邪馬台国 畿内説Part ..
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123:日本@名無史さん
17/04/17 21:53:43.45 .net
218の>>988
>Q:倭があるのは会稽「東治」の東である 九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している<
 それはおかしい。
 古田本では、「王朗が東冶に奔った」と紹介されている。
>行き先が東侯官(現・福州市)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ 17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある ザラ酷説即死してんな<
 また、「計其道里、當在會稽東治之東」は、当然、
 陳寿の魏志執筆時の「地の文」での説明文である。
 
 そして、永安3年(260年)の会稽郡の分郡に拠って、
 会稽郡は、北の会稽郡と、南の建安郡に分かれたのであるから、
 陳寿の執筆時の会稽郡とは、(建安郡ではなく)北の会稽郡を指す事になる。
 だから、執筆時の地の文での会稽東治は、
 (福州付近の東治ではなく)北の会稽郡の東治を指す事になる。
 


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