【兄者侵略中】自由民 ..
[2ch|▼Menu]
53:無党派さん
16/10/01 11:37:59.48 FfzRrBGL.net
自民党政権の崩壊
小沢は自民党を離党して総選挙に望んだ。
しかし、いくら小沢でも新生党で衆院の過半数を取れるとは思ってはいなかった。
ただ自民党にいたのではもはや権力を望めないのだ。
権力があってこそ自分の思う政策を実現することができるのである。
だからこそ小沢は権力を手放すわけにはいかなった。
これは小沢が徹頭徹尾通した行動の原則である。
自民党幹事長、その次は竹下派会長代行を通じて小沢は常に権力を指呼の間においてきた。
小沢が戦略として目指していたのは、非自民、非共産勢力で衆院の過半数を制することである。
そしてその状況は既に出来上がっていた。選挙の結果が出た時点で、小沢は非自民連立政権の実現へと猛然と走り始めていた。
連合の山岸会長と極秘に会談し、社会党、民社党の連立政権参加の布石をうった。公明党とは選挙戦の最中から連携している。
問題は日本新党と新党さきがけである。
さきがけと日本新党は党首である武村正義と細川護煕が親しいと言うことから、両党とも選挙中より親密な関係を持っていた。
というより自民党の若手であったさきがけの議員が自民党離党を決断したのは、既にブームとなっていた日本新党との合併を視野に入れてのことだ。
武村はさきがけと日本新党を合併させた後、自民党の改革派を首班とする内閣と連立政権を組むつもりだった。
武村にしてみれば、政治改革ができない(改革反対派が牛耳る)自民党と袂を分かったわけで、
改革推進派、たとえば後藤田正治や海部俊樹を首班とする内閣なら連立は可能だと踏んでいた。
ところが小沢にしてみればこの動きはなんとしても潰さなければならなかった。
小沢は武村と違って自民党に不信任を突きつけ飛び出したのである。
自民党を否定した小沢はなんとしても自民党を否定する内閣を造らなければならなかった。
まず小沢が切り崩しにかかったのは日本新党である。
小沢の予想通り自民党と縁がなかった日本新党は自民党と組むことに抵抗を感じていた。
日本新党が小沢に与した事で流れは非自民連立に大きく傾き始めた。
武村はそれでも自民党が改革推進の体制を整えてくれることを期待していた。

54:無党派さん
16/10/01 11:52:41.93 FfzRrBGL.net
そのころ自民党は大荒れであった。
梶山幹事長をはじめとして、羽田派の離党招いた執行部に非難が集中していた。
自民党は選挙前の220議席から222議席である。
増えているのだ。
そのことで宮沢は総裁を続投できるのではないか、という淡い期待を抱いていたが、両院議員総会の空気はそんな期待を粉微塵にするものであった。
即刻総裁下、執行部の総退陣にと言う塩梅だ。
渡部美智雄と河野洋平による総裁選の結果、新総裁には河野洋平が選出された。
竹下、安倍、宮沢、渡辺、かつて自民党で時代を担うニューリーダーと呼ばれた自民党第四世代から第五世代に移行したのである。
(渡辺美智雄の悲劇には後で言及する)
結果としてこの総裁選で自民党は二日を空費する。
換言すれば小沢に二日の時間を与えたと言うことだ。
後に考えればこの二日が運命の岐路になった。
この間小沢は日本新党の細川を連立政権の首班に担ぐことを決断する。
これにより完全に日本新党は非自民連立に与することになった。
これではさきがけだけが自民党と組むわけにはいかない。
なんと言ってもさきがけは22人である自民党の222人と併せても過半数の256議席に達しない。
しかも野党が非自民で結束したのにさきがけだけが別行動をとったのでは世論の非難を浴びかねなかった。
武村は非自民連立政権への参加を決めた。
この成り行きに自民党は驚愕した。
自民党は、非自民連立などできるわけがないと多寡を括っていたのである。
そう思う前例もあった。1989年も土井ブームである。あの時社会党は公明党、民社党と組んで非自民、非共産連立政権を目指していた。
しかし、結局は挫折し試みは霧消した。社会党と公明党、民社党は所詮同床異夢だったからだ。
その後公明、民社党は自民党小沢幹事長にあっけなく切り崩された。
だが今回は野党に小沢がいた。自民党はこの事実に気がつくのが遅れたのである。
あわてて野党を切り崩そうとしてももはや無駄だった。こうして1993年8月6日38年ぶりに自民党と全く関係のない内閣である細川内閣が成立した。
しかしそれでも、竹下と河本は違った。河本は「すぐ取り返すさ」と発言し、その一年後には見ての通りである。
だが自民党の大多数の面々は茫然自失した。38年間戦後のほとんどを通じて、政権党であることが自民党の当然の前提だったからだ。
晴天の霹靂どころの話ではない。天地が突然覆ったようなものである。
小沢による回天は成った。

55:無党派さん
16/10/02 00:18:59.71 MYdsLvMg.net
オザーさんって何考えて政治家やってんの?
主義主張も信念も目的も何も感じられない

56:無党派さん
16/10/02 00:42:42.35 MYdsLvMg.net
よくオザーさんは選挙屋だと云われるが選挙やる為の政治家とか本末転倒の極みやん
選挙に勝って権力掴んでそしてどうしたいのかが皆目分からん

57:無党派さん
16/10/02 00:48:35.70 NXZgOrZV.net
>>52
小沢一郎は我が国を自分の意のままにしたいのだとハマコーが言ってたな。

58:無党派さん
16/10/02 08:38:54.13 4kzZtRNv.net
【安倍首相、27年ぶりの1月解散・2月総選挙を画策】
安倍首相は毎年1月中旬に行われる自民党大会を2017年は3月5日に延期を表明。
ということは、2016年は衆院選が行われないことになった。
日本が世界第2の経済大国になってからちょうど50年を迎える2017年、
安倍首相は1月16日に衆院を解散し2月19日に第48回衆院総選挙を画策。
となれば、今の高3の9割(1999年2月20日以前生まれ)は第48回衆院選の投票権がある。
その後は2020年1月まで衆院を解散しなくて済む。
参院選後の衆院選は過去の例から
年内投票だと自民惨敗、
年明け投票だと自民圧勝
とされている。
年越し解散総選挙だった第24回衆院選(1949年)や第31回衆院選(1967年)はいずれも政党交付金制度がなかった時代の話であり
政党交付金制度がある今では年越し衆院選は無理
(年越し衆院選だと衆院の政党交付金がゼロになるから)。
1月解散・2月総選挙は自民党が圧勝した第39回衆院選(1990年。海部解散)以来27年ぶりとなる。海部解散の前年夏には第15回参院選があった。
2016年7月10日の第24回参院選は全国的には自民圧勝だったが、
3人区の北海道は3議席中2議席を野党が獲得、
1人区は秋田を除く東北5県・甲信越3県・三重・大分・沖縄で野党が獲得。
1月解散・2月総選挙は北海道・東北・甲信越だと豪雪期であり投票率が下がるから自民に有利で安倍首相はチャンスとしている。
ただし、
0増6減の区割り見直しには間に合わない、
神奈川県の小選挙区数は大阪府より少ない矛盾、
名古屋市の小選挙区数は新潟県より少ない矛盾、
川崎市・福岡市の小選挙区数は青森県・岩手県・滋賀県・奈良県・山口県・愛媛県・長崎県・沖縄県より少ない矛盾、
仙台市の小選挙区数は秋田県・和歌山県・香川県より少ない矛盾
が残っている。
党利党略優先で一票の格差是正や身を切る改革をできなかった民進党等の売国奴野党共闘は如月総選挙で惨敗確実へっへっへー

59:無党派さん
16/10/02 17:35:59.84 3yvmf1nZ.net
今や小沢は小政党の代表に成り下がった。
民進党と共産党を選挙協力させ自民党を下野させてあわよくば政権入りしようとている小沢の戦略が成功するとは思えない。

60:無党派さん
16/10/02 22:23:01.61 T0v1gwwA.net
まぁ耄碌したんでしょうな

61:無党派さん
16/10/02 22:29:15.35 dONmonXS.net
民進党の執行部が共産党以上に小沢一郎を嫌ってるからな。

62:無党派さん
16/10/03 20:26:26.73 2oXCne4r.net
そもそも天皇制をなくすには改憲が必要で、共産党が改憲に反対すること自体がおかしいから当然だろう
護憲政党だと思って共産党を支持してるサヨクが馬鹿
共産党・小池晃書記局長「民進が将来の憲法改正掲げても、選挙協力に支障なし」
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
 共産党の小池晃書記局長は3日の記者会見で、民進党が将来、憲法改正を目指すとしても、
当面の国政選挙での協力などに問題はないとの認識を示した。
「われわれが合意しているのは、安倍晋三政権のもとでの憲法改正反対であり、(民進党の方針と)矛盾しない」と述べた。
 民進党の野田佳彦幹事長は先月27日の衆院本会議で「子供たちの未来のために現行憲法自体が障害となるようなことがあるならば、改正に取り組む」と明言している。
しかし、小池氏は「野田氏も安倍政権のもとで、それをやっているわけではない」と指摘した。
 共産党が提案する「国民連合政府」構想は「立憲主義の回復」と安全保障法制の廃止のみを目的としていたが、
今は目的が安倍政権下での憲法改正反対にも拡大したと述べた。
 小池氏は「そこさえ一致していれば十分選挙も一緒に戦えるし、当面の国民連合政府の運営にも何の支障もない」とも言及した。

63:無党派さん
16/10/04 20:16:19.42 YhYrgg85.net
生活の党所属議員が増えて山本太郎が出て行っても政党が存続できるからってさっそく山本太郎を切り捨てにかかる小沢w
山本太郎以外の生活の党議員は「山本太郎」って党名が内心相当嫌だったんだろうなw
生活、党名変更を検討
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
 生活の党は4日の両院議員総会で、党名や組織体制を見直し、来週公表する方向で検討を進めることを決めた。
 小沢一郎代表はこの後の記者会見で、「このまま総選挙に漫然と臨むのでなく、
抜本的に党の体制を新たにしようという結論に達した」と説明した。同党の正式名称は、生活の党と山本太郎となかまたち。

64:無党派さん
16/10/05 02:04:59.42 mLH6jh9j.net
足立やすし「自民党様!二重国籍問題で蓮舫を仕留めるので見ててくだせえ!」
自民党「俺たちまで炎上してるのに余計なことすんなアホ!お前はありがた迷惑なだけだから自民党に擦り寄ってくるな!」
足立やすし「」

自民党議員の二重国籍発覚問題 安倍晋三首相は3日に「いない」と明言 民進・蓮舫代表追及できない状況に
URLリンク(www.sankei.com)
 民進党の蓮舫代表に続き、自民党の小野田紀美参院議員にも4日、二重国籍状態であることが発覚した。
自民党は蓮舫氏の追及を控えていたとはいえ、安倍晋三首相(党総裁)は3日の衆院予算委員会で
「基本的にわが党の議員は二重国籍ではないとの認識に立っている」と答弁したばかり。
結果として首相の認識が誤りだったことになり、汚点を残した。
 「『そんなことがあったの』というのが正直な感想だ」。
自民党の竹下亘国対委員長は4日の記者会見で、小野田氏の問題を問われてこう語り、驚きを隠さなかった。
茂木敏充政調会長も記者団に「与党であれ野党であれ、まず本人がきちんと適正な手続きを取り、国民に説明することが最も大切ではないか」と述べた。
 関係者によると、党内では日本国籍と台湾籍との「二重国籍」だった蓮舫氏に対する追及策の検討に着手しようとする矢先だった。
そこに小野田氏の問題が発覚。党幹部は「これで台無しだ。小野田氏が議員辞職してくれれば攻めやすいが」とつぶやいた。
 もっとも、蓮舫氏に対しては二階俊博幹事長が9月25日放送のラジオ日本番組で「何かモノを申し上げることはない」と述べていた。
その言葉通り蓮舫氏を直接批判する幹部はおらず、臨時国会でも4日までに衆参本会議などで質問に立った自民党議員8人で取り上げた議員は皆無だった。
 二重国籍のまま旧民主党政権で閣僚を務め、首相の座を目指す野党第一党の党首の蓮舫氏と、国会議員になりたての小野田氏では事態の重大性は異なる。
だが、首相が大見えを切った直後の発覚というタイミングの悪さに「まさにブーメランだ」(自民党選対幹部)との声も漏れる。
 連立与党の公明党はとがめ立てしない考えだ。石田祝稔政調会長は4日、記者団に「本人がしっかりと説明することがまず第一だ」と述べるにとどめた。
 蓮舫氏の問題で批判を浴びた民進党も、小野田氏を追及すれば再び批判が跳ね返ることを警戒してか、問題視しない構えだ。
大串博志政調会長は4日、記者団に「国会議員が外国籍を持ってはいけないとの決まりはない」と理解を示した。
小野田氏の問題についても「他党のことだ。あえて申し上げることはない」と語った。中堅議員は「これで蓮舫氏の問題が『撃ち方やめ』となればいい」と期待を示す。
 一方で、複雑な表情なのが日本維新の会だ。同党は今国会に国会議員の二重国籍を禁止する公職選挙法改正案を提出。
首相の3日の答弁を引き出したのは同党の議員だった。
馬場伸幸幹事長は4日、産経新聞の取材に「首相は自民党の総裁だ。ちゃんと党内調査をした上で答弁すべきだ」と苦言を呈した。

65:無党派さん
16/10/08 03:03:37.05 ZjYmtnot.net
細川政権の苦闘
こうしてできた細川政権だが、当初国民の支持率は凄まじく高かった。
それだけ、自民党政権に 日本国民は飽いていた。
しかし、内実はそんな簡単なものではなかった。
細川政権の陣容は、首相細川護煕(日本新党)、官房長官武村正義(新党さきがけ)、蔵相藤井裕久 (新生党)、羽田孜(新生党)、
更に防衛庁長官、国家公安委員長など国家権力に関する閣僚は新生党、
通産、建設、厚生、運輸、農水、などの利権に関する現業官庁は社会党、公明党、民社が占める、といった陣容であった。
内閣の閣僚選出からして苦心の跡が覗われる。
この細川内閣の使命は、なんといっても選挙制度改革を含む政治改革の実現である。
新生党も日本新党も新党さきがけも政治改革を大義名分にしていたわけだから、この点に異存はなかった。
公明党も政界の変化を望んでいた。民社党は元々社会党の中の現実妥協派が作った政党である。要するに、保守に近づきたがる性質がある。
問題は、さきがけと社会党だ。
細川内閣が運営されていくにつれ、さきがけ党首の武村と小沢が度々衝突するようになっていった。
細川内閣の主導


66:争いと言えばそうなのだが、根底には政界再編に関する見解の違いがあった。 小沢は 自党の新生党、公明党を核として、日本新党、民社党、自民党の保守系グループ、あわよくば社会党右派を含めた保守新党の結成を目指していた。 一方、武村は新党さきがけ、日本新党を核に、民社党、社会党右派、自民党のリベラルと言われるグループを軸に再編を目指している。 完全に両者がターゲット とする政党がダブっている。



67:無党派さん
16/10/08 03:10:09.15 ZjYmtnot.net
それ以上に問題だったのが社会党である。
細川内閣での懸案となった、邦人救出の為の自衛隊機の派遣を可能とする自衛隊法の改正、米の部分開放、
いずれも社会党の従来の主張である、安保反対、自衛隊の否認、米開放反対に照らせばこれらを認める事は自殺行為である。
そもそも、社会党は長年野党であることを前提として存在していた政党である。
現実の処理など全く縁がなかったから、政策の整合性などに気を払う必要がなかった。
現実に直面して、社会党の言ってきたことが全くのフィクションであったことが証明されてしまったと言うことである。
とはいえ現実は待ってくれない。結論を出さなければならない。
その場合社会党内は例外なく大荒れであった。
現実を受け入れることは社会党の存在意義を蚕食されることになる。
と、いって社会党のアイデンティティを追求すれば、連立政権は崩壊だ。
社会党の村山委員長はその度にどうしようもない二律背反で立ち往生することになった。
米の関税化、部分開放の決断など、社会党として反対だが連立政権の方針だから容認する、という苦しいものだった。
社会党は政権を目指すことをいつのまにか放棄し、抵抗するだけが唯一存在意義になっていたのである。
村山委員長を責めるのは確かに酷と言うものだった。
が、小沢はこの体たらくに内心社会党に完全に愛想を尽かしていた。
自民党時代は派閥抗争が激しかったとはいえ、それはあくまで人事や利権をめぐる権力闘争だった。
ところが、細川連立政権ときては、各党各々の基本政策が異なっているのである。
その政策は各党の存在意義と抜きがたく結びついているから、それを擦り合わせる作業は困難を極めた。
連立政権の政策決定は、各党の代表者が集う代表者会議によって策定され、それが内閣に上がって決定される、といったプロセスで決定された。
この代表者会議の構図が、小沢を代表とする新生党と市川雄一書記長を代表とする公明党が引っ張り、
日本新党がそれに概ね賛成、それらを他党が追認すると言う形になることが多かった。
民社党の米沢隆を加えた、いわゆる「ワンワンライス」である。
その中で最後まで抵抗するのが社会党というのがお定まりのパターンだ。
小沢にしてみれば、国際上の信義を通すためにも、
いままでの政策との整合性を損なわないためにも当然と思われる決定にいちいち異論が出てくる状態には辟易させられた。
それで散々議論した挙句、 些細な部分について変更を迫られるのである。
しかも、剛腕小沢、公明党市川による強引な運営によって決定されている、といった印象がうまれ世間からは悪役視される。
内心ちょっとやりきれないところもあった。
しかし、社会党は与党の中で第一党なのである。
政治改革法案が通るまでは、我慢する必要があった。
しかし、社会党を切り捨てる機会を覗いはじめていた。

68:無党派さん
16/10/08 03:17:42.80 ZjYmtnot.net
難産政治改革
細川内閣最大の政治課題は政治改革の実現である。
それで選挙を戦ったのだからこれは当然なのだが、
その政治改革をめぐる軋轢は自民党以上であった。
ここでも問題は社会党である。
そもそも、社会党、民社党などの野党は小選挙区制導入など望んではいなかった。
しかし、民社党は党勢拡大が既にいきづまっており、小沢の仕掛ける政界再編に乗ろうとする空気が強かったのに対し、
社会党は党の存続を 第一に考えていた。よって小選挙区の導入には最初から反対だった。
といっても社会党に政治改革の対案がある訳ではない。
腐敗防止法や企業団体からの献金を廃止することが政治改革だと言ってはいたが、
これは小選挙区制導入とともに並行処理される懸案であったわけ だから、
小選挙区に反対する理由になど何らならない。
要するに小選挙区の導入は選挙がきつくなるからいやだ、というのが社会党の本音である。
しかし、社会党の中にも本岡昭二、赤松広隆、久保亘など社会党の枠をやぶり、
政界再編に乗ろうという勢力も存在したのである。
彼等が中心になって、社会党の多数派である左派を懸命に説得し、なんとか連立維持をの方向に持っていっていた。
が、このように連立内で第一党の社会党がこのような状態では、
当然ながら政治改革の進捗ははかばかしくなかった。
このように改革が社会党の為に頓挫するかと思われていた矢先、
細川総理は自ら、政治改革が成らなかったときは、自分の内閣が潰れても仕方がないとの意味を持った決意表明がなされた。
総理は本気でやるつもりであることが連立内閣内に伝わり、再び改革推進の弾みがついた。
社会党もこれには反対できなかった。 反対すれば改革潰しのA級戦犯として国民に指弾されてしまう。
小選挙区比例代表並立制の成立を目指すのは、ここで問題になったのは、小選挙区の数である。
新生党と公明党は300の小選挙区を主張した。これは小沢と公明党とで主導権を握り、一気に政界再編を進めようと いう発想が根本にあった。
ところが、日本新党、民社党、新党さきがけは性急な再編には反対だった。
というより、小沢と公明党主導による再編を警戒していた。
社会党は無論そうである。
というわけで、彼等は小選挙区の数で250を主張する。
小沢は意見を纏める事を最優先にし、数には拘らない姿勢を早々と決めたが、問題があった。
自民党である。
自民党内は小選挙区賛成派、反対派で割れていたが、
自民党総裁である河野洋平は野党である以上おいそれと与党の法案には乗れなかった。
おまけに、与党案の小選挙区250には乗れない事情がある。
自民党は次期選挙でも候補者が300人近く出る予定である。
小選挙区250では、調整がつかない。
一方、与党内の調整については小選挙区274、比例区226という数字が最終的なものとなった。
比例区を増やしたがった社会党の意見を容れての結果だ。
社会党は賛成反対双方の意見が入り乱れて紛糾した。しかし、社会党内の改革推進派がなんとか押し切る形で党議決定をした。
これに反対派が反発、本会議で反対票を投じるといきまくものが出ていた。
自民党内でも既に反対を決めていたが、海部元首相を中心とする改革賛成派が賛成票を投じる動きを見せていた。
双方とも微妙な捻れ現象を抱えていたのである。

69:無党派さん
16/10/08 03:27:00.91 ZjYmtnot.net
果たして、衆院本会議では、連立与党はほぼ全員賛成。
自民党内でも賛成票を投じるものがいて賛成多数で可決した。
海部元首相を中心とする改革派の多くは欠席した。
ところが問題は参院である。
参院の社会党議員が反対票を投じる可能性が急速に高まっていたのである。
そもそも、今回の政治改革は衆院の問題であって、参院は直接の関係はない。
だからこそ、社会党の党としての将来が不安だった。
党の利益を第一に考えれば、小選挙区制は社会党の不利に働くことは目に見えていた。
衆院が衰退すれば、やがて参院も衰退していくのは道理である。
参院の社会党議員は自分の将来に不安を抱いていた。
そして、参院の社会党議員は土井ブームの波に乗って当選してきたものがかなりいる。
土井衆院議長はかねがね、小選挙区は政治改革ではない、と公然と言い放っていた。
彼等にとっては、格好の大義名分である。
果たして、参院の決議は社会党議員の造反により否決される。
135対118という意外な大差だった。
社会党から造反が16人も出ていた。
連立与党面々は呆然とした。
当たり前である。細川首相は政治改革に内閣の命運をかけると言い、成らなかった時は総理を辞めると言う言質まで口にしている。
それが身内の造反での否決である。
これでは連立政権の自己否定である。
1994年1月28日深夜のことであった。
細川総理は解散を密かに決意していたと言われている。
しかし、小沢は既に巻き返しに向かって驀進していた。
参院で否決された法案は両院協議会で協議して、そこでなされた修正案を再び決議するか、衆院の3分の2以上で再議決するかの何れかである。
そのうち前者は前例がない。
後者は連立政権にそんな数はない。
廃案が確実だった。
土井衆院議長はさすがに、自分の子飼いが原因で連立政権を窮地に落としてしまったのが 心苦しかったらしい。
彼女は両院協議会を斡旋した。
小沢はそれを待っていた。
彼はその場で、自民党の示した小選挙区300、比例区200の案を連立政権側が丸呑みするよう根回しをしていたのである。
最終的に細川首相と河野総裁が合意すると言うことで、決着した。
土井衆院議長はあとで、「私はそんなことまで斡旋した覚えはない」と怒り狂ったそうだが、あとのまつりであった。
鳩山一郎、田中角栄が目指して遂げられず、海部、宮沢両内閣の命脈を 断った小選挙区はここに日の目をみた。

70:無党派さん
16/10/08 03:49:47.13 ZjYmtnot.net
細川政権の崩壊1
さて、細川内閣はどうにか政治改革を成し遂げた。
しかし、細川内閣は本々違う政党8党派が政治改革を接着剤としてできたような内閣だった。それが成し遂げられたのである。
途端に政権に遠心力が働き始めた。
小沢は既に日本改造計画という著作をゴーストライターの手により出版していた。
彼の頭の中には既に日本の構造改革が自分自身のために描かれていたのである。
しかし、それははっきり言ってしまえば、
日本の規制のより自由化、
直間比率の是正すなわち所得税・相続税の大幅減税と消費税の大幅増税、
資金面以外を要求する国際社会に対して軍事的に堂々とならまだしもコソコソと貢献しようと言う当時の感覚からすればかなり野心的な内容だ。
これらは今ではすべて歴史的な評価の下に否定されている。「普通の国」は誤りなのである。
そして当時の社会党は無論のこと民社党もそれまでの性質からして受け入れ難いものである。
そこでクローズアップされたのは、小沢と武村の確執である。
武村はいままでの日本の在り方を続けるべきと思っている。
もっとゆっくりやるべきだという考え方である。
そうするとどうしても小沢のやろうとしていることにブレーキをかける事になってしまう。
それに加えて政界再編に対する見解が真っ向から衝突する。
そう、小選挙区制が導入されたいま小沢は一刻も早く、連立内閣内で選挙を戦える統一会派の結成を目指していた。
実際そうでなければ選挙が戦えないからだ。
ところが、社会党、民社党、さきがけはこういう小沢が主導する政党再編に警戒感を隠さなかった。
統一会派は当然同一の政党と言う話にまで発展するだろう。
それは彼等が嫌も応もなく小沢の軍門に 下らざるを得ないと言うことだ。
武村にしてみれば真っ平御免という話しであった。
ところが武村には不安があった。
細川率いる日本新党が次第に小沢に傾斜していると言うことである。
もともと、日本新党とさきがけは合流する予定であった。
それが細川が総理大臣になったことでこの話が棚上げになっていたのだが、
細川は小選挙区が導入された以上、もっと大きな政党が必要だと考える ようになっていた。
要するに、さきがけとの合併よりも、小沢が仕掛ける新保守政党の方に魅力を感じるようになっていたのである。
小沢は当時平行して、国民福祉税の導入を密かに進めていた。
これは消費税の税率を7%に引き上げて(実際は消費税廃止、新税導入という体裁を取ってはいたが)福祉目的税とし、
直接税の大幅減税を目指そうという内容だった。
確かに論理的には正しい。
しかし、今では惨憺たる結果が眼前にあるのである。
そして、やり方も問題だった。
例によって小沢は突然これを持ち出した。
確かにオープンに議論していたんでは大騒ぎになって結局決まりはしなかっただろう。
この時連立内閣の他の政党にも事前になんの相談もなく、当日の代表者会議で唐突に持ち出された。
賛成したのは新生党と公明党である。日本新党はいきなり言われて困惑していたのだが、細川首相も知っているということで賛成に回った。
ただ社会党、民社党、さきがけは困惑し通しだった。
しかし、明確に反対したわけでもなかった。どう言うことかわからなかったからだ。
小沢は細川首相にさしたる反対はなかった、と報告する。
これにより、細川首相による国民福祉税導入の発表がセットされた。
このよな迅速で周到な準備をしたのは、大蔵省である。
大蔵省はなんとしても消費税の税率を上げたかった。
売国奴極まれりである。

71:無党派さん
16/10/08 03:55:13.13 ZjYmtnot.net
仰天したのは官房長官の武村正義である。
官房長官でありながらことの経緯を殆ど知らされていなかったからだ。
確かにそんな話しは出ていた。だが、こんなに急激に決まるとは思っていなかったのである。
と同時に大蔵省と小沢が組んで強引に事を進めようとしていた裏にすぐ思い当たった。
大蔵省の役人が盛んに小沢の所に出入りしている、という話をよく耳にしていたからだ。
細川首相は深夜の記者会見で導入を発表してしまった。
武村は大蔵省の狡猾さに腹を立てた。
首相に発表させてしまえば覆せない、と彼等が踏んでるのがミエミエだった。
武村は小沢と大蔵省の謀議に真っ向から反対することを決めた。
翌日の官房長官の会見で、「個人的には福祉税に反対だ」 と言ってしまう。
首相と官房長官のいうことが公式の発表で食い違うなど前代未聞だった。
これを社会党が支持した。村山委員長は細川を評して「夜騒ぐのが好きな男じゃの」と語った。
国民にしたところで、福祉目的税など予め聞かされていた話ではない。
いきなりの不意打ちである。しかも財布に関することである。当然評判は悪かった。
それに加えて閣内不一致である。内閣支持率が急降下した。
細川首相は結局福祉税構想を撤回する。細川首相は天下に赤っ恥をかいてしまった。
それとともにますます小沢に傾斜していった。
それ以上に小沢の武村に対する憤懣はやるかたないものだった。
彼は次の近くある内閣改造で武村を官房長官からはずすことを首相に求めた。
細川もこれに同意する。
連立内閣の遠心力は次第に加速していった。

72:無党派さん
16/10/08 04:08:08.47 ZjYmtnot.net
細川政権の崩壊2
こうして次第に軋轢が昂じていった細川内閣だが、そこにスキャンダルが見舞った。
細川首相が佐川急便から5億円の献金を受けていたのではないかと言う疑惑である。
もし事実だとすれば、届出がないだけに政治資金規正法違反だ。
どうやら受け取っていたのは事実らしい。
細川首相は受けっとたが後で全額返却した、と苦しい答弁をした。
ただ、後になればなるほど、返したのが受けとってからかなり後であったことが判明するなど、細川首相に不利な事実が出てきた。
結局内閣改造はこの騒動に紛れ立ち消えになった。
自民党はここぞとばかり攻勢を強めた。
細川護煕首相は結局、父細川護貞の予言通り、外祖父近衛文麿の如く、辞任を選択した。
ウソをついたのがばれる前に身を引こうというのが実のところである。
小沢は状況を説明され、切りぬけるのが極めて困難だということを悟り、辞任に同意した。
さてそうすると重大な問題が残った。
そもそも連立政権は政治改革の実現を錦の御旗として、細川護煕を首相とすることを条件に成り立っていた。
しかし、政治改革は一応達成され、今また細川首相が辞任したのでは連立政権の前提条件がなくなってしまう。
しかし小沢はこれを連立の枠組み変更の千載一遇のチャンスだと捉えた。
政策の足ばかり引っ張ってきた(と小沢の目からは見える)社会党とさきがけ(というより武村)をこの機会に放逐しようと動き始めたのである。
その動きはまもなく表面上に現れた。
民社党の大内委員長が連立政権の代表者会議で、突然選挙を戦うための統一会派の結成を提案した。
これに新生党(自民党から政眞会が合流済み)、公明党、日本新党、新党みらい(代表鹿野道彦)がその場で賛意を表明した。
新党さきがけと社会党は唖然としてしまった。
彼等は何も聞いていなかったからだ。

73:無党派さん
16/10/08 04:17:02.47 KwcO09oO.net
主観が入りすぎてつまらなくなったな

74:無党派さん
16/10/08 04:25:18.41 ZjYmtnot.net
しかしこれが小沢の仕掛けた連立与党内での奪権クーデターであることに彼等が気付くのにそれほどの苦は要しなかった。
そもそも会派を組むと言うのはそれほど容易にできることではない。
皆それぞれ選挙において口にした公約があり、それに基づいて応援してくれた支持者がいるからだ。
だから会派を組むとなると、いきなり言われて、はいそうですかとは絶対ならない。
党内や支持者を納得させる理由を示し、説得しなければならないのだ。
それが今回社会党、さきがけが聞いていないことに、他党はすぐに賛成した。
予め水面下で、彼等だけを排除して根回しが行われていたことは明白だった。剛腕小沢得意の「排除の論理」であった。当然彼等は抗議した。
しかし、小沢の言い分は参加したいのであったら拒否しない、ということであった。
来たいなら来ればいい。その代わり自分の言うことには絶対従ってもらう、という意味である。
排除の意図がミエミエである。新会派は「改新」と名付けられた。
彼らは怒ったが、さきがけ内にも社会党内にも連立維持派は多かった。
連立を離脱しても展望なんかなかったからだ。
小沢は彼等の足元を見ていた。そして、社会党、さきがけの内半数は取り込めると踏んでいた。
ところが社会党の反発は予想以上であった。連立維持派の久保亘や本岡昭二が必死に宥めていたが、それでも抑えきれない。
しかし、この改新の突然の結成に慌てたのは各党も同じだった。
もともと小沢は例によって少数の各党首脳とこの話しを進めていたのだ。
この話しを進めたのは、新生党の小沢、公明党の市川、 民社党の大内、日本新党の細川、その他山口敏夫、野田毅等である。
新生党の議員も大部分は知らなかった。
新生党の代表者会議理事を務めていた船田元は社会党のあまりの反発に不安になった。
とにかく社会党に離脱されたら、連立政権側は衆院の過半数を大きく割ってしまう。政権を失ってしまう。
船田は社会党の引きとめの為の条件、合意作りの構築に奔走した。
しかし、小沢には別の思案があった。
数が足りないのなら、強いて社会党で数を埋める必要はない。
国会議員は誰だって一人一票である。
小沢の謀略の手は自民党にも既に伸びていた。
けれどもそれを妨げたのは、やはり参院であり、他ならぬ竹下という抗いがたい存在であった。

75:無党派さん
16/10/08 04:33:09.16 ZjYmtnot.net
悲劇の領袖渡辺美智雄
自民党渡辺派の領袖渡辺美智雄。彼は自民党第四世代最後の一人である。
安倍晋太郎は既に鬼籍に入り、竹下登、宮沢喜一は既に総理大臣になった。
彼以後の自民党総裁候補は、河野洋平、梶山静六、橋本龍太郎、加藤紘一、森喜郎ら自民党第五世代に入る。
彼は自民党の総裁になるためのステップを全て踏んできた。
閣僚歴は副総理、蔵相、通産相、外相、厚相、農水相と輝かしい。
資金集めに長け、多くの業界に影響力を持ち、子分となる国会議員を多く養ってきた。
そして、中曽根康弘に指名されて、中曽根派を受け継ぎ渡辺派の領袖となった。
総理になるには文句のないキャリアである。
ところが、さああとは総理だ、という時に竹下によって宇野・海部・宮沢と回され、
その後に至っては政権を失った。不運と言ってこれほどの不運はなかろう。
自民党が政権を失うなど、彼の発想からすれば想像の外にあった。
しかも、他日を期して、立候補した自民党総裁は新自由クラブからの出戻りである河野洋平にもっていかれた。
普通であれば、輝かしい閣僚歴を誇る渡辺が、
出戻りで科学技術庁長官や官房長官といった大臣より一段落ちの閣僚しか経験したことのない河野に負けるわけがない。
時代の流れとしか言いようがなかった。
時代が自分を置き去りにしようとしている。
渡辺はこのことを実感しあせっていた。
しかもあせる理由は他にも有る。
必死に秘密にしてはいたが渡辺は既にガンに冒されていた。
彼には時間がなかった。
そこに小沢からの接触があった。
小沢の言いようはずばり、渡辺派を引き連れ自民党を脱党してくれたら貴方を総理に担ぐ、と言うものだった。
渡辺は自分に残された時間がないことを知っていた。
自民党にいて総理になるには、二年後の総裁選に勝ってしかも、総選挙で野党連合に勝つ必要がある。
病が日に日に体を蝕んでいることを実感していた渡辺にとってはあまりに時間がかかりすぎる作業だった。
渡辺は脱党を決断し、その準備に入った。
実は渡辺は今日この事態有るを想定して布石を打っていた。
細川政権ができて以来、自民党を脱党した若手議員は多い。
その中で柿沢弘治、新井将敬、石破茂など、彼らは政治改革推進派であると同時に渡辺美智雄の直系である。
そう彼らの究極の目的は渡辺を非自民政権の首班にすることだった。
政治改革に表向き反対していた渡辺だったが、政治改革賛成派の若手議員とも資金や選挙支援を通じてつながり維持していたのである。
渡辺の意を受け自民党内の脱党議員の取りまとめに動いたのが山崎拓だった。
渡辺派には、中曽根系の長老議員がかなりいる。
彼らは脱党反対である。彼らはこの動きを察知して騒ぎ出した。
山崎から連絡が入った。騒ぎが大きくなると動きがとれなくなると言うものだ。
渡辺は急がなければならないことを悟る。
細川首相が辞任発表をする二日前、渡辺は小沢と極秘会談を持った。
渡辺は小沢にこの席で脱党の意を伝え、明日正式に連絡し、脱党の日時、人数を教えると小沢に言った。
しかし、小沢は今日中に正式な返事が欲しいとせっついた。
というのも小沢には小沢の事情があったからだ。
小沢は今回の首相辞任、渡辺美智雄担ぎ出しの目論見を、新生党党首で副総理の羽田孜に伝えていなかった。

76:無党派さん
16/10/08 04:37:46.25 ZjYmtnot.net
その羽田は外遊で当時日本を離れていて、帰ってくるのが明日の午後だったのだ。
羽田は確かに小沢を信頼していたが、総理になるチャンスを一度細川に譲っている。
だから次こそは自分が総理だと思っていた。
それが渡辺を首班に担ぐと知れば、何を言い出すかわからないと言う危惧が小沢にはあった。
羽田の温和な性格は評判が高いが、総理の地位がかかればどうかわからない、ということである。
しかし、渡辺はまだその時点で準備ができていなかった。
そこで小沢に無理に頼みこんで返事を明日にのばしてもらったのである。
あとから考えれば、これが渡辺の運命の岐路であった。
その夜自宅に帰った渡辺はすっかり消耗しきっていた。
病身をおして、人生最後の大勝負をかけようと奔走しているのである。
体が耐え切れず、体調が著しく悪化していた。
主治医でもある渡辺の娘はあまり渡辺の体調が悪いので精神安定剤と栄養剤を渡辺に射った。
おかげで渡辺はぐっすりと寝入ってしまい、次の日も目を覚まさなかった。
次の日の午前、小沢は渡辺の電話を首を長くして待っていた。
しかし、渡辺は寝入っているわけだから、電話などできるわけがなかった。
いつまで待ってもこない電話に業を煮やした小沢は、渡辺が降りたと判断し、羽田内閣を作ることを決断する。
次の日目を覚ました渡辺は慌てて小沢に電話を入れたが、小沢の返事は「もう遅いです」であった。
渡辺はことが終わったことを悟った。
渡辺が総理になる最後の機会はこうして失われた。
一年後渡辺は 自民党総裁に橋本を推した。
そしてその数日後ガンによりこの世を去った。

77:無党派さん
16/10/08 04:48:03.44 ZjYmtnot.net
非自民連立の融解
首班を羽田でいく決意を固めた小沢だが問題は社会党だった。
羽田首班を社会党に打診したところやはり態度は硬かった。
新会派改新結成の際の排除の影響だ。
さきがけの不信感も社会党に劣らない。
小沢は一応改新結成の際に拙速があり、誤解を与えてしまったと陳謝した。
しかし、社会党、さきがけの改新を白紙に戻すという要求は拒否し、改めて改新参加を要請した。
改新には防衛問題や福祉問題、憲法問題などで非自民連立よりもより先鋭的な政策を盛り込んでいた。
社会党にとっては支持団体や今までの言ってきたことを考えればおいそれと飲むわけにはいかなかった。
しかし、非自民連立を離脱したとしても展望などない。ここで例によって社会党内は連立離脱派と残留派に分かれた。
新生党の船田元はあくまで原則を突きつける小沢の手法に不安を覚えていた。
彼が危惧したのは自民党の存在である。
船田は小沢が、社会党は自民と組むことなどあり得ないと言う前提で物事を進めていることに不安を感じていたのだ。
自民がもし社会党に手を伸ばしてきたらどうするのか。
それでも細川首相辞任の日はやってくる。
船田はなんとか羽田首班を認めてくれるよう社会党に頼みこんだ。
社会党は非自民連立を壊しても行き場がないことは自分達で分かっていた。
小沢に対する憤懣を党内で好きなようにぶちまけさせたあと、村山委員長は羽田首班で行くことをなんとか説得した。
船田はほっと胸をなでおろした。
がしかしこの時さきがけの武村代表は既に自民党の野中広務、亀井静香らと接触していた。
そして社会党の基本政策と自民党の政策の擦りあわせをやっていたのである。
これには小沢に反発する社会党の野坂浩賢らも加わっていた。
武村は徹底的に反小沢で行くことを心に決めていた。
武村が自民党を離党したのは小沢の手下になる為ではない。
小沢の目指す新党になど希望を抱けなかったのである。
しかし、ここでも問題になったのは、社会党の基本政策である安保問題である。
この時は結局まとまらず自民、社会連合は立ち消えになる。
しかし、小沢は水面下のこの動きをキャッチしていなかった。
後になってこの自社さ接近が小沢の致命傷となってしまうのである。

78:無党派さん
16/10/08 04:54:01.98 ZjYmtnot.net
当の小沢は羽田内閣成立に際して、安保、自衛隊を認めるよう社会党に迫った。
事前の船田元の根回しで聞いていたことは、安保、自衛隊問題の再考を検討するという合意で羽田内閣に参加するという約束だったのだ。
それを一方的に破棄された事になる。
社会党内は小沢のやり方に激昂した。
この成り行きに船田は仰天した。
自分の取り付けた合意が小沢に何の前触れもなく変えられてしまったからだ。
船田にしたところで社会党が長年非現実的な空想論を振りかざしていたことはよく知っている。
いや社会党議員ですらこのことに気がついているのである。
それでも長年それを訴えて選挙を戦ってきた以上急に変えることなどできないのである。
だから急がず変えていくべきだ。これが船田の持論だった。
しかし、小沢はやり方は違った。
急激に社会党に見解を変えることを迫ったのである。
一つには社会党が絶対自民党とは組めないという思い込みもあった。
が、一説には日本を取り巻く国際的な環境に対する危機感がその根底にあったとも言われている。
それは何か。
北朝鮮危機である。
当時北の経済は社会主義政策の失敗により崩壊状態であった。
一年で数十万人の餓死者が出ていた。北の金政権は崩壊する以前に一かばちか南に戦争を仕掛けるのでは、という危惧が盛んに言われていた。
ときあたかも北が核兵器を開発していることが明らかになり、アメリカがそれをストップさせようとしていた。
北の反応次第で戦争の可能性はかなり高かったと言っていい。
戦争が起きれば日本が兵站基地となるのは明らかだ。当然攻撃を受ける可能性は低くない。
そんな時政権内に自衛隊の存在すら認めてない社会党がいたんでは有効な対策をとれないおそれが多分にあった。
実は自民党の渡辺を担ぎ出そうとしたのも、同根の理由である可能性は高い。
しかし、戦争が近いなどというわけにはいかない。
実際北とアメリカが急速に接近し、原子炉の供与を受ける代わりに、
今の原子炉を廃棄し、新たな原子炉ができるまでは燃料の援助を受けるという条件で、合意がなされ、最悪の事態は回避された。
社会党の首脳にはこのことは一切知らされていなかった。
社会党の少数の首脳にこういう事態の逼迫を知らせていれば、彼等も党内を抑えようはあったのだろうが、
知らないのでは今まで小沢を支持していた、赤松や久保も連立残留を説得するエネルギーが出てこなかった。
そして自民党やさきがけと密かな接触を続けていた村山や野坂はこの事態を成り行きに任せていた。
彼らは、小沢と手を切り自民と手を組むタイミングを計っていたのだ。
結局、社会党、さきがけはは羽田内閣に閣僚を送り込まず、閣外協力に転じた。
永田町の常識ではこれは連立離脱と同義語であった。
羽田内閣は一気に衆院190人の少数党内閣になった。
この間羽田は調整を小沢に一任していたが、結果は羽田内閣の短命を想像させるものであった。
羽田は無念だったに違いない。
ところが小沢も手を拱いていた訳ではない。
小沢は渡辺擁立が不発に終わった後も密かに自民党の改革推進派と接触していたのである。

79:無党派さん
16/10/08 05:02:55.07 ZjYmtnot.net
会期末の攻防
1994年4月、羽田内閣は成立した。
しかし、衆院190人、参院80人の少数党内閣である。新しい政策などうちだしようがなかった。
ただ、社会党、さきがけが非自民連立に加わっていた頃に提出された法案は両党の協力ににより成立したがそれまでである。
やがて通常国会の会期末が迫ってきた。
自民党の野中、亀井、社会党の村山、さきがけの武村はこの頃頻繁に接触していた。
彼らは共同で内閣不信任案の提出の準備をしていた。
それだけではない。
羽田内閣を倒した後には社会党の村山を首班とする自社さ連立内閣の構想まで練っていたのである。
自民党が社会党の委員長を首班に担ぐ。
考えてみれば凄まじい裏技である。
換言すれば自民党はそうまでしてでも与党に返り咲きたかった。
なぜか?自民党は1955年の結党以来野党の経験がなかった。野党と言うものを実体験で知っている議員は中曽根元首相、原健三郎など極少数しかいない。
大部分の自民党議員は野党というものを当初見くびっていたのである。
ところが実際経験してみると、この立場は殆どの自民党議員には耐え難いものだった。
まず政治献金が、がた減りした。
自民党の支持者と言うのは大まかに言って四種類に分かれる。
一つ目は金融、農業、郵便局等の各業界団体、二つ目は地方の土建屋、三つ目は宗教団体、最後は親戚や同窓生で構成された後援会である。
このうち政治献金を収めているのは主に前二者である。
ところが彼らは自民党が与党だから献金していたのである。野党となって政策の決定権を失った自民党など彼等にとってはほぼありがたみがない。
だとすれば献金を渋るのも当たり前である。
次に情報が入らなくなった。
与党時代には自民党の国会議員が政策について省庁に説明を求めると、本省の部長、局長クラスが彼等のもとにすっ飛んできたものである。
ところが野党になってからは、自分自らが省庁に行かなければならない。
行った所で、係長、課長クラスが申し訳程度の説明をする程度である。
当然情報のキャッチが与党に比べて後手後手にまわってしまう。
与党時代は自民党の党本部のビルは官僚や業界からの陳情客などでごった返していた。
それが野党になるとまったく閑散としていた。
当然党や各議員の懐が苦しくなると、職員や秘書をリストラせねばならな


80:ゥった。 もともと自民党の議員は、選挙対策から公設で雇えるより多くの秘書を雇っていたのだが、 野党になるとあっという間にそんな余裕がなくなってしまった。 後一年こんな状態が続くと自民党はもたない。 こんな悲鳴が日に日に大きくなっていた。 社会党をはじめとする野党は長年野党に慣れきっていた。 しかしそれは自民党にも同じことが言えたのだ。 自民党は与党に馴れきっていた。 野党をやる前提で成り立っていた政党ではなかったのである。



81:無党派さん
16/10/08 05:12:49.22 ZjYmtnot.net
会期末、自社さで内閣不信任案が、予想通り提出された。
数の上では向こうが上である。
不信任案はこうして可決された。
この時点で羽田総理の選択枝はふたつである。衆院解散か内閣総辞職か、である。
連立内閣内で協議がもたれた。この協議では解散派と総辞職派、意見が二つに分かれた。
しかし、小沢は この場で強硬に総辞職を主張した。
このとき小沢には既に策があった。その策を胸に小沢は官邸の羽田のもとに向かった。
小沢はここで 羽田に総辞職を迫ったが、羽田は強硬に解散を主張した。
羽田にしてみれば無理もない。羽田はなんら辞職しなければならないような失政も不手際もおかしてはいなかった。
内閣支持率も45%ある。首相の座というのは政治家であれば夢見ない人はいない。
羽田だって政治家になって以来、いつかは総理を夢見て精進してきたのである。
そして首相になってすぐに、辞職しなければならない理由もないのに辞職せねばならないなど、あまりにも理不尽である。
だが、小沢の言い分は違った。
そもそも解散をしたとしても、参院が90人弱しかいないのでは安定的な政権運営など程遠い。
それにここで解散したんでは新たに決まった小選挙区比例代表並立制による解散ではない。
旧中選挙区による解散になる。中選挙区というのは一区につき3〜5人の当選者が出る。
当然与党同士同じ選挙区になる議員も多い。
自民党はこの中選挙区を戦う際、同じ選挙区の議員は一部の例外を除き必ず違う派閥に属していた。
これは選挙区が派閥単位の支援だったと言うことを雄弁に物語っている。
そして同じ選挙区同士の議員との仲というのは、信じがたいほど険悪なものだった。
これは同じ自民党の議員同士でも変わらない。例を挙げれば枚挙に暇がない。
岡山二区の橋本龍太郎と加藤六月、石川一区の奥田敬和と森喜朗、青森一区の田名部匡省と大島理森、千葉三区の森英介とハマコーこと浜田幸一などである。
ましてや非自民連立政権は政党が違う。選挙をやるとなると、選挙区がいっしょなのに各党派で選挙協力するなどきわめて困難だ。
結局自前の組織で戦わざるを得ない。また、10ヶ月前に死力を尽くした選挙を戦ったばかりである。金もこころもとなかった。
たしかにそれは現実だ。だが、それでも羽田は解散したかった。例え参院で劣勢でも国民の支持を得ていれば内閣は続くのである。
小沢は自分が腹蔵していた秘策を羽田に告げた。
そして再度羽田に総辞職を求めた。
この時必ずもう一度羽田を首相にするよう努力するとも言ったという。
羽田はついに折れた。総辞職を決断した。無念の一念が彼の胸にわだかまっていた。

82:無党派さん
16/10/08 05:23:26.38 ZjYmtnot.net
乾坤一擲
小沢の秘策とは自民党の海部俊樹を非自民連立政権の首班に担ぐことだった。
以前より小沢は密かに海部と接触していたのだ。
そこで羽田内閣が行き詰まった時自民党から離党してくれれば、あなたを首班に担ぐ、と約束していた。
小沢が狙っていたのは、自民党の改革推進派を自陣営に引き込むことだ。
そしてそれをばねに、社会党内の自民連立に批判的な右派勢力の分裂も密かに狙っていた。
海部俊樹は自民党の首相時代、政治改革を断行しようとして退陣に追い込まれた過去がある。
しかもその時自民党内が海部を引き摺り下ろしたのは、
早く海部を辞めさせて、安倍、宮沢、渡辺等ニューリーダーに時計を戻そうという極めて派略的な理由だった。
政治改革を標榜して選挙を勝ったはずの海部


83:にとっては無念の極みだ。 しかし、海部はその後も自民党の一定の若手を糾合して、政治改革推進の旗振りを一貫して続けてきた。 政治改革推進の看板としてはうってつけの人材だ。 あの時党内の情勢を見て海部を見限り引導を渡したのは竹下派会長代行の小沢である。 その小沢が軽くパーと評した神輿の海部を担ごうというのだから、考えてみれば皮肉なめぐりあわせではあった。 海部は誘われた時、当然ながら迷った。 30年間所属していた自民党を離党すると言うこともさることながら、海部は一度は自民党総裁を務めている。 自民党総裁経験者の離党は、田中角栄や中曽根康弘ように、弁解のしようのないスキャンダルでの離党というのはあった。 しかし、非自民党政権の首班になるための離党など前代未聞である。 自民党の総裁室には初代総裁鳩山一郎以来、自民党総裁の写真が飾られているが、 実際に海部俊樹の写真だけは復党まで外されることになるのである。 渡辺美智雄の例も有る。 渡辺は小沢の誘いに乗って渡辺派を率き連れ自民党を離党しようとした。 それが失敗に終った時、渡辺を自民党総裁にしようという声は自民党内から消えていた。 渡辺は自分が自民党総裁になる機会が永久に断たれたことを思い知らざるを得なかった。 しかし、海部の事情はちょっと違った。 なんと言っても彼は首相経験者である。 しかも自民党内で自分の再登板の可能性を考えれば、可能性は低い。 なぜなら、自民党内には小渕恵三、橋本龍太郎、森喜朗、加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎など次の世代の首相候補が目白押しである。 また、70人からのなる大所帯の手下の利害調整をしなければならない渡辺と違い、 海部には直系の同士など極少数であり、派外には津島雄二など広範な支持層があった。 換言すれば自分の決断次第で身軽に動けるという長所でもある。 渡辺が離党に踏み切れなかったのは、大所帯なるが故に動きが鈍かったという点が非常に大きい。 諸々の点を考えに考えあぐねた挙句、海部は離党を決断した。 そしてそれは首班指名選挙の前日唐突に記者会見で発表された。 私は政治信条に照らして社会党首班を担ぐことはできません。それが理由であると海部は会見で述べた。



84:無党派さん
16/10/08 05:31:09.56 ZjYmtnot.net
この発表に自民党内、というより国会は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
特に自社さの議員達にとって衝撃は深刻だ。
もともと自民党は数からいって問題なく勝てると踏んでいた。
それが俄かに波瀾含みになってきた。自民党の執行部は票固めにおおわらわになった。
動揺が広がれば、大量離党もありうる事態である。
しかも、投票の行方が不透明だ。
社会党からも海部首班にのる議員がでるおそれもある。
社会党内でも意思の確認にてんてこ舞いになった。
そんな時、自民党の中曽根元首相が村山首班への賛成投票を拒否した。
ちょっとしたハプニングだ。
一方の非自民連立与党側も票が読めなかった。
海部元首相について離党する議員が数名に止まったためだ。
社会党には赤松、久保、本岡と非自民連立派がかなりいるが彼らはどうするのか?
自民党から新たに離党者がでるのか?
やはり不透明だった。
自民党河野総裁は後藤田元副総理に票読みを聞かれた時、260対220で勝てると言ったという。
一方の小沢は250対240と読んでいた。
第一回投票、村山富市243票、海部俊樹229票であった。
第一回で勝てると踏んでいた自民党には動揺が走った。
落ちこぼれが出たのである。しかし、基礎票では上回っていることがこれではっきりした。
ついで行われた第二回投票では、第一回目で棄権した社会党議員も村山と書いた。
自民党の河野とは到底書けなかったのだが、首班候補は自党の党首村山である。
それを考えれば二度も造反はできなかった。
小沢は敗れた。
小沢の人生で初めて権力を失った瞬間だ。
非自民連立は通産10カ月で幕となった。
自民党は狂喜した。
後にある新生党議員が悔


85:しそうに語った。 「海部さんの離党が一日遅かった。後24時間あれば、自民党30人 社会党の半分を切り崩すことができたのに」 しかし果たしてこれは事実であっただろうか? 社会党の総理は1947年片山哲首相以来、史上二人目である。 村山は一度も首相を目指した事はなかった。 なりたいと思ったこともなかった。 しかし運命は村山に選択の余地を与えなかった。 この運命の神は村山にひとつの重要な仕事を課していた。 社会党の埋葬である。 村山は以後誠実にその仕事をこなすことになるのである。



86:無党派さん
16/10/08 06:03:44.37 ZjYmtnot.net
  /"/ /           .:|  .:      /::/,.ィ "   ,... - "     };;;;\:::::::.
/;;;;;///        ::: .: .:::l  ::     //"'"/ ,..-ィ'"  :      ノ;;;;;;;;;;\::
;;;;;;ノ/ /      i  .::::.::: :::l .::: :   : 〃 / "   }  ::      `ヽ、;;;;;;;;;`
;/   l      ,, ヽ  ::::!::l、 ::ハ :::、::  :/       l .:::       :::|::::\;;;;;;;
__ ,... - ''l  .:  ::. ::::.ヽ ::|l::| l :|、ヽ,::ヽ:::. ノ|  _,, ......-/ /,:  .::::  .:::/:::::::::::丶、  小沢さんは自社さ政権樹立をめぐって権力闘争を優先したのです
__ , -  ヽ :|l :::::.. ::、::7、:|ァヾ゙、:|ミ、"\、::::|ll "" ,彳=7/'"/'フ .::::   .:::/::::::::::: ::::   つまるところ、私を倒すことしか頭に無かったのです
     ヽ:l ヽ ::::、::::丶彳'{__/';;;}`  `ヽ|ヽ  "{__/;;;;}`/_,, '" :: :::::/::::::::::: /::::
      !  ヽ、::ヾ、:::`ヽーヽ--'"    `    -ヽ--="' / .:::::::::::::/:::::::: 〃:: /
      .....  丶、:::7ー、        ,        /:::; -:;; -ィ/::::::: //: /
::::::::::::::::::::   ../  :::::|_1         |      / '"ーI ":  l:::;; -'"/ '"
::::::::::::  .......:::::/  :::::|::ヽ        !         /"|:::::  丶 - "'
 ...:::::::::::::::::;;:ィ'  ::::::::|::::::\               /- |:::::::  ヽ
:::::::::::;; - '" "  : :::::::ノ__::::::::ヽ、   ' ̄  ̄`     /    {::::::::  ヽ
- '"  - "   ::::::::::::ノ/- '",,ヽヽ、   "   ,./|-、__   l::::::::   ヽ
       .::::::::::/ __ -i、、"  |  丶、   ,.. '   l  〃、 ヽ:::::::    ヽ、

87:無党派さん
16/10/08 07:16:42.61 grDhDF7A.net
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
安倍政権は雇用の改善を強調し、アベノミクス効果を高らかにうたう。
しかし、希望する正規の職がなく、やむなく非正規雇用を選ばざるを得なかった労働者は国内で300万人以上に上る。
政権の後ろ盾となっているデータ通り、果たして就労環境は改善されているのだろうか。非正規社員の職場を歩くと、悲鳴の声が上がっていた。
自民党は格差を作り上げて現状も正規は増えずに非正規雇用を
国策的に増やしている割に、非正規雇用の待遇の改善を
行わない無責任政党
URLリンク(jiyugaichiban.blog61.fc2.com)
派遣業は現代の口入れ屋、廃止すべき
人材派遣制度は、格差社会を助長するものと、私は見ている。
現在の口入れ屋に過ぎない。やくざ稼業と言えよう。
人材派遣業はピンハネしていると聞く。
はけん110番で見ると
URLリンク(www.a)



次ページ
最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
暇つぶし2ch

953日前に更新/512 KB
担当:undef