司馬遼太郎 Part12 at HISTORY
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[前50を表示]
100:日本@名無史さん
18/01/21 00:02:59.45 .net
▽高麗尺〈こま〉
701年 (大宝元年) の大宝律令は度量衡規制を明文化し、大・小尺を制定する。大尺はいわゆる東魏尺にあたる高麗尺で、小尺とされた唐尺の1.2倍の長さをもち、大尺・小尺をそれぞれ測地と常用の二様に使い分けることを規定している。
平城遷都後の713年 (和銅6年) には高麗尺を廃止し、唐尺の一本建てになった。6世紀末に造営が始まった飛鳥寺は高麗尺の完数値で設計され、法隆寺では部材寸法まで高麗尺を用いるなど、8世紀初めまでは寺院・宮城の造営尺として使用された。

101:日本@名無史さん
18/01/21 00:06:43.93 .net
人間の尺度の場合、度量衡よりもはるかに複雑で、というより、言語というものは、その人間から出て他の人間に語られる場合、語り手の中にある情景も論理とはよほど別なものとして聞き手に受け取られることがむしろ普通である。

102:日本@名無史さん
18/01/21 00:12:16.19 .net
とくに西郷のように度量衡の目盛がどうやら他の者とずいぶん違っている男の場合、かれが言うことも行うことも、同時代人にも後世人にも、まったく別な目盛でもって量られるのが普通であり、西郷が基本的に悲劇的な存在であるというのはそういうところにあった。

103:日本@名無史さん
18/01/21 00:31:49.46 .net
この時期の西郷の不思議さは、堂々の議論を展開するのみで、裏にまわっての権謀術数というものをまったく用いなかったことである。
この幕末における大機略家が、明治になってその機略性を捨て、元来、かれの性格の基調であったところの正直さというものだけで生きてゆこうとしたことは、人間の現象としては奇跡のように思われる。

104:日本@名無史さん
18/01/21 00:41:08.68 .net
余ガ「翔ぶが如く」の西郷隆盛を読んでまっさきに思い浮かべたのが、司馬の短篇「和州長者」の主人公の団平であった。「和州長者」は、短篇集『大坂侍』の冒頭に収載されている。
秘かに佐絵を思い続けてきた団平。その恋は成就することなく、更に、佐絵は彼の想いを裏切り続ける。それでも、団平は、一途に、綺麗なままにその恋を終えようとする……。
「おかしな男だったが、団平、あれが男さ。ああいうのが、どうやら、人間の中の真人間というものだろう。」と司馬は団平を肯定している。

105:日本@名無史さん
18/01/21 00:45:52.65 .net
一途な生真面目さを貴しとするメンタリティは、日本人は特に強いかもしれないな。
仕事の成果よりも仕事に対する一途な生真面目さを貴しとするメンタリティがあったればこそ、かつて終身雇用が可能だった。

106:日本@名無史さん
18/01/21 00:48:45.08 .net
それでなくても「翔ぶが如く」の余談が脇道にそれて複雑になってきてんだから、このスレでさらに脇道にそらすのはやめていただけませんか?

107:日本@名無史さん
18/01/21 00:49:34.33 .net
余ノコトカ?

108:日本@名無史さん
18/01/21 01:12:47.21 .net
一途な正直さをもった人物は、小説にすれば美しいだけで、現実に身近にいたら迷惑なだけだぞ。
仕事の成果が上がらないのに給料を払わなければならない雇主の身にもなってみろ。
ブスや醜男に一途に慕われたら、たまったものではないぞ。

109:日本@名無史さん
18/01/21 01:18:37.01 .net
一途な生真面目さをもった人間は、実際には迷惑がられ避けられているんだろうな。
その申し訳に、小説・ドラマの中では尊しとされているような気がする。架空世界の正直者を褒め称えることで、心の平衡を保っている。
西郷隆盛も、そんな一人だな。リアル世界では、君たちだって大隈の冷酷さや川路の困惑でもって、正直者に対処しているはずだ。

110:日本@名無史さん
18/01/21 01:28:33.11 .net
▽菅実秀 〈すげ〉
文政13年(1830)- 明治36年(1903)
出羽庄内藩藩士。戊辰の敗戦処理に手腕を発揮して家老にすすむ。このとき西郷隆盛の厚遇で藩の危機がすくわれたことを知る。以後西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした。大泉藩権大参事、酒田県権参事を歴任。西南戦争後「南洲翁遺訓」を刊行〔赤沢源也編〕。明治36年(1903)2月17日死去。74歳。通称は善太右衛門。
URLリンク(www.gakushubunka.jp)

111:日本@名無史さん
18/01/21 01:31:43.37 .net
「南洲翁遺訓」に菅実秀が聴いた西郷の言葉が残されている。本文にいくつか引用されているから、それを読んでください。
なお、菅実秀の菅家は、菅原道真の九番目の子供の子孫である。家紋は梅。
URLリンク(img01.n-da.jp)

112:日本@名無史さん
18/01/21 01:41:45.05 .net
国が凌辱されるにおいては、たとえ国も人も斃れるといえども、正道を践み、義を尽くすのが、政府の本務である。
戦の一字を恐れ、政府の本務を貶めるようでは、政府は商法支配所であって政府ではない。
政府は正道を践み、国も人も斃れるだけの精神がなければ、外国との交際はうまくゆかない。外国から軽侮され、好親がかえって破れる。

113:日本@名無史さん
18/01/21 01:50:50.21 .net
たれが戦を好くものか ⇔ 国も人も斃れるとも戦の一字を恐れるな
長州藩を潰して奥州に移す ⇔ 長州藩の本領安堵のために奔走する
江戸を灰燼にして慶喜の首を刎ねる ⇔ 江戸城無血開城と慶喜は水戸退去

114:日本@名無史さん
18/01/21 01:53:09.12 .net
西郷における「戦」の矛盾は、その人格において統一されていた。
  ↑
意味がわからん。矛盾を矛盾のまま同一人格のなかで抱えているだけのように思えるがな。

115:日本@名無史さん
18/01/21 01:54:30.74 .net
女と喧嘩して殴った後に後悔してセックスしているみたいにしか思えない。

116:日本@名無史さん
18/01/21 02:21:15.93 .net
>>108
まあな。俺の理想の人格は御伽噺「舌切り雀」のお爺さんなんだが、そんな人はいないもんな。

117:日本@名無史さん
18/01/21 10:56:18.04 .net
>>104
心臓に持病のあった佐絵は源右衛門とまぐわった後に死ぬ。病死ということになるが、これを語ったのは団平である。
団平が佐絵を殺害した後に、服毒自殺したという線も残されている。
余トシテハ団平が佐絵を殺したというのが真相であってほしい。でないと、団平が浮かばれない。

118:日本@名無史さん
18/01/21 10:58:37.81 .net
>>116
雀のお宿でお爺さんが大きな葛籠を選んでいても、中身は金銀財宝だったような気がする。
反対に、お婆さんに出された葛籠は、大小ともに妖怪変化が仕込まれていた。

119:日本@名無史さん
18/01/21 10:59:38.74 .net
>>117
こういう人こそ、現実世界では一途な正直者とのかかわりを回避している。

120:日本@名無史さん
18/01/21 11:19:49.35 .net
>>104
「翔ぶが如く」の西郷隆盛が団平にそっくりという点は同感。もっとも西郷は物語のなかで恋愛はしていないが。
司馬さんはインタビューで、生まれ変わって再び作家になったら、恋愛小説を書きたいと言っておられた。
「和州長者」は屈折してはいるが司馬遼太郎唯一の恋愛小説なんだわな。

121:日本@名無史さん
18/01/21 11:35:16.76 .net
西郷は「岩倉が帰国してから熟議」という付帯事項を〔>>70〕、遣韓大使派遣の「方法」に関する熟議であると解釈していた。

122:日本@名無史さん
18/01/21 11:38:21.27 .net
三条実美には、三条の誠実を守るための政治勢力がなかった。
征韓派にも反征韓派にも会釈せざるを得なかった。

123:翔ぶが如く
18/01/21 11:51:08.61 .net
第8章 好転
〔二〕西郷従道
「兄は、第二の幕府を作る野心を秘めているのではないか」
という疑念が、西郷従道にあった。
人間というのはひとたび国権主義の立場に立てばときに人格が変質し、おそるべき憂国家に化る場合がある。草木が風にゆれるのを見ても国家滅亡の前兆を予感したり、あるいは民衆の惰弱な風俗が憤ろしくなり、思想家を狐疑し、それに悪を感じ、森羅万象の動きがことごとく「国家の前途に害をもたらすのではないか」というふしぎな衝動を感ずるようになる。
西郷従動は、山県有朋の感化によってその種の「狐疑」をもった。

124:日本@名無史さん
18/01/21 12:08:59.83 .net
▽西郷の弟妹
長女琴 (妹/1832-1913) … 栗本有規(子役)→桜庭ななみ
URLリンク(i.ytimg.com)
次男吉二郎 (弟/1833-1868) … 荒井雄斗(子役)→渡部豪太
URLリンク(pbs.twimg.com)
次女鷹 (妹/1837-1862) … 石井心咲(子役)→渡来るひか(子役)→原舞歌
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

125:日本@名無史さん
18/01/21 12:14:42.54 .net
三女安 (妹/1839-?) … 大塚心結(子役)→佐藤心美(子役)→萱野優
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
三男従道 (弟/1843-1902) … 斎藤汰鷹(子役)→佐藤和太(子役)→錦戸亮
URLリンク(s3-ap-northeast-1.amazonaws.com)
四男小兵衛 (弟/1847-1877) … 小山蒼海(子役)→齋藤絢永(子役)

126:日本@名無史さん
18/01/21 12:25:50.67 .net
▽西郷吉二郎
天保4年(1833年) - 慶応4年(1868年)8月14日
戊辰戦争では番兵2番隊監軍となり、越後に出兵する。8月14日、越後国五十嵐川付近(現在の新潟県三条市)での戦傷がもとで戦死した。享年36。

127:日本@名無史さん
18/01/21 12:30:48.44 .net
吉二郎の最初の妻はマス。有馬九之丞の娘。慶応元年10月16日死去。
ドラマ「田原坂」で病床にあるところを義兄の隆盛が見舞うシーンがあった。役者は尾崎弥枝。
※尾崎弥枝でないかもしれないがタイプなので貼っておく
URLリンク(www.tv-asahi.co.jp)

128:日本@名無史さん
18/01/21 12:35:18.79 .net
吉二郎の後妻は、仁礼平蔵の妹の園。ドラマ「田原坂」では、上村香子。
※先妻も後妻もワシのタイプじゃ。ワシは吉二郎になりたい。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

129:日本@名無史さん
18/01/21 12:42:38.90 .net
「田原坂」で吉二郎を演じていた平田満は、「西郷どん」では大久保利通の父。喜界島へ遠島処分。
大久保次右衛門は諱で表すと、大久保利世。
なお、次右衛門は安政元年(1854年)7月には罪を許され、翌安政2年(1855年)2月に鹿児島に戻っている。
文久3年(1863年)、70歳で没した。

130:日本@名無史さん
18/01/21 12:52:01.19 .net
▽西郷氏
「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。
肥前西郷氏は菊池氏の一族とされ、その菊池氏は藤原北家の藤原隆家流を称した。薩摩藩の西郷氏は肥後西郷氏の流れで、肥前西郷氏と同族。室町初期に惣領家の菊池氏が没落すると、薩摩国に移住した。島津家が九州をほぼ制圧した折に臣従した。

131:日本@名無史さん
18/01/21 12:58:19.68 .net
▽郡方書役助(郡方書記)
西郷が郡方書役助の卑役に就いたのは、弘化元年(1844年)。

132:日本@名無史さん
18/01/21 13:09:41.44 .net
《19世紀の元号》
享和:1801年……寛政11年=享和元年
文化:1804年……享和4年=文化元年
文政:1818年……文化15年=文政元年
天保:1830年……文政13年=天保元年
弘化:1844年……天保15年=弘化元年
嘉永:1848年……弘化5年=嘉永元年
安政:1854年……嘉永7年=安政元年
万延:1860年……安政7年=万延元年
文久:1861年……万延2年=文久元年
元治:1864年……文久4年=元治元年
慶応:1865年……元治2年=慶応元年
明治:1868年……慶応4年=明治元年

133:日本@名無史さん
18/01/21 13:36:47.43 .net
▽西郷従道
天保14年(1843年) - 明治35年(1902年)
明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し、軍制を調査する。明治3年(1870年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。明治4年(1871年)7月、陸軍少将となる。
岩倉遣欧使節の蔭にかくれているが、廃藩置県→徴兵令の流れを考慮するとき、山県有朋・西郷従道の渡欧は重要である。
URLリンク(db.nichibun.ac.jp)
URLリンク(kotobank.jp)

134:日本@名無史さん
18/01/21 13:44:07.10 .net
上野の西郷隆盛の銅像の除幕式でおなじみの西郷桜子。公爵岩倉具張の妻。
URLリンク(pds.exblog.jp)
※西郷桜子 (従道の娘/1886-1985) … 西郷真悠子。女優の西郷真悠子は、従道のマジ子孫。
URLリンク(nitopon.com)

135:日本@名無史さん
18/01/21 13:46:08.20 .net
わしは桜子よりも妹の不二子の方がかわいいと思う。古河虎之助男爵夫人。
URLリンク(pds.exblog.jp)

136:日本@名無史さん
18/01/21 17:23:36.35 .net
▽明治2年夏
山県と従道がフランスに到着したときは、プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)の3年後、普仏戦争のちょうど1年前である。
普仏戦争については、前スレ〔595-603〕に書いてある。大山巌が観戦武官としてフランスにいた。

137:日本@名無史さん
18/01/21 17:34:00.35 .net
▽明治3年初夏
山県と従道が欧州を去る。セダンの戦いの敗北によってナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になるのは、明治3年9月2日であるから、二人がこのニュースに接するのは、帰国後である。
パリ・コミューンが起きたのは、明治4年3月26日であるから、西郷隆盛が薩長土三州の御親兵を率いて東京に入った2月13日より後になる。廃藩置県は、同年7月14日である。

138:日本@名無史さん
18/01/21 17:44:59.15 .net
司馬さんは、ナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になった翌日にパリ・コミューンが起きたように書かれているが、世界史の答案用紙にこんなことを書くと誤答になります。
フランス立法院は、ナポレオン三世が捕虜になった翌々日の1870年9月4日に、レオン・ガンベタは市庁舎のバルコニーに立って共和国宣言を発しますが、これをもってパリ・コミューンとは言いません。まだ普仏戦争のパリ攻囲戦は終了していません。

139:日本@名無史さん
18/01/21 17:49:04.58 .net
パリ・コミューンというのは、プロイセン軍がパリに入城した1871年(明治4年)に起こります。
3月18日、臨時政府側が国民軍の武装解除に当たろうとしたことに激高したパリ市民が蜂起しました。臨時政府のティエールはパリを放棄しヴェルサイユに逃走し、パリは革命派の市民が権力を握りました。これがパリ・コミューンです。
世界史の答案用紙には、このように書いてください。

140:日本@名無史さん
18/01/21 17:52:16.81 .net
ナポレオン三世が捕虜になった翌日、パリでは民衆の要求で共和政治が宣言された。いわゆるパリ・コンミューンの成立である。
   ↑
このような選択肢には、×をつけなければなりません。

141:日本@名無史さん
18/01/21 21:43:53.42 .net
▽山県有朋
天保9年(1838年) - 大正11年(1922年)
明治2年6月に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌年アメリカ経由で帰国。その後は大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行し徴兵制を取り入れた。
明治4年、兵制統一の必要性から廃藩置県の必要性を提議し、有力者間の根回しを行った。
明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年4月に陸軍大輔を辞任。しかし山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿で復職した。
URLリンク(pds.exblog.jp)

142:日本@名無史さん
18/01/21 21:48:46.70 .net
「攘夷どころではない。王政そのものがあぶない」
と、山県有朋は滞欧中、何度も気が狂ったかとおもわれるような目つきで混乱し、憂憤した。当然、西郷従道も山県と一体感をもった。

143:日本@名無史さん
18/01/21 21:58:42.39 .net
▽ジョージ・ワシントン 〈1732年 - 1799年〉
ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。
1775年、大陸会議において独立軍総司令官に任命され独立戦争を指導し、1783年までの戦いで独立を達成した。その後、1787年には憲法制定会議議長となり、憲法の規定に従って選挙が行われた結果、1789年、初代アメリカ合衆国大統領に就任した。
西郷隆盛はナポレオンとワシントンを尊敬していた。
URLリンク(www.compassdatacenters.com)

144:日本@名無史さん
18/01/21 22:02:09.58 .net
▽ロシアの南下政策
ニコライ1世は、バルカン半島・黒海方面から地中海へ進出することによってヨーロッパ列強に互していくことを目指したが、他の列強との東方問題といわれる利害の対立をもたらした。
クリミア戦争では英仏などに敗れて、バルカン半島と黒海方面での南下政策は一時頓挫し、1860年代には、その鉾先は中央アジア方面への進出と東アジアへの進出に向いていった。

145:日本@名無史さん
18/01/21 22:03:55.53 .net
再び南下政策を強めたアレクサンドル2世は、オスマン帝国との間で露土戦争を起こして勝利した。しかし、イギリス・オーストリアなどの反対を受け、ドイツのビスマルクの調停の結果、その獲得地を放棄せざるを得ず、南下政策を一端後退させた。
その間、国内の矛盾が強まって革命運動が激化し、アレクサンドル2世自身がテロで倒されてしまった。

146:日本@名無史さん
18/01/21 22:06:03.50 .net
露土戦争後のベルリン会議 (1878) でバルカン半島方面での南下政策をいったん収めることとなったロシアは、再び方向を変えて東アジアでの勢力拡大に転じた。
すでにウラジヴォストーク港を拠点に日本海方面、さらに満州から朝鮮半島への侵出の動きを示していたが、さらに東方進出の動脈として1891年にシベリア鉄道の建設を開始した。

147:日本@名無史さん
18/01/21 22:17:34.40 .net
「日本は早晩、朝鮮をもふくめ、ロシアの南下政策に併呑されてしまい、アメリカがかつてイギリスを本国としたように、ロシアをもって本国とせざるをえなくなるかもしれない」というのが、西郷の巨視的危機感であった。

148:日本@名無史さん
18/01/22 18:19:19.07 .net
焼肉屋に来た。フランス人の彼には、朝鮮人の店員の言葉が理解しにくかった。
自分の名前を訊かれたのかと思ってしまった。
「タレーラン」
「えっ?本当によろしいのですか?」

149:日本@名無史さん
18/01/22 18:25:40.50 .net
▽タレーラン 〈1754年 - 1838年〉
片足に障害を持っていたため、父の職責であった連隊長の後を継ぐことができず、父の指示で聖職者の道に進んだ。
1789年に三部会の第一身分(聖職者)議員に選出され、自身が司教でありながら教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進した。なお、万国共通の単位の制定〈後のメートル法〉を国民議会に提案したのも彼であると言われている。
URLリンク(cdn.amanaimages.com)

150:日本@名無史さん
18/01/22 18:28:05.10 .net
1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるが、フランスでジャコバン派による恐怖政治が吹き荒れたのでそのまま亡命し、アメリカ合衆国に渡った。
1796年にフランスに帰国し、当時愛人だったスタール夫人の推薦により総裁政府の外務大臣となるが、1799年に辞任する。
ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日のクーデターの陰謀に参加し、成立した統領政府で再び外務大臣となり、ナポレオンから高い評価を得る。

151:日本@名無史さん
18/01/22 18:30:29.52 .net
1814年にナポレオンが失脚すると、連合国に請われて臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後(復古王政期のブルボン朝のフランス国王)は再びフランスの外務大臣となり、ウィーン会議に出席した。
この会議では、正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。
1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となったが、過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚した。

152:日本@名無史さん
18/01/22 18:32:00.87 .net
1830年の7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤めた。1838年、肺壊疽により死亡。自らの居城だったヴァランセ城近郊にあるノートルダム礼拝堂に埋葬された。
「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高い。
この章では、タレーランと山県有朋の共通点が語られている。

153:日本@名無史さん
18/01/22 18:38:31.83 .net
▽山城屋和助
天保7年(1836年) - 明治5年。
本名は野村三千三。道蔵とも。周防国玖珂郡山代荘本郷村に、医師野村信高右の四男として生まれる。山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦し、越後口では御陵衛士残党の篠原泰之進や高鍋藩兵と共に戦った。
URLリンク(indoor-mama.cocolog-nifty.com)

154:日本@名無史さん
18/01/22 18:42:39.64 .net
明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政にたずさわるようになった山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜の南仲通り3丁目に店舗を構えた。
山城屋は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出す。しかし、普仏戦争勃発の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗する。

155:日本@名無史さん
18/01/22 18:43:49.27 .net
山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡った。ところが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話など商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使鮫島尚信が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した(山城屋事件)。

156:日本@名無史さん
18/01/22 18:45:50.73 .net
山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋には借りた公金を返済する能力が無いことが明らかになった。山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。
窮地に立たされた山城屋は、明治5年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。

157:日本@名無史さん
18/01/22 19:16:32.36 .net
▽保安条例
明治20年に制定、発布され、即日施行された勅令である。自由民権運動を弾圧するための法律である。
内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。
これにより退去を命じられた者は、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、中島信行らがいる。

158:日本@名無史さん
18/01/22 19:19:56.81 .net
第一次伊藤博文内閣の井上馨外相の下で進められた条約改正交渉は、外国人犯罪裁判に外国人裁判官を採用するなどの条件で明治20年にいちおうの妥結をみた。しかしこれは日本の法権を侵害する屈辱的なものであるとして、自由民権派の政府攻撃が高まった。
倒閣運動へと激化するのを恐れた山県有朋内相、三島通庸警視総監の下で、同年12月25日突如公布、即日施行されたのが本法である。

159:日本@名無史さん
18/01/22 19:25:33.61 .net
▽大村益次郎
廃藩置県の断行を目論む明治政府は独自の武力を必要としたが、国民皆兵・徴兵制の早期実施を目指し藩兵に依拠しない政府直属軍の創設を主張する大村益次郎・木戸孝允と、武士身分に固執する薩摩士族が鋭く対立した。大久保利通が士族擁護に傾き明治4年薩長土三藩供出の士族兵による御親兵が創設された。

160:日本@名無史さん
18/01/22 19:29:37.52 .net
西洋兵学の大家である大村益次郎は、諸藩兵の廃止と鎮台兵の設置、徴兵制の導入、兵学校による職業軍人の育成、兵器工場の建設といった近代的軍事国家へのプランを明確に描いていた。
兵制論争に敗れた大村益次郎は辞表を出したが、木戸孝允に慰留され軍政のトップ(兵部大輔)に就き、愛弟子の山田顕義(兵部大丞)と共に、軍事施設の設置、火薬工場や造兵廠の建設などを着々と進めたが、急激な兵制改革に反発する長州士族に襲われ横死した(明治2年11月5日)。

161:日本@名無史さん
18/01/22 19:31:41.33 .net
大村益次郎没後の明治6年、山縣有朋が薩摩の西郷従道を引込み、西郷隆盛を動かして徴兵制を実現した。維新の原動力であるうえ士族の数が多い薩摩が頑強に抵抗したが、徴兵令を支持する西郷隆盛が、島津久光・桐野利秋・前原一誠ら反対派を抑えた。
しかし、士族の特権剥奪は不平士族反乱の原因となり、西郷隆盛も西南戦争を起すはめになった。

162:日本@名無史さん
18/01/22 19:34:28.49 .net
この後、兵部大輔の前原一誠は黒田清隆と衝突して辞め萩の乱を起し戦死、大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義は軍を追われ政治家に転進、唯一の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争で落命した。
運よく軍のトップに立った山縣有朋は、大日本帝国憲法に統帥権を挿入して政府の干渉を受けない「天皇の軍隊」を構築し、陸軍を牛耳った。陸軍長州閥は児玉源太郎・桂太郎・寺内正毅・田中義一へと受継がれた。

163:日本@名無史さん
18/01/22 19:40:23.52 .net
▽内務卿
征韓論がきっかけとなった明治六年政変を機に、大久保利通が主導して太政官の下にプロシア風の内務省を新設し、自ら内務卿となった。内閣制度が成立するまでは、内務卿が実質的な首相であった。
山県有朋が内務卿に就任するのは、明治16年である。内閣制度の成立後も、山県は引き続き明治23年まで内務大臣を務めた。

164:日本@名無史さん
18/01/22 19:49:57.18 .net
URLリンク(www.youtube.com)      
URLリンク(www.youtube.com)       
URLリンク(www.youtube.com)         

165:日本@名無史さん
18/01/22 20:33:46.46 .net
山県有朋の>>142の問題意識から発して、脱線しております。
西郷従道そっちのけで、山県の話が続いております。

166:日本@名無史さん
18/01/22 21:13:20.00 .net
▽華族
山県が内務卿になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。
筆者註:この叙述に対して評論を加えるべきか否か、いままで悩んでいた。スルーしようかとも思ったが、受験シーズンなのでやはり物申す。
デタラメです。

167:日本@名無史さん
18/01/22 21:18:15.39 .net
明治2年6月17日、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。
明治17年7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。

168:日本@名無史さん
18/01/22 21:21:11.05 .net
しかも、華族令の制定の中心人物は伊藤博文であって、山県有朋ではない。

169:日本@名無史さん
18/01/22 21:22:19.85 .net
司馬史観においては、山県有朋は明治史のゴミ箱なので、仕方ないです。

170:日本@名無史さん
18/01/22 21:24:25.52 .net
自分も小学生のときに歴史の本で山県有朋の写真を見た瞬間、山県有朋が嫌いになりました。
あの顔は他人から嫌われる顔なんです。仕方ありません。

171:日本@名無史さん
18/01/22 21:57:10.89 .net
>>62
自ら地名姓を名乗るのではなくて、他人が本姓で呼ぶことを遠慮して地名姓を使う。

172:171
18/01/22 21:58:31.22 .net
すまん。誤爆してもうた。

173:日本@名無史さん
18/01/22 22:34:00.46 .net
平安のむかしから貴族は「皇室の藩屏」だろう。何を言っているのか、さっぱりわからん。

174:日本@名無史さん
18/01/22 22:35:28.81 .net
「一君万民」の平等思想は、平田国学と頼山陽の『日本外史』の思想だよ。
明治維新を惹起した基礎となる思想だよ。

175:日本@名無史さん
18/01/22 22:39:05.26 .net
大久保も将来は民権主義を育てるつもりだった。
川路のポリス思想は住民サービスを重視していた。
司馬さんによると、両者ともに山県によって否定されたようです。

176:日本@名無史さん
18/01/22 22:40:20.76 .net
顔って大事だよね。山県の場合、何をやっても嫌われる。

177:日本@名無史さん
18/01/23 15:44:36.05 .net
《フランス革命》
1789年6月9日:テニスコートの誓い(第三身分は三部会を見切り、国民議会を発足させる)
1789年7月14日:バスティーユ牢獄を襲撃
1789年8月26日:フランス人権宣言を採択(国民議会)
1791年6月20日:ルイ16世一家はパリを脱出する(ヴァレンヌ事件)
1791年9月3日:1791年憲法を制定

178:日本@名無史さん
18/01/23 15:52:53.84 .net
1791年10月1日:立法議会(1792年9月5日まで)
  立憲君主制を守ろうとするフイヤン派 vs 共和制を主張するジロンド派
1792年4月:革命政府はオーストリアに対して宣戦布告
1792年9月21日:国民公会(1795年10月26日まで)は、王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言
1793年1月21日:ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑された。

179:日本@名無史さん
18/01/23 15:59:50.49 .net
1793年6月2日:下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放し、ロベスピエールが権力を掌握した。
  恐怖政治:エベール派とダントン派を粛清
1794年7月27日:テルミドールのクーデター
  翌28日、ロベスピエールら22人はギロチンで処刑された。過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。
1795年10月26日:国民公会が解散されて総裁政府が成立した(テルミドール派)。

180:日本@名無史さん
18/01/23 16:07:55.71 .net
>>179
>1795年10月26日:国民公会が解散されて総裁政府が成立した(テルミドール派)。
テルミドール派は国民公会を足場に政権を樹立した。国民公会が解散されて総裁政府が成立したということは、テルミドール派が失脚したということだよ。
総裁政府の中心人物は、ポール・バラス。

181:日本@名無史さん
18/01/23 16:16:13.63 .net
1799年11月9日:ブリュメール18日のクーデター
  ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデター。ナポレオンは統領政府を樹立、自ら第一統領となった。
  革命は1794年のテルミドール9日のクーデターによって実質的に終わっており、惰性で続いていた第一共和政が終焉した。
1804年:ナポレオン1世が皇帝に即位(第一帝政)。
1814年:ナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ退位。戦後処理のためにウィーン会議。
1815年:エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかしワーテルローの戦いで完敗。再び退位(百日天下)。

182:日本@名無史さん
18/01/23 16:18:57.64 .net
フランス復古王政(1814年 - 1830年)
  ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。
  1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位。

183:日本@名無史さん
18/01/23 16:21:52.73 .net
七月王政(1830年 - 1848年)
  1830年7月、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王となった。
第二共和政
  1848年の二月革命から1852年のナポレオン3世皇帝即位まで

184:日本@名無史さん
18/01/23 16:31:01.11 .net
第二帝政
  1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる。
  その後ルイ=ナポレオンは議会との対立を深め、1852年12月に国民投票により皇帝に即位する。
  1870年にプロイセンに宣戦したが(普仏戦争)、セダンの戦いで惨敗し、自らがプロイセン軍に捕えられ退位へと追い込まれた。
第三共和政
  皇帝不在となったフランスでは第三共和政が誕生する一方、パリでは一時、史上初の労働者による政権パリ・コミューンが樹立された(1871年3月26日)。

185:日本@名無史さん
18/01/23 16:31:53.20 .net
中間試験の勉強をここでするのはよしてください。

186:日本@名無史さん
18/01/23 17:17:42.84 .net
>>175
司馬さんは、山県を「僧院の陰謀家のように陰鬱で無口」と言っている。
司馬さんの頭の中では、山県とタレーランのキャラが完璧に被っているんだよな。

187:日本@名無史さん
18/01/23 17:40:37.49 .net
《フランス革命》まとめ
フランス革命:1789年 - 1792年 国民議会(1789-91)→立法議会(1791-92)
第一共和政:1792年 - 1804年
  国民公会:ジャコバン派(1792-94)→テルミドール派(1794-95)
  総裁政府:バラス政権(1795-99)
  統領政府:ブリュメール18日のクーデター(1799-1804)

188:日本@名無史さん
18/01/23 17:47:53.90 .net
第一帝政:1804年−1815年
復古王政:1814年−1830年 ルイ18世→シャルル10世
七月王政:1830年−1848年 ルイ・フィリップ
第二共和政:1848年−1852年 大統領ルイ・ナポレオン
第二帝政:1852年−1870年 ナポレオン3世
第三共和政:1870年−1940年

189:日本@名無史さん
18/01/23 18:13:14.50 .net
▽ニコライ二世の戴冠式
明治29年5月14日、モスクワのクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で戴冠式を行なった。日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。
URLリンク(www.saint-petersburg.com)
URLリンク(cdn.ruvr.ru)

190:日本@名無史さん
18/01/23 18:17:00.04 .net
山県は帰国後、日本の皇室の権威的装飾を荘厳なものに改造した。
ここでも山県は、司馬さんに「愚かな男」と言われています。

191:日本@名無史さん
18/01/23 18:29:48.88 .net
▽大日本帝国憲法
明治22年の紀元節(2月11日)に公布された。紀元節は、日本の初代天皇である神武天皇の即位日である。このとき明治天皇38歳。
施行は翌年11月29日。明治憲法の施行により、天皇はミカドから立憲君主へと変身した。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

192:日本@名無史さん
18/01/23 18:35:10.46 .net
本文に紹介されたセオドア・ルーズベルトの認識でわかるとおり、世界は明治憲法を議会主義と三権分立を規定した民主主義・自由主義の憲法とみていた。少なくとも天皇専制の政体とは思っていなかった。

193:日本@名無史さん
18/01/23 18:38:38.09 .net
▽軍人勅諭
明治15年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。西周が起草し、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正された。
当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草された。
明治11年10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。

194:日本@名無史さん
18/01/23 18:47:31.09 .net
▽統帥権の独立
「夫兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ、其大綱は朕親之を攬り、肯て臣下に委ぬべきものにあらず」
山県有朋の意図は軍部の暴走を軍人勅諭によって抑制することにあったのだが、皮肉なことに軍部の暴走の法的根拠になってしまった。
しかし、司馬さんは、「明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった」と書かれている。

195:日本@名無史さん
18/01/23 18:48:44.74 .net
司馬さん、どんだけ山県きらいなん((*´∀`))?

196:日本@名無史さん
18/01/23 18:56:47.92 .net
日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇をツァーリのごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。
山県をしてそれほどの重国家をつくらしめたのは、明治二年、彼がパリで実見したコンミューンの戦慄的な動きであった。

197:日本@名無史さん
18/01/23 19:06:26.74 .net
くどいけど、パリ・コンミューンは、明治4年3月18日だから〔>>139〕、山県は「実見」していない。
普仏戦争すら、まだ始まっていない。ナポレオン三世はピンピンしとるわい。

198:日本@名無史さん
18/01/23 19:48:54.93 .net
やっと山県の話が終わった。ここから西郷従道の話です。

199:日本@名無史さん
18/01/23 19:51:00.78 .net
▽明治二年
従道は26歳。山県は31歳。

200:日本@名無史さん
18/01/23 19:58:18.66 .net
▽海軍大臣
歴代海軍大臣は次のとおり。
西郷従道:明治18年 - 明治23年
樺山資紀:明治23年 - 明治25年
仁礼景範:明治25年 - 明治26年
西郷従道:明治26年 - 明治31年   ←日清戦争
山本権兵衛:明治31年 - 明治39年 ←日露戦争

201:日本@名無史さん
18/01/23 20:04:41.25 .net
▽国権主義
民権論が人民の権利や自由が保障されて初めて国家の権力が強化・伸張されるとしたのに対して、国権論は国家の権力が強化されてこそ人民の権利や自由が保たれると主張するものである。
しかし、国権論と民権論は必ずしも図式的に明分した形で展開されたわけではなかった。

202:日本@名無史さん
18/01/23 20:09:57.53 .net
▽狐疑深き慎吾
西郷隆盛は、第二の幕府を作る野心を秘めているのではないかという疑念。
従道だけが狐疑していたのではなく、この時代の非薩摩人のほとんどが濃淡の差はあれ、そのように思っていた。

203:日本@名無史さん
18/01/23 20:15:13.79 .net
▽坂元盛秋
西郷隆盛を研究しておられる東京在住の英文学者。
司馬さんに「薩摩人のなかでさえ、いまでも西郷を嫌っている人があります」という手紙を送った人。
URLリンク(images-na.ssl-images-amazon.com)

204:日本@名無史さん
18/01/23 20:23:35.34 .net
久光が西郷をいかに西郷を憎んだかということは、幕末のある時期、西郷の遠島を解除せざるをえない状況になったとき、たまたま咥えていた煙管を噛み、その銀の部分に歯形が立ったといわれているほどである。
「(;´Д⊂) 痛…。昨夜より虫歯が痛むのを忘れておったわ」

205:日本@名無史さん
18/01/23 20:46:48.43 .net
▽高崎正風
天保7年(1836年)- 明治45年(1912年)
鹿児島近在川上村(鹿児島市川上町)出身。通称は左太郎。
嘉永2年(1849年)、お由羅騒動(高崎崩れ)によって父五郎右衛門が切腹し〔>>44〕、翌3年(1850年)に正風も連座して奄美大島に流刑となった。

206:日本@名無史さん
18/01/23 20:47:24.50 .net
嘉永5年(1852年)に赦免され、幕末の京都で活動し、公武合体派の島津久光の意を受けて、会津藩公用方秋月悌次郎に密かに接触し、京都から長州藩の追い落としを図って、文久3年(1863年)8月18日これを成功させる(禁門の政変)。
その功により京都留守居役に任命されるが、武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立し、維新後は不遇をかこった。
本章で高崎左太郎は久光派と紹介されているが、これが原因だと思われる。芯からの公武合体派だった。

207:日本@名無史さん
18/01/23 20:48:35.23 .net
明治4年に新政府に出仕。翌5年に左院視察団の一員に任じられ、2年近く欧米諸国を視察。
明治8年に宮中の侍従番長、翌9年から御歌掛などを務め、同年に侍補となり、明治11年から翌12年にかけて元田永孚・佐々木高行・土方久元・吉井友実らと天皇親政運動を展開したが〔>>73-74〕、明治12年に政府に侍補を廃止され失敗した。

208:日本@名無史さん
18/01/23 20:48:56.69 .net
明治19年に二条派家元三条西季知が死去した後を受け、御歌係長に任命される。さらに明治21年には御歌所初代所長に任命された。
明治23年、皇典講究所所長山田顕義の懇請により、初代國學院院長(明治26年まで)。明治28年、枢密顧問官を兼ねた。
明治45年2月28日死去。享年75。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
※日テレ「白虎隊」では加納竜。禁門の政変の場面で登場した。しかし「エロスの海」とは……。
URLリンク(up.gc-img.net)

209:日本@名無史さん
18/01/23 20:57:25.58 .net
わざわざ「エロスの海」を貼らなくても、「愛と誠」があるがな。
URLリンク(s-media-cache-ak0.pinimg.com)
URLリンク(i.ytimg.com)
URLリンク(art43.photozou.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)

210:日本@名無史さん
18/01/23 21:04:16.49 .net
▽奈良原繁
通称喜八郎については、前スレ〔216-218〕に書いた。寺田屋事件では鎮撫使の一人として活躍した。
禁門の政変では、高崎正風らと暗躍し、京から長州藩追放に成功している。
西郷隆盛らの討幕路線に反対していたため、戊辰戦争より帰国した下級藩士たちにより、藩政から退けられる。
公武合体派=久光派である。

211:日本@名無史さん
18/01/23 21:08:27.23 .net
生麦事件でリチャードソンに最初の一撃をあびせたのは喜八郎の兄の奈良原喜左衛門なのかね、やっぱり。
介錯のつもりでリチャードソンにとどめをさしたのが海江田信義であったことからすると、喜八郎のような気もするが。

212:日本@名無史さん
18/01/23 21:28:29.28 .net
▽海江田信義
天保3年(1832年)- 明治39年。幕末期は有村俊斎の名で活躍する。
嘉永2年(1849年)、お由羅騒動に巻き込まれた有村父子は、一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰する。
※池田優斗 URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
※高橋光臣URLリンク(stat.ameba.jp)

213:日本@名無史さん
18/01/23 21:28:56.98 .net
文久元年(1861年)12月、安政の大獄で捕縛され獄死した日下部伊三治の次女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田武次信義と改名する。海江田は日下部の旧姓である。
日下部家の後を継ぐ予定の弟有村次左衛門(桜田門外の変で自刃)の死後、その義理で日下部家を継ぐことになった。

214:日本@名無史さん
18/01/23 21:29:13.38 .net
文久2年(1862年)、島津久光に従って上洛したが、その道中で知った西郷の京都での動静を久光に伝えて激怒させてしまい、心ならずも西郷の再遠島の原因を作った。
寺田屋事件では奈良原繁とともに、事前に有馬新七ら藩士の説得を命じられるが失敗した。鎮撫使には加わっていない。

215:日本@名無史さん
18/01/23 21:29:32.13 .net
大村益次郎殺害犯の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣された海江田は、直前で刑の執行を差し止めたため、政府の取調べを受け謹慎処分となった。
明治3年8月、大久保の尽力により官職に復帰し、奈良県知事に任命されるが、明治4年の廃藩置県で解任される。

216:日本@名無史さん
18/01/23 21:29:45.77 .net
薩摩に帰り隠遁するつもりであったが、島津久光の目にとまり、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となる。このことが評価されて、明治5年、左院四等議官として再度官途につく。
明治6年、勅使とともに鹿児島へ下り、久光を説いて上京せしめる。
明治23年には貴族院議員、明治24年には枢密顧問官となり、明治39年に75歳で死去。

217:日本@名無史さん
18/01/23 21:35:39.20 .net
海江田信義のエピソードでは、大村益次郎との対立と、その暗殺事件への関与が最大のものだが、これは『花神』で詳しくやる。
それを抜きにしても、これだけネタ満載の男も珍しい。肝心なことは何もしていないが、事件の周辺でいつもチョロチョロしている稀有なキャラクター。

218:日本@名無史さん
18/01/23 21:36:14.41 .net
しかも、禿なのに、もう岩山糸に手を出している。
URLリンク(pbs.twimg.com)

219:翔ぶが如く
18/01/23 22:03:49.87 .net
第8章 好転 
〔三〕廃藩置県
「御親兵を東京に置くからには毛利氏が叛けば毛利氏を討ち、島津氏が叛けば島津氏を討つ底のものでなければなりませぬ」
西郷は応諾し、明治四年三月、四個大隊の兵を率いて海路東京に入ったのである。このとき天下の不平士族はよろこび、
(西郷が何かやるのではないか)
と、期待した。
「薩摩が大兵をひきいて上洛する」ということが、天下の希望と期待を集中したことが二度あった。ひとつは安政五年に島津斉彬が幕政を匡すべく兵三千を率いて上洛しようとしたことであり、次いで島津久光が文久二年にそれを実現したことである。

220:日本@名無史さん
18/01/23 22:13:21.22 .net
この小説を新聞連載で読んでいたら、本筋である明治6年の征韓論論争が今どのあたりまで進行していたか、忘れてしまうね。

221:日本@名無史さん
18/01/23 22:54:33.34 .net
>>211
喜左衛門と喜八郎は、小説に出てきても、どっちがどっちだったか分からなくなることがあるね。
どっちが「繁」だったかも、思い出せないことがある。

222:日本@名無史さん
18/01/23 23:10:05.05 .net
▽大村益次郎
一人の男が居る。
歴史が彼を必要とした時忽然として現れ、その役目を終えると大急ぎで去った。
もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は津々浦々の枯れ木にその花を咲かせて回ることであった。中国では花咲爺のことを花神という。彼は花神の役目を背負ったのかも知れない。
彼、村田蔵六。後の大村益次郎である。

223:日本@名無史さん
18/01/23 23:12:36.71 .net
「あなたは戦を知らない」
「冬は寒いのが当たり前です」

224:日本@名無史さん
18/01/23 23:22:57.05 .net
▽「いずれ九州から足利尊氏のごとき者が興ってくる」
大村は西郷を先天的な謀叛人とみていた。
「四斤山砲をたくさん造って大坂に置いておけ」

225:日本@名無史さん
18/01/23 23:23:23.65 .net
▽四斤山砲
1859年にフランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲である。「四斤」とは、砲弾重量が4kgであることを意味する。日本でも幕末から明治初期にかけて主力野戦砲として使用された。
URLリンク(sak2-2.tok2.com)

226:日本@名無史さん
18/01/24 00:50:48.07 .net
▽足利尊氏 〈1305年 - 1358年〉
尊氏が九州で再起した理由を探求すれば様々な論点が出てくるが、本編とのかかわりが薄いので割愛する。
肖像の話題だけ。〔画像1〕が高師直ではないかという話は、自分は40年以上前に聞いた。
試みに高校時代に使っていた教科書と参考書を紐解いてみたら、尊氏の肖像は載せられていなかった。
現在は〔画像2〕が有力なようだ。
〔画像1〕URLリンク(www12.plala.or.jp)
〔画像2〕URLリンク(www.asahicom.jp)

227:日本@名無史さん
18/01/24 01:07:19.81 .net
▽山田顕義
天保15年(1844年)- 明治25年
長州藩士で藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。吉田松陰門下のひとり。
幕府の長州征討では高杉晋作の下で「丙寅丸」の砲隊長として幕艦を撃破、戊辰戦争では東征大総督参謀として、越後・東北・箱館と奮戦し、小ナポレオンと称されるほどの用兵家として知られた。
明治2年、兵部大輔大村益次郎の下で兵部大丞を務め、大村の死後は遺志を継承して兵制確立に力を注いだ〔>>160〕。

228:日本@名無史さん
18/01/24 01:09:32.10 .net
明治4年に陸軍少将となり、岩倉遣欧使節団の一員としてヨーロッパを視察する。帰国後佐賀の乱が勃発し、その鎮圧に当たった。同じ長州出身の山県有朋とは相容れず、山県の進める徴兵制に反対し、下士官養成を先にすべきという漸進論を主張する。
明治7年の台湾出兵の閣議決定にも反対を唱えた。

229:日本@名無史さん
18/01/24 01:20:33.94 .net
西南戦争の際は、別働第2旅団司令長官として活躍。11年陸軍中将に進んだ。しかし、その後、軍を追われ政治家に転進する〔>>162〕。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
民法はフランス人ボアソナード、商法はドイツ人レースラーの原案起草を得てともに明治23年の公布にこぎつけた。しかし、フランスに範をとる民法が日本の国情に合わないとの議論がやがて起こり (法典論争)、結局両法とも施行されなかった。

230:日本@名無史さん
18/01/24 01:20:47.26 .net
また、山田顕義は日本法律学校(現日本大学)の前身となる國學院を創設した。
國學院の初代院長が高崎正風であることは、前述した〔>>208〕。
URLリンク(www.yoshida-shoin.com)

231:日本@名無史さん
18/01/24 01:38:53.35 .net
>>206
高崎左太郎は、文久3年の禁門の政変の折に、会津藩との交渉窓口になっているんだよな。
会津藩公用方の連中と飲み歩いて親密にもなっているだろう。
会津を捨て置いて「公武合体はやめて倒幕するからね」と西郷・大久保に言われても、「ええかげんにしてたもんせ」だろうな。

232:Coffee Break
18/01/25 20:06:53.82 .net
>>187-188
アル・スチュワートの「Lord Grenville」という曲は、フランス革命戦争からナポレオン戦争初期までの対フランス強硬外交を主導した小ピット内閣の外務大臣ウィリアム・グレンヴィルに関する曲だ。聴いてみるといい。
URLリンク(www.captainstomp.com)

233:日本@名無史さん
18/01/25 20:32:23.91 .net
▽西郷どんの人望好み
大山巌の評語。なおフリガナは「せごどん」。
木戸孝允も西郷の人望好きを嫌っていた。以下は、木戸の言葉。
一国の政治を行う場合、八方美人式に大向うの声望を得ようとするのはむしろ易しい。進んで正を踏み、一世から嫌われるほどの勇気を持つべきである。

234:日本@名無史さん
18/01/25 20:36:09.63 .net
一世から嫌われて暗殺されるだけなら、まだしもたやすい。
死後に酷評されることにも耐えられるだけの勇気が必要とされる。

235:日本@名無史さん
18/01/25 20:41:50.20 .net
小説やドラマの場合、売れなきゃ話にならんから、どうしても大衆的人気のある歴史上のヒーローが主人公にされてしまう。
死後に大衆から酷評されている人物で、理解するために高い知性を必要とする大久保が主人公になることはないな。

236:日本@名無史さん
18/01/25 20:45:05.91 .net
好事家の金持ちから寄付を受けなければ維持できないクラシックのオーケストラと、AKBや乃木坂の関係のようだな。

237:日本@名無史さん
18/01/25 20:53:41.73 .net
>>235
しかし人望のある西郷がいなければ、薩摩藩は動かず、明治維新もなく、大久保が歴史に名を残すこともなかった。
むずかしいところですな。
明治政府の大官のなかには、大久保は除くとしても、着たきり雀の西郷が無言の批判をしていたような成金バカも確かに存在しましたから。

238:日本@名無史さん
18/01/25 20:55:52.99 .net
▽二本松藩邸
京都市上京区玄武町。御所の北側にある現在の同志社大学のキャンパスに、京都・二本松薩摩藩邸があった。 幕末史を大きく旋回させた薩長同盟の会談場所のひとつとなった。
URLリンク(japanserve.com)

239:日本@名無史さん
18/01/25 20:59:53.94 .net
西郷は、大きな財布をとりだした。その中から銭をつかみ出し、
「手を出しやい。汝くらいの齢には銭が要るものでごわす」と、与えた。

240:日本@名無史さん
18/01/25 21:04:55.15 .net
▽柴山竜五郎景綱
天保6年(1835年)- 明治44年
幕末には精忠組に参加して寺田屋騒動で検挙され、薩英戦争・禁門の変・戊辰戦争に参戦した。明治時代には義弟三島通庸〔>>158〕の下で山形県東置賜郡・南置賜郡、福島県伊達郡・信夫郡郡長を務め、土木事業を推進し、故事・旧跡の顕彰に努めたが、しばしば強権的な手法を批判された。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

241:日本@名無史さん
18/01/25 21:18:54.12 .net
▽是枝万助
柴山竜五郎の実弟・陶蔵という名で紹介されているが、寺田屋騒動で投降した田中河内介を鹿児島に護送中に殺害した「是枝万助」の名の方が有名である。
柴山陶蔵と是枝万助は同一人物である。

242:日本@名無史さん
18/01/25 21:35:56.55 .net
田中河内介父子の殺害を命じたのは、三島通庸ではないかと言われている。
是枝万助は>>239で西郷から銭をもらった柴山竜五郎の実弟。これが慶応2年の挿話。
是枝万助は、戊辰戦争の頃すでに「万助・・・心経病再発シ眼ヲ抉リ股ヲ断ント」とするような有様だった。田中河内介父子殺害後、精神を病んでいたとも伝えられる。


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