邪馬壹國は北部九州に ..
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2:九州王
17/06/10 10:51:33.05 .net
里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

3:九州王
17/06/10 10:52:18.53 .net
帯方郡〜倭の世界
帶方郡         郡 治
 ↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
 萬                                    投
          到 狗邪韓國                    馬
 二                               水     國
-  ----------------↓----------------------  --------
 千  度海1,000里                     行
             對馬國  方可400里(800里)
 餘  渡海1,000里  ↓                  10
             一大國  方可300里(600里)          女
 里  海渡1,000里  ↓                   日   邪
 ↓           末盧國
 ↓  陸行  500里  ↓              陸行1日(1月) 王
 ↓        到 伊都國(女王の都)             馬
 ↓      100里  ↓ 100里
自女王國       奴  國→不彌國→斯馬國           國
               ↑            ↓          壹
             烏奴國   周   已百支國
               ↑     旋     ↓
             支惟國   可   伊邪國         國
               ↑     五     ↓
             巴利國   千   都支國
               ↑     里     ↓
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
              狗 奴 國

4:日本@名無史さん
17/06/10 10:57:24.09 .net
九州王さんスレ立て乙です。
貴重な議論の場をありがとうございます。

5:日本@名無史さん
17/06/10 11:01:30.53 .net
さぁ、阿波説で盛り上がりましょう。

6:日本@名無史さん
17/06/10 14:16:22.45 .net
陸行1月は2倍暦により実質半月なのである

7:日本@名無史さん
17/06/10 14:23:07.43 .net
東周りで末廬國→斯馬國→伊都國→不彌國→奴国  西回りで已百支國→伊邪國→
都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國→奴国
周旋5千里

8:日本@名無史さん
17/06/10 14:34:30.81 .net
邪馬國ってのが気になる。

9:日本@名無史さん
17/06/10 14:39:12.05 .net
倭人伝の時代において中華の認識は
1万2千里、朝鮮半島までですでに半分は来ているという認識だった。
国の名前は当て字なので実際がどうかは知らないけど、
九州北部以外にはあり得ない。

10:九州王
17/06/10 17:33:30.30 .net
「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。

11:日本@名無史さん
17/06/10 18:51:16.06 .net
>>10九州王
>「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
涙ぐましい捏造。 ご苦労さん。
短銃に「周旋可五千餘里」とは、倭地(四国)一周の推定距離なんですよ。

12:日本@名無史さん
17/06/10 18:52:03.34 .net
「単純に」

13:日本@名無史さん
17/06/10 20:47:44.25 .net
>>10
まあだいたい福岡県内で、佐賀まで含むかどうかですね

14:日本@名無史さん
17/06/10 21:08:25.86 .net
>>10九州王
>「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
涙ぐましい捏造。 ご苦労さん。
単純に「周旋可五千餘里」とは、倭地(四国)一周の推定距離なんですよ。

15:日本@名無史さん
17/06/10 22:27:23.52 .net
吉野ケ里やら各地の遺跡をあてはめたくなるところだが、
狗奴国との境界が確定しないと無理だな
いかんせん情報が国名しかないから当てはめようもない

16:日本@名無史さん
17/06/10 22:47:48.04 .net
>>7
補足、伊都国経由の東周りで2千里、西回りの長崎、佐賀の山沿い経由で3千里
合計5千里なのである

17:日本@名無史さん
17/06/10 22:48:59.87 .net
>>15
狗奴国との境界は矢部川あたりであろう

18:日本@名無史さん
17/06/10 22:59:08.15 .net
>魏志「倭人」伝
「倭国」伝ではない
つまり、倭国大乱とは邪馬台国と狗奴国による倭国王争奪戦であるから
同時代の魏志としても
まとまった倭国とは書けず、倭人伝、そして倭と表記した。

>従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里
帯方郡から船で南行して東行して
七千余里で「倭」に到着している。

19:日本@名無史さん
17/06/10 23:00:47.38 .net
長崎県・・・対馬国、一支国、末廬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國
       姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、 鬼國、爲吾國、鬼奴國
佐賀県・・・ 末廬國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、邪馬台国(女王国含む)
福岡県・・・斯馬國、伊都國、不彌國、奴国、邪馬台国の一部含む
熊本県・・・狗奴国
宮崎南部、鹿児島・・・投馬国

20:日本@名無史さん
17/06/10 23:03:04.31 .net
狗邪韓国も倭国の範囲である

21:日本@名無史さん
17/06/10 23:05:32.87 .net
>>20
正確には倭の範囲内ということですね
倭国は倭国大乱前の北部九州国家
魏志倭人伝の時には邪馬台国と狗奴国に分裂しています

22:日本@名無史さん
17/06/10 23:08:41.87 .net
倭国大乱とは伊都国、邪馬台国のアマテラス系と奴国のスサノオ系との争いであった

23:日本@名無史さん
17/06/10 23:10:55.33 .net
>到伊都国 〜 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐
伊都国には王様がいて、
(伊都国をはじめとして奴国など26国を含む)邪馬台国のみんなは、
今の女王卑弥呼がいる女王国伊都国に統属している。
帯方郡の使者が往来して駐在するのは、
まぎれもなくこの伊都国である。

24:日本@名無史さん
17/06/10 23:13:44.37 .net
伊都国、邪馬台国は秦氏の国である

25:日本@名無史さん
17/06/10 23:22:03.75 .net
>南至邪馬壹国 女王之所都
邪馬台国とは、女王が伊都に都をおいて支配している国である。

26:日本@名無史さん
17/06/10 23:27:14.27 .net
>自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶
女王国伊都国より北は、詳しくわかる
女王国伊都国より遠くは、わからない
>郡使往来常所駐
帯方郡からの使者は女王国伊都国に駐在して
そこまでで帰っていくのだから
女王国伊都国より遠くはわからない

27:九州王
17/06/10 23:27:45.20 .net
投馬國は朝鮮半島南岸、狗邪韓国を中心とした地域
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)
狗奴國は南部九州2県(鹿児島、宮崎)
邪馬壹國の中の女王の都が伊都国
自女王國以北・・・女王国最大の国邑である奴国以北のこと
女王國東渡海千餘里・・・この場合は女王国の東の端から

28:日本@名無史さん
17/06/10 23:33:58.28 .net
親魏倭王であって、親魏倭国王ではないですし、
倭王、倭女王、であって、倭国王にはなっていないので、
卑弥呼と台与は倭国=北部九州を統一しきれなかったことがわかります。
後の景行天皇によって統一されたのでしょう。

29:日本@名無史さん
17/06/10 23:51:04.74 .net
270年まで、大和朝廷は九州を知らない、
出雲は九州との青銅貿易を隠していた。
270年の九州平定で馬の輸入を始めた。
この時の土地感覚は九州も半島も同様。
対中外交の必要で銅鐸から巨大古墳文化への
富国強兵の政策転換となった。
700年制神話の九州はデタラメである。

30:日本@名無史さん
17/06/10 23:52:49.83 .net
>270年まで、大和朝廷は九州を知らない
え?
日向三代は?
え?
神武東征は?

31:日本@名無史さん
17/06/11 00:09:25.70 .net
>>22
邪馬台国は伊都国にあったけれど、アマテラス天孫族ではない。
おそらく肥国姫氏王家の出自で、狗奴国王と近縁だった。
だからこそ、王位をめぐる争いになり得た。
卑弥呼が天孫族で狗奴国が他民族だったら、征伐して終わりだったろうし、卑弥呼の名前は記紀に残っただろう。

32:日本@名無史さん
17/06/11 00:12:01.15 .net
>>28
それは屁理屈だな。
表記のブレはあるとしても、実質的に倭国王に冊封されていた扱いだよ。
呉王をわざわざ呉国王とは書かないだろう?

33:日本@名無史さん
17/06/11 00:16:29.46 .net
>>32
最初に言っておきますが、私も伊都国説ですよ。
漢倭奴国王
親魏倭王
比べてみるとわかりますし、
倭人伝の記載でも、台与も狗奴国に苦戦しています。
卑弥呼も台与も、倭国統一を成し遂げていません。

34:日本@名無史さん
17/06/11 06:13:53.18 .net
筑紫勢力 漢委奴国王(57年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷

35:日本@名無史さん
17/06/11 07:18:21.53 .net
>>34
>畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷
九州→大和朝廷へ結びつけんがための、愚創作

36:日本@名無史さん
17/06/11 07:21:50.34 .net
>>34
その通りです

37:日本@名無史さん
17/06/11 07:23:44.52 .net
「糸国」症候群

38:日本@名無史さん
17/06/11 07:37:45.19 .net
>>35
その通りです

39:日本@名無史さん
17/06/11 09:00:42.52 .net
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Q 米、小麦を食べてる人は統合失調症、うつ病、身体障害者なんですか
A そうです

40:日本@名無史さん
17/06/11 12:02:43.33 .net
卑弥呼が、つまり邪馬台国が倭国統一を成し遂げていないのであれば、
定義上は倭国王ではないわけで、
そうなると、事績としては大きいのだが、
倭国王の系譜に記載する必要性が必ずしもあるわけでは無い、
ということになる。
倭国大乱の前の男王達、これは紛れもなく倭国王であるのだが、
倭国大乱中は、倭国王は存在せず、
存在するのは邪馬台国王と狗奴国王だけ。
その後の中国史書では倭国の表記が復活するのと、
4世紀の紀年国産鏡が卑弥呼の事績を讃えていることから、
台与以後のいずれかの時点で、邪馬台国側が倭国再統一を成し遂げたのであろう。
倭国再統一後の倭国王は、王の系譜に記載される資格を持つわけだ。

41:日本@名無史さん
17/06/11 14:46:51.00 .net
>正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣「倭国」、拝假「倭王」
倭国に詣で、倭王に拝した・・・、とあるから、
そのときすでに「倭国」は誕生しており、その王(倭王、卑弥呼)もいた、で良かろう。、

42:日本@名無史さん
17/06/11 15


43::01:59.40 .net



44:日本@名無史さん
17/06/11 15:42:12.35 .net
九州には二十数か国の連同国、邪馬台国とその南の敵国、狗奴国等が有り
周代より100異郷の国が朝貢に訪れている。
九州の東の海を渡るとそこにも倭種の国が数百有る。
大和朝廷が本州を平定したのは漢代以降で九州は270年である
中国は百済、新羅が統一される350年以前の辰韓の一国新羅も国と認めている。
戦乱の中国は臣下となる者すべての小国と国家外交を結ぶ傾向にあった。
高句麗、新羅、百済は韓四国を浸食したため、
中毒の直轄領または属国となった。
日本は九州を含めた、日本列島の島国としての独立を図り
700年の古事記日本書紀を編纂し、それ以前の歴史を消した。
ある程度は、中国系の史記を消せないのと、考古学的立証が出来ている。
九州発祥神話、邪馬台国畿内説、銅鐸の謎、古墳発生の理由
は、古代史のミスリードを誘う愚民化。

45:日本@名無史さん
17/06/11 15:42:16.18 .net
「倭国」とは列島側の呼称ではなく、あくまでも中国側からの呼び名にすぎない。
列島の30国の連合国の総称などはまだ存在していない。
だから「倭国伝」ではなく「倭人伝」であり、「親魏倭王」なんだな。

46:日本@名無史さん
17/06/11 16:05:19.49 .net
畿内ヤマト政権の誕生は285年である

47:日本@名無史さん
17/06/11 16:15:38.11 .net
奈良大和朝廷の誕生は8世紀からである

48:日本@名無史さん
17/06/11 16:54:02.55 .net
大宰府から奈良に遷都したのは倭国が壬申の乱でヤマトに勝ったあとである

49:日本@名無史さん
17/06/11 17:08:29.42 .net
その前に太宰府から大津近江京に遷都してなかったか?

50:日本@名無史さん
17/06/11 17:10:13.39 .net
3世紀の倭国王は卑弥呼であるというのが魏の立場だよ。
それが冊封の意味するところ。
そして倭国とはそもそも九州北部を指す言葉。
それ以外は倭種と呼ばれていた。
ただし卑弥呼が筑紫天孫族でなければ、ヤマト政権としては史書に記録する必要はなくなる。
そもそも、九州王朝というのは俗称で、その正式な名称が倭国というのが、最初に提唱した古田氏の意見だったはず。

51:日本@名無史さん
17/06/11 17:23:23.76 .net
大津近江京に遷都したのは畿内ヤマトの天智である、九州倭国とは関係ない

52:日本@名無史さん
17/06/11 17:49:20.32 .net
>>49
所詮戦乱大陸の魏の立場は畿内朝廷と関係無いけど、それが有るから、
400〜500年の半島利権交渉は南朝の建康との外交になったかもね。
朝廷は270年には対馬貿易を独占し、
すでに平定済みの東国、甲斐、信州で高句麗牧童も連れて
牛馬の御牧を勅営して、400年にはこれに成功している。
銅鐸文化社会、西国、東国の事情、馬を知らない、
邪馬台国のような弱小九州豪族の東遷では間に合わない。
東国の開拓には最低でも始皇帝の悪政、古墳を知っている渡来人が関係している。
わざわざ、日本式前方後円墳にしようが、それは前例が有るし、
騎馬戦、海戦を知らずに、いきなり船団や、騎馬兵団は生まれない。
徐福の後継やそれ以降の情報を持った
対馬航路以外の渡来人が含まれていても、当然かまわない。

53:日本@名無史さん
17/06/11 18:14:55.42 .net
壬申の乱は九州
URLリンク(www.geocities.jp)

54:日本@名無史さん
17/06/11 18:15:23.18 .net
>>51
>朝廷は270年には対馬貿易を独占し、
根拠がない。
>わざわざ、日本式前方後円墳にしようが、それは前例が有るし、
那珂八幡古墳など、九州の古墳の様式が伝播した。
>騎馬戦、海戦を知らずに、いきなり船団や、騎馬兵団は生まれない。
海戦は海人氏と呼ばれた筑紫倭国が得意とするところである。
騎馬は後から伝わった。
>徐福の後継やそれ以降の情報を持った
徐福が到着したのは九州だ。

55:日本@名無史さん
17/06/11 18:32:44.87 .net
>>53
>那珂八幡古墳など、九州の古墳の様式が伝播した。
鳴門の萩原墳墓群など、阿波の積石塚の様式が伝播した。

56:日本@名無史さん
17/06/11 18:42:58.01 .net
>>53
>海戦は海人氏と呼ばれた筑紫倭国が得意とするところである。
海戦は海人氏と呼ばれた倭国(阿波)海部(出雲地方)が得意とするところである。

57:日本@名無史さん
17/06/11 18:49:39.14 .net
>>52
大津近江京は熊本の大津にあったということなのか?

58:日本@名無史さん
17/06/11 18:54:39.94 .net
天智天皇は直前に太宰府の水城を
修復したりしている。
天智は九州王朝の王だろう。
大津近江京に疎開したが、
畿内の天武天皇にクーデターを起こされ失脚。
大和朝廷は畿内派のものとなる。
ただし、連れてきた官僚の多くはそのまま雇用され
大和朝廷の迅速な設立に役立っている。

59:日本@名無史さん
17/06/11 18:59:48.44 .net
>>57
そんな・・・・アホの話は、読む価値もなく、読む気もしない。

60:日本@名無史さん
17/06/11 19:13:42.81 .net
>>56
大津近江京?近江大津宮だろ
近江大津宮は幻で肥後大津宮ってことだろうな。
近江大津宮錦織遺跡は宮じゃなくて国府とかの跡じゃないかな。

61:日本@名無史さん
17/06/11 19:23:03.48 .net
九州神話問題のヒントとして
消えた信州安曇族の謎と言うのが有る。
九州から250〜300年位に糸魚川〜大町ルートで安曇野開拓に上っている。
海路は海神族の九州〜出雲〜糸魚川がなければ、青銅と翡翠の伝搬が無理筋になる。
陸路が非常に長旅だが、この道は水稲耕作適地は多くないw 
出雲に騙されないで、信濃川行けよw ま、開拓済かも?
この安曇族は、いったん安曇野開拓で水稲耕作をもたらした後
磐井の乱、白村江海戦で本家に呼び出されたのだろうが、消えた。
九州族は多くは半島開拓に配流され、紀元前から
出雲と親交のあった安曇族のような豪族だけが生きながらえてると思う。
朝廷の九州降臨はデタラメ。 270年以前の神話の物証は無い。
銅鐸は有力だが、出雲と青銅、翡翠貿易が有ったのは間違いない。
つまり、700年時点で九州は中国領に為る可能性が有った。
これを、朝廷が歴史的に日本固有の領土と主張した。
歴史には記紀はそれだけのモン。
隣国、熊本と敵対してる邪馬台国には300年までの東国平定はできない。
270〜80までに滅びている。
平原の割れた銅鏡の遺跡は殉死だろう。 
卑弥呼の墓は、同盟国最南部の久留米で消滅か、
伊都のトヨの墓の殉死遺構のその下にあるかもな。

62:日本@名無史さん
17/06/11 19:23:36.06 .net
>>57
天武天皇は九州倭国の王である

63:日本@名無史さん
17/06/11 19:29:03.94 .net
天智朝は白村江の敗戦を受けて成立した傀儡政権だよ。
近江大津宮が九州であった可能性について1%くらいは考えなくはないが、その後に畿内政権が確立されることを考えると、そろそろ畿内勢力がまともに歴史の表舞台に出てこないとおかしい。

64:日本@名無史さん
17/06/11 19:32:30.08 .net
>>60
前半と後半が全くつながらず、支離滅裂だ。
特に、筑紫への降臨とその証拠として248年に埋葬された八咫の鏡がある。

65:日本@名無史さん
17/06/11 19:33:37.11 .net
九州王朝歴で、大化は695年から700年。
ここで大化の改新が起こり
畿内系に移行。
畿内系の大和朝廷が設立される。
701年からは大和朝廷歴の大宝である。

66:日本@名無史さん
17/06/11 19:40:52.95 .net
大化の改新の時は中大兄皇子が重要な役割を果たしたが、大宝律令の完成の時にはすでに亡くなっている。
中核となる人物に齟齬がある以上、その意見は許容できない。

67:日本@名無史さん
17/06/11 19:41:02.31 .net
天智天皇は絶対守れない半島利権を放棄する為に
百済引き揚げ豪族の為に白村江海戦の船団を用意した。
新羅と戦争するなら釜山に上陸するに決まってるし、唐の船団も疲弊する。
600年の開国派、聖徳太子は史記、国記、天皇記を編纂したが
九州平定を史実の270年で設定した。
天武天皇は立憲君主として663年の敗戦はこれを否定する必要が有った。
記紀はこの為に創ったのであり、愚民が日本史に翻弄されるのは願ったり叶ったりである。
おまえら、もう、わかってるだろ?

68:日本@名無史さん
17/06/11 19:43:29.80 .net
>>66
日本書紀は敗戦を隠蔽していない。
270年の九州平定など根拠がない。

69:九州王
17/06/11 19:45:54.89 .net
>701年からは大和朝廷歴の大宝である。
以前、思い付きでヤフーの掲示板に書いたらいつの間にか古田史学会とかでも定説になってるなw
郡評とかもこのタイミングで変わってるから間違いないだろうな。

70:日本@名無史さん
17/06/11 19:46:20.20 .net
【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
後に記紀を編纂する近畿大和朝廷から見れば、これこそが政権奪取の好機だった。
中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ可能性がある。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(当時の大君と考えられる)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。
この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能したと考えられる。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度であり、倭国は独立国としての権限を喪失した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。

71:日本@名無史さん
17/06/11 19:47:36.42 .net
竹取物語の貴公子たちの官位は、701年当時のものである。

72:日本@名無史さん
17/06/11 20:02:12.69 .net
九州王朝説もばらばらなんだよな
天智系
天武系
どっちが九州系で、もう一方はどこ系なんだよ

73:日本@名無史さん
17/06/11 20:03:49.91 .net
古田も死んだし、もう解散でしょ

74:日本@名無史さん
17/06/11 20:15:28.61 .net
>>62
> 近江大津宮が九州であった可能性について1%くらいは考えなくはないが、その後に畿内政権が確立されることを考えると、そろそろ畿内勢力がまともに歴史の表舞台に出てこないとおかしい。
「天智天皇 淡海の大津宮」とは「淡海(阿波海)には、鯨魚(いさな)を漁る舟が見え、時には沖の波が荒れ、多くの島々と湊(泊)があった古津神浦」
である鳴門市撫養町の「木津金比羅宮」である。
鳴門市北灘に鎮座する葛城神社の隠された祭神が天智天皇であるように、天智天皇は阿波の鳴門一帯を政治の拠点としていた。

75:日本@名無史さん
17/06/11 20:48:45.07 .net
>>71
多分、そんなに簡単に割り切れない。
天智が唐の傀儡なのは明らかだし、畿内政権の基盤を固めたのは天武だから、どちらも畿内政権側に立っているようにも見える。
そうすると、壬申の乱が九州で起きたという考え方は難しくなる。

76:日本@名無史さん
17/06/11 20:52:32.52 .net
大化の改新で畿内ヤマトに政権が移り壬申の乱で今度は九州倭国に移った
それから何回も政権交代があった、源氏VS平氏、北朝VS南朝、いまでも続いている

77:日本@名無史さん
17/06/11 20:54:26.65 .net
>>71
天智系は畿内ヤマト(天孫族)、天武系は九州倭国(天神族)である

78:日本@名無史さん
17/06/11 21:05:26.24 .net
天智は新羅系だろ

79:日本@名無史さん
17/06/11 21:06:27.49 .net
天武は百済系だよな

80:日本@名無史さん
17/06/11 21:33:43.10 .net
天智は畿内ヤマト(百済)、天武は九州倭国(新羅)である

81:日本@名無史さん
17/06/11 21:33:48.88 .net
閑話休題
「壬申の乱」
大友皇子軍の淡海の大津宮:阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津
大海人皇子軍の吉野宮:吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮
として、天武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのです。
【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】
⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮

82:日本@名無史さん
17/06/11 21:39:13.94 .net
九州倭国と百済は同根だろう

83:日本@名無史さん
17/06/11 21:46:10.82 .net
天智は倭国を間接的に滅ぼしたが、天武も倭国の時代に決別することを選んだ。
時代の針は戻らない。

84:日本@名無史さん
17/06/11 21:52:12.66 .net
>>82
>天武も倭国の時代に決別することを選んだ。
つまり、阿波から大和へ遷都を選んだ。

85:日本@名無史さん
17/06/11 22:24:15.40 .net
北九州の倭国の統一されずに小国で並んで居る様はまさに避難民
元々沖縄に居たんだろうな

86:日本@名無史さん
17/06/11 22:43:58.98 .net
>>81
畿内ヤマトと百済が同根なのである

87:日本@名無史さん
17/06/11 22:45:55.93 .net
天武は大宰府から奈良に遷都した

88:日本@名無史さん
17/06/11 22:47:36.02 .net
九州倭国は唐と同盟し畿内ヤマトは隋と同盟した

89:日本@名無史さん
17/06/11 22:51:31.98 .net
>>75
大化は50年前に持っているので
実際には壬申の乱の後に大化の改新が起きてる

90:日本@名無史さん
17/06/12 01:11:43.95 .net
大化の改新は大宝律令のパクリである

91:日本@名無史さん
17/06/12 08:32:59.42 .net
ふん、邪馬台国はエジプトだったに決まってるだろ。
:水行十日、陸行一月が誤りではなく。。。「その時代には、九州の南には陸地があった」
 とするなら=魏志倭人伝の記上は、誤りではなく事実だった!コトに、なる。

92:日本@名無史さん
17/06/12 08:36:25.76 .net
ムー大陸でいいじゃん

93:日本@名無史さん
17/06/12 10:56:07.29 .net
大和朝廷は平定から500年付近まで九州を百済新羅のような冊封国として扱っていた。
筑紫の君は朝廷が派遣した国司だが実態は百済新羅王のような国王であろうとした。
半島状況の悪化で、この方針を転換して、外交独立を目指した磐井を討った。
これを、平定と言うなら、九州平定は270年付近ではなく有史の磐井の乱だ。
白村江以降、唐の百済統治軍が戦後処理で大宰府に船団で訪れているが
この交渉を通じて、朝廷は九州が絶対的な防壁として必要な事を痛感した。
これが、古事記日本書紀が編纂された背景であり、
曖昧期間の欠史と朝廷九州発祥の捏造理由だ。
九州王朝説は畿内説よりは史実に踏み込んでいるが
現実社会の実態背景が伴わず、考古学的反論に反証できなくなる。
弥生渡来人も邪馬台国も銅鐸も、謎、など無い。

94:日本@名無史さん
17/06/12 12:35:50.56 .net
>>92
大和朝廷は8世紀持統朝からなんですよ。

95:日本@名無史さん
17/06/12 12:46:41.39 .net
>>92
岩井の時は九州は平定されていないですよ。
息子が筑紫の君を継いでいますから。

96:日本@名無史さん
17/06/12 12:48:29.93 .net
>>92
戦後処理で唐が畿内ではなく大宰府までしか来なかったのは、大宰府が倭国の都だったからですよ。

97:日本@名無史さん
17/06/12 13:11:28.11 .net
>>95
倭国の都に乗り込まれちゃ、お仕舞になっちゃってるよ。
九州が倭国の都じゃなかった証拠。 

98:日本@名無史さん
17/06/12 13:32:31.52 .net
白村江で惨敗を喫した知らせが届いてから、押っ取り刀で奈良へトンズラしたのかね?
九州倭国のヘタレ連中は。

99:日本@名無史さん
17/06/12 13:37:24.36 .net
九州倭国、出雲、新羅、唐連合軍VS畿内ヤマト、百済、隋なのである
白村江で惨敗を喫したのはヤマトが作った百済でありヤマトなのである

100:日本@名無史さん
17/06/12 13:38:54.64 .net
半島で百済を滅ぼされヤマトは倭国から撤退し滋賀の大津へと逃げ込んだ

101:日本@名無史さん
17/06/12 13:40:15.65 .net
滋賀の大津へと逃げ込んだヤマトは壬申の乱で九州倭国にボコボコにされた

102:日本@名無史さん
17/06/12 13:46:36.22 .net
九州倭国が白村江で負けたんじゃないなら衰退する理由なくね?

103:日本@名無史さん
17/06/12 14:08:55.44 .net
>>101
同意。 言い訳を待ちましょう。

104:日本@名無史さん
17/06/12 14:31:04.56 .net
>>96
だから、九州倭国はそこで滅亡。
戦後に天智天皇が即位して、畿内に政権が移行


105:する。 新しい国の名前が日本国。



106:日本@名無史さん
17/06/12 14:47:48.12 .net
白村江のときには、
王が天智天皇、前線総司令官がサツヤマさん
のようなイメージですね。
白村江で大敗北してサツヤマさんが捕まり
戦後処理をしながら、天智天皇は、
大津近江京へ遷都、疎開した。

107:日本@名無史さん
17/06/12 16:04:14.73 .net
>>104
中大兄皇子はまだ即位してないよ。

108:日本@名無史さん
17/06/12 16:38:09.05 .net
>>101
九州倭国は白村江でヤマトの百済に勝ち、唐の協力で壬申の乱でヤマトに大勝し
大宰府から奈良に遷都し西日本一帯を一つにまとめニホンを名乗った(ヤマトニッポンではない

109:日本@名無史さん
17/06/12 16:43:23.83 .net
奈良時代の始まりは九州倭国の西ニホン統一である

110:日本@名無史さん
17/06/12 16:46:38.86 .net
倭国の訓読みがヤマト、本来はいわゆる九州王朝のこと。
天智天皇が樹立して天武天皇が奪った畿内政権の名前が日本国。

111:日本@名無史さん
17/06/12 16:48:41.20 .net
古墳時代までに九州倭国は概ね西日本を制覇していたが、唐の傀儡政権である日本国への政権移行から律令時代、奈良時代が始まる。

112:日本@名無史さん
17/06/12 17:17:20.92 .net
>>103
唐軍に乗り込まれてるのに、天智天皇が即位???
唐軍はアホというのか?
九州に倭国が在ったのならば、完全に唐軍に皆殺しにされてるよ。
天智天皇が即位??? ボコボコにやられてるのに天智天皇が即位???  阿保ですね。

113:日本@名無史さん
17/06/12 17:18:55.74 .net
>>104
唐軍に乗り込まれてるのに、天智天皇が即位???
唐軍はアホというのか?
九州に倭国が在ったのならば、完全に唐軍に皆殺しにされてるよ。
天智天皇が即位??? ボコボコにやられてるのに天智天皇が即位???  阿保ですね。

114:日本@名無史さん
17/06/12 17:22:44.61 .net
>>106
>九州倭国は白村江でヤマトの百済に勝ち、唐の協力で壬申の乱でヤマトに大勝し
     太宰府から奈良に遷都し
戦勝国九州倭国がなんで敗戦国へ遷都せにゃならんのだ? あほですね。  やり直し!!

115:日本@名無史さん
17/06/12 17:26:47.86 .net
>>110
天智は白村江の戦いの頃はまだ即位していなかったから、責任者ではなかった。
唐の傀儡として天智が即位した。
実際、筑紫倭国の最高司令官であった筑紫の君は抑留され、福岡は占拠されている。
天智は筑紫の人間ではなかったので、唐から信任された。

116:日本@名無史さん
17/06/12 17:29:26.20 .net
>>113
簡単なこと。  皆殺しにされなかったのは、筑紫が邪馬台国じゃなかったからだよ。

117:日本@名無史さん
17/06/12 17:35:27.23 .net
邪馬台国は関係ないだろ
唐新羅が戦争したのは倭国だ

118:日本@名無史さん
17/06/12 17:48:43.25 .net
>>115
どっちゃでもええがな!  九州には倭国がなかったから、よかったな!

119:日本@名無史さん
17/06/12 17:48:59.12 .net
なんで銅鐸時代が終わってから、6〜700年まで、九州王朝と畿内王朝が併存するよ。
270年までは、出雲が青銅、翡翠貿易を隠していた以外、内地と九州は異文化で没交渉だろ。
300年位から対馬航路で馬の輸入を始めて、
400年には高句麗人も使って甲斐信州武蔵に御牧を作って成功してるんだよ。
関東制覇していた畿内王朝にしかできないだろ。
260年代で邪馬台国は外交権無くなって
朝廷が富国強兵政策に転換して、馬と製鉄の国内生産化完了する、
400年の倭の五王まで、半島開拓はしたけど中国外交が無いんだよ。
400年に九州が畿内を制しても、東国に御牧が完成しないだろ。
白村江後は大和朝廷にとって九州が270年まで
百済のような外国だった事を隠蔽する必要が有ったんだよ。
その為の聖徳太子の国記天皇記を消滅させての、古事記日本書紀だろ。 
なんで法隆寺と斑鳩宮に裴世清が来た、600年に九州王朝あるよwww

120:日本@名無史さん
17/06/12 18:34:03.76 .net
>>112
戦勝国九州倭国が敗戦国ヤマトの畿内を制圧し奈良へ遷都し西ニホンを統一し
ニホン(ニッポンではない)を名乗った

121:日本@名無史さん
17/06/12 18:35:19.94 .net
ヤマトの天智は唐から暗殺されたという説がある

122:日本@名無史さん
17/06/12 18:43:10.12 .net
>>117
>関東制覇していた畿内王朝にしかできないだろ。
それは、阿波から進出した、関東忌部なんですよ。

123:日本@名無史さん
17/06/12 18:44:10.72 .net
天智の遺体はみつかってない
墓もない

124:日本@名無史さん
17/06/12 18:46:16.37 .net
>>118
戦勝国九州倭国がなんで敗戦国奈良へ遷都しなきゃならんのだ?
その空想も駄作で却下。

125:日本@名無史さん
17/06/12 19:18:07.75 .net
>>115
どっちゃでもええがな!  九州には倭国がなかったから、よかったな!

126:日本@名無史さん
17/06/12 19:32:00.41 .net
まぁ、皆殺しだろうな。運が良くて人質だな。倭国九州が在ったとすれば。

127:日本@名無史さん
17/06/12 20:26:59.72 .net
白村江⇒壬申の乱⇒大化の改新⇒ヤマト朝廷の成立
白村江で倭王が唐の捕虜となる
唐と新羅の間で緊張が高まり倭王が許されて帰国
倭国内で帰国した倭王と留守を預かっていた弟倭王との間で内線勃発
倭の皇女を嫁に貰っていた畿内の豪族の息子を後継者にすることを条件に
畿内勢の加勢得た倭王が勝利
内戦と地震で荒廃した筑紫から畿内に遷都
畿内の豪族の息子の死を切っ掛けに倭王が殺害されヤマト朝廷成立

128:日本@名無史さん
17/06/12 20:36:07.22 .net
>>125
>倭の皇女を嫁に貰っていた畿内の豪族の息子を後継者にすることを条件に
    畿内勢の加勢得た倭王が勝利
あほ! 沼地でド田舎の畿内に豪族なんか居るかい!
くだらん駄作  そこからやり直せ!

129:日本@名無史さん
17/06/12 20:42:33.13 .net
倭国は馬韓にあった
倭国は燕に属す
百済は渤海の西から馬韓へやって来た
だから百済のことを倭国とも言う
倭の五王とは百済に居た

130:日本@名無史さん
17/06/12 21:20:28.12 .net
九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の畿内を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。  @阿波

131:日本@名無史さん
17/06/12 22:58:31.94 .net
畿内に有力豪族がいたのは7世紀の話だからな

132:日本@名無史さん
17/06/13 00:46:21.77 .net
邪馬台国の頃はど田舎だった大和も、8世紀には壮大な平城京に生まれ変わる。
沼地の開墾が完了するんだよ。
663年、白村江の戦いの敗戦で筑紫倭国は滅亡し、670年に唐の傀儡政権である日本国が誕生する。
701年の大宝律令で完全な権力移譲の完了、710年に平城京遷都だよ。

133:日本@名無史さん
17/06/13 06:42:27.53 .net
>>130
>邪馬台国の頃はど田舎だった大和も、8世紀には壮大な平城京に生まれ変わる。
    沼地の開墾が完了するんだよ。
一体誰が沼地の開墾をしたんだよ?  ド田舎の田舎っぺに広大な沼地の開墾なんか
出来っこね〜べよ。 いきなり飛躍させんな! そこんとこからやり直し!!  駄作!

134:日本@名無史さん
17/06/13 09:09:22.55 .net
>>131
九州倭国の一勢力の神武が東征して植民してた
神武以後、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、そして天武と10代に亘って開墾を進めていた。

135:日本@名無史さん
17/06/13 09:58:15.89 .net
>>132
>九州倭国の一勢力の神武が東征して植民してた
神武が沼地のド田舎へ東征する理由がない。 神武が沼地でド田舎が好きになった理由を述べよ。

136:日本@名無史さん
17/06/13 10:25:19.36 .net
米が良く実るからだろ

137:日本@名無史さん
17/06/13 11:39:21.44 .net
沼の蛭に気を付けな!

138:日本@名無史さん
17/06/13 17:42:40.17 .net
どうせ献上させるのだから
米が良く実る場所に住む必要が無い

献上品の流れははっきりと残っているよね

139:日本@名無史さん
17/06/13 18:02:53.80 .net
【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓       近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

140:日本@名無史さん
17/06/13 18:28:27.61 .net
畿内説スレに小札革綴冑が物証とかドヤ顔してるのがいてマジウケるw
邪馬台国論議の核心は、
「内行花文鏡の流れからして、前方後円墳が北部九州勢力の侵入じゃないのか」
という問題なのにさ。
前方後円墳が北部九州由来かそうでないかを証明するのに
前方後円墳から出土したものをいくら提示しても無意味だよな。
小札革綴冑なんて武具を副葬している時点で、
副葬されたのは畿内を征服した北部九州将軍であって、
北部九州の王は平時の礼服や財宝と共に副葬されたという考えも成り立つわけだ。

>北部九州
集落に鉄器豊富
王墓に鉄器が豊富に副葬、宝石が多い
>畿内
集落に鉄器皆無
古墳に鉄器が豊富に副葬、武具が多い

141:日本@名無史さん
17/06/13 19:56:40.70 .net
>畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。
誰が見ても「槨」である木槨や竪穴式石室を否定するのなら、
畿内説の言う「槨」とやらが、どんなものなのか教えてほしい
それに円形のが先に作られたから径百余歩とかいう珍説を唱えるなら、
禁止されていない前方後円墳を100くらい調査しなおして
珍説を証明するくらいの努力はしてほしい脳

142:日本@名無史さん
17/06/13 23:17:26.77 .net
>畿内でも盗掘の酷かったのが椿井大塚を始め
>生駒山周辺なんですよ。今日の新聞報道にも出てましたが
>盗品として長く保管されていた、古墳前期四世紀辺りの物の
>調査が進むようですね。
中国の骨董市を上回るのか・・・オラ、ワクワクしてきたぞw

143:日本@名無史さん
17/06/14 05:12:51.57 .net
>>1
何だこれ
文献を曲芸読みしてるだけかよ
こんな読み方がありなら世界中どこでも邪馬台国にできるわ
しかも考古学を完全に無視してる
問題外

144:日本@名無史さん
17/06/14 05:17:23.96 .net
     それが九州説

145:日本@名無史さん
17/06/14 06:29:38.13 .net
>>141=142
1.お前さんの行程論を述べてごらん?
2.お前さんは日本人?
3.お前さんは日本のこと好きかな?

146:日本@名無史さん
17/06/14 07:44:34.99 .net
>>141
漢文の読みとしては問題ないでしょ、誤りがあるなら指摘してね。

147:日本@名無史さん
17/06/14 08:44:30.50 .net
>>144
問題、大有りだな
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。
有千余戸は。魏の時代に千余戸あったという意味である。
世有王の場合は、「世」がつけられているから、魏の治世のことでなく、過去の或る時代において・・・、という意味である。
もしおまいの言うように、「世」が魏の治世を意味するならば、有千余戸は「世有千余戸」と書かれていなければならない。
どうだ、参ったであろう。

148:日本@名無史さん
17/06/14 09:07:03.09 .net
>>145
君は三国志読んだことないね
魏書で世とあれば通常は魏の時代(曹氏が公、王、帝)を指してるよ

149:日本@名無史さん
17/06/14 09:37:03.24 .net
「世」には、過去の世も、現在の世も、未来の世もある。
あの世といういいかたさえある。
魏書でも、その場その場で、使い分けられている。
この件は、直前の有千余戸と対比されるので、世有王は、ときの魏代(魏世)とは明らかに別の時代(世)を指しているのである。
(もし魏世のことであったなら、「有王」だけでよろしい)

150:日本@名無史さん
17/06/14 11:17:44.43 .net
>>147
>(もし魏世のことであったなら、「有王」だけでよろしい)
これだと「伊都国に王がいた」との意味で何時だか分からない
魏書を読めば分かるが「世有」とは魏の世を指してる。
「世有」に何人か王がいたとしても魏の世内に何人かいたって意味にしかならない
「今汝先人世有冠冕 惟仁義為名 守慎為稱 孝悌於閨門 務學於師友(魏書27王昶)
舊」この場合も世を代々と訳されてる場合が多いが漢末から三国時代の話だな。
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ(魏書5后妃傳)」今場合の世有は完全に魏の世だな。

151:日本@名無史さん
17/06/14 11:49:15.98 .net
またこの話題か、論破済みだな

152:九州王
17/06/14 12:05:52.97 .net
「今汝先人世有冠冕」の先人とは王昶の父、王沢と伯父の王柔。兄の王機と王昶自身のことだからな。

153:日本@名無史さん
17/06/14 12:06:28.02 .net
>>149
嘘つけ逃げてたじゃんw

154:日本@名無史さん
17/06/14 12:07:30.40 .net
>>149
何も反論を言わないのが論破www

155:日本@名無史さん
17/06/14 12:07:49.94 .net
現代日本人が作るニセ中国語かww

156:九州王
17/06/14 12:20:23.52 .net
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ
魏は漢法に因み、母后の号は皆な旧制の通りだが、夫人より以下は魏代には増損があった。
漢の法を基にしたので、母后の号とかは漢の通りだったが夫人より以下は魏代には増減があったって意味だからな。

157:日本@名無史さん
17/06/14 12:20:54.38 .net
>>153
反論しろよw

158:日本@名無史さん
17/06/14 12:40:56.14 .net
罵倒して逃げて
ほとぼりが冷めたら論破したって
どんな思考回路してるんだろうなw

159:日本@名無史さん
17/06/14 12:45:55.22 .net
ここで世とは、時代の違いを区別して述べているわけだ
魏に限定される用法ではないな

160:日本@名無史さん
17/06/14 12:56:33.70 .net
世有り王が、魏の世を意味するのであれば、
有り千余戸は、いったいいつの世(時代、治世)のことを述べているのかわからんではないか
いつの時代のことか、説明してくれ

161:日本@名無史さん
17/06/14 13:50:47.16 .net
恐ろしいのは箸墓が250年頃だとか民博、橿考、櫻井研がと言い張ってるんだよなぁ
C14で250−350って出たのを250と言い張ってる訳だけど
これもし北九州で親魏倭王印出てきたらどう言い訳すんの?
そこで「今まで嘘ついてました」と認めるような奴らじゃないし
邪馬台国の時代に奈良にもそれに匹敵する巨大国家があったと言い張るよね?
実際は4世紀の遺跡なのに3世紀だと言い張ることになる
こいつらってゴッドハンド旧石器事件と同じくらい悪質

162:日本@名無史さん
17/06/14 14:04:08.32 .net
>>157
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ」の場合は
魏と漢の法の違について述べてるんだから「世有搗ケ」の世有は魏の時代についてだよ。
>>158
「有千餘戸」は報告者(張政?)が倭を訪れた時点での戸数。
「有千餘戸」と「世有王 皆統屬女王國」の間で切れてるな。

163:日本@名無史さん
17/06/14 15:13:24.09 .net
親魏倭王印はトヨの代で返したと思うぞ

164:日本@名無史さん
17/06/14 15:23:05.39 .net
魏が滅亡したのに誰に返すんだろう?
普は形上は禅譲されてるから親魏倭王を否定する理由もないし
もし気に食わないなら親普倭王の印綬を再度与えるよなぁ
中国の異民族の支配地で出て来る冊封の印綬も返却しなかった証拠でしょ?

165:日本@名無史さん
17/06/14 15:25:38.06 .net
王印は結構墓からみつかってるから、返すルールはなかったんだろ

166:日本@名無史さん
17/06/14 15:33:54.96 .net
邪馬台国とヤマト王権に連続性があるなら
親魏倭王印は朝貢に積極的だった倭の五王辺りまで大事に持ってた可能性はある
そうなると雄略辺りの墓に入ってる可能性も

167:日本@名無史さん
17/06/14 16:36:43.70 .net
3種の神器の玉が金印なんじゃない?

168:日本@名無史さん
17/06/14 19:09:45.49 .net
王朝が交代したら前の王朝から貰った印は効力無くなるな
壹與は新たな印を貰うために晋の泰始元年に朝貢したんだろう。

169:九州王
17/06/14 19:11:29.54 .net
倭人伝の「世有」が魏の治世を指していることに異論はないな。

170:日本@名無史さん
17/06/14 19:59:19.07 .net
>>166
生口30人とその他の貢物を送った割に新たな金印貰った記述がないんだよな

171:日本@名無史さん
17/06/14 20:13:38.08 .net
>>166
だな。
ただし、前の王朝との連続すなわち正統を証明するため、最初だけは前の印を使わなくてはいけないだろう。
だから卑弥呼も最初の朝貢では、漢委奴国王印を用いただろう。
それは福岡にあった。
つまり、卑弥呼は福岡に居たんだよ。


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