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50:出土地不明
14/08/12 22:22:35.35 F4pZtacO.net
陶棺を野焼きする体験講座URLリンク(www3.nhk.or.jp)
古墳時代の「陶棺」と呼ばれる粘土を焼き固めたひつぎのミニチュアを、夏休みの小学生たちが野焼きで仕上げる
体験講座が、12日津山市で開かれました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
この催しは、多くの陶棺が出土している津山市の津山郷土博物館が夏休みに合わせて子供たちに郷土の歴史に
関心を持ってもらおうと開いたものです。
12日は、小学生6人があらかじめ自分たちで粘土をこねて作ってあった20センチほどのミニサイズの「陶棺」を
博物館の裏庭で野焼きする作業に取り組みました。
子どもたちはまず、たき火の周りに自分の「陶棺」を並べてたき火の熱で乾燥させ徐々に火の中に入れて、たきぎを
加えて焼き上げていました。
「陶棺」を焼き上げるには2時間半ほどかかり、子どもたちは焼き上がりを待つ間、古代の人が火おこしに使っていた
「まいぎり」と呼ばれる道具で火おこしを体験したり、博物館を見学ししたりしていました。
参加した女子児童は、「きょうは、昔の人がやってた火おこしとかができて楽しかったです。陶棺は夏休みの宿題で
学校に持って行きます」と話していました。08月12日 20時50分

51:出土地不明
14/08/13 22:26:42.01 9i2g6Iev.net
【奈良】古代日本に"ピラミッド" 蘇我馬子の父、稲目の墓? 都塚古墳(画像と動画あり)

画像と動画
蘇我馬子の父、稲目の墓?都塚古墳、国内初の構造も(14/08/13)
URLリンク(news.tv-asahi.co.jp)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(i.ytimg.com)
URLリンク(www3.nhk.or.jp)

都塚古墳は“ピラミッド型”か
URLリンク(www3.nhk.or.jp)
8月13日 17時55分

奈良県明日香村にある「都塚古墳」が、石を階段状に積み上げたピラミッドのような極めて珍しい形をしていた可能性が高いことが地元の教育委員会などの発掘調査で分かりました。
研究者からは、古代の「高句麗」の王族のものとみられる墓に形が似ていることなどから、渡来人と関係が深かった豪族の蘇我稲目が埋葬されたのではないかという説も出て、今後、議論を呼びそうです。

調査が行われたのは、6世紀後半に造られたとみられる「都塚古墳」です。
明日香村の教育委員会と関西大学が、古墳の上の土で覆われている部分を発掘調査した結果、直径10センチから30センチほどの数多くの石を階段状に積み上げた遺構が3か所で見つかりました。
1か所では4段の石組みが、ほかの2か所では低いところのそれぞれ1段が確認されたということです。
また、古墳のすその部分は一辺が40メートル余りのほぼ正方形とみられることも分かり、調査した教育委員会などは、石を階段状に積み上げた形をしていた可能性が高いとみています。
このように石を階段状に組んでピラミッドのような形にした古墳は、国内ではほとんど例がないということです。
「都塚古墳」は、昭和42年に行われた本格的な発掘調査で土器や鉄製品が見つかりました。
今は埋葬施設の石室の内部を見学することができ、中には家の形をした石のひつぎが安置されています。
しかし、土に覆われた古墳の上の部分は、今回の調査以前は調査が行われず、全体の形や規模は分かっていませんでした。
また、誰が埋葬されたかについても、明らかになっていません。
この調査結果については、今月16日に現地説明会が開かれます。発掘調査を行った明日香村教育委員会文化財課の西光慎治調整員は「長い間、この地域の古墳を調べてきたが、
今回のような形をしたものは初めてで、驚いている。強い権力を持つトップクラスの人が埋葬されたのではないか」と話しています。

「蘇我稲目を埋葬か」

今回の調査結果を受けて、飛鳥時代の古墳に詳しい京都橘大学の猪熊兼勝名誉教授は「都塚古墳は強大な権力を握った豪族の蘇我稲目が埋葬されたのではないか」と指摘しています。
猪熊名誉教授は、その根拠として主に3つの点を挙げています。
▽1つは、都塚古墳は6世紀後半に造られたとみられ、蘇我稲目が死んだ570年と時期がほぼ一致することです。
▽また、都塚古墳がある場所は、蘇我氏とゆかりの深い地域とされていることです。
北に400メートルほどのところにある「石舞台古墳」は、6世紀の古墳を壊して7世紀初めに造られたとみられ、蘇我稲目の息子の蘇我馬子の墓とする説があり、近くには馬子の邸宅の跡とされる「島庄遺跡」もあります。
▽さらに今回の調査で明らかになったピラミッドのような古墳の形は、大陸から朝鮮半島にかけて勢力を誇った「高句麗」の王族のものとみられる墓に似ている点を挙げています。
蘇我稲目は高句麗から来た2人の女性を妻にしたと「日本書紀」に記されるなど高句麗と関係が深く、特徴が似た古墳に埋葬されたのではないかと指摘しています。

URLリンク(www3.nhk.or.jp)

52:出土地不明
14/08/16 11:41:08.23 GUZsr1xv.net
屋島80年記念し企画展開催へURLリンク(www3.nhk.or.jp)
高松市の屋島が国の史跡と天然記念物に指定されてからことしで80年になるのを記念して、高松市と香川大学は、
屋島の史跡や地形などの天然記念物の調査成果を紹介する企画展を開くことになりました。
高松市の屋島は、中国・唐の高僧、鑑真が開いたと伝えられる屋島寺や源平の古戦場などの史跡があることや
「メサ」と呼ばれる頂上が平坦な溶岩台地の美しい地形がみられることなどから昭和9年に国の史跡と天然記念物に
指定されました。
指定からことし11月で、80年になるのを記念して高松市と香川大学は11月8日から12月23日まで高松市歴史
資料館で企画展を開くことになりました。
企画展では、屋島の史跡のほか高松市が香川大学に委託して2年間にわたって実施した屋島の地形や動植物などの
天然記念物の調査の成果が紹介されます。
また、高松市では、12月から来年1月にかけて4回にわたり、天然記念物の調査成果を専門家が解説する
一般向けの講座も開くことにしています。
高松市では、「企画展や講座をとおして屋島の価値を多くの人に知ってもらいたい」と話しています。08月16日 09時36分

53:出土地不明
14/08/18 18:35:51.20 wMHeZJBQ.net
自分だけのまが玉を作ろうURLリンク(www3.nhk.or.jp)
夏休み中の子どもたちに古代の歴史や文化財に興味をもってもらおうと、「まが玉」の形をしたペンダントをつくる催しが
丸亀市で開かれました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
この催しは子どもたちに歴史のおもしろさを感じ文化財に関心をもってもらおうと丸亀市教育委員会が開いたもので
市内の子どもたち22人が参加しました。
はじめに丸亀市教育委員会の職員がまが玉は古代の人の首飾りであることなどを解説し、子どもたちは10センチ
ほどの大きなものなどさまざまなまが玉を見せてもらいました。
そのあとさっそくペンダント作りに挑戦し、まが玉の形に削られた滑石と呼ばれる比較的柔らかい石を紙やすりで
磨いて思い思いの形に仕上げていきました。
そして、水につけながら磨いて表面をつるつるにしたあと、ひもを通して自分だけの「まが玉ペンダント」を完成させました。
妹といっしょに参加した女の子は「もともと歴史は好きですがさらに関心を持ちました。ペンダントは家に飾るか妹に
プレゼントします」などと話していました。
08月18日 12時26分

54:出土地不明
14/08/22 08:27:59.86 TJaiS5HD.net
讃岐国府跡の専門委員会発足URLリンク(www3.nhk.or.jp)
古代の讃岐国の役所跡、「讃岐国府跡」の調査について指導や助言を行う専門委員会が発足し、国の史跡指定に
向けて地元の坂出市と香川県埋蔵文化財センターが連携して調査を進めることになりました。
「讃岐国府」は、奈良時代に中央政府が讃岐国を治めるために設けた役所です。
香川県埋蔵文化財センターが坂出市府中町で進めている発掘調査で、これまでに、「讃岐国府」の中心施設と
みられる建物跡や塀の跡などが見つかっています。
こうした調査の成果を受けて、坂出市は、21日、「讃岐国府跡」の調査や保存・活用を検討する会議の中に、
専門家による委員会を立ち上げました。
委員は6人で徳島文理大学の大久保徹也教授を委員長に選んだあと「讃岐国府跡」と「讃岐国府」の中にあった寺院、
「開法寺」の跡を視察しました。専門委員会は、今後の発掘調査などについて指導や助言を行います。
「讃岐国府」の中心施設とみられる区画はおよそ70メートル四方と推定され、香川県埋蔵文化財センターは
区画の範囲や建物の配置を明らかにしたいとしています。
また、坂出市も、「開法寺跡」の調査を続け双方が連携して国の史跡指定を目指すことになっています。
08月22日 07時22分

55:出土地不明
14/08/26 06:12:38.53 v76S35R/.net
備前焼「甕壺」作りに挑戦URLリンク(www3.nhk.or.jp)
備前焼の大きなかめをモチーフにした備前焼のキャラクターを手作りする催しが24日備前市で開かれました。
この催しは備前市の備前市埋蔵文化財管理センターが開いたもので、24日は小学生などの子どもとその保護者
あわせて13人が参加しました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
作ったのは中世の時代に水や穀物などを入れる容器として生産された備前焼の大きなかめをモチーフにした
備前市埋葬文化財管理センターのマスコットキャラクター「甕壷」です。
子どもたちは備前焼作家の指導を受けながら当時の技法に基づき、まず粘土を細長いひも状にしてそれを一本ずつ
積み重ねていきます。そして粘土の表面を手でならしては形を整え、高さ10センチほどのかめの形に整えました。
そして親子で竹のヘラやクシを使い側面に顔を描いたり、手足を付けるなどしてマスコットキャラクターを完成させました。
体験した小学2年生の男の子は「とても楽しかったです。作ったかめの中にはキャンディーなどのお菓子を入れてみたいです」
と話していました。
出来上がった作品は備前焼作家の工房で焼き上げ、ことし10月には子どもたちの元へ届けられるということです。
08月25日 22時22分

56:出土地不明
14/08/31 08:57:23.15 3Z3TDKOm.net
須恵器の窯跡 発掘説明会URLリンク(www3.nhk.or.jp)
備前市で、備前焼のルーツとされる須恵器が作られた窯の跡の発掘調査の説明会が開かれました。
説明会が行われたのは、備前市佐山にある「東山窯跡」です。
岡山理科大学考古学研究室の亀田修一教授のグループが去年3月から断続的に発掘調査をしていて、
30日は一般の見学者70人を対象に発掘現場の説明会が開かれました。
亀田教授によりますと、この窯の大きさは幅およそ2メートル、全長は10メートルで、初期の備前焼を焼く窯と似た
構造をしており須恵器から備前焼に移り変わる奈良時代後期に築かれたとみられています。
窯の周囲には雨水を逃がすための溝が掘られていたほか、薪を入れる「たき口」の手前には灰や割れた器などを
捨てる「灰原」が見つかっているということです。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
また、器の破片も数多く見つかりこの中から漢字の「福」とみられる判が押されているものも見つかったということです。
亀田教授によりますと、福の文字を押した器のかけらがこの時代の窯跡から見つかるのは珍しいということです。
見学に訪れた人たちは備前焼のルーツに思いを馳せながら説明を聞いていました。
現在行われている発掘調査は明後日まで実施されるということです。08月30日 19時37分

57:出土地不明
14/09/04 07:41:01.22 7ppensBw.net
屋島に瀬戸内有数の製塩遺跡URLリンク(www3.nhk.or.jp)
高松市の屋島にある遺跡から海水を煮詰めて塩を作るのに使われた弥生時代から飛鳥時代までの土器が大量に
出土し、古代の塩作りの変遷をたどることができる瀬戸内でも有数の遺跡であることがわかりました。
この遺跡は、屋島の浦生地区にある「鵜羽神社境内遺跡」で、昨年度から徳島文理大学と高松市が共同で発掘調査を
行っています。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
これまでの調査で、海水を煮詰めて塩を作るのに使われた1世紀終わりの弥生時代後期から7世紀前半の飛鳥
時代までの土器の破片が大量に出土しました。
中でも、古墳時代の終わりから飛鳥時代の初めにかけての土器が多く見つかり、およそ30センチの厚さで積み
重なっている所もありました。
さらに、古墳時代前期の地層から焼けた粘土の塊が見つかり、塩を焼いて固めるのに使った炉の跡の可能性もあると
みられています。
徳島文理大学の大久保徹也教授は、「500年以上にわたって塩作りの変遷をたどることができる瀬戸内でも有数の
遺跡だ」と話しています。
屋島には、7世紀後半に築かれたとされる山城、「屋嶋城」の跡があり、「屋嶋城」が築かれる以前の屋島の状況を
知るうえでも重要な遺跡と注目されます。09月03日 16時11分

58:出土地不明
14/09/05 08:17:34.51 JjhWQMWD.net
地震で沈んだ遺跡を探せURLリンク(www3.nhk.or.jp)
過去の巨大地震で集落が海に沈んだという言い伝えについて調べている高知大学などの研究チームが4日、
須崎市で海底の調査を行いました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
高知大学と独立行政法人、海洋研究開発機構の共同研究チームは、大きな地震で集落が海に沈んだという、
高知県の沿岸部に今も残る言い伝えについて、平成25年から調べています。
きょうはことし3月の調査で海底の広い範囲が平らになっているのが見つかった須崎市の野見湾で再び調査を行いました。
研究チームのメンバーは採泥器と呼ばれる装置を使っておよそ40か所で海底の堆積物を採取し、ふるいにかけて
土器などの人工物が含まれていないか調べました。
また、4日は地元の漁師も調査に同行し、海底に井戸などが見えたとされている場所を案内しました。
4日の調査では明らかに土器の破片などと判断できるものは見つかりませんでしたが、研究チームでは採取した
サンプルを詳しく調べるとともに今後、ダイバーが潜って海底の地層を掘り出して詳しい年代などを測定することに
しています。
海洋研究開発機構の谷川亘主任研究員は「今後は県西部にも調査範囲を広げ地震で集落が海に沈んだという
言い伝えについて科学的に解明し防災教育などに役立てていきたい」と話していました。09月04日 21時00分

59:出土地不明
14/09/09 16:12:02.75 opt3uIZt.net
珍しい古代の“製塩施設”見つかる09月08日 18:34 URLリンク(setonaikai.co.jp)
高松市で古墳時代前期に土器を使って塩を作っていた施設の遺跡が見つかり、
発掘調査が進んでいます。URLリンク(www.youtube.com)
調査が進んでいるのは高松市屋島西町の鵜羽(うのは)神社境内遺跡です 先月から高松市と徳島文理大学の
調査団が詳細な発掘調査を行っていました 1m20pほど掘ったところで古墳時代の製塩施設が見つかりました
備讃瀬戸では古くから製塩業が盛んでした 今から約1500年前の古墳時代には 土器に海水を入れて煮詰める
土器製塩と呼ばれる塩作りが行われていました 今回発見されたのは土器を火にかけるかまどのような施設の一部
上下の地層から古墳時代前期のものと特定 調査団によると全国的にも古い土器製塩の遺跡で貴重な発見だということ
飛鳥時代になると土器製塩で作った塩を更に熱して品質を良くする焼き塩という加工法が生み出されたとされている
調査団によると飛鳥時代の300もの前の遺跡で焼き塩を行っていた可能性もあるそうで 今後の調査によっては
日本の塩作りの歴史を塗り替える期待も持たれている 文理大文学部大久保教授 構造物の残骸が元々どういう配置に
なっていたかを復元することをやれば 手掛かりは今後の調査で得られると思う

60:出土地不明
14/09/09 16:31:13.40 opt3uIZt.net
なるほど!古代エジプト展始まるURLリンク(www.rsk.co.jp)
古代エジプト人の日々の暮らしを紹介する特別展、「なるほど!古代エジプト」が岡山市北区のオリエント美術館で
始まりました。初日の9日は、午前10時から開会式が行われました。
会場では、古代エジプト文明を生きた人々の一生が出土品や模型などを使って紹介されています。
誕生、結婚、労働や遊び、死などがテーマごとに紹介され私たちの暮らしとの対比を楽しむこともできます。
棺の蓋です。URLリンク(www.rsk.co.jp)
人の形に合わせて作られていて、鮮やかな色とビーズのような襟飾りが表現されているのが特徴です。
この特別展は11月16日までで、ESDユネスコ世界会議に合わせた講座やワークショップも開かれます。

61:出土地不明
14/09/10 13:37:33.51 sdqd0nqI.net
総社・神明遺跡で銅鐸出土 岡山県内 発掘調査で25年ぶり
URLリンク(www.sanyonews.jp)

発掘調査中の総社市福井、神明(しんめい)遺跡で、弥生時代中期(約2200年前)の銅鐸(どうたく)が見つかった。岡山県古代吉備文化財
センターが10日、発表した。発掘調査で銅鐸が出土するのは全国でも珍しく、県内では25年ぶり2例目。これまで謎が多いとされてきた埋め
方や年代の特定につながる貴重な発見という。

銅鐸は高さ約30センチ、裾部の長径15センチ。8月21日に見つかった。地下約20センチのところに、側面のひだ・鰭(ひれ)を上下にして
横たわっていた。弥生中期後半〜後期のムラの端に位置する。

銅鐸は弥生時代を代表する青銅器の一つで、祭祀(さいし)に使用されたとされる。上部のひもを通すつり手部分・鈕(ちゅう)の形から製作
年代が四つに分類され、今回のものは2番目に古い外縁(がいえん)付鈕式と推定される。

銅鐸の下の土層の住居跡や土器片から、埋納されたのは同時代後期初めごろ(約2000年前)とみられる。文様はまだよく分かっていない。

銅鐸の出土は全国では約570例(岡山県内は今回が24例目)あるが、発掘調査での出土は今回を含めても20例のみ。掘削工事などで
偶然見つかることがほとんどで、埋められた年代や埋め方が分からないことが多い。

弘田和司・同センター調査第3課長は「全く想定していなかった発見。他の例との比較や時期の特定を急ぎ、弥生時代の祭祀を解明したい」
と話す。

同遺跡は国道180号改築工事に伴い同センターが今春から約6800平方メートルを調査している。

■埋納議論に進展も

難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話  銅鐸の埋納は祭祀の度に掘り返された説と、ある時期に一斉に埋められたという説が
あるが、神明遺跡の銅鐸の埋納時期が特定されることによって、議論が進展する可能性がある。文様の有無、製作地がどこかなど、これからの
調査に期待の持てる面白い資料だ。



銅鐸は13日午後1時から同市中区古京町、三木記念ホールで同センターが開くシンポジウム「3世紀の吉備を読み解く」会場で公開。
20日午後1時からは現地説明会を実施する。問い合わせは同センター

62:出土地不明
14/09/10 16:32:33.80 BfP5Y8g4.net
総社市の神明遺跡で「銅鐸」見つかるURLリンク(www.rsk.co.jp)
発掘調査が進められている総社市の神明遺跡で、弥生時代の銅鐸が見つかりました。
岡山県で発掘調査中に銅鐸が出土したのは、25年ぶりのことです。
見つかった銅鐸は、高さ約30cm、幅約15cmの大きさです。URLリンク(www.rsk.co.jp)
銅鐸を埋めるために掘られた穴から、横倒しの状態で出土しました。
総社市福井の神明遺跡は、今年4月から発掘調査が進められていて、
これまでに弥生時代後期から奈良時代にかけての竪穴住居や、土器の棺などが見つかっています。
今回出土した銅鐸は、弥生時代後期初め頃以降のものとされ、発掘調査中に出土したのは、
岡山県では25年ぶり2例目で、全国でも20例目となります。
調査を行っている岡山県古代吉備文化財センターでは、弥生時代、祭りに使われた祭器のあり方や、
銅鐸を埋める方法などを調べる上で重要な資料になると話しています。

63:出土地不明
14/09/11 03:14:52.06 BbUvw+CX.net
銅鐸が弥生時代の遺跡から出土URLリンク(www3.nhk.or.jp)
総社市にあるおよそ2000年前の弥生時代の遺跡から当時、儀式に使われたと見られる青銅器の「銅鐸」が出土しました。
専門家は「銅鐸が埋められた状態や時期がはっきりとわかる貴重な発見だ」と話しています。
銅鐸が見つかったのは、総社市福井にある弥生時代後半の集落跡、「神明遺跡」です。
岡山県古代吉備文化財センターではことしの4月から遺跡の発掘調査を進めていましたが、8月、集落のはずれで
弥生時代の青銅器の「銅鐸」が深さおよそ30センチの穴に横向きに埋められているのが見つかったということです。
「銅鐸」は、高さおよそ30センチ、幅がおよそ15センチ、奥行きがおよそ10センチある「外縁付紐式」と呼ばれる
タイプで、およそ2200年前の弥生時代中期に作られたと見られるということです。
銅鐸はこれまでに全国でおよそ570例確認されていますが、集落やその周辺で見つかることは少なくこうした
発掘調査の過程で発見されたのは19例しかないということです。
銅鐸などの弥生時代の青銅器に詳しい奈良文化財研究所の難波洋三埋蔵文化財センター長は
「銅鐸が埋められた状態や時期がはっきりとわかるという意味で非常に貴重な発見だ。
弥生時代中期にこの地域がどういった社会だったかを考える上で重要な資料になる」と話しています。
今回見つかった銅鐸は9月20日に行われる現地説明会などで公開される予定です。
09月10日 18時21分URLリンク(www3.nhk.or.jp)

64:出土地不明
14/09/11 09:34:15.02 BbUvw+CX.net
9月10日のニュース総社・神明遺跡で銅鐸出土URLリンク(www.webtsc.com)
発掘調査が進められている総社市福井の神明遺跡で、弥生時代中期の銅鐸が見つかりました。
発掘調査で銅鐸が出土するのは全国でも珍しく、岡山県内では25年ぶり2例目です。
岡山県古代吉備文化財センターがきょう発表したものです。
銅鐸は高さ約30センチで、弥生時代中期の後半から後期のムラの層の端に横たわっていました。
銅鐸は弥生時代を代表する青銅器の一つで、祭祀に使われたとされます。
銅鐸の出土はこれまでに全国で約570例ありますが、掘削工事などで偶然見つかることがほとんどで、
埋められた年代や埋め方が分らないことが多く、 今回の発掘調査での出土はこれまで謎が多いとされてきた
埋め方や年代の特定につながる貴重な発見ということです。

65:出土地不明
14/09/11 10:24:01.55 BbUvw+CX.net
>>62
総社市の神明遺跡で「銅鐸」見つかるURLリンク(www.rsk.co.jp)
発掘調査が進められている総社市の神明遺跡で、弥生時代の銅鐸が見つかりました。
岡山県で、遺跡の発掘調査中に銅鐸が出土したのは25年ぶりのことです。
見つかった銅鐸は、2000年前、銅鐸を埋めるために掘られた穴から、横倒しの状態で出土しました。
総社市福井の神明遺跡では、今年4月から調査が進められています。
銅鐸が発掘調査中に出土したのは、岡山県では25年ぶり2例目で、全国でも20例目です。
弥生時代に農耕の祭りに使われていたと考えられてる銅鐸が、なぜ埋められたのか、
今回の発掘は、その謎を解く重要な資料となるということです。URLリンク(www.rsk.co.jp)
今月20日には、神明遺跡で現地説明会が開かれる予定です。

66:出土地不明
14/09/11 11:27:15.61 BbUvw+CX.net
塩づくりの遺跡から炉の跡URLリンク(www3.nhk.or.jp)
高松市の屋島にある塩作りの遺跡で塩を焼いて固めるのに使った可能性がある全国でも珍しい古墳時代前期の炉の
跡が見つかり、共同で発掘調査を行った高松市と徳島文理大学は、炉の構造を明らかにするため追加調査の実施を
検討することになりました。この遺跡は、高松市屋島の浦生地区にある「鵜羽神社境内遺跡」です。
高松市と徳島文理大学が8月から9月にかけて共同で行った発掘調査で、海水を煮詰めるのに使った土器の破片が
大量に出土したほか、3世紀から4世紀にかけての古墳時代前期の地層から焼けた粘土の塊が見つかり、
火を焚いた炉の跡とわかりました。
粘土の塊の一部は非常に硬く、かなり高い温度で火があたっていたことなどから熱が逃げないようにまわりを囲った
かまどのような炉で、湿気を吸って溶けないように塩を焼いていた可能性があるとみられています。
古墳時代前期の塩作りの遺構が見つかったのは、全国でも珍しいということです。
高松市と徳島文理大学は、炉の構造を明らかにするためにはさらに詳しい発掘調査が必要なことから
平成26年度までの2年間としていた調査期間を延長する方向で検討することになりました。09月11日 09時19分

67:出土地不明
14/09/12 16:59:00.47 l4aNIlHk.net
高梁市発掘の化石が里帰りURLリンク(www3.nhk.or.jp)
世界有数の化石の産出地、高梁市成羽で発掘されたあと、全国各地の研究機関に散らばっている化石を一堂に
集めた展示会が高梁市成羽美術館で開かれています。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
高梁市成羽はおよそ2億3000万年前の中生代三畳紀にユーラシア大陸の沿岸にあったとされ、当時、
生い茂っていたシダやイチョウなどの裸子植物をはじめ、世界的に珍しい多くの種類の化石が産出されています。
展示会は美術館に所蔵されている化石に加えて、全国各地の大学や研究機関に散らばっている化石を一同に
集めたもので、合わせておよそ200点にのぼります。
このうち成羽の名前が付けられた「サゲノプテリスナリワエンシス」は、裸子植物の仲間で中生代に栄え、
今では絶滅した植物で、三角形の石にうちわのような葉の形が映し出されています。
また北海道大学総合博物館が所蔵している「ハウスマンニアデンタータ」は、シダ植物の仲間で、
葉の裏側の胞子嚢が黒い斑点になって一面についています。
展示会は9月28日まで高梁市成羽美術館で開かれています。09月12日 12時53分

68:出土地不明
14/09/15 11:34:05.70 j6EILAys.net
銅鐸の名前すら古事記や日本初期にも出て来ない
祭器に使われたと思われる銅鐸は支配層の変化で消滅か?

69:出土地不明
14/09/16 17:08:24.40 wwfsmq4K.net
高田城の発掘 現地説明会URLリンク(www3.nhk.or.jp)
安土桃山時代から江戸時代の初めごろまで真庭市にあった山城・高田城の本丸跡で、おととしから行われてきた
発掘調査の現地説明会が開かれました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
高田城は、15世紀ごろに小高い2つの山を生かして築かれた山城で、本丸のほか二の丸や出丸などがありましたが
江戸時代に幕府の「一国一城令」などによって城は取り壊され、現在はほとんど姿を残していません。
15日は、おととしから発掘調査を行っている真庭市教育委員会が本丸跡で現地説明会を開き、地元をはじめ
岡山市などから熱心な歴史ファンらおよそ60人が集まりました。
真庭市教育委員会によりますと今回の発掘調査では、敵の侵入を防ぐ構造を持つ幅3.5メートルの出入り口
「虎口」の石積みが確認され、さらに城を壊した際に「虎口」を塞いだ跡も見つかったということです。
また、本丸の跡地で見つかった岡山城と同じ模様の軒丸瓦も説明会で一般公開されました。
説明会に参加した歴史愛好家の男性は、「高田城の記録は、ほとんど残っておらず、今回、本丸の虎口が確認
できたことは、意義深いことだと思います」と話していました。
真庭市教育委員会の切明友子生涯学習課長は、「虎口の左右が石垣で築かれ、地盤を階段状に削った本丸に
続くルートを確認できたのが今回の発掘の成果だ」と話していました。09月16日 13時16分

70:出土地不明
14/09/16 17:19:55.04 wwfsmq4K.net
「四国の近世」巡回展URLリンク(www3.nhk.or.jp)
江戸時代の遺跡の出土品を通して当時の城や城下町の暮らしぶりを紹介する「四国の近世」と題した展示会が
坂出市にある香川県埋蔵文化財センターで始まりました。
この展示会は、四国の5つの埋蔵文化財センターが合同で開いている巡回展で、愛媛、高知に続いて16日から
香川での開催が始まりました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
6回目となる今回は、江戸時代の遺跡の出土品、およそ130点が展示されています。
このうち、高松城跡で見つかった鬼瓦には、藩主だった高松松平家の家紋の「三葉葵文」が入っています。
高松松平家は徳川御三家の一つ、水戸家の分家で「三葉葵文」は徳川一門であることを象徴するものでした。
また、徳島城の城下町の跡から出土した犬や猿などをかたどった土や磁器の小さな人形やままごと道具の皿や
かまどなどは上級武士の子どもたちが遊びに使っていたものとみられています。
このほか、四国で初めて見つかった江戸時代のオランダ製の水差しをはじめ国内各地の高級な陶磁器も展示され
当時の焼き物の流通状況をうかがうこともできます。この香川での展示はことし12月12日まで開かれています。
09月16日 12時38分

71:出土地不明
14/09/20 16:41:45.34 zick8HY1.net
発掘調査で発見の出土品展URLリンク(www3.nhk.or.jp)
県内の埋蔵文化財の調査を行う「岡山県古代吉備文化財センター」が発掘した出土品を集め、県内の歴史をたどる
展示会が岡山市北区の岡山県立博物館で開かれています。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
この展示会は「岡山県古代吉備文化財センター」ができて今年で30年になるのを記念して開かれているものです。
会場の県立博物館にはセンターによる発掘調査で見つかった旧石器時代から江戸時代までの出土品、
あわせておよそ430点が展示されています。
このうち、岡山市にある弥生時代の集落跡から見つかった国の重要文化財、「突線流水文銅鐸」は流れる水のような
文様が特徴の青銅器で、当時の人の工芸の技術や美意識の高さがうかがえる貴重な資料です。
また、岡山城の二の丸跡から見つかった出土品は、中国産の磁器のほか、織部や志野といった国産陶器などの
高級品が多く含まれていて、当時この辺りに住んでいた重臣たちの暮らしぶりをうかがうことができます。
岡山県立博物館の佐藤寛介学芸員は「それぞれの時代で特徴的なものが見つかっているので、それらの出土品から
私たちの祖先の暮らしに思いをはせてもらいたい」と話しています。
この展示会は10月5日まで岡山県立博物館で開かれています。09月20日 12時46分

72:出土地不明
14/09/22 06:35:16.51 B+tmpfxX.net
脳も腸から生まれた?
口と肛門はもともとは同じものだった?
“ほえる”から“話す”への進化のメカニズムとは?
URLリンク(live.nicovideo.jp)

73:出土地不明
14/10/06 22:30:00.48 /jdkfqUL.net
64年前の古墳記録集初公開へURLリンク(www3.nhk.or.jp)
香川県では戦後初めての本格的な発掘調査となり、当時、考古学ブームを巻き起こした丸亀市の「快天山古墳」
の調査のもようを写真で伝える記録集が初めて公開されることになりました。
丸亀市綾歌町の「快天山古墳」は、全長100メートル近くある4世紀中頃の前方後円墳で、昭和25年に地元の
中学校の要望を受けて香川県教育委員会が発掘調査を行いました。
この調査の記録集は平成15年頃に当時の綾歌町役場の書庫で見つかっていましたが、このほど、初めて公開
されることになりました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
記録集は県教育委員会が作成したものとみられ、58枚の写真のうち52枚が残っていて、中学校の生徒たちも
協力して進められた発掘の様子が詳細に収められています。
古墳には3つの石の棺、石棺が埋まっていましたが、2つは生徒たちが発見したもので、このうち、
盗掘されていない石棺を開けたときの写真には、内部が朱で赤く染まりたまっていた青く澄んだ水と鮮やかな対照を
見せ、感激したという説明が添えられています。
香川県では戦後初めての本格的な発掘調査となった「快天山古墳」の調査は、当時、大きなニュースとなり、
700人以上が見学に訪れ、アイスキャンディー売りが出るほどだったといわれています。
記録集は、10月11日から丸亀市立資料館で開かれる企画展で公開されます。10月06日 19時30分

74:出土地不明
14/10/21 09:17:39.10 MNkdzbow.net
積石塚古墳の全容明らかにURLリンク(www3.nhk.or.jp)
高松市にある石を積んで築いた前方後円墳、「稲荷山姫塚古墳」は、階段状の構造になっており古墳を美しく
見せるために板状の石「板石」で表面を化粧するなど、入念な造りだったことが発掘調査でわかりました。
全国でも珍しい石積みの古墳の詳細な造りが明らかになったのは初めてです。
「稲荷山姫塚古墳」は、高松市の石清尾山の稲荷山地区にある全国でも珍しい石積みの前方後円墳で、
高松市が昨年度から発掘調査を進めています。
これまでの調査で、古墳は全長50メートル余り、高さは後円部が3.9メートル前方部が3.5メートルで2段以上の
階段状の構造になっていることや後円部よりも低い場所にある前方部は高低差を小さくするためにかさ上げを
していたことがわかりました。
さらに、古墳を美しく見せるために板状の石「板石」を積み上げて表面を化粧していたことも明らかになりました。
出土した埴輪の特徴などから、古墳が築かれたのは3世紀の終わりとみられています。
石清尾山には石積みの古墳が20基ちかく確認されていますが詳細な造りがわかったのは今回が初めてです。
調査にあたっている高松市の文化財専門員の波多野篤さんは、「石積みの古墳がどのような造りだったのか
具体的にイメージできるようになった。
また石積みの古墳がその後どのように変わっていったのかを知るうえでの基準にもなる」と話しています。
10月20日 19時17分

75:出土地不明
14/10/21 11:34:46.32 MNkdzbow.net
全国最古級の積石塚発見URLリンク(www3.nhk.or.jp)
高松市の石清尾山にある石を積んで築いた古墳の一つが、3世紀中頃の全国で最も古いクラスの前方後円墳と
みられることが、高松市の調査で明らかになりました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
この古墳は、高松市の石清尾山の稲荷山地区にある石を積んで築いた古墳の「稲荷山北端1号墳」です。
昭和6年に当時の京都帝国大学が行った測量調査などから、これまで、墳丘が丸い形をした石積みの円墳と
みられていました。
しかし高松市がこのほどレーザーによる詳細な測量をもとに調査したところ南側に四角い形の墳丘が張り出して
いることがわかり、石積みの前方後円墳と確認されました。
また、古墳の全長は46メートルで、後円部の高さが2メートルから3メートルなのに対して、前方部は高さ50センチ
ほどとかなり低く先端部分は三味線の「ばち」のような形をしていることがわかりました。
こうした特徴は、「鶴尾神社4号墳」など同じ石清尾山にある3世紀中頃の全国でも最も古いクラスの前方後円墳と
同じで、高松市は、「稲荷山北端1号墳」も最も古い時期の前方後円墳とみています。
高松市の文化財専門員の波多野篤さんは、「地域色の強い初期の讃岐の古墳について検討するうえで貴重な材料に
なる」と話しています。10月21日 09時55分

76:出土地不明
14/10/23 10:27:24.07 4Ys1njco.net
讃岐の前期古墳展URLリンク(www3.nhk.or.jp)
3世紀半ばから4世紀にかけての古墳時代前期に築かれた地域色の強い古墳を紹介する「讃岐の前期古墳展」が、
丸亀市で開かれています。
この展覧会は、丸亀市立資料館が開いているもので、34の遺跡の出土品などおよそ1000点の資料を集めています。
このうち、高松市にある石を積んで築いた「鶴尾神社4号墳」は、最も古い3世紀半ばの前方後円墳で壷形の埴輪や
中国製の鏡などが出土しました。
また、4世紀中頃に築かれた丸亀市の「快天山古墳」は、全長がおよそ100メートルと、古墳時代前期では
四国最大の前方後円墳です。石をくり抜いて造った棺を最初に採用した古墳としても知られています。
鉄の剣や斧などの出土品とともに棺にしつらえられた石の枕の拓本も展示されています。
古墳時代前期は地域色の強い古墳が築かれ、讃岐では、丘陵の上に築き埋葬施設を東西方向に設けたことなどが
特徴です。
一方で、「快天山古墳」は、格段に規模が大きくなり埋葬施設を南北方向にするなど、讃岐では、ヤマト政権の本拠地
畿内との関係が深い最初の古墳とされています。
丸亀市立資料館では、「多くの資料を通して讃岐の前期古墳の特徴や変遷を知ってもらいたい」と話しています。
この展覧会は、11月30日まで開かれています。10月23日 09時09分

77:出土地不明
14/11/01 06:03:43.45 xFBdUzFC.net
石清尾山古墳群の調査会議URLリンク(www3.nhk.or.jp)
高松市の石清尾山にある全国で最も古いクラスの前方後円墳とみられる「稲荷山北端1号墳」について、高松市は、
31日に開いた専門家による会議の意見を受け発掘調査を行う方針を決めました。
31日は、会議に先立って専門家の委員2人や文化庁の調査官などが高松市の石清尾山の稲荷山地区にある
石積みの古墳の一つ、「稲荷山北端1号墳」を視察しました。
「稲荷山北端1号墳」はレーザーを使った詳細な測量調査の結果、3世紀中頃の、全国で最も古いクラスの
前方後円墳とみられています。
委員らは、▼後円部に比べて前方部の高さがかなり低く立体感に乏しいことや、▼前方部の先端が三味線の
バチのように開いていることなど古墳の特徴を確認していました。
このあと高松市埋蔵文化財センターで会議が開かれ市が国の史跡への指定を目指している稲荷山地区の3つの
古墳の事業計画を話し合いました。
この中で「稲荷山北端1号墳」について委員から「古墳の形を確定する必要がある」という意見が出され、
これを受けて高松市は発掘調査を行う方針を決めました。
石清尾山は石積みの古墳が集中する地域で、「峰山地区」の12の古墳が現在、国の史跡に指定されていて、
高松市では、「稲荷山地区」の3つの古墳についても平成29年度に追加指定を申請する予定です。10月31日 19時22分

78:出土地不明
14/11/01 19:03:36.96 xG6iMS7j.net
【考古】メキシコのテオティワカン遺跡、地下トンネルから大量の埋蔵品©2ch.net
[メキシコ市 29日 ロイター] - メキシコの古代遺跡、テオティワカン発掘に携わっている考古学者によれば、
発見された地下トンネルの調査を進めた結果、宗教儀式に用いられたとみられる大量の埋蔵品が見つかった。
また、トンネルの先に王家の墓がある可能性も出てきたという。

1800年前のものとみられる地下トンネルが最初に発見されたのは2003年。
まず遠隔操作可能なロボットを使って調査が行われ、その後に研究者が発掘を進め、次第にトンネル内の様子が明らかになった。

今回見つかったのは、石の彫刻物や宝石、貝をはじめ4000点におよぶ木製品、黒曜石のナイフ、矢じりなどで、推定で計5万点に上るという。
_______

▽記事引用元
URLリンク(jp.reuters.com)
REUTERS(URLリンク(jp.reuters.com))2014年 10月 31日 11:07 JST配信記事

10月29日、メキシコの古代遺跡テオティワカンの地下トンネルから宗教儀式に用いられたとみられる大量の埋蔵品が見つかったことが分かった。
写真は発掘された埋蔵品。
URLリンク(s4.reutersmedia.net)

79:出土地不明
14/11/06 14:05:04.61 ngsa6bld.net
貴重な貝塚が破壊されました。
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

80:出土地不明
14/11/08 02:38:37.01 WMXQMiHI.net
包蔵地に含まれているなら、停止命令を下せばよい者を

81:出土地不明
14/11/10 10:32:44.12 DLUuVMTn.net
讃岐国分寺史跡まつり11月03日 12:00 URLリンク(setonaikai.co.jp)
連休の最終日11月3日は、文化の日です。高松市の讃岐国分寺跡で開かれている史跡まつりは
大勢の家族連れらでにぎわっています。
地域の人たちに史跡に親しんでもらうのが目的の史跡まつり。2日の雨で延期になり3日開かれることになりました。
まつりは、天平行列から始まりました。約30人の子どもたちが、天平時代の華やかな衣装を着て会場を練り歩きました。
この衣装は、地域の女性たちが古着の着物を再利用し当時の衣装を再現したものです。
讃岐国分寺太鼓保存会による太鼓の演奏や獅子舞も披露されました。
午後からは、子ども力餅大会や古代米による餅つきなどが行われます。

82:出土地不明
14/11/12 08:44:24.21 bn26ulQO.net
讃岐国府跡の発掘調査始まるURLリンク(www3.nhk.or.jp)
香川県坂出市にある古代の讃岐国の役所跡、「讃岐国府跡」で、中心施設の全容の解明に向けた今年度の
発掘調査が始まりました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
坂出市府中町の「讃岐国府跡」は、奈良時代に、中央政府が讃岐国を治めるために設けた役所の跡です。
香川県埋蔵文化財センターの発掘調査で、平成24年度に、複数の大きな建物の跡などが見つかり、国府の中心
施設の遺構と確認されました。今年度の発掘調査は、11月から建物跡を含む東側の区域で行われています。
今年度は建物の規模や配置をはじめ、すでに塀の跡が見つかっている北側と西側に続いて東側でも跡を見つける
ことで、塀で囲まれていたとみられる中心施設の範囲を明らかにすることが目的で、およそ300平方メートルを調査
する予定です。
この中心施設について県埋蔵文化財センターは、国府の長官にあたる、国司が儀式や政治の仕事を行った場所、
「国庁」や国司の官舎、「国司館」の可能性が考えられるとしています。
県埋蔵文化財センターでは平成29年度まで中心施設の調査を続け、国府の中でどのような位置づけの施設だった
のか、全容を解明したいとしています。11月11日 19時06分

83:出土地不明
14/11/25 21:34:26.85 UJeiClEl.net
総社市で前方後方墳発見
URLリンク(www.nhk.or.jp)

大きな台形の盛り土から、小さな台形の盛り土が突き出したような形をしている「前方後方墳」と
呼ばれる古墳が総社市の郊外で新たに見つかりました。

見つかったのは全長はおよそ65メートル、幅はおよそ38メートルの「前方後方墳」で古墳時代
では比較的早い4世紀前半につくられたとみられています。

総社市秦地区の地元では茶臼嶽と呼ばれていて去年9月、頂上の標高およそ190メートルまで
登った男性が「古墳ではないか」と指摘したのを受けて岡山大学と市の教育委員会が調査したと
ころ、土の盛り方が人工的で大きな台形から小さな台形がつきだしたような形の「前方後方墳」
と確認されました。

教育委員会によりますと「前方後方墳」としては、岡山県内で3番目の規模になり地域の首長
クラスの人物が葬られたと見られています。

古墳は山の名前から「茶臼嶽古墳」と名付けられました。
周辺の山中では、形式が違うものを含めて古墳がほかに33基見つかっています。

調査した岡山大学の新納泉教授は「今回の発見は、古墳が集中するこの地域の特異性
を、西日本の古墳時代の中に位置づけるものとして大きな意味がある」と話しています。
11月25日 18時58分

84:出土地不明
14/11/26 09:07:19.17 X9BBGijf.net
総社市で前方後方墳発見URLリンク(www3.nhk.or.jp)
大きな台形の盛り土から、小さな台形の盛り土が突き出したような形をしている「前方後方墳」と呼ばれる古墳が
総社市の郊外で新たに見つかりました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
見つかったのは全長はおよそ65メートル、幅はおよそ38メートルの「前方後方墳」で古墳時代では比較的早い
4世紀前半につくられたとみられています。
総社市秦地区の地元では茶臼嶽と呼ばれていて去年9月、頂上の標高およそ190メートルまで登った男性が
「古墳ではないか」と指摘したのを受けて岡山大学と市の教育委員会が調査したところ、土の盛り方が人工的で
大きな台形から小さな台形がつきだしたような形の「前方後方墳」と確認されました。
教育委員会によりますと「前方後方墳」としては、岡山県内で3番目の規模になり地域の首長クラスの人物が
葬られたと見られています。古墳は山の名前から「茶臼嶽古墳」と名付けられました。
周辺の山中では、形式が違うものを含めて古墳がほかに33基見つかっています。
調査した岡山大学の新納泉教授は「今回の発見は、古墳が集中するこの地域の特異性を、西日本の古墳時代の中に
位置づけるものとして大きな意味がある」と話しています。11月25日 18時58分

85:出土地不明
14/11/26 11:13:15.13 rr/+EuXM.net
>>84
お前以外の人が岡山関係のニュースを貼ると気に障るのか。

86:出土地不明
14/11/30 17:36:26.31 BSK4ug2Y.net
化石や剥製を展示した自然科学資料室完成 愛光学園(愛媛県)■ 動画をみるURLリンク(w2.rnb.co.jp)
 愛光学園に貴重な化石や動物の剥製などを集めた資料室が完成した。
 愛光学園の「自然科学資料室」は、教科書には掲載されないような資料を見てもらい、地学や考古学などの学習に
興味を持ってもらおうと開設されるもので、愛光学園の理事長のコレクションや卒業生らの寄付で購入したおよそ
250点が展示される。URLリンク(w2.rnb.co.jp)
 中には、草食恐竜の卵の化石や、白亜紀を生きた全長12メートルのワニの頭の骨など貴重な標本も展示されるという。
[ 11/28 16:16 南海放送]URLリンク(w2.rnb.co.jp)

87:出土地不明
14/12/22 21:27:49.13 hxFlL9kp.net
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  ヽ::::::::::::::::::::::\_」 lヽ::::/         .l  !:-●,__ ノ  /      
  ノ:::::::::::::::::::::::::::ノ | l `゙゙           i ,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,  /ヽ       
,/ ヽ::::::::::::::::::::::(  l l::::::::..         /.:''/´ ̄_ソ  /  `ヽ
     ヽ:::::::::::::::ヽ | l:::::::::::...      /::// ̄ ̄_ソ  /    \   ヴッ!!
        ヽ:::::::\| l::::::::::::::::...    / :::.ゝ` ̄ ̄/ /       ヽ
           ヽ:::l l:::::::::::::::::::..      ̄ ̄;;'' /         ヽ
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              l l '''''''''''''''''''''''''''''''''''''' ̄l |             |

URLリンク(www.youtube.com)

88:出土地不明
14/12/23 11:59:45.57 J1zWLTy/.net
「背割堤」発掘調査の説明会URLリンク(www3.nhk.or.jp)
岡山市を流れる旭川とその支流の百間川を隔てる「背割堤」と呼ばれる堤跡の発掘調査の成果を紹介する
現地説明会が岡山市中区で行われました。URLリンク(www3.nhk.or.jp)
百間川は江戸時代に、岡山の城下町を洪水から守ろうと、大雨などで増水した旭川の水を枝分かれさせて放水
するために作られた人工の川です。
分流部分の改修工事が行われるのを前に、岡山県古代吉備文化財センターでは12月から旭川と百間川を隔てる
「背割堤」と呼ばれる堤の跡の発掘調査を進めていて、22日、その調査の成果を紹介する現地説明会が開かれ、
およそ110人が訪れました。
調査では堤の石垣と、その手前で水の流れを受け止める、高さおよそ1メートル20センチ、
幅およそ2メートル50センチの石組みが見つかったことが説明されました。
このうち石垣は、石の積み上げ方から、江戸時代から現代に至るまでに少なくとも2回にわたって改修工事が行われた
ことがわかったということです。見学者たちは興味深そうにメモを取るなどして担当者の説明に耳を傾けていました。
調査にあたった岡山県古代吉備文化財センターの小嶋善邦主任は「岡山の町を洪水から守るために先人たちから
連綿と受け継がれてきた知恵があらためてわかった」と話していました。12月22日 19時12分

89:出土地不明
14/12/25 17:23:01.18 YapIaq/I.net
讃岐国府跡の発掘作業を体験URLリンク(www3.nhk.or.jp)
坂出市にある古代の役所の跡、讃岐国府跡の発掘現場で冬休み中の子どもたちが発掘作業を体験しました。
この催しは香川県埋蔵文化財センターが子どもたちに讃岐国府についてもっと知ってもらおうと開いたもので、
坂出市府中町の発掘現場には冬休み中の小学生5人が集まりました。
はじめに埋蔵文化財センターの職員が讃岐国府は奈良時代に讃岐国を治めるために設置された役所であることや
これまでの発掘成果などについて説明しました。
そのあと子どもたちは職員の指導を受けながら発掘作業を体験し、まず、手ガリと呼ばれる道具を使って土の表面を
削り、まわりより黒くなっている柱の穴の跡を確認しました。
さらに土を掘り進めると土器や瓦などのかけらが次々と見つかり、子どもたちはうれしそうに職員に見せては説明を
受けていました。
参加した子どもたちは「思ったより簡単に見つかったので楽しかったです」とか「大きいお茶碗のかけらが出てきたので
うれしかったです」などと話していました。12月25日 14時54分

90:出土地不明
14/12/29 15:23:19.06 3iZm/FzV.net
百間川の「背割堤」を公開12月22日 18:44 URLリンク(www.youtube.com)
22日、公開された岡山市の旭川と百間川を分ける堤防「背割堤」。URLリンク(setonaikai.co.jp)
発掘調査の結果、石積みの構造が明らかになり、先人たちと洪水との格闘の跡も見えてきました。
国土交通省が旭川と百間川の分流部分を工事するのに先立ち公開しました 岡山市中心部を流れる旭川は
今でこそ穏やかな川ですが以前は氾濫を繰り返していました 安土桃山時代 岡山城の改築で流れを変えられ
大雨が降ると城下町は浸水を繰り返していました 江戸時代初期に入ると岡山藩は上流部分に人工の川、百間川を作り
増水した水をそちらに流す仕組みを作りました 分岐する部分は越流堤(えつりゅうてい)という堤防を作り
水位が一定以上になると水が百間川へ流れる仕組みになっています 今回公開された背割堤は 増水した旭川と百間川を
分割する役割を果たしていました 堤防は石積みの構造で高さは推定約2・7m 堤防の下の方は川の流れでえぐられない
ために2・5mほど石積みを迫り出しています 県古代吉備文化財センタ-小嶋主任 石の積み方が違うというのが分かります
今回公開された部分からは3通りの石の積み方が確認できました こちらの石の表面に付けられたのは電動ドリルの跡です
このことからこの構造は昭和の始めからあったことが分かります 3通りの石積みがいつ作られたのかは 今回の調査では
明らかになりませんでした 洪水で壊された後、何度も修理したとみられます 小嶋主任
先人たちが洪水からまちを守るということを 繰り返し行ってきた歴史的証拠ではあると思います
より詳しい年代を調べていく必要があるというふうに思っています

91:出土地不明
15/01/07 18:39:39.14 wK3390Wm.net
鎌倉時代の烏帽子が初公開URLリンク(www3.nhk.or.jp)
去年、岡山市内の遺跡で鎌倉時代に埋葬された人がかぶったままの状態で見つかった「烏帽子」
が7日から岡山市北区の岡山大学で一般に初公開されています。
この「烏帽子」は、藤原摂関家ゆかりの荘園があったとされる岡山市北区の鹿田遺跡の発掘調査で見つかったものです。
岡山大学では30年以上にわたって鹿田遺跡の発掘調査を続けていて、7日から大学のキャンパスで始まった
調査結果を紹介する展示会で、初めて一般公開しました。
「烏帽子」は、鎌倉時代の墓から見つかり、頭の骨を包むように出土したことから、頭にかぶった状態で埋葬されたことが分かる貴重なものだということです。
また、出土した歯の科学的な分析や墓に中国の高級な陶磁器が見つかったことなどから埋葬された人は30歳以上の財力のある武士だったと考えられるということです。
会場には烏帽子の複製品も展示されていて訪れた人は実際にかぶってみたり担当者から烏帽子がどのように使われていたか説明を受けたりしていました。
調査に当たった岡山大学埋蔵文化財調査研究センターの岩さき志保助教は「頭にかぶった状態で烏帽子が見つかるのはきわめて珍しいです。
この遺跡にこんな人がいたということをイメージしながら見て欲しい」と話していました。
展示会は1月12日まで岡山市北区の岡山大学津島キャンパスで開かれています。
01月07日 17時30分URLリンク(www3.nhk.or.jp)


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