狙撃兵そのほか諸兵が入った。
この隊はのち、芸州口の戦(小瀬川口)に出陣している。

350:日本@名無史さん
19/02/20 20:07:47.97 .net
丈夫玉砕 甎全を愧ず

351:日本@名無史さん
19/02/20 20:14:49.02 .net
【伊藤退三】
越後北蒲原郡水原(すいばら)出身。
水原町は、平成16年、合併により阿賀野市の一部になる。

352:日本@名無史さん
19/02/21 19:04:38.85 .net
鉋屑を近年とんと見ていない。
死ぬまでにもう一度鉋屑を見てみたい。

353:日本@名無史さん
19/02/21 19:17:23.62 .net
明治3年11月
両国中村楼で前原一誠・佐々木男也 vs 山縣有朋・三浦梧楼
中村楼は本所区元町(現墨田区両国1丁目)の隅田川沿いにあった。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)

354:日本@名無史さん
19/02/23 00:48:20.59 .net
『翔ぶが如く』は江華島事件を数行で済ませているところがいただけないな。
江華島事件に続く日朝修好条規によって朝鮮は開国したのであるから、
実質は遣韓論であるところの西郷の征韓論は、太政官が実現したことになる。
ここを端折るというのはよくない。

355:日本@名無史さん
19/02/23 01:21:47.67 .net
あえて省いたのかもしれんよ。
征台の役につづく北京談判で大久保が成功し、日朝修好条規(明治9年)では黒田清隆が成功した。
詳しく書いていると西郷が木偶に見えてしまう。

356:日本@名無史さん
19/02/23 09:21:04.40 .net
なるほど……そうかもしれない。

357:日本@名無史さん
19/02/23 13:01:08.65 .net
太田黒伴雄が神官を務めた新開太神宮(通称:お伊勢さん)は、熊本城の西南約5qの地点にある(熊本市南区内田町)。
URLリンク(img01.otemo-yan.net)
URLリンク(isemiyasan.jp)

358:日本@名無史さん
19/02/23 13:08:56.71 .net
文安元年(1444年)、伊勢神宮を熱心に信仰していた太田黒孫七郎が、天照大神の託宣を受け、翌年に伊勢神宮を当地に勧請し創建した。
天正年間(1573年 - 1592年)、佐々成政により社殿が焼かれた。
その後、加藤清正により再興され崇拝を受け、細川家の代になり、手厚い保護を受けた。
幕末の思想家林桜園はこの宮を深く崇敬し、宮部鼎蔵をはじめ桜園の門下生も同様に信仰を注いだ。
敬神党の首領である太田黒伴雄が、祠官太田黒伊勢守に入婿し神主として奉職した。
神風連の変の挙兵の宇気比が行われた社でもある。

359:日本@名無史さん
19/02/23 13:14:35.06 .net
明治4年、肥後国には熊本県と八代県が設置された。
熊本県はその後白川県と改められ、明治6年、白川県と八代県が合併して白川県となった。
明治9年2月、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。

360:日本@名無史さん
19/02/23 13:19:18.80 .net
【千島・樺太交換条約】
明治8年5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するためにサンクトペテルブルクで署名され、
同年8月22日に東京にて批准され締約された条約。
スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本武揚は粘りに粘り、
ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。

361:日本@名無史さん
19/02/23 13:26:58.47 .net
安岡良亮(享年51)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
太田黒伴雄(享年41)
URLリンク(upload.wikimedia.org)

362:日本@名無史さん
19/02/23 13:37:07.10 .net
司馬さんは、太田黒伴雄は、明治9年の時点で43歳と書いておられるな。

363:日本@名無史さん
19/02/23 13:42:21.91 .net
数え歳で計算する習慣が抜けきらないんだろうな。
2歳年長で書かれることが多い。

364:日本@名無史さん
19/02/23 15:48:32.04 .net
太田黒伴雄は、幕末の頃は大野家の養子で、大野鉄兵衛と称していた。

365:日本@名無史さん
19/02/23 16:48:49.19 .net
加屋霽堅
上野堅吾……国学
斎藤求三郎……洋学
富永守国……勤王運動家
石原運四郎……陽明学
阿部景器……人柄のよさ

366:日本@名無史さん
19/02/23 18:02:46.11 .net
【秋月の乱】
明治9年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助(しゃのすけ)ら約400名によって起こされた反乱である。

367:日本@名無史さん
19/02/23 18:22:42.26 .net
だから何?

368:日本@名無史さん
19/02/23 18:34:18.99 .net
益田静方(しずかた)1850−1876
明治時代の士族。嘉永3年生まれ。筑前秋月藩士の子。
明治9年秋月の乱に加わり、捕らえられて今村百八郎らとともに同年12月3日処刑された。27歳。

369:日本@名無史さん
19/02/23 18:39:16.10 .net
秋月は、現在の行政区画では、福岡県朝倉市秋月になっている。
URLリンク(fukuoka-yokatoko.biz)
URLリンク(washimo-web.jp)
URLリンク(washimo-web.jp)
URLリンク(washimo-web.jp)
URLリンク(washimo-web.jp)

370:日本@名無史さん
19/02/23 18:54:03.52 .net
前原は、健康がよほど思わしくない。先月五日に目方をはかってみたところ、以前より一貫八百匁も減っているのである。
心労としか言えないようであった。後日、前原がその日記に、
―全身震動、頭浮クガ如ク、翔ブガ如ク
と、自分の症状を書いている。

371:日本@名無史さん
19/02/23 19:03:49.61 .net
【大楽源太郎の蜂起】
明治3年、多くの門下生が奇兵隊脱隊騒動を起こすと、首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられる。
ここに至りついに山口より脱走し、豊後姫島に潜伏した後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるも失敗。
さらに久留米に走って応変隊を頼るが、新政府からの追及を受けた同隊隊士の川島澄之助らの手によって、翌4年に斬殺された。

372:日本@名無史さん
19/02/23 19:57:41.33 .net
小河源之允
久留米藩士。実在の人物のようである。

373:日本@名無史さん
19/02/23 20:00:46.00 .net
古田十郎
神風連幹部。
大島邦秀中佐は熊本鎮台砲兵営に所属していたが、明治9年10月24日の神風連の乱において、熊本城の大兵営に駆けつけ、防戦したのちに戦死した。
名に負う剣客であったという大島は、駆けつけた南坂で神風連の【古田十郎】、青木暦太と対峙し、善戦しているところを太田黒伴雄に胸を刀で貫かれた。

374:日本@名無史さん
19/02/23 23:06:49.69 .net
種田政明の写真はない。
妾の小勝の写真はあった。
URLリンク(pds.exblog.jp)
墓は甲府の瑞泉寺にある。
URLリンク(pds.exblog.jp)

375:日本@名無史さん
19/02/23 23:50:03.62 .net
司馬さんは、安岡良亮邸襲撃班のリーダーを吉岡義節としているが、
吉村義節(ぎせつ)の誤りである。

376:日本@名無史さん
19/02/25 05:51:32.08 .net
雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂

377:日本@名無史さん
19/02/25 17:59:24.97 .net
安岡良亮邸襲撃部隊……吉村義節班
【被害者】
安岡良亮 →3日後に死去
小関敬直……旧小倉藩士、熊本県参事 →明治10年3月病院で死去
仁尾惟茂……一等警部(県警指揮者)
村上新九郎……六等警部 →現場で死去、愛敬元吉の両眼を抉り取る
坂口静樹……一等巡査 →現場で死去

378:日本@名無史さん
19/02/25 18:34:53.36 .net
神風連第二隊……砲兵第六大隊襲撃
週番士官:坂谷敬一砲兵砲兵少尉

379:日本@名無史さん
19/02/25 18:37:23.33 .net
神風連第三隊……歩兵第13連隊襲撃
週番士官:福原豊功歩兵大尉(司馬は福原豊助としているが誤り)

380:日本@名無史さん
19/02/25 18:43:48.26 .net
白川県の由来は、熊本市内を流れる白川だな。

381:日本@名無史さん
19/02/25 19:13:03.47 .net
熊本鎮台逆転劇の英雄
参謀児玉源太郎少佐
歩兵第13連隊第3大隊大隊長小川又一
歩兵第13連隊連隊長与倉知実中佐

382:日本@名無史さん
19/02/25 19:16:31.74 .net
神風連の乱の当日に熊本にいた児玉源太郎。
おなじく熊本鎮台に属しながら小倉営所に常駐する第14連隊連隊長だった乃木希典。
いつもツイている児玉と、いつもツイていない乃木。

383:日本@名無史さん
19/02/26 03:22:34.46 .net
国名を聴いただけでほんわかした気分になれるのは、ホンジュラス。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

384:日本@名無史さん
19/02/26 21:12:23.19 .net
歴代熊本鎮台司令長官
明治4年:桐野利秋少将
明治6年4月:谷干城少将
明治7年:野津鎮雄
明治9年6月:種田政明
明治9年:谷干城……参謀長:樺山資紀

385:日本@名無史さん
19/02/27 17:01:32.41 .net
【豊前豊津】
豊前の豊津陣屋は、明治2年に小笠原忠忱によって築かれた。
慶長2年(1866)第二次長州征伐で敗れた小倉藩は小倉城に自ら火を放ち退去した。
慶長3年(1867)に長州藩と和睦した小倉藩は香春に移り、後に豊津に陣屋を築き豊津藩となったが、明治4年廃藩置県により廃城となった。
『翔ぶが如く』にちょくちょく登場する豊津士族とは、旧小倉藩士のことだと思えば、ほぼ間違いない。

386:日本@名無史さん
19/02/27 17:03:29.53 .net
【秋月藩】
福岡藩の支藩。元和9年(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。
藩庁は秋月陣屋(福岡県朝倉市)。無城大名ではあるが城主格が与えられていた。

387:日本@名無史さん
19/02/27 17:14:48.74 .net
香春町(かわらまち)
福岡県田川郡香春町。豊津の西方約10qに位置する。その西南に田川市がある。
なお、豊津は福岡県京都郡みやこ町豊津。
URLリンク(www.town.kawara.fukuoka.jp)

388:日本@名無史さん
19/02/27 19:26:37.63 .net
>>385
旧小倉藩といえば、戦闘的佐幕藩だろう。
こんな連中を信頼した旧秋月藩士が阿呆。

389:日本@名無史さん
19/02/27 19:35:14.25 .net
歩兵第十四連隊(小倉)連隊長
明治8年12月まで:山田頴太郎少佐……前原一誠の実弟
その後:乃木希典少佐……連隊長心得

390:日本@名無史さん
19/02/27 19:38:45.44 .net
福原和勝(1846−1877)
長府藩士村上通虎の三男として生まれた。幼名は百合勝。
後に同藩士・福原俊親の養子となって福原俊行を名乗り、後に和勝と改めた。若年ながら武芸に秀で、藩主・毛利元周の護衛等も務めた。
元治元年(1863年)から始まる下関戦争では藩内の青年を組織、翌年の英米仏蘭連合艦隊の攻撃では、上陸した幕府軍の陸戦隊と死闘を繰り広げた。
佐賀の乱では佐賀征討総督幕僚参謀として参戦。

391:日本@名無史さん
19/02/27 19:41:33.68 .net
御堀耕助=太田市之進(司馬さんはいつも太田市之允とされる)

392:日本@名無史さん
19/02/27 19:46:21.68 .net
太田市之進から御堀耕助に改名したのは慶応元年(1865年)。
長州藩士・太田要蔵の長男として萩に生まれる。18歳で江戸の斎藤弥九郎道場に入門し塾頭を務める。帰藩後、世子毛利定広の小姓となる。
元治元年(1864年)7月の禁門の変に参加するも破れて帰藩。
四カ国連合艦隊との戦闘に参加後、山田顕義・品川弥二郎らと御楯隊を結成し総督となる。
同年12月(1865年1月)、高杉晋作が決起すると(功山寺挙兵)、これに呼応して御楯隊を率いて俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍した。
慶応3年(1867年)、参政となる。同年8月、柏村数馬と共に京都に赴き、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らと倒幕の実施計画について会談した。

393:日本@名無史さん
19/02/27 20:16:09.66 .net
杉民治(みんじ)
吉田松陰の実兄。
『花燃ゆ』では原田泰造が演じたらしいが、まったく記憶に残っていない。

394:日本@名無史さん
19/02/27 20:26:00.17 .net
歩兵第十四連隊(小倉)連隊長時代の乃木希典も元へ、実弟の玉木正誼が訪ねて、前原一誠への加担を勧めている。
乃木はその情報を種田政明と山縣有朋に通報している。
つまり実弟を売ったことになる。

395:日本@名無史さん
19/02/27 20:32:32.00 .net
乃木自身が前原一誠の乱への加担を疑われたので、実弟を売らざるを得ない窮地に立たされたのかもしれんな。

396:日本@名無史さん
19/02/27 20:49:35.48 .net
東光寺(萩市)
山口県萩市にある黄檗宗の寺院。毛利家の菩提寺。
吉田松陰誕生地近くの萩市大字椿東字椎原にあり、元禄4年(1691年)長州藩3代藩主毛利吉就が建立した。
熊本の神風連につづいて秋月も蜂起したとの報を受けると、前原一誠は26日、山田穎太郎、佐世一清(両者とも前原の弟)、奥平謙輔、横山俊彦など主な同志を東光寺に集め、「国体を挽回するはこの時にあり」と告げて蹶起の趣意書を作った。
URLリンク(buraneta.com)

397:日本@名無史さん
19/02/27 20:58:32.96 .net
乃木希典と玉木正誼が別離の宴のつもりで酒をくみかわした鎮海楼は、現在でも同名の割烹旅館がある。
明治9年当時の店が続いているものかどうかは筆者にはわからないが、おそらく無関係。

398:日本@名無史さん
19/02/27 20:59:49.59 .net
希典と正誼が上がったのは、遊郭である大坂屋の対帆楼だと思う。
対帆楼はのちに鎮海楼と名前を変えた。
URLリンク(stat.ameba.jp)

399:日本@名無史さん
19/02/27 22:41:28.37 .net
関口隆吉
天保7年(1836年)江戸本所相生町に幕臣関口隆船の次男として生まれる。関口家は今川一族の関口氏広の子孫。
嘉永元年(1848年)斎藤弥九郎の練兵館に入門する。当時の塾頭は兄弟子となる桂小五郎であった。
このときの桂小五郎とのコネクションで、山口県令に任命されたものと思われる。
URLリンク(www.tosyokan.pref.shizuoka.jp)

400:日本@名無史さん
19/02/27 22:44:46.59 .net
諏訪好和大尉
広島鎮台山口営所の大隊長
前原軍との萩における市街戦は、明治9年10月31日。

401:日本@名無史さん
19/02/27 23:11:08.06 .net
佐藤信寛
島根県令。曾孫に佐藤市郎(海軍軍人)、岸信介、佐藤栄作らがいる。

402:日本@名無史さん
19/02/27 23:43:20.64 .net
宇龍浦
前原一誠が捕縛された場所
URLリンク(i.ytimg.com)

403:日本@名無史さん
19/02/28 09:19:43.39 .net
明治9年12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡された。
首謀者とされた前原一誠と奥平謙輔および横山俊彦、佐世一清(前原実弟)、山田頴太郎(前原実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日斬首された。

404:日本@名無史さん
19/02/28 09:29:21.07 .net
斗南藩領
明治3年4月16日に正式に移住命令が下り、先発役人が下北半島の田名部(むつ市東部)に到着したのは5月2日だったという。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)


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