司馬遼太郎 Part12 at HISTORY
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150:日本@名無史さん
18/01/22 18:28:05.10 .net
1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるが、フランスでジャコバン派による恐怖政治が吹き荒れたのでそのまま亡命し、アメリカ合衆国に渡った。
1796年にフランスに帰国し、当時愛人だったスタール夫人の推薦により総裁政府の外務大臣となるが、1799年に辞任する。
ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日のクーデターの陰謀に参加し、成立した統領政府で再び外務大臣となり、ナポレオンから高い評価を得る。

151:日本@名無史さん
18/01/22 18:30:29.52 .net
1814年にナポレオンが失脚すると、連合国に請われて臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後(復古王政期のブルボン朝のフランス国王)は再びフランスの外務大臣となり、ウィーン会議に出席した。
この会議では、正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。
1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となったが、過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚した。

152:日本@名無史さん
18/01/22 18:32:00.87 .net
1830年の7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤めた。1838年、肺壊疽により死亡。自らの居城だったヴァランセ城近郊にあるノートルダム礼拝堂に埋葬された。
「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高い。
この章では、タレーランと山県有朋の共通点が語られている。

153:日本@名無史さん
18/01/22 18:38:31.83 .net
▽山城屋和助
天保7年(1836年) - 明治5年。
本名は野村三千三。道蔵とも。周防国玖珂郡山代荘本郷村に、医師野村信高右の四男として生まれる。山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦し、越後口では御陵衛士残党の篠原泰之進や高鍋藩兵と共に戦った。
URLリンク(indoor-mama.cocolog-nifty.com)

154:日本@名無史さん
18/01/22 18:42:39.64 .net
明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政にたずさわるようになった山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜の南仲通り3丁目に店舗を構えた。
山城屋は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出す。しかし、普仏戦争勃発の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗する。

155:日本@名無史さん
18/01/22 18:43:49.27 .net
山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡った。ところが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話など商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使鮫島尚信が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した(山城屋事件)。

156:日本@名無史さん
18/01/22 18:45:50.73 .net
山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋には借りた公金を返済する能力が無いことが明らかになった。山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。
窮地に立たされた山城屋は、明治5年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。

157:日本@名無史さん
18/01/22 19:16:32.36 .net
▽保安条例
明治20年に制定、発布され、即日施行された勅令である。自由民権運動を弾圧するための法律である。
内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。
これにより退去を命じられた者は、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、中島信行らがいる。

158:日本@名無史さん
18/01/22 19:19:56.81 .net
第一次伊藤博文内閣の井上馨外相の下で進められた条約改正交渉は、外国人犯罪裁判に外国人裁判官を採用するなどの条件で明治20年にいちおうの妥結をみた。しかしこれは日本の法権を侵害する屈辱的なものであるとして、自由民権派の政府攻撃が高まった。
倒閣運動へと激化するのを恐れた山県有朋内相、三島通庸警視総監の下で、同年12月25日突如公布、即日施行されたのが本法である。

159:日本@名無史さん
18/01/22 19:25:33.61 .net
▽大村益次郎
廃藩置県の断行を目論む明治政府は独自の武力を必要としたが、国民皆兵・徴兵制の早期実施を目指し藩兵に依拠しない政府直属軍の創設を主張する大村益次郎・木戸孝允と、武士身分に固執する薩摩士族が鋭く対立した。大久保利通が士族擁護に傾き明治4年薩長土三藩供出の士族兵による御親兵が創設された。

160:日本@名無史さん
18/01/22 19:29:37.52 .net
西洋兵学の大家である大村益次郎は、諸藩兵の廃止と鎮台兵の設置、徴兵制の導入、兵学校による職業軍人の育成、兵器工場の建設といった近代的軍事国家へのプランを明確に描いていた。
兵制論争に敗れた大村益次郎は辞表を出したが、木戸孝允に慰留され軍政のトップ(兵部大輔)に就き、愛弟子の山田顕義(兵部大丞)と共に、軍事施設の設置、火薬工場や造兵廠の建設などを着々と進めたが、急激な兵制改革に反発する長州士族に襲われ横死した(明治2年11月5日)。

161:日本@名無史さん
18/01/22 19:31:41.33 .net
大村益次郎没後の明治6年、山縣有朋が薩摩の西郷従道を引込み、西郷隆盛を動かして徴兵制を実現した。維新の原動力であるうえ士族の数が多い薩摩が頑強に抵抗したが、徴兵令を支持する西郷隆盛が、島津久光・桐野利秋・前原一誠ら反対派を抑えた。
しかし、士族の特権剥奪は不平士族反乱の原因となり、西郷隆盛も西南戦争を起すはめになった。

162:日本@名無史さん
18/01/22 19:34:28.49 .net
この後、兵部大輔の前原一誠は黒田清隆と衝突して辞め萩の乱を起し戦死、大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義は軍を追われ政治家に転進、唯一の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争で落命した。
運よく軍のトップに立った山縣有朋は、大日本帝国憲法に統帥権を挿入して政府の干渉を受けない「天皇の軍隊」を構築し、陸軍を牛耳った。陸軍長州閥は児玉源太郎・桂太郎・寺内正毅・田中義一へと受継がれた。

163:日本@名無史さん
18/01/22 19:40:23.52 .net
▽内務卿
征韓論がきっかけとなった明治六年政変を機に、大久保利通が主導して太政官の下にプロシア風の内務省を新設し、自ら内務卿となった。内閣制度が成立するまでは、内務卿が実質的な首相であった。
山県有朋が内務卿に就任するのは、明治16年である。内閣制度の成立後も、山県は引き続き明治23年まで内務大臣を務めた。

164:日本@名無史さん
18/01/22 19:49:57.18 .net
URLリンク(www.youtube.com)      
URLリンク(www.youtube.com)       
URLリンク(www.youtube.com)         

165:日本@名無史さん
18/01/22 20:33:46.46 .net
山県有朋の>>142の問題意識から発して、脱線しております。
西郷従道そっちのけで、山県の話が続いております。

166:日本@名無史さん
18/01/22 21:13:20.00 .net
▽華族
山県が内務卿になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。
筆者註:この叙述に対して評論を加えるべきか否か、いままで悩んでいた。スルーしようかとも思ったが、受験シーズンなのでやはり物申す。
デタラメです。

167:日本@名無史さん
18/01/22 21:18:15.39 .net
明治2年6月17日、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。
明治17年7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。

168:日本@名無史さん
18/01/22 21:21:11.05 .net
しかも、華族令の制定の中心人物は伊藤博文であって、山県有朋ではない。

169:日本@名無史さん
18/01/22 21:22:19.85 .net
司馬史観においては、山県有朋は明治史のゴミ箱なので、仕方ないです。

170:日本@名無史さん
18/01/22 21:24:25.52 .net
自分も小学生のときに歴史の本で山県有朋の写真を見た瞬間、山県有朋が嫌いになりました。
あの顔は他人から嫌われる顔なんです。仕方ありません。

171:日本@名無史さん
18/01/22 21:57:10.89 .net
>>62
自ら地名姓を名乗るのではなくて、他人が本姓で呼ぶことを遠慮して地名姓を使う。

172:171
18/01/22 21:58:31.22 .net
すまん。誤爆してもうた。

173:日本@名無史さん
18/01/22 22:34:00.46 .net
平安のむかしから貴族は「皇室の藩屏」だろう。何を言っているのか、さっぱりわからん。

174:日本@名無史さん
18/01/22 22:35:28.81 .net
「一君万民」の平等思想は、平田国学と頼山陽の『日本外史』の思想だよ。
明治維新を惹起した基礎となる思想だよ。

175:日本@名無史さん
18/01/22 22:39:05.26 .net
大久保も将来は民権主義を育てるつもりだった。
川路のポリス思想は住民サービスを重視していた。
司馬さんによると、両者ともに山県によって否定されたようです。

176:日本@名無史さん
18/01/22 22:40:20.76 .net
顔って大事だよね。山県の場合、何をやっても嫌われる。

177:日本@名無史さん
18/01/23 15:44:36.05 .net
《フランス革命》
1789年6月9日:テニスコートの誓い(第三身分は三部会を見切り、国民議会を発足させる)
1789年7月14日:バスティーユ牢獄を襲撃
1789年8月26日:フランス人権宣言を採択(国民議会)
1791年6月20日:ルイ16世一家はパリを脱出する(ヴァレンヌ事件)
1791年9月3日:1791年憲法を制定

178:日本@名無史さん
18/01/23 15:52:53.84 .net
1791年10月1日:立法議会(1792年9月5日まで)
  立憲君主制を守ろうとするフイヤン派 vs 共和制を主張するジロンド派
1792年4月:革命政府はオーストリアに対して宣戦布告
1792年9月21日:国民公会(1795年10月26日まで)は、王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言
1793年1月21日:ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑された。

179:日本@名無史さん
18/01/23 15:59:50.49 .net
1793年6月2日:下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放し、ロベスピエールが権力を掌握した。
  恐怖政治:エベール派とダントン派を粛清
1794年7月27日:テルミドールのクーデター
  翌28日、ロベスピエールら22人はギロチンで処刑された。過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。
1795年10月26日:国民公会が解散されて総裁政府が成立した(テルミドール派)。

180:日本@名無史さん
18/01/23 16:07:55.71 .net
>>179
>1795年10月26日:国民公会が解散されて総裁政府が成立した(テルミドール派)。
テルミドール派は国民公会を足場に政権を樹立した。国民公会が解散されて総裁政府が成立したということは、テルミドール派が失脚したということだよ。
総裁政府の中心人物は、ポール・バラス。

181:日本@名無史さん
18/01/23 16:16:13.63 .net
1799年11月9日:ブリュメール18日のクーデター
  ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデター。ナポレオンは統領政府を樹立、自ら第一統領となった。
  革命は1794年のテルミドール9日のクーデターによって実質的に終わっており、惰性で続いていた第一共和政が終焉した。
1804年:ナポレオン1世が皇帝に即位(第一帝政)。
1814年:ナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ退位。戦後処理のためにウィーン会議。
1815年:エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかしワーテルローの戦いで完敗。再び退位(百日天下)。

182:日本@名無史さん
18/01/23 16:18:57.64 .net
フランス復古王政(1814年 - 1830年)
  ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。
  1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位。

183:日本@名無史さん
18/01/23 16:21:52.73 .net
七月王政(1830年 - 1848年)
  1830年7月、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王となった。
第二共和政
  1848年の二月革命から1852年のナポレオン3世皇帝即位まで

184:日本@名無史さん
18/01/23 16:31:01.11 .net
第二帝政
  1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる。
  その後ルイ=ナポレオンは議会との対立を深め、1852年12月に国民投票により皇帝に即位する。
  1870年にプロイセンに宣戦したが(普仏戦争)、セダンの戦いで惨敗し、自らがプロイセン軍に捕えられ退位へと追い込まれた。
第三共和政
  皇帝不在となったフランスでは第三共和政が誕生する一方、パリでは一時、史上初の労働者による政権パリ・コミューンが樹立された(1871年3月26日)。

185:日本@名無史さん
18/01/23 16:31:53.20 .net
中間試験の勉強をここでするのはよしてください。

186:日本@名無史さん
18/01/23 17:17:42.84 .net
>>175
司馬さんは、山県を「僧院の陰謀家のように陰鬱で無口」と言っている。
司馬さんの頭の中では、山県とタレーランのキャラが完璧に被っているんだよな。

187:日本@名無史さん
18/01/23 17:40:37.49 .net
《フランス革命》まとめ
フランス革命:1789年 - 1792年 国民議会(1789-91)→立法議会(1791-92)
第一共和政:1792年 - 1804年
  国民公会:ジャコバン派(1792-94)→テルミドール派(1794-95)
  総裁政府:バラス政権(1795-99)
  統領政府:ブリュメール18日のクーデター(1799-1804)

188:日本@名無史さん
18/01/23 17:47:53.90 .net
第一帝政:1804年−1815年
復古王政:1814年−1830年 ルイ18世→シャルル10世
七月王政:1830年−1848年 ルイ・フィリップ
第二共和政:1848年−1852年 大統領ルイ・ナポレオン
第二帝政:1852年−1870年 ナポレオン3世
第三共和政:1870年−1940年

189:日本@名無史さん
18/01/23 18:13:14.50 .net
▽ニコライ二世の戴冠式
明治29年5月14日、モスクワのクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で戴冠式を行なった。日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。
URLリンク(www.saint-petersburg.com)
URLリンク(cdn.ruvr.ru)

190:日本@名無史さん
18/01/23 18:17:00.04 .net
山県は帰国後、日本の皇室の権威的装飾を荘厳なものに改造した。
ここでも山県は、司馬さんに「愚かな男」と言われています。

191:日本@名無史さん
18/01/23 18:29:48.88 .net
▽大日本帝国憲法
明治22年の紀元節(2月11日)に公布された。紀元節は、日本の初代天皇である神武天皇の即位日である。このとき明治天皇38歳。
施行は翌年11月29日。明治憲法の施行により、天皇はミカドから立憲君主へと変身した。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

192:日本@名無史さん
18/01/23 18:35:10.46 .net
本文に紹介されたセオドア・ルーズベルトの認識でわかるとおり、世界は明治憲法を議会主義と三権分立を規定した民主主義・自由主義の憲法とみていた。少なくとも天皇専制の政体とは思っていなかった。

193:日本@名無史さん
18/01/23 18:38:38.09 .net
▽軍人勅諭
明治15年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。西周が起草し、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正された。
当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草された。
明治11年10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。

194:日本@名無史さん
18/01/23 18:47:31.09 .net
▽統帥権の独立
「夫兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ、其大綱は朕親之を攬り、肯て臣下に委ぬべきものにあらず」
山県有朋の意図は軍部の暴走を軍人勅諭によって抑制することにあったのだが、皮肉なことに軍部の暴走の法的根拠になってしまった。
しかし、司馬さんは、「明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった」と書かれている。

195:日本@名無史さん
18/01/23 18:48:44.74 .net
司馬さん、どんだけ山県きらいなん((*´∀`))?

196:日本@名無史さん
18/01/23 18:56:47.92 .net
日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇をツァーリのごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。
山県をしてそれほどの重国家をつくらしめたのは、明治二年、彼がパリで実見したコンミューンの戦慄的な動きであった。

197:日本@名無史さん
18/01/23 19:06:26.74 .net
くどいけど、パリ・コンミューンは、明治4年3月18日だから〔>>139〕、山県は「実見」していない。
普仏戦争すら、まだ始まっていない。ナポレオン三世はピンピンしとるわい。

198:日本@名無史さん
18/01/23 19:48:54.93 .net
やっと山県の話が終わった。ここから西郷従道の話です。

199:日本@名無史さん
18/01/23 19:51:00.78 .net
▽明治二年
従道は26歳。山県は31歳。

200:日本@名無史さん
18/01/23 19:58:18.66 .net
▽海軍大臣
歴代海軍大臣は次のとおり。
西郷従道:明治18年 - 明治23年
樺山資紀:明治23年 - 明治25年
仁礼景範:明治25年 - 明治26年
西郷従道:明治26年 - 明治31年   ←日清戦争
山本権兵衛:明治31年 - 明治39年 ←日露戦争

201:日本@名無史さん
18/01/23 20:04:41.25 .net
▽国権主義
民権論が人民の権利や自由が保障されて初めて国家の権力が強化・伸張されるとしたのに対して、国権論は国家の権力が強化されてこそ人民の権利や自由が保たれると主張するものである。
しかし、国権論と民権論は必ずしも図式的に明分した形で展開されたわけではなかった。

202:日本@名無史さん
18/01/23 20:09:57.53 .net
▽狐疑深き慎吾
西郷隆盛は、第二の幕府を作る野心を秘めているのではないかという疑念。
従道だけが狐疑していたのではなく、この時代の非薩摩人のほとんどが濃淡の差はあれ、そのように思っていた。

203:日本@名無史さん
18/01/23 20:15:13.79 .net
▽坂元盛秋
西郷隆盛を研究しておられる東京在住の英文学者。
司馬さんに「薩摩人のなかでさえ、いまでも西郷を嫌っている人があります」という手紙を送った人。
URLリンク(images-na.ssl-images-amazon.com)

204:日本@名無史さん
18/01/23 20:23:35.34 .net
久光が西郷をいかに西郷を憎んだかということは、幕末のある時期、西郷の遠島を解除せざるをえない状況になったとき、たまたま咥えていた煙管を噛み、その銀の部分に歯形が立ったといわれているほどである。
「(;´Д⊂) 痛…。昨夜より虫歯が痛むのを忘れておったわ」

205:日本@名無史さん
18/01/23 20:46:48.43 .net
▽高崎正風
天保7年(1836年)- 明治45年(1912年)
鹿児島近在川上村(鹿児島市川上町)出身。通称は左太郎。
嘉永2年(1849年)、お由羅騒動(高崎崩れ)によって父五郎右衛門が切腹し〔>>44〕、翌3年(1850年)に正風も連座して奄美大島に流刑となった。

206:日本@名無史さん
18/01/23 20:47:24.50 .net
嘉永5年(1852年)に赦免され、幕末の京都で活動し、公武合体派の島津久光の意を受けて、会津藩公用方秋月悌次郎に密かに接触し、京都から長州藩の追い落としを図って、文久3年(1863年)8月18日これを成功させる(禁門の政変)。
その功により京都留守居役に任命されるが、武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立し、維新後は不遇をかこった。
本章で高崎左太郎は久光派と紹介されているが、これが原因だと思われる。芯からの公武合体派だった。

207:日本@名無史さん
18/01/23 20:48:35.23 .net
明治4年に新政府に出仕。翌5年に左院視察団の一員に任じられ、2年近く欧米諸国を視察。
明治8年に宮中の侍従番長、翌9年から御歌掛などを務め、同年に侍補となり、明治11年から翌12年にかけて元田永孚・佐々木高行・土方久元・吉井友実らと天皇親政運動を展開したが〔>>73-74〕、明治12年に政府に侍補を廃止され失敗した。

208:日本@名無史さん
18/01/23 20:48:56.69 .net
明治19年に二条派家元三条西季知が死去した後を受け、御歌係長に任命される。さらに明治21年には御歌所初代所長に任命された。
明治23年、皇典講究所所長山田顕義の懇請により、初代國學院院長(明治26年まで)。明治28年、枢密顧問官を兼ねた。
明治45年2月28日死去。享年75。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
※日テレ「白虎隊」では加納竜。禁門の政変の場面で登場した。しかし「エロスの海」とは……。
URLリンク(up.gc-img.net)

209:日本@名無史さん
18/01/23 20:57:25.58 .net
わざわざ「エロスの海」を貼らなくても、「愛と誠」があるがな。
URLリンク(s-media-cache-ak0.pinimg.com)
URLリンク(i.ytimg.com)
URLリンク(art43.photozou.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)

210:日本@名無史さん
18/01/23 21:04:16.49 .net
▽奈良原繁
通称喜八郎については、前スレ〔216-218〕に書いた。寺田屋事件では鎮撫使の一人として活躍した。
禁門の政変では、高崎正風らと暗躍し、京から長州藩追放に成功している。
西郷隆盛らの討幕路線に反対していたため、戊辰戦争より帰国した下級藩士たちにより、藩政から退けられる。
公武合体派=久光派である。

211:日本@名無史さん
18/01/23 21:08:27.23 .net
生麦事件でリチャードソンに最初の一撃をあびせたのは喜八郎の兄の奈良原喜左衛門なのかね、やっぱり。
介錯のつもりでリチャードソンにとどめをさしたのが海江田信義であったことからすると、喜八郎のような気もするが。

212:日本@名無史さん
18/01/23 21:28:29.28 .net
▽海江田信義
天保3年(1832年)- 明治39年。幕末期は有村俊斎の名で活躍する。
嘉永2年(1849年)、お由羅騒動に巻き込まれた有村父子は、一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰する。
※池田優斗 URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
※高橋光臣URLリンク(stat.ameba.jp)

213:日本@名無史さん
18/01/23 21:28:56.98 .net
文久元年(1861年)12月、安政の大獄で捕縛され獄死した日下部伊三治の次女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田武次信義と改名する。海江田は日下部の旧姓である。
日下部家の後を継ぐ予定の弟有村次左衛門(桜田門外の変で自刃)の死後、その義理で日下部家を継ぐことになった。

214:日本@名無史さん
18/01/23 21:29:13.38 .net
文久2年(1862年)、島津久光に従って上洛したが、その道中で知った西郷の京都での動静を久光に伝えて激怒させてしまい、心ならずも西郷の再遠島の原因を作った。
寺田屋事件では奈良原繁とともに、事前に有馬新七ら藩士の説得を命じられるが失敗した。鎮撫使には加わっていない。

215:日本@名無史さん
18/01/23 21:29:32.13 .net
大村益次郎殺害犯の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣された海江田は、直前で刑の執行を差し止めたため、政府の取調べを受け謹慎処分となった。
明治3年8月、大久保の尽力により官職に復帰し、奈良県知事に任命されるが、明治4年の廃藩置県で解任される。

216:日本@名無史さん
18/01/23 21:29:45.77 .net
薩摩に帰り隠遁するつもりであったが、島津久光の目にとまり、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となる。このことが評価されて、明治5年、左院四等議官として再度官途につく。
明治6年、勅使とともに鹿児島へ下り、久光を説いて上京せしめる。
明治23年には貴族院議員、明治24年には枢密顧問官となり、明治39年に75歳で死去。

217:日本@名無史さん
18/01/23 21:35:39.20 .net
海江田信義のエピソードでは、大村益次郎との対立と、その暗殺事件への関与が最大のものだが、これは『花神』で詳しくやる。
それを抜きにしても、これだけネタ満載の男も珍しい。肝心なことは何もしていないが、事件の周辺でいつもチョロチョロしている稀有なキャラクター。

218:日本@名無史さん
18/01/23 21:36:14.41 .net
しかも、禿なのに、もう岩山糸に手を出している。
URLリンク(pbs.twimg.com)

219:翔ぶが如く
18/01/23 22:03:49.87 .net
第8章 好転 
〔三〕廃藩置県
「御親兵を東京に置くからには毛利氏が叛けば毛利氏を討ち、島津氏が叛けば島津氏を討つ底のものでなければなりませぬ」
西郷は応諾し、明治四年三月、四個大隊の兵を率いて海路東京に入ったのである。このとき天下の不平士族はよろこび、
(西郷が何かやるのではないか)
と、期待した。
「薩摩が大兵をひきいて上洛する」ということが、天下の希望と期待を集中したことが二度あった。ひとつは安政五年に島津斉彬が幕政を匡すべく兵三千を率いて上洛しようとしたことであり、次いで島津久光が文久二年にそれを実現したことである。

220:日本@名無史さん
18/01/23 22:13:21.22 .net
この小説を新聞連載で読んでいたら、本筋である明治6年の征韓論論争が今どのあたりまで進行していたか、忘れてしまうね。

221:日本@名無史さん
18/01/23 22:54:33.34 .net
>>211
喜左衛門と喜八郎は、小説に出てきても、どっちがどっちだったか分からなくなることがあるね。
どっちが「繁」だったかも、思い出せないことがある。

222:日本@名無史さん
18/01/23 23:10:05.05 .net
▽大村益次郎
一人の男が居る。
歴史が彼を必要とした時忽然として現れ、その役目を終えると大急ぎで去った。
もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は津々浦々の枯れ木にその花を咲かせて回ることであった。中国では花咲爺のことを花神という。彼は花神の役目を背負ったのかも知れない。
彼、村田蔵六。後の大村益次郎である。

223:日本@名無史さん
18/01/23 23:12:36.71 .net
「あなたは戦を知らない」
「冬は寒いのが当たり前です」

224:日本@名無史さん
18/01/23 23:22:57.05 .net
▽「いずれ九州から足利尊氏のごとき者が興ってくる」
大村は西郷を先天的な謀叛人とみていた。
「四斤山砲をたくさん造って大坂に置いておけ」

225:日本@名無史さん
18/01/23 23:23:23.65 .net
▽四斤山砲
1859年にフランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲である。「四斤」とは、砲弾重量が4kgであることを意味する。日本でも幕末から明治初期にかけて主力野戦砲として使用された。
URLリンク(sak2-2.tok2.com)

226:日本@名無史さん
18/01/24 00:50:48.07 .net
▽足利尊氏 〈1305年 - 1358年〉
尊氏が九州で再起した理由を探求すれば様々な論点が出てくるが、本編とのかかわりが薄いので割愛する。
肖像の話題だけ。〔画像1〕が高師直ではないかという話は、自分は40年以上前に聞いた。
試みに高校時代に使っていた教科書と参考書を紐解いてみたら、尊氏の肖像は載せられていなかった。
現在は〔画像2〕が有力なようだ。
〔画像1〕URLリンク(www12.plala.or.jp)
〔画像2〕URLリンク(www.asahicom.jp)

227:日本@名無史さん
18/01/24 01:07:19.81 .net
▽山田顕義
天保15年(1844年)- 明治25年
長州藩士で藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。吉田松陰門下のひとり。
幕府の長州征討では高杉晋作の下で「丙寅丸」の砲隊長として幕艦を撃破、戊辰戦争では東征大総督参謀として、越後・東北・箱館と奮戦し、小ナポレオンと称されるほどの用兵家として知られた。
明治2年、兵部大輔大村益次郎の下で兵部大丞を務め、大村の死後は遺志を継承して兵制確立に力を注いだ〔>>160〕。

228:日本@名無史さん
18/01/24 01:09:32.10 .net
明治4年に陸軍少将となり、岩倉遣欧使節団の一員としてヨーロッパを視察する。帰国後佐賀の乱が勃発し、その鎮圧に当たった。同じ長州出身の山県有朋とは相容れず、山県の進める徴兵制に反対し、下士官養成を先にすべきという漸進論を主張する。
明治7年の台湾出兵の閣議決定にも反対を唱えた。

229:日本@名無史さん
18/01/24 01:20:33.94 .net
西南戦争の際は、別働第2旅団司令長官として活躍。11年陸軍中将に進んだ。しかし、その後、軍を追われ政治家に転進する〔>>162〕。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
民法はフランス人ボアソナード、商法はドイツ人レースラーの原案起草を得てともに明治23年の公布にこぎつけた。しかし、フランスに範をとる民法が日本の国情に合わないとの議論がやがて起こり (法典論争)、結局両法とも施行されなかった。

230:日本@名無史さん
18/01/24 01:20:47.26 .net
また、山田顕義は日本法律学校(現日本大学)の前身となる國學院を創設した。
國學院の初代院長が高崎正風であることは、前述した〔>>208〕。
URLリンク(www.yoshida-shoin.com)

231:日本@名無史さん
18/01/24 01:38:53.35 .net
>>206
高崎左太郎は、文久3年の禁門の政変の折に、会津藩との交渉窓口になっているんだよな。
会津藩公用方の連中と飲み歩いて親密にもなっているだろう。
会津を捨て置いて「公武合体はやめて倒幕するからね」と西郷・大久保に言われても、「ええかげんにしてたもんせ」だろうな。

232:Coffee Break
18/01/25 20:06:53.82 .net
>>187-188
アル・スチュワートの「Lord Grenville」という曲は、フランス革命戦争からナポレオン戦争初期までの対フランス強硬外交を主導した小ピット内閣の外務大臣ウィリアム・グレンヴィルに関する曲だ。聴いてみるといい。
URLリンク(www.captainstomp.com)

233:日本@名無史さん
18/01/25 20:32:23.91 .net
▽西郷どんの人望好み
大山巌の評語。なおフリガナは「せごどん」。
木戸孝允も西郷の人望好きを嫌っていた。以下は、木戸の言葉。
一国の政治を行う場合、八方美人式に大向うの声望を得ようとするのはむしろ易しい。進んで正を踏み、一世から嫌われるほどの勇気を持つべきである。

234:日本@名無史さん
18/01/25 20:36:09.63 .net
一世から嫌われて暗殺されるだけなら、まだしもたやすい。
死後に酷評されることにも耐えられるだけの勇気が必要とされる。

235:日本@名無史さん
18/01/25 20:41:50.20 .net
小説やドラマの場合、売れなきゃ話にならんから、どうしても大衆的人気のある歴史上のヒーローが主人公にされてしまう。
死後に大衆から酷評されている人物で、理解するために高い知性を必要とする大久保が主人公になることはないな。

236:日本@名無史さん
18/01/25 20:45:05.91 .net
好事家の金持ちから寄付を受けなければ維持できないクラシックのオーケストラと、AKBや乃木坂の関係のようだな。

237:日本@名無史さん
18/01/25 20:53:41.73 .net
>>235
しかし人望のある西郷がいなければ、薩摩藩は動かず、明治維新もなく、大久保が歴史に名を残すこともなかった。
むずかしいところですな。
明治政府の大官のなかには、大久保は除くとしても、着たきり雀の西郷が無言の批判をしていたような成金バカも確かに存在しましたから。

238:日本@名無史さん
18/01/25 20:55:52.99 .net
▽二本松藩邸
京都市上京区玄武町。御所の北側にある現在の同志社大学のキャンパスに、京都・二本松薩摩藩邸があった。 幕末史を大きく旋回させた薩長同盟の会談場所のひとつとなった。
URLリンク(japanserve.com)

239:日本@名無史さん
18/01/25 20:59:53.94 .net
西郷は、大きな財布をとりだした。その中から銭をつかみ出し、
「手を出しやい。汝くらいの齢には銭が要るものでごわす」と、与えた。

240:日本@名無史さん
18/01/25 21:04:55.15 .net
▽柴山竜五郎景綱
天保6年(1835年)- 明治44年
幕末には精忠組に参加して寺田屋騒動で検挙され、薩英戦争・禁門の変・戊辰戦争に参戦した。明治時代には義弟三島通庸〔>>158〕の下で山形県東置賜郡・南置賜郡、福島県伊達郡・信夫郡郡長を務め、土木事業を推進し、故事・旧跡の顕彰に努めたが、しばしば強権的な手法を批判された。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

241:日本@名無史さん
18/01/25 21:18:54.12 .net
▽是枝万助
柴山竜五郎の実弟・陶蔵という名で紹介されているが、寺田屋騒動で投降した田中河内介を鹿児島に護送中に殺害した「是枝万助」の名の方が有名である。
柴山陶蔵と是枝万助は同一人物である。

242:日本@名無史さん
18/01/25 21:35:56.55 .net
田中河内介父子の殺害を命じたのは、三島通庸ではないかと言われている。
是枝万助は>>239で西郷から銭をもらった柴山竜五郎の実弟。これが慶応2年の挿話。
是枝万助は、戊辰戦争の頃すでに「万助・・・心経病再発シ眼ヲ抉リ股ヲ断ント」とするような有様だった。田中河内介父子殺害後、精神を病んでいたとも伝えられる。

243:日本@名無史さん
18/01/25 21:39:59.46 .net
西郷が柴山陶蔵(是枝万助)に銭を与えたのは、単なる西郷の人気取りのエピソードとして片づけられない難しさがここにある。
西郷は久光の命によって捕縛され再遠島を命じられたから、寺田屋事件とその後の田中河内介殺害には関与していない。
しかし是枝万助の心の傷は知っていたはずである。銭を与えたのは、そのためかもしれない可能性がある。

244:日本@名無史さん
18/01/25 21:46:48.59 .net
他人は好き勝手なことを言うよ。批判されている当人は、その人なりに、善い人になろう、立派な人になろうと必死に生きている。

245:日本@名無史さん
18/01/25 22:04:39.84 .net
▽大迫喜左衛門貞清
文政8年 (1825年) - 明治29年
薩摩藩士山之内立幹の四男に生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年以降京都守衛に当たり、明治元年鳥羽伏見の戦いでは二番遊撃隊隊長、のち東山道先鋒総督本営付として従軍した。
明治2年薩摩の藩政改革では参政、同3年権大参事を務めた。同5年陸軍少佐、ついで中佐に進むが、同7年文官に転じ、静岡県令をふりだしに明治16年警視総監、さらに元老院議官、沖縄県令を歴任し、勲功により子爵となる。

246:日本@名無史さん
18/01/25 22:09:56.53 .net
▽壮者隊
万延元年(1864年)以降京都守衛に当たっていた大迫喜左衛門の隊を指すのだと思う。ほかに走者隊としている史料もあり、詳細は不明である。
国許から上洛してきた柴山竜五郎の弟陶蔵(是枝万助)を、西郷は大迫の壮者隊に編入した。

247:日本@名無史さん
18/01/25 22:25:06.27 .net
この稿の小見出しは、「好転」である。西郷は遣韓大使の一件が内定したことを喜び、弟の従道の屋敷から日本橋小網町の自分の寓居に移ろうとしている。
『翔ぶが如く』という小説は、本編の進行は0.1%で、残りの99.9%が余談で構成されている。

248:日本@名無史さん
18/01/25 22:28:29.09 .net
倒幕のあと、いちはやく新国家構想を考えたのは長州集団であった。薩摩集団は幕府を倒したあと、兵は鹿児島に帰り、一見ぼう然と世のなりゆきをながめていただけである。

249:日本@名無史さん
18/01/25 22:34:15.92 .net
▽版籍奉還
明治2年6月から行われた諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還。発案者は姫路藩主酒井忠邦。
新政府側から見ると、次のような背景がある。新政府は徳川幕府直轄地、旗本領、および寺社領を没収した。しかし、直轄地以外の地域については、江戸時代同様の各大名による統治がおこなわれていた。
当時各大名に対する明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令も強制力のない太政官達で行うしかなかった。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとした。

250:日本@名無史さん
18/01/25 22:35:10.66 .net
諸藩側から見ると、次のような背景がある。江戸時代、各藩主は代替わりごとに領地の所有を将軍に承認されていたが、徳川幕府の瓦解によって領地所有の法的根拠が失われていた。
また、戊辰戦争においては近代兵器を用いた戦争に藩主はほとんど指導力を発揮できず、藩内において藩主の権威が失墜していた。さらに、戦乱による被害と藩の権威の低下により、戦闘の場となった関東や東北などでは農民一揆が続発して年貢の徴収も滞りがちであった。

251:日本@名無史さん
18/01/25 22:39:41.14 .net
版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に変わり、陪臣である藩士も朝廷の家臣とされた。このため諸藩の中には「将軍による知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗もなく終わった。
また、版籍奉還と同時に旧藩主の諸侯285家は、公卿142家と同時に華族に列せられた〔>>167〕。

252:日本@名無史さん
18/01/25 23:05:26.43 .net
▽廃藩置県
司馬さんは、廃藩置県の最初の唱道者を木戸孝允としているが、これは誤りである。版籍奉還と勘違いされている。
封建制の廃止と郡県制による中央集権の必要性を認識する木戸は、まだ戊辰戦争の最中である明治元年2月、三条実美、岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出した。しかし、三条も岩倉も時期尚早としてこの時点では賛成しなかった。

253:日本@名無史さん
18/01/25 23:06:25.63 .net
同年9月18日、木戸は大久保利通と極秘裏に会談し、版籍奉還の実施について大久保と薩摩藩の協力を要請、大久保は「一緒尽力」を承諾した。
さらに木戸は山内容堂と会談して土佐藩の同意を取り付け、大久保の奔走により薩摩藩も同意、これに佐賀藩も同調し、明治2年1月20日、薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出された。

254:日本@名無史さん
18/01/25 23:16:28.05 .net
廃藩置県の最初の唱道者は、前スレで詐欺師スレスレの男と評された津田出である。
明治元年11月、紀州藩藩主・徳川茂承〈もちつぐ〉より藩政改革の全権を委任された津田出は、陸奥宗光に会い、郡県制度(版籍奉還および廃藩置県)と徴兵令の構想を伝える。
明治2年7月、陸奥宗光は廃藩置県の意見書を太政官に提出するが、採用されず下野し、津田出らとともに紀州藩の藩政改革に参画する。

255:日本@名無史さん
18/01/25 23:19:52.57 .net
なお、長州藩の鳥尾小弥太は、紀州藩の改革に戊営副都督次席として参与している。この改革を西郷従道、村田新八、山田顕義が見学した。この改革が、日本の近代国家のモデルケースとなり、明治4年の廃藩置県、明治6年の徴兵令に影響を与えた。
明治3年12月、大蔵大輔・大隈重信が「全国一致之政体 」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。その実現には、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。

256:日本@名無史さん
18/01/25 23:22:49.22 .net
主に軍事面と財政面において中央集権体制を進める廃藩置県の必要性は次第に政府内で支持を増やしていた。一方で薩摩藩の島津久光などの近代化と中央集権化に反対する勢力も有力であり、これに対して大久保利通や木戸孝允などの新政府実力者は漸進的な姿勢をとらざるを得なかった。
特に圧倒的な軍事力を抱える薩摩藩の動向は、大きな懸念材料となっており、薩摩藩出身の実力者たちは慎重な姿勢を見せていた。この現状に中間官僚たちは危機感を強めた。

257:日本@名無史さん
18/01/25 23:26:28.76 .net
明治4年7月4日、兵制の統一を求めていた山口藩出身の兵部少輔山縣有朋、および同藩出身の鳥尾小弥太〔>>255〕と野村靖が>>256の状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。

258:日本@名無史さん
18/01/25 23:36:59.60 .net
▽麹町富士見町
明治3年8月に欧州から帰国した山県有朋が(>>137)、当時居住していた町。昭和22年に消滅した。
現在は千代田区富士見。千代田区は、昭和22年に神田區と麹區が合併して誕生した。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
山県有朋と鳥尾小弥太および野村靖は、ここで廃藩置県の実現に向け第一歩を踏み出した。

259:日本@名無史さん
18/01/25 23:43:16.85 .net
▽鳥尾小弥太
弘化4年(1848年)- 明治38年
萩城下川島村に長州藩士・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊。乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を改めた。
戊辰戦争後に和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している〔>>255〕。
URLリンク(yugetuan.net)

260:日本@名無史さん
18/01/25 23:45:16.10 .net
西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成した。
明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。

261:日本@名無史さん
18/01/25 23:50:18.66 .net
▽野村靖
天保13年(1842年)- 明治42年
長州藩の足軽・入江嘉伝次の次男として生まれる。兄に入江九一、妹にすみ子(伊藤博文の最初の妻)がいる。兄・九一が入江氏を継いだため、親戚の野村氏を継いだ。
吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒するが、老中・間部詮勝の暗殺計画が露見して兄と共に投獄される。文久2年(1862年)にはイギリス公使館の焼き討ちに参加。第二次長州征討でも活躍している。
URLリンク(blog-imgs-38.fc2.com)

262:日本@名無史さん
18/01/25 23:55:08.52 .net
明治維新後、廃藩置県にあたって、鳥尾小弥太とともに、西郷隆盛・木戸孝允等政府有力者を周旋する活躍を見せ、その後、宮内大丞、外務大書記となり、岩倉使節団の一員として渡欧した。
明治27年には第2次伊藤内閣の内務大臣に就任し、同29年には第2次松方内閣の逓信大臣に就任している。
URLリンク(heisei-shokasonjuku.jp)
※「花燃ゆ」では大野拓朗 
URLリンク(d39t9tn4y25mgl.cloudfront.net)

263:日本@名無史さん
18/01/26 01:18:28.25 .net
実物の野村靖のブサイクな顔と、役者の顔の落差が大きすぎる。
ウケ狙いなんでしょ?

264:242
18/01/26 02:10:02.69 .net
>田中河内介父子殺害後、精神を病んでいたとも伝えられる。
実はここは俺の創作だ。創作を加えると気分がいいな。
小説家が創作を加えたくなる気持ちがちょっぴり理解できた。

265:日本@名無史さん
18/01/26 06:18:41.06 .net
歴史オタは基本真実ぶって持論(創作)を書きたがるもの
ネットに有る歴史の真実は全てこれ
匿名だから間違っても責められないから自分の持論を展開していく

266:日本@名無史さん
18/01/26 22:16:11.14 .net
▽蠣殻町
現在の日本橋蛎殻町。明治4年夏、西郷は蠣殻町の薩摩の控え屋敷に住んでいたと司馬さんは述べている。
明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
※現在の写真 URLリンク(file.tokyochuo.blog.shinobi.jp)

267:日本@名無史さん
18/01/26 22:22:49.26 .net
▽春日潜庵
文化8年(1811年)- 明治11年
京都烏丸通一条上ル(現京都市上京区)で、久我家諸大夫・春日越前守仲恭の息子として生まれる。内大臣・久我通明、久我建通に仕え、讃岐守となる。朱子学を修め、さらに陽明学を修めた。
安政4年(1857年)頃から梁川星巌、西郷隆盛らと国事に奔走する。そのため安政の大獄に座し、永押込に処せられた。文久2年11月(1862年)和宮降嫁後に特赦を受けた。
※春日潜庵邸宅跡 URLリンク(www2.city.kyoto.lg.jp)

268:日本@名無史さん
18/01/26 22:24:56.28 .net
>>266
薩摩藩が町人から買い取った町屋で、ひどく荒れていた。陋屋だった。

269:日本@名無史さん
18/01/26 22:29:15.64 .net
▽カルメラ
カルメ焼き(軽目焼)のこと。ポルトガル語の「甘いもの」(caramelo)を語源とする。
飴を発泡させた砂糖菓子で、サクサクした歯応えと濃厚な甘味、キャラメルのような焦げ砂糖の香ばしい風味がある。
※アラレちゃんのうんこのようなカルメラ
URLリンク(pds.exblog.jp)

270:日本@名無史さん
18/01/26 22:32:18.63 .net
「私のほうはよろしゅうございます」
廃藩置県という空前の変革は、西郷の一言で済んでしまった。
山県のような男が西郷に生涯敬意をうしなわなかったのは、この一事があったからである。

271:日本@名無史さん
18/01/26 22:39:21.39 .net
《廃藩置県》まとめ
明治3年8月:山県有朋・西郷従道、欧州より帰る。山県、兵部少輔。従道、兵部権大丞。
明治4年3月:薩長土三藩の士族兵を東京に集めるー御親兵。西郷隆盛、兵四個大隊を率い上京。
明治4年7月:廃藩置県を断行。

272:日本@名無史さん
18/01/26 22:51:42.77 .net
▽明治3年8月の東京の兵力
前スレ〔288〕に書いた。
明治元年2月20日、鳥羽・伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために、御親兵が設置された。実態は長州藩の一部部隊を中心として在京諸藩の浪人を集めただけに過ぎなかった。翌年には戊辰戦争の終了を理由に、十津川郷士ら400名による組織に縮小された。
東京奠都後には長州藩部隊が東京城(現在の皇居)の警護にあたった。

273:日本@名無史さん
18/01/26 22:57:15.26 .net
▽兵部省
王政復古によって、征夷大将軍が廃止された。明治2年7月の官制大改革により軍務官に代わって設置された。兵部卿には小松宮彰仁親王が就いたが、実務は次官である兵部大輔が執り行った。
大村益次郎:明治2年7月8日 - 11月5日
前原一誠:明治2年12月2日 - 明治3年9月2日
欠:明治3年9月2日 - 明治4年7月14日
山縣有朋:明治4年7月14日 - 明治5年2月27日

274:日本@名無史さん
18/01/26 23:22:40.76 .net
▽前原一誠
天保5年(1834年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七の長男として生まれ、前原氏を相続する。
安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。
文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。
URLリンク(www.i-unic.com)

275:日本@名無史さん
18/01/26 23:24:34.55 .net
維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線に反対して、木戸孝允と対立する。
やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。

276:日本@名無史さん
18/01/27 12:47:49.12 .net
▽大名小路
有楽町から大手町まで貫く一本通りを『大名小路』と呼びます。
江戸城築城当時この辺りは日比谷入江でしたが、順次埋め立てて江戸城域を拡張していきました。有楽町駅前辺りには南町奉行所が置かれ、大手町にかけての一体は譜代大名や旗本武家屋敷が建ち、24もの藩邸があったことから大名小路と呼ばれています。
URLリンク(oldmap.jp)
URLリンク(www.iwabi.jp)

277:日本@名無史さん
18/01/27 12:56:31.64 .net
▽旧因州藩邸
黒門は江戸期には旧因州鳥取藩32万石池田家上屋敷の表門だった。大名小路と呼ばれ大名屋敷が並んでいた現在の丸の内にあった。明治5年に有楽町1丁目という町名になり、現在は丸の内3丁目である。東京国際フォーラムの西側、新東京ビルがある所である。
池田家上屋敷は明治2年7月8日に兵部省〔>>273〕の用地となる。兵部省は明治5年2月に陸軍省と海軍省に分けられるが、この地は陸軍省になった。
URLリンク(taitonavi.jp)

278:日本@名無史さん
18/01/27 13:10:32.36 .net
▽維新後の薩摩〔>>248
島津久光は維新後も薩摩藩で権力を握り続けたが、新政府が進める急進的改革に批判的立場をとり、また藩体制の改革を要求する川村純義・野津鎮雄・伊集院兼寛等の戊辰戦争の凱旋将兵と対立する。
明治2年2月、勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向、その働きかけに応じて上京し、3月3日に参内、6日に従三位・参議兼左近衛権中将に叙任される。

279:日本@名無史さん
18/01/27 13:13:55.66 .net
明治3年1月から2月にかけて、島津久光と西郷隆盛に対し、上京して政府に協力することを促すため大久保が東京から帰藩するが、政府に不満をもつ久光と西郷を説得できず、両者の引き出しに失敗する。
同年12月、勅使・岩倉具視が大久保等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する。西郷は上京に同意するが、久光は病を理由にその猶予を願う。本章の叙述によると、西郷従道と山県有朋も随行している。

280:日本@名無史さん
18/01/27 13:18:27.36 .net
「田原坂」で従道(西郷輝彦)が隆盛(里見浩太朗)を説得していたシーンだな。
「カゴンマのオナゴにゃかないもはん」
西郷と山県の会談のシーンはなかった。

281:日本@名無史さん
18/01/27 13:21:41.52 .net
明治4年2月に薩長土三藩の兵力で編成される御親兵の設置が決定すると、出兵準備のため西郷が東京より帰藩し、久光に代わって知藩事・島津忠義が4月に西郷とともに上京する。
西郷や大久保らが主導するかたちで同年7月14日に廃藩置県が断行されると、島津久光はこれに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。
URLリンク(www.geocities.jp)
9月10日に政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜される(玉里島津家の創立)。

282:日本@名無史さん
18/01/27 13:31:40.11 .net
明治四年三月、西郷が、「御親兵献納」ということで薩摩四個大隊を率い、大砲数門を曳っぱって東京に入るという報が四方に伝わると、
「西郷が大軍を率いて東京に入った。世直しをやるつもりである」
と、各地に伝わった。
西郷という存在は、維新早々、すでに「世直し」の象徴として期待されていたのである。

283:日本@名無史さん
18/01/27 13:32:45.74 .net
「噴火山上で昼寝をしているようなものです」

284:日本@名無史さん
18/01/27 13:43:43.60 .net
薩摩は西郷が代表しているとばかり木戸は思っていたのだが、その内情は、西郷の足くびを握って放さない人物がいた。島津久光である。
薩摩という革命藩の実質的な藩主が、じつは病的な保守家で、封建制の絶対的支持者であり、できれば島津幕府でも作りたいと本気で思っているような人物であることは、すべての開明的な薩摩人がひた隠しに隠していた。
木戸は、久光の思想や野望の表れが、そのまま西郷の思想や意志であると思い、この両人の人格を一つのものと見ていたのである。
「西郷は第二の幕府を作るつもりであろう」

285:日本@名無史さん
18/01/27 17:24:58.90 .net
西郷は明治4年3月、献納すべき御親兵を率いて東京へ上るとき、久光から「廃藩置県はまかりならぬ」と釘をさされていながら、その7月には廃藩置県をやってしまったのである。
「私のほうはよろしゅうございます」
と、山県に一諾し、他のことは一切いわなかったが、西郷はこの瞬間、久光への裏切りをやってしまっていた。

286:日本@名無史さん
18/01/27 17:30:08.07 .net
▽明治4年7月9日
木戸孝允の屋敷で、夕刻から夜12時まで「廃藩論の順序」が論じられた。大風雨。
長州:木戸孝允・井上馨
薩州:西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌
山県有朋は遠慮して台所にいた。

287:日本@名無史さん
18/01/27 17:39:18.25 .net
▽毛利敬親
慶応4年(1868年)5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口へと帰った。
明治2年1月、敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を奉請した。6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜されている。6月4日に家督を元徳に譲って隠居した。明治4年3月、山口藩庁内殿で死去。享年53。
URLリンク(shisly.cocolog-nifty.com)
※敬親は金田龍之介以外考えられない
URLリンク(stat.ameba.jp)
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