ほれ死ねい江南サギ湾ブタ!これが弥生と長江江南の農具の比較だ! at HISTORY
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670:日本@名無史さん
17/03/23 21:37:03.65 .net
>>668
考古学界で日本稲作が江南だと言う方が笑われるだけだよ。

つか、もう誰にも口利いてもらえません。

671:日本@名無史さん
17/03/24 02:18:21.91 .net
>>667
だから、民族として、列島に入ってきた北アジア系には2系統あると考えられる。
沿海州から日本海沿いに半島を通り列島に入って、日本海側に広がった系統と、
中原から黄海沿いに半島を通り列島に入って、今の西日本に広がった系統。
後者が稲作を持ち込んだと考えたら、現代日本列島人の東西差ともリンクしてる。

672:日本@名無史さん
17/03/24 02:40:14.85 .net
>>671
中原から半島経由で日本にやって来といて、何で半島にも日本にもその証拠遺跡も
証拠生活文物も一切ないの?

稲作導入が渡来人の手によるものだという先入観から脱却したらどうだ?

日本の最古水田には朝鮮からの渡来人が生産していた痕跡土器がない。

単に弥生人自身が導入しただけだからだ。

朝鮮にも中国からの渡来人の痕跡遺構がない。

日本と同じで、稲作を中国から導入したのが半島人自身だからだ。

673:日本@名無史さん
17/03/24 04:30:19.12 .net
脳内考古学界にすがる朝鮮カルトが哀れ

674:日本@名無史さん
17/03/24 04:33:44.78 .net
職能集団の移民でないかぎり技術がそのまま伝来するわけではない
その程度のこと猿でもわかるが、朝鮮カルトは猿以下だからそれが分からない。
霊的に生まれ変われよ

675:日本@名無史さん
17/03/24 09:59:43.62 .net
>>672
だから早急にやって来たわけじゃなく、数世紀にわたり少人数ずつ少しずつ進み現地化しながらやって来たわけで、
中原の文化がそのまま伝わったわけじゃないだろ。
ただ、稲作は生業としては優れたものだったので伝わったわけで。

故地の文化がダイレクトに伝わったと考える方が不自然。

676:日本@名無史さん
17/03/24 11:39:07.80 .net
>>675
その論理にはまず最初に中原の文化が伝わる事が前提だろ。

伝わってから徐々に変化していくという経緯を辿るハズだろうがカス。


で、中原から渡来定着したという大嘘狂言詐欺を証明する証拠遺跡と
その証拠文物、とりわけ生活痕たる証拠土器・石器と、
そんな悪質極まりない詐欺を垂れ流している悪徳考古学者の氏名と所属団体は?

677:日本@名無史さん
17/03/24 15:16:02.61 .net
>>676
>最初に中原の文化が伝わる事が前提だろ。
ちがーう。
あのさあ、あの当時(紀元前)半島や列島のような未開の地に中原から人はそんな頻繁に人の行き来があるわけないじゃんw
人が頻繁に行き来するから、土器などの道具の文化が広まってくわけだから。

ポツリポツリ、近いところに移り住んで、数世紀かけてそれぞれの地で現地化しつつ徐々に徐々に人が移動してゆく。
生業の”道具”として稲作とそれに関連する文化が広まってゆく。
土器などは必要以上に煩雑な技術のものは広まらず、シンプルで作るのが比較的簡単(焼成技術は簡単じゃないけれど)で丈夫な弥生土器などが広まる。
そう考えると自然だろw

678:日本@名無史さん
17/03/24 15:52:52.84 .net
血統の移動と物の移動を同義で語るなやいい加減にしろ

アフォ学者が工作出来る時代はとっくに終わってるシベリア帰れや
戦争が始まる前に

679:日本@名無史さん
17/03/24 16:16:32.41 .net
>>678
>血統の移動と物の移動を同義で語るなや
いや、全く語ってないよ。
むしろそれを言ってるんだけど。

人が大量に来ずに、文化だけが広まるには、
”商い”や、そこまで行かなくても”物々交換”でもなんらかのトレード・取り引きがあるから広まるんで合って、
単に人が来たから文化が広まるという事ではないだろ。
紀元前の未開な時代の半島や列島で、そういう”取り引き”が行われるほどの人の行き来が中原から頻繁にあったとは考えにくい。
その時代、多分人が移住したとき、自分らが持っている技術で作れるものしか作らなかった。
もし一挙に大量に人が移住したとしたら、その仲に職能を持った人も居ただろうから、その技術も同時に伝わるだろうが、
単純な技術の弥生土器しか伝わらなかったということは、それしか作れる程度の技術をもった人しか来なかった、一度には少量の人しか来なかったという事だろ
また中原の土器の技術は、稲作が伝来する途中で淘汰されてしまったという事だろう。
それが”現地化”だろう。

現地化の良い例は”着物 と 草履・下駄・草鞋(ワラジ)”だろう。
着物の元も元々中国の服だったわけで。だから”呉服”というわけだからw
それが日本の高温多湿な気候に合わせて変化させたものが”着物”で、
高温多湿な気候に合わせて靴を変化させたものが草履・下駄・草鞋なわけで。

文化はその地域の暮らしてる人に都合のよいように変化するもの。

680:日本@名無史さん
17/03/24 17:29:17.70 .net
荒らしにかまうなよ

681:日本@名無史さん
17/03/24 18:56:03.77 .net
>>677
不自然さの極みだろ。

BC10C頃の中原の生活土器は、ろくろで整形した登り窯焼成の粗製灰陶で、器種は
鼎、鬲、耳付きの壺、甕がメインで、中でも鼎は鍋、炊飯器としての利用だけでなく、
王様から奴隷まで共通した墓の副葬品だった。

農具にしても石刃のスキがメインで、弥生農具のエブリとクワに該当する農具は無い。

住居だってすでに戸建てである。

生活土器にも農具にも住居にも中原の特徴的な要素が何一つとして伝わっていない。

682:日本@名無史さん
17/03/24 20:38:45.15 .net
>>681
まず、日本に水稲耕作が伝わった時期(弥生時代開始時期)はいつですか?
紀元前1000年頃には弥生時代が始まっているというのが定説なんだろ。
という事は文化の伝播の出発した時代はさらに古い時代なんだろ。
だとしたら同時代の文化と比較しても(キミBC100年じゃなくBC1000年の間違いでしょ?)意味無いだろ。

文化の出発地から日本に伝わるまでは相当なタイムラグがあるわけだからw
それも、文化の留まった地域地域で余計なものは淘汰されて行ったと考えられるわけだから。
日本の文化の源流地に文化伝播の出発した時代に鼎、鬲、耳付きの壺などが広まっていたかどうかも分からない訳だし、
数世紀・数十世紀の伝播の途中で淘汰されていった可能性もある訳だしね。

淘汰された理由としては、さっきから何度も出している”現地化”はあるだろう。

たとえ鼎なんかが優れた器だとしても、それを作る技術が伝わらず、
元々その地域に鼎は使う必要が無い代わりの方式があったら自然と鼎は淘汰されるだろう。

実際、現在に至るまで、日本では鼎が現地で生産され使われたことは無いわけでw

683:日本@名無史さん
17/03/24 21:32:44.06 .net
>>682
BC10Cが分からないなんて考古学初心者だろキミ。

その論理だと考古学にならんのだよ。

ただの詭弁って奴な。

淘汰にはまず最初に一時的にでも伝わる事が前提なんだよ。

伝わって徐々に衰退して消滅していく課程があるんだよ。

日本にも朝鮮にも中原の特徴的な文物が一時的にでも伝わっている痕跡遺構が
ないだろ。

渡来定着した痕跡遺構も生活痕の生活文物もないものを考古学では渡来定着した事には
できません。

684:日本@名無史さん
17/03/24 21:49:26.89 .net
>>653
ああ、”BC100”じゃなく”BC10C”かw
ごめん、目が悪くてねw
それは本論とは関係ないとして。

だから、ダイレクトに伝わったと言ってないだろって何度言えばわかるんだよ?w
当時、半島も列島も僻地なわけで、中国から頻繁に人が行き来するはずも無いだろっての。

文化の伝播は数世紀、あるいは数十世紀にわたってゆっくり進行して行ったとなぜ考えられないかな?
最初は隣へ、そこで数世紀留まって、あるきっかけでまた隣へ行きそこで数世紀…
その繰り返しで、数百年〜数千年かかってやっと北九州へついた。
その時には、文化は当初の文化とは大分違った形なっている、
と、なんで考えられないかなあ?w

685:日本@名無史さん
17/03/24 23:52:43.98 .net
>>684
単なるリレー伝播なら渡来人なんか全然関係ないじゃん。

それに中国から離れて最初のトナリ遺構はどこよ?

686:日本@名無史さん
17/03/25 10:06:44.16 .net
世界標準の考古学における渡来人の故郷の特定法を使うと渡来人のウソまで見破れる。

江辻遺跡に松菊里型住居と高床式倉庫を伝えた集団は先入観で半島人だと思いがちだが、
彼らは朝鮮土器を作っていない。

作っていたのはやはり刻目突帯文土器だから、松菊里型住居も高床式倉庫も
単に弥生人自身の手によって導入されただけだという事実が見えてくる。

また、半島の楽浪郡なんかも中原の集団が移動して作った都市だと先入観で思いがちだが、
楽浪郡遺跡から出土した土器は中原の土器とは違ったものが伝わっていた。

BC2C頃の中原の土器はすでに灰釉陶と呼ばれる原始磁器のハズだが、
楽浪郡にはその技術が全く伝わっていない。

中原は漢代が終わる2C頃までは鬲や鼎などの三足土器が現役のハズだが、
楽浪郡遺跡にはさっぱり見られず、双耳の壺なんかも出土した話を聞かない。

伝わっているのは粗製灰陶を作る技術と中原とは異なる器種である。

この事から、武帝の朝鮮侵攻で実際に朝鮮に侵攻して楽浪郡を築いた人々は
中原の人ではなく、遼東あたりの人たちだった事も見えてくる。

687:日本@名無史さん
17/03/25 10:26:13.95 .net
>>686
当時の遼東あたりの住人は漢民族ではなかったの?

688:日本@名無史さん
17/03/25 10:39:23.69 .net
中原には服属するものの、実際は漢人とは違った民族集団だったんじゃないかな?

689:日本@名無史さん
17/03/25 13:53:19.90 .net
話しいったん外れるけど、青森(津軽)って、つくづくやっぱ顔立ち薄いなあw
URLリンク(www.youtube.com)

やっぱ日本海側は特殊だな。

690:日本@名無史さん
17/03/25 15:35:43.62 .net
北海道南部から沖縄まで舟で行商やってた山口九州北部の北方モンゴロイド型
弥生人の子孫だからだよ。

日本人全体に北方モンゴロイド的要素を与えたのは彼ら。


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