【考古学】日本の文字文化は紀元前から? 「すずり」から推測 邪馬台国の有力地の纒向遺跡から出土 [しじみ★] at SCIENCEPLUS
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78:名無しのひみつ
20/05/30 08:21:36.44 RNTmgeDC.net
渡来人は春秋戦国時代の戦乱から逃げてきた中国人っぽいけど
彼らの文字や話し言葉は、どうだったんだ?

79:名無しのひみつ
20/05/30 08:40:02.13 LEWi9i8a.net
硯なら、何らかの色素が残留してると思うんだが。

80:名無しのひみつ
20/05/30 10:29:26 sZ3pqsx9.net
弥生人って中国大陸から来たんだよ。
だから中には漢字を使っているやつもいた。
特に、徐福の関係者。
それだけのことだよ。

81:名無しのひみつ
20/05/30 10:38:46 pDNzw0s0.net
徐福は作り話だと思うよ

82:名無しのひみつ
20/05/30 11:09:24 oblI1J3v.net
>>80
紀元3世紀で卑弥呼の時代だから、この時代まで中国人渡ってない可能性ないか?
アボリジニとかインディアンみたいな土人レベルの可能性あるだろ

83:名無しのひみつ
20/05/30 11:12:24 oblI1J3v.net
つか、卑弥呼の時って神道じゃないよね

84:名無しのひみつ
20/05/30 11:14:35 At0oMfmg.net
弥生時代後期までは、委奴国(伊都=現在の福岡県糸島市)が国内最大勢力だったんだけど

弥生時代末期である2世紀後半に大規模な戦乱があったことが判明していて、
これ以降、邪馬台国(大和=現在の奈良県桜井市)に権力が移行する・・・
その頃の大和国の女王が有名な卑弥呼である。

征服した伊都国には、一大卒という大宰府の原型を置いて、畿内からの九州統治、
あるいは外交の要所とした。今の大宰府に移ってきたのはもっと後の時代・・・

その後、大和による西日本の平定は続き、3世紀半ばを以って古墳時代の始まり、
すなわち大和王権(あるいは大和朝廷)の始まりとなる・・・

85:名無しのひみつ
20/05/30 11:33:33 At0oMfmg.net
かの魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)
は奴国(現在の福岡市)に留まった中国の役人の伝聞で書かれている。

中国の正史において、当時の日本(倭国)についてまとめられた最初の記述であり、
弥生時代最末期の日本人の習俗や、大和が国内を平定していく様子、
あるいは現在まで続く大和朝廷の萌芽を示すものである。

3世紀半ばの古墳時代の開始と共に記述が終わっており、
その後は中国の混乱とともに5世紀まで日本の動向については記録がない
(いわゆる空白の4世紀)

86:名無しのひみつ
20/05/30 11:40:22 RcQg8pLv.net
文字を書いてたとは限らないのでは?
刺青だのボディペイントだのあるだろ

87:名無しのひみつ
20/05/30 11:50:16 XdEg+xlt.net
>>6
忍耐と精神統一を養うって
文字というのは神聖なもので昔は新聞を踏むと叱られる

88:名無しのひみつ
20/05/30 11:51:03 bJnc97YC.net
古事記、日本書紀以前の文書が残っていないのは、なぜ?
古墳の埋葬者がわからないのは、なぜ?

89:名無しのひみつ
20/05/30 12:02:05.92 At0oMfmg.net
まぁ当時の中国から貰った鏡には文字が書いてあるからね。
邪馬台国が貰ったと思しき景初三年(238年)の銘が入った鏡が出土している
おそらく権力の中枢にいた層は文字を読めたと考えられる
日本は高温多湿であるため、記録が残りにくいこともあり、古いものは金石文
(石や金属に彫りいれたり、象嵌をしたもの)になってしまう
なもんで、日本人が残した文字として最も古いのは
埼玉県の県名の由来となっている「さきたま」古墳群の稲荷山古墳鉄剣銘(国宝)だろう
これは雄略天皇に仕えた武官が代々、古墳時代初期から大和朝廷に仕えてきた系譜と
鉄剣を作った経緯を鉄の剣に金の線を埋め込んで書き残している。
これが作成されたのは辛亥年(西暦だと471年)七月と書いてある。

90:名無しのひみつ
20/05/30 12:12:32.19 KRD+kkSd.net
>>81
いや狗奴国だと思う

91:名無しのひみつ
20/05/30 12:13:25.09 KRD+kkSd.net
>>83
神道の定義は何?

92:名無しのひみつ
20/05/30 12:14:23.98 At0oMfmg.net
稲荷山古墳出土鉄剣銘
(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

「辛亥の年七月中しるす。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。その児、(名は)タカリのスクネ。その児、名はテヨカリワケ。
その児、名はタカハシワケ。その児、名はタサキワケ。その児、名はハテヒ。」
「その児、名はカサヒヨ。その児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首となり、奉事し来り今にいたる。ワカタケルの大王の寺、
シキの宮にある時、われ天下を左治し、この百練の利刀を作らしめ、わが奉事の根原を記すなり。」

93:名無しのひみつ
20/05/30 12:14:35.11 KRD+kkSd.net
>>88
神武は東征したのではなく
近畿日本に請われて頭に据えてもらった雇われ店長であり
記紀は神武東征を捏造するために書かれたものだから

94:名無しのひみつ
20/05/30 12:16:38.48 At0oMfmg.net
これはちょうど同時期の話だな。この頃になると日本国内の知識階級は漢文を読みこなしてた。

倭の五王の上表文
倭王武(雄略天皇)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)
躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、
寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
渡りて海北を平らぐること、九十五国。
王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」
(『宋書』倭国伝)
倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、
対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っていることを
誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。
この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から
引かれているものが見受けられるという。
例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。
この上表文を書いた雄略朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。

95:名無しのひみつ
20/05/30 12:19:14.61 zrY59H9s.net
>>76
そう
どうさかのぼっても3世紀が限度なんだよね日本の文字記録は
これ以上は出土品がない限り主張は無理だわ

96:名無しのひみつ
20/05/30 12:20:36.87 KRD+kkSd.net
因みに箸墓は崇神の墓であり崇神は現代日本の祖
モモソがどうのなどネタを言ってはならない
不敬極まりない
神武は王族でありながら自分の故郷(投馬国=妻国=隼人)と敵対する可能性のある近畿日本へ寝返ったクズ
で無能な人間
おそらく志村のバカ殿みたいな存在だった
欠史八代は神武の種の無能ぶりを表している

97:名無しのひみつ
20/05/30 12:23:09.83 KRD+kkSd.net
仲哀暗殺は神武東征の捏造の副作用であり
バカの神武系から有能な崇神の母方系へ
血を変えるためのクーデター
崇神の母方系の一族こそが日本を作った人たち

 

98:名無しのひみつ
20/05/30 12:27:03.59 KRD+kkSd.net
神武雇われ店長の副作用
頭を他所から借りてくると言うウルトラCは、それなりに効果はあった。
中国はウソだと気づきながらも、結局は近畿日本の言い分に渋々乗っかった訳だから。(新唐書)
しかしそのかわり深刻な副作用も起こした。
1. 正史である記紀が捏造だらけになったこと。
2. 焚書をせざるを得なかったこと。
3. 神武のように、王族でありながら敵国へ寝返る人間などクズでしか無かったこと。
近畿日本は神武のタネのカスぶりに苦しめられることになる。
その端的な例が欠史八代。
4. 天皇暗殺。仲哀が暗殺されたのは実に仲哀が神武系のバカだったから。
「せっかく崇神で持ち直したのに、ヤマトタケルと言い仲哀と言い、またバカのタネに戻るのか?
もういい加減にしてくれ。」
実に、これが仲哀暗殺の理由。みんなこれを分かっており、仲哀は暗黙の了解のもと暗殺された。

5. 近畿パーのような病的なウソつきを多量に作り出したこと。

(因みに、ヤマトタケルの事績はほとんどただのウソ。恐らくは赤の他人からのただの借り物。
ヤマトタケルの事績の内、事実なのは多分兄殺しだけ。)


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