【NHK】東日本大震災から10年経っても、行方不明者は2500人を超える 待ち続ける家族たち [みの★] at NEWSPLUS
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1:みの ★
21/03/03 13:51:27.61 NIjYRJ749.net
 なんの前触れもなく、最愛の家族と離ればなれになり、10年が経過しても、どこにいるのかさえ分からない。
 東日本大震災で、行方が分からなくなっている人たちの家族や知人が置かれている現状です。
「会いたい」
 10年間、待ち続けている人たちの声です。
(仙台放送局カメラマン 上田大介、静岡放送局カメラマン 福原健太郎)
■妻を探し続ける男性
「おっかー」
 ことし2月11日。
 宮城県石巻市のまもなく開園する復興祈念公園に向かって、こう呼びかける男性がいました。
 石巻市の災害公営住宅に1人で暮らす荻原哲郎さん(82)です。
 10年前の東日本大震災が発生してから、毎月、月命日にあたる11日に必ず自宅の跡地を訪れています。
 自宅があった場所は工事が進んでいて近づくことができないため自宅があった場所が見える場所を探しながら呼びかけを続けてきました。
 なぜこの場所に通い続けているのか。
 荻原さんは震災当時72歳だった妻の友子さんと2人暮らしでした。
 震災が起きたあの日、荻原さんは、持病の検査のため1人で病院に行っていました。
 自宅には友子さんが1人で留守番をしていました。
 そして大きな揺れとともに津波が自宅に押し寄せました。
 荻原さんは必死に友子さんを探しましたが、見つけることはできませんでした。
 手がかりも見つかっていません。
■忘れられない後悔
 代々続く電気工事の会社を経営していた荻原さん。
 2人のこどもを育てあげ会社を切り盛りすることができたのは友子さんのおかげだったと感じています。
 そんな友子さんは実は足が不自由で、1人で歩くことも難しかったといいます。
 それでも周囲に心配をかけたくないと、ひとりでは歩けないことを子どもたちや近所の人には知らせていませんでした。
 哲郎さんにもかたく口止めしていました。
 震災が起きた日、2人は一緒に病院へ行こうと話をしていました。
 それでも短時間で戻るからと結局、哲郎さんひとりで病院へ行くことになりました。
 友子さんと一緒に病院へ行っていれば、離ればなれになることはなかった、せめて近所の人たちに友子さんの足が不自由だったことを伝えておけば、救助してもらえたかも知れない。
 荻原さんは行方が分からないのは自分の責任だといまも強く感じています。
「後悔」と「会いたい」という気持ち。
 自宅のあった場所に通い、「おっかー」と呼び続けている理由でした。
荻原哲郎さん
「あのとき自分も一緒に津波で流されていれば、生きていても死んでいても後悔はなかった」
…続きはソースで。
URLリンク(www3.nhk.or.jp)
2021年3月2日 17時01分


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