司馬遼太郎 Part12 ..
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474:日本@名無史さん
18/02/05 20:01:58.99 .net
躁になった木戸さんは、三田に福沢諭吉を訪ね、同日、山尾庸三、森有礼、岩倉具視を訪ねた。
その日の夜に激烈な頭痛をおぼえた。

475:日本@名無史さん
18/02/05 22:39:00.36 .net
▽長与専斎
天保9年(1838年)- 明治35年(1902年)
肥前国大村藩(長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる。福澤諭吉の後任であった。のち大村藩の侍医となった。
URLリンク(www.city.oshu.iwate.jp)
URLリンク(uub.jp)

476:日本@名無史さん
18/02/05 22:40:49.17 .net
文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察した。
明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。
本章では、木戸さんは専斎の往診をうけた(9月18日)。

477:日本@名無史さん
18/02/05 22:55:27.49 .net
▽廃刀令
すでに明治2年頃から廃刀の議論は行われていた。明治2年3月に公議所が開かれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。
「早く蛮風を除くべし」というものであったが、王政復古から間もない頃であったため他の公議人は反対し、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられた。
明治3年には帯刀を一般に禁止し、明治4年8月9日には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、明治9年3月28日、廃刀令を発布した。

478:日本@名無史さん
18/02/05 23:01:32.01 .net
明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、森有礼〔>>473>>477〕は、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。

479:日本@名無史さん
18/02/05 23:10:39.08 .net
▽加藤弘之
1836年(天保7年)- 1916年(大正5年)
但馬国出石藩(兵庫県豊岡市)藩士として、同藩家老をも務めた加藤正照の長男として生まれる。
1860年(万延元年)、蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。1864年(元治元年)、旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
明治2年に新政府へ出仕し、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出した。
明治23年、東京帝国大学の第二代総長となる。
URLリンク(www.city.toyooka.lg.jp)

480:日本@名無史さん
18/02/05 23:18:21.30 .net
▽明六雑誌
明六社の機関誌。明治7年4月2日創刊、明治8年11月14日停刊。全43号。近代日本における学術総合雑誌、学会誌の先駆けとなり、文明開化時期の日本に大きな影響を与えた刊行物である。
明六社は、明治初期にアメリカ帰りの森有礼〔>>478〕が西村茂樹に相談して設立した結社。
URLリンク(dglb01.ninjal.ac.jp)

481:日本@名無史さん
18/02/05 23:18:33.71 .net
同人には森、西村に誘われて津田真道、西周、中村正直、加藤弘之〔>>479〕、箕作秋坪、福澤諭吉〔>>469〕、杉亨二、箕作麟祥など、当時を代表する錚々たる知識人たちが参加した。かれらには幾つかの共通点がある。
まず西村以外は下級武士あるいは庶民といった下層出身者であったこと、次いで明治となる以前から洋学者として頭角を現し、幕府の開成所などに召し抱えられていたことである。
これと関連して、その多くが幕末明治期かいずれかに洋行の経験があって、尊皇攘夷思想に染まった経験がなかった。また福澤を除けば、明治以後は官吏として維新政府に仕えていたことも特徴といえる。

482:日本@名無史さん
18/02/05 23:25:51.22 .net
▽ホフマン教授〈Theodor Eduard Hoffmann〉
前スレ〔453〕で登場した西郷隆盛の主治医。この小説では木戸孝允をも診察したことになっている。
内科も精神科も何でもやれるんでしょう、きっと。
ホフマン教授の診断によると、木戸さんはノイローゼ。

483:翔ぶが如く
18/02/05 23:45:44.78 .net
第10章 風雨
〔三〕岩倉具視
三条実美が岩倉の賜暇願いの願書に接したのは九月十八日の午後である。自宅に届けられた。岩倉の自筆である。
「五十日の賜暇。……」
三条実美は目がくらむような思いがした。三条は折れに折れて「では一週間」ということにし、正式の辞令を出した。
ともあれ、岩倉は七日という政治的休幕を演出することができた。岩倉がかせぎ出した七日間が、近代日本の重大な運命を決定したといえるであろう。

484:日本@名無史さん
18/02/07 12:05:24.93 .net
▽岩倉具視
文政8年(1825年)- 明治16年
前スレ〔628-630〕参照。この年、48歳。
岩倉は明治4年8月に断髪令が出た後も、髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得され、シカゴで断髪している。
9月13日、岩倉使節団、横浜に入り帰国。岩倉具視と伊藤博文、東京に入り参内、明治天皇に帰国の挨拶をする。

485:日本@名無史さん
18/02/07 12:20:23.40 .net
▼岩倉使節団
明治4年11月12日:横浜を「アメリカ号」で出港 →12月6日:サンフランシスコ上陸 →12月25日:ソルトレーク
明治5年1月18日:シカゴ →1月21日:ワシントン〔グラント大統領〕
7月3日:ボストンより英国汽船「オリンパス号」に乗船 →7月14日:リバプール着 →翌日:ロンドン〔ヴィクトリア女王〕
11月16日:パリ〔ティエール大統領〕

486:日本@名無史さん
18/02/07 12:20:34.93 .net
明治6年2月17日:ベルギー〔レオポルド二世〕 →2月24日:オランダ →3月9日:ベルリン
3月30日:ペテルブルグ〔アレクサンドル二世〕 →4月18日:デンマーク →4月24日:スウェーデン
5月11日:ローマ →6月3日:オーストリア →6月20日:スイス
7月20日:マルセーユより仏汽船「アウア号」乗船し帰国に向う →9月13日:横浜着

487:日本@名無史さん
18/02/07 12:40:01.28 .net
▽前田侯爵家
本章の兼六園の茶室における岩倉と大隈のエピソードについて。
加賀前田家第15代当主の前田利嗣が侯爵に叙勲されたのは明治17年である。その前年の明治16年に岩倉具視は死去しているから、正確にいうと、加賀前田家が侯爵家になる前のエピソードが書かれている。
また、明治14年の政変で大隈重信は下野しているから、それ以前のエピソードということになる。
URLリンク(file.romance.ichi-matsu.net)

488:日本@名無史さん
18/02/07 14:06:52.52 .net
▼慶応3年(1867年)6月25日
坂本龍馬と中岡慎太郎は、岩倉具視を訪ねた。
岩倉具視は公武合体派で、和宮降嫁に尽力したため攘夷派に弾圧され、文久2年に官位剥奪、洛北の岩倉村へ蟄居を余儀なくされた。
慶応3年3月、蟄居を解かれ、同年6月25日、かねて親交のあった中岡慎太郎の紹介で龍馬と会見。以後は、大久保利通らと謀り、王政復古を画策した。
龍馬暗殺には驚愕し、犯人に対しての憎悪を大久保あての手紙に記している。

489:日本@名無史さん
18/02/07 14:19:15.31 .net
岩倉がかろうじて持っている思想は、「日本の皇室をゆるぎなきものにする」というだけのもので、極端にいえば岩倉には国家というものも国民もその実感としては捉えられがたいものになっていた。
おおかたの公卿がそうであろう。かれらは千数百年来京都の御所の内外に住み、とくに鎌倉幕府の成立以来政治の実権を失ったために国家と人民の安危を一身で背負うという体験から遠ざかってしまっていた。

490:日本@名無史さん
18/02/07 14:25:42.84 .net
▽王党派
1871年2月からティエールを首班とする臨時政府が対外的のもフランスを代表したが、国内には王政復古や帝政の復活を目指す勢力も根強く安定しなかった。
また、臨時政府がプロイセンに降服したことに対して、パリの市民・労働者が反発して徹底抗戦を掲げ、3月にパリから臨時政府軍を追いだしてパリ=コミューンが樹立した。
パリ=コミューンは労働者が権力を握った最初の社会主義政権であったが、ブルジョワ勢力に支持されたティエールの臨時政府軍によって5月に鎮圧された。
ティエールは共和政を掲げて8月に大統領となったが、議会内の保守派・王党派によって失脚させられ、王党派のマクマオンが大統領となった。1875年に議会は第三共和政憲法を可決し、ようやくフランスの政体は共和政であることが確定した。

491:日本@名無史さん
18/02/07 14:30:31.84 .net
▽ベルツ博士〈1849年 - 1913年〉
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。
ベルツ博士は晩年の岩倉具視を診察して、日本初の癌告知をしたらしい。
URLリンク(sagarachian.jp)

492:日本@名無史さん
18/02/07 18:13:28.10 .net
★岩倉邸
▽岩倉邸
江戸城内曲輪(うちくるわ)にあった。
江戸城内堀の内側(現・皇居外苑)、馬場先門内、元老院のお隣にありました。
URLリンク(sakamichi.tokyo)

493:日本@名無史さん
18/02/07 18:14:37.98 .net
現在は土橋の大通りとなっている馬場先門。手前の木立の裏に元老院、向こうの木立の裏に岩倉邸があったことになります。
URLリンク(sakamichi.tokyo)
※元老院
URLリンク(sakamichi.tokyo)

494:日本@名無史さん
18/02/07 18:18:30.38 .net
ついでに川路が奉職していた警視庁(明治10年頃)の写真
URLリンク(sakamichi.tokyo)
当時、東京消防庁は独立していなくて、警視庁が治安も消防も担っていました。この古写真は警視庁出初式の模様です。
URLリンク(sakamichi.tokyo)


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