日本の古代史 Part38 at ARCHEOLOGY
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621:出土地不明
19/06/16 23:11:50.99 9SKnoX3I.net
>>620
うーん、50点。
中国の灰陶登場=陶器時代はもう少し後で5500年前頃から。
朝鮮半島における中国灰陶系土器の登場は2100年前で漢四郡設置による
楽浪瓦質土器からだな。
それと、プラントオパールは稲作の証拠にはならないんだよ。
日本最古のイネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)は3000年前の菜畑遺跡のもので、
それより前に遡れるイネの現物は一粒も見つかっていない。
1万年前から3000年前までの7000年間もの間のイネの証拠現物が一粒でもどこにある?
それと、日本列島が大陸とつながっていたのは、言われているよりも前で
18000年くらい前までなんだそうな。
厳密に言うと、対馬海峡は当時は川で、大陸とは近接するものの、
つながってはいなかったんだそうな。
縄文晩期に北方から渡来した渡来人はせいぜい数十人規模だろう。
彼らは渡来してから日本列島内で彼らの子孫たちが増えていっただけとの見方が主流。

622:出土地不明
19/06/17 02:33:28.67 1xG848PI.net
縄文の縄目文様の意味って何?
滑り止めとか単に模様、何かの信仰。いろいろ読んで考えてもいまいちわからん。
何かピントか説やらをを教えてちょんまげ。

623:出土地不明
19/06/17 05:59:23.38 Vpccq0Pc.net
18000年くらい前までなんだそうな。? 根拠はない。w
稲作とは水田稲作の事?野生にしても畑作にしても稲があったという意味。
海面上昇の証拠として黒海の底に村を発見。これは6000年前と言ってるね。ま
キリスト教的にそれ以上は無理。つまり根拠はない。沖縄は1万年前と言ってるね
これは根拠がある。そしてそこには農業の痕跡がある。18000年では最古だなw
地質学的に洪積世とかいったかこれはほとんど氷河時代。津軽海峡はずうと海?これもあ怪しい。
一番深くて200m?干潮と誤差を考えると誰でも渡れるんだな。慰安婦は性奴隷と学者が発表し
誰かが小説を書き世間で大声でどなりそして真実になる。これ朝鮮人的またパヨク的思考。共通項は思い
込みで証拠がないが矛盾が出たら修正していくが修正しないのがパヨク史観。あとは馬鹿で探求方法もわからない
凡人。陶器の意味は釜で焼きろくろで作ると定義しとくよ。中国のの三本足の陶器を出してるがルーツは同じ
陶器文化の疑問なんだろうな。また海面上昇はたとえ南北アメリカにより大西洋太平洋が分断してたと仮定しても
世界的傾向は変わらないと仮定すると出てくる合理的思考。あくまで仮定の話なので50点は十分満足の点数だよ。w
また当然疑問に愚の根も出ない現行史観はさらに低得点と理解しろよ。w

624:出土地不明
19/06/17 08:51:28.88 P0NzhhJ7.net
>>623
まあ、18000年前というのも地質学からの単なる推定だけどな。
イネの証拠現物は3000年前の最古水田=菜畑遺跡よりも前に遡れるものは一粒も
ないです。
ありません。
農具もありません。
それ以前にイネがあったと言うなら、その証拠現物が出せない限り、考古立証は無理。
それと、中国の三足土器の登場は思っているよりも古く、8500年前の中原あたりで
登場した「カ」(禾の下に皿)という器種で、早くも7000年前には黄河下流域と
長江下流域にまで広がり、その進化形である鼎や鬲が登場した。
5500年前の登り窯焼成の中国灰陶の登場よりもはるか前なんです。
まあ、考古学でも何でもない単なる中華願望を否定されると何でもかんでも
朝鮮人認定してくる半ブタ半ニグロのナンポー中華土人よりははるかにマシかなw

625:出土地不明
19/06/17 08:54:11.21 P0NzhhJ7.net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

626:出土地不明
19/06/18 10:04:32.30 Ay3LxcjT.net
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

627:出土地不明
19/06/19 11:24:10.53 e59GSXBw.net
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

628:出土地不明
19/06/20 22:52:01.43 pw94eiRQ.net
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 より抜粋

629:出土地不明
19/06/21 08:13:07.42 k6hTiOqT.net
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例が10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

630:出土地不明
19/06/22 14:15:38.66 gvKoQr7p.net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

631:出土地不明
19/06/24 07:02:29.55 JpJAsLTY.net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

632:出土地不明
19/06/24 18:35:43.14 JQjZso/e.net
バイカル湖周辺を本拠としたブリアート人。
アジア一帯を広域的に交易(キャラバン)していたらしく、南はインド。極東は日本列島にまで頻繁に活動していたようです。
東北、北海道(古代は「渡り島」と呼ばれていたらしい)にもブリアート人が多くいたらしい。
その広域的に交易していたブリアート人がインド先住民ドラビタ族の中部地方王国、クナ王国にも頻繁に交易していて、
極東の日本列島や周辺の情報を国王などに伝えていたようです。
アーリア人のインド侵攻により先住民のドラビタ族らは従属、隷属を余儀なくされて行く中、
南部や周辺に逃避するドラビタ族がいる中、
このクナト王は全く違う事を考えていました。
、、、予てよりキャラバンで来訪するブリアート人らに聞いていた極東の更に海中にうかぶ人口が少なく気候も温和な島国(日本列島)への
国ごとの集団移住を決意して若者を中心に移民団を募集するとたちまち数千人の応募があり
彼らを率いて(ブリアート人の道案内で)
故郷を出発。
山を越え、ゴビ砂漠を渡り、やがてブリアート人らの本拠のバイカル湖畔に到着。
しばらく休息(一定期間居留したようでブリアート人との婚姻、混血が進んだようです)
大量の筏を作り荷物や家畜を筏に積んでアムール川を一気に数千キロを川下り(雪解け時期の増水期か?)
オホーツク海に浮かび樺太〜渡り島(北海道)沿岸をへて津軽半島に至り
やっと約束の地、ユートピアの本州に上陸した移民団は東北地方でしばらく居留したのち、
日本海沿岸を南下。
その途中、小集団が各地で分離、定住化するもクナト王率いる本隊は尚も南下を継続。
今の出雲地域に至り、豊富な砂鉄資源を見出だした(タタラ(意味はドラビタ語で猛烈な炎)による製鉄技術を有していた)ことから旅装を解いて定住化することとしました。
、、、島根半島(当時は沖合いに浮かぶ島)により外海と隔絶された波穏やかな内海が広がっていた事も重要なポイントかも?

633:出土地不明
19/06/24 18:42:02.83 JQjZso/e.net
>>632
ドラビタ族(→出雲(出芽)族)らはインドから家畜や稲(陸稲と思われる)、蕎麦(バイカル湖畔周辺に自生)ほかを持ち込んだらしい。

634:出土地不明
19/06/24 19:56:17.73 6UQEy1zB.net
>>632
何の考古立証もできませんね。
創作としては面白いが、考古学としては0点です。
バイカル湖周辺は冬はマイナス20℃以下になるのですよ。
そんな厳しい場所にサバナ気候の人たちが馴染める訳がないし、食べ物だって
さっぱり違うのですよ。
バイカル湖周辺の北方モンゴロイドは肌だけ見れば乳白色の白人です。
インド黒人であるドラヴィダ人を簡単に受け入れたとも思えませんね。

635:出土地不明
19/06/25 22:45:45.60 6apW+MSx.net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

636:出土地不明
19/06/26 10:24:09.16 LYXb7EGP.net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)

.

637:出土地不明
19/06/27 07:04:50.90 hdHmaFqd.net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

638:出土地不明
19/06/28 14:07:07.42 jIQkx/4M.net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

. 

639:出土地不明
19/06/28 14:07:25.90 jIQkx/4M.net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

. 

640:出土地不明
19/06/29 13:01:13.07 TB6v4v7E.net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)

641:出土地不明
19/06/30 14:25:11.85 KlNNhdxS.net
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋


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