【書籍】 京城帝大哲学科から始まった韓国の哲学。それが哲学離れの原因ではないか〜「不和そして不穏な時代の哲学」[03/31] at NEWS4PLUS
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1:蚯蚓φ ★
12/04/01 09:48:26.12

ウィ・サンボクの<不和そして不穏な時代の哲学:パク・チウの人生と哲学思想>(2012年)は重層的
な著作だ。まず、この本は日帝強制占領期間から解放空間に達するこの土地の知識社会学で読
むことができ、また、一方はパク・チウという忘れられた哲学家に対する評伝として読まれる。だが、
どちらに重点を置こうが、最後は両者は一つの焦点に集まる。すなわち、この本は知識社会学と
いう一般的方法論と評伝形式の個別的事例を通じて‘哲学とは何か?’という質問とそれに対す
る回答を試みている。

現在の私たちが使う‘哲学’という用語は日本の明治時代の哲学者ニシアマネ(西周)が「知恵に
対する愛」という意味のギリシャ語‘フィロソフィア(philosophia)’を日本語に移したものだ。ただこの
用語だけではないが、日本を通じて流入した哲学という用語でこそイム・ファの‘移植’文学論が文
学だけに限定されないことを立証する。

こういう事実は我が国で哲学が一つの学問として定着していく過程を通じてよりよく証明される。
3・1運動を経た日帝は武断統治を文化統治に変え、もう少し効果的な内鮮一体を遂行するために
1926年に京城帝国大学を設立した。この土地の哲学は京城帝大に哲学科が作られて初めて学
問になった。だが、日帝植民地政策の一環で作られた京城帝大哲学科はその特性上、知識社会
学が示す時代的・社会的拘束性から自由ではなかった。

哲学はいかなる学問より思想や批判と直結しているという理由で、被植民地の朝鮮学生たちには
強いタブーが設定された。すべての教授が日本人であった事実は別にしても、特に留意しなけれ
ばならない京城帝大哲学科の教科的特徴は次のようだ。

最初に、西洋哲学の中で主にドイツ観念論とハイデッカーの実存哲学だけ扱われた。
二番目、観念論中心だっただけに当然マルクス哲学は根元から排除された。
三番目、朝鮮時代の性理学など伝統思想は哲学の対象にならなかった。

今日の韓国人が哲学を称して「私たちの問題や人生と関係ない流れる雲をつかむたわごと」とそ
っぽを向くなら、その原因は現実との乖離から始めた植民時代の哲学教科にないだろうか?いや、
我が国の哲学界がまだその時の慣性を捨てることができなかったためではないか?

京城帝大設立、哲学の開始

パク・チウは1909年、咸鏡北道(ハムギョンブクド)ソンジンで牧師の息子に生まれた。彼が京城
帝国大学哲学科に入学した1928年、同じ講義室には後日、5・16クーデターを起こした朴正煕(パ
ク・チョンヒ)を助けて‘国民教育憲章’を作成したパク・ジョンホンがいた。著者は二人を競争関係
で描いて、この本のあちこちで二人の文と人生を比較し評価する。
(中略)
反共イデオロギーが強い哲学界で完全に無視されたパク・チウを生き返らせた著者の功績も大き
いが、何より大きいのは文学批評界がパク・チウに上書きした‘親日批評家’という汚名をはがし
てくれたことだ。

進んで著者は、太白山(テベクサン)で射殺された‘パルチザン哲学者’パク・チウを通じて‘哲学と
は何か?’という根本的な質問をしたかったことだと私はあえて考える。

ソース:時事in(韓国語) 根本的質問投げた‘パルチザン哲学者’の復権
URLリンク(www.sisainlive.com)



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