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18/01/11 23:36:01.65 ckxPYTJlM.net
<北海道150年>アイヌとの共生 願い込め「北加伊道」
1/1(月) 12:00配信 毎日新聞
 ◇北の大地 名付け親 松浦武四郎
 春を待つ浜辺に、さざ波が静かに広がる。かつて北前船の寄港地として栄えた北海道江差町。ここに江戸末期から明治にかけての探検家、松浦武四郎(1818〜88年)が降り立ったのは1845(弘化2)年4月のことだ。
 「ロシアが蝦夷地に進出しようとしている」。伊勢国(三重県)の郷士(ごうし)の家に生まれ、10代から見聞を広めようと諸国を行脚していた武四郎。そんなうわさ話を海外との交易があった長崎で耳にし、
当時未開とされた北の大地に目を向けたのがきっかけだった。以来、樺太(現サハリン)を含め、計6回にわたって各地を訪ね歩いた。
 道案内をしたのは先住民であるアイヌの人たちだった。「武四郎は社交的で、人とのつながりを大切にした人。調査を通じて出会ったアイヌの人たちと、次第に心を通わせていったのでしょう」。
武四郎が常宿とした江差の豪商、斉藤家の子孫で、函館市在住の郷土史家、斉藤裕志(ひろし)さん(69)は思いをはせる。
 武四郎はその後、明治政府の開拓使の開拓判官に任ぜられ、蝦夷地に代わる新たな名称を政府に進言した。そこで六つ挙げたうちの一つが「北加伊道(ほっかいどう)」。
「カイ」はアイヌ語で「この地に生まれた者」を意味し、「北にあるアイヌの人たちの暮らす大地」の意。それが採用され、「加伊」を「北の海」である「海」に変えて命名されたのが、
1869(明治2)年のことだった。今年はそれから150年目。その名には、武四郎のアイヌの人たちへの深い思いやりと、共生への願いが込められている。【袴田貴行】
 ◇探検6回 開拓の礎築く
 松浦武四郎が初めて見た北海道は、乾燥した河原がどこまでも続くような荒涼とした大地だった。流木や倒木が行く手を阻み、うっそうとした林の中では蚊やアブの大群に襲われ、往生した。
 前後6回にわたった探検で、武四郎は最後から3回は江戸幕府の幕吏として正式な命を受けたが、最初から3回は、いわばロシアの南下政策に危機感を抱いた「憂国の志士」としての個人の活動だった。
その一人の若者の意志に共鳴し、支援したのが、函館市の郷土史家、斉藤裕志さん(69)の先祖に当たり、江差の町年寄を務めていた佐八郎(1803〜78年)だった。
 「北前船交易で栄えた江差は、本州から来る人を歓待する空気があった。地方に住む人々にとって、武四郎のように諸国を行脚し、各地の事情に詳しい人物との交際は楽しかったのだろう」と話す。


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