司馬遼太郎 Part12 ..
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445:日本@名無史さん
18/02/04 21:38:59.44 .net
★築地
▽築地本願寺
江戸の本願寺は、1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町に建立されていた。「浜町御坊」と呼ばれていた。
しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。
そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、1679年に再建された。「築地御坊」と呼ばれる。なお、この埋め立て工事が地名「築地」の由来である。

446:日本@名無史さん
18/02/04 21:43:48.31 .net
>>445の築地御坊が、この物語に登場する築地本願寺である。
URLリンク(www.ndl.go.jp)
この本願寺は、関東大震災では地震による倒壊は免れた。しかし、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失する。
現在の本堂は昭和9年の竣工である。あまりにグロテスクな建物なので、画像は貼りたくない。

447:日本@名無史さん
18/02/04 21:44:48.08 .net
火災から本堂すら守れない神や仏って、能無しだね。

448:日本@名無史さん
18/02/04 22:38:00.97 .net
▽戸川安宅〈やすいえ〉
安政2年(1855年)、江戸の旗本早島戸川家第12代・戸川安行の子として牛込原町に生まれた。慶応元年(1865年)2月の長州征伐は、病気がちであった兄安道の名代で出陣した。
慶応4年(1868年)、5月、彰義隊に参加。同年6月、一族と共に領地の備中国早島(現在の岡山県早島町)に移り住んだ。8月、兄の養子となり家督相続。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

449:日本@名無史さん
18/02/04 22:46:51.39 .net
安宅が家督を相続したのは、領地の早島に移住した後なので、正確には父親の戸川安行という大旗本の屋敷と書くべきである。
もっともここで安宅の名が出てきたのは、安宅が文学者、プロテスタント系の日本基督教会の牧師として著名な存在だからである。

450:日本@名無史さん
18/02/04 22:50:47.38 .net
戸川安宅が屋敷を「口の大きな書生(大隈重信)に売った」というのは、大ウソである。
明治2年6月の版籍奉還により、戸川安宅は借金地獄からは解放された。しかし、所領を失ったため、明治3年2月に江戸へ戻ったが、すでに江戸屋敷は接収されて大隈重信の屋敷となっていた。以後は新政府から与えられた代替屋敷に居住した。

451:日本@名無史さん
18/02/04 23:02:42.49 .net
▽大蔵大輔
物語のこの当時の大蔵大輔は大隈重信である。その前は、井上馨。このあたりを少し詳しく勉強してみよう。
井上が36歳の若さで大蔵大輔に就任したのは、明治4年7月28日のことである。折から遣外使節の議がおこり、岩倉が大使、大久保は大蔵卿のまま副使に任ぜられ11月11日に米欧回覧の壮途にのぼった。したがって、井上は大久保の留守中大輔のまま実質的には卿の実権をその手におさめたわけである。

452:日本@名無史さん
18/02/04 23:05:42.21 .net
これよりさき7月26日に民部省が廃され、その担当業務はすべて大蔵省へ移管されたから、大蔵省は財政、民政および司法に亘る広範な業務を所管することになり、井上の掌握した権限は断然他を圧する強大なものとなった。

453:日本@名無史さん
18/02/04 23:09:25.17 .net
明治5年2月28日に兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が設置された。陸軍卿は人材難で欠員のまま派閥バランス人事で山県有朋が陸軍大輔に、西郷従道が陸軍少輔に任ぜられた。
文部省は明治4年7月18日に設置され、文部卿大木喬任である。
司法省も文部省と相前後して設置されるが、司法改革の動きが活発化するのは、井上の推挙で江藤新平が明治5年4月25日に左院副議長から司法卿へ転じてから後のことである。

454:日本@名無史さん
18/02/04 23:23:09.26 .net
井上は緊縮財政の方針と予算制度確立を図った。そして、大木喬任の文部省が学制頒布、江藤新平の司法省が司法改革などで高い定額を要求すると、これを拒絶して予算を削った。
これが江藤らの怒りを買い、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及され、明治6年5月3日に井上は辞職した。
その後の大蔵大輔が大隈重信である。

455:日本@名無史さん
18/02/05 06:02:12.32 .net
▽築地梁山泊
戸川安宅の屋敷に住み始めた大隈重信は、伊藤博文と井上馨に「近所に来ないか」と誘った。前スレ〔464〕。
大隈重信は、維新早々の時期は、大久保とは距離を置いていた。大隈の近所には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで大久保利通ら薩摩閥を牽制していた。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。

456:日本@名無史さん
18/02/05 06:08:59.36 .net
▽井上馨
天保6年(1836年)- 大正4年(1915年)
留守政府時代の井上については、すでに>>451-454に書いてしまった。繰り返しになるが、明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、主に財政に力を入れた。
明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席、同月に大蔵大輔に昇進、大蔵卿・大久保利通が岩倉使節団に加わると、外遊中は大蔵省を預かり、「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。

457:日本@名無史さん
18/02/05 06:13:38.15 .net
明治6年5月3日に井上は辞職して下野したため、征韓論争のこの時期、井上は政府内にいない。
政界から引いた後、三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと太政官に復帰した。
そして、参議を辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年の大阪会議を実現させた。
URLリンク(www.ndl.go.jp)

458:日本@名無史さん
18/02/05 06:14:31.34 .net
このあたりは江藤新平を主人公にした『歳月』で詳しくやる。

459:日本@名無史さん
18/02/05 06:27:25.92 .net
築地梁山泊の話は、岩倉使節団の外遊前の話である。明治6年のこの時期は、大隈・伊藤は、大久保の与党といってよい。
この作品の叙述は、井上馨の存在とその辞任事件が司馬さんの脳裏からすっかり抜けているため(あるいは意図的に抜いたため)、若干わかりにくくなっている。

460:日本@名無史さん
18/02/05 06:34:34.06 .net
司馬作品は同じ時代を別の主人公で叙述することが多いので、内容的に重複する部分は、ことさらにオミットしてしまう。
この作品で江藤新平と佐賀の乱が目立たないのは、『歳月』があるためだが、必要なことは書くべきである。
留守政府時代を江藤と井上抜きで語ることは難しい。

461:日本@名無史さん
18/02/05 06:53:09.74 .net
それそれ。『新史太閤記』と『覇王の家』なんて凄まじい。
『国盗り物語』『関ケ原』『城塞』の部分がすっぽり抜け落ちて、最終章は唐突に臨終場面。

462:日本@名無史さん
18/02/05 06:53:28.21 .net
あれは、あれでいい。

463:日本@名無史さん
18/02/05 16:50:59.48 .net
▽明治6年9月14日
前日に横浜に着くや〔>>443〕、翌日には木戸松菊を訪ね、渡欧中のわだかまりを解消し和解している。
「伊藤春畝来訪。欧州一別巳来の事情を了承し、また本邦の近情を話す」

464:日本@名無史さん
18/02/05 16:52:38.53 .net
鬱から躁への変わり身の早さが、木戸さんの良いところ( ^∀^)

465:日本@名無史さん
18/02/05 16:58:03.99 .net
「やはり伊藤はいい」
と、十四日、伊藤が帰ったあと、木戸は息を大きく吸い込むようにして思った。
松子は、木戸の体臭のする懐紙を拾い上げ、
「そんなに伊藤さんは、よござんしたか」
と、夫に尋ねた。
「やはり伊藤はいい」

466:日本@名無史さん
18/02/05 17:00:27.38 .net
翌9月15日、木戸松菊は伊藤春畝に長い手紙を認めている。
恋文であることは、言うまでもない。

467:日本@名無史さん
18/02/05 17:04:23.08 .net
十六日に木戸は朝七時に家を出て福沢諭吉を訪ねたあと、午後伊藤の家まで足をのばして訪問している。
この二人の長州人の交情の濃やかさは尋常ではない。
ただし伊藤は不在だった。
「春畝……」

468:日本@名無史さん
18/02/05 17:06:11.25 .net
ところが、木戸は発病した。
伊藤を訪ねて不在だった九月十六日の夕刻のことである。
あきらかにエイズであった。

469:日本@名無史さん
18/02/05 17:50:59.16 .net
▽福澤諭吉
天保5年(1835年)- 明治34年(1901年)
明治6年9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり。」の声があった。
「木戸は福沢に頼ることが多く」と司馬さんは書かれているが、明治6年に初めて会談したようである。

470:日本@名無史さん
18/02/05 17:58:28.23 .net
▽勝海舟
福沢諭吉は、勝海舟の批判者であり続けました。
勝海舟も福沢を嫌っていて、「危ないときは隠れていた。それでいて、後になっていろいろ言うのさ」「相場とか金儲けの好きな男だよ」「大家になってからは挨拶にも来ません」とか無茶苦茶にこきおろしています。
ただ、福沢が亡くなる前年、勝海舟や榎本武揚を批判した『?我慢の記』を刊行する前に、「内容に誤りがあっては失礼なので、原稿をお読みになって何かあったらご指摘ください」と依頼した福沢に、勝は「自分はおのれのやったことに確信があります。批判は自由。それで自分の考えを変えることはありません。しかし、あなたのような高名な学者に批評されるのは、むしろ私の名誉かもしれません」と答えました。

471:日本@名無史さん
18/02/05 19:46:11.37 .net
▽山尾庸三
天保8年(1837年)- 大正6年(1917年)
長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。
文久元年(1861年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。文久2年(1862年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
URLリンク(ktymtskz.my.coocan.jp)

472:日本@名無史さん
18/02/05 19:49:08.62 .net
文久3年(1863年)、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリスへ留学し、長州五傑と呼ばれた。ロンドンにおいて基礎科学を学んだ後、グラスゴーにおいて造船を中心とした実務訓練を受けた。
明治元年(1868年)に帰国。明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となり、鉄道技師長のエドモンド・モレルの提案を受けて明治3年(1870年)工部省の設立に携わる〔>>436>>437〕。
明治31年(1898年)退官後、文墨に親しみ特に金魚の飼育を好んだ。
URLリンク(s3-ap-northeast-1.amazonaws.com)

473:日本@名無史さん
18/02/05 19:55:44.92 .net
▽森有礼
弘化4年(1847年)- 明治22年(1889年)
鹿児島城下春日小路町(現・鹿児島市春日町)で薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。兄に横山安武がいる。
慶応元年(1865年)、五代友厚らとともにイギリスに密航留学し(薩摩藩第一次英国留学生)、ロンドンで長州五傑と会う。
明治維新後に帰国すると福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥らと共に明六社を結成する。
明治8年、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。明治18年、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任した。
URLリンク(kotobank.jp)

474:日本@名無史さん
18/02/05 20:01:58.99 .net
躁になった木戸さんは、三田に福沢諭吉を訪ね、同日、山尾庸三、森有礼、岩倉具視を訪ねた。
その日の夜に激烈な頭痛をおぼえた。

475:日本@名無史さん
18/02/05 22:39:00.36 .net
▽長与専斎
天保9年(1838年)- 明治35年(1902年)
肥前国大村藩(長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる。福澤諭吉の後任であった。のち大村藩の侍医となった。
URLリンク(www.city.oshu.iwate.jp)
URLリンク(uub.jp)

476:日本@名無史さん
18/02/05 22:40:49.17 .net
文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察した。
明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。
本章では、木戸さんは専斎の往診をうけた(9月18日)。

477:日本@名無史さん
18/02/05 22:55:27.49 .net
▽廃刀令
すでに明治2年頃から廃刀の議論は行われていた。明治2年3月に公議所が開かれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。
「早く蛮風を除くべし」というものであったが、王政復古から間もない頃であったため他の公議人は反対し、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられた。
明治3年には帯刀を一般に禁止し、明治4年8月9日には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、明治9年3月28日、廃刀令を発布した。

478:日本@名無史さん
18/02/05 23:01:32.01 .net
明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、森有礼〔>>473>>477〕は、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。

479:日本@名無史さん
18/02/05 23:10:39.08 .net
▽加藤弘之
1836年(天保7年)- 1916年(大正5年)
但馬国出石藩(兵庫県豊岡市)藩士として、同藩家老をも務めた加藤正照の長男として生まれる。
1860年(万延元年)、蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。1864年(元治元年)、旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
明治2年に新政府へ出仕し、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出した。
明治23年、東京帝国大学の第二代総長となる。
URLリンク(www.city.toyooka.lg.jp)

480:日本@名無史さん
18/02/05 23:18:21.30 .net
▽明六雑誌
明六社の機関誌。明治7年4月2日創刊、明治8年11月14日停刊。全43号。近代日本における学術総合雑誌、学会誌の先駆けとなり、文明開化時期の日本に大きな影響を与えた刊行物である。
明六社は、明治初期にアメリカ帰りの森有礼〔>>478〕が西村茂樹に相談して設立した結社。
URLリンク(dglb01.ninjal.ac.jp)

481:日本@名無史さん
18/02/05 23:18:33.71 .net
同人には森、西村に誘われて津田真道、西周、中村正直、加藤弘之〔>>479〕、箕作秋坪、福澤諭吉〔>>469〕、杉亨二、箕作麟祥など、当時を代表する錚々たる知識人たちが参加した。かれらには幾つかの共通点がある。
まず西村以外は下級武士あるいは庶民といった下層出身者であったこと、次いで明治となる以前から洋学者として頭角を現し、幕府の開成所などに召し抱えられていたことである。
これと関連して、その多くが幕末明治期かいずれかに洋行の経験があって、尊皇攘夷思想に染まった経験がなかった。また福澤を除けば、明治以後は官吏として維新政府に仕えていたことも特徴といえる。

482:日本@名無史さん
18/02/05 23:25:51.22 .net
▽ホフマン教授〈Theodor Eduard Hoffmann〉
前スレ〔453〕で登場した西郷隆盛の主治医。この小説では木戸孝允をも診察したことになっている。
内科も精神科も何でもやれるんでしょう、きっと。
ホフマン教授の診断によると、木戸さんはノイローゼ。

483:翔ぶが如く
18/02/05 23:45:44.78 .net
第10章 風雨
〔三〕岩倉具視
三条実美が岩倉の賜暇願いの願書に接したのは九月十八日の午後である。自宅に届けられた。岩倉の自筆である。
「五十日の賜暇。……」
三条実美は目がくらむような思いがした。三条は折れに折れて「では一週間」ということにし、正式の辞令を出した。
ともあれ、岩倉は七日という政治的休幕を演出することができた。岩倉がかせぎ出した七日間が、近代日本の重大な運命を決定したといえるであろう。

484:日本@名無史さん
18/02/07 12:05:24.93 .net
▽岩倉具視
文政8年(1825年)- 明治16年
前スレ〔628-630〕参照。この年、48歳。
岩倉は明治4年8月に断髪令が出た後も、髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得され、シカゴで断髪している。
9月13日、岩倉使節団、横浜に入り帰国。岩倉具視と伊藤博文、東京に入り参内、明治天皇に帰国の挨拶をする。

485:日本@名無史さん
18/02/07 12:20:23.40 .net
▼岩倉使節団
明治4年11月12日:横浜を「アメリカ号」で出港 →12月6日:サンフランシスコ上陸 →12月25日:ソルトレーク
明治5年1月18日:シカゴ →1月21日:ワシントン〔グラント大統領〕
7月3日:ボストンより英国汽船「オリンパス号」に乗船 →7月14日:リバプール着 →翌日:ロンドン〔ヴィクトリア女王〕
11月16日:パリ〔ティエール大統領〕

486:日本@名無史さん
18/02/07 12:20:34.93 .net
明治6年2月17日:ベルギー〔レオポルド二世〕 →2月24日:オランダ →3月9日:ベルリン
3月30日:ペテルブルグ〔アレクサンドル二世〕 →4月18日:デンマーク →4月24日:スウェーデン
5月11日:ローマ →6月3日:オーストリア →6月20日:スイス
7月20日:マルセーユより仏汽船「アウア号」乗船し帰国に向う →9月13日:横浜着

487:日本@名無史さん
18/02/07 12:40:01.28 .net
▽前田侯爵家
本章の兼六園の茶室における岩倉と大隈のエピソードについて。
加賀前田家第15代当主の前田利嗣が侯爵に叙勲されたのは明治17年である。その前年の明治16年に岩倉具視は死去しているから、正確にいうと、加賀前田家が侯爵家になる前のエピソードが書かれている。
また、明治14年の政変で大隈重信は下野しているから、それ以前のエピソードということになる。
URLリンク(file.romance.ichi-matsu.net)

488:日本@名無史さん
18/02/07 14:06:52.52 .net
▼慶応3年(1867年)6月25日
坂本龍馬と中岡慎太郎は、岩倉具視を訪ねた。
岩倉具視は公武合体派で、和宮降嫁に尽力したため攘夷派に弾圧され、文久2年に官位剥奪、洛北の岩倉村へ蟄居を余儀なくされた。
慶応3年3月、蟄居を解かれ、同年6月25日、かねて親交のあった中岡慎太郎の紹介で龍馬と会見。以後は、大久保利通らと謀り、王政復古を画策した。
龍馬暗殺には驚愕し、犯人に対しての憎悪を大久保あての手紙に記している。

489:日本@名無史さん
18/02/07 14:19:15.31 .net
岩倉がかろうじて持っている思想は、「日本の皇室をゆるぎなきものにする」というだけのもので、極端にいえば岩倉には国家というものも国民もその実感としては捉えられがたいものになっていた。
おおかたの公卿がそうであろう。かれらは千数百年来京都の御所の内外に住み、とくに鎌倉幕府の成立以来政治の実権を失ったために国家と人民の安危を一身で背負うという体験から遠ざかってしまっていた。

490:日本@名無史さん
18/02/07 14:25:42.84 .net
▽王党派
1871年2月からティエールを首班とする臨時政府が対外的のもフランスを代表したが、国内には王政復古や帝政の復活を目指す勢力も根強く安定しなかった。
また、臨時政府がプロイセンに降服したことに対して、パリの市民・労働者が反発して徹底抗戦を掲げ、3月にパリから臨時政府軍を追いだしてパリ=コミューンが樹立した。
パリ=コミューンは労働者が権力を握った最初の社会主義政権であったが、ブルジョワ勢力に支持されたティエールの臨時政府軍によって5月に鎮圧された。
ティエールは共和政を掲げて8月に大統領となったが、議会内の保守派・王党派によって失脚させられ、王党派のマクマオンが大統領となった。1875年に議会は第三共和政憲法を可決し、ようやくフランスの政体は共和政であることが確定した。

491:日本@名無史さん
18/02/07 14:30:31.84 .net
▽ベルツ博士〈1849年 - 1913年〉
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。
ベルツ博士は晩年の岩倉具視を診察して、日本初の癌告知をしたらしい。
URLリンク(sagarachian.jp)

492:日本@名無史さん
18/02/07 18:13:28.10 .net
★岩倉邸
▽岩倉邸
江戸城内曲輪(うちくるわ)にあった。
江戸城内堀の内側(現・皇居外苑)、馬場先門内、元老院のお隣にありました。
URLリンク(sakamichi.tokyo)

493:日本@名無史さん
18/02/07 18:14:37.98 .net
現在は土橋の大通りとなっている馬場先門。手前の木立の裏に元老院、向こうの木立の裏に岩倉邸があったことになります。
URLリンク(sakamichi.tokyo)
※元老院
URLリンク(sakamichi.tokyo)

494:日本@名無史さん
18/02/07 18:18:30.38 .net
ついでに川路が奉職していた警視庁(明治10年頃)の写真
URLリンク(sakamichi.tokyo)
当時、東京消防庁は独立していなくて、警視庁が治安も消防も担っていました。この古写真は警視庁出初式の模様です。
URLリンク(sakamichi.tokyo)


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