【歴史】届け出が受理されれば殺してもOK…恐ろしすぎた日本の「奴隷制度」と驚くべき撤廃の理由 [樽悶★] at NEWSPLUS
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1:樽悶 ★
22/09/29 23:41:58.41 DPXIhke49.net
かつて日本に奴隷制度が存在したことは、ご存じでしょうか。
黒人が奴隷として世界各地で働かされていたほか、日本やアジアなど一部の国では「奴婢」とよばれる人たちが奴隷のような扱いを受けていました。
今回は、日本史に残る奴隷制度「奴婢」について掘り下げて紹介します。
奴婢は邪馬台国の頃から存在しており、中国の歴史書・魏志倭人伝によると、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなった際に100人以上の奴婢をいっしょに葬ったと記されています。
そのほか、昔の中国にあたる隋や唐でも莫大な奴婢が重要な労働力として重宝されていました。ちなみに、秦で王に次ぐ権力を保持したとされる呂不韋は、1万以上の奴婢を所有していたといわれています。
その後、日本では701年に制定された大宝律令と同時に、隋や唐などの国を手本にした奴隷制度の見直しがおこなわれました。
■大宝律令と分類された国民
701年に制定された大宝律令では、親の身分の良し悪しで子供の身分を決める「良賤の法」を引き継いで、日本の国民を「良民」と「賤民(身分の低い者)」の二つに分ける制度が誕生。
良民に制定されたのは全日本国民のうち10分の1程度の豪族や貴族などで、残りは賤民として扱われています。
賤民の中には、さらに5つの階級「五色の賤」があり、身分が高い順に「陵戸」、「官戸」、「家人」、「公奴婢」、「私奴婢」とよばれました。
陵戸や官戸、家人は奴婢のように奴隷として働くことはなく、国から支給された農地「口分田」を耕すこと、家族を持つことも許されています。人身売買も禁止され、納税の義務もなかったため、「公奴婢」や「私奴婢」とは比較できないほどの高待遇でした。
また、「良民同士の子供は良民」ですが、「良民と賤民の子は賤民」として扱われるなど、賤民の血縁が良民になることがないように区別されていたのです。
■奴婢の扱い
五色の賤の中でも下位に位置する「公奴婢」は朝廷の雑用係として働かされ、「私奴婢」は豪族の所有物で牛馬などの家畜と同様の扱いを受けていました。
たとえば、良民の口分田を耕すのはもちろんのこと、自分の持分である口分田も耕して税金を納めなければならずコキ使われる日々が続きます。また、当然のように人身売買や主人による奴婢の交換がおこなわれたほか、「良民が役所に届け出をして受理された場合は、奴婢を殺しても罪に問われない」といったこともあったようです。
こうした奴婢のなかにも救済処置はありました。
主人に役所へ届け出を出してもらうか、長生きをして一定の年齢になれば良民になることもできたといいます。ただ、こういった者の多くは「元良民だったが、借金を背負って破産し奴婢になった者」に適用されることが多かったようで、もともと奴婢だった者が良民になれる可能性は極めて低かったようです。
■奴隷制度の終わり
平安時代になると、社会が発展したことで奴隷制度が徐々に下火になったほか、良民が自分の子を「賤民」だと偽って申請することが増えていきました。これは、賤民の「陵戸」、や「官戸」、「家人」であれば良民と違い、税金を納めなくても口分田が貰えたからです。
こうした事件もあって、200年以上続いた奴隷制度は907年に撤廃され、奴婢から解放された人々の多くは農民として自立していきました。
2022年9月26日 10時0分
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