邪馬台国畿内説 Part300 at HISTORY
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150:日本@名無史さん
17/11/18 10:15:44.05 .net
>>146
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

151:日本@名無史さん
17/11/18 10:16:32.68 .net
呟くのならあっちの重複スレに行ってくれないかな。

152:日本@名無史さん
17/11/18 10:16:46.18 .net
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

153:日本@名無史さん
17/11/18 12:56:36.41 .net
魏志倭人伝見ても、狗奴国と戦闘が続いていて切迫感が伝わってくる。
それとは別に卑弥呼亡き後の内乱、1000人の死者が出たとあるが、導入勢力同士が争ったのか?

154:日本@名無史さん
17/11/18 13:08:40.07 .net
>>148
同意

155:日本@名無史さん
17/11/18 15:05:21.33 .net
>>150
そーなんだよね。
いったい何を


156:争ってたのか? 自分は「邪馬台国」は九州に在ったと思ってる。 だけど、そんな争いを延々とやってたから自滅、、、倭の中心が畿内へと移行したんではないか?と。



157:日本@名無史さん
17/11/18 16:38:31.24 .net
>>150
>それとは別に卑弥呼亡き後の内乱、1000人の死者が出たとあるが、導入勢力同士が争ったのか?
それはね、卑弥呼亡き後の内乱は、いわゆる神武東征なんですよ。 倭国(阿波)国内での征討譚です。   @阿波

158:日本@名無史さん
17/11/18 17:03:22.98 .net
>>153
前方後円墳の出現は4世紀からかい?

159:日本@名無史さん
17/11/18 17:17:22.70 .net
>>154
さぁ、概ねそんなところでしょうかね。 それがなにか?   @阿波 

160:日本@名無史さん
17/11/18 17:36:13.09 .net
邪馬台国と卑弥呼は魏志倭人伝にしか載っていない。
遺跡があるわけでも何でもないのに
なぜ史実とされているのですか?

161:日本@名無史さん
17/11/18 17:39:36.81 .net
@魏志倭人伝の記述
「女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」
・・・九州と四国の関係に当てはまる。近畿説では当てはまる海がない。
A魏志倭人伝の記述
「女王国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁(わきの国々)は、遠絶していて、つまびらかにしようとしてもできない」
・・・畿内説なら、九州から邪馬台国まで「余の旁(わきの国々)」を通ることになる。通り道なのに「遠絶していて、つまびらかにできない」って変。
余の旁が、遠絶しているなら、遠絶の先にある邪馬台国はさらに遠絶となる。これも変。
B魏志倭人伝の記述(移動動手段)
「一海を渡る」「陸行」「水行」しかない。一海を渡るとの表現は末盧国が最後。九州説、畿内説いずれも末盧国は九州で異論はないと思われる。
「一海を渡る」と「水行」と表現を分けていることから、「水行」を「渡海」と解釈することは困難。「水行」は河川を利用した移動と思われる。
末盧国以降で、「陸行」「水行(河川移動)」で畿内までは行けない。
これらのことから考えると、邪馬台国は九州と考えられる。

162:日本@名無史さん
17/11/18 17:41:10.06 .net
>>156
>なぜ史実とされているのですか?
阿波に丹山があることも一つの理由じゃないですかね。   @阿波

163:日本@名無史さん
17/11/18 17:42:56.82 .net
邪馬台国
「邪馬台国」って国じゃなく
「ヤマタ」の「イ国」とか
「ヤマト」の「イ国」じゃないかと思う今日この頃。

164:日本@名無史さん
17/11/18 17:44:26.79 .net
魏志倭人伝で邪馬台国と表記されるのは
卑弥呼が死んだ後の時代とされる事が多く
卑弥呼の時代は邪馬壱国(ヤマイ国)であると
されています。
このヤマイ国ですが元々、雲仙高天原にあった也麻多と言う
地域(現在の吾妻町山田)この時点ではヤマタ国で後に
高千穂高天原に移り近隣国のイ国と連合を組む事で
倭人伝に記載されている卑弥呼の時代の邪馬壱国(ヤマイ国)
になると言われており
その後、卑弥呼が死に縁者にあたる台与が後を継ぎ
台与の国と豊国とヤマイ国の連合が出来、
邪馬台国になったと言う説があるので

165:日本@名無史さん
17/11/18 17:47:06.88 .net
福岡県みやま市(旧、山門郡)瀬高町に、
かつて女王山と呼ばれた女山(ぞやま)があり、
女山神籠石、女山日子神社が。
ここも気になります。
URLリンク(inoues.net)

166:日本@名無史さん
17/11/18 17:49:58.98 .net
私は畿内説
・出土品の数や種類の多さ
当時最大規模とされる纏向遺跡が存在し、その中の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説に賛同。
・魏志倭人伝の記述
方角を読み替えると、距離的にはおよそ一致する。

167:日本@名無史さん
17/11/18 17:52:49.34 .net
邪馬台国は宇佐にあり。卑弥呼は宇佐津姫だ。男弟はウサツヒコだ。
神武のころは、3世紀だ。倭国大乱は神武東征だ。いかがだろうか

168:日本@名無史さん
17/11/18 17:54:23.45 .net
>>158
丹山なら阿波以外にもあるよ

169:日本@名無史さん
17/11/18 17:54:45.53 .net
Yamaiのaiの部分が上古文としてはありえない音節だよ。
あと、壱でもトの発音もあるそうだ。

170:日本@名無史さん
17/11/18 17:55:30.82 .net
>>162
出土品の数と種類は九州北部が畿内を圧倒しているよ。
調べ直すといい。

171:日本@名無史さん
17/11/18 17:56:27.41 .net
>>163
時代はあっていると思う。
九州北部の倭国大乱から畿内に落ち延びたのが神武東征だろう。

172:日本@名無史さん
17/11/18 17:56:56.45 .net
>>163
宇佐は3世紀の遺跡が少なくないかな?

173:日本@名無史さん
17/11/18 17:58:42.72 .net
>>156
>遺跡があるわけでも何でもないのに
>なぜ史実とされているのですか?
中国が嘘をつく理由がない。
遺跡は九州北部にはたくさんある。
たくさんありすぎて九州説内で争いになるくらい。
畿内には何もない。

174:日本@名無史さん
17/11/18 17:58:47.14 .net
>>163
その可能性は薄いと思う。
何故なら、神武の東征で東征軍が浪速(難波)に到達したのは、
記紀の記述通りだとすると、紀元前50年より前でなければならないといわれている。
紀元前50年以前でなければ船で入って行ける様な地形では無くなっている。
つまり、東征軍が宇佐に至ったのは、紀元前50年よりも前になってしまうので、
卑弥呼の時代より遥か昔だという事が確実なので、その説は可能性がないという事になる。

175:日本@名無史さん
17/11/18 17:59:37.18 .net
>>164
>丹山なら阿波以外にもあるよ
まだそんなこと言ってるの?  丹を採っていたのは阿波だけでしょ。   @阿波

176:日本@名無史さん
17/11/18 17:59:53.30 .net
>>155
神武はどこからどこへ東征したの?

177:日本@名無史さん
17/11/18 18:01:46.22 .net
私も質問してよいですか?
解答はあわてません
邪馬台国とか卑弥呼とかわざと汚い字を使う件について
邪馬台国とか卑弥呼とか、蛮族だからわざと汚い字を使う、
という説を過去何度か読みました。
中華思想の中ではそういうものか・・と納得もしていましたが
この説はわりと正しいのでしょうか?

178:日本@名無史さん
17/11/18 18:03:02.90 .net
>>172
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。

179:日本@名無史さん
17/11/18 18:04:14.07 .net
東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「宇志比古尊」を祀るはずがない。   
こんな事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。   @阿波

180:日本@名無史さん
17/11/18 18:07:04.18 .net
以前から書いているけど、
何を偉そうなことを語っているんだ?
あと詳しいことは、わからないけど
「本人だよ」「本物です」
このような謎の書き込みを見たことがあるでしょ

181:日本@名無史さん
17/11/18 18:08:57.54 .net
>>160
出典は?興味深い。

182:日本@名無史さん
17/11/18 18:13:38.27 .net
ちなみに家の先祖の写真、
キュウリのような葉、葱の華・・・その他。
松の木(もみ?)が立てられている写真があったでしょ?
あれは数十年ほど前の写真。
『松傾』と同じ家?

183:日本@名無史さん
17/11/18 18:13:47.20 .net
>>170
だって熊野からの神武東征は太平洋ルートなんだもん
記紀の神武東征の瀬戸内ルート河内までは
別の時代、垂仁朝の話だというからね。

184:日本@名無史さん
17/11/18 18:18:39.06 .net
銀?とかいうのもいたかな
と言っていたよ
家に凄い刀(謎の刀)が飾ってあって
老婆談

185:日本@名無史さん
17/11/18 18:19:49.06 .net
>>179
あのねぇ、まだ西日本が統一されていないような時代に、九州から遥々畿内まで遠征軍を展開できると思うの。 まじで。   @阿波

186:日本@名無史さん
17/11/18 18:23:26.71 .net
>>173 不思議だよな
魏志倭人伝の中にも有名な伊都国、都というきれいな字が使われてる。
伊都国は特別な存在だとしても好古都国とかよくわからない国にも都という字が使われている?
むしろきれいな字ばかりのような?
綺麗とか汚いとか表現があっているのかわからないが、、、、

187:日本@名無史さん
17/11/18 18:24:50.81 .net
発電、電気だったか何かを起こしていたよ
とも言っていた
老婆が結婚するよりも前、
家に嫁に来るよりも前の話なのかな

188:日本@名無史さん
17/11/18 18:29:06.04 .net
俺もわからないので誰か頼む
邪馬台国に文字があったかどうか?
漢字と言うくらいだから、漢字は漢との交流から日本には渡来してたと思うが

189:日本@名無史さん
17/11/18 18:31:02.11 .net
>>171
知らなかった 有難う

190:日本@名無史さん
17/11/18 18:31:49.45 .net
漢とは単に中国を指す

191:日本@名無史さん
17/11/18 18:37:06.44 .net
>>171
知らなかった 有難う

192:日本@名無史さん
17/11/18 18:39:09.34 .net
>>170
記紀の年代はあてにならん。
他の証拠を探そう。

193:日本@名無史さん
17/11/18 18:39:27.57 .net
出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉
これが全て当てはまる地は難しいと思う
丹山だって、実用的に掘り出してたのか、単に丹の山があると記していたか?

194:日本@名無史さん
17/11/18 18:39:37.77 .net
>>157
循海岸水行

195:日本@名無史さん
17/11/18 18:40:58.02 .net
>>162
>距離的にはおよそ一致する
は?

196:日本@名無史さん
17/11/18 18:42:03.92 .net
>>165
上古文ってw
弥生時代はさらに数百年も前だよ

197:日本@名無史さん
17/11/18 18:44:32.40 .net
倭人伝の丹とは?
ウイッキー
丹(たん、に、あか)

辰砂 - 硫化水銀からなる赤色の鉱物。
仙丹 - 霊力のある薬。
丹色 - 赤・朱系の色。
赤土 - 赤みがかった土壌。
燕太子丹 - 中国戦国時代・燕の太子。
>地理
丹波国
丹後国
伊丹市
丹生郡
丹南

198:日本@名無史さん
17/11/18 18:44:34.93 .net
>>184
魏志倭人伝は倭人は文字を知らないと書いているが、卑弥呼は国書を送っており、伊都国では硯も見つかっています。
少なくとも漢字を使う人材は伊都国にいたはずです。

199:日本@名無史さん
17/11/18 18:44:45.84 .net
>>173
違うよ
単に音韻字典の筆頭文字を使ってるだけ

200:日本@名無史さん
17/11/18 18:45:24.33 .net
>>181
そうは言っても
いわゆる日向と土佐と紀伊には往来があったよ。
宇賀部神社の社伝によると。

201:日本@名無史さん
17/11/18 18:46:09.87 .net
伊達郡というところの
山の上のほうに住んでいた事があるんだよ
と言っていて、親戚も住んでいるし、銀?という家があって
【・・電機】と書いてある
何かの本家の・・・弟の家?

202:日本@名無史さん
17/11/18 18:47:30.13 .net
>>184
硯も見つかってるし、漢字を使っていた連中も倭国内にはいたんだろう
でも倭人一般には文字を使用する習慣はなかったんだろう
中国史書がそう証言してるからね

203:日本@名無史さん
17/11/18 18:49:17.69 .net
カブキ、芝居なんかが好きだったと言っていた
『広瀬座』
というのも保存されているでしょ

204:日本@名無史さん
17/11/18 18:51:30.61 .net
>>196
>そうは言っても
>いわゆる日向と土佐と紀伊には往来があったよ。
>宇賀部神社の社伝によると。
宇賀部神社?の時代のことを言われてもwww   @阿波

205:日本@名無史さん
17/11/18 18:51:44.17 .net
>>198
漢書ですか

206:日本@名無史さん
17/11/18 19:01:06.96 .net
>>177
URLリンク(www.geocities.jp)

207:日本@名無史さん
17/11/18 19:02:14.99 .net
>>177
URLリンク(www.geocities.jp)
と自分

208:日本@名無史さん
17/11/18 19:03:31.45 .net
ちなみに家は川崎(川崎区)だよ、
とあるスレを読んでみて。
数年前の書き込みになるけど、
そのようなことを言っている人がいたでしょ?
・川崎に住んでいるでしょ
・川崎に住んでいるんじゃないの?

209:日本@名無史さん
17/11/18 19:12:39.54 .net
恋」と漢字は今では愛し合うという意味で使われいると思いますが
奈良時代に編纂された歌集では、「亡くなった人や片思いの人を慕う」という悲しい意味で使われ、
「恋」という表記も複数の当て字(音で漢字を使用する)があり
恋、戀、古悲、故非、古比、故飛、弧悲
と、今みると何のことやらわからない漢字が「恋」という意味で使われています。
したがって「卑弥呼」や「倭」が、現在で考えられるような「卑しい」意味で使われているかどうかは
本当のことはわからないというのが実情じゃないかな
>>195さんの言うように単純な意味合いかも

210:日本@名無史さん
17/11/18 19:20:36.15 .net
阿波さんへ
私は徳島の神社に詳しくはありませんが、
宮崎や、島根、奈良の方が神話と結びつく有力な神社は多いと思います。
イザナミの墓の有力候補としては、島根の神魂神社近くの古墳です(何の変哲もない古墳なのに、
ここだけ宮内庁管轄)。近くに黄泉比良坂もあるし、イザナミ神を祭る「揖屋神社」があります。
徳島とのつながりは…揖屋と祖谷が読みが同じということくらい?
それより徳島の美馬市には「磐境神明神社」がありますよね?
ここは、実際にイスラエル大使が二度も訪れている場所です! こっちの方も気になる… 下にある「白人神社」も…

211:日本@名無史さん
17/11/18 19:47:43.51 .net
>>205
深い意味は無いのでは?
邪馬台国に比し伊都国は良い感じだし倭語で「ま」に相当する発音は「馬」を充ててるし、、、
当時の倭国には「そんなにたくさんの馬が居たのか?」って思わせるw
意味は全く関係ない。
聞いた音韻だけで漢字を充ててるのは間違いない。

212:日本@名無史さん
17/11/18 19:59:58.83 .net
>>207サンありがとう なんとなく理解しました
  音韻は詳しくないので勉強に成りました

213:日本@名無史さん
17/11/18 20:02:12.09 .net
少し長くなるけどスイマセン
九州説を支持するものです。
何故か邪馬台国は日本全土を治めていて、その時代の古墳があると卑弥呼の墓だと言われがちですが、あの時代にわざわざ魏にまで行って倭王の称号を貰うというのは、他に同等な勢力がいくつか存在していた可能性があると思っています。
明らかにトップの国なら、攻めてくる可能性のない魏国にわざわざ使者を送って倭王の称号を貰いに行かないでしょう。
旧唐書や隋書に日本と倭国は別の国だという記述があり、倭国の真ん中には阿蘇山があると書いてあるそうです。
だとすると邪馬台国は九州の王朝で、それとは他に大和王朝があったということです。出雲にも大和王朝よりも高い文明があった国があったことが分かっていますし、北越にも高志国などがありました。
四国にも匹敵する王朝があっても、何の不思議もありません。
中国の王朝に使者を送っていないか、魏以外の王朝と取引があった可能性もあります。場所的には、魏よりも呉との関わりの方が大きかったでしょう。(呉服など呉の文化が多く伝わっている。)
魏よりも前の漢の時代に倭の国にあった奴国に金印を送っています。朝鮮半島が代々「銅印」しかもらっていない(金印は月氏だけ)ので、奴国も相当大きな王朝だったのでしょう。
印鑑を使うということは、文字も使っていたということです。
中国が金印を送るくらいの大きな勢力が魏志よりも2百年前ほどに存在し、既に印鑑を使うほどの制度を持っていたということです。邪馬台国は地方の一勢力でしょう。
参考サイト
URLリンク(japonismlove.com)

214:日本@名無史さん
17/11/18 20:10:57.95 .net
>>201
隋書倭国伝
「無文字,唯刻木結繩」

215:日本@名無史さん
17/11/18 20:17:14.27 .net
私も少し長くなりますが質問です 急ぎません   
“【日本史】〜邪馬台国はどこにあるの?〜”という回答の中に 『三国志魏志倭人伝が曖昧に書かれているから…』と書かれていますが
『三国志魏志倭人伝』には『邪馬台国』とは書かれていないというのは本当?
倭国のことが初めて書かれた『三国志魏志倭人伝』には 『邪馬台国』とは書かれていなくて
全ての『三国志魏志倭人伝』には『邪馬壱国』若しくは『邪馬一国』だそうです。
かつて『仁徳陵古墳』と教えられた世代ですが、現今の教科書には、『大山古墳』と掲載されていると聞きますが、
なぜ『邪馬壱国』にはそう言うことがなく 今でも『邪馬台国』なのでしょうか?

216:日本@名無史さん
17/11/18 20:17:18.33 .net
>>206さん
>私は徳島の神社に詳しくはありませんが、
「磐境神明神社」やイスラエル大使の話や「白人神社」も知っていて、徳島の神社に詳しくない? からかっているのですか?   @阿波

217:日本@名無史さん
17/11/18 20:18:29.50 .net
>>209
魏は漢の外交関係を継承しており、卑弥呼の倭国と倭奴国のあった倭国は同じところという認識だよ(後漢書を参照)。

218:日本@名無史さん
17/11/18 20:20:19.11 .net
ご質問が多いようですが、解答はゆるりと参りましょう
私も質問したくなる書き込みもありますが
ゆるりと ゆるりと

219:日本@名無史さん
17/11/18 20:22:34.71 .net
>>212 阿波さんスイマセン
    からかっていません
    私の質問の仕方に問題があったかも

220:日本@名無史さん
17/11/18 20:25:54.62 .net
>>209
>明らかにトップの国なら、攻めてくる可能性のない魏国にわざわざ使者を送って倭王の称号を貰いに行かないでしょう。
鉄鍛冶材料や銅の入手のため、誼みを図ったのでは?   @阿波

221:日本@名無史さん
17/11/18 20:28:08.75 .net
各説 邪馬台国の其の後はどうなったか説明してほしいな
畿内説は単純明快 邪馬台国からヤマト朝廷

222:日本@名無史さん
17/11/18 20:28:21.63 .net
>>209
>旧唐書や隋書に日本と倭国は別の国だという記述があり
倭国は「阿波」  日本は遷都後の「大和」です。   @阿波

223:日本@名無史さん
17/11/18 20:30:01.02 .net
>>211
現在残っている宋代の印刷本が「邪馬壹(イチ)国」となっているのがその説の根拠です。
でも後漢書〜宋代に至るすべての中国史書の写本は「邪馬臺(タイ)国」となって残っています。
オリジナルの三国志が「邪馬壹(イチ)国」だとしたら、そのオリジナルに近い写本を見ていたはずの
後代の史書の作者達はなぜ「邪馬臺(タイ)国」と書いたのでしょうね。

224:日本@名無史さん
17/11/18 20:32:59.50 .net
急ぎますお願い
邪馬台国の位置!
中1です!社会の授業で邪馬台国をやっています!
それで、北九州説と畿内説に別れてディベートをすることになりました。
私のグループは北九州説で、必死で調べているのですが難しくて!
なにか、みんなに説明できるような理由があれば教えてください!
また、畿内説のグループから反論も来ると思うので、畿内説の人の意見も聞きたいです!
簡単にわかるブログ等あれば紹介よろしくお願いします!!!

225:日本@名無史さん
17/11/18 20:34:43.59 .net
>>215
「日本で唯一、阿波だけで祀られている神々」 
あなたは何故、阿波のみで祀られていると思いますか?   @阿波
阿波市「事代主神社」 御祭神 事代主命
阿波市「建布都神社」 御祭神 武甕槌神
阿波国美馬郡「倭大國玉神社・倭大國敷神社」 御祭神 大國玉命・大己貴命
阿波国美馬郡「伊射奈美神社」 御祭神 伊射奈美尊
阿波國麻殖郡「伊加々志神社」 御祭神 伊迦賀色許売・伊迦賀色許男
阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命
阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」 御祭神 天村雲命 ・伊自波夜比賣命
阿波國美馬郡「弥都波能売神社」 御祭神 素盞嗚命
徳島市国府町「天石門別八倉比売神社」 御祭神 大靈女命)
名西郡神山町「上一宮大粟神社」 御祭神 大宜都比売命)
徳島市一宮町「一宮神社」 御祭神 大宜都比売命
阿波國板野郡 「宇志比古神社」  御祭神  宇志比古尊・八幡神
阿南市伊島「当所神社」 御祭神 奧疎神・奧津那藝佐毘古神・奧津甲斐辨羅神

226:日本@名無史さん
17/11/18 20:35:42.57 .net
>>205
倭人伝は中国人が書いてるからなぁ
当て字なのでしょうが、自分はその漢字に意味があって当然と考えています

227:日本@名無史さん
17/11/18 20:39:41.46 .net
>>220
このあたりも見てみたら
URLリンク(yamatai.cside.com)

228:日本@名無史さん
17/11/18 20:40:52.72 .net
何の話をしているのか、わからないけど
日本昔話『姥清水』?
かなり前の話になるけど、
信onというゲームのなかで、話をしてあげたことがあるんだよ
「神奈川県にある、某駅は龍宮城みたいなんだよ」とか
その後、実装されたり(掲示板クエ)

229:日本@名無史さん
17/11/18 20:41:00.24 .net
やらせ

230:日本@名無史さん
17/11/18 20:42:08.12 .net
>>220
魏志倭人伝には、道程が九州北部までしか書かれていません。
魏の使いは卑弥呼に皇帝の詔書や金印を渡すために来たのに、伊都国に滞在したと書いてあります。
つまり、邪馬台国の中心は九州北部だったのです。

231:日本@名無史さん
17/11/18 20:43:35.46 .net
ちなみに、もれ(仮)は当時の風雲録、雑賀所属

232:日本@名無史さん
17/11/18 20:48:34.39 .net
三人で組んでいるときかな
これが弟なの?
と言っている人がいたり
aもbも現実の世界では知人ではないよ
a「これが弟なの?」
b「」(何も答えない)
もれ「」(何の話をしているんだろう)

233:日本@名無史さん
17/11/18 20:49:45.62 .net
>>223 >>226
ありがとうごあざいました

234:日本@名無史さん
17/11/18 21:03:37.35 .net
>>203
ありがとう

235:日本@名無史さん
17/11/18 21:55:33.50 .net
>>226
それはドーだろうか?
魏の使者が倭国に来て倭王(卑弥呼)に拝謁したって事しか書いてない。
たぶん伊都国で謁見が行われたのだろうけどイコールその地が邪馬台国とはならない。
魏の使者を迎えるために卑弥呼の方から伊都国へ出向いたのではないか?と考える。
魏志倭人伝の記述がそれを物語っている。
伊都国、奴国、不弥国、、、と運行記録が次第に不鮮明になって行き投馬国、、、邪馬台国となっている。
水行、陸行に何日かかっても良いが道程について他に何か書く事あっただろ?
魏の使者は邪馬台国までは行ってないよ。

236:日本@名無史さん
17/11/18 22:00:40.79 .net
>>231
それはドーだろうか?
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

237:日本@名無史さん
17/11/18 22:03:25.64 .net
個人の意見をテンプレとして五十も書き込みするのは異常
こちらが望ましい

238:日本@名無史さん
17/11/18 22:06:29.86 .net
>>231
魏の使いは何度も邪馬台国を訪れているよ。
その度に、奈良から福岡まで卑弥呼が旅をして来たのかい?
しかも隣国の狗奴国と対立している中で?
伊都に来た時、卑弥呼はどこに逗留したんだい?
魏の使いは卑弥呼の宮城は兵が守り楼閣高くしてと記録している。
伝聞ではなく、そもそも卑弥呼が本当に倭国の女王なのかどうかを確認するために使いは来ているのだから、伊都に滞在しながら彼らは卑弥呼の宮城を見ることができたはずなんだよ。
それが重要な役目の一つだったのだから。
その使いが、伊都までしか来なくて、伊都に滞在したと明記しているわけだよ。
つまり、卑弥呼の宮城は伊都か、伊都から目と鼻の先にあったことになる。

239:日本@名無史さん
17/11/18 22:09:29.48 .net
>>234
それはドーだろうか?
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

240:日本@名無史さん
17/11/18 22:12:12.40 .net
>>231
倭人伝読んでないのバレバレ

241:231
17/11/18 22:20:39.03 .net
>>234
それは貴方が畿内説に固執してるから大変な事になるだけで九州説ならそんな難しい話じゃないよ。
伊都国は邪馬台国の息が掛かってる国だし。
魏帝>>>(超えられない壁)>>>倭王
魏の使者は仮にも魏帝の名代だよ、邪馬台国で踏ん反り返って待ってて良いのかよ?
危険を冒してでも恭(うやうや)しくお出迎えに上がるのが筋ってもんだろ?

242:日本@名無史さん
17/11/18 22:27:27.43 .net
>>237
アンカーを間違えてますよ。

243:日本@名無史さん
17/11/18 23:05:24.31 .net
>>222
違うね

244:日本@名無史さん
17/11/18 23:59:25.58 .net
>>239
意味のある漢字も入っていると考えますが?
倭側で当てはめた漢字ではないからね
すべてが意味の無い漢字の当て字とするのはちょっと大雑把すぎる気がするけど

245:日本@名無史さん
17/11/19 00:08:14.14 .net
>>221
日本人は神の名を口にすることは畏れ多いという風習があり
伊勢神宮では一般人が参拝する御門に御幌が掲げてあるのだけど
阿波では犬神が最高神なので
神社を建てるときに、犬神ではないということをわからせるために
神名を神社名にしたのだろう

246:日本@名無史さん
17/11/19 00:26:45.53 .net
>>240
すべてが意味のない漢字の当て字とまでは言ってない
漢字に意味があって当然とは言えないだろってこと

247:日本@名無史さん
17/11/19 00:37:16.05 .net
>>240
いや〜日本がやってる外来語をカタカナで表記するみたいなもの。
阿(ア)、伊(イ)、宇(ウ)、江(エ)、於(オ)、、、良(ラ)、利(リ)、流(ル)、礼 (レ)、呂(ロ)、、、
カタカナの元の漢字はこんな風、ただの表音記号にすぎない。
加多加奈(カタカナ)、阿伊須(アイス)になるだけで個々の一文字ずつの漢字が本来持つ意味とは全く関係ない。
魏人もそんな感じで使ったんだったんだろう。

248:日本@名無史さん
17/11/19 00:38:10.43 .net
>>242
私もすべて意味がある、とは言っていないけど
ただ、基本的には意味があるとして考える、ということ

249:日本@名無史さん
17/11/19 00:51:17.32 .net
>>244
そこが根本的に違う

250:日本@名無史さん
17/11/19 01:17:35.12 .net
家に隕石のようなものがあったんだけど、
あれは、どこに行ったんだろう
磁気を帯びていて、
その石に、クリップが、くっついたりしていた
ハサミも、くっついたりした
たしか磁石と一緒に保管していて、
久しぶりに調べてみると、磁力が吸い取られたのかな?
ただの石、鉄のようになっていた、
黒光りしているものだった
何だったんだろう
電気石?

251:日本@名無史さん
17/11/19 01:19:25.78 .net
ポケモソも無かったときの話、
たしか家の近所で拾ったんだよ
『ポケモン 電気石』

252:日本@名無史さん
17/11/19 01:21:51.46 .net
ストーカーがいるのかな
兄 弟(いま書き込みをしている人)
妹:5月15日生まれ

253:日本@名無史さん
17/11/19 01:33:04.90 .net
画像などを調べてみると、
電気石じゃなくて隕石だと思う
鈍い光、黒く光っている

254:日本@名無史さん
17/11/19 01:40:02.02 .net
重複スレに抜かされてしまった。
あっちは荒れ放題だけど、その分だけレスが多いんだな。

255:日本@名無史さん
17/11/19 01:41:44.94 .net
表面が溶けたような感じに
なっているものだったしな・・・隕石だったのかな
問題は、なぜ、あそこに落ちていたのか?

256:日本@名無史さん
17/11/19 04:37:40.39 .net
邪馬台国は、三国志を書いた陳寿の頭の中にのみ存在します。
と言ったら笑われ


257:るかも知れないが 陳寿編集長はたぶん東夷伝の倭国の項なんて隅っこのほうまで執筆してないだろうから。 「三国志」の編集スタッフは、自分で倭国まで行ったわけではもちろんなく、 魏の時代の役人が残した報告書の内容をそのまんま転載しただけでしょう。 その報告書を書いた人間だって、ホントに「邪馬台国」まで行って帰ってきたのか、 わかったもんじゃない。なぜなら書いてある行程とかが矛盾だらけだし、 描かれている風俗も「コレほんとに日本?」みたいな話が多い。



258:日本@名無史さん
17/11/19 05:01:18.55 .net
倭の邪馬台国が任那なら、帯方郡の郡治はどこでしょうか?

259:日本@名無史さん
17/11/19 05:53:42.75 .net
>>252
>「三国志」の編集スタッフは、自分で倭国まで行ったわけではもちろんなく、
> 魏の時代の役人が残した報告書の内容をそのまんま転載しただけでしょう。
>>234
それはドーだろうか?
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。   
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

260:日本@名無史さん
17/11/19 06:03:44.12 .net
>>252
>なぜなら書いてある行程とかが矛盾だらけだし、
>描かれている風俗も「コレほんとに日本?」みたいな話が多い。
それはドーだろうか?
魏志倭人伝は倭国(阿波)の事象を大変分かりやすく記述してくれている。
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
  四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海で、山や島に人が居住し、国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
  徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
  入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
  吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、往古より践祚大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
  徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
  特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
  徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
  徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
  鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

261:日本@名無史さん
17/11/19 06:27:09.71 .net
なんとなく 南は吉方位??
南は魏使が行ったときや 陳寿が記述した時吉したとき方位だから、本当の方位でなく倭人伝で南を多用したのでは?
倭人在帶方東(南)大海之中
乍(南)乍東
又(南)渡一海
亦(南)北市糴
東(南)陸行
東(南)至奴国
(東)行至不彌國・・・・ここだけが東
(南)至投馬國
(南)至邪馬壹國
其(南)有狗奴國
女王國(東)・・・・・・ここは行っていない
ほとんど方位は南
    なんとなく 南は吉方位??だから南を多用??実際の方位とは無関係??

262:日本@名無史さん
17/11/19 06:31:52.09 .net
>>253
帯方郡治がどこにあったかは未確定だと思います。
楽浪郡治は楽浪土城と呼ばれる遺構と楽浪太守章の封泥などの遺物の発見から平壌市楽浪区域土城洞とほぼ判明していますので、
この南方にあった事だけは間違いありませんが特定には至っていないという事です。
魏志韓伝には「建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡(建安年間(196〜219年)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした)」とあり、
この屯有県は黄海北道黄州付近と推定されているのですから、この南である事も文献上からは間違いないのですが、
その具体的な位置は特定されていないわけです。
大まかに、ソウル・広州を比定地とする「南方説」と、黄海北・南道の鳳山郡と安岳郡を比定地とする「北方説」が有るのですが・・・・

263:日本@名無史さん
17/11/19 06:36:16.04 .net
大和政権の誕生について
@ 邪馬台国が大和政権になった
A 狗奴国が邪馬台国を滅ぼして大和政権になった
B 邪馬台国 狗奴国とは関係ない組織
皆さんは どう思いますか?予想でも可です

264:日本@名無史さん
17/11/19 06:50:11.06 .net
>>256
>ほとんど方位は南
    なんとなく 南は吉方位??だから南を多用??実際の方位とは無関係??
それはドーだろうか?
東(南)陸行      (福津市辺り万津浦) →八木山峠越え(草木茂盛行不見前人) → (直方辺り)
東(南)至奴国    (直方辺り) →(田川辺り)
(東)行至不彌國・・・・ここだけが東   (田川辺り)→(築上町辺り)
(南)至投馬國     (築上町辺り) →(宿毛辺り)
(南)至邪馬壹國    (宿毛辺り)→(邪馬台国)
其(南)有狗奴國    (邪馬台国=粟国)→(狗奴國=長国)
女王國(東)・・・・・・ここは行っていない    (女王國)→(畿内)

265:日本@名無史さん
17/11/19 06:51:11.69 .net
九州の天智天皇のモデルとなった豪族が
白村江で大敗した後に近江大津京に疎開。
壬申の乱で畿内系豪族天武天皇に倒される。
天武天皇が亡くなり、皇后の持統天皇と
その子の文武天皇の時代。
九州王朝年号では大化は695年から700年
この大化の改新を経て、
大和朝廷年号の大宝へ移行する。
大宝は701年から704年である。

266:日本@名無史さん
17/11/19 06:54:07.89 .net
大和政権の誕生について
※ 倭国(阿波)が8世紀に奈良に遷都して大和政権になった   @阿波

267:日本@名無史さん
17/11/19 06:56:48.72 .net
>>260
>白村江で大敗した後に近江大津京に疎開。
近江大津京など存在しない。  @阿波

268:日本@名無史さん
17/11/19 06:59:31.46 .net
>>260
>壬申の乱で畿内系豪族天武天皇に倒される。
壬申の乱は畿内が舞台ではない   @阿波

269:日本@名無史さん
17/11/19 07:02:33.45 .net
>>258
Aは無い

270:日本@名無史さん
17/11/19 07:02:55.47 .net
>>260
>天武天皇が亡くなり、皇后の持統天皇と
>その子の文武天皇の時代。
倭国(阿波)が8世紀に奈良に遷都して大和政権になった時代。   @阿波

271:日本@名無史さん
17/11/19 07:09:14.39 .net
>>258
@です
隋書には大和朝廷の都は魏志でいう邪馬台国であると明確に書いています。
▼隋書《卷八十一列傳第四十六》
都於邪靡堆,則《魏志》所謂邪馬臺者也。
隋書は7世紀前半に成立した歴史書ですから、邪馬台国の史料がふんだんに見られたました。
したがって、大和政権と邪馬台国が同一であることがわかっていたの記述であると思われます。

272:日本@名無史さん
17/11/19 07:13:29.89 .net
隋書だったかな?
唐の時代に書かれた隋書倭国伝では
倭国の朝貢は途絶えたとある。
唐の時代は日本とは頻繁に通交し
白村江で戦争までやらかしているので
日本が倭国の後継なら途絶えたと
書くはずはない。
唐も、倭国と日本国は別物と認識
していたのであろう。

273:日本@名無史さん
17/11/19 07:16:50.02 .net
邪馬台国を含む倭国はずっと続いていたが
日本国は別物


274:ナある。



275:日本@名無史さん
17/11/19 07:26:54.63 .net
>>433
それが槨だっていう理由は?

276:日本@名無史さん
17/11/19 07:27:05.20 .net
>>266
>隋書には大和朝廷の都は魏志でいう邪馬台国であると明確に書いています。
それはドーだろうか?
▼隋書《卷八十一列傳第四十六》
都於邪靡堆,則《魏志》所謂邪馬臺者也。
隋書には邪靡堆の都は魏志でいう邪馬臺国であると明確に書いています。   @阿波

277:日本@名無史さん
17/11/19 07:31:32.13 .net
>>267
>唐も、倭国と日本国は別物と認識
していたのであろう。
倭国=「阿波」  日本国=遷都後の「大和」   @阿波

278:日本@名無史さん
17/11/19 07:32:59.51 .net
>>268
>邪馬台国を含む倭国はずっと続いていたが
日本国は別物である。
倭国=「阿波」  日本国=遷都後の「大和」   @阿波

279:日本@名無史さん
17/11/19 07:36:43.09 .net
隋は613年の高句麗遠征の際の楊玄感の反乱を契機に
全土で反乱軍が割拠したから倭との交流は絶えた

280:日本@名無史さん
17/11/19 08:27:49.46 .net
>>258
>B 邪馬台国 狗奴国とは関係ない組織
ですね。
狗奴国はすぐに邪馬台国と合流したと思います。

281:日本@名無史さん
17/11/19 08:40:27.55 .net
>>274
そうですね。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)

282:日本@名無史さん
17/11/19 08:42:40.46 .net
>>267
隋の頃、日出ずる国の天子と書いた国書で隋の皇帝が怒って倭と隋の国交が途絶え、唐の時についに直接対決して倭が敗北します。
この時に筑紫倭国は滅亡し、壬申の乱などを経て近畿日本国に政権が移譲されました。

283:日本@名無史さん
17/11/19 08:45:47.43 .net
>>266
>隋書には大和朝廷の都は魏志でいう邪馬台国であると明確に書いています。
大和朝廷の都ではなく、倭国の都は邪馬台国と書いてあるだけです。
大和朝廷など後世の皇国史観による創作で、中国の歴史書には登場しません。

284:日本@名無史さん
17/11/19 08:47:27.40 .net
>>260
天智が畿内側で、天武が九州系という人もいますけどね。
そう簡単に割り切れないくらい複雑な政治情勢だったのかとも思います。

285:日本@名無史さん
17/11/19 08:52:27.02 .net
>>278
まあ、九州を活動拠点にしていた豪族と
畿内を活動拠点にしていた豪族がおり
九州から畿内へ移動したが
九州豪族が畿内豪族に倒された
という程度の認識でいいのではないか
と思います。

286:日本@名無史さん
17/11/19 08:53:55.50 .net
台与の後の王が不明だしね。

287:日本@名無史さん
17/11/19 08:59:30.53 .net
3世紀後半には、九州南東部は畿内と同じ旗を掲げていたと思うよ。
九州勢力が関係し畿内の勢力図が激変するのは、
応神vs忍熊皇子の時。
台与の後は畿内勢力通しの争い、武埴安彦の乱など。

288:日本@名無史さん
17/11/19 09:00:22.83 .net
>>279
>まあ、九州を活動拠点にしていた豪族と
倭国(阿波)から進出した筑紫忌部ですね。
>畿内を活動拠点にしていた豪族がおり
倭国(阿波)から進出した畿内忌部ですね。

289:日本@名無史さん
17/11/19 09:03:31.02 .net
>>281
>台与の後は畿内勢力通しの争い、武埴安彦の乱など。
それはドーだろうか?
台与の後も、倭国(阿波)勢力通しの争い、武埴安彦の乱など。   @阿波

290:日本@名無史さん
17/11/19 09:24:38.60 .net
>>281
主従が逆でしょ。

291:日本@名無史さん
17/11/19 09:36:42.77 .net
>>284
確かに主従が逆かもしれない。

292:日本@名無史さん
17/11/19 09:39:18.40 .net
忍熊皇子、武埴安彦が主かも。

293:日本@名無史さん
17/11/19 10:02:10.06 .net
忍熊皇子の方が本来は皇太子だったと思うよ。

294:岡上
17/11/19 10:22:15.92 .net
テンプレはシンプルで良い思いますけど、2.は問題多いと思います。
「倭国大乱」っていうのが、すでに魏志を離れちゃってますね。
「大乱」は後漢書の単なる装飾というほうが可能性が高いでしょう。
共立時点では中部は入ってないでしょうし。

295:日本@名無史さん
17/11/19 10:44:00.74 .net
>>288岡上
>共立時点では中部は入ってないでしょうし。
共立時点もなにも、倭国乱は倭国(阿波)国内での乱。   @阿波

296:日本@名無史さん
17/11/19 10:44:15.02 .net
後漢書と魏志倭人伝はセットで考えるべきだよ。

297:日本@名無史さん
17/11/19 10:44:57.10 .net
くだらん質問ですけど
邪馬台国は魏国の属国だったのですか?

298:日本@名無史さん
17/11/19 10:46:12.45 .net
倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
「旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力 弥生時代集落」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力 弥生時代集落」
若杉山遺跡・福寺山遺跡

299:日本@名無史さん
17/11/19 10:55:21.03 .net
違うでしょ

300:岡上
17/11/19 11:03:56.01 .net
>>290
そう考える根拠がないですね。
後漢書は、基本的に二次的な存在。

301:日本@名無史さん
17/11/19 11:13:41.59 .net
畿内説
倭国大乱はヒミコを擁立して終焉を迎えます
数十年もの間、女王が共立されなければ収まらなかった程の戦乱ですから、
相当な規模であったことが推察されます。
いわば、「古代日本の戦国時代」ともいうべき状態だったのではないでしょうか。
テンプレ
倭国の一国に中部日本(畿内 邪馬台国)が入ります
岡上さんは現中部地方と勘違いしてませんか

302:日本@名無史さん
17/11/19 11:17:41.19 .net
>>295
畿内説の立場からはそのような回答になるでしょうが
大乱と言うより内乱であり規模はそんなに大きくないと思いますよ

303:日本@名無史さん
17/11/19 11:21:03.29 .net
>>295
>畿内説
>数十年もの間、女王が共立されなければ収まらなかった程の戦乱ですから、
>相当な規模であったことが推察されます。
相当な規模での戦乱と推察する根拠はありますか? 単なる想像ですか?   @阿波

304:岡上
17/11/19 11:23:58.69 .net
>>295
>数十年もの間、女王が共立されなければ収まらなかった程の戦乱
この根拠はなんですか?
魏志には歴年としかありませんが。。。
畿内は「中部日本」なのですか?
現中部地方に狗奴国を当てるのが一般的な畿内説と思いますので、
「中部日本」は、誤解を招く表現では??

305:日本@名無史さん
17/11/19 11:28:15.72 .net
>>291
主従関係はあったので 倭国は魏の属国でいいでしょう
魏と倭の関係は皇帝である魏が倭に王の位を授けて統治を許すという君臣関係を結んでいます。
「朝貢」の「朝」とは朝廷、つまり魏の朝廷に貢ぐ国の日本という意味です。

306:日本@名無史さん
17/11/19 11:41:59.97 .net
>>297 >>298
以下の2点です
倭人伝 (倭國亂相攻伐歴年)
短期的な争いでは無いという事
後漢書 (桓 靈 倭國大亂)
(146年 - 189年)に及ぶ大きな乱
  

307:日本@名無史さん
17/11/19 11:48:19.90 .net
>>299
ありがとうございました

308:日本@名無史さん
17/11/19 12:01:05.94 .net
>>300
>倭人伝 (倭國亂相攻伐歴年)
>短期的な争いでは無いという事
そりゃ、これだけの集落が相乱れての争乱ですから、短期では決着しないでしょうね。
それに、まだ発掘されていない集落もたくさん有るでしょうし。   @阿波
倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
「旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土
「旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力 弥生時代集落」
勢合銅鐸出土地
「那賀川流域勢力 弥生時代集落」
若杉山遺跡・福寺山遺跡

309:岡上
17/11/19 12:02:00.44 .net
後漢書は潤色がすごいですからね。
▪至百余歳者甚衆
とかね。
内藤湖南も范曄を「支那史家中、最も能文なる者の一」と、嫌味を書いてますよ。
その場のノリで魏志の倭国乱を大乱にしちゃった疑いがありますね。

310:日本@名無史さん
17/11/19 12:02:52.58 .net
>>298
指摘どおり畿内が中部日本と言うのはおかしいが
中部日本でいいと私も思う
東海、北陸も倭国の一員と思うから・・・ただなんとなく

311:subo
17/11/19 12:05:47.09 .net
>>260
乙巳の変で筑紫倭國の蘇我氏が暗殺され畿内ヤマトが政権奪取
しかし白村江で百済が負け天智は近江大津に逃げ込む
唐、新羅の援軍を得て大海人は壬申の乱で勝利し、唐、新羅連合軍である天武政権(基本である


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