司馬遼太郎 Part12 ..
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2:日本@名無史さん
18/01/19 00:02:58.03 .net
>>1


3:日本@名無史さん
18/01/19 00:10:03.49 .net
>>1
長いし詳しすぎるし、もう少しアッサリできんのか?

4:日本@名無史さん
18/01/19 00:15:12.74 .net
【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
18才未満の方あるいはご覧になりたくない方は、〈エログロ〉をNGワードに登録なさることを推奨いたします。
また、エログロ画像をレスされる方は、必ず〈エログロ〉の文字を添付してくださるよう、お願い申し上げます。
【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。
■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
スレリンク(history板)
司馬遼太郎の家康過少評価は異常
スレリンク(history板)

5:日本@名無史さん
18/01/19 00:16:48.32 .net
>>3
筆者さんはクドイ性格なので、それは無理です( ^∀^)

6:日本@名無史さん
18/01/19 00:17:28.86 .net
【1】〔数年後に削除予定〕スレリンク(books板)
【2】〔数年後に改訂予定〕スレリンク(books板)
【3】「街道をゆく」豊後・日田街道/大和丹生川(西吉野)街道/種子島みち/潟のみち/播州揖保川・室津みち/高野山みち
 スレリンク(books板)
【4】「街道をゆく」信州佐久平みち/「国盗り物語1」スレリンク(books板)
【5】「国盗り物語2」スレリンク(books板)
【6】「国盗り物語3」スレリンク(history板)
【7】「国盗り物語4」スレリンク(history板)
【8】「ひとびとの跫音」スレリンク(history板)
【9】「木曜島の夜会」「歴史と視点―私の雑記帖―」「評論随筆集−第50巻−1」
 スレリンク(history板)
【10】「評論随筆集−第50巻−2」「一夜官女」「権平五千石」
 スレリンク(history板)

7:日本@名無史さん
18/01/19 00:18:22.71 .net
【11】「翔ぶが如く1」スレリンク(history板)

8:日本@名無史さん
18/01/19 00:19:30.49 .net
前々スレにも増して前スレはエロ画像が少なすぎたように思います( ?・ω・ )ショボーン

9:日本@名無史さん
18/01/19 00:20:12.51 .net
グロ画像はあったけどな……。

10:翔ぶが如く
18/01/19 00:41:27.58 .net
第7章 渋谷金王町 
〔三〕川路利良
―翁はめずらしく多弁に、過去のことやら将来のことなどについて話された。
と、川路はこの日の西郷の印象についてのちにひとに語っている。
西郷は終始裸であった。夕方、陽が翳ってきたために、物干しから薩摩絣の単衣をおろさせ、それを体に纏った。着物を着る以上は、西郷は襟元などをはだけさせず、端然と着付けるほうであった。
川路は帰ってからは書斎にひきこもった。

11:日本@名無史さん
18/01/19 00:54:34.55 .net
★下谷竜泉寺町
▽川路の自宅
第3章のおさらいをしよう。僕たち、川路利良の自宅はどこにあったかな?
あれえ、声が小さいぞ。もう忘れたのか?
うん、なんて言った。聞こえないよ。うん?そ、そうだよ。
下谷竜泉寺町の戸田様の下屋敷を川路は買ったんだよね。
樋口一葉の家のすぐ傍だったよね。思い出したかな?

12:日本@名無史さん
18/01/19 01:02:50.36 .net
▽こしかた
司馬さんは、「過去」に「こしかた」というルビを振っているね。こういうの好きだな。
「こ」は動詞「く(来)」の未然形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形。
そう、思い出したかな?カ行変格活用だね。この活用をするのは「来る」(文語では「来」く)一語のみだったよね。
「こ・き・く・くる・くれ・こよ」だったよね。

13:日本@名無史さん
18/01/19 01:06:55.45 .net
▽ゆくすえ
「将来」は「ゆくすえ」。「こしかた」「ゆくすえ」はペアで覚えてね。

14:日本@名無史さん
18/01/19 01:11:32.81 .net
ジョゼフ・フーシェは、ここまで何度も出てきたけど、この章が最も詳しく書かれている。

15:日本@名無史さん
18/01/19 01:29:23.38 .net
>>12
辞書によっては「きしかた」としているものもあるな。「き」は動詞「く(来)」の連用形。
助動詞は用言ではないから、過去の助動詞「き」が次にくるからといって、「く(来)」が連用形でなければならないという決まりはない。
そもそも「きしかた」なんて日本語は聞いたことがないし、語感もきわめてダサい。
未然形の「こしかた」でよいと思う。

16:日本@名無史さん
18/01/19 05:15:33.06 .net
▽ジョゼフ・フーシェ〈1759 - 1820〉
フランス革命、第一帝政、フランス復古王政の政治家。
近代警察の原型となった警察機構の組織者で、特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名である。権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物。「カメレオン(冷血動物)」の異名を持つ。オーストリアのユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクによる評伝が有名。
URLリンク(s-media-cache-ak0.pinimg.com)

17:日本@名無史さん
18/01/19 05:18:21.87 .net
ナント近郊のル・ペルラン出身。父は船員で、フーシェにも後を継がせるつもりだったが、体が弱く、勉学の才があったためにナントのオラトリオ教団で学ぶ。その後、僧籍には入らずに、同教会所属の学校で物理科学を教える教師となった。なお、この時期に北部の町アラスにおいて、カルノーや無名の弁護士であったロベスピエールと交わり、彼の妹と交際している。

18:日本@名無史さん
18/01/19 05:19:52.49 .net
こうした面々とのつながりから政治運動に目覚めたフーシェは、フランス革命後にカトリック教会を否定する「非キリスト教化運動」に関わるようになって、1792年に国民公会の議員に当選しパリに向かった。当初はジロンド派に近い穏健共和派の立場であったが、国王ルイ16世の裁判の際に処刑票を投じ、それを契機にジャコバン派内の山岳派に鞍がえした。

19:日本@名無史さん
18/01/19 05:20:58.88 .net
ロベスピエールによる恐怖政治を支持して革命運動に身を投じ、1793年には私有財産を禁じる法令をナント州などで発布し、リヨンの大虐殺を指導するなど辣腕をふるうが、その後ロベスピエールと対立した。テルミドール9日のクーデターに参加し、情報収集能力の高さを評価されて総裁政府の警察大臣を務めた。

20:日本@名無史さん
18/01/19 05:24:47.17 .net
ブリュメール18日のクーデターでは体制側であったが、ナポレオンの政権奪取に貢献し、統領政府でも引き続いて警察大臣に就任した。
フーシェは総裁政府時代から密偵を雇い、秘密警察を使って国家のあらゆるものを監視させたといわれる。ナポレオンの妻・ジョゼフィーヌすら買収し、ナポレオンの私生活まで監視していた。ナポレオンはフーシェの情報収集力を高く評価し、用事があるときは秘書官に呼びに行かせた。

21:日本@名無史さん
18/01/19 05:26:57.78 .net
1808年に衛星国ナポリ王国のオトラント公爵に叙されるが、タレーランと同様にナポレオン帝国の崩壊を予想して、次政権の構想を画策し始める。翌年イギリス軍がベルギーに迫ったときに独断で国民軍を編成し、ベルナドットを司令官に据えた越権行為、対英和平交渉が露見して辞職した。
しかし、百日天下では再びナポレオンを支持して警察大臣に再復帰した。

22:日本@名無史さん
18/01/19 05:29:28.68 .net
百日天下崩壊後、退位したナポレオンに代わって臨時政府首班となり、ルイ18世をパリに迎えたが、首班の地位はタレーランに奪われた。
ブルボン復古王政でも短期間だけ警察大臣となったが、王党派は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親であるルイ16世とマリー・アントワネットを殺されたマリー・テレーズは、フーシェが現れると席を蹴り、決して同席しようとしなかった。

23:日本@名無史さん
18/01/19 05:31:12.88 .net
1815年8月、フーシェは大臣就任後わずか2ヶ月で失脚し、ザクセン王国(当時はドイツ連邦の加盟国)駐在大使としてドレスデンに左遷された。
1816年1月、百日天下の際にナポレオンに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放するというパリの議会の決議により国外追放される形でプラハに亡命した。その後はオーストリアのリンツ、イタリアへと渡り歩き、1820年にトリエステで死んだ。

24:日本@名無史さん
18/01/19 05:35:54.73 .net
▽ジロンド派
この名称はジロンド県出身者のブルジョワ階級が多数を占めたボルドー・ジャコバンクラブに所属する議員(ヴェルニョーら)を中核としたことに由来する。明確な党派ではなく、中流ブルジョワ、プロテスタントなどで結びついた穏健共和派諸派閥の集合体であった。
1791年の立法議会の誕生にあわせて、同派の山岳派とともに民主派の勢力を形成した。

25:日本@名無史さん
18/01/19 05:38:48.30 .net
国王ルイ16世と亡命貴族の画策によって、他ヨーロッパ諸国との開戦の気運が高まってくる。ジロンド派は、主戦論を展開した。ロベスピエールが反戦論を唱えるが、国王の任命により1792年3月にジロンド派内閣が組織され、同年4月20日オーストリアに対し宣戦を布告する。
しかし、貴族に取って代わる指揮命令系統のないフランス軍は、各地で敗戦を重ねた。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡す。

26:日本@名無史さん
18/01/19 05:41:52.38 .net
対外戦争において苦戦する中、立法議会に代わり国民公会が開催される。ジロンド派はこの議会において多数を占め、王政の廃止および共和国宣言を採択する。しかし、革命の一応の終結を目指すジロンド派と、急進的な革命を推し進めようとする山岳派との対立が激しくなっていった。
山岳派は、国王や王妃の裏切り行為に対し裁判を要求したが、これ以上の革命の推進を望まないジロンド派は、裁判の実施に消極的であった。しかし、ロベスピエールやサン=ジュストといった山岳派の演説により、国王裁判が開催されることになる。裁判の結果、ルイ16世の死刑が決定する。

27:日本@名無史さん
18/01/19 05:43:06.24 .net
ルイ16世を処刑したフランスに対し、イギリスなどから経済制裁が行われた。フランスはイギリスやスペインなどに対し宣戦を布告するが、イギリスを中心としたヨーロッパ諸国は第一次対仏大同盟を結成する。
経済や軍事面でのジロンド派の失政に対し、議会は山岳派主導に傾き始めた。追い詰められたジロンド派は、さまざまな手法で山岳派を陥れようとするが、ロベスピエールの主導により、1793年6月にジロンド派の主要メンバーが捕らえられ、中央政界での基盤を失うことになった。

28:日本@名無史さん
18/01/19 05:49:26.18 .net
▽ジャコバン派
名称の由来はパリのジャコバン修道院を本拠にしたことによる。「ジャコブ」とは、ユダヤ人の祖である「ヤコブ」のフランス語読みである。つまり「ジャコバン派」とは「ヤコブ派」である。
元々はジャコバン・クラブというさまざまな思想を持つ人々が集まる政治クラブであった〔>>24〕。この政治クラブはフランス全国に支部をもち組織的に革命を推進した。

29:日本@名無史さん
18/01/19 05:52:53.42 .net
しかし、革命が時間を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派であるフイヤン派が〔>>25〕、ついで穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派(モンターニュ派)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り主導権を握った。
急進共和派議員の多くは、議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派と呼ばれた。

30:日本@名無史さん
18/01/19 05:55:24.53 .net
だから詳しすぎるんだよ。これのどこが「翔ぶが如く」なの?どこが司馬遼太郎なの?
キーワードを抜き出して詳説しているだけじゃない。

31:日本@名無史さん
18/01/19 08:10:33.35 .net
ジャコバン派を山岳派ともいう理由がわかっただけでも役に立つ。
勉強になるぞ。

32:日本@名無史さん
18/01/19 08:21:43.41 .net
▽ロベスピエール〈1758年 - 1794年〉
フランス北部・アルトワ州アラス(現在のパ=ド=カレー県)生まれ。ロベスピエール家は貴族風に「ド・ロベスピエール」と名乗っていたが実際には第三身分。三部会には第三身分の代表として選出された。
国民公会(1792〜95年)が成立するとその議員に選出され、最左派である山岳派(モンターニュ派)の指導者として頭角を現した。
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)

33:日本@名無史さん
18/01/19 08:22:48.90 .net
彼は革命を旧勢力との妥協に終わらせるべきではないと主張し、富裕な階層が権力を握ることを非難し、あらゆる階層の権利と富を保障しようとした。その政治政策は、彼の崇拝したルソーの精神に基づくものであった。

34:日本@名無史さん
18/01/19 08:25:32.48 .net
ジロンド派との激しい論戦にうち勝ち、ルイ16世の処刑を実現させ、1793年6月からはジャコバン派独裁政権を樹立した。
1793年7月からは公安委員会に加わり、王党派や反革命派の策謀や外国の干渉という革命の危機から革命を防衛するためとして、厳しく反対派を粛清した。同じジャコバン派に対しても容赦なく、エベールは急進的であり、ダントンは右派と妥協的であるとしてそれぞれ処刑した。
こうして、1794年4月からは、個人独裁という色彩が強くなり、腹心のサン=ジュストとクートンだけがロベスピエールを支えるという状況になった。

35:日本@名無史さん
18/01/19 08:28:05.74 .net
ロベスピエールが実質的な独裁権力を握ったのは、1794年4月から7月までのわずか4ヶ月であった。
封建的特権の無償廃止が行われ農奴は完全に解放されたが、かえって土地所有者となった農民は保守化し、革命のこれ以上の進行を望まなくなり、また最高価格令などの経済統制は、都市の下層民には歓迎されたが、自由な経営をしたいブルジョワジーや生産者の農民にとっては次第に不満の対象となっていった。

36:日本@名無史さん
18/01/19 08:29:36.07 .net
また都市の大衆は、最高賃金法で賃金も抑制されていたので不満をもった。
何よりも大量の粛清という恐怖政治は、大衆を離反させた。それまでロベスピエール支持派であったサンキュロットも、エベールが処刑されたことから次第に離れていた。
1794年7月、テルミドールのクーデタで捕らえられ、翌日彼自身もギロチンにかけられて死んだ。

37:日本@名無史さん
18/01/19 08:30:37.18 .net
ルイ16世の名前は、この作品に何度も出ているんだけど、やらないの?

38:日本@名無史さん
18/01/19 08:33:31.79 .net
興味がない。
多くの日本人にとって今川義元が桶狭間で討ち取られただけの人であるように、筆者にとってルイ16世は、フランス革命で処刑されたブルボン朝最後の国王という認識にとどまっているが、それでよい。

39:日本@名無史さん
18/01/19 08:39:20.84 .net
▽バルザック〈1799年 - 1850年〉
19世紀のフランスを代表する小説家。なおド・バルザックの「ド」は、貴族を気取った自称である。
バルザックの小説の特性は、社会全体を俯瞰する巨大な視点と同時に、人間の精神の内部を精密に描き、その双方を鮮烈な形で対応させていくというところにある。代表作に『ゴリオ爺さん』『谷間のゆり』など。
本章では、バルザックによるフーシェ評が紹介されている。
URLリンク(www.theparisreview.org)

40:日本@名無史さん
18/01/19 08:41:11.54 .net
川路は大久保に示唆されて西郷の周辺を探っていた。

41:日本@名無史さん
18/01/19 08:44:49.32 .net
▽桜島
晴天の桜島
URLリンク(d1f5hsy4d47upe.cloudfront.net)
雨天の桜島
URLリンク(2.bp.blogspot.com)

42:日本@名無史さん
18/01/19 08:52:14.67 .net
▽美濃紙
半紙より判が大きく、強く優良な紙質で有名。古来、美濃地方は有数の和紙生産地で、奈良時代以降の各時代の文献に美濃紙についての記述が多く見られる。江戸時代には美濃紙の障子紙が最高紙であるとの評価を受けた。
美濃市の牧谷地区で生産される本美濃紙は、伝統的な生ずき製法によるコウゾのみを用いた強靭な紙で、国の重要無形文化財に指定されており、2014年には世界無形遺産に登録された。
URLリンク(www.sotoday.fun)

43:日本@名無史さん
18/01/19 08:58:38.51 .net
川路の妻の沢子は、西郷の印象にふさわしい文字として「悲」を選んだ。
沢子の父は郷士であるため、お由羅騒動(高崎崩れ)の際は抗争の局外にいた。しかし、彼はこの悲報を聞いたとき、声をあげて泣いた。
沢子はまだ幼女だったが、父が見せた男泣きという異様な光景を、成人後も忘れることができなかった。

44:日本@名無史さん
18/01/19 09:03:15.53 .net
▽高崎五郎右衛門
享和元年(1801年) - 嘉永2年(1850年)。歌人として著名な高崎正風の父である。
藩の船奉行を勤めていた。藩世子の島津斉彬の襲封を画策し、それに反する家老島津久徳らお由羅派の暗殺を謀議した咎で嘉永2年(1850年)近藤隆左衛門・山田清安とともに出頭を命ぜられ、即日切腹させられた。

45:日本@名無史さん
18/01/19 09:10:00.57 .net
大久保正助(利通)が21歳のとき、父・大久保次右衛門が「高崎崩れ」に連座して喜界島に遠島された。そのため大久保家は閉門を命じられ、利通も記録所書役を免職されている。
※大久保次右衛門 (利通の父 / 1794-1863) … 平田満
※大久保福 (利通の母 / 1803-1864) … 藤真利子
URLリンク(samurai-hi.com)

46:日本@名無史さん
18/01/19 09:11:53.74 .net
喜界島への遠島は、死罪につぐ重刑だった。それゆえ次右衛門を見送る三人の妹は、あるいは最後になるかもしれないと涙を流していた。この様子を見て、大久保は涙をこらえながら戒めている。
「おまえたちは武士の子女ではないか。父君の長途を涙で見送ってはいけない。ぜひとも心を励まして、父君に内顧の憂いを抱かせないようにせよ」

47:日本@名無史さん
18/01/19 09:17:02.35 .net
※大久保利通の三人の妹
URLリンク(pbs.twimg.com)
大久保キチ (利通の妹 / 1832-?) … 佐藤奈織美
URLリンク(pbs.twimg.com)
大久保スマ (利通の妹 / 1837-?) … 日下玉巳
URLリンク(scontent.cdninstagram.com)
大久保ミネ (利通の妹 / 1840-?) … 高野友那
URLリンク(pbs.twimg.com)

48:日本@名無史さん
18/01/19 09:19:14.35 .net
※ついでに大久保満寿 (利通の妻 / ?-1878) … ミムラ
URLリンク(news.walkerplus.com)

49:日本@名無史さん
18/01/19 09:25:17.65 .net
▽赤山靱負
文政6年(1823年) - 嘉永3年(1850年)
諱は久普(ひさひろ)。父は島津氏分家・日置島津家当主の島津久風。長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老・島津久徴、弟に西郷隆盛と親交を結び西南戦争で戦死した桂久武がいる。藩職は奥小姓、槍奉行を務める。
※赤山靱負 (薩摩藩重臣 / 1823-1850) … 沢村一樹
URLリンク(taigatv.net)

50:日本@名無史さん
18/01/19 09:29:52.86 .net
弟の桂久武も「西郷どん」に登場するようだ。
※本物 URLリンク(furusato-kirishima.com)
※桂久武 (靱負弟 / 1830-1877) … 井戸田潤
URLリンク(news-topics24.com)
URLリンク(scontent-lga3-1.cdninstagram.com)
※「田原坂」では、この人だった。
URLリンク(pbs.twimg.com)

51:日本@名無史さん
18/01/19 09:32:59.42 .net
生家の日置島津家は薩摩藩内では一門家に次ぐ名門であり、代々家老をはじめとする重役についていた。
島津斉彬の襲封を願う一派の中心的人物であったが、お由羅騒動で切腹を命ぜられた。西郷隆盛の父・西郷吉兵衛(諱は隆盛)が、御用達として出入りしており、介錯を依頼される。吉兵衛は靭負の血染めの肌着を貰いうけ、子の隆盛にこの肌着を与えその最期を伝えた。隆盛は靭負の生き様に深く共感したという。
URLリンク(d39t9tn4y25mgl.cloudfront.net)

52:日本@名無史さん
18/01/19 09:39:07.70 .net
当時西郷は数えで24歳。赤山靭負の血染めの肌着を終夜抱き、終夜号泣し、赤山の志を継ぐことを誓った。
川路沢子は、この話をひとから聞いた。その話を聞いたとき、父の男泣きという異様な光景の記憶と重なって、沢子も不意に泣き出した。

53:日本@名無史さん
18/01/19 12:07:05.02 .net
>>44
高崎崩れで父親が切腹させられているにもかかわらず、司馬作品では、高崎正風は、奈良原繁・海江田信義とともに、久光派の代表的人物として挙げられるんだよな。

54:日本@名無史さん
18/01/19 12:30:46.29 .net
政治状況というのは流動的で、高崎崩れのときのアンチ斉彬派が、そのまま久光派とイクオールではないよ。
大久保一蔵は父親が遠島の憂き目に遭っているが、久光に接近した。維新前は久光派を装っていた。そういう例もある。

55:日本@名無史さん
18/01/19 13:39:30.61 .net
>>47
西郷家の妹の方が可愛いな。俺は西郷家に夜這いをかけるわ。

56:日本@名無史さん
18/01/19 13:40:15.13 .net
薩摩にも夜這いの習俗があったのですか?

57:日本@名無史さん
18/01/19 13:41:21.57 .net
あった。その伝統は、鹿児島市のデリヘル『夜王 夜這い屋本舗』に受け継がれている。

58:翔ぶが如く
18/01/19 14:05:29.32 .net
第8章 好転
〔一〕遣韓大使
朝夕が、涼しくなった。
「西郷の遣韓大使の一件は」
という噂が消息通のあいだで喧しくなり、やがて、
「ぶじ落着。西郷の希望せるがごとくに運ぶらしい」
と、ほとんど決定したように取り沙汰されるようになった。
「三条卿が、諾といった」
というのである。

59:日本@名無史さん
18/01/19 14:09:01.26 .net
話が脇道にそれることが多く、作中人物に狂言廻しをさせることすら難しくなってきている。
この章では司馬さん自身が、話の交通整理をしている。

60:日本@名無史さん
18/01/19 14:18:11.43 .net
★麹町区内幸町
▽三条実美屋敷
東京市麹町区内幸町二丁目にあった。司馬さんは「麹町内幸町」とされているが、明治4年制定の戸籍法では大区小区制を採用しており、麹町は明治6年の時点では、東京市麹町区と呼ばれていたはずである。
麹町区内幸町二丁目は、現在の千代田区霞が関一丁目にあたる。

61:日本@名無史さん
18/01/19 14:23:58.67 .net
▽お丸
品川にある旅籠桔梗屋の娘。
西郷隆盛を実際に見て「ぞっとするほどおっかない人」という談話を残しているらしい。

62:日本@名無史さん
18/01/19 14:29:34.62 .net
▽習志野演習
これについては、前スレ〔326〕で述べた。
明治6年(1873)4月29日、明治天皇は、西郷隆盛、篠原国幹ほか多数を従えて当地に行幸され、30日には、近衛兵による天覧演習が行われた。
本章では、明治帝が西郷の大きな目玉に関してユーモアを交えたお言葉の述べられている。

63:日本@名無史さん
18/01/19 14:35:11.83 .net
「条公に決断を求めることは、比丘尼に睾丸を求めるようなものです」
「遣韓のこと、西郷大将の申されるがように、左様に決め参らせます。そのことを帝に申しあげます」

64:日本@名無史さん
18/01/19 15:36:27.01 .net
★箱根宮ノ下
▽宮ノ下温泉
神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下
室町時代に熊野神社のお宮の下から湧出する源泉が発見され、江戸時代には湯治場として栄えました。
そして19世紀に横浜が開港された後は、外国人の保養地として栄え、世界中の著名人が訪れました。 宮ノ下温泉の最大の特徴は、何といっても明治11年創業の富士屋ホテルを中心に今に残る古い街並みです。
URLリンク(www.kkrmiyanosita.com)
URLリンク(www.ozmall.co.jp)
URLリンク(i.ytimg.com)

65:日本@名無史さん
18/01/19 15:40:39.51 .net
▽明治天皇
嘉永5年(1852年)- 明治45年7月30日
日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。
明治6年で21歳。
URLリンク(bakumatsu.org)

66:日本@名無史さん
18/01/19 15:44:20.39 .net
▽昭憲皇太后
嘉永2年(1849年) - 大正3年。
明治天皇の皇后。旧名・一条美子(はるこ)。一条忠香の娘。
病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室・柳原愛子が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。
URLリンク(kotobank.jp)

67:日本@名無史さん
18/01/19 15:54:12.85 .net
▽赤坂仮御所
現在の赤坂迎賓館(港区元赤坂二丁目)の敷地にあった。ここは元紀州藩の屋敷跡で、明治6年の宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。
明治維新で天皇が京都から東京に移ると、旧江戸城「西の丸御殿」が皇居となった。しかし、明治6年5月5日、下女の失火により西の丸御殿は焼失する。

68:日本@名無史さん
18/01/19 15:56:52.85 .net
明治21年の枢密院憲法会議が開かれたのは、赤坂仮御所である。
URLリンク(www.tanken.com)
ちなみに、憲法発布式が行われたのは、明治21年、新築早々の明治宮殿であった。
URLリンク(www.tanken.com)

69:日本@名無史さん
18/01/19 16:02:07.45 .net
赤坂仮御所の建物は現存している。明治神宮による結婚式場として知られる明治記念館である。
URLリンク(tokyo.beer-garden.info)
URLリンク(www.aeonwedding.com)
明治宮殿が完成すると、赤坂仮御所の建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊藤博文に下賜されることになり、大井の伊藤邸内に移築される。彼の死後、明治神宮外苑に再移築され、この時に「憲法記念館」となった。

70:日本@名無史さん
18/01/19 16:06:45.04 .net
三条実美は箱根宮ノ下で明治帝の裁可を得た。しかし、それには岩倉右大臣の帰朝を待ち熟議した上で再び奏上するという付帯事項が加えられていた。三条にこの知恵をつけたのは、幕末以来かれの政治顧問であった土佐藩出身の土方久元であった。

71:日本@名無史さん
18/01/19 16:13:17.35 .net
▽土方久元
天保4年(1833年) - 大正7年。通称は楠左衛門。
土佐藩郷士・土方久用の子。江戸へ遊学して儒者・大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。帰国後、武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加した。文久3年(1863年)の八月十八日の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放される。久元は「七卿落ち」に従い、三条や澤宣嘉らと共に長州へ下った。

72:日本@名無史さん
18/01/19 16:16:02.41 .net
幕府による第一次長州征討の際には、三条らと共に九州へ渡海し大宰府に逃れる。同じ土佐浪士の中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力した。
明治維新後は新政府に仕え、明治元年には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。宮中職の履歴が多く、元田永孚や佐々木高行・吉井友実らと共に皇権伸張(天皇親政)を主唱し、宮中保守派と目せられた。
URLリンク(pds.exblog.jp)

73:日本@名無史さん
18/01/19 16:23:31.24 .net
▽佐々木高行
文政13年(1830年) - 明治43年
土佐国吾川郡瀬戸村(高知県高知市)に土佐藩士・佐々木高順(100石)の次男として生まれる。山内豊信(容堂)の側近として藩政をリードし、九州大宰府に赴き情報収集に奔走、慶応3年(1867年)には上洛して後藤象二郎・坂本龍馬と薩土盟約の吟味および大政奉還の建白について協議している。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

74:日本@名無史さん
18/01/19 16:30:57.05 .net
戊辰戦争がおこると長崎奉行所を支配し、明治元年には長崎府判事となった。明治3年参議、明治4年には司法大輔となり、岩倉使節団に随行して欧米の司法制度を視察して帰国した。
征韓論争、西南戦争後も政府内にとどまり、明治12年の大久保利通死後は元田永孚らとともに天皇親政運動を推進、明治14年の政変後は参議兼工部卿となり、明治21年枢密顧問官、また皇太子の御養育之任を務めるなど宮廷に近侍した。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

75:日本@名無史さん
18/01/19 16:47:14.38 .net
★麹町区内幸町
▽三条実美
西郷の痛々しさは、三条実美という謹直なだけの、およそウソをつくことすらできない公卿政治家のこの程度のトリックに、幼児のように騙されてしまったことであった。

76:日本@名無史さん
18/01/19 17:00:59.22 .net
佐々木高行〔>>73-74〕は、筆者のイメージとかなり違う人物だったので、補足しておく。
外遊中はアメリカ訪問前に乗っていた蒸気船アメリカ号で岩倉使節団員達の野蛮な振る舞いに眉を顰め、到着後は大使岩倉具視が和装から洋装に着替えたことを軽率と考え、外国通の副使伊藤博文の有頂天な振る舞いを日記に書いて憤慨している。
佐々木自身も社交界に出る必要性から洋服に着替えたが、慣れない服に戸惑い「不恰好」「窮屈」と日記に記し、表面上の文明開化を批判し、日本固有の制度・精神を保持しつつも西洋文明の取得を重視、改革の速度を緩やかにして混乱を最小限に留める漸進的な考えを持つようになっていった。

77:日本@名無史さん
18/01/19 18:52:31.51 .net
司馬遼太郎、負けたな。
みなもと太郎の漫画「風雲児たち」を強く推薦しておくぜよ。
司馬史観に代わって、風雲児たち史観がとってかわるだろうといわれている。
超面白いよ。

78:日本@名無史さん
18/01/20 07:28:06.74 .net
URLリンク(www.youtube.com)      
URLリンク(www.youtube.com)     

79:日本@名無史さん
18/01/20 07:28:06.90 .net
URLリンク(www.youtube.com)      
URLリンク(www.youtube.com)     

80:日本@名無史さん
18/01/20 21:30:19.39 .net
▽内村鑑三
万延2年(1861年)- 昭和5年。日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ、その生涯を叙述する。
URLリンク(www.yushu.co.jp)

81:日本@名無史さん
18/01/20 21:38:42.77 .net
▽「推倒一世之智勇 開拓万古之心胸」
「一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓す」と読む。その人一代の智恵や勇気を、頼りにするのではなく、千年、一万年の長きにわたって天下の平安を成り立たせるぐらいの大きな心胸から出た志を開拓せよ、という意味。
陳亮(陳龍川)が朱子宛に書いた手紙の一節である。陳亮〈1143ー1194〉は、南宋の思想家、文学者。字は同甫、号は龍川。
※西郷隆盛の直筆とみられる書 URLリンク(www.geocities.jp)

82:日本@名無史さん
18/01/20 21:45:52.58 .net
▽樺山三円
生没年未詳。諱名は資之。通名は瀬吉郎。
藩主島津斉彬の茶坊主として機密の用を務める傍ら、同時期に江戸に出た有村俊斎、大山格之助、税所篤ら藩内の改革派と親交を深める。水戸藩の藤田東湖、戸田忠太夫〈蓬軒〉らの影響を受け、安政元年(1854年)には、出府した西郷吉之助を藤田に引き合わせた。
藤田東湖については、前スレ〔929〕に述べた。

83:日本@名無史さん
18/01/20 21:52:51.52 .net
▽水戸徳川家上屋敷
現在の文京区後楽一丁目に、水戸徳川家の江戸上屋敷が広がっていた。現在の「小石川後楽園」は、初代藩主の徳川頼房(家康の11男)が屋敷内に築いた庭園を、子の光圀が中国風の趣を取り入れて完成させ「後楽園」と命名したもの。 15代将軍となった徳川慶喜は、藩主・徳川斉昭の七男として、この江戸屋敷で誕生した。
URLリンク(blogs.c.yimg.jp)
本章では、西郷が樺山三円に連れられて藤田東湖に面会した場所として記されている。そこに「推倒一世之智勇 開拓万古之心胸」の衝立があった。

84:日本@名無史さん
18/01/20 21:57:48.75 .net
▽金
女真人の完顔阿骨打が1115年に満州に建国した。都は上京会寧府。金が次第に強大となったので、宋は遼を倒す好機と考え、金と同盟して、1125年に遼を滅ぼした。
ところが金は中国本土への侵出を始め、1127年にはついに宋の都開封を攻め、徽宗と欽宗の親子を捕らえて滅亡させた(靖康の変)。江南に逃れた宋は、高宗が南宋を建て、華北の金と江南の南宋の対立が続くことになる。

85:日本@名無史さん
18/01/20 22:03:14.22 .net
1142年に南宋に多大な貢納を約束させ、淮水を国境として、華北を金、江南を南宋が統治する第二次南北朝の状況となった(紹興の和)。本文にある「屈辱的な和睦」とは、この紹興の和のことではない。陳亮〈1143ー1194〉は、これより後世の南宋の人である。

86:日本@名無史さん
18/01/20 22:06:13.02 .net
1153年、金は都を燕京に遷す(中都。現在の北京)。するとさらに漢化が進み、逆に北辺を遊牧民から守る必要が生じた。
金に対するモンゴル帝国の攻勢はチンギス=ハンの1211年に始まり、二次にわたる戦争の結果、最終的にはオゴタイ=ハンの派遣したモンゴル軍の攻撃によって、金は1234年に滅亡する。

87:日本@名無史さん
18/01/20 22:12:32.10 .net
▽陳亮 〈1143ー1194〉
南宋の儒学者。号は龍川。浙江省永康の人。朱熹の論敵として知られる。
南宋の第2代皇帝・孝宗の時代に、宋は金と和議を結ぶ。1165年の乾道和約である。これにより、金へ送られる歳幣負担は軽減されることとなった。
しかし、陳竜川は、世の人が安逸に流れることを恐れ、「中興五論」を皇帝に提出し、中国が蛮夷からこうむった恥辱をすすぎ中原の失地を回復しなければならないと論じ、主戦論を唱えたが容れられなかった。陳竜川は、この時から朝廷を退いて数十年間は学問に専念し、門人を多く育てた。

88:日本@名無史さん
18/01/20 22:15:47.35 .net
ここまで調べると、司馬さんのいう「西郷と陳竜川の共通点」の意味がよくわかる。
また、西郷が陳竜川の「推倒一世之智勇 開拓万古之心胸」〔>>81〕を愛していた理由もよくわかるな。

89:日本@名無史さん
18/01/20 22:53:44.22 .net
>>85
「屈辱的な和睦」とは、世間一般では「紹興の和」を意味するんだろうな。しかし、このとき陳竜川は、まだ生まれていない。
「乾道和約」は金へ送られる歳幣負担を軽減したのだから、南宋に有利な講和なんだよな。
それを「屈辱的な和睦」といわれると、読者は戸惑うな。

90:日本@名無史さん
18/01/20 22:54:22.96 .net
だから……、司馬さんの時代にはセンター試験がなかった。

91:日本@名無史さん
18/01/20 22:59:55.22 .net
>>89
おそらく司馬さんも読者も「紹興の和」をイメージしてこの箇所を読んでいるはずだ。
陳亮は有名な朱熹に比べるとマイナーだからな、著者も読者も陳亮の生没年を意識せずに、この箇所を読んでいるだよ。

92:日本@名無史さん
18/01/20 23:02:19.63 .net
著者と読者のあいだに生じた>>91の機微は、「恋愛は互いの誤解から生ずる」に似ていなくもないな。

93:日本@名無史さん
18/01/20 23:19:37.17 .net
>>81
司馬さんは、万古の心胸を開拓するというのは、「一個の事功によって万世ののちの人の心を耕しつづけてゆけ」という意味に解釈されている。
こっちの方が解釈としては綺麗だな。

94:日本@名無史さん
18/01/20 23:20:33.59 .net
おっぱいを揉みながらマンコをすると、性感帯が開拓されるという意味じゃないんですか?

95:日本@名無史さん
18/01/20 23:21:54.73 .net
違います(*゚д゚) 、ペッ

96:日本@名無史さん
18/01/20 23:42:39.06 .net
▽尺寸〈せきすん〉
司馬さんは、人間の器量・度量の意味で用いているが、元来は《1尺と1寸の意から》わずかばかりのこと。

97:日本@名無史さん
18/01/20 23:47:29.01 .net
人間の相剋は、利害にもよる。
しかし、尺寸にもよる。人間の不幸は、人によって尺度の大小が異なっていることである。
この平凡な事実が、人間と人間との関係に誤解を生み、軋轢を生ぜしめ、無数の悲劇や喜劇を歴史のなかに生み、ときには歴史を変動させてきた。日常のレベルの上ではなおさらのことである。

98:日本@名無史さん
18/01/20 23:48:18.60 .net
わかります。>>94の尺寸が尺寸であるということですね。

99:日本@名無史さん
18/01/20 23:55:25.04 .net
▽高松塚古墳
奈良県高市郡明日香村に存在する古墳。藤原京期(694年〜710年)に築造された終末期古墳で、下段の直径23m及び上段の直径18m、高さ5mの二段式の円墳である。「翔ぶが如く」連載中の昭和47年(1972年)に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
URLリンク(art31.photozou.jp)
URLリンク(www.hakubutu.jp)

100:日本@名無史さん
18/01/21 00:02:59.45 .net
▽高麗尺〈こま〉
701年 (大宝元年) の大宝律令は度量衡規制を明文化し、大・小尺を制定する。大尺はいわゆる東魏尺にあたる高麗尺で、小尺とされた唐尺の1.2倍の長さをもち、大尺・小尺をそれぞれ測地と常用の二様に使い分けることを規定している。
平城遷都後の713年 (和銅6年) には高麗尺を廃止し、唐尺の一本建てになった。6世紀末に造営が始まった飛鳥寺は高麗尺の完数値で設計され、法隆寺では部材寸法まで高麗尺を用いるなど、8世紀初めまでは寺院・宮城の造営尺として使用された。

101:日本@名無史さん
18/01/21 00:06:43.93 .net
人間の尺度の場合、度量衡よりもはるかに複雑で、というより、言語というものは、その人間から出て他の人間に語られる場合、語り手の中にある情景も論理とはよほど別なものとして聞き手に受け取られることがむしろ普通である。

102:日本@名無史さん
18/01/21 00:12:16.19 .net
とくに西郷のように度量衡の目盛がどうやら他の者とずいぶん違っている男の場合、かれが言うことも行うことも、同時代人にも後世人にも、まったく別な目盛でもって量られるのが普通であり、西郷が基本的に悲劇的な存在であるというのはそういうところにあった。

103:日本@名無史さん
18/01/21 00:31:49.46 .net
この時期の西郷の不思議さは、堂々の議論を展開するのみで、裏にまわっての権謀術数というものをまったく用いなかったことである。
この幕末における大機略家が、明治になってその機略性を捨て、元来、かれの性格の基調であったところの正直さというものだけで生きてゆこうとしたことは、人間の現象としては奇跡のように思われる。

104:日本@名無史さん
18/01/21 00:41:08.68 .net
余ガ「翔ぶが如く」の西郷隆盛を読んでまっさきに思い浮かべたのが、司馬の短篇「和州長者」の主人公の団平であった。「和州長者」は、短篇集『大坂侍』の冒頭に収載されている。
秘かに佐絵を思い続けてきた団平。その恋は成就することなく、更に、佐絵は彼の想いを裏切り続ける。それでも、団平は、一途に、綺麗なままにその恋を終えようとする……。
「おかしな男だったが、団平、あれが男さ。ああいうのが、どうやら、人間の中の真人間というものだろう。」と司馬は団平を肯定している。

105:日本@名無史さん
18/01/21 00:45:52.65 .net
一途な生真面目さを貴しとするメンタリティは、日本人は特に強いかもしれないな。
仕事の成果よりも仕事に対する一途な生真面目さを貴しとするメンタリティがあったればこそ、かつて終身雇用が可能だった。

106:日本@名無史さん
18/01/21 00:48:45.08 .net
それでなくても「翔ぶが如く」の余談が脇道にそれて複雑になってきてんだから、このスレでさらに脇道にそらすのはやめていただけませんか?

107:日本@名無史さん
18/01/21 00:49:34.33 .net
余ノコトカ?

108:日本@名無史さん
18/01/21 01:12:47.21 .net
一途な正直さをもった人物は、小説にすれば美しいだけで、現実に身近にいたら迷惑なだけだぞ。
仕事の成果が上がらないのに給料を払わなければならない雇主の身にもなってみろ。
ブスや醜男に一途に慕われたら、たまったものではないぞ。

109:日本@名無史さん
18/01/21 01:18:37.01 .net
一途な生真面目さをもった人間は、実際には迷惑がられ避けられているんだろうな。
その申し訳に、小説・ドラマの中では尊しとされているような気がする。架空世界の正直者を褒め称えることで、心の平衡を保っている。
西郷隆盛も、そんな一人だな。リアル世界では、君たちだって大隈の冷酷さや川路の困惑でもって、正直者に対処しているはずだ。

110:日本@名無史さん
18/01/21 01:28:33.11 .net
▽菅実秀 〈すげ〉
文政13年(1830)- 明治36年(1903)
出羽庄内藩藩士。戊辰の敗戦処理に手腕を発揮して家老にすすむ。このとき西郷隆盛の厚遇で藩の危機がすくわれたことを知る。以後西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした。大泉藩権大参事、酒田県権参事を歴任。西南戦争後「南洲翁遺訓」を刊行〔赤沢源也編〕。明治36年(1903)2月17日死去。74歳。通称は善太右衛門。
URLリンク(www.gakushubunka.jp)

111:日本@名無史さん
18/01/21 01:31:43.37 .net
「南洲翁遺訓」に菅実秀が聴いた西郷の言葉が残されている。本文にいくつか引用されているから、それを読んでください。
なお、菅実秀の菅家は、菅原道真の九番目の子供の子孫である。家紋は梅。
URLリンク(img01.n-da.jp)

112:日本@名無史さん
18/01/21 01:41:45.05 .net
国が凌辱されるにおいては、たとえ国も人も斃れるといえども、正道を践み、義を尽くすのが、政府の本務である。
戦の一字を恐れ、政府の本務を貶めるようでは、政府は商法支配所であって政府ではない。
政府は正道を践み、国も人も斃れるだけの精神がなければ、外国との交際はうまくゆかない。外国から軽侮され、好親がかえって破れる。

113:日本@名無史さん
18/01/21 01:50:50.21 .net
たれが戦を好くものか ⇔ 国も人も斃れるとも戦の一字を恐れるな
長州藩を潰して奥州に移す ⇔ 長州藩の本領安堵のために奔走する
江戸を灰燼にして慶喜の首を刎ねる ⇔ 江戸城無血開城と慶喜は水戸退去

114:日本@名無史さん
18/01/21 01:53:09.12 .net
西郷における「戦」の矛盾は、その人格において統一されていた。
  ↑
意味がわからん。矛盾を矛盾のまま同一人格のなかで抱えているだけのように思えるがな。

115:日本@名無史さん
18/01/21 01:54:30.74 .net
女と喧嘩して殴った後に後悔してセックスしているみたいにしか思えない。

116:日本@名無史さん
18/01/21 02:21:15.93 .net
>>108
まあな。俺の理想の人格は御伽噺「舌切り雀」のお爺さんなんだが、そんな人はいないもんな。

117:日本@名無史さん
18/01/21 10:56:18.04 .net
>>104
心臓に持病のあった佐絵は源右衛門とまぐわった後に死ぬ。病死ということになるが、これを語ったのは団平である。
団平が佐絵を殺害した後に、服毒自殺したという線も残されている。
余トシテハ団平が佐絵を殺したというのが真相であってほしい。でないと、団平が浮かばれない。

118:日本@名無史さん
18/01/21 10:58:37.81 .net
>>116
雀のお宿でお爺さんが大きな葛籠を選んでいても、中身は金銀財宝だったような気がする。
反対に、お婆さんに出された葛籠は、大小ともに妖怪変化が仕込まれていた。

119:日本@名無史さん
18/01/21 10:59:38.74 .net
>>117
こういう人こそ、現実世界では一途な正直者とのかかわりを回避している。

120:日本@名無史さん
18/01/21 11:19:49.35 .net
>>104
「翔ぶが如く」の西郷隆盛が団平にそっくりという点は同感。もっとも西郷は物語のなかで恋愛はしていないが。
司馬さんはインタビューで、生まれ変わって再び作家になったら、恋愛小説を書きたいと言っておられた。
「和州長者」は屈折してはいるが司馬遼太郎唯一の恋愛小説なんだわな。

121:日本@名無史さん
18/01/21 11:35:16.76 .net
西郷は「岩倉が帰国してから熟議」という付帯事項を〔>>70〕、遣韓大使派遣の「方法」に関する熟議であると解釈していた。

122:日本@名無史さん
18/01/21 11:38:21.27 .net
三条実美には、三条の誠実を守るための政治勢力がなかった。
征韓派にも反征韓派にも会釈せざるを得なかった。

123:翔ぶが如く
18/01/21 11:51:08.61 .net
第8章 好転
〔二〕西郷従道
「兄は、第二の幕府を作る野心を秘めているのではないか」
という疑念が、西郷従道にあった。
人間というのはひとたび国権主義の立場に立てばときに人格が変質し、おそるべき憂国家に化る場合がある。草木が風にゆれるのを見ても国家滅亡の前兆を予感したり、あるいは民衆の惰弱な風俗が憤ろしくなり、思想家を狐疑し、それに悪を感じ、森羅万象の動きがことごとく「国家の前途に害をもたらすのではないか」というふしぎな衝動を感ずるようになる。
西郷従動は、山県有朋の感化によってその種の「狐疑」をもった。

124:日本@名無史さん
18/01/21 12:08:59.83 .net
▽西郷の弟妹
長女琴 (妹/1832-1913) … 栗本有規(子役)→桜庭ななみ
URLリンク(i.ytimg.com)
次男吉二郎 (弟/1833-1868) … 荒井雄斗(子役)→渡部豪太
URLリンク(pbs.twimg.com)
次女鷹 (妹/1837-1862) … 石井心咲(子役)→渡来るひか(子役)→原舞歌
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

125:日本@名無史さん
18/01/21 12:14:42.54 .net
三女安 (妹/1839-?) … 大塚心結(子役)→佐藤心美(子役)→萱野優
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
三男従道 (弟/1843-1902) … 斎藤汰鷹(子役)→佐藤和太(子役)→錦戸亮
URLリンク(s3-ap-northeast-1.amazonaws.com)
四男小兵衛 (弟/1847-1877) … 小山蒼海(子役)→齋藤絢永(子役)

126:日本@名無史さん
18/01/21 12:25:50.67 .net
▽西郷吉二郎
天保4年(1833年) - 慶応4年(1868年)8月14日
戊辰戦争では番兵2番隊監軍となり、越後に出兵する。8月14日、越後国五十嵐川付近(現在の新潟県三条市)での戦傷がもとで戦死した。享年36。

127:日本@名無史さん
18/01/21 12:30:48.44 .net
吉二郎の最初の妻はマス。有馬九之丞の娘。慶応元年10月16日死去。
ドラマ「田原坂」で病床にあるところを義兄の隆盛が見舞うシーンがあった。役者は尾崎弥枝。
※尾崎弥枝でないかもしれないがタイプなので貼っておく
URLリンク(www.tv-asahi.co.jp)

128:日本@名無史さん
18/01/21 12:35:18.79 .net
吉二郎の後妻は、仁礼平蔵の妹の園。ドラマ「田原坂」では、上村香子。
※先妻も後妻もワシのタイプじゃ。ワシは吉二郎になりたい。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

129:日本@名無史さん
18/01/21 12:42:38.90 .net
「田原坂」で吉二郎を演じていた平田満は、「西郷どん」では大久保利通の父。喜界島へ遠島処分。
大久保次右衛門は諱で表すと、大久保利世。
なお、次右衛門は安政元年(1854年)7月には罪を許され、翌安政2年(1855年)2月に鹿児島に戻っている。
文久3年(1863年)、70歳で没した。

130:日本@名無史さん
18/01/21 12:52:01.19 .net
▽西郷氏
「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。
肥前西郷氏は菊池氏の一族とされ、その菊池氏は藤原北家の藤原隆家流を称した。薩摩藩の西郷氏は肥後西郷氏の流れで、肥前西郷氏と同族。室町初期に惣領家の菊池氏が没落すると、薩摩国に移住した。島津家が九州をほぼ制圧した折に臣従した。

131:日本@名無史さん
18/01/21 12:58:19.68 .net
▽郡方書役助(郡方書記)
西郷が郡方書役助の卑役に就いたのは、弘化元年(1844年)。

132:日本@名無史さん
18/01/21 13:09:41.44 .net
《19世紀の元号》
享和:1801年……寛政11年=享和元年
文化:1804年……享和4年=文化元年
文政:1818年……文化15年=文政元年
天保:1830年……文政13年=天保元年
弘化:1844年……天保15年=弘化元年
嘉永:1848年……弘化5年=嘉永元年
安政:1854年……嘉永7年=安政元年
万延:1860年……安政7年=万延元年
文久:1861年……万延2年=文久元年
元治:1864年……文久4年=元治元年
慶応:1865年……元治2年=慶応元年
明治:1868年……慶応4年=明治元年

133:日本@名無史さん
18/01/21 13:36:47.43 .net
▽西郷従道
天保14年(1843年) - 明治35年(1902年)
明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し、軍制を調査する。明治3年(1870年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。明治4年(1871年)7月、陸軍少将となる。
岩倉遣欧使節の蔭にかくれているが、廃藩置県→徴兵令の流れを考慮するとき、山県有朋・西郷従道の渡欧は重要である。
URLリンク(db.nichibun.ac.jp)
URLリンク(kotobank.jp)

134:日本@名無史さん
18/01/21 13:44:07.10 .net
上野の西郷隆盛の銅像の除幕式でおなじみの西郷桜子。公爵岩倉具張の妻。
URLリンク(pds.exblog.jp)
※西郷桜子 (従道の娘/1886-1985) … 西郷真悠子。女優の西郷真悠子は、従道のマジ子孫。
URLリンク(nitopon.com)

135:日本@名無史さん
18/01/21 13:46:08.20 .net
わしは桜子よりも妹の不二子の方がかわいいと思う。古河虎之助男爵夫人。
URLリンク(pds.exblog.jp)

136:日本@名無史さん
18/01/21 17:23:36.35 .net
▽明治2年夏
山県と従道がフランスに到着したときは、プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)の3年後、普仏戦争のちょうど1年前である。
普仏戦争については、前スレ〔595-603〕に書いてある。大山巌が観戦武官としてフランスにいた。

137:日本@名無史さん
18/01/21 17:34:00.35 .net
▽明治3年初夏
山県と従道が欧州を去る。セダンの戦いの敗北によってナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になるのは、明治3年9月2日であるから、二人がこのニュースに接するのは、帰国後である。
パリ・コミューンが起きたのは、明治4年3月26日であるから、西郷隆盛が薩長土三州の御親兵を率いて東京に入った2月13日より後になる。廃藩置県は、同年7月14日である。

138:日本@名無史さん
18/01/21 17:44:59.15 .net
司馬さんは、ナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になった翌日にパリ・コミューンが起きたように書かれているが、世界史の答案用紙にこんなことを書くと誤答になります。
フランス立法院は、ナポレオン三世が捕虜になった翌々日の1870年9月4日に、レオン・ガンベタは市庁舎のバルコニーに立って共和国宣言を発しますが、これをもってパリ・コミューンとは言いません。まだ普仏戦争のパリ攻囲戦は終了していません。


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