邪馬壹國は北部九州に在ったpart6 at HISTORY
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950:日本@名無史さん
17/07/19 05:35:45.30 .net
>>921
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であって、
「自女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」ではないから、
女王國と海は接していない。
(女王國の東の国境は海岸ではない。)

女王國の東部はせいぜい日田まで。
女王國の範囲は筑紫平野(佐賀平野+筑後平野+北野地域)である。

951:日本@名無史さん
17/07/19 19:39:19.56 .net
言い張るだけ
理由なし

それが九州説

952:日本@名無史さん
17/07/19 23:30:48.82 .net
>>931
出土品の地図、もう一


953:回貼るか?



954:日本@名無史さん
17/07/20 02:02:10.71 .net
>>932
ゴミ貼るべからず

955:日本@名無史さん
17/07/20 09:04:02.75 .net
>>930
>「自女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」ではないから、

これだと自女王國(奴国)から船に乗って東に1000里で倭種の国があるとの意味になる
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」だから女王國の東の端から船に乗って東に1000里で倭種の国がある
女王國と海は接しており、女王國の東の国境は海岸である。

956:日本@名無史さん
17/07/20 09:38:51.19 .net
>>934
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」

【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)

女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。  @阿波

957:日本@名無史さん
17/07/20 09:48:59.06 .net
>>934
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」

【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)

女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。  @阿波

958:日本@名無史さん
17/07/22 00:13:09.42.net
  
「自女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
女王國より(自)東へ渡海すると1000里に倭種の国があるとの意味になる
この場合女王國の東海岸から渡海する意味になる

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
女王國の東で渡海すると1000里に倭種の国があるとの意味になる
この場合女王國の東方で渡海する意味になる。
渡海の出発点は女王國であるとは限らない。

959:930
17/07/22 00:23:06.85.net
女王國は筑紫平野の4ヵ国(奴國、不彌國、投馬國、耶馬壹國)

奴國と不彌國は帯方郡から12000余里にある。
耶馬壹國は女王の住む国

960:日本@名無史さん
17/07/22 01:28:20.53.net
投馬国は邪馬台国とルートが違うから、女王国じゃないよ。
宮崎の妻。

961:日本@名無史さん
17/07/22 08:29:35.14.net
朝貢云々を問題にするなら、卑弥呼よりも倭五王のほうが問題になるんだよね

畿内以外の国家を設定するのは反日という屁理屈も妙で、
九州には金印だけでなく、数多くの王墓があるのだから、
むしろ九州王墓群から前方後円墳に繋げる方が、一つの国家が成長していった話になる

3世紀に畿内に興った新興国が、北部九州の王達を支配下に入れたというストーリーそのものが
北部九州に、日本とは源流の異なる遥かに古い国があったことを前提とした異端の話なわけで

962:日本@名無史さん
17/07/22 11:17:19.42 auN3ykTt2
自分の言霊
@【動楽真.DOURAKUSHIN】⇒『真心で楽しく動く』
A【働楽真.DOURAKUSHIN】⇒『真心で楽しく人の為に動く』
B【義貫.GIKAN】⇒『義を貫く』
C【己勝.KISHOU】⇒『己に勝つ』
D【歌楽真.KARAKUSHIN】⇒『真心で楽しく歌う』
E【美言一笑.美行一笑】

963:日本@名無史さん
17/07/22 13:41:04.78.net
魏は邪馬台国に黄幢を2回も授けてるわけだけど、
記紀で黄色い旗を立てて戦った人物っていたっけ?

964:日本@名無史さん
17/07/22 17:00:29.08.net
>>942
2度って、いつ?

965:日本@名無史さん
17/07/22 17:17:58.91.net
九州説自体が、九州だと思ってない新井白石や本居宣長から出て来たフェイク。

邪馬台国は大和である。
しかし決定させてしまうと古代天皇家の朝貢を認めてしまう事になる。

九州説という架空の説を創り、論争してもらい、天皇の朝貢をしばし潤色すること。
これが最大の目的。

邪馬台国論争自体が、新井白石や本居宣長が「未来」に仕掛けた壮大な釣りであった。

966:日本@名無史さん
17/07/22 17:26:21.89.net
>>944
>>940

朝貢した相手のほうがとっくに滅亡してるんだから誰も気にしないっしょ

967:日本@名無史さん
17/07/22 17:59:23.75.net
筑紫倭国から支配権を簒奪した過去を隠したかったんでしょ。
正当な政権移行ではなかったんだよ。

968:日本@名無史さん
17/07/22 18:11:00.56.net
出雲から政権を奪った時は
国譲りとして物語が残っているのにね

969:日本@名無史さん
17/07/22 18:42:51.99.net
神話が合併してるんだから政権も合併でしょ

970:日本@名無史さん
17/07/22 18:45:21.10.net
記紀が書かれたのは政権移行の直後で、取られた側の人間もそ


971:アら中にゴロゴロいたから、率直には書けなかったんだろう。 何百年も前の事は、時効だから書いたんだよ。



972:日本@名無史さん
17/07/22 18:45:44.90.net
つ 盗まれた神話

973:日本@名無史さん
17/07/22 18:52:42.27.net
ヤマタイカみたいに日の民族と火の民族がいて
渡来系(天神、弥生人)が大陸から九州に住み着いて日本を名乗り
土着系(地祇、縄文人)が九州から大和に東征して倭国を名乗った
のちに倭国は捲土重来を期して九州に攻め込み勝利する(これが日本武尊)
そして倭国という名前を嫌って日本国という名前を奪って名乗りだした(唐書に記載あり)

974:日本@名無史さん
17/07/22 18:55:56.75.net
海人の国と火の国があったんだよ。
天津神と国津神、筑紫と肥国とも言う。
対馬海峡の部族と有明海の部族のこと。

975:日本@名無史さん
17/07/22 18:58:51.11.net
卑弥呼と卑弥弓呼はともに肥国の出身だけれども、卑弥呼は伊都から天孫族を追い出して倭国女王となった。
それを怨んだ天孫族は、後に肥国を熊襲として討伐して、卑弥呼の存在も歴史の闇に葬った。

976:日本@名無史さん
17/07/22 19:37:41.65.net
肥国のあった考古学的証拠は?

977:日本@名無史さん
17/07/22 19:47:21.09.net
また来るぞw
5世紀の副葬品の分布図
7世紀の石高の票

被告ってのは確信的詐欺師寄生虫だからなwww

978:日本@名無史さん
17/07/22 20:04:36.63.net
おーい

妄想の肥国よーい

お得意の嘘データまだー?チンチン

979:日本@名無史さん
17/07/22 21:15:21.13.net
火国・肥国(ひのくに)は、令制国以前に存在した国の一つ。

『国造本紀』によれば、大分国造と同祖で神八井耳命の後裔の志貴多奈彦命の子遅男江命が、崇神朝に火国造に任じられたとされる。また、健磐龍命を火国造の祖とする説もある。

後の肥前国と肥後国であり、あわせてまたはいずれか一国を指して肥州(ひしゅう)と呼ぶことがある。
また、肥前国と肥後国の両国をさす語としては、二肥(にひ)も用いられる。
のちには火の国・肥の国とも書くが、火の国と書いた場合は、阿蘇山を擁する肥後(あるいは熊本県)の意味で使われることが多い。

この地方は元々火山が多いことから「火の国」と呼ばれ、転じて「肥の国」となったのち、前・後に分けられ「肥前」「肥後」となった。
肥前国の長崎には雲仙普賢岳、肥後国には阿蘇山があるからである。肥前国の佐賀には、多良山系に火山があるが、しばらく活動をしていない。

有明海を挟むことから、肥前国と肥後国を一つの国と考えていたというより、一地方と捉えていたと考えられる。

廃藩後曲折を経て、肥前は「長崎県」「佐賀県」となり、肥後は「熊本県」となった。

『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)」といったとされる。

次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。
故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。

980:日本@名無史さん
17/07/22 21:16:36.77.net
3世紀にありもしなかった畿内を持ち出して邪馬台国畿内説なんて名乗るのは詐欺だよなあ。

981:日本@名無史さん
17/07/22 21:31:05.68.net
>>957
その妄想だらだらの長文のどこに根拠があるの?

逆に被告に根拠が皆無なことが明らかになりましたぁぁあw

982:日本@名無史さん
17/07/22 21:38:04.26.net
>>959
大和という国があったという根拠を


983:キかれたら、なんと答える?



984:日本@名無史さん
17/07/22 21:40:32.78.net
ここに注目!

筑紫国謂、白日別。
豊国、言、豊日別。
熊曾国、言、建日別。

肥国、言、建日向日豊久士比泥別。

肥国だけおかしいでしょ。
しかも熊襲国と被っている。

985:日本@名無史さん
17/07/22 21:41:09.27.net
>>960
ちょっまってww>>957の破壊力すごくて笑いがとまんねーwww

986:日本@名無史さん
17/07/22 21:43:00.88.net
>>961
だからなんだってんだよーwww
お前の脳内世界に入りたくねーwww

987:日本@名無史さん
17/07/22 21:50:59.37.net
>>962
Wikiの内容がそんなに受けるのかねえ?

988:日本@名無史さん
17/07/22 21:53:18.33.net
>>964
wikiから引っ張ってきたのがこれ?w

ぜんぜん根拠になってねー

もう許してww

989:日本@名無史さん
17/07/22 21:56:15.35.net
いやさすがだわ
根拠の意味がわかってないんだな
ぜんぜん関係ないものを持ってきては見せびらかすわけだな
うんうん

990:日本@名無史さん
17/07/22 22:02:28.19.net
普通は熊襲というと熊本県あたりを想定するが、そこは肥後だ。

熊襲タケルは屋敷の落成の祝いでヤマトヲグナに殺されて、その名を献上して自らを川上タケルとし、ヤマトヲグナはヤマトタケルとなる。
その屋敷の場所は佐賀県の川上だが、そこは肥前だ。

つまり肥国は熊襲国と同じである。
九州には、筑紫、豊国、肥国(熊襲国)の北部3国しかなかった。
ある時期において、倭国とはこの九州北部のことを指していた。
しかも南半分は国がなかった。
もちろん、本州にも国はなく、統一されていないただの倭種の地であった。

991:日本@名無史さん
17/07/22 22:05:28.66.net
漢代の倭国はもっと狭く、奴国より北の対馬海峡周辺や玄界灘沿岸のみであったとされる。
倭奴国は、稲作伝来の地、三種の神器の発祥の地、漢から倭王として冊封された国である。
豊国も肥国もまだなく、筑紫のみが倭国だった。
ここから倭国の歴史が始まり、天津国の侵攻により倭国は拡大していく。

992:日本@名無史さん
17/07/22 22:07:04.63.net
おいおい
テレビでスレのテンプレ行程に触れちまったぞ

993:日本@名無史さん
17/07/22 22:10:28.78.net
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

994:日本@名無史さん
17/07/22 22:15:48.88.net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの


995:王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。 三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。 これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。



996:日本@名無史さん
17/07/22 22:22:48.84.net
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、火の国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

997:日本@名無史さん
17/07/22 22:23:00.81.net
卑弥呼の宮殿を埋め戻すかね普通

998:日本@名無史さん
17/07/22 22:23:20.82.net
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

999:日本@名無史さん
17/07/22 22:42:45.13.net
卑弥呼の姿を誰も見れないのに
どうやって卑弥呼が太陽の光を反射する光景を見れるのか

1000:日本@名無史さん
17/07/22 22:47:28.15.net
結局、吉野ケ里遺跡って何なの?

1001:日本@名無史さん
17/07/22 22:50:51.46.net
おいおい
さりげなく銅鐸が映ってたぞ

1002:日本@名無史さん
17/07/23 06:14:56.30.net
吉野ヶ里は北部九州に点在する
小国王都の一つだね。
たまたま発掘条件が良いだけで
そういう王都と思われる遺跡はいくつもある。

1003:日本@名無史さん
17/07/23 08:34:29.37.net
行程+日程論も、平原も、鉄器も、全部触れられて、
北部九州説にとっては勝利と言っていい内容だったんじゃないかな
おめでとう

1004:日本@名無史さん
17/07/23 10:41:02.29.net
吉野ヶ里は北部九州に点在する小国王都の一つである。
  
吉野ヶ里遺跡が衰退する直前には、
倭國王帥升の王都(倭面土國=倭米多國=倭都國)でもあった。倭奴國の後継王国。
吉野ヶ里遺跡の配置には漢文化の影響が視られる。

1005:日本@名無史さん
17/07/23 22:44:59.72.net
>>1
>また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。

「世有王」とは「魏朝成立(220年)〜新倭國認


1006:詔(238年)の時代に旧倭國王が伊都國(倭都國)に居た」ことを指す



1007:日本@名無史さん
17/07/23 22:50:33.02.net
>>981
「旧」倭国王なんて書いてない。
倭国王のことを書いている。
220年以降なら卑弥呼の共立後だし。
倭国王すなわち卑弥呼が伊都国にいると書いてあるだけ。

1008:日本@名無史さん
17/07/24 00:24:42.21.net
>>982
帯方郡から伊都國までの道程は11900餘里である。
一方、帯方郡から女王國までは12000餘里である。
故に、伊都國は帯方郡から見て女王國の100里手前の国であるから、
伊都國の王は、女王國の女王卑弥呼ではない。

女王卑弥呼が倭國王として魏帝に認詔されたのは238年12月である。
なお、卑弥呼が居たのは邪馬壹國であって郡から12000餘里以遠である。

1009:日本@名無史さん
17/07/24 07:29:09.52.net
>>983
倭国大乱の後、卑弥呼の前に他の王がいたなんて、魏志には書いてない。
あと、その里程なら伊都国を糸島市前原付近にして、高祖宮を卑弥呼の居城で説明がつく。
対馬や伊都も当然倭国女王の
支配下の土地だしね。

1010:日本@名無史さん
17/07/24 10:43:46.64.net
書いてあるだろ

1011:日本@名無史さん
17/07/24 11:09:35.86.net
大乱の前には男王がいた。
しかし大乱をおさめるために卑弥呼が共立されたから、大乱の後の卑弥呼の前には男王はいない。

1012:日本@名無史さん
17/07/24 11:25:09.45.net
>東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。

魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。

漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。

1013:日本@名無史さん
17/07/25 15:25:08.43.net
狗邪韓国が任那の前身と想定すると
一大率は畿内朝廷が伊都に置いた進駐軍であった可能性も強い。

どう考えても、軍事政治に無能と思える九州諸国には半島進出可能な水軍は無さそうなのだ。
おそらく、奈良、出雲の連合軍は筑紫を平定し、卑弥呼は神長官としての政をとったのではないか?

大和朝廷の初期九州支配は、百済、新羅同様、軍事的保護下にある
海外の蝙蝠国家として中国への朝貢を容認していた節が有る。

無能な邪馬台国に代えて筑紫の君が繁栄し、新羅と結んだため磐井の乱になった。
しかし、白村江以降は、神話の歴史も作り変えて九州は日本国固有の領土とした。

関東を制している畿内朝廷じゃなきゃ400年までに、高句麗馬の国内生産化を終えて
百済、新羅を守って、高句麗と戦える国にはならんでしょ。

倭人伝は所詮政張の九州旅行記だが、朝廷の存在は感づいていたかな?
政張にかまわれてるような、弱小国には半島進出は不可能。
邪馬台国論争の原点は半島配慮だろwww もう無理。

1014:日本@名無史さん
17/07/25 18:46:49.04.net
鉄器もないのにどう重武装すんの?

銅と鉄の最大の違いの一つが
武装だよ
使わない分けないし、何度も半島出兵して
大国高句麗と戦うのも鉄の威力を知るから

1015:日本@名無史さん
17/07/25 18:48:09.93.net
>>989
なにまた妄想してんの

1016:日本@名無史さん
17/07/25 19:02:22.93.net
>>988
海のない奈良盆地の貧民勢力に水軍なんかないよ。
対馬海峡の交易の独占により成長してきた博多湾沿岸勢力すなわち筑紫倭国だからこそ、朝鮮半島南岸に拠点を持つことができた。
又の名を天津国(海人の国)だからね。
その王の称号がアマテラス(海照らす)だ。

1017:日本@名無史さん
17/07/25 19:07:36.16.net
>>991
なにまた妄想してんの

1018:日本@名無史さん
17/07/25 19:


1019:21:58.08.net



1020:日本@名無史さん
17/07/25 19:22:08.08.net
北部九州倭国の重武装
>最前列に矛隊を幾重にも並べる(出土)
>盾の中央には巴型銅器(出土)、相手の剣を受け、下手したらぶち割る
>後列には弓隊(鉄鏃あるいは返し付き毒塗りの骨鏃:出土)
>鉄剣を持った将軍が指揮(孫氏の兵法など熟読済:硯+楽浪土器出土)

畿内銅鐸国の重武装
木の棒と石鏃弓(考古学的にそれしか出てないよんw)

1021:日本@名無史さん
17/07/25 19:25:10.14.net
木のぼう

ドラクエみたいだな。
こりゃ九州に勝てるわけないね。
奈良は九州からの入植ですらなく、ただの流民の行き着く果てだね。

1022:日本@名無史さん
17/07/25 19:35:02.60.net
鉄器による生産性向上(出土)もあるから、
栄養状態も北部九州倭国のほうが遥かに健康的で、
体格的にも圧勝だっただろうな

1023:日本@名無史さん
17/07/25 19:38:03.81.net
妄想乙

1024:日本@名無史さん
17/07/25 19:49:49.22.net
妄想乙←泣いてるw

1025:日本@名無史さん
17/07/25 19:52:52.86.net
泣いてるという妄想乙

1026:日本@名無史さん
17/07/25 19:57:44.19.net
畿内兵:HP30
ぶき:きのぼう ぼうぎょ:きのたて
えんかく:せきぞく

北部九州倭国兵:HP500
ぶき:てつほこ ぼうぎょ:ともえがたどうき
えんかく1:てつぞく えんかく2:こつぞく(特殊効果 毒100ターン)
とくしゅ:ぶんけんちしき1・そんしのひょうほう


畿内兵の攻撃!!

バキッ!

畿内兵のきのぼうが折れた!

畿内兵に5のダメージ

北部九州倭国兵の攻撃!!

ズガガガーーーーン!!!

会心の一撃!!!

きのたてごと畿内兵をつらぬいた!!!

畿内兵に9999のダメージ!!!

畿内兵A、となりのBもたおれた!

畿内兵Cは逃げ出した!

1027:日本@名無史さん
17/07/25 20:08:35.68.net
>>991
だから、九州平定前に畿内は出雲を併合してるんでしょ。
出雲は、半島、能登、糸魚川、青森、沿海州、ウラジオとの交易があった海神国。

北陸、伊勢、駿河、甲斐、関東方面にも勢力を拡大していた朝廷は
軍隊を都に入れることを嫌ったから王宮が奈良京都なんだけどね。
戦争は大阪や関ケ原でやってくれよ。 
関東で集めた兵に防人やらせるとか、
ずっとそうだろ。

九州出兵時には瀬戸内海航路諸国は平定していた。
紀元前ならともかく、出雲併合後の200年以降に、逆に東遷なんてのは不可能。
淡路島製鉄、150年程度まで遡ってるよ。

1028:日本@名無史さん
17/07/25 20:39:30.85.net
>>1001
出雲を征服してニニギが王位に就いたのが筑紫だからね。
畿内なんて、その頃は影も形もない。

1029:日本@名無史さん
17/07/25 20:40:12.86.net
妄想乙

1030:日本@名無史さん
17/07/25 20:53:25.62.net
>>1001
言っててミジメにならない?w

1031:日本@名無史さん
17/07/25 20:55:23.37.net
>>1004
根拠が言えない九州説だけがミジメ

1032:日本@名無史さん
17/07/25 20:56:43.30.net
>>1001
>軍隊を都に入れることを嫌ったから王宮が奈良
>淡路島製鉄、150年程度まで遡ってるよ

あらら、150年程度に製鉄してたのに、
3世紀の都に鉄器ゼロ?www

武器と誤魔化しても
鉄器ゼロで、木器使ってるしwww

1033:日本@名無史さん
17/07/25 20:59:48.98.net
銅器もゼロだおw

銅鐸片だけ見つかってる銅鐸都市だおw

1034:日本@名無史さん
17/07/25 21:00:27.99.net
<国会議事堂の候補たち>

【万行遺跡(石川県七尾市)】 3世紀後半〜4世紀初頭
高床建物3棟が南北方向に軸を揃えて配置 (西3棟から東3棟への移築あり)
北極星を基準とする真北に軸が合っている

東は臼池川に、北は七尾湾に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜2m(柱直径40cm)

床面積150平方メートル 2棟(南北9.3m×東西17.2m)
床面積320平方メートル 1棟(南北18.6m×東西17.2m) 3世紀最大!!!


【稲部遺跡(滋賀県彦根市)】 3世紀後半
琵琶湖に隣接(水運に便利)
柱穴直径0.6〜1.5m(柱直径:30〜40cm)

床面積188平方メートル(16.2m×11.6m)
床面積145平方メートル など7棟


【纏向遺跡】 3世紀前半〜3世紀中旬 (土器編年マジック)
高床建物4棟が東西方向に軸を揃えて配置
真北に対して西に5度ぶれている

南北はそれぞれ川に、西は水路に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜1.7m(柱直径:30cm)

A:床面積6平方メートル 1棟(南北1.3m×東西4.8m)
B:床面積25平方メートル 1棟(南北4.8m×東西5.2m)
C:床面積42平方メートル 1棟(南北8m×東西5.3m)
D:床面積238平方メートル 1棟(南北19.2m×東西12.4m)

1035:1001
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