【佐賀】邪馬台国“論争”に「一石投じる」世紀の発見?吉野ケ里遺跡「石棺墓」開封 奈良県からは冷静な反応も… ★2 [樽悶★] at NEWSPLUS
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1:樽悶 ★
23/06/07 22:48:40.64 g11su8AH9.net
邪馬台国の場所を明らかにする、世紀の発見になるかもしれません。佐賀県の『吉野ケ里遺跡』で見つかっていた、有力者のものとみられる“石棺墓”の蓋(ふた)が5日に開かれました。
古代の集落が「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しがみえる、吉野ケ里遺跡。去年、300年前の江戸時代から立っていた神社を移転したところ、その下に新たな古墳がありました。
卑弥呼がいた邪馬台国は、魏志倭人伝にも記載されていますが、その場所が九州か近畿か、その他なのか、結論は出ていません。
「土の方に赤いのがうっすら見えましたので、弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、高貴というか有力者の墓が多いのかな。誰でも彼でも真っ赤っかということはありませんから」(佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長)
これまで吉野ケ里遺跡では見つかっていなかった“弥生時代後期”の可能性があるといいます。
“石棺墓”は、4枚の石蓋で閉じられていました。内側は長さ192センチ、幅40センチ。「×」などの刻みが表面に見られなかった1枚は、裏側からたくさんの印が見つかりました。埋葬された人の顔の位置にあたり、何らかの意味がありそうです。
「それが邪馬台国の時代であれば、論争に一石を投じることになるのでは」(白木原宜室長)
そもそも、最有力は奈良の纒向遺跡でしたが、30年ほど前、卑弥呼の居館をしのばせる物見櫓(ものみやぐら)跡などが相次いで見つかったことで、佐賀が「邪馬台国時代のクニの中心地」ではないかとフィーバーになりました。
ロマンを抱いてきた佐賀県民は…。
「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」(佐賀県民)
「小学生とかに教える際に『佐賀はすごかったんだよ』と教えられたら、すごくいい」(佐賀県民)
「(Q.佐賀説が有力になるのでは)ぜひあってほしい、絶対。それで見に来るとか、この辺が(経済的に)潤うとかはどうでもいい。俺はもう大好きだから、卑弥呼がここであってほしい」(佐賀県民)
発見に沸く佐賀県に、奈良県からは冷静な反応も…。
「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」(桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長)
魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」の記載からも、奈良説を押します。
「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」(橋本輝彦所長)
石蓋には密閉するための粘土が付着していましたが、流入した土が予想よりつまっていました。今後、土を掘り下げて副葬品を探します。
「蓋に白い粘土が付着していた。ずっと残されていたから、盗掘されていない。これは非常によかった。全容判明は、来週の半ばごろまでには。乞うご期待」(佐賀県・山口祥義知事)
■『邪馬台国』はどこに…“論争”に影響は
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もし邪馬台国や卑弥呼につながるような副葬品が見つかれば、邪馬台国がどこにあったのか、今までの論争に大きく影響する可能性があります。
国営吉野ケ里歴史公園が運営する『弥生ミュージアム』によると、邪馬台国の場所については、諸説唱えられています。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国へのルートが書かれています。
朝鮮半島から、いくつかの国を経由して『不弥国(ふみこく)』に至るまでは大きな異論はありません。ただ、問題はこの先、邪馬台国までの道のりです。
魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。
「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」
「水路で10日、さらに陸路で1カ月」なのか、「水路なら10日、陸路で1カ月」かは分かりません。(以下ソース)
6/5(月) 23:30配信
URLリンク(news.yahoo.co.jp)
URLリンク(newsatcl-pctr.c.yimg.jp)
★1:2023/06/07(水) 17:34:37.63
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