【京都】「園部町だけでなく日本の誇りだと思います」 野中広務氏、死去 自民党幹事長や官房長官など歴任[01/26] at FEMNEWSPLUS
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18/01/26 21:15:30.20 CAP_USER.net
1月26日 18時11分
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自民党の元衆議院議員で、党の幹事長や官房長官などを歴任した野中広務氏が26日午後、京都市内の病院で亡くなりました。92歳でした。
野中氏は京都府議会議員や京都府の副知事を務めたあと、昭和58年に行われた衆議院旧京都2区の補欠選挙で初当選し、7回連続で当選しました。
平成4年に、当時の自民党竹下派が分裂した際、派閥の会長代行だった小沢一郎氏の派閥運営を批判し、「反小沢」の急先ぽうとして頭角を現しました。
平成5年に、自民党が野党に転落したあと、細川連立政権の打倒に向け、中心的な役割を果たし、自民・社会・さきがけの3党連立による村山内閣の誕生に貢献しました。
村山内閣では自治大臣・国家公安委員長として初入閣し、地下鉄サリン事件をはじめ、オウム真理教による一連の事件解明の陣頭指揮にあたりました。
平成10年に誕生した小渕内閣では官房長官として政権を支え、対立関係にあった小沢氏が率いる自由党との連立政権や公明党を加えた3党連立政権の発足にも力を注ぎました。
その後、自民党幹事長に就任した野中氏は、加藤紘一氏らが森総理大臣の退陣を求めて内閣不信任決議案に同調しようとした、いわゆる「加藤の乱」の対応にあたりました。
平成13年に小泉内閣が発足すると、野中氏は一貫して小泉総理大臣の政治手法を批判し、小泉総理大臣からは「抵抗勢力」として位置づけられました。
平成15年の自民党総裁選挙で、再選を目指す小泉総理大臣への支持が広がりを見せる中、「退路を断って、最後の情熱と志を小泉政権を否定する戦いに尽くしたい」と述べ、小泉総理大臣の再選阻止を目指しました。
しかし、小泉総理大臣は再選され、野中氏はその年の衆議院選挙に立候補せず政界を引退しました。
一方で、野中氏はみずからの戦争体験から、いわゆる「ハト派」の論客として知られ、引退後も憲法改正に反対する考えを発信しました。
また、地下鉄サリン事件の解明を指揮したことから、地下鉄・霞ケ関駅で行われる犠牲者の慰霊式に毎年、足を運ぶなど、弱者に対するまなざしを大切にする政治家としても知られました。
野中氏は民主党政権だった平成23年、土地改良事業を推進する団体の会長を続けるうえで、政治的に中立な立場を明確にしたいとして、自民党を離党しましたが、おととし6月に復党していました。
野中氏は去年11月、体調の不良を訴え、26日午後、京都市内の病院で亡くなりました。
古賀誠氏「昭和が遠くなった」
古賀誠元自民党幹事長はNHKの取材に対し、「92年の野中氏の人生すべてが政治であり、国と国民のことを常に考えていた。エピソードは数え上げればきりがなく、つきあいすべてがエピソードだ。また1つ、昭和が遠くなった。お疲れさまでしたと申し上げたい」と述べました。
亀井静香氏「巨星おつ」
自民党の政務調査会長などを務めた亀井静香氏は、NHKの取材に対し、「『巨星おつ』という言葉に、私の気持ちを込めたい。極めて寂しい。野中氏は、国家、国民のことを真剣に考えて活動してきた政治家で、尊敬していた。政治の裏方に徹していたが、裏方がいてこそ、表の政治が動くものであり、今は、彼のような骨太の政治家がいなくなり、残念だ」と述べました。
青木幹雄氏「惜しい方を亡くした」
自民党の参議院議員会長などを務めた、青木幹雄氏は「非常に残念で、惜しい方を亡くした。奥様が島根の方で、長い間、おつき合いをさせていただいた。心から哀悼の意を表したい」というコメントを発表しました。
自由 小沢代表「信念の政治家」
自由党の小沢代表は「私が政治改革を志して、その道を進み始めた時から、考え方や政治的な立場は異なったが、その政治的手腕と力量にはほかの追随を許さないものがあり、同じ政治家として、いつも感服していた。ご自身の体験と経験に裏打ちされた深い哲学と思想を持たれ、常にそれに基づいて果断に行動されてきた信念の政治家であり、存在そのものに大きく重い説得力があったように思う」というコメントを発表しました。


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