池田理代子『ベルサイユのばら』50年の誕生秘話。原稿料は男性の半分、「悪書」と目の敵に。 [鳥獣戯画★] at MOEPLUS
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22/10/18 19:58:49.45 fAmnCrPv.net
婦人公論2022年10月18日
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池田理代子『ベルサイユのばら』50年の誕生秘話。原稿料は男性の半分、「悪書」と目の敵に。逆風の中支えてくれたモハメド・アリの言葉とは
高2で小説『マリー・アントワネット』を読んで決意
今年は、『ベルサイユのばら』連載開始から半世紀のメモリアルイヤー。世代を超えて読者を魅了し続ける名作はどのようにして生まれたのか。作者の池田理代子さんが振り返ります(構成=上田恵子 撮影=宮崎貢司)
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◆「ここがアンドレの亡くなった場所です」
もう何十年も前になりますが、初めてフランスを訪れた時に、バスツアーのガイドさんが「日本の若い女性がベルサイユを舞台に物語を描きました」と案内しているのを聞きました。数年前に旅した際には、フランス人のガイドさんが「ここがアンドレの亡くなった場所です」と(笑)。私はそういう時、絶対に名乗りません。ですので、いずれのガイドさんも、その作品を描いた人間が目の前にいたことは知らないままです。
1972年、24歳の時に『ベルサイユのばら』(以下、『ベルばら』)の連載をスタートさせました。あれからもう50年なんてね。半世紀の間に読者の年齢も幅が広がりました。最初の読者からは「嫁入り道具として持っていきます」とお手紙をいただきましたし、15年くらい経って娘さんから「母から薦められました」と。現在の読者は3世代目。中高生から「おばあちゃまが読んでいました」とお手紙をいただきます。
私が『ベルばら』の構想を思いついたのは高校時代。高2の夏休みにシュテファン・ツヴァイクの小説『マリー・アントワネット』を読み、漫画でも小説でもいい、彼女の生涯を作品にしたいと強く思いました。愚かで可愛いだけの女の子が、不幸のなかで人間として成長していく。その過程が印象的だったのです。
タイトルも当初から決まっていました。ばらはアントワネットのイメージ。本人もばらの花が好きだったらしいので、迷いはありませんでした。そうして下積み時代も、雑誌デビュー(67年)後も、いつか形にしたいと思い続けていたのです。
◆不摂生がたたり、後年一気に体にガタが
初めて長編連載のチャンスをいただいて、『ベルばら』が始まったのは、まだ海外旅行が高嶺の花だった時代。物語の舞台は18世紀後半のフランスでしたが、現地に取材など行けるはずもなく、今のようにインターネットもありません。手がかりは書籍のみ。東京・神田の古本屋さんでフランス関連の文献を買い集め、蔵書が充実していた小学館の資料室にもお世話になりながら、描き進めました。どうしてもわからないことは、専門の学者にお聞きしたりも。想像で描いたために、ありえないミスもしました。作品を見るとわかるんですが、街の遠景に、当時はまだなかったサクレ・クール寺院が。まあ、エッフェル塔を描かなかっただけよかったのですけど。(笑)
2年未満の連載中には、一から絵の勉強をしました。私は自己流で漫画を描いてきたので、とにかく下手だったんです。思い通りに描けないもどかしさもあって。美大の学生さんからデッサンを学んだおかげで、連載後半はぐっと描きやすくなりました。
とはいえ、週刊連載で1回分が23ページ。最初は1人で描いていたものの、あまりの作業量の多さに途中からアシスタントさんに来てもらうようになりました。締め切り前になると、2~3日の徹夜は当たり前。それなのに並行して63ページの読み切りまで描いていたのですからね。我ながら若かったと思います。ただ当時の不摂生がたたり、後年一気に体にガタがきたので、無理はするものではありません。
萩尾望都さんや木原敏江さんなど、同時期に活躍していた漫画家仲間との交流は、創作活動の大きな励みになりました。当時、彼女たちは埼玉県飯能に住んでいて、私は千葉県の柏在住。お互いに忙しかったためなかなか会えず、電話で話すのが精いっぱい。最長で8時間、話し続けたこともあります(笑)。お互いに描きたいものがまったく違うので、いい刺激を受けましたね。
以下出典先で


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